ヨハネによる福音書説教10         主の2016年4月10日

 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさいと言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなた良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちトカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
                  ヨハネによる福音書第2章1-12節

 説教:「カナの婚礼―最初のしるし―」
 今朝よりヨハネによる福音書の第2章に入ります。

 さて、2章に入る前に、少し復習をしましょう。ヨハネによる福音書は、1章19節から2章12節で、1週間の出来事を記しています。この一週間は、イエス・キリストが救い主であることを指し示す証しの一週間であります。

  第一日は19-28節です。ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネとエルサレムのユダヤ人たちとの問答を記しています。ヨハネは自分がメシアではないと告白しました。彼はユダヤ人たちに「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と証言しました。ユダヤ人たちが「メシアでも預言者でもなければ、なぜ人々に水で洗礼を授けているのだ」と問うと、彼は「わたしの後からメシアが来られる。その方は聖霊で洗礼を授けられる。その方に比べるとわたしは何の価値もない」と答えました。第二日は29-34節です。翌日にヨハネは、主イエス・キリストに出会いました。彼は主イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証ししました。「神の小羊」は、過越の祭で犠牲としてささげられる動物です。旧約聖書のイザヤ書53章では、主の受難のしもべを表しました。黙々と神の刑罰を神の民に代わって受けて死んで行く受難のしもべが神の小羊です。ヨハネはキリストを見て、彼の後から来るメシアが受難のしもべであることを証ししました。第三日は35-40節です。ヨハネが彼の二人の弟子たちと一緒にいたとき、主イエス・キリストを見て、「見よ、神の小羊」と証ししました。二人の弟子たちは主イエスの後について行き、主イエスの最初の弟子となりました。その一人がペトロの兄弟アンデレです。第四日は41-42節です。アンデレが兄弟のシモン・ペトロを主イエスのところに連れて行き、主イエスはシモンをケファと名付けて弟子とされました。第五日は43-51節です。主イエスはフィリポに出会い、彼を弟子にされ、フィリポはナタナエルを主イエスのところに連れて行きました。主イエスは、出会う前のナタナエルが何をしていたか言い当てられ、ナタナエルは主イエスを神の子、イスラエルの王と告白し、弟子になりました。
 
  2章1節の「三日目に」とは、フィリポとナタナエルが主イエスに会って、弟子となった日から「三日目」にということです。第六日については、ヨハネによる福音書は沈黙し、第七日に主イエスがガリラヤのカナで婚礼があり、そこで最初のしるし、すなわち、水をぶどう酒に変えられた主イエスの奇跡を記しています。
 
 2章から12章までが、この福音書の第2部です。主イエス・キリストの「しるしによる活動」を記しています。主イエスの公の生涯が、ガリラヤでの活動で始められ、エルサレムに上られて、受難の道を歩まれるために、王としてエルサレムの町に入城されるまでを描いています。

 ヨハネによる福音書は、決まった形で物語を順序立てて記しています。まず具体的な事件があります。今朝のところでは、カナの婚礼で、祝宴の途中でぶどう酒がなくなったという事件です。その事件に伴って主イエスは、具体的な人物と対話をされます。ここでは主イエスの母マリアです。次に対話の相手の愚かな質問ないし応答を通して、主イエスがメシアであり、神の子・人の子であることが、主イエスのモノローグとして語られるという決まった形で、主イエスのしるしによる活動が次々に記されています。

 ガリラヤのカナの婚礼は、その場に主イエスの母がおり、主イエスと彼の弟子たちも招かれたところを見ると、親戚の結婚式だったのでしょう。貧しい者たちの結婚式だったと思います。披露宴の途中でぶどう酒が足りなくなるという事件が起こるほどですから。

 祝いの席でぶどう酒がなくなることは、大失態でした。なぜなら、祝宴がしらけてしまい、宴会の喜びが途中で終わることになります。結婚式に客を招いた花婿にとっては、一生の不名誉でしょう。

 だから、母は主イエスに助けを求めて、「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。

 主イエスのお答は、ちょっと冷たく感じます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時は来ていません。」

 わたしは、次のように思います。主イエスのお言葉は、母の願いを拒むものではなかったと。主イエスは、母の執り成しがなくても、御自分から進んで、御自分の自由意思で、花婿と花嫁の困窮を救おうとされたと思うのです。

  「わたしの時は来てはいません」とは、神が定められたキリストの働くべき時であります。この福音書ではキリストの栄光の時として描かれています。すなわち、主イエスが十字架に上げられる時、復活される時、天に上げられる時、そして、聖霊が与えられる時です。
 
  母マリアは主イエスを信頼し、すべてをゆだねました。天使ガブリエルに神の子を宿したことを告げられたマリアは、お告げの通りにこの身に成りますようにと従順に従いました。ここでも同じです。彼女は、召し使いたちに主イエスが指示する通りにするように命じました。
 
  ユダヤ人たちは、清めに用いる水を石のかめに用意していました。食事の時に手を洗い、また体を清めるために用いていたのでしょう。祝宴に招かれた多くの客たちが、清めの水を用いるので、石のかめが6つ置かれていたのでしょう。主イエスは、清めに用いられて空になっている6つの石のかめに水を一杯に満たして、宴会の世話役のところに持って行くように召し使いたちに命じられました。
 
  世話役は、石のかめに入ったぶどう酒がどこから来たのか知りませんでした。彼は、水がぶどう酒に変わっていることを知らないで、味見しました。召し使いたちは知っていましたが、何も話しませんでした。世話役は、花婿を呼んで、彼を誉めました。普通、世の人は、最初に良いぶどう酒を出し、酔いが回るころになると質が落ちるものを出すのに、花婿は最上のぶどう酒を今まで取って置いたからです。
 
  主イエスは、最初のしるし、すなわち、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われて、御自身が受肉した神の子である栄光を現されました。
 
 キリストの最初のしるしは、水をぶどう酒に変える奇跡でした。ヨハネによる福音書は、「イエスは、最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」と証ししていますね。このしるしは、聖霊に導かれなければ、わたしたちは信じることができません。聖書の奇跡は、聖霊に導かれた信仰だけが受け入れることができるものです。主イエスは、水をぶどう酒に変えられたのですが、聖霊を通して「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」という神の啓示を信じることができなければ、信じることはできません。

 聖餐式の時に、手渡されるパンとぶどう酒を、わたしたちは聖霊の導きにより、信仰によってキリストが十字架で裂かれた体、流された血として受け取るのです。実際にパンがキリストの体に、ぶどう酒がキリストの血になるわけではありません。しかし、わたしたちは主イエスの弟子たちのように主イエスを信じて、パンをいただき、ぶどう酒を飲むとき、キリストが十字架で死なれたのは、彼が世の罪を取り除く神の小羊として、わたしたちの罪の身代わりになられたからだと信じるのです。そして、今、わたしたちはキリストのゆえに神に罪を赦され、永遠の命にあずかることができたことを喜ぶのです。

  お祈りします。
 
 イエス・キリストの父なる神よ、桜の花が咲き、信州も春を迎えました。イースターの祝福にあずかり、復活の命に生きる喜びを与えられ、感謝します。

 今朝の御言葉を通して、主よ、あなたのしるしを信じる信仰を与えられ、感謝します。水をぶどう酒に変えられた主イエスよ、どうかわたしたちを聖霊に満たし、わたしたちが聖餐の食卓にあずかるごとに、パンとぶどう酒をいただき、わたしを、わたしに代わって十字架にかかられたイエス・キリストの栄光を仰がせてください。

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教11         主の2016年4月17日

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売るものたちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
                  ヨハネによる福音書第2章13-22節

 説教:「三日で神殿を建て直す」
 ヨハネによる福音書は、1章から12章までが第1部です。受肉の主イエス・キリストが世に対して、すなわち、ユダヤ人たちにしるしによって公に父なる神を知らしめ、御自身が子なる神であることを証しし、啓示の業をなされています。

  そこで注目すべきことがあります。ヨハネによる福音書が主イエスのガリラヤからエルサレムへの都上りを3度記していることです。マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書は、それを1回限りしか記していません。
 
  ヨハネによる福音書は、今朝の2章13節の御言葉から4章まで主イエスの第1回の都上りを記し、5章から7章7節まで、第2回目を記し、そして7章10節から20章29節まで、第3回目を記しています。
 
  今朝の第1回のガリラヤからエルサレムへの都上りは、ユダヤ人の祭の一つ、過越祭が近づいたころに行われました。この祭は、ユダヤ人の先祖たちがエジプトを脱出したことを記念する彼らの祝祭でありました。ちょうど、わたしたちの教会がイースターの祭を祝う頃に祝われました。
 
   ヨハネによる福音書が描く主イエスは、好んで多くのユダヤ人たちが集まる祭に姿を現されています。そして、主イエスは多くのユダヤ人たちの前で、公然と語られ、御自身が「父なる神」に遣わされた神の子であり、人の子であることを証しされます。
 
  後に主イエスがユダヤ人たちに捕らえられ、大祭司の前で裁判にかけられたとき、主イエスは大祭司に向かって「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。」(ヨハネ18:20)と証言されています。
 
  公然と、誰もが見ている前で、父から遣わされた受肉のキリストは、神の啓示者として、しるしを行い、ユダヤ人たちに御自身がメシアであることをお語りになりました。
 
   主イエスは、都に上られ、エルサレム神殿に行かれました。そこで主イエスがユダヤ人たちの前で公然となされたのは、宮清めでした。すなわち、主イエスは鳩を売る者たちに16節でエルサレム神殿を「わたしの父の家」と呼ばれています。エルサレム神殿は、主イエスにとって彼の父なる神の家でありました。そして、父なる神は、ユダヤ人たちに旧約聖書のモーセ律法を通して「わたしは聖である。だから、あなたがたも聖となれ」と命じられていました。
 
  ところが、ユダヤ人たちはエルサレム神殿でこの世の商売をしていました。過越祭でエルサレムの都に巡礼に来た者たちに礼拝で献げる犠牲の動物を売り、献金のお金を両替し、利益を得ていたのです。
 
  そこで主イエスは、縄で鞭を作られ、犠牲の動物である羊や牛、そして鳩を神殿の境内から追い払われ、両替の商売をしていた商人たちの台を倒して、金を地面に散らされました。そして、主イエスは、商売している者たちに、犠牲の動物や両替の金を神殿から運び出せと命じられました。神殿は、神に祈り、神を礼拝する場であって、商売をする場所ではなかったからです。商売で、聖なる神のいます所を汚していたからです。
 
  ショッキングな事件でした。ヨハネによる福音書は、主イエスが復活された後に、この事件を旧約聖書の詩編69編10節のメシア預言の成就と理解したのです。「『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」とは、詩編69編10節の御言葉を思い出したのです。預言者ダビデが来るべきメシアを預言しました。「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしているのであなたを嘲る者の嘲りがわたしの上にふりかかっています。」主イエスは、このダビデの預言の言葉どおりに、神殿で父なる神への熱い思いで、商売をするユダヤ人たちを追い出して、憎しみを買い、十字架の道へと歩まれるのです。
 
  宮清めが続く中で、主イエスとユダヤ人との論争を、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に伝えています。
 
  ユダヤ人たちは、主イエスに彼の権威のしるしを見せるように要求しました。彼らは、神殿の祭司長たちの許可を得て、商売をし、両替をしていました。ところが、それを主イエスは止めさせ、神殿の境内から彼らと商売の動物と両替の金を追放し、追い払ったのです。
 
  この論争の中心は、主イエスは何者であるかということです。ユダヤ人は、主イエスに「お前は何者だ。自分はこういう権威を持つ者であることを、われわれに分かるようにしるしを見せよ」と要求したのでしょう。
 
  そこで主イエスが彼らに答えられたのです。「このエルサレム神殿を壊して見よ。三日で建て直してみせる」と。ユダヤ人たちは、主イエスの御言葉を文字通り受け取り、驚きました。主イエスの時代のエルサレム神殿は、ヘロデ大王が大改修し、46年かけて、未だに完成していませんでした。紀元60年ごろに完成し、10年後の70年にローマ軍によってエルサレムの都共々破壊されました。
 
  ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にユダヤ人たちが主イエスの言葉を誤解したと伝えています。すなわち、主イエスが言われた「この神殿で壊してみよ」の「神殿」とは主イエス御自身の体でありました。主イエスは御自分が死んで三日目に死人の中から復活することを言われたと、主イエスの弟子たちは主イエスの復活後にこの主イエスとユダヤ人との論争を思い出して、聖書が預言している言葉と主イエスがその預言を実現すると言われた言葉を信じました。
 
  ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの宮清めとユダヤ人との論争を通して、何を伝えようとしているのでしょう。
 
  1章18節の御言葉であります。ユダヤ人たちは主イエスにしるしを要求しました。それに対してキリストは御自身の復活によって示されました。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
 
  弟子たちは、旧約聖書がメシアを預言し、復活し今も生きておられる主イエスを信じる信仰において、ユダヤ教の中心である神殿を、キリスト教会は乗り越えたのです。聖書とキリストの言葉を信じることで、神殿も、犠牲の動物も両替も必要なくなりました。
 
  それでも使徒言行録をお読みになると、主イエスの弟子たちは、神殿に詣でています。そこで神を礼拝し、賛美していました。しかし、時を経るに従い、神殿はローマ軍に破壊され、キリスト教は小アジアからヨーロッパの異邦人に伝わり、教会は主イエス・キリストの十字架の死と復活という歴史的根拠に従って、ユダヤ教の安息日の土曜日ではなく、キリスト教の安息日の日曜日に集まって礼拝をするようになりました。キリスト者たちは、旧約聖書のメシア預言を信じ、その預言を成就された主イエスの御言葉である新約聖書を信じて、礼拝をするようになりました。
 
  ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のことを伝えているのです。エルサレム神殿は壊れたが、キリストは御自身の復活によって、毎日曜日に顕現し、わたしたちを集め、キリストの体とし、聖書とキリストを信じる信仰によって、その体を存続させておられると。ですから、わたしたちは、常に聖書を学び、キリストの約束の言葉を信じて、キリストをこの世の人々に伝え、キリストの体なる教会を建て上げることに努めるべきではないでしょうか。
 
  お祈りします。
 
 イエス・キリストの父なる神よ、主イエスは言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と。今エルサレム神殿はこの世に存在しません。しかし、主のお言葉通りに、主の十字架の死と復活の事実によって建てられたキリストの体なる教会は、世界中に存在しています。

 今朝、わたしたちは主に集められ、聖書と主イエスが語られたお言葉を、聖霊の導きを通して、主イエスの弟子たちと同じように信じる信仰を得させていただき感謝します。

  神を見た者はいませんが、わたしたちは聖霊と御言葉を通して、信仰によってキリストを見ました。そして、この方こそ神の子、わたしたちの救い主と信じました。
 
  キリストによって罪を赦され、永遠の命を与えられた喜びを感謝し、わたしたちもキリストのように熱心な心で教会を思い、わたしたちが食い尽くされるほどに心を、主の日の礼拝に傾けることができるようにしてください。そして、わたしたちの思いを家族や隣人に伝えることができるようにしてください。

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

ヨハネによる福音書説教12         主の201651

 

 

 

 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人々がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証しをしてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 

                  ヨハネによる福音書第22325

 

 

 

 説教:「人の心を知るキリスト」

 

 前回は、ユダヤ人の過越祭が近づいたので、主イエスがガリラヤからエルサレムの都に上られ、エルサレム神殿を清められたことを学びました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、第223節で、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられた」と記しています。ヨハネによる福音書の34章はその間の出来事を記しています。3章ではおもに主イエスとニコデモとの対話を、4章では主イエスとサマリアの女との対話、そして、主イエスが役人の息子を癒されたしるしを記しています。

 

 

 

今朝の御言葉で、わたしはヨハネによる福音書の語り口に注目してほしいと思います。ヨハネによる福音書は、他の福音書に比べて特別に長いものではありません。しかし、他の福音書が主イエスのガリラヤからエルサレムへの都上りを1度しか記していないのに、ヨハネによる福音書は3度記しています。3倍近い期間に主イエスが公の活動をなさったことを記しているのです。それによってヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの公生涯が3年間であったことを述べているのです。

 

 

 

しかし、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えている出来事の報告の数は、他の福音書に比べて少ないのです。どうして少ないのでしょうか。次週に学びます主イエスとニコデモとの対話を御覧になると、一目で分かります。

 

 

 

主イエスがなさったしるし、すなわち、奇跡の行為や発言がきっかけで、主イエスとニコデモ、主イエスとユダヤ人たち、そして主イエスと弟子たちとの間で対話や論争が起こります。それがいつの間にか、主イエスの長い独り言のようなお話に変わっているのです。それが原因で、ヨハネによる福音書は、他の福音書に比べると物語られている事件や出来事の数が少ないのです。

 

 

 

わたしたちがこうしたヨハネによる福音書の特徴に目を留める時、わたしたちはヨハネによる福音書の独特の語り口を見出すことができるのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、他の福音書の3倍の主イエスの公の生涯を物語ろうとしますが、同時に主イエスの長い独白、長いお話も記そうとしています。そこでヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの3年間の公生涯を伝え、しかも少ない出来事の報告で伝えようとしています。

 

 

 

そのためにヨハネによる福音書は、ある工夫をしています。それが今朝の御言葉であります。主イエスが過越祭の間エルサレムにおられた時間を短く束ねて、要約して報告しています。本来であれば、主イエスが1週間続く過越祭の間、エルサレムに留まり、祭に集まりましたユダヤ人たちにお話をし、神殿で病める者たちを癒されたことを記さなければなりません。それを、ヨハネによる福音書は、22325節の御言葉に要約して束ねて、主イエスのしるしとユダヤ人たちの反応、そして、それに対する主イエスの反応を記してします。

 

 

 

すなわち、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のように要約して報告しています。およそ一週間の過越祭の間、主イエスはエルサレム神殿で宮清めをし、ユダヤ人たちと対話をし、論争をされただけではありません。神殿で数々のしるしを行われました。ユダヤ人たちの目の前で癒しの奇跡をなされたのです。だから、主イエスのしるしを見て多くのユダヤ人たちが「イエスの名を信じた」のです。ところが、主イエスはユダヤ人の信仰を信用されませんでした。

 

 

 

ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えていることは、ユダヤ人たちの心を主イエスはよく知っておられたので、ユダヤ人たちが主イエスのしるしを見て、主イエスをメシアであると信じても、その信仰が本物ではないと判断されたということです。

 

 

 

ヨハネによる福音書の中で、6つの祭の間主イエスがなされたことを記しています。その時にヨハネによる福音書は、大胆に6つの祭の時間的経過を省略しています。まるで6つの祭での主イエスの御業とそれらに対するユダヤ人たちの反応を並べて記しています。このように要約的報告と6つの祭にかかわるに場面を並べて記すことで、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスをめぐって起こっている出来事が他でも繰り返され、継続して起きたことを報告しているのです。今朝の22325節の御言葉は、類似の出来事の一つのサンプルとして記されているのです。

 

 

 

さて、今朝の御言葉を読み、どのように説教しようかと考えながら、見て信じる信仰と見ないで信じる信仰のことが気になりました。イースター伝道集会で、復活の主イエスと弟子のトマスについて学びました。復活の主イエスに出会ったと証言した仲間たちに、トマスは自分の目で見て、この手で触って、自分が復活の主イエスを実感しなければ、信じないと豪語しました。そして一週間後、トマスもいる所に復活の主イエスは現れ、トマスは信じました。その時に主イエスがトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人たちは幸いである」とおっしゃいました。

 

 

 

どうも、ヨハネによる福音書は、信仰を人の能力とは考えていないようです。主イエスは、信仰が人の能力であれば、それに信頼を寄せられるはずがないと、ヨハネによる福音書は常に考えていると、わたしには思われるのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書が24節に「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」と、わたしたちが手にしています新共同訳聖書は大胆に日本語訳しています。以前の口語訳聖書は、「イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」と訳していました。「信用されなかった」も「お任せにならなかった」も、元は23節の「イエスの名を信じた」の「信じた」という言葉です。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のように伝えているのです。ユダヤ人たちは、主イエスのしるしを見て、「イエスの名を信じた」が、イエスの方ではその彼らを信じなかったと。主イエスには、彼らの見て信じるという人間の能力による信仰を信頼できなかったのです。

 

 

 

どうしてか、ヨハネによる福音書は、その理由を24節後半から25節に記しています。主イエスがすべての人を御存じであったからです。また主イエスは、御自分がメシアであることを人に証ししてもらう必要もありませんでした。なぜなら、主イエスは、父なる神の独り子の神であられたからです。

 

 

 

25節の「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」という御言葉は、旧約聖書を知る者であれば、その意味を理解できるでしょう。旧約聖書のサムエル記上167節で主なる神が士師であり、預言者であり、祭司であったサムエルに次のように言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることをみるが、主は心によって見る。」まさに主イエスは主であるので、すべての人々のことを知り、その心を調べ知っておられるのです。 

 

 

 

一見、今朝の御言葉は、人の心をよく知っておられるキリストは、わたしたちの信仰を信用されないと言っているかのように聞こえるかもしれません。

 

 

 

また、前向きに今朝の御言葉を受け取りまして、主イエスに信頼される信仰とはどのようなものであるか、とお考えになる方もおありでしょう。

 

 

 

それは、人の能力ではない信仰です。気まぐれでない信仰です。心に左右されない信仰です。ヨハネによる福音書が主イエスに信頼できる信仰を、弟子のアンデレともう一人の弟子から教えています。それは、御言葉を聞いて、主イエスの従う信仰です(ヨハネ1:36)。主イエスが留まるところに留まる信仰です(ヨハネ1:39)。彼らは、洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、主イエスに従いました(ヨハネ1:40)

 

 

 

人の能力による信仰ではなく、聖霊に導かれた信仰を、主イエスは信頼されています。主イエスに信頼される信仰の持ち主は、生涯主イエスの御言葉に留まります。

 

 

 

わたしも主イエスの御言葉に留まり、今年で41年目になります。その経験からわたしは、主イエスが信用される信仰を次のように考えています。教会は、エクレシアですから、主が召された者たちの集まりです。主イエスは、信用する信仰者に教会で奉仕という責任を、祈りと献金によって教会を支えるという責任を、また弟子たちのように宣教するという責任をお与えになります。主は信用された弟子たちを宣教に遣わされ、女性たちに仕える奉仕の業を委ねられました。だから、主イエスに信頼される信仰者は、主に仕える者とされます。まずは、礼拝者とされ、奉仕者とされ、祈る者、献げる者とされます。

 

 

 

主イエスは、会社や官庁の有能な上司とは違います。一目で、主イエスは人の心を見抜かれます。しかし、御自分からは切り捨てられません。キリストの選びはありますが、切り捨てはありません。キリストは召された者たちを勝ち組と負け組に振い分けるような冷たいことはなさいません。

 

 

 

むしろ、寛容と忍耐とを持ち、だんだんと育てられます。そして、主イエスは信頼する信仰者に継続するという賜物を与えられます。礼拝、奉仕、献金、伝道は、1回限りの行為ではありません。継続です。継続している中で、主イエスはわたしたちを御自身が信頼できる者へと育ててくださいます。素直に育つ者がおれば、中々育たない者もおります。主イエスがすべてのキリスト者たちに身を任せられる時、彼らの心の中に責任感が生まれます。ある者は教師として、ある者は長老、執事として、キリストの体なる教会を建て上げるという召しと責任を、主イエスは教育と訓練とをもってお与えになるのです。

 

 

 

だから、わたしたちは、主イエスに信用される信仰者になれるように、生涯礼拝人生を歩めるように祈りましょう。教会の奉仕にあずかりましょう。聖書と信仰を学び続けましょう。

 

 

 

わたしたちの心をよく知られるキリストは、わたしたちの心の弱さを知り、聖霊と御言葉を通してわたしたちが弱さの中でも主に仕える道を常に備えてくださいます。

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、主イエスは、しるしを見て信じたユダヤ人たちを信頼されませんでした。

 

 

 

どうか、わたしたちに人の能力の信仰ではなく、聖霊の賜物である信仰をお与えください。

 

 

 

主イエスに信頼される信仰者にしてください。そのためにわたしたちを常に礼拝に留め、主の御言葉を聞かせてくださり、主イエスの御後に従わせてください。

 

 

 

主イエスよ、わたしたちの心をよくご存じです。わたしたちの心に合わせて、責任を担い、牧師、長老、執事として召し、この教会のために仕えさせてください。奉仕、祈り、献金を通して、主の御用にお用いください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

ヨハネによる福音書説教13         主の201658

 

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 

 

                  ヨハネによる福音書第318

 

 

 

 説教:「新たに生まれなければ」

 

 前回は、ユダヤ人たちが主イエスのしるしを見て、彼を信じた信仰を、主イエスが信用されなかったことを学びました。そして、わたしたちは主イエスが信用して下さる信仰とはどのような信仰かを考え、思いをめぐらしてみました。

 

 

 

 さて、今朝は、主イエスとファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの議員であったニコデとの対話からわたしたちの信仰がどこから来るのかを、考え、思い巡らせてみましょう。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが過越祭にエルサレムの都に上られ、そこに滞在された時のエピソードを、一つ伝えています。主イエスが、エルサレム神殿で数々のしるしを行い、大勢の病人たちを癒されました。その目撃者の一人が、ある夜、主イエスが宿泊されているところを訪ねてきました。そして、主イエスと「水と霊によって新しく生まれる」ことについて対話しました。彼の名は、ニコデモという者です。

 

 

 

 ニコデモという人物は、ヨハネによる福音書だけに登場してきます。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のように彼を紹介します。ファリサイ派に属するユダヤ民衆の指導者で、律法学者であり、また、ユダヤ人たちの最高法廷で最高行政機関であったサンヘドリン(エルサレムのユダヤ人議会)の一議員であると。

 

 

 

 ニコデモは、主イエスがエルサレム神殿で群衆に教えられ、数々のしるしをなさる様子を見て、主イエスの人格と教えに心を奪われたのでしょう。また、彼には、ナタナエルのようにガリラヤのナザレから立派な預言者、教師が出るはずがないという偏見はありませんでした。彼は、誠実に主イエスの教えとしるしをなさるのを見て、主イエスを神から遣わされた「ラビ」、すなわち、教師として尊敬しました。

 

 

 

 そのように彼には誠実さという良い面と仲間たちの目を気にするという弱い面がありました。ですから、彼は仲間たちに知られないように、夜の闇に身を隠して、主イエスを訪問しました。そして、彼は心から主イエスをラビとして称賛しました。それが2節の彼の言葉です。

 

 

 

ここでわたしたちはヨハネによる福音書の22324節の御言葉をもう一度考え、思いめぐらせる必要があるのではないでしょうか。ニコデモもまた、主イエスがなされたしるしを見て、主イエスの名を信じた人々の一人ではないでしょうか。

 

 

 

 わたしは、主イエスが信用されなかった信仰の持ち主だったと思います。「主イエスは、モーセのように神から遣わされた教師である。」「神が共におられないと、主イエスがなさるしるしは、だれもできない。」ニコデモの言葉は主イエスを称賛する立派な言葉であります。しかし、ニコデモの信仰は人の能力で生まれたものです。

 

 

 

 だから、主イエスはニコデモにお答えになり、人の能力から生まれた信仰ではなく、神から生まれた者の信仰をお教えになりました。

 

 

 

 3節の「はっきり言っておく」とは、「アーメン(まことに)、アーメン、わたしはあなたに言う」という表現です。主イエスは、ニコデモに真実を宣言されました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。

 

 

 

 これが、主イエスが信用される神から生まれた者の信仰です。主イエスが「新たに」と言われているのは、「上から」という言葉です。主イエスは、「神から生まれた者でなければ、すなわち、上から生まれた者でなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。

 

 

 

 ニコデモのように人の能力で生まれた信仰の持ち主は、主イエスの立派な教えや人格に心を奪われ、彼が人にはできないしるしを行うのを見て、驚くかもしれません。しかし、主イエスは、ニコデモに、「それは神の国を見る」ことと無関係なものであると言われているのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書が3節と5節に「神の国」と記していますが、それ以後は出てきません。「永遠の命」という言葉に置き換えたからです。ヨハネによる福音書にとって「神の国」と「永遠の命」は同じものです。

 

 

 

 主イエスは、ニコデモに「新たに生まれる」、すなわち、「もう一度生まれる」のでなければ、神に国を見て、神の国に入れない、すなわち、永遠の命の信仰を持ち、永遠に神と共に生きる命にあずかることはできないと言われているのです。

 

 

 

 ところがニコデモは、主イエスが教えられる真理が理解できません。実は、彼は民衆に真理を教える教師として、主イエスが語られる真理を理解すべき立場にありました。ところが、彼は、主イエスが用いられるたとえを理解できませんでした。彼には、神の国を見ることについても、神の国に入ることについても、信仰の基本的な事柄が理解できていませんでした。

 

 

 

 それが、4節のニコデモの主イエスへの質問であります。彼は、主イエスが「新たに生まれなければ」と言われたことを、「上から」、「神によって生まれなければ」と理解することができませんでした。「もう一度生まれる」と理解しました。それでおかしな質問をしたのです。

 

 

 

 「年とった者が」とニコデモが言っていますので、彼は老人だったかもしれません。ニコデモが言いますに、老人がもう一度生まれることはできないのではないかと。もう一度母親の胎に入り直して生まれることなどできましょうかと。

 

 

 

 何と愚かな言葉でしょう。人の能力で生まれる信仰は、主イエスのお言葉が理解できません。神の国を見ることができないので、主イエスのお言葉をこの世の事柄で推し量ろうとします。

 

 

 

 人の能力で生まれた信仰は、この世の人々と同じ思考で新しさを求めます。たとえば、世の人は常に革命、革新、改革を求めています。自己改革、セルフコントロール等を求めて、常にどこかで新しいものがないかを探しています。今やインターネットの時代ですから、人はだれでも新しい情報を求め、新しいライフスタイルを求め、果ては男性も女性もない新しいイデオロギーで、結婚の新しい形態を探そうとしています。

 

 

 

この世の人々が求め、探す「新しさ」は、主イエスが言われている「新たに生まれる」という新しさとは異なります。この世の求める新しさには、神の国を見て、永遠の命に入るという喜びの発見はありません。時経るに鄙びてしまい、いつの間にかこの世すら忘れ、消えてしまうのです。

 

 

 

主イエスは、ニコデモに宣言されました。5節です。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と。

 

 

 

「水と霊によって」とは、「水の洗礼と霊の洗礼によって」という意味であります。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に洗礼によって人が新しく生まれ変わることを伝えているのです。

 

 

 

主イエスは、「肉から生まれたものは、肉である。霊から生まれたものは、霊である」と言われています。

 

 

 

主イエスは、肉と霊を対比し、人間とその無力さと神とその永遠の命を対比しています。

 

 

 

主イエスは、この世のものとキリスト者を対比されています。水と霊によって生まれたキリスト者は、洗礼によって新たに生まれ、聖霊によって神の国を見て、神の国に入ることができる信仰を与えられました。

 

 

 

主イエスは、聖霊を風にたとえられています。風は目には見えません。わたしたちは音を聞くことで、今風が吹いていることを知ります。しかし、風がどこから吹き、どこへ行くのかは知りません。

 

 

 

肉から生まれたものは、肉ですから、生まれながらの自然の人の中に、神の国を見て、神の国に入る信仰はありません。人の能力としての信仰は、神の国を見ることも、神の国に入ることもできません。

 

 

 

霊から生まれた者だけが、キリスト者たちだけが、神の国を見て、神の国に入れるのです。

 

 

 

聖霊は風のように自由に働かれます。いつわたしは、聖霊のお働きの中に入れられたのでしょうか。わかりません。気づいた時には、毎週教会の礼拝で聞く牧師の説教を、神の御言葉、キリストの声として聴いていました。信じて、水で洗礼を授けられ、聖餐式にあずかるごとに、今わたしは天国の前味を味わっていると意識していました。

 

 

 

高校生時代に島崎藤村の「春」と「新生」という小説を読みました。その時に、たしか主人公の名は岸本捨吉であったと思いますが、彼が「自分のようなものでも何とかして生きていきたい」と告白した、その言葉が今も忘れられません。

 

 

 

しかし、大学生の時に主イエスを信じて、聖霊と御言葉を通して洗礼を授けられ、キリスト者になりました。その時に自分のような者がキリストの十字架によって罪を赦され、神の子にしていただけたことを、本当に感謝しました。

 

 

 

今も相変わらず罪を犯し、妻や家族、教会の兄弟姉妹たちに我知らず罪を犯しているかもしれません。しかし、毎週の礼拝を通して、聖餐式ごとに今も生けるキリストが聖霊と御言葉を通して、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださり、神の国を見せえてくださり、永遠の命の希望で、わたしの信仰を支えてくださっているのです。

 

 

 

この世にある教会に、この世の人々が求める新しさは何もありません。しかし、教会には、霊によって生まれ、神の国を見る者、罪を赦された喜びを知る者、そして永遠の命の喜びに生きる者がおります。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、主イエスは、ニコデモに「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。

 

 

 

今、わたしたちは父なる神に感謝します。聖霊の賜物により主イエスをわたしの救い主と信じて、罪を赦され、神の子とされ、永遠の命にあずかっていることを。

 

 

 

どうか、聖霊よ、風のようにわたしたちの心に吹き付け、わたしたちを霊によって生まれ変わらせ、神に国を見させてください。この世の新しきものを追いかけるのではなく、主イエスを追いかけ、主の十字架のゆえに罪を赦され、主の復活のゆえに永遠の命に生かされている喜びで、わたしたちの心を満たしてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教14         主の2016529

 

 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 

                  ヨハネによる福音書第3915

 

 

 

 説教:「上げられる人の子」

 

 前回は、ある夜、ファリサイ派の議員の一人、ニコデモが主イエスを訪ねて対話したことを学びました。主イエスはニコデモに人の能力から生まれた信仰ではなく、「上から」、すなわち、神から生まれた者の信仰について教えられました。そして、主イエスはニコデモに「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)と言われました。

 

 

 

 主イエスとニコデモの対話は、3110節までは、主イエスとニコデモとの一対一の対話ですが、1112節は「わたしたち」と「あなたがた」との対話に変わっています。

 

 

 

 それは、ヨハネによる福音書が主イエスとニコデモとの対話を、初代教会のキリスト者たちとファリサイ派律法学者たちの対話に置き換えているからです。

 

 

 

 キリスト者たちは、ファリサイ派律法学者たちに「わたしたちは水と霊によって新しく生まれた者である」と証ししました。それを聞いたファリサイ派律法学者たちは、ニコデモ同様、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と誤解したのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、ニコデモの誤解を、1世紀末のファリサイ派律法学者たちの誤解を重ね合わせて、910節の主イエスとニコデモの対話を記しているのです。

 

 

 

 善い行いなしに、人が神に受け入れられて、神の国に入れるなど、ニコデモと1世紀末のファリサイ派律法学者たちにとって、あり得ないことでした。

 

 

 

 主イエスは、ニコデモの無理解に答えて、次のように言われました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と。

 

 

 

 ニコデモは、ユダヤの宗教的指導者の一人でした。ユダヤの民衆に神の律法を教える立場にありました。さらに彼は、ファリサイ派律法学者を育てる教師でもありました。だから、主イエスは、彼を「イスラエルの教師」と呼ばれたのです。

 

 

 

しかし、ニコデモの信仰は、人の能力によるものでした。神からのものでありませんでした。

 

 

 

 この世では教師の中の教師であるニコデモも、言が受肉した人の子、主イエスの言葉が理解できませんでした。

 

 

 

 11節以下は、ヨハネによる福音書が、主イエスとニコデモとの対話の形で、初代教会のキリスト者たちが1世紀末のファリサイ派律法学者たちに語る宣教の言葉を記しているのです。主イエスの御言葉は、教会の宣教の言葉として世の人々に伝えられました。今も伝えられています。それをヨハネによる福音書は記しています。

 

 

 

だから、ヨハネによる福音書は、「はっきり言っておく」と主イエスの言葉を語ります。主イエスの言葉は、教会の宣教の言葉です。だから、「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」と記しました。主イエスの言葉をニコデモが受け入れなかったように、1世紀末のファリサイ派律法学者たちは、教会の宣教の言葉を受け入れませんでした。

 

 

 

ヨハネによる福音書がわたしたち読者に、ここで伝えていることは、こうであります。教会の宣教の言葉は、永遠の言、父なる神の独り子である神、そして、受肉し、この世に来られたキリストの証しに根差していると。

 

 

 

教会の宣教の言葉を具体的に言うと、このヨハネによる福音書であります。この福音書は、旧約聖書からキリストを証しする言葉であります。初代教会のキリスト者たちは、旧約聖書からキリストとその救いを知りました。旧約聖書が預言した通りにキリストが十字架と復活を通して世の人を罪より救われたことを目撃し、証ししました。教会の宣教の言葉は、初代教会のキリスト者たちがキリストを知り、キリストの御救いを目撃したことを証しする言葉でした。

 

 

 

しかし、ニコデモが主イエスの言葉を受け入れなかったように、1世紀末のファリサイ派律法学者たちも初代教会のキリスト者たちが証しするキリストを受け入れませんでした。

 

 

 

12節で主イエスがニコデモに「わたしが地上のことを話しても」と言われているのは、主イエスがニコデモにお話になった神から生まれる信仰のことです。聖霊のお働きにより、人の中に生まれる信仰のことです。キリスト者の新生の出来事です。キリスト者の生まれ変わりは、人の能力による信仰ではなく、上からの、すなわち、神による生まれ変わりであります。しかし、これは、この地上で、この世で起こる出来事でありますので、主イエスは地上のことと言われました。

 

 

 

「信仰は、神によるのですよ」と、主イエスはニコデモに言われました。ニコデモは主イエスの言葉を受け入れませんでした。だから、主イエスは、ニコデモに「わたしがあなたに天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」と尋ねられました。

 

 

 

主イエスは、ニコデモを切り捨てられたのではありません。ニコデモに失望されたのでもありません。不信仰なニコデモを、主イエスは御自身の救いへと招かれたのです。

 

 

 

教会の宣教の言葉も、同じです。この世の人々はニコデモのように、教会の宣教の言葉に、わたしたちキリスト者の証しの言葉を受け入れないかもしれません。わたしたちが主の愛と憐みで罪を赦され、キリストを信じる信仰をいただいたと証ししても、受け入れてくれないかもしれません。

 

 

 

しかし、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にニコデモと対話されたキリストを見なさい、キリストに倣いなさいと励ましてくれています。キリスト者に、この地上に命がある限り、キリストを証しすることを諦めるなと言っているように、わたしには聞こえてくるのです。

 

 

 

信仰が人の能力であれば、わたしたちには主イエスの「どうして信じるだろう」という言葉は、「信じることはない」という否定に聞こえるでしょう。

 

 

 

違います。信仰は神から来るのです。だから、わたしたちの証しを受け入れなくても、わたしたちは主イエスがニコデモに天上のことを語られたように、この世の人々に諦めないで福音宣教をしなくてはなりません。

 

 

 

「天上のこと」とは、神の隠された御心です。キリストを通して、この世に知らされた神の救いの計画です。

 

 

 

神は、わたしたちの始祖であり、人類の代表者であるアダムが罪を犯し、全人類が滅びの危機に置かれた時に、女のすえより救い主を与えると約束されました(創世記3:15)。神は、族長アブラハムとの恵みの契約を結ばれ、彼の子孫より救い主を与えると約束されました。そして、神はダビデとの恵みの契約によりダビデの子孫より救い主を与えると約束されました。

 

 

 

神の約束は、「天から降って来た者」によって、永遠の言が受肉された人の子キリストによって実現しました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこの方を、すでに「天に上った者」と紹介しています。ヨハネによる福音書が宣教するキリストは、すでに十字架に死なれ、復活し、天に昇天された栄光のお方であります。

 

 

 

神は、わたしたちの父です。わたしたちを子とするために、御自身の独り子をこの世に遣わされました。そして、神の御前に罪を犯した人類の中からキリストにあって選ばれた者のために、キリストを十字架につけられました。キリストを信じる者がキリストによって永遠の命を得るためです。それが、天上のこと、神の隠された計画でありました。

 

 

 

主イエスは、ニコデモに御自身の十字架を、荒れ野でモーセが掲げた青銅の蛇の旗竿にたとえられました。

 

 

 

荒れ野で罪を犯したイスラエルの民たちが、神が言われた通り、青銅の蛇を見た者だけが毒蛇の災いから救われました。同じようにヨハネによる福音書は、十字架のキリストを、わたしたちに伝えています。わたしたちが十字架のキリストを仰ぎ、聖書が証しするとおりに、キリストはわたしたちの罪の身代わりで死なれ、このお方を信じることで、わたしたちは神から罪を赦され、永遠にキリストを通して神と共に生きることができるのだと。

 

 

 

ヨハネによる福音書がわたしたちに伝える喜びは、上から、すなわち、神から来る信仰の喜びです。教会がキリストを証しすることで、それを聞くだけで、わたしたちに与えられる信仰の喜びです。

 

 

 

キリストの十字架を、神の御心であると信じることは、霊によって生まれた者だけに可能なことです。

 

 

 

信仰は人の能力ではなく、神から与えられるものですから、わたしたちは常に神に祈り、家族やこの町のわたしたちの友達を神が霊によって生まれ変わらせ、キリストを信じる信仰が与えられるように祈りましょう。時が良くても悪くても、上に上げられた人の子キリストを証ししましょう。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝も主イエスとニコデモとの対話を通して、今わたしたちが教会の宣教の言葉により、この世に貢献できることを教えられ、感謝します。

 

 

 

今もニコデモのようにわたしたちの証しを受け入れない者が多くおります。しかし、ヨハネによる福音書は、わたしたちに失望しないで、諦めないで、キリストを証しするように、主イエスのお言葉を通して励ましてくれました。感謝します。

 

 

 

十字架の言葉は信じない者には滅びの言葉ですが、信じる者には永遠の命であります。

 

 

 

どうか、聖霊よ、風のようにわたしたちの心に吹き付け、わたしたちを霊によって生まれ変わらせ、キリストの十字架を信じて、キリストを主と仰がせてください。

 

 

 

時が良くても悪くても、教会の宣教の言葉、キリストを証しさせてください。わたしたちの証しを聞く者を、このところにお招きください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教15         主の201665

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 

                   ヨハネによる福音書第31621

 

 

 

 説教:「光と闇-世を愛する神」

 

 前回は、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に初代教会の宣教の言葉を伝えていることを学びました。それは、主イエスが語られた神の救いの計画であり、キリストの十字架であります。

 

 

 

主イエスがニコデモに話されたという形で、ヨハネによる福音書は荒れ野でモーセが青銅の蛇をかかげて、それを見上げたイスラエルの民たちが毒蛇の災いから救われたように、人の子であるキリストも十字架の上に上げら、それによって主イエスを信じる者が永遠の命を得ることを記しました。

 

 

 

「十字架の主イエスを信じる者が永遠の命を得る」という、このメッセージこそ、主イエスがニコデモに語られた福音であり、初代教会のキリスト者たちが1世紀末のファリサイ派律法学者たちに語りました教会の宣教の言葉でありました。

 

 

 

今朝、お読みしましたヨハネによる福音書の御言葉、特に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」

 

 

 

この316節の御言葉は、教会にとって、キリスト者にとって、そして、ヨハネによる福音書が言う「神が愛されたこの世」にとって、金言、黄金の言葉です。世界中で、時と空間を越えて、世界の人々に愛されている御言葉です。わたしもその一人です。

 

 

 

この御言葉は、受肉された神の独り子主イエス・キリストが存在され、この世に来られた意味を短く、正しく、そして分かりやすく伝えています。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこのメッセージを伝えるために書かれました。

 

 

 

主イエスとニコデモとの対話は、今朝お読みしましたこの福音書の321節まで続いています。主イエスは、夜の闇に隠れて訪問して来たニコデモとの対話で、3つのことをお話になりました。第1は聖霊による生まれ変わりです。人の能力による信仰ではなく、神から与えられた信仰によらなければ神の国入れないことをお話になりました。第2は神の救いの計画です。神の独り子主イエス・キリストの十字架の死による救いをお話になりました。そして、今朝は、主イエスがニコデモに父なる神が独り子キリストを十字架に渡されるほどに、この世を愛されたことをお話になりました。そして、主イエスは不信仰なニコデモをお招きになりました。

 

 

 

今朝の御言葉を思いめぐらし、何人かの牧師たちの説教を読みました。榊原康夫牧師が今朝の御言葉を説教され、わたしはそれを読んでいて笑ってしまいました。実にお話が面白いのです。わたしには真似ができません。日常の出来事を巧みに取り入れて、しかも、聞いている信徒たちを、御言葉に釘付けにされています。

 

 

 

先週、静岡聖文舎さんが、本を届けてくださり、バックストン著作集の「聖書講解Ⅲ ヨハネ福音書講義上」を買いました。そして今朝の御言葉の説教を読みました。バックストンは、1891年に島根県の松江で伝道し、1918年に神戸を中心に伝道した英国の宣教師です。ケンブリッジ大学で学び、当時ヨハネ文書の大家あったウェストコットという学者に師事し、ヨハネによる福音書に深い理解を持つ人でした。彼は、今朝の御言葉を説教し、最初に「兄弟姉妹よ」と呼びかけて、「ほかに救いはありません」と大胆に告げ、人には十字架のキリストの贖い以外に救いのないことを示して、父なる神がひとり子をお与えになるほどにわたしたちを愛してくださいましたと喜びをダイレクトに伝える説教をしています。そして、彼は、説教の終わりで、21節の御言葉を取り上げて、「兄弟姉妹よ」と呼びかけ、「あなたは光(キリスト)を愛しますか。それとも闇(この世)を愛しますか」と信仰の決断を迫る説教をしています。

 

 

 

さて、今朝の御言葉を読んでいて、どこまでが主イエスの言葉で、どこからが教会の宣教の言葉か、わたしには区別がつきませんでした。

 

 

 

そのような曖昧さがありますが、今朝の御言葉には主イエスが、初代教会のキリスト者たちが、この世の人々に伝えたいメッセージが明確です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というメッセージです。

 

 

 

あのゴルゴタの丘で十字架刑に処せられたキリストは、単なる政治犯ではありませんでした。あれは、神がわたしたちの父としてなさった愛のメッセージでした。父なる神は、この世を愛するゆえに独り子である神、キリストを十字架にお渡しになりました。

 

 

 

「与える」とは、犠牲にするという意味です。

 

 

 

この世は父なる神が独り子の神、キリストを介して造られました。しかし、世は受肉のキリストを受け入れません。光より闇を愛するからです。

 

 

 

そうであれば、父なる神は当然闇の世を裁くために、独り子の神、キリストを遣わされるのは、当然ではありませんか。

 

 

 

本来であれば、神に敵対し、光よりも闇を愛する世ですから、神はノアの洪水のように、ソドムとゴモラの町のように、この世をすべて裁き、滅ぼされて当然であります。

 

 

 

しかし、17節を読みますと、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に父なる神が独り子キリストをこの世に遣わした目的を伝えています。世を裁くためではなく、世を救うためであると。

 

 

 

神は、わたしたちの父として、神の独り子キリストをこの世に遣わされました。その目的は、「独り子を信じる者が一人も滅ぼされないで、永遠の命を得るためである。」

 

 

 

お聞きになっていて、何か引っかかりを覚えませんか。父なる神はこの世を愛されたのでしょう。だから、主イエスをこの世に遣わし、そして主イエスは神に敵対し、光よりも闇を愛するこの世に代わって、十字架に死なれました。

 

 

 

ところが、どうもこの世のすべてが救われるのではないようです。主イエスのお話を、そして、ヨハネによる福音書の教会の宣教の言葉を聞きますと、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」。悪を行う者と真理を行う者がいる。

 

 

 

今朝の御言葉でヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えることは、神はこの世を愛されたが、この世のすべての人を救おうとされているのではないということです。

 

 

 

この世は、19節で言われているように、神の目に行いが悪いのです。神は天から地を御覧になると、この世は光よりも闇を愛して、神がすでに裁かれた有様でした。神の目にこの世は「すでに裁きになっている」のです。

 

 

 

榊原康夫牧師が説教の中で、この「裁きになっている」ことを、これは「もともと『我とわが身を見失う』という意味の表現である」と言われています。この世の人々は、一人の例外もなく、光よりも闇を愛し、神の裁きと怒りの下で、我とわが身を見失った状態に置かれているのです。

 

 

 

聖書は、人は神に創造され、神のかたちに男と女とに創造されたと教えています。人間は神である光に向けて、造られ、神との交わりの中に生きるように造られました。しかし、今の罪の世で、人は誰も例外なく、我とわが身を見失っています。迷える小羊であります。

 

 

 

独り子の神、主イエスが受肉し、この世に来られたのは、この世の迷える小羊の中から、キリストを信じる者が本来の状態に戻され、神と共にある永遠の命を得るためでした。

 

 

 

永遠の命は、長い時間を意味してはいません。神と共にある命、キリストと共にある命を意味しています。我とわが身を見失っている者が、再びキリストと共に、神と共に生きることで、本来神に創造された人間の命を取り戻すことが、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えている永遠の命なのです

 

 

 

この永遠の命は、キリストを信じる信仰と結びついています。そして、彼はこの世で闇から離れ、光に向かって歩み始めるのです。

 

 

 

永遠の命につながるキリスト者の信仰は、神を、わたしを愛する父として喜ぶものです。神に我が子とされた喜びです。だから、彼はその喜びにより、この世のあらゆる罪から遠ざかろうとするのです。彼にとって彼を愛する神は、光です。彼のために十字架で死なれたキリストは光です。そして、聖霊と聖書の御言葉に導かれる生活は光です。そして、神と共に、キリストと共にある永遠の命は光です。

 

 

 

真理を行い、光に向かって歩むキリスト者の信仰と生活は人の能力としての信仰からは生まれません。ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えている通りです。「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれているということが、明らかになるために」。

 

 

 

わたしは、今朝の御言葉を読み、榊原康夫先生の説教の勧めに心を留めました。先生は、真実にリアリストとなるべきだと勧めておられました。この世でわたしたちが光よりも闇を愛することを好む者であることを、キリストの十字架に出会わなければ、真実の自分を見失っていたことを認め、神の御前に裁かれて当然の者であることを受け入れるべきであると、わたしは思いました。

 

 

 

そこからあの徴税人のように、胸をたたき、罪人のわたしを赦してくださいと、父なる神に願うことが許されるでしょう。

 

 

 

その許しの中でわたしたちは、この教会の礼拝でキリストの十字架の光を仰ぐことができるのではないでしょうか。当然自分の下に身を向ければ、今までの、そして今の自分の闇の姿が現れているのです。

 

 

 

わたしたちも、ニコデモと一緒ではありませんか。わたしたちは、夜の闇の中に自分の罪の醜い姿を隠して、この教会に、この礼拝に、そして臨在のキリストを訪れているのです。

 

 

 

しかし、絶望する必要はありません。自分を偽ることもありません。なぜなら、今わたしたちはキリストを信じています。神は、わたしたちの父として、愛してくださっています。独り子の神キリストを、わたしたちの身代わりとするほどに、神は、わたしたちの父として、わたしたちを愛してくださっています。

 

 

 

この神の愛ゆえに、キリストの十字架のゆえに、そして、キリストの復活のゆえに、わたしたちは聖霊をいただき、神より信仰を賜り、神の恵みにより罪と死と、サタンに勝利しているのです。神に敵対するこの世に対しても勝利者とされています。キリストを信じる者は裁かれません。どうか心から喜びにあふれ、共に聖餐の恵みにあずかろうではありませんか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝で主イエスとニコデモとの対話を学び終えることができて感謝します。

 

 

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

 

 

今、この御言葉が現実のものとなり、諏訪地方にわたしたちの教会や同じ信仰を持つ教会やキリスト者がいることを感謝します。

 

 

 

神は、世を愛し、キリストの十字架のゆえにキリストを信じる者は一人も滅びないで、永遠の命を得るという喜びを、この世の人々に伝えさせてください。

 

 

 

わたしたちは、闇の中に生きていました。しかし、神の愛と恵みで、十字架のキリストの下に集められ、今共に御言葉と聖餐の恵みにあずかります。

 

 

 

どうか、聖霊よ、永遠の風として、わたしたちの体に吹き付け、わたしたちの思いを、この世から天上に向けてください。教会とキリスト者は、この世にあっては旅人です。わたしたちを霊によって生まれ変わらせ、キリストの十字架を信じて、御国へと歩ませてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教16         主の2016612

 

 

 

 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を授けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 

                  ヨハネによる福音書第32230

 

 

 

 説教:「衰える者と栄える者」

 

 前回は、ヨハネによる福音書の「黄金の言葉」、すなわち、316節の御言葉を中心にして、世を愛する神について学びました。神は、御自身に背を向けている世を愛され、その世に独り子の神をお与えになりました。なぜなら、神の独り子であるイエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためでした。御子キリストを信じて永遠の命を得る、これを世の人々に伝えるために、この福音書が作られました。

 

 

 

 さて、322節の冒頭に「その後」という言葉があります。時の経過を記しています。

 

 

 

過越祭の夜に主イエスとファリサイ派のニコデモが対話しました。それが321節で終わりました。

 

 

 

その後主イエスは、彼の弟子たちと一緒にユダヤ地方に行かれました。そして、そこにしばらく滞在されました。その間、主イエスと弟子たちは、彼らのところに来た者たちに洗礼を授けられました。つまり、洗礼者ヨハネと同じことをされました。

 

 

 

 この福音書に書かれていることは、何ら難しくはありません。

 

 

 

 しかし、わたしは何かを説明しようと思うと、たとえば、主イエスと彼の弟子たちが一緒に行き、滞在した「ユダヤ地方」とはどこであるかと説明しようと思うと、わたしは、「どこか分かりません」と言う他ありません。

 

 

 

この福音書は213節から、主イエスが過越祭にガリラヤからエルサレムに第1回目の都上りをなさったことを記しています。だから、エルサレムの都に近いところであると、それぐらいしか言えません。

 

 

 

 23節の冒頭に「他方」とあります。主イエスと彼の弟子たちがユダヤ地方で洗礼を授けていたころ、同じように「ヨハネ」、すなわち、神がメシアに先立ちて遣わされ、メシアの道を整えていた洗礼者ヨハネが「サリムの近くのアイノン」で人々に洗礼を授けていました。

 

 

 

 お手持ちの聖書の後ろに聖書地図があります。その6番目に「新約時代のパレスチナ」の聖書地図があり、その地図のちょうど真ん中のところ、「ヨルダン川」という記述の上に「サリム」と「アイノン」があります。

 

 

 

 アイノンは、泉という意味の地名です。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に洗礼者ヨハネがアイノンで洗礼を授けていたのは、「そこは水が豊かであったから」と説明してくれています。アイノンは、泉と名付けられるほど、水の豊かな地でありました。洗礼者ヨハネは、彼を訪れる人々に洗礼を授けていました。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に24節で洗礼者ヨハネについて、一つの大切な情報を伝えてくれています。「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。」と。この情報で、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが公生涯に入られる前の出来事を伝えようとしているのです。

 

 

 

 その情報の一つが25節です。洗礼者ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人との間で起こった「清めのことでの論争」です。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に情報を提供しても、その論争を詳しく説明してくれてはいません。だから、わたしたちは、ほとんど読み過ごしています。

 

 

 

 この論争の発端は、主イエスと彼の弟子たちがユダヤ地方に行かれ、そこに滞在され、洗礼者ヨハネと同じように洗礼を授けていたことにあります。そして、この論争の原因は、洗礼者ヨハネの弟子たちの妬みであります。26節で洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスと彼の弟子たちのところに大勢の人々が行き、洗礼を授けられていることを見て、妬んだことを、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に伝えてくれています。

 

 

 

 だから、この清めの論争は、洗礼者ヨハネの弟子たちの妬みから起こっています。清めの論争といっても、つまらない口論に過ぎません。要するに、洗礼者ヨハネの弟子たちは、あるユダヤ人に主イエスの洗礼よりもヨハネの洗礼の方が清めに有効であると言っていたのでしょう。

 

 

 

 26節の冒頭の「彼ら」とは、洗礼者ヨハネの弟子たちです。彼らは、大勢の人々たちが主イエスの方に行き、洗礼を授けられているのを見ました。彼らは自分たちの先生の方が先に洗礼を人々に授け、自分たちの先生は立派な方だと思っていますので、悔しくて、妬ましくて、仕方がなかったでしょう。

 

 

 

 彼らは、洗礼者ヨハネのところに行き、愚痴を言いました。「先生、ヨルダン川の向こう側であなたが洗礼を授けられていたとき、一緒にいて、あなたが『神の小羊』と証しされた方が、あなたと同じように人々に洗礼を授けておられ、大勢の人々があの人の方に行って、洗礼を受けています」。

 

 

 

少し脚色しましたが、大勢の人々が主イエスのところに行き、洗礼を授けられている光景を見た洗礼者ヨハネの弟子たちの妬みと悔しさを感じ取っていただければと思います。

 

 

 

ところが、洗礼者ヨハネは、彼の弟子たちの愚痴に答えて、彼らに二つのことを諭されました。

 

 

 

ヨハネは弟子たちに、妬む必要がないことを諭されました。ヨハネの洗礼運動も主イエスや弟子たちの洗礼運動も、洗礼者ヨハネには神の御業であり、その成果は神の御心でした。

 

 

 

だから、ヨハネの言う「天から与えられなければ」とは、神さまの御心でなければという意味です。ヨハネは、すべてのこの世の出来事が神の摂理の中で行われていると思っていたのです。だから、ヨハネは人々に水で洗礼を授けていましたが、その人々をヨハネのところに導かれるのは、神であると信じていたのです。

 

 

 

次にヨハネはすでに彼の弟子たちに、「自分はメシアではない」と証しし、「メシアの先駆け」として、神に遣わされた者であると証ししていました。今、彼はメシア、主イエスとその働きを見ることができました。ですから、弟子たちに、主イエスを妬むのではなく、自分が証ししたことを、今こそ弟子たちに証ししてほしいと願いました。ヨハネはメシアではない。メシアの先駆けとして、神が遣わされた者であると。

 

 

 

そして、ヨハネは、弟子たちに、自分は花婿の介添人であると宣言しました。花嫁は、神の民イスラエルです。花婿はキリストです。花婿の介添人とは、花婿の友という意味です。花婿の介添人は、花婿に代わって、花嫁を迎えに行きました。結婚式と披露宴で介添人は、花婿のそばに付き添い、式と披露宴を見守りました。そして、一晩花婿と花嫁を見守りました。

 

 

 

花婿キリストの介添人であるヨハネは、大勢の人々が花嫁のように、キリストのところに行っていると、彼の弟子たちから聞いて、心から喜びに満たされました。

 

 

 

そして、ヨハネの役割は、終わりました。メシアの先駆けとしての彼の働きは終わりました。メシアは、これから働きが始まります。

 

 

 

だから、30節でヨハネは、弟子たちに「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と語りました。

 

 

 

首尾よく、ヨハネは花婿の介添人の役目を果たしました。役目を終えた者は、天体が光を失うように、衰えていくのです。反対に主イエスはこれから働かれるのですから、天体の光が増すように、栄えられるのです。

 

 

 

わたしは、洗礼者ヨハネを、牧師と信徒は模範とすべきだと思います。牧師と信徒は、花婿キリストの介添人です。花嫁は教会です。牧師と信徒は、常にキリストの御声に耳を傾けています。そして、聖書を通して花婿キリストの声が聞こえると大いに喜びます。

 

 

 

花婿キリストは、復活され、父なる神の右におられ、聖霊と御言葉を通してこの教会にいてくださいます。目には見えませんが、キリストは栄え、この世の終わりに栄光の姿で、花嫁である教会をお迎えくださいます。

 

 

 

それを介添えするのが、牧師と信徒の務めです。

 

 

 

わたしたちの教会も70年近く、歩んできました。その間に飯田幸之助先生はじめ、歴代の牧師が花婿キリストの介添人として、御言葉を語り、ヨハネのように証してきました。

 

 

 

そして、飯田幸之助先生は衰え、ヨハネのようにこの世を去られました。

 

 

 

プロテスタント教会は、万人祭司です。牧師だけでなく、信徒もまた伝道者であり、花婿キリストの介添人です。

 

 

 

神の摂理により、教会は、常にキリストが栄え、わたしたちは衰えていきます。

 

 

 

だが、主イエス・キリストが再び来られる日まで、この教会でわたしたちは花婿キリストの介添人としての役目を果たさなくてはなりません。わたしたちを通して、この教会に来られる方々が花婿であるキリストと関わってくださるようになります。そして、主イエスを信じる花嫁は一人も滅びることなく永遠の命を得ることができるのであるというのが、この福音書がわたしたちと共に大いに喜びとすることであります。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、「栄える者と衰える者」という題で、ヨハネによる福音書第32230節の御言葉を学ぶことができて、感謝します。

 

 

 

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」ヨハネの言葉は、神の摂理の中にあるこの教会の姿です。

 

 

 

どうか、この教会においては、常にキリストの栄光が、そして、わたしたちは衰える者であることを心に留めさせてください。

 

 

 

また、牧師も信徒も、花婿キリストの介添人として、教会に来られる方々が、わたしたちの家族や知人が花婿キリストと結ばれる手助けができるようにしてください。

 

 

 

ヨハネの弟子たちのように、わたしたちも他の教会や牧師、キリスト者を見て、妬む者であります。教会の大小、賜物は、天から与えられたものです。わたしたちの心が、キリストの御言葉を聞くことに満足し、喜びに満たされた信仰生活を過ごさせてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。