ヨハネによる福音書説教58       主の2017108

 

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なせ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父がその業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

            ヨハネによる福音書第第14114

 

 

 

 説教題:「主イエス、迎えの用意」

 

 今朝から、ヨハネによる福音書の14章を学びましょう。114節の御言葉を数回に分けて学びたいと思っています。

 

 

 

 前回は、主イエスが弟子のペトロの離反を予告されたことを学びました。

 

学ぶと共に、わたしたちもペトロと同じであることを自己吟味させられ、主の晩餐の食卓へと招かれました。

 

 

 

 そこで次のような主イエスの御言葉を、わたしたちはペトロと共に聞きました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(1336)

 

 

 

ペトロは、この後、大祭司の中庭の裁判で三度主イエスを否定します。確かに今主イエスについて行くことができませんでした。しかし、ペトロの罪を主は十字架に担われ、そして、復活し、そして、彼に聖霊をお与えくださり、ペテロを生まれ変わらせてくださいました。だから、ペトロは復活の主イエスにもう一度召されて、主イエスの羊たちを飼う者とされました。

 

 

 

わたしたちも同じだと、思うのです。こうして礼拝で主の御言葉である説教を聞いていても、今主について行くことはできません。

 

 

 

初めて教会の礼拝に来て、初めて説教を聞いた時のことを思い起こしてみてください。

 

 

 

わたしが初めて宝塚教会の礼拝に出ました時、説教と、その後で聖餐式がありました。説教もその後の聖餐式も、わたしは何も理解できませんでした。

 

 

 

だから、礼拝が終わると安心して、教会を去ろうとしました。その時に宝塚教会の一人の姉妹が声をかけてくださいました。「足立さん、次も来てくださいね」と。わたしは、「はい」と答えました。それから42年間、教会で礼拝を続けています。

 

 

 

主イエスがペトロに、そして、ペトロを通してわたしにも約束された通りに、主イエスは復活し、天に帰られ、父と共に聖霊をお与えくださいました。聖霊が礼拝での説教を通して、わたしを信仰によって主イエスに結びつけてくださり、ペトロのように主イエスの御後について行くことができるようにしてくださったのです。

 

 

 

大学を卒業する時に、田舎に帰れば、長男ですし、キリスト教は家でも地域でも受け入れられないのでは、と思い、どうしようかと悩みました。その時にわたしは主イエスに一つのことを祈りました。「主よ、あなたからわたしを引き離さないでください」と。

 

 

 

今朝、主イエスは、11弟子たちに「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と約束されていますが、それは真実です。主イエスはわたしが主の御名によって願ったことを、わたしが伝道者になるという形でかないえてくださいました。

 

 

 

さて、1417章は、主イエスが11弟子たちに最後の晩餐で語られた御言葉であります。榊原康夫牧師は、「遺言のような大変長い説教集がしるされていて」と言われています。

 

 

 

遺言にしては、「心を騒がせるな」という言葉は穏やかではありません。141節の「心を騒がせるな」は、現在形の命令文です。

 

 

 

主イエスは11弟子たちに彼らの心が動揺することを禁じられました。

 

 

 

弟子たちが心を動揺させたのは当然であると思います。主イエスがペトロの離反を予告されたからです。そして、主イエスが11弟子たちに「今あなたがたはわたしの行く所について来ることはできない」とはっきりと断言されたからです。

 

 

 

だから、最後の晩餐の食事は、11弟子たちの心の動揺で満たされました。

 

 

 

実は最後の晩餐は夜の闇を背景とし、主イエスと11弟子たちだけが光の中にいるのです。

 

 

 

主イエスは、裏切り者のユダが夜の闇の中に去り、裏切りを実行に移した時、11弟子たちにお別れの説教を始められ、ペトロの離反を予告され、11弟子たちが今主イエスにだれもついて行くことができないとはっきり言われました。

 

 

 

それを聞いて11弟子たちの心に大きな動揺が起こりました。

 

 

 

その時に主イエスは、お別れの説教において11弟子たちの近い将来の幸い、あるいは彼らの救いを約束され、反対に彼らへの迫害と艱難の到来を予告されました。

 

 

 

近い将来の幸い、彼らへの救いの約束は、「弁護者」である聖霊の到来の約束です。そのお方が到来され、11弟子たちが主イエスの名によって願うことはすべて神がかなえて下さるのです。彼らは多くの迫害と艱難に苦しむでしょうが、弁護者の到来で彼らは悲しみから喜びに変えられるのです。

 

 

 

以上のことが、主イエスのお別れ説教の要約であります。

 

 

 

さて、この世の闇に取り囲まれ、今彼らは心を動揺させざるを得ません。そして、11弟子たちの中に臨在される主イエスは、彼らに心の動揺を禁じて、御自分と神を信じるようにお命じになり、御自分が父の家に弟子たちを住まわせる用意ができれば、すぐに迎えに来ると約束されました。

 

 

 

このように主イエスが11弟子たちに説教された目的は、御自分のいる所に弟子たちを共におらせるためであったと、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に伝えているのです。

 

 

 

最後の晩餐にいる11弟子たちの今は、彼らの目に見えない迫害、艱難が迫っている時でありました。11弟子の一人ペトロが主イエスに「あなたのためなら、自分の命を捨ててもよい」と言ったのは、彼が単に自分を誇示したかったのではなく、迫りくる不安を感じていた面もあるでしょう。

 

 

 

主イエスはペトロに「あなたは鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言う」と予告され。それを聞きました11弟子たちに大きな衝撃が走りました。一体どんな大きな艱難が彼らに襲ってくるのだろうかと、彼らは心穏やかにいることができませんでした。

 

 

 

しかし、11弟子たちの目の前に、主イエスがおられます。だから、主イエスは11弟子たちが今迫害と艱難を目前にして、心を動揺させないようにお命じになり、御自分と神を信じるようにお命じになりました。

 

 

 

主イエスの命令の背後には、主イエスとサタンとの対決があります。既にサタンは裏切り者のユダの心を支配し、主イエスを裏切る行動に導きました。そして、これからサタンは、ユダヤ人の官憲を用いて主イエスを捕らえ、主イエスを処刑にしようとします。それに11弟子たちは対抗できません。

 

 

 

だから、主イエスは、今、11弟子たちにサタンと、この世を覆う闇と対決されている主イエスと父なる神に信頼して、心を動揺させないようにしなさいとお命じになられたのです。

 

 

 

そこで主イエスは、11弟子たちに心を騒がせなくてよい理由を、次のように23節で言われています。

 

 

 

父なる神の家は、多くの神の民が滞在できる場所があります。神の家は、一つの建物のことではありません。無限に広い場所のことです。無数の建物や庭を含んでいるのが神の家であります。

 

 

 

神の家に許されて滞在する場所が、主イエスが言われている「住む所」であり、「あなたがたのために場所を用意」することです。

 

 

 

要するに主イエスは、神の家には住む所がたくさんあり、11弟子たちのために場所を用意すると話されたのは、主イエスが11弟子たちのために永遠の滞在を保証する所を用意するという意味です。

 

 

 

本当に多くの主イエスの弟子たちが、世界中からキリスト者たちが集まってくる場所です。神がいます永遠の場所であります。そこに主イエスは。11弟子たちが永遠に滞在できる場所を用意するために、この世を去られるのだと言われているのです。

 

 

 

そして、11弟子たちや世界中のキリスト者たちを神の家に住まわすために、主イエスは再臨すると約束されています。「戻って来て、あなたがたを迎える」とはキリストの再臨のことです。

 

 

 

2節後半の「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう」という主イエスの御言葉は、すでに神の家には十分に11弟子たちやキリスト者たちが滞在できる場所が十分に備えられており、安心してよいのだと言う意味であります。

 

 

 

今主イエスは11弟子たちに御自身が昇天して、彼らのためにその場所を用意し、そして再臨の時に迎えに来ると約束されました。

 

 

 

使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙320節で次のようにキリスト者の本国は天にあり、そこから救い主キリストがこの世のわたしたちを救いに来てくださると述べています。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」

 

 

 

この世、この地上の世界は、わたしたちキリスト者が永遠に住まう所ではありません。主イエスがおられるところが、わたしたちキリスト者の住まう所であり、本国なのです。

 

 

 

そのところを、主イエスは昇天によって用意してくださっているし、そこがキリスト者たちの本国です。

 

 

 

その喜びの本質は、インマヌエルであります。主我らと共にあるということです。

 

 

 

11弟子たちにも、そしてわたしたちにも、今朝の主イエスが御言葉で約束してくださったのは、主イエスは、心を騒がせず主イエスと神に信頼している者と共にいるということです。

 

 

 

わたしたちがこの世で生きていても、死んでも、主イエスを信じる11弟子たちとわたしたちキリスト者は、常に、そして永遠に主イエスと共にいるのです。これが、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に提供します永遠の命であります。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は主イエスが11弟子たちに心を騒がせず信仰を持てと励まし、彼らに神の家に住まう場所を用意してくださり、再び迎えに来ると約束してくださったことを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

わたしたちは、今朝の主イエスの御言葉を信じます。どうか11弟子たちだけでなく、すべてのキリスト者たちに御国の住まいを用意してくださって、再臨の時に迎えに来てくださるとのお約束をお与えくださり感謝します。

 

 

 

願わくは、常に主と共におらせ、生きる時も死ぬ時も、主と共にあるという喜びに、わたしたちを満たしてください。

 

 

 

どうかわたしたちが世の人々に、わたしたちの本国が天にあり、そこから再臨のキリストが救いに来られる喜びを伝えることができるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

 

ヨハネによる福音書説教59       主の20171015

 

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父がその業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

            ヨハネによる福音書第14114

 

 

 

 説教題:「主イエス、父なる神に至る道」

 

 先週から、ヨハネによる福音書の14章を学び始めました。今朝は14114節の御言葉を朗読し、主イエスが父なる神に至る道であることを学びたいと思っています。

 

 

 

 前回は、1413節の御言葉を学びました。主イエスは⒒弟子たちに心を騒がせることを禁じられ、彼らのために父なる神の家に彼らの住まう所を用意し、再び迎えに来ると約束してくださいました。

 

 

 

 ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスがおられる所に共にいることが永遠の命であることを、主イエスのお言葉を通して伝えてくれました。

 

 

 

 永遠の命は、抽象的なものではありません。主イエスが信じる者にお与えくださるものです。

 

 

 

主イエスは、これから地上を去られます。それは、ヨハネによる福音書によれば、次のことを主イエスがなさるためです。

 

 

 

すなわち、主イエスを信じ、主イエスの「あなたがたは互いに愛し合いなさい」という御言葉を守る11弟子たちを、主イエスが御自身がいる神の家に共におらせるために、住まいと場所を用意し、やがて彼らを父なる神との交わりの中に入れ、神の子とするために準備することです。

 

 

 

このようにヨハネによる福音書が主イエスを通して、わたしたちに伝える永遠の命は具体的なものであります。

 

 

 

だから、主イエスは11弟子たちに「わたしと共にいる道」、すなわち、永遠の命に至る道をあなたがたは知っていると言われたのです。

 

 

 

主イエスは11弟子たちに、こう言われました。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(4)と。

 

 

 

主イエスのこのお言葉には、次のような主イエスの思いが隠されていると思います。主イエスは、言であったが受肉し、父なる神に遣わされて、啓示者としてその活動と出来事を通して、父なる神の栄光を現わされ、父なる神の御言葉と真理を語られ、その御名を知らされました。

 

 

 

そして、主イエスは御自身が11弟子たちやユダヤ人たちに示された父なる神の独り子であることも示されて来たのです。

 

 

 

だから、主イエスに従って来た11弟子たちは、主イエスの御言葉を聞き、為さる奇跡を見て、主イエスが誰から遣わされたのかを理解できたはずであります。理解できたならば、当然主イエスがこれからだれの所に行こうとされているのかを知り得たでしょう。

 

 

 

ところが、11弟子たちの中の一人、トマスが驚くべき発言をするのです。トマスには、主イエスが「わたしはこの世を去って、父の家であなたがたと共に住むために場所を用意しに行く。そして、用意ができと、すぐに迎えに来て、共に一緒にいる」と約束してくださったのを、喜びと受け取れませんでした。

 

 

 

彼は、本当にリアリストです。現実に自分の目で見たことしか信じない人です。彼は、目に見えない主イエスの約束より、主が死んでこの世を去られることに心を奪われました。

 

 

 

彼は思いました。これまで「先生」と仰いで、従って来た主イエスが死ねば、一体自分たちはこれからどうしたらよいのだろうかと。

 

 

 

トマスは、死なれる主イエスがどこに行かれるかを、生きている自分に分かるはずがないと思いました。だから、彼は正直に主イエスに尋ねました。「主よ、どこへ行かれるのですか。わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

 

 

 

ある注解者は、トマスの質問を、愚問であると一言で片づけています。

 

 

 

確かに、御国とそこでキリストと共に永遠に生きる喜びを信じている者には、主イエスにどこに行かれるのですかと尋ねるトマスは、愚問を発しているとしか見えません。

 

 

 

しかし、主イエスは11弟子たちにこれから聖霊を彼らに与えると約束されるのです。11弟子たちはまだ聖霊に導かれて主イエスがどこに行かれるのかを知りません。

 

 

 

だから、11弟子たちは、主イエスが死なれたら、一体自分たちはどうなるのかと恐れたのです。どこにこれから自分たちがたどり着けるのかが分からなければ、どこに行けばよいのかも分かりません。

 

 

 

だから、トマスの質問は決して愚問でありません。リアリスト、自分の目で見たものだけを信じる者が問いかけた真剣な問いだったのです。

 

 

 

そして、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、リアリスト、自分の目で見たものしか信じない者は、あなたがたの中にいるし、どこの教会でもいるのではないかと問いかけているのです。

 

 

 

先週の説教で、わたしは、キリスト者の本国は天であるとお話ししました。これがこの地上の教会のゴールであり、キリスト者の地上の旅のゴールです。わたしたちの信仰のゴールです。しかし、残念ながら、このゴールはわたしたちの目で見ることはできません。トマスには信じられません。そこにどうしたら辿れるのか、到着できるのか、彼の目には見えないのです。

 

 

 

だから、彼は主イエスに「わたしは分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と答えたのです。

 

 

 

何度も繰り返して言いますが、トマスのこの答は愚問でありません。リアリスト、自分の目で見たものだけを信じる者の真剣な答えです。

 

 

 

だから、主イエスもトマスの問いに真剣に答えられました。目で見たものだけを信じる者にも、主イエスは彼が永遠の命に至る道を教えられたのです。

 

 

 

リアリストであり、自分の目で見たものしか信じないトマスに、主イエスは、御自分を自己啓示されました。「わたしは道であり、真理であり、命である」(6)

 

 

 

主イエスは、トマスに宣言されたのです。「目で見るものだけを信じるトマスよ、ゴールを目で見ることができなければ、そこに至る道も分からないということではない。お前がその目で今見ているわたしが道であり、真理であり、命なのだ。わたしを通らずに、だれも父のもとへ行くことはできない」と。

 

 

 

今トマスが自分の目で見ている主イエスこそ父なる神に至る道なのです。父なる神から遣わされた主イエスだけが、神の真理、命そのものですから、主イエスの父である神に至ることのできる唯一の道であります。

 

 

 

主イエスとトマスとの問答を通して、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスが誰であるかを伝えているのです。

 

 

 

トマスが今彼の目で見ている主イエスは、父なる神から遣わされた者であり、父なる神を啓示する者であり、神御自身であると。

 

 

 

だから、主イエスはトマスに続けて次のように宣言されました。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 

 

 

主イエスは、父なる神に至る唯一の道でありますから、主イエスを知る者は父を知るのです。いや主イエスは、自分を見た者は父を見ていると言われます。

 

 

 

この「知る」と言う動詞は、単に自分の頭で知ることを言っているのではありません。旧約聖書の創世記に神が人間を創造し、男と女に造られて、彼らが夫婦となった時、彼らは互いを知ったと言われています。知ることは、一体となることでもあります。

 

 

 

だから、わたしたちが主イエスを知ることは、わたしたちが主イエスと一体となることです。さらに、主イエスを知る者は、父なる神を知るとは、父なる神と子なる神である主イエスとの交わりの中に入れられることです。

 

 

 

すると、もう一人の弟子のフィリポが主イエスに言いました。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と。

 

 

 

ああ、ここにイデアリストがいます。フィリポは主イエスに言いました。「主よ、わたしの目の前で父なる神を見せてください。それだけでわたしは満足します」。

 

 

 

ある注解者は、フィリポの質問も愚問であると記しています。しかし、彼はフィリポの質問は人間誰でも神を見たいと思う願望だろうとも記しています。

 

 

 

フィリポは、トマスとは反対の人であります。イデアリストです。理想主義者です。神の民の願望は神を見ることです。神を見る者は死ぬと言われていました。罪人が神を見ることは恐ろしいことです。聖なる神の御前に罪に汚れた者が立つことです。人は裁きが下るという恐怖を体験するでしょう。

 

 

 

しかし、神を見た幸いな者がいます。旧約時代のモーセは通り過ぎられる神の後姿を見たので、彼の顔は輝き、覆いで彼の顔を隠くしました。

 

 

 

フィリポもモーセのように父なる神を自分の目で見てみたいと願いました。

 

 

 

しかし、イデアリスト、理想主義者であるフィリポは、現実を軽視する傾向があったのです。フィリポには、目の前にいる主イエスは、人でありました。尊敬すべき先生で、偉大な預言者でありましたが、人間でした。

 

 

 

だから、長い間、おそらく3年間、フィリポは主イエスと行動を共にしました。一緒に生活しました。その共同生活は先生と弟子という関係でした。

 

 

 

フィリポは、今共にいる主イエスを、父なる神が遣わされた者、父なる神の啓示者であり、神御自身であることを知りませんでした。

 

 

 

現実にフィリポは主イエスを通して父なる神に出会っていたのです。しかし、彼の目は現実の中になく、神を見てみたいという彼の願望、理想の中にありました。

 

 

 

フィリポには、主イエスが神であるという信仰はありません。彼にとって主イエスは偉大な預言者であり、教師でした。

 

 

 

主イエスは、フィリポに御自分と父なる神は一つであると宣言されました。フィリポは、主イエスを通して父なる神を見ており、父の御言葉を聞いておりました。

 

 

 

フィリポは、直接に父なる神を見たいと思ったのでしょう。しかし、わたしたちが直接に父なる神に至る道は、人間の願望であっても、現実にはありません。現実にあるのは、仲保者キリストを通して父なる神に至る道だけです。

 

 

 

主イエスは、フィリポに答えて宣言されました。「わたしと父とは一つであることを信じなさい。わたしの言葉と業は、自分から出たのではない。父がわたしを通して行われているのだ」。

 

 

 

主イエスの御言葉を、フィリポは受け入れたのでしょうか。答はありません。ただ、主イエスは続けてこう宣言されました。「わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(11)

 

 

 

フィリポは、現実に主イエスしか見ることはできません。主イエスが言われることしか聞くことができません。

 

 

 

そして、今日のわたしたちは、主イエスの十字架しか見ることはできません。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスとトマス、主イエスとフィリポの対話を通して、教会の現実の問題を解決しようとしているのです。

 

 

 

それは、教会の礼拝におけるキリストの臨在です。今、わたしたちは、11弟子たちのように主イエスと直接に交わることはできません。

 

 

 

聖書を通して主イエスと交わっています。聖書の御言葉の朗読を聞き、その説き証しである説教を聞くことを通して、わたしたちと共にいてくださる主イエスと交わっています。

 

 

 

直接にわたしたちが主イエスを見ることはできません。父と主イエスが遣わされた聖霊を通して、その聖霊が著者のなられた聖書とその説き証しである説教を通して、わたしたちは主イエスにお会いし、父なる神と主イエスとの交わりの中に入れられているのです。

 

 

 

使徒ペトロは、その喜びを次のように言っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Ⅰペトロ1:89)

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は主イエスとトマス、そしてフィリポの対話を学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

わたしたちは、トマスのようにリアリストです。自分の目に見えることしか信じていません。同時にフィリポのようにイデアリスト、理想主義者で、現実を見ないで、神に見えることを夢想する者です。

 

 

 

どちらでも、等しく主の御前にいる恵みをいただいています。この礼拝から拒まれることはありません。

 

 

 

今朝、主イエスは11弟子たちと同様に、わたしたちにも御自分が父なる神から遣わされた者であり、神の啓示者であり、父なる神に至る唯一の道であることを宣言されました。

 

 

 

どうか聖霊の導きを通して、今朝の御言葉を主イエスがわたしたちに語られたお言葉として信じさせてください。

 

 

 

願わくは、常にこの礼拝でわたしたちが主と共におり、主イエスと父なる神の交わりの中に入れられている恵みを覚えさせてください。

 

 

 

この世は不信仰な世界です。わたしたちが信じる神を、主イエスを、この目の前に見せてくれ、そうすれば信じてやろうと言われます。

 

 

 

その時に、わたしたちが「教会の礼拝に来てください」と誘い、聖書とその説き証しである説教を通して、わたしたちは主イエスと会い、父なる神の愛を喜んでいるのだと伝えさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。