ヨハネによる福音書説教65       主の201824

 

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 

 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

 

            ヨハネによる福音書第15111

 

 

 

 説教題:「わたしの愛にとどまりなさい」

 

 

 

 さて、今朝は、主イエスの「わたしの愛にとどまりなさい」という御言葉をご一緒に学びたいと思います。

 

 

 

主イエスがわたしたちに「つながりなさい」と命じられることと「とどまりなさい」と命じられることは同じ言葉が、同じ動詞が使われています。

 

 

 

ギリシア語の「メノー」です。

 

 

 

主イエスは、このお言葉を15章だけでも11回使われています。

 

 

 

主イエスの中に留まるという言い方なのです。そしてヨハネによる福音書の読者であった初代教会のキリスト者たちは、正統的なキリスト教信仰の中に留まると理解していたでしょう。

 

 

 

なぜなら、最後の晩餐の席で12弟子の一人ユダは、主イエスを裏切り、そこから外の暗闇に出て行きました。

 

 

 

主イエスは、残された11弟子たちに11回も「わたしの中にとどまりなさい」とお命じになられたのです。

 

 

 

だから、キリスト教会の歴史の中では主イエスが「わたしにとどまりなさい」「わたしの愛にとどまりなさい」と言われた、「とどまる」という言葉は、異端排除に関連して使われる教会用語となりました。

 

 

 

そのよい例はヨハネの手紙一です。そこでヨハネは、この言葉を異端排除に関連して使っています。彼は異端者たちを非難し、神の子イエス・キリストの名を信じず、主イエスの「互いに愛し合いなさい」という掟を守らない者と述べて、「神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と述べているのです。

 

 

 

ヨハネは異端者が神の内にとどまることができず、追い出されると述べています。

 

 

 

このように「メノー」という言葉を調べて見ますと、ヨハネによる福音書の15章の主イエスの「まことのぶどうの木」というたとえ話は、異端者を前提にしたお話だと、わたし思います。

 

 

 

ユダのように主イエスを裏切り、光から闇に追い出される者がいます。主イエスから離れ、主イエスの愛にとどまらない者がいます。

 

 

 

そこで主イエスは、残された11弟子たちに「わたしにつながっていなさい」と命じられ、「わたしの愛にとどまりなさい」と命じられました。

 

 

 

なぜなら、彼らが主イエスの弟子としてとどまり、豊かな実を結ぶことで、主イエスの父なる神が栄光を受けられることになるからです。

 

 

 

主イエスの弟子となり、豊かな実を結ぶとは、父なる神と主イエスを礼拝することです。父とみ子を信じて信仰生活することです。その中心が主の日の礼拝です。そこで父なる神は栄光をお受けになっているのです。

 

 

 

さらに主イエスは、御自身を父なる神が愛されたように、主イエス御自身も11弟子たちを愛してきたと言われ、「わたしの愛にとどまりなさい」と命じられています。

 

 

 

主イエスの愛の掟は、1334節で主イエスが残された11弟子たちに与えられた「互いに愛せよ」という愛の掟と同じです。

 

 

 

新しい愛の掟を、主イエスは11弟子たちに既に命じられていました。

 

 

 

主イエスは、11弟子たちにその新しい愛の掟が、父なる神の御子主イエスに対する愛と主イエスの父なる神への愛とに基づくものであることを明らかにされています。

 

 

 

それによって、11弟子たちは教会における兄弟姉妹の愛の深い奥行きを知らされたのです。

 

 

 

主イエスの弟子たちが主イエスの新しい掟を守り、互いに愛し合うことで、主イエスの愛にとどまることは、父なる神と子なる主のイエスの永遠の愛の交わりにあずかることなのです。父なる神と子なるキリストとの永遠の愛の交わりに参与することであり、まさにそれこそが永遠の命なのです。

 

 

 

そして、その永遠の命を証しするものが、この地上の教会におけるキリスト者たちの相互の愛の現実なのです。

 

 

 

この教会で、今朝、わたしたちは、キリストの弟子として、聖霊から豊かな信仰の実を賜って、父なる神と子なるキリストを、そして聖霊なる神を礼拝し、ほめたたえています。

 

 

 

共に主イエスに招かれて、礼拝し、説教を聴き、そして、これから聖餐の恵みにあずかります。

 

 

 

主イエスの新しい戒めは、わたしたちが主イエスの弟子として、共に父なる神を礼拝することです。キリストの招きにあずかり、父なる神を礼拝することです。そこに父と子の愛の交わりがあり、永遠の命があります。

 

 

 

だから、主の日に神を礼拝することから、共に復活の主イエスと共にいることから、離れてはならないのです。

 

 

 

共に礼拝説教を聴き、共に聖餐式にあずかることから離れてはなりません。

 

 

 

それを守ることが、主イエスの弟子として、主イエスの愛にとどまることだからです。

 

 

 

これまでのわたしたちの教会生活の歴史の中で「聖日厳守」と言われえきました。律法主義の匂いがして、いやだなと思われる方もあろうかと思います。

 

 

 

しかし、主イエスの「わたしの愛にとどまりなさい」というお言葉から考えて見てください。聖日を厳守するのは、わたしたちが主イエスの弟子として、主イエスの愛にとどまるためです。

 

 

 

主の日に、共に主イエスに招かれて、主イエスの弟子として、互いに愛し合う中で父なる神と子なる主イエスと聖霊なる神を礼拝するのです。

 

 

 

復活の主イエスと共に、この教会に集まるのです。集まって共に主イエスの言葉である説教を聴き、主イエスが招かれる聖餐の食事をいただくのです。そして、父、子、御霊なる神を誉め称えて、献金をささげ、献身の志を表明するのです。

 

 

 

こうした礼拝行為そのものが、わたしたちが主イエスの弟子として、主イエスの愛にとどまっていることの証しなのです。

 

 

 

だから、主イエスの愛にとどまれと主イエスが命じられたから、何かわたしたちはお互いに愛し合う行為をすべきだと思う必要はないのです。

 

 

 

どなたでも、主イエスを信じて、洗礼を受けられ、キリスト者となられたのであれば、主イエスに結ばれた者として、主の日の朝に教会の礼拝の席に座られるだけで良いのです。

 

 

 

そこで共に礼拝し、説教を聴き、聖餐にあずかり、神賛美し、神に御自身をささげる献金をなすだけで、主イエスは御自分の愛にとどまるわたしたちをお喜びになります。

 

 

 

大切なことは、主イエスの弟子として、この教会が、ここでの礼拝が、あなたにとって心から喜べる居場所となっているかです。

 

 

 

主イエスの愛にとどまる場所となり得ているかであります。

 

 

 

よく考えて見ましょう。主イエスの弟子であるわたしたちは、この世に永遠に生きる者ではありません。必ず死の日があります。人となられた主イエスも同じでした。だから、主イエスは父なる神の愛にとどまられました。十字架の死に至るまでとどまられたのです。

 

 

 

こうして主イエスは、限りない永遠の父なる神の御手につながられ、復活を通して永遠の命にあずかられました。

 

 

 

わたしたちがここで共に神礼拝することで主イエスの愛にとどまるとは、ここでわたしたちがありのままで、そのままで父なる神と子なる主イエスとの永遠の交わりに受け入れられているということです。

 

 

 

おそらく受容されているという言葉はなかったので、主イエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と命じられたのです。

 

 

 

ヨハネの手紙一では、「神の内にいつもとどまり」と表現しています。復活の主イエスと共に神の内にいるということです。

 

 

 

英語の表現では、「愛にとどまる」は、「ドゥエル イン ラブ」となります。「愛と共にある」「愛と共に住む」という意味です。

 

 

 

主イエスが「わたしの愛にとどまれ」と命じられた時、主イエスと残された11弟子たちは最後の食事をしていたのです。そして、この食事こそ、わたしたちの聖餐式の型であり、天国の前味であると考えているのです。

 

 

 

教会の礼拝で聖餐式を行い、共にパンとぶどう酒を食する時も、教会の愛餐で共に食事をする時も、わたしたちは主イエスの弟子として、共に主イエスの愛にとどまり、共に永遠の命の交わりの中に置かれているのです。

 

 

 

この喜びを、この世の人々に伝えることこそ福音ではないでしょうか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年もヨハネによる福音書の学びを通して、わたしたちを主イエスの弟子として、主イエスの愛にとどまらせてくださり、あなたを礼拝できる喜びを与えられ、感謝します。

 

 

 

主イエスは、わたしたちに「わたしの愛にとどまりなさい」と命じられました。どうか、わたしたちが主の日の礼拝を喜び、兄弟姉妹と共に御言葉を聴き、共に聖餐にあずかり、主イエスの愛にとどまらせてください。

 

 

 

主イエスよ、わたしたちの地上の命は限られたものです。どうか、ここで父なる神と主イエスの永遠の愛の交わりにわたしたちもあずからせてください。

 

 

 

どうか、わたしたちに世の人々に、この教会には永遠の命が証しされていることを知らせる勇気をお与えください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

ヨハネによる福音書説教66       主の2018211

 

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがtに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するであろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行なったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

 

 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 

 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い起こさせるためである。」

 

            

 

ヨハネによる福音書第1512節―第164

 

 

 

 説教題:「迫害の予告」

 

 

 

 さて、ヨハネによる福音書の15章と16章は、主イエスが残された11弟子たちになさった最後の説教であります。

 

 

 

主イエスは、ユダが裏切り、暗闇の中に出て行くと、残された11弟子たちと最後の晩餐を続けられ、15章と16章の最後の説教をなさいました。

 

 

 

主イエスは、御自分がいよいよゴルゴタの丘の十字架刑へと歩まれることを自覚されていました。

 

 

 

しかし、主イエスがなさった説教は、大変積極的で、前向きなものでした。

 

 

 

今朝の説教題は、少し先走りしすぎたかなと、わたしは思っています。

 

 

 

今朝は、151217節の御言葉を学びたいと思います。

 

 

 

主イエスは、御自身の喜びが11弟子たちの心に満たされるために、まことのぶどうの木のたとえをお話になり、弟子たちに繰り返し「わたしにつながっていなさい」と命じられ、「わたしの愛にとどまりなさい」と命じられました。

 

 

 

主イエスの説教は、御自身の弟子たちを愛し、励まし、立て上げるものでした。御自分のことよりも、弟子たちの人生の苦難を思われ、その弟子たちの困難な人生を肯定され、躓くことがあろうとも力強く生きるようにとのメッセージでありました。

 

 

 

だから、初代教会から現代まで、ヨハネによる福音書の15章と16章の主イエスの説教に励まされ、慰められ、力つけられた教会やキリスト者たちは無数にいたでしょう。わたしたちもその一人となれるのであれば幸いであると、わたしは思っています。

 

 

 

15章と16章で11弟子たちに説教されている主イエスは、今復活の主イエスとして、聖霊を通して、わたしたちにも御自身の命令を、今ここで語られるのです。

 

 

 

「これがわたしの命令です。わたしがただ一度あなたがたを愛したように、あなたがたは今互いを愛し合うように」。

 

 

 

主イエスの喜びが教会の内にあり、わたしたちの喜びが満たされるために、復活の主イエスは、今わたしたちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とお命じになるのです。

 

 

 

喜びは、ギリシア語の「カーラー」が使われています。

 

 

 

日本語の「喜び」にはっきりした区別はありません。

 

 

 

ギリシア語にははっきりした区別があり、喜びは快楽に結び付くものと苦しみの中にあっても喜ぶこととは区別され、「カーラー」は後者の意味で使われています。

 

 

 

クリスマス物語の中に異邦人の博士たちが旅をして幼子イエスの誕生を祝うという有名なお話があります。そこで博士たちが星を見つけて、喜ぶ場面があります。その喜びは「カーラー」というギリシア語です。

 

 

 

「カーラー」は、その人の人生が苦難の中にある時に、「主に在る喜びがあなたの中にある」という喜びです。インマヌエルという喜びなのです。

 

 

 

この世の教会は、神に敵対する世にあります。主イエスが迫害されたように、ヨハネによる福音書の読者である教会も、ユダヤ人たちやローマ帝国の迫害の中にあったでしょう。

 

 

 

そうした苦難の中で教会が、そしてキリスト者たちが主イエスの新しい掟を守っていることは、インマヌエルのしるしなのです。

 

 

 

もっと積極的に言えば、教会とキリスト者たちがどんなに苦難の中にあっても、困難を抱えていても、主に在って喜ぶことができるのだと、主イエスは御自身の新しい掟で宣言されているのです。

 

 

 

教会には、どんなものにも代えられない喜びがあるのです。それが、愛の交わりです。

 

 

 

父なる神と子なるキリストの愛の交わりに受け入れられることです。それが永遠の命です。

 

 

 

その愛への交わり、永遠の命に教会とキリスト者たちを受け入れるために、主イエスは、13節で、こう言われました。

 

 

 

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 

 

 

これは、有名な言葉です。

 

 

 

聖書もキリスト教にも関心を持たない人でも、この主イエスの言葉を知っているでしょう。

 

 

 

三浦綾子さんは、『氷点』という小説で、主イエスのお言葉を多くの人々に知らせられたのです。

 

 

 

青函連絡船の洞爺丸の遭難で、アメリカの宣教師たちが日本の若者に救命具を譲り、遭難死したという事件があり、三浦さんはその小説にその事件を取り上げておられます。

 

 

 

三浦綾子さんは、『塩狩峠』という本でも、列車事故で、永野というキリスト者が乗客の命を救うために、自らの命を捨てたことを物語られています。

 

 

 

わたしは、読んで感激しました。そして、自分にはできないと思いました。それは、普通の人間の反応と思います。

 

 

 

だが、アメリカの宣教師と長野(本名)青年にはできたのです。

 

 

 

どうしてでしょうか。

 

 

 

わたしが見出した解答は、彼らは主イエスの愛にとどまったということです。

 

 

 

彼らは、主イエスを自分たちの救い主と信じていました。主イエスの十字架の死を、彼らの罪の身代わりと信じていました。そして、彼らは主イエスが復活されたように、自分たちも復活し、永遠の命を与えられると信じていました。

 

 

 

だから、彼らは人生の苦難の中で主イエスに在る喜びを見出したのです。それは、主の愛にとどまることでした。主のように、自分の隣人の命を救うために、自らの命を犠牲にすることでした。

 

 

 

そこに彼らが喜びを見出せたのは、主イエスが御自身の十字架の死によって彼らを友として受け入れられ、父なる神との愛の交わり、すなわち、永遠の命に受け入れてくださっていると信じていたからです。

 

 

 

さらに主イエスは、わたしたちキリスト者をどうして「友」と呼ばれるかを説明されています。

 

 

 

主イエスの命令を行う者は、主の僕ではなく、主の友と呼ばれます(14)。それは、主イエスと弟子たちは、愛によって一体であるからです。

 

 

 

主人と奴隷という関係ではありません。奴隷は主人の意図も行動も知りません。ところが、主イエスは聖霊を通して弟子たちに御自身の意志と行動を知らされているのです。

 

 

 

16節で、主イエスは11弟子たちに永遠の神の選びについて説教されました。キリストにあって、教会とキリスト者たちは神の永遠の選びにあずかっているのです。

 

 

 

主イエスは、主権的に11弟子たちを選んで、使徒に任命されました。そして、11弟子たちはキリストの弟子として選ばれ、使徒に任命され、キリストの共同体を造り上げ、そこで神礼拝をし、福音宣教をするのです。

 

 

 

そして、彼らの伝道によって実を結ぶ教会に、主イエスは17節で「互いに愛し合いなさい」と命じられています。

 

 

 

主イエスに選ばれて、わたしたちも牧師に、長老にと任命されます。そして、キリストの共同体という実を結ぶのです。そこで「互いに愛し合いなさい」と、主イエスは命令されています。

 

 

 

この世で造られる教会は、いろんな困難に出会うでしょう。教会に招かれて、キリスト者となる者も、人生に様々な問題を抱えるでしょう。

 

 

 

しかし、主イエスはわたしたちに約束してくださっています。約束の一つは、これです。主イエスの名によって、父なる神に祈り願うならば、必ず祈りは実現すると。

 

 

 

ひとり、ふたり、主イエスの名によって集まる所に、キリストの体なる教会は造られます。

 

 

 

この世にある教会は、苦難の中にある教会です。旧約時代の神の民イスラエルが、エジプトの奴隷の地でその苦難の中で、主なる神に叫びをあげた時に、主はアブラハムとの契約を思い起こして、苦難の中にある彼らを救い出してくださいました。奴隷状態から救い出して、自由に主なる神を礼拝する共同体にしてくださいました。

 

 

 

同じように今この世で苦難の中にあるこの教会が主の名によって祈り願うならば、復活の主イエスはその祈りを聞き届けて、必要な物を与えると約束されています。

 

 

 

主イエスは、言われました。人の親は子が願うものを何でも与える。まして天の父は、あなたがたが願う前から必要なものを与えてくださると。

 

 

 

わたしたちは、主イエスの十字架の愛にとどまり、主に在る喜びに満たされ、互いに愛し合うことで、こここそがインマヌエルの場所であることを、この世の人々に証しするのです。

 

 

 

それこそがこの世にある教会の使命だと思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、あなたは主イエスに在って、わたしたちを主イエスの弟子として選び、主イエスの愛にとどまらせ、主イエスの「互いに愛し合いなさい」という命令に服して、ここであなたを礼拝し、賛美し、あなたに身をささげて歩めるようにしてくださり、感謝します。

 

 

 

どうか、わたしたちが「互いに愛し合う」ことで、ここがインマヌエルの場所であることを、この世の人々に証しさせてください。

 

 

 

苦難の中にあっても、心にあなたと共に生きる喜びを与えてください。

 

 

 

主イエスよ、わたしたちは弱い者です。教会も小さいです。困難がたくさんあります。どうか、主イエスの御名によって祈りますので、わたしたちの祈りをかなえて下さい。

 

 

 

どうか、ここで父なる神と主イエスの永遠の愛の交わりにわたしたちもあずからせてください。そして、家族や町の人々を、この交わりに招くことができるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

 

ヨハネによる福音書説教67       主の2018218

 

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがtに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するであろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行なったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

 

 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 

 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い起こさせるためである。」

 

            

 

ヨハネによる福音書第1512節―第164

 

 

 

 説教題:「自分の罪に弁解の余地はない」

 

 

 

 ヨハネによる福音書の15章と16章は、最後の晩餐の時の主イエスの第二告別説教です。

 

 

 

主イエスは、15111で御自分を「まことのぶどうの木」にたとえられ、父なる神を農夫にたとえ、そして11弟子たちを枝にたとえて、主イエスは11弟子たちに「わたしにつながりなさい」と命じ、「わたしの愛にとどまりなさい」と命じられました。そして、枝である弟子たちに主イエスは「豊かな実を結ぶ」ことを約束されました。

 

 

 

そして、1217節で主イエスは、御自身のたとえ話をより現実的に適応されて、11弟子たちに次のようにお勧めになりました。主イエスが父なる神の愛にとどまるように、御自身の愛にとどまり、互いに愛し合うようにと。

 

 

 

主イエスが11弟子たちを選ばれ、使徒の務めに任じて、彼らの働きで教会という実を結ばせられたのです。そして、主イエスは彼らが伝道によって実を結ぶ教会に、「互いに愛し合いなさい」と命じられているのです。

 

 

 

そこで先週、わたしは、次のように語り、説教を閉じました。「主イエスの十字架の愛にとどまり、主に在る喜びに満たされ、互いに愛し合うことで、教会こそがインマヌエルの場所であることを、この世の人々に証しするのです。それこそがこの世にある教会の使命だと思います」。

 

 

 

さて、今朝と次回の2回に分けて、ヨハネによる福音書1518節から164節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

見出しに「迫害の予告」とありますように、主イエスは11弟子たちにこの世からの迫害について説教されています。

 

 

 

161節に説教の目的を、主イエスは語れています。「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」と。

 

 

 

11弟子たちは、受難のキリストを目撃するまでは楽観的でした。11弟子たちは、こう思っていたのです。主イエスはエルサレムの都に入られ、この地上に王国を建てられ、メシアとなられると。このメシアは、ダビデのような王のことです。だから、11弟子たちは仲間割れし、ヤコブとヨハネは他の弟子たちを出し抜き、主イエスに自分たちを右大臣、左大臣にしてくださいと願い出たのです。

 

 

 

ところが、主イエスは預言者イザヤが預言した苦難の僕でした。世に愛されるものではなく、世に憎まれるお方でした。そして、主イエスは御自分だけでなく、11弟子たちもこの世に憎まれ、迫害されることをよく知っておられたのです。

 

 

 

だから、主イエスは11弟子たちに最後の晩餐の席で「この世」から彼らが受ける憎悪と迫害について説教され、彼らがこの世からの憎悪と迫害につまずくことなく、その中で御自身を証しする業を続けられるように励まされたのです。

 

 

 

主イエスは、11弟子たちに近い将来のことを話されます。彼らの苦難を話されます。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。(18)と。

 

 

 

「世があなたがたを今憎むなら、あなたがたは今次のことを知りなさい。彼らはあなたがたより先にわたしのことを憎んだということを。」

 

 

 

「覚えなさい」は、ギリシア語の「知る」という動詞、「ギノースコー」が使われています。だから、主イエスは11弟子たちが御自身と同じように近い将来この世から憎まれ、迫害されることを知って、つまずかないようにとお勧めになりました。

 

 

 

主イエスは、11弟子たちがこの世から憎まれ、迫害されることを肯定されています。そして、主イエスは次の言葉で、11弟子たちを「わたしにつながりなさい」と命じ、「わたしの愛にとどまれ」と命じられたとおりに、御自分に強く結び付けてくださるのです。

 

 

 

あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。(19)

 

 

 

11弟子は、世に憎まれ、迫害された主イエスがこの世から選び出してくださいました。だから、11弟子たちは主イエスを通して父なる神に属する者であり、この世に属する者ではないのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にここで次のことを証しするのです。主イエスは御自分がこの世を去られた後のことを、11弟子たちが主イエスと同じようにユダヤ人たちに憎まれ、ユダヤの官憲に迫害されることを説教されたと。

 

 

 

そして、11弟子たちに説教された主イエスは、今聖霊を通して、今彼らにも同じことを説教してくださるのです。だから、「ユダヤ人たち」は「この世」と言い換えられているのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書の読者たち、すなわち、初代教会のキリスト者たちはユダヤ人たちではなく、この世に憎まれ、ローマ帝国から迫害されていたのです。

 

 

 

なぜなら、彼らは主イエスを主と告白し、ローマ皇帝を主と告白することを拒みました。だから、この世から憎まれ、ローマ帝国から迫害されていました。

 

 

 

主イエスは、11弟子たちに第二告別説教をされました。ヨハネによる福音書とその読者たちは、復活の主イエスが今彼らに説教されている御言葉として、今朝の御言葉を聴いたのです。

 

 

 

さらに主イエスは、11弟子たちに20節で一つの格言を用いて彼らの迫害を予告されています。そして、主イエスは11弟子たちを励まされています。彼らが迫害されても主イエスの御言葉を、すなわち、「わたしとつながりなさい」「わたしの愛にとどまりなさい」「互いに愛し合いなさい」という主イエスの命令を、新しい掟を守るように、世に迫害されるキリスト者たちも11弟子たちと同じように守るだろうと。

 

 

 

この世の迫害の中でキリストの教会はキリストの新しい掟を守り、存続し続けるのです。そして、今ここにいるわたしたちは、主イエスの御言葉が真実であることを証しする証人なのです。

 

 

 

なぜなら、2000年の歴史の中でキリスト教会とキリスト者たちはこの世に憎まれ、この世に迫害されて来ました。その中でキリスト教会とキリスト者たちは主イエスの「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを共に礼拝し、共に聖餐にあずかり、共に祈り、奉仕し、兄弟姉妹が交わりを持つ中で守って来たのです。そして、主イエスの御言葉は真実ですから、今ここにキリストの教会があり、わたしたちキリスト者がここにいるのです。

 

 

 

これって、すごいことでありませんか。本当に神のなせる奇跡の御業であると、わたしは思います。

 

 

 

2125節で、主イエスは御自身がこの世を去られた後に、御自身を迫害した人々が主の御名のゆえに今度は11弟子たちや初代教会のキリスト者たちを迫害すると予告されています。

 

 

 

主イエスは人々の迫害の理由を、御自身をこの世に遣わされた父なる神を知らないからであると説明されています(21)

 

 

 

これは、主イエスがこの世の人々の不信仰を非難されているのです。

 

 

 

教会とキリスト者は、主イエスを父なる神から遣わされたキリスト、父なる神の啓示者と信じているので、それを拒否するこの世の不信仰な人々から迫害を受けるのです。

 

 

 

実際に主イエス・キリストは、父なる神の独り子であられたのに、肉体を取ってこの世に来られ、父なる神について、御自身が神の御子であることについて、弁護者で、真理の御霊である聖霊について、罪について、救いについて話されました。

 

 

 

だから、主イエスは22節ではっきりと宣言されました。御自身の御言葉を信じない不信仰なユダヤ人たちには罪があり、彼らは自分の罪については弁解の余地はないと。

 

 

 

主イエスを迫害した不信仰なユダヤ人と教会とキリスト者たちを迫害した不信仰なこの世とは、共にキリストの御言葉を拒ぶことで、キリストを遣わされた父なる神に対して彼らが罪を犯したということについて、弁解の余地はありません。

 

 

 

主イエスは、御言葉と奇跡の御業を通して神の栄光を現わされました。それにもかかわらず不信仰なユダヤ人たちは主イエスを憎悪し、迫害しました。彼らの罪の責任は免れないのです。

 

 

 

また、キリスト教会とキリスト者たちも福音宣教を通して、この世の人々にキリストとその御業を伝え、神の栄光を現わしました。しかし、この世の人々は不信仰によって父なる神とキリストは一体であることを信じないで、主イエスをこの世の救い主として信じることを拒み、教会とキリスト者たちを憎み迫害しました。

 

 

 

結局、ユダヤ人もこの世の人々も、キリストを憎むことで、キリストを遣わされた父なる神を憎んでおり、彼らは自らの無知を理由にして、自分たちに罪がないと弁明できないのです。

 

 

 

実際にキリストのしるしを見ても、ユダヤ人たちは主イエスを父なる神が遣わされたキリストと信じずに、彼を憎みました。また、教会とキリスト者たちが世の人々にキリストとその救いの御業を宣べ伝えたにもかかわらず、世の人々はその福音を受け入れず、教会とキリスト者たちを憎み迫害しました。

 

 

 

この最後の晩餐での主イエスの第二告別説教は、このヨハネによる福音書を通してこの福音書の読者とその教会の今を預言して語っているのです。

 

 

 

この世で教会とキリスト者たちは、熱心にキリストを伝えれば、伝えるほど、この世の人々に憎まれ、迫害されると、主イエスは今の教会とキリスト者たちに予告されているのです。

 

 

 

そして、主イエスの迫害の予告を聞いて、11弟子たち、そして初代教会のキリスト者たち、そして、今のわたしたちがつまずかないために、主イエスは25節で「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」と言われています。

 

 

 

迫害は父なる神の御意志であると、主イエスは詩編3519節と695節の御言葉を引用して告げられています。

 

 

 

この世とユダヤ人たちの憎しみと迫害は、神の永遠の御計画の中にありました。

 

 

 

神の主権性の中でこの世において教会とキリスト者たちは、この世の人々にキリストの福音を伝え、キリストこそが救い主であると伝えています。そして、その福音はこの世の人々の不信仰によって拒まれ、教会とキリスト者たちはこの世の人々に理由なく憎まれ、迫害されます。

 

 

 

この事実を受け止めることは、わたしたちにとって正直に辛く、耐えがたいことです。

 

 

 

しかし、主イエスは11弟子たちにそれを、喜びと励まし、慰めとして語られました。

 

 

 

わたしたちがこの世の人々に、自分の家族にもキリストを伝えることは、主イエスにとっては、一つのしるしになっているのです。

 

 

 

だから、わたしは、151825節を通して、主イエスの次の御言葉を聞きとるのです。「あなたがたはこの世からわたしが選び出し、父なる神の子に属する者とした者たちである。」

 

 

 

わたしたちは確かにこの世に生きています。日本人です。それ以上に、今はキリスト者としてこの世の人々にキリストの福音を伝えています。

 

 

 

それゆえにこの世に憎まれるのです。この世の不信仰のゆえにこの世に憎まれ迫害を受けることは、わたしたちがキリストの十字架を担うことです。この世の教会とキリスト者たちは、キリストの十字架を担い続けてきたのです。

 

 

 

この世の教会とキリスト者たちは、伝道によってキリストの十字架を担い、キリストのようにこの世に憎まれ迫害されてきました。迫害という教会の事実こそが、教会とキリスト者はこの世の属する者ではなく、永遠の父なる神に属する者であることをこの世に対して証ししているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、主イエスは11弟子たちに「あなたがたはわたしのようにこの世に憎まれ迫害される」と予告されたことを学びました。

 

 

 

わたしたちはこの世に生きる者ですが、この世に属する者ではなく、主イエスを通して永遠の父なる神に属する者とされました。

 

 

 

それゆえに主イエスの名のゆえにこの世のキリスト教会とキリスト者たちは、この世に憎まれ、迫害されて来ましたし、今もその危険性の中にあります。

 

 

 

しかし、主イエスが父なる神に遣わされて、神の御国の福音を語られ、奇跡と癒しの御業をなさり、御自身が永遠の父なる神の御子であることを証しされたように、教会とキリスト者たちが福音宣教を通してこの世に人々にキリストを伝えることができるようにしてください。

 

 

 

この世の人々の不信仰により、キリストの福音が拒まれ、わたしたちが憎まれ迫害されることがありましても、つまずくことなく、すべてを神の御心と受け止めて耐えさせてください。

 

 

 

そして、わたしたちの国籍が天にあることを覚えて、この世を最後まで生きて主イエスの弟子として信仰から信仰へと歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教68       主の201834

 

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがtに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するであろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行なったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

 

 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 

 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い起こさせるためである。」

 

            

 

ヨハネによる福音書第1512節―第164a

 

 

 

 説教題:「弁護者、真理の霊である聖霊」

 

 ヨハネによる福音書の1512節から164節の前半までをお読みしました。

 

 

 

 主イエスは、11弟子たちに最後の晩餐の席で、第二のお別れ説教をされました。その説教で主イエスは御自分が選ばれて、使徒に任命された彼らに、ユダヤ人たちが御自分と同様に憎み迫害することを予告され、彼らがつまずかないように配慮されました。

 

 

 

 今朝は、1526節から164節の前半の御言葉を学びましょう。主イエスと弁護者、真理の霊である聖霊と関係を学びましょう。

 

 

 

 主イエスは11弟子たちに1526節で「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」と約束されています。

 

 

 

 主イエスが父なる神のもとから11弟子たちに遣わされた「弁護者」とは、聖霊なる神です。

 

 

 

 ギリシア語は「パラクレートス」、すなわち、「よんでこられた者」という意味です。新共同訳聖書は「パラクレートス」を「弁護者」と訳しています。

 

 

 

 「パラクレートス」は、ユダヤ人には外来語でした。わたしたち日本人が外来語を受け入れるように、ユダヤ人たちも「パラクレートス」という外来語を受け入れ、「個々人を神の前で弁護、あるいは代弁してくれる者」を、聖霊と理解しました。

 

 

 

 ところが、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に聖霊を、主イエスの口を通して次のように教えているのです。「弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」と。

 

 

 

 主イエスは、聖霊を、「弁護者」と呼ぶだけでは言い表せなかったようです。だから、主イエスは、「弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」と言われました。

 

 

 

 次に、主イエスは、11弟子たちに御自身が父なる神のもとから聖霊を彼らに遣わすと述べられています。

 

 

 

聖霊は、御子キリストと同様に父なる神のもとを出て、この世にいる11弟子たちのところに来られました。そして、聖霊は父なる神と同じように霊であるお方で、真理の霊と主イエスは呼ばれているのです。

 

 

 

主イエスは、11弟子たちに弁護者である聖霊のお働きを「その方がわたしについて証しをなさるはずである」と述べられています。

 

 

 

それから27節でも、主イエスは11弟子たちに「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」と述べられています。

 

 

 

 弁護者である聖霊が11弟子たちに主イエスを証しされることも、11弟子たちがこの世の人々に目撃した主イエスを証しすることも、主イエスにとっては同じ聖霊のお働きです。

 

 

 

 主イエスは、御自分と同様に聖霊もまた、教師、預言者として働かれると教えられています。

 

 

 

 例えば、主イエスは、ヨハネによる福音書の3章でニコデモは、主イエスを「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と言っています(2)11章でマルタは主イエスを「先生」と呼び(28)7章で主イエスはいつも神殿でユダヤ人たちに教えておられました。そして、主イエスは、8章で父なる神からお聞きになられた真理を語られました。そして、主イエスは13章の最後の晩餐で11弟子たちに「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わねばならない」(14)と命じられました。

 

 

 

 主イエスの地上の歩みと同じように、弁護者である聖霊も11弟子たちに教師としてすべてのことを教えると言われています。すなわち、14章で主イエスは、次のように11弟子たちに約束されました。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしの話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(26)と。

 

 

 

 また聖霊は、主イエスと同じように預言者の働きをされます。16章でヨハネによる福音書は、主イエスが11弟子たちに聖霊のお働きを説教され、次のように言われたことを記しています。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げ知らせるからである。」(13)

 

 

 

 そして、弁護者である聖霊は、主イエスと同様に11弟子たちと永遠に一緒にいてくださいます。

 

 

 

 このようにヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のことを教えてくれます。聖霊は11弟子たちやわたしたちキリスト者たちに主イエスについて証しをしてくださいます。

 

 

 

聖霊は主イエスが御自身を拒むユダヤ人たちの不信仰を裁かれたように、11弟子たちやキリスト教会の福音宣教を拒むこの世の不信仰を裁かれます。

 

 

 

主イエスが父なる神に従順に服されて、十字架の道を歩まれるように、聖霊は主イエスが11弟子たちに話された御言葉を、聞かれたままに11弟子たちやキリストの教会に思い起こさせて、彼らを天におられる主イエスと一つに結び付けてくださっているのです。

 

 

 

だから、11弟子たちは、聖霊が地上におけるキリストの救いの御業を継続されているので、この世に対して彼らが目撃した主イエスを証しできたのです。

 

 

 

天に挙げられた主イエス・キリストは、聖霊を通して地上の働きを継続されているのです。それが11弟子たちや初代教会の証し、すなわち、福音宣教です。

 

 

 

最後の晩餐で主イエスは、11弟子たちに御自身がこの世を去ることを予告されました。同時に主イエスは11弟子たちに聖霊がこの世に来られることをお約束になりました。こうして主イエスは11弟子たちに聖霊のお働きを通してこの地上における主イエスのお働きが継続することを予告されたのです。

 

 

 

そして、主イエスは御自身のこの地上の働きが聖霊を通して11弟子たちと教会に継続されるので、ユダヤ人たちが主イエスを憎み殺したように11弟子たちと初代教会はこの世に憎まれ、迫害されると予告されました。

 

 

 

迫害する者たちは、無知のゆえに自分たちの迫害を神への奉仕として熱心にやるようになると、主イエスは11弟子たちに予告されました。

 

 

 

実際にヨハネによる福音書は9章で生まれつき目が見えなかった人が、主イエスに癒され、主イエスを救い主と信じて、ユダヤ人たちに主イエスはメシアであると証しし、ユダヤ人たちの会堂から追い出されたことを記録しています。ユダヤ人キリスト者たちがユダヤ人の会堂から、すなわち、ユダヤ人社会から村八分にされた一例にすぎません。

 

 

 

また、使徒パウロが熱心なファリサイ派の律法学者であった頃、彼は無知のゆえにキリスト者を迫害することが神への熱心と思っていました。彼はエルサレムの都にいるキリスト者たちだけでなく、外国のダマスコのキリスト者たちも迫害し、神に熱心に奉仕しようと考えました。

 

 

 

だから、わたしはヨハネによる福音書の主イエスの予告のこの御言葉を読み、使徒言行録のサウロ、後の使徒パウロがダマスコのキリスト者たちを迫害しようとしたことを思い起こしました。

 

 

 

今年もレントの季節(今年は214日から331)に聖餐の恵みにあずかれることを、心より感謝しましょう。

 

 

 

11弟子たちと初代教会のキリスト者だけでなく、今ここにキリストの御名によって集まるわたしたちに、最後の晩餐で11弟子たちに弁護者である聖霊を遣わすと約束された主イエスは聖霊をお与えくださるのです。

 

 

 

だから、今ここでわたしたちは礼拝しています。そこで聖書の御言葉が語られ、その解き明かしである説教がなされています。

 

 

 

聖霊は、今朝の聖書の御言葉と説教を聞くわたしたちに、主イエスが11弟子たちにお語りになったお言葉を思い起こさせて、理解できるように導いてくださいます。

 

 

 

だから、わたしたちは主イエスを拒むこの世の不信仰について、罪について知らされています。そして、聖霊はこの世の不信仰の中でも主イエスがわたしたちをこの世から選ばれ、わたしたちに信仰を与えて、神の子としてくださることの主の憐れみと救いについて教えてくださいます。

 

 

 

だから、わたしたちは感謝と喜びをもって主イエスは、あなたにとって救い主であると、この世の人々に証しするのです。

 

 

 

同時に聖霊は、今のわたしたちに、受難のキリストを思い起こすように迫られるのです。受難のキリストがこの世に憎まれたように、この世の教会とキリスト者たちはこの世に憎まれ、迫害されることを避けられません。

 

 

 

幸いに主イエスは戦後70年以上、日本を平和の中に置いてくださいました。

 

 

 

しかし、今日本は昔のように戦争のできる国に変わろうとしています。

 

 

 

そうなれば、靖国神社の国有化は避けられません。そして、天皇は昔のように神格化され、教会とキリスト者たちは戦前のように神社参拝や宮城遥拝を強制されるでしょう。そして、それを拒むならば、教会とキリスト者たちは非国民としてこの世から迫害されるでしょう。

 

 

 

この世は、これからどう変化するか分かりません。

 

 

 

しかし、今朝主イエスは、聖霊を通して、わたしたちに一つのことを約束してくださるのです。

 

 

 

初めからわたしと一緒にいたのだから」。

 

 

 

わたしたちのために十字架の苦難の道を歩まれた主イエスは、いつも、永遠に聖霊と共に、初めからわたしたちと一緒にいてくださると約束してくださいました。

 

 

 

先週の木曜日に聖書を学ぶ集いで、イザヤ書46章を学びました。預言者イザヤを通して主なる神は、神の民イスラエルに御自身と偶像の神々の違いを、次のように言われています。主なる神はわたしたちを母の胎から生まれた時からこの世を去るまで担われる神であり、偶像の神々は人が担い、運ばないと動くことができないものであると。

 

 

 

主なる神は、わたしたち人間をお造りになったお方です。だから、このお方は主イエスの十字架を通して、今もわたしたちの罪を担い、そして、この世におけるわたしたちの人生を終わりまで共にいて、担い続けてくださるのです。そして、今この聖餐の席にいるわたしたちに天国の前味を味わわせ、この世から天の国へと救い出してくださるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、レントの季節を迎え、日々受難のキリストを瞑想する時期となりました。

 

 

 

わたしたちは最後の晩餐で主イエスが11弟子たちになさった第2のお別れ説教を学びました。

 

 

 

主イエスがこの世を去られ、世に残された11弟子たちのために、そしてこの世にあるキリスト教会のために、弁護者、真理の霊なる聖霊を、父なる神のもとからお遣わしくださり、心より感謝します。

 

 

 

聖霊の証しにより、今朝も主イエスの地上における救いの御業が継続され、わたしたちは11弟子たちと同じように、主イエスの御言葉をお聞きし、主イエスが11弟子たちを招かれた聖餐の席にお招きいただき、心より感謝します。

 

 

 

今朝も、主の名のゆえにこの世のキリスト教会とキリスト者たちは、この世に憎まれ、迫害されることを学びました。

 

 

 

それゆえに、戦後70年以上、主イエスがこの日本の国に平和を置いてくださり感謝します。

 

 

 

戦争がないだけでなく、信仰の自由が保障され、神社参拝を強制されず、宮城遥拝を強制されることもないことを感謝します。

 

 

 

この平和な時を感謝し、この国の人々に神の御国の福音を語り、キリストを証しさせてください。

 

 

 

主イエスの御言葉がこの世に実現する日が来ます。その時、この世の人々の不信仰により、キリストの福音が拒まれ、わたしたちは憎まれ迫害されるでしょう。

 

 

 

弱い者ですから、今朝の主イエスの御言葉に励まされ、信仰につまずくことなく、すべてを主の御心と受け止めて耐えさせてください。

 

 

 

そして、今朝聖餐の恵みにあずかり、天国の前味を味わうものとして、わたしたちの国籍が天にあることを覚えて、この世を最後まで主イエスの弟子として信仰から信仰へと歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教69       主の2018311

 

「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。

 

しかし、実を言うと、わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

 

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」            

 

ヨハネによる福音書第164節b―15

 

 

 

 説教題:「聖霊の働き」

 

 ヨハネによる福音書の164節bから15節の御言葉をお読みしました。

 

 

 

 主イエスは、11弟子たちと一緒に最後の晩餐をなさいました。その席で、主イエスは11弟子たちに第一と第二のお別れ説教(ヨハネによる福音書13311431節,ヨハネによる福音書151節―1633)を語られました。そして、どちらの説教でも主イエスは、11弟子たちに聖霊を与えることを約束し、彼らに弁護者、真理の霊である聖霊の働き(1415節-26節,1526節-27節・164節b-15)を説明されました。

 

 

 

主イエスは、11弟子たちに第一と第二のお別れ説教をされ、二つの重要なことを、主イエスは11弟子たちに語られました。

 

 

 

それは、主イエスが父なる神のみもとに去られることと、主イエスが彼らに弁護者、真理の霊である聖霊を送られることです。

 

 

 

164節後半で主イエスは、11弟子たちにこう言われています。「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。

 

 

 

ギリシア語のヨハネによる福音書の語順のままに訳すと、こうなります。「これらのことを、しかし、あなたがたに初めからわたしは言わなかった。あなたがたとわたしは一緒にずっといたから。」

 

 

 

主イエスが父なる神のみもとに去られることと彼らに聖霊を遣わされることをこれまでお話しにならなかったのは、ガリラヤ伝道から今まで主イエスが継続して11弟子たちと一緒におられたからです。

 

 

 

主イエスが父なる神のところに帰られることは、主イエスの昇天という出来事です。

 

 

 

今や主イエスは、この福音書の冒頭の御言葉、すなわち、主イエスが万物の創造に先立っておられた父なる神のみもとに帰られるのです。

 

 

 

そこで主イエスは、11弟子たちが主イエスを見なくなっても、彼らが御自分を信じるようにと、弁護者、真理の霊である聖霊を彼らに送られるのです。

 

 

 

5節の主イエスのお言葉は、現在形で語られています。今最後の晩餐の席で主イエスは、11弟子たちに次のように言われました。「今、わたしは、わたしを遣わされた方のところに行く。そして、あなたがたのだれも、わたしに『どこにあなたは行くのか』と質問しない。」

 

 

 

最後の晩餐の席で主イエスが11弟子たちに説教されたことを、11弟子たちは理解できなかったのです。

 

 

 

この福音書が生まれる60年昔、最後の晩餐の席で主イエスが11弟子たちに説教され、聞いた弟子たちは何も分からなかったのです。だから、彼らの心は悲しみに満たされました。

 

 

 

だから、6節で主イエスは11弟子たちに「むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」と言われました。

 

 

 

 ここでもヨハネによる福音書をギリシア語の語順で訳すとこうです。「むしろ、これらのことをわたしが語ったから、悲しみが満たした、あなたがたの心を。」

 

 

 

 主イエスの第一と第二のお別れ説教は、聞く11弟子たちには理解できませんでした。だから、弟子たちは悲しくて、悲しくて、仕方がありませんでした。

 

 

 

 主イエスは、11弟子たちの気持ちを汲み取ってくださり、7節で主イエスは11弟子たちを心底励まし、聖霊を送るという喜びを約束されています。

 

 

 

 だから、7節の「しかし、実を言うと」という訳は残念です。7節で主イエスは、11弟子たちに「しかし、わたしは真理を言う」と断言されました。

 

 

 

昨年に新改訳聖書が新たに全て翻訳し直して、『聖書 新改訳2017』を出版しました。中々手に入らず、3月に入り、静岡聖文舎から取り寄せました。それを見ると、「しかし、わたしは真実を言います」と訳されています。

 

 

 

その後も新改訳聖書の方が良いと思います。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」

 

 

 

わたしが見た限りでは、新改訳聖書は聖書の原文に沿って忠実に訳しています。

 

 

 

パラクレートスは助け主と、従来のままですが。

 

 

 

パラクレートスを「助け主」と訳すか、「弁護者」と訳すかは、聖書学という学問での問題にすぎません。

 

 

 

しかし、主イエスが「わたしは真実を言います」と宣言されることは、わたしたちにとっては命の問題ではないでしょうか。

 

 

 

今、主イエスは2000年も昔に11弟子たちのもとを去られ、天に御帰りになりました。しかし、主イエスは11弟子たちに真実を告げられました。主イエスは11弟子たちに聖霊を送ると約束されたのです。

 

 

 

だから、今わたしたちはこの教会の礼拝でヨハネによる福音書の講解説教を聴くことができるのです。

 

 

 

最後の晩餐から60年後に使徒ヨハネは主イエスが送られた聖霊に導かれて、主イエスが語られたことを思い起こし、それをよく理解して、ヨハネによる福音書を書きました。

 

 

 

そして、初代教会とキリスト者たちは、ヨハネによる福音書を通して、主イエスが最後の晩餐において11弟子たちに予告され、約束されたことが今現実となり、どんなに自分たちの信仰の益となっているかを認識したでしょう。

 

 

 

すなわち、ヨハネによる福音書は、主イエスが遣わされた聖霊に導かれて、11弟子たちが次のような益を受けると、主イエスの口を通して証言します。

 

 

 

811節です。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

 

 

 

 この弁護者、真理の霊である聖霊の働きは、ヨハネによる福音書の理解によれば、この地上における主イエスの救いの御業を継続されるのです。だから、聖霊は11弟子たちに主イエスが語られたことを思い起こさせ、理解へと導かれるのです。だから、主イエスは、11弟子たちに繰り返し御自身がこの世を去られ、彼らに聖霊を遣わされると、聖霊が11弟子たちにことごとく御自身が語られたこと、なされたことを思い起こさせてくださると、聖霊の働きを予告されています。

 

 

 

 聖霊の働きは、主イエスが生前語られた御言葉、なされた御業を、すなわち、主イエスを通しての神の御救いを、現在化することです。

 

 

 

 現在化とは、今生きている教会とキリスト者たちに適応することです。

 

 

 

 主イエスが十字架と復活で、救いを完成され、父なる神のみもとに帰られても、11弟子たちはこの世に残され、この世で生き続けねばなりません。

 

 

 

 同様に初代教会とキリスト者たちも、そして、現代の教会とキリスト者たちもこの世の艱難と迫害の中を生き続けなければなりません。

 

 

 

 キリストを通して神の啓示の御業は完成しました。キリストの十字架と復活で神の救いの御業は完成したのです。

 

 

 

 だから、ヨハネによる福音書は、1930節で十字架の主イエスの口を通して、「成し遂げられた」と証言させているのです。

 

 

 

 しかし、この世の教会とキリスト者たちにとっては、その救いの完成はなお途上であり、この世には数々の艱難と迫害があります。

 

 

 

 聖霊は、主イエスの霊として、この世の教会とキリスト者と共にいて、次々にこの世の困難の中にある教会とキリスト者たちにキリストの御言葉を思い起こさせ、それを理解させ、あたかもヨハネによる福音書の主イエスが全く過去のものとならないで、今の教会とキリスト者たちと一緒に生き続けてくださっているようにしてくださるのです。

 

 

 

 さらに主イエスは、この世における聖霊の働きを、811節で次のように語られています。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

 

 

 

聖霊は、主イエスと同じように真理の霊として、この世の誤りを糾弾されます。主イエスがユダヤ人たちの不信仰の罪を糾弾されたように、この世の不信仰の罪を糾弾されます。

 

 

 

義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」とは、意味不可能な言葉だと思います。

 

 

 

義という言葉は、ユダヤ律法との関係で使われています。その場合、律法を遵守することにより神に義と認められることを意味するでしょう。

 

 

 

そうすると、主イエスが十字架で死なれ、3日目に復活され、天に昇天され、この世で見えなくなられたということが、父なる神に義と認められたということであるので、主イエスを十字架につけたこの世の誤りを、聖霊が糾弾されるということでしょうか。

 

 

 

ブルトマンというドイツの神学者は、義について次のように述べています。彼は「義」を裁判用語と理解し、裁判で正しいと認められる側、裁判で勝利する側が「義」と認められる。つまりイエスが復活して天の父なる神のもとに行くことが、「世」対する勝利であると。

 

 

 

聖霊は、主イエスと同様にこの世の支配者を既に裁かれています。「この世の支配者が断罪されることである」と、ヨハネによる福音書は、既に主イエスがこの世の支配者を裁かれていると述べています。

 

 

 

ローマ総督ポンティオ・ピラト、ユダヤ人の支配者層は、主イエスを裁判にかけて、十字架刑に処しました。実は彼らのその行為そのものによって、彼らはすでに主イエスに裁かれているのだと、聖霊はこの誤りを糾弾されるのです。

 

 

 

さて、12節で、主イエスは次のように言われます。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。

 

 

 

直訳すると、こうです。「なお、多くわたしは持っている、あなたがたに言うべきことを。しかし、あなたがたは耐えることができない、今」

 

 

 

主イエスは、11弟子たちが主イエスの説教に対して無理解だと責められているのではありません。むしろ、主イエスは11弟子たちの弱さを同情されました。どんなに師の言葉といっても、弟子が担えないのです。

 

 

 

この世に生きる教会とキリスト者たちがこの世の数々の艱難と迫害、そして試練によって聖書の御言葉を担えないという時があります。

 

 

 

聖書を掟、律法として、ただ神の命令として、それを実行しようとしても、弱いわたしたちには担えないのです。

 

 

 

例えば、主イエスはわたしたちに「神を愛し、隣人を愛せよ」と命令されても、わたしたちはその御言葉に耐えることはできません。担えないでしょう。だから、礼拝に罪の告白と赦しの宣言があるのです。

 

 

 

(遠藤周作の『沈黙』について証しする)

 

 

 

主イエスは、わたしたち主の弟子の弱さをご存じで、聖書の御言葉を担えないわたしたちのために真理の霊である聖霊をお送りくださるのです。

 

 

 

この世の誤りを糾弾される聖霊は、主イエスの弟子たちを導き、主イエスの語られる真理をことごとく理解させてくださいます。

 

 

 

聖霊は、わたしたちが主イエスを礼拝するという行為を通して、ご自身が語られるのではなく、わたしたちに主イエスの御言葉を、聖書の神の御言葉を思い起こさせ、これからわたしたちが生きるこの世で何が起こるかを告げて、主イエスに信従する道を歩ませてくださるのです。

 

 

 

それによって聖霊は主イエスに栄光を与えられるのです。聖霊は、主イエスが与えるものを受けられ、それをわたしたちに伝えて、この世のわたしたちが主イエスと共に生きるようにしてくださるのです。

 

 

 

こうしてヨハネによる福音書は、主イエスの口を通してわたしたちに父子聖霊なる神を伝えようとしているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今わたしたちはレントの季節を過ごしています。日々受難のキリストを瞑想しています。

 

 

 

今朝も受難のキリストの最後の晩餐における第二お別れ説教を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

受難のキリストがこの世を去られ、世に残された11弟子たちの益のために弁護者、真理の霊なる聖霊を、父なる神のもとからお遣わしくださり、心より感謝します。

 

 

 

聖霊の働きで、今朝も主イエスの地上における救いの御業が継続され、わたしたちも11弟子たちと同じように、礼拝で主イエスの御言葉をお聞きし、主イエスが今わたしたちに語られていることを理解することができて、心より感謝します。

 

 

 

また、主イエスは11弟子たちと同様に真実を言ってくださり、聖霊をお与えくださっていることを感謝します。

 

 

 

わたしたちは、肉の弱さのゆえに、時として主の御言葉を担うことができません。それゆえに主イエスは弟子たちの弱さを受け入れて、聖霊の助けを与えて下さり、聖霊を通して主イエスを礼拝する行為を通して主イエスに信従できるようにしていただき、感謝します。

 

 

 

今朝の主イエスの御言葉に励まされ、信仰につまずくことなく、主の御心を行えるように、聖霊の導きをお願いします。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。