ヨハネによる福音書説教75       主の2018513

 

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士たちと、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは、「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人々を、わたしは一人も失いませんでした。」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロ言われた。「剣をさやに納めなさい」父がお与え杯は、飲むべきではないか。」

 

             ヨハネによる福音書第181-11

 

説教題:「裏切りと逮捕」

 

 本日よりヨハネによる福音書の18章から19章で主イエスの受難と死を学びます。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、1431節で主イエスが11弟子たちに最後の晩餐で「さあ、立て。ここから出かけよう。」と言われました。

 

 

 

 そして、この主イエスが11弟子たちに呼びかけられたお言葉は、今朝の181節につながるのです。

 

 

 

 「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、ギドロンの谷の向こうへ出て行かれた。

 

 

 

 ところが、ヨハネによる福音書は、その後主イエスが11弟子たちと共に最後の晩餐の席に留まり、15章から16章で第二のお別れ説教をなさり、そして17章で主イエスが最後の晩餐の終わりに11弟子たちと後のキリスト教会のために大祭司の執り成しの祈りをされたことを記しています。

 

 

 

 181節で、ヨハネによる福音書は、主イエスの長い説教と執り成しの祈りが終わって、いよいよ主イエスが十字架への道を歩み出されたことを記しています。

 

 

 

 これが新共同訳聖書を読みますわたしたちの理解ではないでしょうか。

 

 

 

 それが、181節の「こう話し終えると」という文章を読むわたしたちの語感ではないでしょうか。

 

 

 

 ところが、ヨハネによる福音書のギリシア語新約聖書の原文には、「終える」という言葉がありません。

 

 

 

 ギリシア語の単語が二つ並ぶだけです。直訳すると、「これらのことを言った後」です。

 

 

 

 181節の冒頭の文章は、15章から17章の主イエスの長い説教と祈りを受けて、記されているのではなく、1431節の「さあ、立て。ここから出かけよう。」という主イエスが11弟子たちに短く呼びかけられた言葉を受けているのです。

 

 

 

 だから、1517章は長い挿入の文章であります。

 

 

 

 本来、ヨハネによる福音書は、14章から18章につながり、キリストの受難と死を記していたと考えられます。

 

 

 

 ところが、後に編集され、今日のヨハネによる福音書の形になりました。だから、元々の福音書の形の痕跡が残りました。それが、1431節の終わりの主イエスの御言葉であり、181節の冒頭のヨハネによる福音書の文章なのです。

 

 

 

 だから、181節の「こう話し終える」は、事実とは異なる文章になっていると、わたしは思います。

 

 

 

 主イエスは長く語り終えられたのではなく、本当に短く言われたのです。「さあ、わたしは今から受難の道を歩み始めるぞ」と。そして、18章から主イエスの御自身の決意に従って、11弟子たちと一緒に最後の晩餐の家から外の夜の暗闇に出られて、「キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」のです。

 

 

 

 「キドロンの谷」は、エルサレムの都とオリーブ山の間にある峡谷です。ユダヤの国は、冬が雨季でした。だから、冬になると、キドロンの峡谷に水が流れました。

 

 

 

 主イエスと11弟子たちは、夜の暗闇の中、エルサレムの都からオリーブ山に向かって出て行かれたのです。

 

 

 

 このようにヨハネによる福音書は、主イエスの受難と死を夜の暗闇から記し始めるのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書はわたしたち読者に15節で「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と記していることを、はっきりと証しするためです。

 

 

 

 光であるキリストは、天地創造の時に地が暗闇に覆われていたとき、光として天地創造の業をなされました。そして、人間の肉体を取り、今この暗闇の地上でキリストは、第2の創造であるわたしたち人間を罪から救い出すために、十字架の御業をなさるのです。

 

 

 

 だから、今主イエスは、最後の晩餐の明るい家の中から外の暗闇の中に出て、19章の31節で主イエスは十字架の上で「成し遂げられた」と救いを完成されるまで、184節でヨハネによる福音書が記すように「進み出て」行かれるのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書にとってキリストの十字架は、キリストの第二の創造の御業なのです。キリストは、この世の罪の暗闇の中で御自身の十字架の御業を通して、永遠の命、すなわち、救いの秩序を造り上げられたのです。

 

 

 

 夜の暗闇の世界の中で、主イエスの12弟子の一人ユダが、主イエスを裏切り、ユダヤの官憲に売り渡しました。

 

 

 

 ユダは、主イエスと11弟子たちの行動をよく知っていました。主イエスと弟子たちは、よくオリーブ山の庭園に集まり、そこで祈りをしていたからです。

 

 

 

 ユダが先導し、ローマの軍隊とユダヤの官憲である祭司長たちやファリサイ派の人々が主イエスを捕らえるために派遣した下役たちを連れて、ゲツセマネの園までやって来たのです。

 

 

 

 外は暗闇の夜です。主イエスを逃さないように、松明やともし火、そして手には武器をもってやって来ました。

 

 

 

 松明はランプのことです。ともし火は家の中で使う燭台のことです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこれから受難と死に向かわれる主イエスを、神の子として紹介しています。

 

 

 

だから、主イエスは、全能の神であり、これから御自分の身に起こるすべての事を何もかもよく知った上で、自ら弟子たちの群れの中から進み出て、ユダヤの官憲に捕らえられたのです。

 

 

 

主イエスは、ローマの兵士たちとユダヤの官憲の下役たちに、彼らの前に出て、「だれを捜しているのか」と2度質問されました。

 

 

 

彼らが主イエスに「ナザレ人イエスだ」と2度答えると、主イエスは、彼らに「わたしである」と言われました。

 

 

 

劇画タッチに描かれています。主イエスが主なる神であると。2度問答が繰り返され、主エスが2度「わたしである」と答えられる主イエスの言葉に、ローマの兵士たちもユダヤの官憲の下役たちも、まるで神の御前に出た者のように後ろに下がりつつ、仰向けに倒れてしまいます。驚きのあまり、のけどり、後ずさりし、倒れるのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書の受難の主イエスは、権威あるお方です。どこにも弱さがありません。ゲツセマネの園での祈りはすべて削除されています。主イエスは、堂々と受難と死の道を歩まれます。父なる神の御国に至る栄光の道であるからです。

 

 

 

 受難の主イエスは、堂々とユダヤの官憲に御自分を差し出されて、11弟子たちをお守りになりました。

 

 

 

 主イエスは、御自分を捕えに来た者たちに御自分を差し出し、11弟子たちを捕えないで、去らせる、解放するようにお命じになりました。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に9節で「それは、『あなたが与えてくださった人々を、わたしは一人も失いませんでした。』と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」と説明しています。

 

 

 

 これは、主イエスが63740節で言われた御言葉です。主イエスは、ガリラヤで伝道され、多くの群衆たちに御自分が命のパンであることを説教されました。説教を聴きました群衆たちは、主イエスに「主よ、わたしたちにそのパンを毎日ください」とお願いしました。

 

 

 

 主イエスは、群衆たちの不信仰を責めて、父なる神が御自分にお与えくださった者たちを必ず守るとお約束になりました。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネ6:3740)

 

 

 

 主イエスは、御自身のこの御言葉を満たすために、今ユダの裏切りを受け入れ、ローマの軍隊とユダヤの官憲の下役たちが御自分を逮捕することを自ら弟子たちの中から進み出て受け入れられているのです。

 

 

 

 ところが、主イエスの一人の弟子ペトロが主イエスを捕らえに来た者に短刀で切りつけ、彼の右耳を切り落としました。その者の名前はマルコスです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、主イエスが彼の耳を癒されたことを記していません。

 

 

 

 主イエスはペトロに短刀を鞘に納めよとお命じになり、「父がお与えになった杯は、飲むべきである」と言われています。

 

 

 

 主イエスは、堂々と受難と死を受け入れておられます。父なる神が御子に与えられたこととして。

 

 

 

 マタイ、マルコ、ルカによる福音書が描く受難のキリストとは、ヨハネによる福音書の受難のキリストは異なります。

 

 

 

 弱さがありません。強いキリストです。父なる神の御心を行われ、父なる神が御子に委ねられた教会とキリスト者たちをどこまでも守られ、しかも堂々と御自身の十字架の死を受け入れて、前進されています。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のように伝えるのです。主イエスは、父なる神が主イエスにおいて選ばれた者たちを、主イエスを信じる者たちを、一人も失うことなく、すべての者を永遠の命を得させるために、今受難と死の道を歩まれているのだと。

 

 

 

 主イエスがローマの軍隊とユダヤの官憲の下役たちに御自身を積極的に差し出され、11弟子たちをお守りくださったので、初代教会が生まれたのです。そして、この罪の暗闇の世界に、キリスト教会を通して、今も世界の人々に永遠の命の福音が伝えられているのです。

 

 

 

 そして、今ここでわたしたちも、ヨハネによる福音書を通して、主イエスに守られていることを教えられます。

 

 

 

 わたしたちは、この世でどのような状況であろうと、主イエスを信じるなら、十字架の主イエスのゆえに永遠の命にあずかることができるのだという大きな励ましを得られるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりわたしたちは主イエス・キリストの受難と死を学び始めました。

 

 

 

主イエス・キリストの受難と死を通して、ここに集まる者を、主イエスはどんな状況の中でもわたしたちが一人も失われることなく、永遠の命にあずからせてくださるとの慰めを得られて感謝します。

 

 

 

どうかわたしたちが世の人々にキリストの十字架の贖いを通して今朝、主イエスが「『あなたが与えてくださった人々を、わたしは一人も失いませんでした。」」と言われた御言葉を、福音として伝えさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

ヨハネによる福音書説教76       主の2018520

 

そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

 

シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

 

大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

 

シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

 

          ヨハネによる福音書第181227

 

説教題:「尋問と否認」

 

 今朝は、キリスト教会にとって、特別な日です。ペンテコステを記念し、覚える日です。

 

 

 

 古来のキリスト教会は、聖霊を次のように告白しました。聖霊は「主、いのちの与え主であり、父から出て、父と子と共に礼拝され、ともにあがめられる。そして預言者を通して語られた。(ニカイア信条)

 

 

 

 聖霊は、「あなたがたの中で語ってくださる父の霊である(マタイ10:20)。使徒パウロは言う。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。(ローマ8:9)。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ローマ8:2)。主イエスは父なる神に聖霊を執り成して下さり、こう祈られました。「わたしの父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(ヨハネ14:16)

 

 

 

 ペンテコステの日以来、聖霊は表舞台に登場され、今日の聖霊の時代がやって来たのです。

 

 

 

今聖霊は、キリストの霊としてわたしたちの教会に臨在されています。聖霊は聖書の御言葉と共にお働きになります。主イエスの十字架と復活の救いの御業を実現なさる原動力なのです。

 

 

 

 わたしたちとキリストとを結び合わされるのは、聖霊です。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白は、聖霊の働きとして、有効召命、義認、子とされること、聖化、救いに導く信仰、命に至る悔改め、善き業、聖徒の堅忍、恵みと救いの確信を取り扱っています。この聖霊の継続的な働きがなければ、今ここにキリスト者としてのわたしの存在はありません。主イエスが聖霊を通して、ここにわたしたちを集め、礼拝に導き、罪を悔いること、主イエスを救い主と信じる信仰へと導いて下さらなければ、ここに上諏訪湖畔教会は存在していないのです。

 

 

 

 だから、ヨハネによる福音書18章と19章を通して、わたしたちは聖霊が導かれる受難の主イエス・キリストに、共に目を注ごうではありませんか。

 

 

 

聖霊が、キリストの霊として、受難の主イエスと共に受難と十字架の道を歩まれています。

 

 

 

なぜなら、今ここにキリストの霊としてわたしたちと共に臨在される聖霊は、受難のキリストです。聖霊は、主イエス・キリストとして、父なる神が選ばれた者たちにために、苦難を担って共に苦しんでくださったのです。同時に死人の中から復活されたキリストのように、霊に死んでいたわたしたちを永遠の命に復活してくださるのです。だから、ヨハネによる福音書は、すべてのこの世の教会にとって、すべてのキリスト者にとって、主イエスが希望のお方であるように、聖霊も希望のお方なのです。

 

 

 

 さて、今朝は、ヨハネによる福音書181227節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 主イエスは、ローマの軍隊とユダヤの官憲の下役たちに捕らえられました。捕縛され、ゲツセマネの園から大祭司カイアファの義理の父であるアンナスの屋敷に連行されました。

 

 

 

アンナスは紀元6年に大祭司に任命され、15年まで大祭司でした。その後彼の婿であるカイアファが15年から36年まで大祭司に任命されました。だから、アンナスは彼の娘婿であるカイアファの後ろ盾として、力を持っていたのでしょう。

 

 

 

アンナスは、エルサレム神殿の祭司長たちのボスであり、神殿で商売をしている者たちから莫大な利益を得ていたのです。両替人や犠牲の鳩や子牛、小羊を売る者たちから場所代を取っていたのです。ところが、主イエスは神殿で両替をする者たちや犠牲の動物を売る者たちの台をひっくり返され、盗人のように扱い、神殿から追い出されました。だから、アンナスは主イエスを見過ごすことはできませんでした。

 

 

 

12節から14節、それから、19節から24節で、主イエスはアンナスの屋敷に連行され、そこでアンナスから尋問されて、堂々と答えておられることを、ヨハネによる福音書は記しています。

 

 

 

アンナスは、主イエスに彼の弟子たちのことや主イエスの教えについて尋問しました。

 

 

 

主イエスの大祭司アンナスへの応答は、堂々としたものです。逮捕され、堂々とアンナスの屋敷まで連行されました。

 

 

 

そして、大祭司の義理の父であるアンナスに物おじしないで、堂々と答えられました。すなわち、主イエスが神殿で、過越の祭に集まる群衆たちに誰もが見ている前で堂々と語り、行動したと言われました。人に隠れて何かをするということはありませんでした。

 

 

 

だから主イエスは、アンナスに言われました。「このわたしに尋問するのではなく、神殿でわたしが何を話し、何をしたかを多くの群衆が見て、知っているのだから、彼らから聞くと良い」と。

 

 

 

主イエスがアンナスに答えるのを聞いていた下役は、主イエスが何と大祭司様に向かって無礼な奴だと思ったのです。だから、彼は、主イエスに「大祭司様に向かって、何という口の利き方をする奴だ」と非難し、彼は平手で主イエスの顔を打ちました。

 

 

 

ヨハネの受難のイエスは、沈黙のイエスではありません。堂々と下役に反論されました。正義を主張されました。マタイ、マルコ、ルカによる福音書から受難の主イエスを思い描く方には想像できないほど、ヨハネによる福音書の主イエスは堂々とされ、強いお方ですし、罪なき正しいお方です。受難の主イエスの悪ところを、誰も証言できません。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に受難の主イエスが堂々と信仰を語られ、信じていることを語られる姿を示して、わたしたちがどんなにこの世に対して公然とキリストを語り、正しいことを正しいと語ることが大切なのではないかと知らせてくれています。

 

 

 

この世の者たちは、初代教会のキリスト者たちを迫害していました。ヨハネによる福音書は、受難のキリストを通して、キリスト者たちが堂々と信仰を語り、理不尽なことをする者にはちゃんとした説明を求めるべきだ、キリスト者たちは堂々と神に敵するこの世を生きていくべきなのだと訴えているのです。

 

 

 

アンナスは、主イエスを解放することなく、縛ったままで、カイアファのところに送還したのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、この世を堂々と生きるキリストに並行して弱い弟子たちを描いています。

 

 

 

12弟子の一人ユダはお金のために主イエスを裏切りました。ペトロは、3度主イエスを知らないと否認しました。

 

 

 

新約聖書の4つの福音書は皆、ペトロが主イエスを3度否認したことを記しています。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、ペトロともう一人の弟子がアンナスの屋敷で主イエスが尋問されるのを目撃していたと記しています。もう一人の弟子は、この福音書の著者ヨハネでしょう。

 

 

 

彼は、大祭司の家と関係があり、出入りを許されていたようです。アンナスの屋敷の中庭で裁判が行われ、彼は中庭に入ることができましたが、ペトロは外に立っていました。そこで門番の女中にヨハネにはペトロが中庭に入れるように交渉しました。

 

 

 

ペトロが門を通る時に、ペトロを見て、「あなたも、ヨハネさん同様に、あの方のお弟子でしょう。」と言いました。ペトロは、あまり目立ちたくなかったのでしょう。一言「違う」と答えて、中庭に入りました。

 

 

 

外は夜で冷えます。アンナスの屋敷の僕たちや下役たちは中庭に炭火をおこして温まりました。ヨハネとペトロも一緒に温まり、裁判の行方を見守っていました。

 

 

 

ところが一緒に炭火に温まっている人々の中からある者がペトロに言いました。「お前もあの男の弟子の一人だ。」と。ペトロは、今度は強く否定します。相手の質問を打ち消して、「違う」と強く答えています。

 

 

 

ところが、運の悪いことに、ペトロがゲツセマネの園で主イエスを捕らえに来た下役の一人マルコスの耳を切り落としましたのですが、彼の親戚の者がいたのです。彼は、マルコスと一緒に主イエスを捕らえるためにゲツセマネの園に行き、ペトロがマルコスの耳を切り落とすのを見ていたのです。

 

 

 

ペトロは絶体絶命です。きっと頭の中が真っ白になったことでしょう。それでも彼は、恐ろしさから身を守るように、再び強く打ち消して、主イエスを否認しました。その時に夜明けを告げる鶏が鳴きました。

 

 

 

救いようのないペトロの姿です。

 

 

 

受難の主イエスの堂々とした姿と主イエスの弟子たちの何とも惨めな姿を、ヨハネによる福音書は並行して記しています。

 

 

 

主イエスは、ペトロにヨハネによる福音書の1338節で予告されていました。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」

 

 

 

予告通りです。だが、ヨハネによる福音書は、ペトロがその後どうしたかは沈黙しています。マタイによる福音書のように、激しく自らの罪を嘆き泣くペトロの姿は描かれていません。

 

 

 

ここはよく考えないといけないと思うし、どうしてヨハネによる福音書は沈黙しているのだろうと、いろいろと思い巡らしていただきたいです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、一つは、主イエスを三度否認したペトロは、あなたがたですと伝えていると思います。

 

 

 

わたしたちは、ペトロのように弱い者たちです。いつどんな状況で、わたしたちもペトロのように、主イエスを否認する、裏切るか分かりません。

 

 

 

だからこそヨハネによる福音書は、強い受難のイエスを描いているのです。どんなにわたしたちがペトロのように主イエスを裏切ろうと、主イエスの父なる神は、永遠からわたしたちを選ばれ、そして、主イエスはわたしたちが失われないために、十字架の道を、そして復活へと歩まれるのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書の316節の御言葉を思い起こしてください。「神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 

 

 

主の愛は、この世で弱いわたしたち一人一人を、ペトロのようにしっかりと捕えて放されないのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの朝、わたしたちは受難の主イエスが弟子に裏切られ、ユダヤの官憲に逮捕され、尋問されたことを、そして、ペトロの3度の否認を学びました。

 

 

 

主イエス・キリストは堂々と受難の道を歩まれ、どこにも悪い点がありませんでした。他方わたしたちはペトロ同様に弱く罪ある者です。しかし、主イエスはわたしたちがどんな状況にあっても、一人も失われることなく、永遠の命にあずからせてくださいます。

 

 

 

どうか主よ、わたしたちに勇気をください。世の人々に大胆にキリストの十字架の贖いを伝えることができるようにしてください。そして今朝、主イエスが「『あなたが与えてくださった人々を、わたしは一人も失いませんでした。」」と言われた御言葉を、聖霊が福音宣教を通して、この世の人々に福音として伝えることができるように導いてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

ヨハネによる福音書説教77       主の201863

 

人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか。」と言った。彼らは答えて「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについてあなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」

 

          ヨハネによる福音書第182838a

 

 

 

説教題:「真理とは何か」

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエス・キリストの受難と十字架の死を、ニサンの14日、すなわち、過越祭の前日が始まった夕方から次の日の夜明けまでの間に最後の晩餐の後にオリーブ山での主イエスの逮捕、大祭司の前での裁判、ペトロの否認、ピラトの裁判、そして主イエスのゴルゴタでの十字架刑と埋葬が次々に起きたことを記しているのです。

 

 

 

 その一連の流れを頭に入れてくださって、今朝はヨハネによる福音書182838節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は28節で「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。」と書き記しています。

 

 

 

 主イエスが大祭司カイアファのもとで尋問され、主イエスは御自分が神の子と称して神を冒涜したとの罪で、ユダヤ官憲から死刑を宣告されたという出来事の経過を、ヨハネによる福音書はすべて記していません。

 

 

 

 ヨハネによる福音書の主イエスの御受難の記事は、はまるでDVDで映画を見ていて、場面を先送りするようにローマ総督ピラトのもとで主イエスが尋問を受けられる場面へと移っています。

 

 

 

 28節の「人々」は、ユダヤ人たちのことです。彼らは、大祭司カイアファの屋敷で主イエスを尋問し、神を冒涜した罪で主イエスを、未明に、すなわち、夜が明けきらない頃に死刑に定めました。

 

 

 

この場面は先送りされ、金曜日の明け方に場面は移り、ユダヤの官憲は主イエスの死刑を実行するために、ローマ総督ピラトのいるローマ総督官邸に主イエスを連れて行きました。

 

 

 

その日は過越祭の前日でした。ユダヤ人たちは出エジプトの出来事を記念して祝い、過越祭をしました。その祭りの中心が主なる神に無傷の雄の小羊とイースト菌を入れないパンを献げ、その後家族で犠牲の小羊とイースト菌を入れないパンと苦菜を食べる食事をすることでした。

 

 

 

だから、ヨハネによる福音書は28節後半で次のように記しているのです。「しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。

 

 

 

ユダヤ人にとって異邦人の地に足を踏み入れることは宗教的な汚れです。汚れた者は主なる神を礼拝し、過越祭で家族と共に食事にあずかることはできないのです。それは、主なる神との交わりを断たれることなのです。

 

 

 

だから、ユダヤ人たちは決してローマ総督の官邸に入ろうとはしませんでした。

 

 

 

それでは主イエスの裁判は行えません。ピラトが譲歩するのです。

 

 

 

それゆえヨハネによる福音書は、29節で「そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、『どういう罪でこの男を訴えるのか。』と言った。」と記しているのです。

 

 

 

 ピラトは官邸を出て、ユダヤ人たちに「この人に対してどんな訴えを、あなたがたは起こすのか」と尋ねました。

 

 

 

新改訳聖書2017は、「この人に対して何を告発するのか」と訳しています。

 

 

 

ピラトの問いにユダヤ人たちは30節で次のように答えています。「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう

 

 

 

ユダヤ人たちは、ピラトに主イエスを悪人として告発したのです。

 

 

 

彼らはピラトに答えました。「この人が悪いことを行う者でないならば、あなたに引き渡さなかったでしょう」と。

 

 

 

しかし、ピラトはユダヤ人たちの主イエスに対する悪意を見抜いておりました。

 

 

 

だから、ピラトは、ユダヤ人たちに「主イエスを、引き取れ」と命じました。遠回しに彼は、「裁判しない」と言ったのです。

 

 

 

そして、ピラトは彼らに「自分たちの律法に従って裁け」と言っていますね。ギリシャ語新約聖書を直訳すると、「あなたがたの律法に従って裁け」です。

 

 

 

ピラトの言葉に、当時のキリスト教会がユダヤ教を批判していた思いが込められています。

 

 

 

実際にヨハネによる福音書が主イエスとファリサイ派の人々やユダヤ人たちと論争された時、主イエスは彼らに「あなたたちの律法」と817節、1034節で言われています。

 

 

 

主イエスは、彼らに「あなたたちの律法」と言われることで、彼らが一層厳格化しようとした律法主義を非難されていますし、それからひたすら主イエスは距離を取ろうとされました。同じように当時のキリスト者たちもユダヤ人たちに同じ姿勢を取っており、ヨハネによる福音書はそれをピラトの言葉に反映させているのです。

 

 

 

ユダヤ人たちは、自分たちの律法で主イエスを裁きたかったでしょう。しかし、ローマ帝国の植民地であるユダヤには人を処刑する権限が認められていませんでした。だから、31節後半でユダヤ人たちはピラトに答えて言いました。「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、32節で次のように述べています。「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。

 

 

 

主イエスがユダヤ人のニコデモと対話された時、314節で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と言われました。また主イエスはユダヤ人たちと8章で対話されました。そしてヨハネによる福音書は、828節で次のように主イエスの御言葉を述べています。「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。』

 

 

 

ヨハネによる福音書は、ユダヤ人たちがピラトに訴えて、ピラトが主イエスを処刑にする権限を用いることで、主イエスが言われて来た御言葉が実現するのだと述べているのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は3338節で、裁判官ピラトが総督官邸に再び入り、主イエスを召し出して裁判を開き、主イエスを尋問し、主イエスが答えられたことを記しています。

 

 

 

単なる裁判の記録ではありません。ヨハネによる福音書は、主イエスがピラトに御自分が何者であるかを知らされたと証ししているのです。

 

 

 

最初にピラトは、主イエスに33節で「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問します。すると、主イエスはピラトに次のように答えられます。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについてあなたにそう言ったのですか。

 

 

 

ピラトは、主イエスに「おまえは政治的メシアか」と質問しました。それに対して主イエスは、ピラトに答えられます。「それはあなたの意見か、他人が言うことを鵜呑みにしているのか」と。

 

 

 

ピラトは主イエスに反論します。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか

 

 

 

ピラトは、自分の立ち位置を第3者的に置こうとしています。だから、彼は言います、自分はユダヤ人でないと。そして自分はこの裁判の当事者同士ではないと。その上で彼は主イエスに「おまえは何をして。訴えられたのか」と尋問します。

 

 

 

主イエスはピラトに答えて36節で言われました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。

 

 

 

主イエスは、ピラトに「わたしはこの世の王ではない」と答えられたのです。

 

 

 

主イエスの国は神の国だからです。この世の国ではありません。主イエスが政治的メシアであれば、ユダヤ人たちは主イエスをピラトに引き渡しはしませんし、主イエスの弟子たちは主イエスをピラトに引き渡さないように戦ったでしょう。

 

 

 

すると、ピラトは主イエスに尋問します。「おまえはユダヤ人の王ではないが、一人の王なのだな」と。ピラトは、どうしても主イエスをこの世に王にしたいようです。

 

 

 

だから、主イエスはピラトに37節後半に次のように答えられました。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。

 

 

 

主イエスはピラトに言われました。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理を証しするためにこの世に来ました。真理に属する者、すなわち、わたしに属している者はわたしの声を聞きます。」

 

 

 

主イエスは、御自身の前にいる者を、絶対に第3者とはされません。主イエスに属する者か、そうでないかを決断させられるのです。

 

 

 

ピラトは、自分を主イエスに委ねることができません。主イエスを、父なる神が遣わされた独り子なる神と信じることはできませんでした。それを、この世の人々に知らせるために、主イエスは受肉し、この世に来られたのです。

 

 

 

ピラトは言いました。「真理とは何か」と。

 

 

 

これは、ピラトの「わたしには主イエスは分からない」というつぶやきだと、わたしは思うのです。

 

 

 

哲学の問題ではありません。主イエス・キリストは、あなたにとって何者かという問題です。

 

 

 

大学や学校で問われる問題ではありません。この礼拝で、ここに主イエスに集められた者たちが毎週問われている問題です。

 

 

 

もっと深く考えるならば、今ここで目に見えない主イエスの御前にいるわたしたちの主体性の問題です。

 

 

 

主体性はわたしたちのアイデンティティです。ピラトは、主イエスの御前で自分を第3者の位置に置こうとしました。主イエスは、そこからピラトを主体的に主イエスに関わらせようとされました。

 

 

 

主体性とは、『日本語大辞典』を紐解きますと、第一に「行動の中心になるものがもつ自発的な能動性」のこととあり、第二に「考え、感じ、体験し、行動する自由を持っている、人間の自主的・能動的な性質、態度」とありました。

 

 

 

ピラトが主イエスと対話するのは、彼が心から望んだのではありません。ユダヤ人たちが訴えて来たから、彼は第3者として関わりました。

 

 

 

彼は公平な立場で、善意によって、第3者的な立場で、主イエスに尋問し、彼が何者かを知ろうとしました。その結果が、「真理とは何か」という彼のつぶやきでありました。

 

 

 

礼拝は、誰かに強制されるのではありません。日曜日に教会で礼拝するというわたしたちの行動の中心は、わたしたちの自由で自発的な思いからです。一言で言えば、自分からこの教会の礼拝に来ているのです。そして、この礼拝を通して主イエスは、わたしたちに御自分が父なる神の独り子であることをお知らせくださるのです。

 

 

 

わたしたちは、この礼拝で主イエスが、御自分が何者であるかをお知らせくださる、その御声を聞くのです。

 

 

 

そこにはピラトのように「真理とは何か」というつぶやきはありません。

 

 

 

主イエスがわたしたちを御自分の食卓に招かれる喜びがあります。わたしたちは、一人ではありません。キリストの弟子であり、キリストに属する者であり、わたしたちの国籍は天にあります。そこから、主イエス・キリストはわたしたちのところに再び来てくださるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は受難の主イエスがローマ総督ピラトに尋問されたことを学びました。

 

 

 

主イエス・キリストはピラトの尋問に堂々と答えられ、彼が自分を第3者の立場に置くことを許されず、ピラトに主イエスは御自分がこの世の王ではなく、神の御国の王であり、この世に御自分が父なる神の独り子であるという真理を伝えるために来られたことを証しされました。

 

 

 

しかし、ピラトは主イエスに膝を屈めず、主イエスが何者であるかを、聞く耳を持ちませんでしたので、主イエスが言われる真理を知りえず、「真理とは何か」とつぶやく結果となりました。

 

 

 

どうか、この礼拝に集まる者たちが、ピラトのように自分を第3者の立場に置くのではなく、進んでキリストの御前に立ち、どんな状況にあっても主体的に主イエスと関わり、主イエスを救い主と信じ、主イエスに養われる羊として、一人も失われることなく、永遠の命にあずからせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教78       主の2018610

 

ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

 

そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。

 

ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ

 

引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」

 

イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見出せない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」

 

ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

 

ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけろ」ピラトが、「あなたたちお王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこでピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。 

 

      ヨハネによる福音書第1838b-第1916a

 

 

 

説教題:「十字架の王」

 

 

 

 紀元1世紀のユダヤにとって最大の事件は、紀元70年にユダヤがローマ軍によってエルサレムの都を包囲され、エルサレム神殿と共にエルサレムの都を破壊されたことです。

 

 

 

 この大事件に先立ってユダヤの国に大きな変化がありました。紀元6年にヘロデ大王の息子のひとり、領主アルケラオスがある不道徳な行いで、ユダヤの民衆によってローマ皇帝アウグストゥスに直訴され、領主を罷免されました。アルケラオスはガリア、すなわち、今日のフランスに流刑となりました。そして、それ以後ユダヤはローマ総督が常駐し支配するローマ帝国の直轄地になりました。

 

 

 

 ポンティオ・ピラトは、5代目のローマ総督で、紀元25年から36年まで11年間ユダヤの総督でありました。

 

 

 

 主イエスがローマ総督ピラトの裁判を受けられたのは、紀元前30年です。そして、紀元36年にピラトはユダヤの総督を失脚しました。その同じ年にパウロがファリサイ人からキリスト教徒に回心しました。

 

 

 

 以上の歴史的な一連の流れを頭に入れて、今朝のヨハネによる福音書の御言葉を学ぶと、主イエスの裁判が生き生きと、わたしたちに伝わってくると思います。

 

 

 

 主イエスは、紀元30年の過越祭の前日、ローマ総督ピラトがエルサレムの都にいた官邸に連れて来られ、ユダヤ人たちに訴えられました。

 

 

 

 その様子を、ヨハネによる福音書は、1828節から1916節に記しています。

 

 

 

 この裁判の記事を理解する鍵は、主イエスはユダヤ人の王であるということです。

 

 

 

 この裁判でピラトは、第一に初めから終わりまで主イエスの無罪を確信しています。

 

 

 

 ピラトは、第二に主イエスを釈放しようと懸命に努力しています。彼は、ユダヤ人たちに何度も主イエスに罪を見出せないと繰り返し訴えています。

 

 

 

ピラトは、第三に主イエスに何度も「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問し、「お前は王なのだな」と繰り返し尋問し、主イエスから「王自分は王である」という答えを導き出そうと努力しています。ピラトにはユダヤ人の王を裁く権限がないので、この裁判を終わらせようとしました。

 

 

 

ところが、ピラトの目論見は失敗します。主イエスはピラトの尋問に「わたしが王であると、あなたが言っている」と言われました。

 

 

 

そこでピラトは、第四に最後の手段にでました。過越祭にユダヤ人たちは、一人の罪人に恩赦を与えて放免するという慣例がありました。

 

 

 

そこでピラトは官邸から外に出て、ユダヤ人たちに次のように提案しました。「過越祭にユダヤ人たちのために一人、囚人を釈放する慣例があるが、お前たちはユダヤ人の王であるイエスと、強盗を働いたバラバとどちらを釈放させてほしいか」と。

 

 

 

ユダヤ人たちは、主イエスではなく、バラバを、と答えました。バラバは、過去に強盗を働いただけでなく、今も強盗を働いている男でした。ユダヤ人たちは、この男の釈放を願いました。

 

 

 

ピラトは、第五に主イエスを捕らえて、鞭打ちました。

 

 

 

これは、ピラトが主イエスを十字架刑にする代わりに、鞭打ちで許そうとしたのです。

 

 

 

だが、ピラトの思いを越えた所で、父なる神の御心は進められました。

 

 

 

ローマの兵士たちは、戯れでしたのでしょう。茨で冠を編み、主イエスの頭にかぶせ、そして、紫の衣服を着せて、彼らは主イエスに「ユダヤの王様、万歳」と、次々に言い、そして、彼らは主イエスの顔を平手で打ち、侮辱しました。

 

 

 

3節の「ユダヤ人の王、万歳」は意訳です。直訳すると、「ユダヤ人の王、喜べ」です。

 

 

 

ローマの兵士たちは知りません。彼らが戯れにしたことを、父なる神は十字架の王主イエスを通して、まことに異邦人の救い、喜びとされたことを。

 

 

 

ピラトは、第六に再び官邸を出て、ユダヤ人たちのところに主イエスを連れて行き、まことに惨めな主イエスを見せて、「わたしはあの人に何の罪をも見いだせない」と宣言します。

 

 

 

茨で編んだ冠を頭に抱き、紫の衣を着た惨めなユダヤ人の王を、ユダヤ人たちにピラトは指し示して、「この人だ」と言いました。

 

 

 

だが、官邸の外にいたユダヤ人たちの反応は変わりませんでした。惨めな王を、彼らは十字架につけろと叫びました。

 

 

 

そこでピラトは、彼らにこのイエスをお前たちが引き取り、十字架につけろ。わたしは彼に罪を見出せない」と宣言しました。

 

 

 

ユダヤ人たちは、ピラトに言いました。「わたしたちはモーセ律法を持っています。それに従うと、この人は死ぬべきです。なぜなら、この人は自分を神の子にしているのだから。」

 

 

 

7節の「神の子と自称した」は、誤訳だと思います。新改訳聖書2017は、正しく「自分を神の子としたのですから」と訳しています。

 

 

 

ユダヤ人たちが主イエスを十字架につけたのは、主イエスが御自身を神の子と自称されたからでありません。主イエスは、御自分が神の子であると宣言し、神の子として父なる神の御言葉を語られ、奇跡を行われ、多くの者たちを癒されたのです。

 

 

 

ユダヤ人たちの言葉を聞いて、ピラトは心の底から恐怖を覚えました。この男は無実であるばかりか、神の子だと。俺は無実の人間を死罪にするだけではなく、神の子を十字架につけようとしているのかと。

 

 

 

だから、ピラトは再び官邸の中に入り、主イエスに尋問しました。「お前はどこから来たのか」と。

 

 

 

しかし、主イエスは、彼の問いに答えられません。

 

 

 

彼が主イエスに「真理とは何か」と問いましたが、主イエスは彼にその真理を語られたのです。

 

 

 

上からの権威です。ピラトは、今、自分は主イエスを死刑にすることも、釈放することもできる権限を持つと思っています。

 

 

 

しかし、主イエスはピラトに言われました。「お前は神から権威を与えられなければ何もできない」と。

 

 

 

主イエスは、ピラトにこの裁判は父なる神の御意志だと言われたのです。

 

 

 

だから、自分たちの王である主イエスを、十字架に引き渡したユダヤ人たちの罪は重いのです。

 

 

 

なぜなら、ユダヤ人たちは、自分たちの王である主イエスを見捨て、異教の王であるローマ皇帝だけが、自分たちの王であると言いました。

 

 

 

ユダヤ人たちの王は主なる神です。しかし、彼らは自分たちの王はローマ皇帝であり、父なる神が遣わされた御子を自分たちの王と認めませんでした。

 

 

 

最後にピラトは、敷石と呼ばれる裁判の場所で、裁判の席に着きました。そして、主イエスを、ユダヤ人たちに「お前たちの王だ」と言いました。

 

 

 

彼らは、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と連呼しました。そして、彼らはローマ皇帝の他に王はないと断言したのです。

 

 

 

こうしてユダヤ人たちは自分たちの真の王を、主を捨てたのです。だから、彼らの罪は重いのです。

 

 

 

70年にローマ軍によってエルサレムの都が包囲され、神殿と共に都が破壊された出来事を、ヨハネによる福音書はよく知っていたでしょう。知っているだけでなく、その出来事にユダヤ人たちが主イエスを十字架に引き渡したことに対する神の刑罰を見たでしょう。

 

 

 

ピラトは、ユダヤ人たちに「あなたがたの王を、わたしは十字架につけるのか」と、15節で問いかけた時に、祭司長たちはローマ皇帝の他に自分たちの王はないと答えました。

 

 

 

しかし、彼らはローマ皇帝によって滅ぼされたのです。

 

 

 

歴史における神の秘儀が理解できますか。

 

 

 

ユダヤ人たちが価値を見いだしませんでした十字架の王主イエスこそ真にすべての人に永遠の命を与えるお方でありました。

 

 

 

この世の王は、ユダヤ人たちにとって神が彼らの罪を裁かれる器でありました。

 

 

 

ピラトがユダヤ人たちに繰り返し「この人を見よ」と、十字架の王なる主イエスを指し示したのは、この世界において真に救いとなり、永遠の命へとわたしたちを導く者は、十字架の王、主イエス以外にないのです。このお方以外にわたしたちの救いはないのです。

 

 

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝も受難の主イエスがローマ総督ピラトに尋問されたことを学びました。

 

 

 

ヨハネによる福音書がわたしたちに伝えることは、十字架の王主イエス・キリストです。

 

 

 

この方がわたしたち教会の唯一の主であります。ユダヤ人たちのように、わたしたちもこの世の王を頼み、主イエスを見捨てるならば、この世で災いを免れません。

 

 

 

わたしたちの世界で、この世の権力は人を裁く権能を持っています。しかし、主イエスは、この世の権力は、上から与えられなければ持つことのできないことを教えてくださっています。

 

 

 

わたしたちは、日本の国で少数者のキリスト者として生きています。

 

 

 

十字架の王主イエスに服して、この世を歩ませてください。

 

 

 

試練と艱難の中でこの世のものに信頼するのではなく、十字架の王主イエスに信頼し、主イエス以外に救いのないことを確信させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教79       主の201871

 

こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

 

兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく上から下まで一枚綴りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

 

      ヨハネによる福音書第1916b24

 

 

 

説教題:「十字架を背負うユダヤ人の王」

 

 

 

 今朝は、ヨハネによる福音書第1916節後半から24節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、主イエスの処刑の状況を記しています。

 

 

 

 ローマ総督ポンティオ・ピラトの裁判で、主イエスは有罪宣告され、処刑にするため、執行人のローマの兵士たちに引き渡されました。

 

 

 

 「こうして、彼らはイエスを引き取った」のです。「彼ら」とは主イエスを処刑にする執行人たちです。執行人たちはローマの兵士たちでした。

 

 

 

 ですから、ヨハネによる福音書は、23節で「兵士たちは、イエスを十字架につけてから」と記しているのです。

 

 

 

 さて、ヨハネによる福音書は、主イエスの死刑の状況を記すにあたって、次の3つの独自な記事を記しています。

 

 

 

 第一は、ヨハネによる福音書1917節です。「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

 

 

 

 「イエスは、自ら十字架を背負い」と記されています。

 

 

 

 主イエスは、御自分の意志で十字架を背負われ、処刑場の「ゴルゴタ」、すなわち、「されこうべの場所」に向かわれました。

 

 

 

 「ゴルゴタ」は、エルサレムの城壁の外にありました。ラテン語ウルガタ訳が「ゴルゴタ」を「カルバリア」と訳したので、讃美歌で「カルバリの丘」と歌われるようになりました。

 

 

 

ヨハネによる福音書を読んでいますと、ゴルゴタについて次のことが分かります。すなわち、エルサレム城壁の外にあり、公道が近くを通り、よく人目に付く場所であり、死者を埋葬する墓地の近くにありました。

 

 

 

ローマの兵士たちは、主イエスをゴルゴタで十字架に付けました。18節にその様子を記しています。「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

 

 

 

榊原康夫先生が『ヨハネ福音書講解』の中で、主イエスが自ら十字架を背負われて、ゴルゴタの十字架に歩まれる姿に、初代教会は旧約聖書の創世記22章でアブラハムの子、イサクが自ら薪を背負いモリヤの山に登って犠牲となったことを読み取ったであろうと説教されています。

 

 

 

主イエスの十字架は、政治犯の処刑ではありません。

 

 

 

今、聖書を学ぶ集いでイザヤ書を学んでいます。有名な53章を学びました。そこで預言者は、来るべきメシアをこう預言するのです。「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成したのはこの人であった(イザヤ書53:12)

 

 

 

 左右の罪人たちの間で十字架にかけられた主イエスは、預言者イザヤが預言したメシア、「苦難のしもべ」でありました。主イエスは、神に背いて罪を犯し、永遠の死に至ろうとする者の身代わりに死なれて、その罪を執り成されるのです。

 

 

 

 第二は、主イエスの罪状書きです。1922節です。「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

 

 

 

 ピラトが主イエスの十字架の上に罪状書きを掲げました。「ナザレ人イエス ユダヤ人の王」と。罪状書きはヘブライ語とラテン語とギリシア語の3ヵ国語で記されていました。

 

 

 

 ゴルゴタは、先ほど説明したように、エルサレムの都に近くで、公道が通っておりました。だから、エルサレムの都の住民だけでなく、過越の祭でエルサレムの都に上京した大勢の人々が主イエスの十字架を目撃し、十字架の上の罪状書きを読みました。

 

 

 

 だから、ユダヤ人の祭司長たちは、何度もローマ総督ピラトに罪状書きを書き改めるように抗議したのです。しかし、ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。そして彼は、彼らの訴えを取り下げたのです。

 

 

 

 この記事はヨハネによる福音書の独自の記事です。どうしてピラトは、「ナザレのイエス ユダヤ人の王」という罪状書きをローマの兵士たちに命じたのでしょう。

 

 

 

 ピラトは、主イエスが訴えられたとおりの名を罪状書きに記したのでしょう。しかし、十字架の主イエスを通して、父なる神はユダヤ人と異邦人たちに、すなわち、世界のすべての民に、十字架のキリストの罪状書きで、「ナザレ人イエスはユダヤの王」と宣言されたのです。十字架につけられた主イエスは、その罪状書きで、「ナザレ人イエスはユダヤの王となった」と全世界の民に宣言されました。

 

 

 

 だから、ヨハネによる福音書にとって十字架のキリストは栄光のキリストなのです。

 

 

 

 第三に2324節でローマの兵士たちが主イエスの死刑を執行した報酬を分け合う記事です。

 

 

 

ローマの兵士たちは、主イエスの上着を4つに分け、下着は一枚綴りの布であったので、くじで分け合いました。

 

 

 

彼らの行いによって、旧約聖書の詩編2219節の御言葉が実現したと、ヨハネによる福音書は証言しているのです。

 

 

 

わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。

 

 

 

上着を4つに裂いたのではありません。榊原先生は上着に4つの部分があり、ローマの兵士たちは分け合ったと説教されています。すなわち、ターバン、帯、服、そしてサンダルです。下着は分けるわけにいきませんので、くじ引きにしたのです。

 

 

 

初代教会は、その姿に詩編2219節で詩人が預言していたことが、主イエスの十字架を通して実現したと理解しました。

 

 

 

しかし、榊原先生の説教集を読んでいますと、更に深く理解されています。ローマの兵士たちが主イエスの衣服を分け合いましたので、主イエスは真っ裸で、あばら骨が見える姿で、十字架に付けられました。詩編22編の詩人は、「わたしは上着も下着も全部、分け合われ、くじで取られたので、わたしは素っ裸で、あばら骨が見えるほどだ」と嘆きました。

 

 

 

十字架の主イエスに、詩編22編の詩人の苦難が実現したのです。主イエスは、十字架の上で、衣服のすべてをはぎ取られて、素っ裸になられました。

 

 

 

どこが栄光のキリストなのだと、思われる方もありましょう。惨めなキリストではないかと。

 

 

 

そうでしょうか。榊原先生は、カルヴァンの次の説教の言葉を紹介されています。「主イエス・キリストが着ている物をはぎ取られたのは、彼の義をわたしたちにまとわせるためである。彼の体が裸で人々の辱めにさらされたのは、わたしたちが栄光をまとって神の御座の前に現れるようにするためである。」

 

 

 

ヨハネによる福音書は、真っ裸の十字架のキリストに、栄光のキリストを見ました。わたしたちの罪を贖われるユダヤの王を見たのです。

 

 

 

そして、今朝、わたしたちは、十字架のキリストに、わたしたちの王であるキリストを見させていただきましょう。

 

 

 

十字架のキリストの出来事は、罪状書きにある通り、全世界の出来事として、そして、今ここにいますわたしたちのための出来事として起こりました。

 

 

 

主イエスがローマの兵士たちに衣服すべてをはぎ取られ、真っ裸で十字架につかれたのは、カルヴァンが説教するようにキリストの義をわたしたちにまとわせるためなのです。こうしてわたしたちがキリストを通して父なる神と和解させていただき、神の子とされ、毎週の礼拝ごとに神の御前に出て、御言葉と聖餐の恵みにあずかるためなのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝から主イエスの十字架を学びます。

 

 

 

ヨハネによる福音書がわたしたちに伝える十字架の王主イエス・キリストに、わたしたちの目と心を注がせてください。

 

 

 

主イエスは、わたしたちを罪と死から救い出すために、自ら十字架を背負い、ゴルゴタの刑場へと歩まれました。

 

 

 

神の独り子であられるのに、わたしたちと同じ肉体を取り、この世に来られ、わたしたちに代わって罪を負ってくださいました。

 

 

 

主イエスの十字架の上の罪状書きは、主イエスがユダヤ人の王であるだけでなく、全世界のわたしたちの王であることを宣言する者です。

 

 

 

どうか、礼拝を通して全世界の王であり、わたしたちの贖い主である主イエス・キリストを崇めさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。