ヨハネによる福音書説教36       主の2017212

 

 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です。」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。

 

            ヨハネによる福音書第第83947

 

 

 

 説教題:「神の言葉を聞く者」

 

 前回は、主イエスが御自分の本当の弟子は誰であるかをお教えになりました。主イエスは、御自分を「真理」と言われて、「わたしは本当の弟子に自由を与える」と約束されました。

 

 

 

ところが、主イエスを信じたユダヤ人たちは、主イエスの真意を理解できませんでした。彼らは主イエスに頼らず、自分たちの肉に頼ろうとしていたからです。だから、彼らは、「自分たちはアブラハムの子孫である」(33)と誇りました。

 

 

 

 本当に主イエスの弟子になりたいのであれば、主イエスの御言葉に、主イエスの中にとどまらなければなりません。主イエスは、その者に「真理はあなたたちを自由にする」(32)と約束されました。

 

 

 

 ところが、アブラハムの子孫であることを誇るユダヤ人たちは、主イエスに「自分たちが誰かの奴隷になったことはない」と言い、「どうしてわたしたちを自由にする」と言うのかと、反発しました。

 

 

 

それに対して主イエスは、彼らに「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と言われ、ユダヤ人たちが主イエスを拒み、主イエスを殺そうとしていることを指摘されました。だから、主イエスは彼らに向かって、「あなたがたは罪の奴隷である」と言われたのです。

 

 

 

今回は、主イエスがアブラハムの子孫であると誇るユダヤ人たちに「あなたたちの父は悪魔である」と指摘されていることを学びましょう。

 

 

 

主イエスとユダヤ人たちの論争を見ていまして、わたしたちは一つのことを発見しないでしょうか。主イエスの語られる言葉が分からない者にとって、主イエスのお言葉は謎の言葉となるということです。

 

 

 

主イエスは、ユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまりなさい」と命じられますが、ユダヤ人たちは主イエスのお言葉を聞いても、理解できず、とどまることができません。すると、彼らにとって主イエスのお言葉は謎の言葉となりました。

 

 

 

3941節前半で主イエスは、ユダヤ人たちが「自分たちはアブラハムの子である」と誇りましたので、それに答えられて、次の3つのことを指摘されました。

 

 

 

1に、「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」と。第2に「あなたたちは、神から聞いた真理を」、すなわち、「あなたたちに語っているわたしを殺そうとしている」。第3に「あなたたちは自分の父と同じ業をしている」と。

 

 

 

旧約聖書の創世記1225章にアブラハムの生涯が記されています。その記事を読みますと、アブラハムの業とは、一言で「信仰」です。彼は生涯主なる神を信じ、信頼しました。

 

 

 

だから、主イエスはユダヤ人たちに「あなたたちがアブラハムの子孫なら、アブラハムと同じように、わたしの語る御言葉を信じ、わたしにとどまりなさい」と命じられたのです。

 

 

 

ところが、ユダヤ人たちは、アブラハムのように信じ、信頼するどころか、父なる神から遣わされた真理である主イエスを殺そうとしていました。

 

 

 

だから、主イエスは、ユダヤ人たちの殺意を指摘し、「あなたたちは、アブラハムの子ではなく、あなたたちの父は人殺しである悪魔だ」と言われました。

 

 

 

ユダヤ人たちは、主イエスのお言葉が理解できません。だから、彼らは、次のようにおかしな反論をしています。

 

 

 

41節後半です。自分たちは姦淫によって生まれた子ではなく、自分たちにはただ一人の父がおり、それは神であると。

 

 

 

このユダヤ人たちの反論は、説明の必要があります。彼らが「姦淫によって生まれた」と言っていますのは、異邦人のことです。サマリア人やギリシア人、そしてローマ人です。地中海世界のユダヤ人以外の人々です。

 

 

 

ユダヤ人たちは、異邦人は両親の淫らな性行為で生まれたと信じていました。だから、異邦人は宗教的に汚れており、ユダヤ人たちは異邦人との交際を禁じていました。

 

 

 

また、ユダヤ人たちは、「唯一の神を、自分たちの父として持っている」と誇っていました。彼らの系図を遡れば、人類最初の人アダムに至り、アダムは唯一の神が創造されましたので、ユダヤ人たちは「自分たちは唯一の神を父として持っている」と誇りました。

 

 

 

そこで主イエスは、ユダヤ人たちの誇りを逆手に取り、御自身が唯一の父なる神の子であり、父なる神から遣わされた者であること立証し、ユダヤ人たちが主イエスのお言葉を理解しないのは、彼らの父が唯一の神ではなく、人殺しで、偽りの悪魔だからだと指摘されました。

 

 

 

だから、主イエスは、ユダヤ人たちに言われました。「あなたたちはわたしが真理を語っても、わたしの言葉を理解せず、わたしを信じ、わたしのところにとどまらない。なぜなら、あなたたちは神に属していない者だからだ。神に属する者は、神の御言葉を聞き、わたしの言葉にとどまる」と。

 

 

 

主イエスとユダヤ人との関係を、ヨハネによる福音書は、キリスト教会の宣教とユダヤ人との関係に当てはめて、記していると思います。

 

 

 

仮庵祭に大勢のユダヤ人たちがエルサレム神殿に詣でて、そこで主イエスが語られる御言葉を聞きました。

 

 

 

神殿で真理を語られる主イエスは、彼らが自分たちは唯一の神を父として持っていると誇りました父なる神の独り子であられ、父なる神がこの世の人々に御自身を知らしめるために遣わされたお方です。

 

 

 

主イエスは、自分勝手にこの世に来られたのではありません。父なる神がこの世に、神に敵対するユダヤ人たちに遣わされたのです。

 

 

 

それなのに、ユダヤ人たちは主イエスが語られる御言葉を聞いて理解しないのです。その理由を、主イエスは、ユダヤ人たちに次のように指摘されました。

 

 

 

4447節で、第1に「あなたたちは悪魔である父から出た者たちである」。第2に「あなたたちは、わたしが真理を語るから、わたしを信じない」。第3に「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と。

 

 

 

主イエスと悪魔は、正反対です。ヨハネによる福音書は光と闇と表現し、主イエスはこの世で真理を語られ、悪魔はこの世で嘘を作り出し、撒き散らすのです。

 

 

 

主イエスが指摘された通りに、ユダヤ人たちは悪魔である父から出た者として、悪魔の欲望を、ゴルゴタの十字架の上で満たすことになります。

 

 

 

そのためにユダヤ人たちは自分たちの裁判で、ローマ総督ピラトの裁判で偽りを述べて、主イエスに死刑判決を下させました。

 

 

 

その裁判で、46節で主イエスが言われるように、ユダヤ人のだれが、主イエスに罪があると責め立てることができたでしょう。

 

 

 

47節で、主イエスは、御自身の御言葉を聞かないユダヤ人たちに、裁きを下されています。「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と。

 

 

 

 今朝の主イエスとユダヤ人たちの論争は、わたしたちにも当てはまるのではありませんか。

 

 

 

 仮庵祭に神殿で語られた主イエスは、今聖霊と御言葉を通して、この教会の礼拝に臨在されます。

 

 

 

 礼拝で御言葉を語る者は、自分勝手に語っているのではありません。主イエスが父なる神から聞いたことを語られたように、礼拝で御言葉を語る者も聖霊と祈りに導かれ、聖書の御言葉から主イエスの御声を聞きとり、主イエスの真理を語るのです。

 

 

 

 主イエスが遣わされた者は、主イエスの御言葉を語り、主イエスにあって父なる神に選ばれた者は、その御言葉に耳を傾けるのです。

 

 

 

 聖書やキリスト教の知識が浅く、礼拝に初めて来て、分かるということは難しいかもしれません。

 

 

 

 しかし、聞いていて、嘘がないことに気づかれるでしょう。神に敵対するこの世では、悪魔の本性に基づいて嘘が語られます。

 

 

 

 ところが、聖書の御言葉をよりどころとする説教は、決して嘘を語りません。キリストが真理を語られるように、聖書をよりどころにして神の真理を語ります。

 

 

 

 そこで、教会の礼拝の場で一つの悲しい事実に、わたしたちは出会うのです。主イエスが真理を語られたように、教会の礼拝で神の真理が語り続けられています。

 

 

 

 だが、神の御言葉を、神の真理を聞いても、主イエスを信じないユダヤ人たちがいたように、礼拝で神の御言葉を聞いても、主イエスを信じ、主イエスの御言葉にとどまらない者がいます。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、この難しい教会の現実を、主イエスの47節の御言葉で解決しました。

 

 

 

 教会には、神の見えない御手があり、父なる神は主イエスを通して、御自分の民を選ばれています。それゆえに父なる神に属する者は、主イエスが語られる御言葉を聞いて、主イエスを救い主と信じます。

 

 

 

 ところが、そうでない者は、いくら神の御言葉を聞いても、主イエスを自分の救い主と信じることはできません。

 

 

 

 もう一つ、難しい問題があります。教会は、神に敵するこの世にあります。ユダヤ人たちが神の民であるように、わたしたちはこの世でキリスト者であり、教会員です。

 

 

 

 神の民ユダヤ人たちの中に神に属する者とそうでない者がいるように、この世の教会の中にも神の属する者とそうでない者がいるのです。麦と毒麦が混在しているのが、この世の教会です。

 

 

 

 そこでヨハネによる福音書は、主イエスを通してわたしたちに一筋の希望の道を差し出しています。

 

 

 

 教会の礼拝で語られる神の御言葉を聞くという道です。十字架と復活の神の真理を聞くという道であります。

 

 

 

 主イエスの十字架の死によって、わたしたちは罪の奴隷から解放され、キリストの復活によりわたしたちは死から解放され、永遠の命が与えられました。

 

 

 

 この神の真理によって、わたしたちは神に敵するこの世から永遠の命の世界に至る希望の光を見いだしたのです。

 

 

 

 罪をただされない主イエス・キリストが罪多きわたしたちの身代わりに、あのゴルゴタの十字架で死なれたのです。

 

 

 

 この真理によって、わたしたちはこの世の罪人から、神の御国を継ぐ神の子とされました。

 

 

 

 そして、キリストが復活し、昇天され、今神の右に座されていることは、ここで神の御言葉を聞くわたしたちへの保証です。わたしたちの本国は天の御国であることの保証です。

 

 

 

 この喜びが、今語られる御言葉から理解できるなら、今聞いておられるあなたがたは、主イエスが言われる神に属する者、御国を継ぐ神の子なのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、

 

 

 

主イエスは、わたしたちに「神に属する者は神の言葉を聞く」と言われました。

 

 

 

主の日の礼拝でわたしたちが神の御言葉を聞くことの喜びを知らされて感謝します。

 

 

 

主イエスが語られる真理で、わたしたちは罪と死から解放され、自由を与えられた喜びを知りました。

 

 

 

同時に、主イエスが語られる真理、神の御言葉を聞く者に、御国を継ぐ神の子としての喜びが与えられていることを今朝は知らされ、感謝します。

 

 

 

この世は嘘偽りに満ち、デマがインタ―ネットを通して拡散し、真理を聞く者は少数の者です。しかし、主イエスは、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と約束してくださいました。

 

 

 

 

 

どうか、今朝御言葉を聞くわたしたちに、罪のこの世から永遠の命の世界につながる神の真理を理解させてください。

 

 

 

わたしたちが今朝の神の御言葉に支えられて、この一週間、一筋の希望の光の道を歩めるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 ヨハネによる福音書説教37       主の2017219

 

 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」

 

 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、死を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 

            ヨハネによる福音書第第84859

 

 

 

 説教題:「アブラハムの楽しみ」

 

 ヨハネによる福音書831節より主イエスが御自分を信じたユダヤ人たちとエルサレム神殿で論争されたことを、2回にわたって学んできました。

 

 

 

主イエスは、彼らに御自分が語る御言葉にとどまれと命じられ、そうするならば、彼らは御自分の弟子であり、真理である主イエスが彼らを自由にすると約束されました。

 

 

 

主イエスの御言葉を聞いたユダヤ人たちは、主イエスの御言葉を受け入れないで、反発しました。彼らは、アブラハムの子孫であり、誰の奴隷になったこともないと思っていたからです。

 

 

 

そこで主イエスは、彼らにさらに言われました。「アブラハムの子孫であれば、アブラハムと同じことをする」と。アブラハムは信仰の父であります。一生涯主なる神の御言葉にとどまりました。ところが、ユダヤ人たちは真理を語られる主イエスを殺そうとしていましたので、主イエスはユダヤ人たちに「あなたたちの父は悪魔であり、あなたたちは悪魔の欲望を満たそうとしている」と言われました。そして、主イエスの御言葉を彼らが聞き従わないのは、神に属する者ではないからだと宣言されました。

 

 

 

それに対して、ユダヤ人たちが反論したのが今朝の848節の御言葉であります。ユダヤ人たちは、主イエスの宣言に反発し、「お前はサマリア人で、悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然である」と言いました。

 

 

 

サマリア人は、ユダヤ人と異邦人の混血でありました。純粋なユダヤ人からは異端と思われていました。

 

 

 

どうしてユダヤ人たちは、純粋のユダヤ人である主イエスをサマリア人呼ばわりしたのでしょうか。

 

 

 

主イエスが語られる御言葉が聞きますユダヤ人たちの常識に合わなかったからです。主イエスの教えは、ユダヤ教のラビたちの主流の教えとは異なり、自己流であると思われたのです。そういう自己流の教えをする異端者に対してユダヤ人たちは、「サマリア人だ」「悪霊に取りつかれている」と悪口を言いました。

 

 

 

彼らが「お前は悪霊に取りつかれている」と非難した時、主イエスは御自分と父なる神の関係を明らかにし、御自分が父なる神と同等の敬意を払われなければならない存在であると告げられました。

 

 

 

主イエスは、父なる神の御子として、父を敬われました。しかし、ユダヤ人たちは主イエスを神の御子として敬いませんでした。また、主イエスは御自分から栄光をお求めになりません。なぜなら、父なる神が主イエスに栄光をお与えくださるからです。

 

 

 

ユダヤ人たちが主イエスに「お前は悪霊に取りつかれていると言うのは当たり前ではないか」と主張したことに対して、主イエスは「適格な判断をなすのは神である」と答えられ、その神、父なる神が御自分に栄光をお与えくださると言われました。

 

 

 

そして、51節で主イエスは、ユダヤ人たちに「アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」と宣言し、お約束されました。

 

 

 

ユダヤ人たちは、主イエスの御言葉を字義どおりに取りました。そして、彼らは、主イエスに言いました。「おれたちがお前は悪霊に取りつかれていると言ったことがはっきりした」と。

 

 

 

彼らは、主イエスの御言葉を、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わわない」と、主イエスが言ったと受け取りました。すなわち、ユダヤ人たちは、肉体が死なないと受け取りました。そして、彼らは、死ぬことのない人間がこの世にいるだろうかと、疑問を持ちました。アブラハムが死に、モーセやダビデ、そして多くの預言者たちも死にました。

 

 

 

ユダヤ人たちは、思ったでしょう。主イエスは狂人ではないかと。確かに悪霊に取りつかれた狂人だと。

 

 

 

ユダヤ人たちは、狂人を嘲るように主イエスに言いました。「お前は自分をアブラハムより偉いと思っているのか。お前は何者なのだ」。

 

 

 

54節で主イエスは、50節で言われたことを繰り返されて、次のように言われています。御自分の栄光をお求めになるのは神のみであり、御自身は栄光を求めないと。求めてもむなしいからと。

 

 

 

主イエスは、さらに次のように言われました。「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって」、ユダヤ人たちは「『我々の神である』と言っている」と。

 

 

 

主イエスは、御自分と父なる神の親密な関係を述べられ、父なる神がユダヤ人たちの神であることを明らかにされ、主イエスは父なる神の御言葉を守り行われていると、55節で言われています。

 

 

 

その父なる神は、主イエスが言われる50節の「わたしの栄光を求め、裁きをなさる方」です。主イエスをゴルゴタの十字架に導き、そこで人類の罪を裁かれる父なる神のことです。

 

 

 

その父なる神を主イエスは知っておられます。常に父なる神と交わり、その御声に従っておられます。

 

 

 

そして、主イエスのお考えでは、父なる神がすべての人間を正しく裁かれる御業の中心に御自分が父なる神に与えていただいた栄光があります。

 

 

 

そして、主イエスはユダヤ人たちに言われました。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだのである」と。

 

 

 

ユダヤ人たちは、主イエスの御言葉に疑問を持ちました。50歳にならない者がどうしてアブラハムを見ることができるのかと。

 

 

 

ユダヤ人たちのように主イエスの御言葉を、文字通りにしか理解しない者にとって、主イエスのお言葉は謎であります。狂人のたわごとでありましょう。

 

 

 

しかし、旧約聖書の創世記1225章のアブラハムの生涯を読まれ、ヘブライ人への手紙11816節を読むならば、主イエスの言われたことは、真理ではないでしょうか。

 

 

 

アブラハムの地上の生涯は、主なる神の御言葉にとどまり、キリストが来られる日を喜び待ち望む生涯でありました。2000年昔に生きた人でしたが、「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」ました。

 

 

 

人生の楽しみとは、わたしたちの生き甲斐であります。アブラハムは、彼の生涯においてキリストがこの世に訪れられる日を望み見て、彼の人生の生き甲斐としていたのです。

 

 

 

主イエスは、その喜びを、主イエスの御言葉に反発するユダヤ人たちと一緒にしたかったでしょう。

 

 

 

だから、ユダヤ人たちが「お前がアブラハムを見たというのは変だ」と言いましたので、主イエスは58節で彼らに言われたのです。「アーメン、アーメン、わたしは言う、アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と。

 

 

 

昔、主なる神は、モーセに「わたしはある。」「わたしは有るという者」であることを紹介されました。ユダヤ人たちは、旧約聖書の神が御自分を「わたしはある」と言われたことをよく知っていました。だから、主イエスが、今彼らの目の前で「わたしはある」と宣言されたので、彼らは主イエスの冒涜の言葉に怒り、主イエスに石を投げつけようとしました。

 

 

 

主イエスは彼らから身を隠され、神殿の境内から出て行かれました。こうして主イエスとユダヤ人たちの論争は終わりました。

 

 

 

さて、今朝の御言葉からわたしたちは、何を見るのでしょうか。何か発見できることがありますか。

 

 

 

わたしは、今朝の御言葉を聞いていて、主イエスがアブラハムの時代に「わたしはある」というお方であり、ヨハネによる福音書が証しする十字架の主イエスが「わたしはある」というお方であり、そして、今ここで御言葉を聞き、この教会にいるわたしたちにとっても、主イエスは「わたしはある」というお方であることを発見しました。

 

 

 

主イエスが「わたしの言葉にとどまれ」と命じられるのですから、わたしたちはこの教会の礼拝に生涯とどまろうではありませんか。ここに主イエスが常に「わたしはある」というお方として、わたしたちと共にいてくださるからです。

 

 

 

そして、主イエスを通して、神に敵対するこの世に、闇の世に、罪と死が支配する世界に、永遠の命が訪れたという、ヨハネによる福音書は福音を聞こうではありませんか。

 

 

 

 その命は、アブラハムの生まれる前から「わたしはある」という神の命であり、主イエスの御言葉にとどまるならば、与えられる命です。

 

 

 

 わたしたちは、礼拝の中で使徒信条を唱えます。そこでわたしたちの教会に、わたしたちの聖徒の交わりの中に罪の赦しと体の甦りと永遠の命を信じております。

 

 

 

 教会は、主イエスと共にある命を、永遠の命として信じております。主イエスがわたしたちと共にいてくださるという命こそアブラハムが彼の生涯の喜びとし、楽しみとしたものであり、わたしたちも自分たちの生涯の喜びとし、楽しみとしたいと願う者です。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、

 

 

 

主イエスは、わたしたちに「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」と約束してくださいました。

 

 

 

わたしたちは、この肉体がこの世で永遠に生きることを願う者ではありません。願わくば、罪のこの世を離れ、主イエスと共に永遠の御国で生きることを許してください。

 

 

 

主イエスが十字架に死なれ、死人の中から復活することで、父なる神は主イエスに栄光を賜りました。そして、その栄光によって、わたしたちは罪と死から解放され、主イエスと共に永遠に生きる喜びを与えられました。

 

 

 

どうか、今朝御言葉を聞くわたしたちに、この後ティータイムで御言葉の恵みを分かち合える機会をお与えください。

 

 

 

また、わたしたちが今朝の神の御言葉に支えられて、アブラハムのように生涯の喜びと楽しみをお与えください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教38     主の201735

 

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」。

 

こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗になった。そして、「シロアム―『遣わされた者』という意味―の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う人もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 

            ヨハネによる福音書第第9112

 

 

 

 説教題:「主イエス、盲人をいやす」

 

 これまでヨハネによる福音書714節から859節まで、主イエスが仮庵祭の間エルサレム神殿でユダヤ人たちと論争されたことを学んできました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスとユダヤ人たちとの論争を通して、主イエスが主なる神であることを伝えようとしました。すなわち、ヨハネによる福音書は紀元1世紀末の初代教会が当時のユダヤ人たちに伝えていた福音宣教を背景に、エルサレム神殿での主イエスとユダヤ人たちとの論争を記しました。そして、主イエスがユダヤ人たちに「自分は主なる神と同等である」と言われて、彼らに石を投げられ、殺されそうになられたと同じように、初代教会のキリスト者たちもユダヤ人たちに「キリストは主なる神である」と宣教し、彼らから迫害を受けていたのです。

 

 

 

 今朝よりヨハネによる福音書の第9章の御言葉を3回に分けて学びましょう。

 

 

 

 859節で主イエスはユダヤ人たちに殺されそうになられたので、身を隠されて、エルサレム神殿の境内から出て行かれたと記されています。

 

 

 

 主イエスは、弟子たちと共にエルサレム神殿を去られて、エルサレムの城内を神殿から向かって南に歩かれている途中、91節に記しているように、「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」のです。

 

 

 

 「主イエスは通りすがりに、その盲人を見かけられた」という表現は、わたしにはとても不思議な言葉に思えます。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、主イエスと生まれながら目の見えない人の出会いを記しています。そして、わたしたち読者に伝えています。

 

 

 

 そのお話のどこが、わたしは不思議に思えたかと言いますと、主イエスは今弟子たちとエルサレムの城内を歩かれています。そこで主イエスはこの盲人と出会われました。その出会いは、今通りすがりにという出来事でしたのに、既に主イエスが過去にこの盲人をご覧になっていたのです。

 

 

 

 先月、わたしは初めて松本で開かれた説教塾に参加しました。超教派の牧師たちが7人集まり、説教の研鑽をしました。そこで3人の牧師たちが同じ聖書箇所から教会の礼拝でした説教の録音を聞き、説教の完全原稿を渡されて、それぞれの牧師の説教の印象から始めて、批評をしました。

 

 

 

 3人の牧師たちは、ルカによる福音書の有名な「徴税人ザアカイ」のお話を説教しました。主イエスがエリコの町に入られたことを聞いたザアカイが一目主イエスを見ようと、イチジク桑の木に登ります。すると主イエスが通りすがり、ザアカイを見上げて、「今日、あなたの家に泊まることにしている」と言われました。主イエスとザアカイは初対面でしたのに、主イエスは既にザアカイと彼の家族をよく御存知でした。

 

 

 

 今朝のヨハネによる福音書の91節を読み、わたしは主イエスとザアカイとの出会いを思い起こしました。同時にわたしが初めて宝塚教会の礼拝に出席した日のことを思い起こしました。

 

 

 

 わたしと主イエスの出会いは、本当に主イエスが通りすがりに、牧師の説教を通して出会ってくださったのです。宝塚教会の礼拝がわたしにとって人生で初めての教会体験でした。そこで初めてキリスト教の礼拝を体験しました。山崎順治牧師の説教を聞き、今朝と同じように聖餐式がありました。献金にまごつき、出そうとしたら、献金袋は後方に回されていました。思い出すたびにちょっと恥ずかしい体験でしたが、「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」ように、初めて宝塚教会に出席したわたしと、既に出会ってくださっていたと思うのです。

 

 

 

 主イエスがいつわたしと出会ってくださっていたのかと、誰かに問われても、わたしは言葉に窮するのですが。わたしが教会の礼拝で初めて主イエスに出会った時、主イエスは既にザアカイやこの盲人のようにわたしを知っていてくださったと思うのです。きっと、これはわたしだけの体験ではなく、多くのキリスト者たちが体験していることだと思います。

 

 

 

 さて、主イエスと生まれつき目の見えない人との出会いが、思い掛けない出来事へと発展したのが、主イエスが盲人の目をいやされたという奇跡の出来事であります。

 

 

 

 そのきっかけは、主イエスと弟子たちとの問答にありました。弟子たちが主イエスに、次のように質問しました。「生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからか、それとも彼の両親が罪を犯したからか」

 

 

 

 どこの国でも、いつの時代でも人は因果応報ということを考えるものです。

 

 

 

わたしたちの日常でも同じです。その人が病気になり、不幸になったのは、その家が祟られているからだと、あやしげな祈祷師が高い祈祷料を取るということが後を絶ちません。

 

 

 

 主イエスは、因果応報という誤った考えを否定されました。そして主イエスは、「神の業がこの人に現れるためである」と宣言されました。

 

 

 

 主イエスは、知っておられました。この生まれつき目の見えない人を。通りすがりであろうと、主イエスはこの盲人に出会い、生まれつき見えない目を癒されることを。それが父なる神の御心であると。

 

 

 

「神の業」とは、主イエスを通して、父なる神の御心がなされることです。

 

 

 

 4節の「わたしたちは」は、主イエスと同行する弟子たちです。弟子たちも知っていたのです。「神の業」は、父なる神がこの世に遣わされた主イエスを通してなされることを。それが、この盲人の目をいやすという奇跡でした。

 

 

 

「まだ日のあるうちに」とは十字架の日までということです。なぜなら、「だれも働くことのできない夜が来る」からです。主イエスがユダヤの官憲に捕えられ、十字架刑で殺され、墓に葬られることを、この「夜」が暗示していると思います。

 

 

 

 ですから、主イエスは、「この世に生きている間、父なる神と一緒に働かれて、生まれつき目の見えない人の目をいやす。わたしはこの世に生きている限り、この世の光である」と言われました。

 

 

 

 主イエスは、永遠から人の命の光で、闇のこの世に輝かれています。特に生まれつき目が見えない人の目を父なる神と共に癒されるとき、輝いておられるのです。

 

 

 

 67節で、どのように主イエスが生まれつき目の見えない人の目をいやされたか、詳しく記しています。主イエスは、御自分の口から唾を地面に吐いて、唾で御自分の粘土を作られ、その人の両目の上にまるで薬を塗るように御自分の粘土を塗られました。

 

 

 

そして、主イエスは彼にシロアムのため池に行って、洗いなさいと命じられました。

 

 

 

旧約聖書の列王記下2020節にヒゼキヤが水道工事したことを記しています。全長500メートルで、エルサレムの城壁外のギホンの泉から、城壁内のシロアムのため池まで水を引きました。

 

 

 

盲人は、シロアムのため池で顔を洗い、目の上の粘土を洗い流すと、目が見えるようになりました。

 

 

 

812節でいやされた盲人が家に帰ると、近所の人々がいろんな反応を示したことを、ヨハネによる福音書は記しています。

 

 

 

いやされた盲人は、近所の人々に自分は生まれつき目が見えなかった本人であることを証言し、イエスが癒したと言いましたが、彼自身が主イエスを知りませんでした。

 

 

 

エルサレム神殿での主イエスとユダヤ人の論争と同様に、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスが生まれつき目の見えない人をいやされたことを通して、主イエスが父なる神から遣わされた者であり、世の光であることを知らせようとしています。

 

 

 

そして、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者を主イエスにいやされた盲人の信仰の証しに注目させます。彼は、主イエスを知らない状態からユダヤの会堂を追い出されても、主イエスを人の子と告白するまで、信仰が成長します。

 

 

 

それは、先のことです。今朝は聖餐式がありますので、そのことに関係して、今朝の御言葉を思い巡らせましょう。

 

 

 

わたしは、主イエスと出会いは一期一会だと思います。一回限りの出来事です。ザアカイと主イエスの出会いも主イエスとこの盲人との出会いも、一期一会でした。

 

 

 

その出会いで、主イエスがわたしにしてくださったことは、生まれながらに罪人で、この世の事しか目に見えないわたしの目を、牧師の説教を聞くことで、開いて下さったのです。主イエスは、御自分が遣わされた父なる神がいます永遠の世界を見せてくださいました。今見ている世界だけが、わたしの見える世界ではありません。世の光である主イエスが、見せてくださる永遠の世界があります。

 

 

 

主イエスは、「誰も働くことができない夜が来る」と言われています。わたしは、自分の死の時を幼い頃から恐れておりました。真っ暗闇で、自分が一人ぼっちになることを恐れていました。その恐れがどこから来るのか、まさに罪によって自分が神から背を向けているからだと、聖書から教えられました。

 

 

 

わたしたちに必ず夜が来ます。死という夜です。死ねば、わたしたちが見ている通りです。何も人はできません。働けなくなり、火葬に付され、墓に納められます。その時にわたしは誰に迎えに来ていただきたいのだろうと思います。

 

 

 

死んで甦られた主イエス・キリスト以外にありません。だから、わたしたちは、今生きている間、主イエスをわたしたちのキリストと信じて、この教会の礼拝を守り続け、説教を聞き続け、聖餐式にあずかり続けようではありませんか。

 

 

 

主イエスのように、昼の間、この世に生きている間に、わたしたちもしなければならないことを一緒にしようではありませんか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、

 

 

 

今朝わたしたちは、主イエスが生まれつき目の見えない人と出会われ、彼をいやされた奇跡を学びました。

 

 

 

わたしたちも、この教会の礼拝で、ザアカイやこの盲人のように、エマオの途上で復活の主イエスに出会った二人の弟子のように、主イエスに出会うことが許されて感謝します。

 

 

 

どうか、この盲人のように、わたしたちの目を開いてくださり、耳を開いてくださり、主イエスと共に永遠の御国で生きる喜びを見させ、聞かせてください。

 

 

 

この世に生きるわたしたちは、人の子となられた主イエス同様に、夜が来て働けなくなります。

 

 

 

どうか、この後にあずかる聖餐式で、わたしたちの信仰の目を。主イエスが十字架に死なれ、死人の中から復活されたことに注目させてください。

 

 

 

主イエスの十字架と復活の栄光によって、わたしたちが罪と死から解放され、主イエスと共に永遠に生きる喜びを与えられたことを、心から感謝させてください。

 

 

 

また、わたしたちも、この盲人のように主イエスを証しするに力無きものですが、聖霊と神の御言葉に支えられて、信仰の成長が与えられ、キリストを力強く証しすることができるようにお導き下さい。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 ヨハネによる福音書説教41    主の201742

 

 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 

           ヨハネによる福音書第第1016

 

 

 

 説教題:「羊飼い主イエス」

 

 今朝よりヨハネによる福音書10章の御言葉を3回に分けて説教したいと思います。

 

 

 

 人に性格があるようにヨハネによる福音書にも性格というものがあります。すなわち、この福音書は生前の主イエスを記しながら、同時にこの福音書が書かれた紀元90年代に教会の主として臨在された主イエスを記しています。そして、今この上諏訪湖畔教会に臨在される主イエスを記し、わたしたちが待ち望んでいます再臨の主イエスをも重ね合わせて証言してくれています。だから、キリストの裁きは今であると、この福音書はわたしたちに告げているのです。

 

 

 

生前の主イエスが語れた御言葉を、90年代の初代教会のキリスト者たちが聞き、そして、今わたしたちが聞き、そして今わたしたちが聞いているお方が再臨の時に顕現される「来るべきお方」であると、この福音書は初めから終わりまで証言し続けているのです。それが、この福音書の性格であります。

 

 

 

さて、ヨハネによる福音書の10章は、78章のエルサレムにおける主イエスとファリサイ派の人々との論争の続きであります。この論争で、ファリサイ派の人々は、主イエスの御言葉を理解せず、主イエスを拒み、殺そうとします。

 

 

 

同じようにこの福音書が書かれた時代、90年代の初代教会はユダヤ人たちに宣教しましたが理解されませんでした。彼らは福音宣教を拒むだけでなく、主イエスのようにユダヤ人キリスト者たちを迫害したのです。

 

 

 

今朝はヨハネによる福音書第1016節の御言葉を学びましょう。見出しに「『羊の囲い』のたとえ」とあります。

 

 

 

主イエスの御言葉は、この福音書の時代の教会の宣教の言葉でした。

 

 

 

15節の御言葉を、主イエスはファリサイ派の人々に、おそらくエルサレムで語られました。そして、主イエスの御言葉を聞いた弟子たちは、主イエスの御言葉を初代教会で説教したでしょう。そして、使徒たちから聞いた主イエスの言葉を、初代教会はユダヤ人たちに宣教しました。そして、主イエスの御言葉を、ファリサイ派の人々が理解できなかったように、初代教会が語りました主イエスのメッセージをユダヤ人たちは理解しませんでした。

 

 

 

15節の主イエスのお言葉は、ユダヤ人たちにとって決して難しい話ではありません。むしろ、ユダヤ人たちの日常生活から題材をとったお話です。ユダヤ人たちは、羊飼いの生活をよく知っています。

 

 

 

朝早く、良き羊飼いたちは、自分に委託された羊の群れを主人の設けた囲いから連れ出し、丘々の青草を食べさせ、運動をさせ、また清い水の流れに、あるいは井戸に導いて、羊たちの渇きをいやし、夕方間違いなく、主人が設けた囲いに連れ帰るのです。これが、パレスチナの羊飼いの一日の労働であり、責任でした。

 

 

 

ユダヤ人たちは、パレスチナの羊飼いと彼らの日常をよく理解していたでしょう。羊の群れを守る囲いには入り口は一つしかありませんでした。主人に雇われた羊飼いは、その入り口、門を通って堂々と委託された羊の群れを連れ出しました。

 

 

 

羊飼いは羊一匹々に名前を付けて、大きな声で呼びかけ、連れ出しました。そして、彼は羊の群れの先頭に立って歩みました。

 

 

 

それゆえ囲いの入り口である門から入らないで、囲いの他の塀を乗り越えて、羊の群れに近づく者は、羊を盗む盗人、強盗でした。囲いの塀の高さは、人の背丈ほどでしたから、盗人は容易に越えられたでしょう。

 

 

 

榊原康夫先生の説教を読みますと、説教の初めに19世紀の旅行家でしょうか。モートンという人が書いた『主の御跡を踏んで』というイスラエル旅行記を紹介されています。

 

 

 

主イエスが羊の群れは良き羊飼いの「声を聞き分ける」と言われていることを、モートンが旅行記で実際に証明したという話を、榊原先生はなさっています。

 

 

 

これ以上榊原先生の説教を話せませんが、読んでいて印象に残りましたのは、羊飼いたちが、いろんな声音で自分の羊たちを呼び寄せ、その声を聞いた羊の群れたちは丘のどんなところにいても、羊飼いが呼びかけた方向に向かって走って行くという話です。ある羊飼いはターザンのような大きな声で羊の名を呼びかけていたそうです。

 

 

 

ユダヤ人たちは、羊飼いたちの日常を知っていただけではありません。ユダヤ人たちは、旧約聖書の中に主なる神と神の民イスラエルの関係が羊飼いと羊の関係に喩えられているのをよく知っていました。

 

 

 

わたしたちもすぐに詩編23編を思い起こします。「主は牧者、我に乏しきことあらじ」と。詩編は他にもたくさん主なる神と神の民イスラエルの関係を、羊飼いと羊の群れに喩えています。預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエルもこの喩えを用いています。

 

 

 

だから、ユダヤ人たちに、主イエスの御言葉が分からないはずはありません。

 

 

 

しかし、この福音書はわたしたち読者に6節で、「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」と伝えています。

 

 

 

わたしは、こう考えます。この6節は、94041節の御言葉と何らかの関係があるのではないでしょうか。

 

 

 

主イエスは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」(9:39)と言われました時、それを聞いていたファリサイ派の人々が「我々も見えないということか」と言いましたので、主イエスは言われました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と。

 

 

 

その罪が残っているので、彼らは主イエスのたとえを全く理解できなのです。罪が残る者とは、聖書では高ぶる人のことを言います。

 

 

 

その者には、この福音書が語ります。受肉のキリストは見えません。言であり、神の独り子がこの世に肉体を取って宿られた神の恵みが見えません。

 

 

 

囲いは、罪のこの世界です。この世界は父なる神が御子キリストを通して創造されました。その囲いの羊の群れは、わたしたちです。主イエスは、その囲いの門を通って、羊の所に来られた羊飼い主イエスです。

 

 

 

わたしは、バックストン宣教師の『ヨハネ福音書講義』も素晴らしい説教であると思い、読み、この説教の準備に使っています。

 

 

 

バックストン宣教師の聖書理解は霊的解釈と言われることがあります。しかし、聖書を聖書から理解するという先生の立場は、わたしたちと異なりません。

 

 

 

先生は、囲いに入る羊飼いを、人の子となられたキリスト、主イエスと理解されています。良い羊飼いである「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり人間と同じ者となられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:68)

 

 

 

主イエスが語る羊飼いは、囲いである罪のこの世に入られ、羊と同じになられました。罪人であるわたしたちと同じ人間になられました。

 

 

 

囲いの他の塀から入ろうとする盗人と強盗とは、主イエスの話を聞いて理解しないファリサイ派の人々です。ファリサイ派の人々は主イエスと正反対でした。彼らは己を高くし、自分たちの律法への知識と熱心を誇り、神の貧しい羊たちを、すなわち、羊飼いたち、徴税人たち、売春婦たち、罪人たち、障碍者たちを、神から遠ざけようとしました。

 

 

 

しかし、主イエスは神の独り子であられたのに、かえってわたしたちと同じ人間となられ、羊飼い、徴税人、売春婦、罪人、障碍者たちの仲間になられました。

 

 

 

門番は、「羊飼いには門を開」かれました。主イエスは、その門を通られました。それを、ヘブライ人の手紙は、91112節で次のように記しています。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」。

 

 

 

バックストン宣教師は、羊飼いが入る門について、そして、羊飼いがその門を通ってわたしたち羊を、この世の囲いから連れ出してくれる喜びを、次のように説教されています。

 

 

 

「主は御自分の血をもってひとたび聖所にはいってくださいました。ですから、羊がどのような門によって天国に入るかというと、主の血の門を通ってです。主は同じ門から罪人を天国に導いてくださいます。この門は、すなわち、主イエスの血です。」

 

 

 

バックストン宣教師は、3節の門番は聖霊なる神であると言われています。

 

 

 

聖霊は、人の心の扉を開かれるお方です。門番である聖霊は、主イエスの血によってわたしたち罪人に開かれた救いの道をお示しくださるだけではありません。聖霊は、わたしたちの心の扉を開かれ、わたしたちに救い主の御声を聞き分けることができるようにしてくださるのです。

 

 

 

わたしは、囲いを、この世と理解しますが、主イエスの時代のユダヤ人たちはモーセ律法と理解したでしょう。旧約聖書の神の民イスラエルは、出エジプトの時、シナイ山で主なる神から十戒を与えられ、その律法が彼らを守りました。

 

 

 

しかし、主イエスの時代には、そして、初代教会と今のわたしたちにも律法の囲いは、わたしたちの罪の足かせになっています。律法がわたしたちに「むさぼるな」と命じなかったら、わたしたちはむさぼりの罪を知り得なかったからです。

 

 

 

主イエスは、御自身の十字架の贖いによりわたしたちを律法の囲いから連れ出してくださり、先頭に立ってわたしたち罪人を天国に導いてくださっています。

 

 

 

来週から受難週に入り、その次の日曜日にイースターを迎えます。復活の主イエスは、毎週日曜日の礼拝に御臨在くださり、牧師の説教を通して、御自身の御声を語られておられます。

 

 

 

それは、牧師の語っていることに従っておればよいという意味ではありません。わたしたちは、祈りによって聖霊に、「あなたの御声を聞かせてください」と祈り、礼拝の説教に、そして、今朝の聖餐式にあずかることが大切だと思うのです。

 

 

 

そこで、わたしは復活の主イエスと共に、今永遠の命の中を歩んでいる、主イエスがわたしの先頭に立ち、わたしを天国へと導いてくださっていると、信じることができること、それが、主イエスが4節で「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」と言っておられることです。

 

 

 

復活主イエスは、わたしたちに受難と復活のこの季節に、教会の礼拝の説教と聖餐式を通して、次のようにお勧めくださるのです。どうか、今わたしの御言葉の豊かさに、あなたがたはこの世を越えて永遠の世界を楽しみ、喜んでわたしが先頭に立って導く天国についてくるのだと。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書1016節の御言葉から「羊飼い主イエス」について学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

どうか、御霊よ、わたしたちの心を開き、今朝の主イエスの御言葉を信仰をもって理解させてください。

 

 

 

罪と死のこの世に囲まれた世界の中で、いろいろな人々が、いろいろな宗教と思想で、わたしたちに魂の救いを与えると言いますが、ヨハネによる福音書を通して、主イエスはわたし以外に救いのないことを、主イエスの十字架と復活以外にわたしたちがこの罪の世から贖われて、永遠の世界である神の御国に入れる道のないことを教えられました。

 

 

 

どうか毎週の主の日の礼拝を通して、わたしたちに御言葉と聖餐を通して、主イエスの御声を聞かせて下さり、先頭に立ち、わたしたちを御国に導かれるキリストについて行くことができるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。