ヨハネによる福音書説教47    主の2017611

 

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのぞけなさい」と言われると、シンダラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

             ヨハネによる福音書第第113844

 

 

 

 説教題:「ラザロ、出て来なさい」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の113844節の御言葉を学びましょう。主イエスがラザロを甦らされたクライマックスの第4幕です。

 

 

 

 ヨハネによる福音書の主イエスが死んだラザロを甦らされた出来事は、まるで演劇を見ているように、4幕で構成されています。

 

 

 

 聖書の見出しに従って、11116節でマルタとマリア姉妹の兄弟ラザロが危篤となり、彼女たちは遣いをやって、主イエスに兄弟の病気を知らせました。主イエスは、彼女たちの知らせを聞いても、二日間動かれませんでした。ラザロは死にました。主イエスは弟子たちに再びユダヤに行こうと言われ、第1幕が終わりました。

 

 

 

 第2幕は、111727節です。主イエスと姉妹マルタとの対話です。ラザロの死後4日目に主イエスと弟子たちはエルサレムの都から3キロ離れたベタニアの村に着きました。姉妹マルタが主イエスを迎えました。そこで主イエスとマルタが対話をしました。彼女は、主イエスに言いました。「兄弟が生きているうちにあなたが来てくだされば、兄弟は死なずにすんだのに」と。主イエスは、彼女に言われました。「あなたの兄弟は復活する」と。彼女は主イエスに言いました。「この世の終わりの日に復活があることを信じている」と。主イエスは、彼女に宣言されました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。マルタは主イエスに言いました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じて来たのです」と。主イエスとマルタの対話は、最初から最後までかみ合っていません。主イエスは、マルタに「わたしは、復活であり、命である。だから、今ラザロを甦らそう」と言われているのに、彼女はこの世の終わりに兄弟ラザロも自分も復活することは信じてきましたと答えているのです。

 

 

 

 第3幕は、112837節です。主イエスと姉妹マリアとの対話です。姉妹マルタは、主イエスをその場に置いたまま、家に帰り、姉妹マリアに小声で、主イエスがベタニアの村の入口におられることを伝えました。

 

 

 

 マリアは急いで主イエスのところに行き、主イエスの足もとに伏しました。そして彼女は主イエスに姉妹マルタと同じことを言いました。ところがマリアは、主イエスの前で泣きだしてしまいました。彼女の後を追いかけて来たユダヤ人たちも同様に泣きだしました。

 

 

 

 主イエスは、「泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、どこにラザロを葬ったのか」と言われました。

 

 

 

 伝統的な解釈は、主イエスが全人類に共通した悲惨と苦難に憤りを覚えられたというものです。死の力を持つサタンと対決されたというものです。ところが最近、一人の新約学者がこの箇所は「イエスは霊にて激しい息をし、みずから混乱して」と訳すべきだと主張しています。そして、彼は、これから主イエスは死人のラザロを復活させるという最大の奇跡を実行されようとしているのだから、御自分でも非常に緊張されたということだろうと解釈しているのです。

 

 

 

わたしは、次のように理解します。伝統的な解釈は、主イエスが父なる神の独り子である面を強調し、新約学者はその神の独り子がわたしたちと同じ人間となられた弱さを強調していると思います。

 

 

 

そして、わたしは、新約学者の解釈がヨハネによる福音書の第3幕の文脈に合うと思うのです。

 

 

 

主イエスは、ラザロの墓の前で、涙を流されました。これは、弱い人間が持つ自然の情であると、わたしは思います。

 

 

 

しかし、主イエスの涙を見て、ユダヤ人たちの心が動かされました。彼らは、主イエスがどんなに深くラザロを愛されているかを知りました。だからこそ、多くの奇跡をなさり、生まれつき見えない盲人の目を癒された主イエスがラザロを死なないようにできなかったことに失望しました。

 

 

 

そして、今朝の第4幕が113844節です。

 

誰もが期待してない中で、主イエスは驚くべき奇跡を行われます。「ラザロ、墓から出てきなさい」と言われて。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、38節で「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」と記しています。

 

 

 

「心に怒りを覚えて」は意訳です。ギリシア語の文章をそのまま読みますと、「イエスは再び自らのうちで怒りながら、墓へと来る」です。新約学者は「それでイエスは再び自らのうちで激しく息をし、墓へと来る」と訳しています。

 

 

 

わたしたちと同じ人間としての弱さを持つ主イエスが、一世一代の死んだラザロを復活させるという奇跡を行おうとしているのです。息が上がりながら、主イエスは大いに緊張して、ラザロの墓へと来られたのだろうと、新約学者は思いをはせて訳したのです。

 

 

 

わたしは、新約学者の解釈も一つの理解だと思います。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスが神であり、人であることを、「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と賛美しました。そして、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光で」あると賛美しています。

 

 

 

さて、第4幕は、これまでと様相が一変し、神の子キリストのお働きが前面に出て、描かれていると、わたしは思います。

 

 

 

パレスチナでは、死んだ日に葬儀がなされ、死者の魂は死後三日間、死体の周りにいると、信じられていました。そして、四日目に魂は死体から離れ、遺体の腐敗が目に付くようになり、その後は遺体が蘇生する希望はないと信じられていました。

 

 

 

ラザロは、洞穴に葬られて、4日が過ぎていました。彼の遺体は腐敗し、姉妹マルタとマリアは、ラザロが蘇生する希望はないと思っていました。

 

 

 

ところが、主イエスは、ラザロを葬った洞穴の入口を開けなさいとお命じになりました。

 

 

 

マルタが主イエスに言いました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と。誰もラザロの復活を期待していません。死人の復活を信じているマルタも、今ここでラザロが復活することは期待していません。

 

 

 

主イエスは、彼女を励まされました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と。

 

 

 

失望しているマルタとマリア姉妹に、そして、ユダヤ人たちに、主イエスは「わたしを信じなさい。そうすればわたしがラザロを復活させる奇跡を見ることができる」と言われました。ここでの「神の栄光が見られる」とは、ラザロの復活という奇跡のことです。

 

 

 

だから、主イエスは、ラザロの墓の入口をふさぐ大きな石を取りのけなさいと命じられました。

 

 

 

その場にいて、主イエスに失望していたユダヤ人たちは、主イエスの御命令に従いました。彼らは、ラザロの墓の入口をふさいでいた大きな石を取りのぞきました。

 

 

 

その時に主イエスは4243節で祈られました。主イエスは、天を仰いで父なる神に祈られました。

 

 

 

不思議な祈りです。願いが聞き届けられたという感謝の祈りです。主イエスが具体的に何を毎日祈られていたのか、主イエスははっきり言われません。しかし、主イエスの祈りを父なる神は聞き届けてくださっています。だから、主イエスは父なる神に感謝されています。

 

 

 

この祈りを理解するカギは、悲しみだと思います。先に主イエスが涙されたことだと思います。

 

 

 

茂洋牧師が『見えること・見えないこと』という題のヨハネによる福音書講解説教を出版されています。その本の中で、今朝の御言葉を解き明かされて、次のようなことを説教されています。

 

 

 

「『このわたしはいのちである、よみがえりである』という、現在形ということを念頭に入れて読んでいかないと、理解できないのです。主は涙された、私たちの歩みの中で、どんな状況の中にあっても、そこに主が共にいて、悲しむ者、苦しむ者と共に涙を流される、そして、そこにいのちがある、よみがえりがあるというのが、ここの重要な焦点です。」

 

 

 

主イエスは、ラザロの死に悲しむ者、そして、ラザロを蘇生できなかった主イエスに失望するユダヤ人たちと共にいて、涙されました。そして、そこにいのちがあり、復活があるように父なる神に祈られました。今主イエスの祈りを父なる神は聞き届けて、ラザロを復活させてくださいます。それは、主イエスに失望したユダヤ人たちが、主イエスは父なる神に遣わされた者であることを信じるためなのです。

 

 

 

こう言ってから、主イエスは、43節で「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。

 

 

 

ギリシア語の文章を、そのままに日本語にすると、「大きな声で、彼は叫んだ、『ラザロ、外に来い』」

 

 

 

主イエスの御声を聞いて、わたしは、次の御言葉を連想しました。一つは、創世記13節の御言葉です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」もう一つは、ヨハネによる福音書の14節と5節の御言葉です。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いていた。」

 

 

 

主イエスが死んだラザロを甦らされた出来事は、創造主なる神が御言葉で光を、光が象徴するすべての命を存在させられた御業と同じだと思います。どちらも、御言葉で、命を存在させられました。

 

 

 

 ラザロを甦らされた主イエスは、命であり復活です。まさに人の命を照らす光です。

 

 

 

 人を照らす光がラザロの墓に差し込み、ラザロは命ある者とされ、墓の中から出て来たのです。死んでいた人が手足を布で、すなわち、包帯で巻かれ、顔は覆いで、すなわち、手ぬぐいで覆われていました。

 

 

 

 主イエスは、墓から出て来たラザロの包帯をほどいて、行かせなさいとお命じになりました。

 

 

 

 ラザロの復活の出来事は、主イエスの復活の出来事に先駆けですが、ここで、神の栄光が現わされるという点が重要です。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、この神の栄光の現われで、次のことを伝えようとしています。主イエスの十字架の死と復活によって、わたしたちはこの世での生死を越えた復活の命、すなわち、永遠の命にあずかる喜びがあるということです。

 

 

 

この世では、人は誰でも、ラザロ同様に死を避けられません。しかし、人間の死という悲しみの中に主イエスとわたしたちと共にいて、涙を流されるだけでなく、御自身が死に打ち勝たれ、死者の中から再びわたしたちの名を呼んで、永遠の命を与えてくださるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書113844節の御言葉から主イエスがラザロを甦らされたことを学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

ヨハネによる福音書が今わたしたちに伝える喜びは、主イエスが命であり、復活であることが、わたしたちにとって現在形であるということです。

 

 

 

わたしたちは、この世で愛する者の死という悲しみを避けられません。しかし、主イエスは悲しむわたしたちと共にいて下さり、涙を流してくださいます。そして、死者の名を呼び掛けて、必ずその者を復活させ、永遠の命にあずからせてくださいます。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、永遠の命の喜びに、今わたしたちはあずかっているのだと伝えようとしています。

 

 

 

どうか、今朝の御言葉を聞き、わたしたちも主イエスが祈られたように、わたしたちの願いを聞き入れてくださってありがとうございますと、感謝の祈りをなさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

ヨハネによる福音書説教48   主の201772

 

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

 

 それでイエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。

 

 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭には来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よ、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

 

 

 

             ヨハネによる福音書第第114557

 

 

 

 説教題:「主イエスの身代わりの死」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の114557節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 ヨハネによる福音書11144節で、主イエスが死んだラザロを甦らされた奇跡を4回に分けて説教しました。主イエスは、この奇跡によって御自身こそがマルタやマリアのように主イエスを信じる者にとって「復活であり、命である」ことを公にされました。

 

 

 

 そして、今、主イエスは、教会の宣教の言葉を通して、わたしたちに「信じる者にとって主イエスは、今も「復活であり、命である」ことを伝えておられることを学んだのであります。

 

 

 

 さて、今朝の御言葉は、わたしたちに主イエスが死んだラザロを甦らされたことが主イエス御自身の十字架の死にどんなに深く関係しているかを伝えています。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、そのことを次のように伝えています。

 

 

 

マリアの後を追って、ラザロが葬られた墓に来たユダヤ人たち、すなわち、主イエスが「ラザロ、出て来い」と大きな声で叫ばれると、死んだラザロが墓の中から出て来るのをしっかりと目撃したユダヤ人たちは皆、主イエスをメシアと信じて歩みを起こしました。

 

 

 

他方、その場で目撃はしなかったけれども、主イエスがラザロを甦らせたという噂を聞いたユダヤ人たちの中で、ある者がユダヤの指導者たちの所に行き、主イエスが死んだラザロを甦らせる奇跡を行ったと告げ知らせたのです。

 

 

 

それを聞いたユダヤの指導者たちは、サンヘドリンを召集しました。70人会議と呼ばれるユダヤの自治機関です。そのサンヘドリンを構成するメンバーがファリサイ派の人々と祭司長たちでありました。そして、大祭司が政治的首長の役割を果たしていました。

 

 

 

この会議は、死刑を決議することができました。ただし、ローマ総督ピラトの許可なく、執行することはできませんでした。

 

 

 

ユダヤの指導者たちは、主イエスを常に監視し、主イエスが語られたこと、なされた奇跡等を知っておりました。そして、主イエスと弟子たちが民衆を扇動して騒動を起こすことを恐れていました。

 

 

 

そうなれば、ローマ人たちが武力で彼らの自治権と国民を奪われます。実際に紀元70年にローマ人たちは武力でエルサレムを攻め、ユダヤの自治権を奪い、神殿を破壊し、ユダヤの国をこの地上から消しました。

 

 

 

だから、ファリサイ派の人々と祭司長たちは、主イエスをどうするかを協議しました。

 

 

 

その時、主イエスが十字架で死なれた年に大祭司であったカイアファが神から啓示を受けました。

 

 

 

一人の者が国民に代わって死ぬことが得策であると預言しました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、カイアファの預言はユダヤ国民だけでなく、世界に散らされている神の子、すなわち、異邦人キリスト者たちを一つに集めるためにも、主イエスは十字架に死なれたと解説を付け加えています。

 

 

 

サンヘドリンが主イエスを死刑にすると決議しましたので、主イエスと弟子たちは公然とエルサレムの都を歩きまわることができなくなりました。

 

 

 

そこでエルサレムの都を去られ、荒野に近いエフライムという町に滞在されました。エルサレムの都から北方20キロの所に、この町がありました。

 

 

 

そして、55節からヨハネによる福音書のキリストの受難が始まります。

 

 

 

過越祭が近づきました。春にユダヤ人たちが出エジプトという偉大な歴史的出来事を記念し、守った祭です。過越の小羊と種を入れないパンが祭りに用いられました。傷のない1歳の雄の小羊が選ばれ、14日の夕に屠られました。その時小羊の骨を折ることは許されませんでした。

 

 

 

この祭に参加するためには身を清めなければなりませんでしたので、過越の祭の前に地方から巡礼者はエルサレムの都に上りました。

 

 

 

都に来た巡礼者たちは、主イエスを捜しました。そして、彼らは互いに神殿の境内で「主イエスはこの祭に来ると思うか」と話し合っていました。

 

 

 

そして、ユダヤの指導者たちは、主イエスを逮捕するために、主イエスを見かけた者は通報するように命令していました。

 

 

 

さて、今朝の御言葉は、ヨハネによる福音書がわたしたちにいくつかのチャレンジを試みています。

 

 

 

1のチャレンジは、主イエスへの信仰は奇跡を見て生じるのだろうか。

 

 

 

いかがですか。主イエスが死んだラザロを甦らせる奇跡を見たユダヤ人は皆信じたと、ヨハネによる福音書は証言しています。

 

 

 

それでは主イエスは、彼らに御自分の身をお委ねになられたのでしょうか。

 

 

 

既に学びましたようにヨハネによる福音書は、223節と24節で、次のように奇跡を見て主イエスを信じた者たちを、主イエスは信用されなかったと証言しています。

 

 

 

「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」

 

 

 

今朝の御言葉も同じです。主イエスはラザロを甦らせる奇跡を見て、多くの者たちが主イエスをメシアと信じて、行動を起こそうとした者たちを信用しないで、ユダヤの指導者たちが主イエスを捕らえて、殺そうとしているのを知り、エルサレムの都を去り、荒れ野に近いエフライムの町へと逃れられました。

 

 

 

聖霊によらなければ、真の信仰は、わたしたちの内から生まれることはありません。

 

 

 

2のチャレンジは、本当に大祭司カイアファの預言は、ユダヤの指導者たちとユダヤ国民にとって得策だったのでしょうか。

 

 

 

大祭司カイアファは、主イエス一人が死ぬことがユダヤの指導者たちやユダヤ国民にとって得策だと預言しました。

 

 

 

しかし、歴史はそれを否定しています。彼らが無実の主イエスを殺したことで、紀元70年にユダヤはローマに滅ぼされ、主イエスが十字架で罪の贖罪を成し遂げられたので、エルサレム神殿と祭司たちは存在の価値を失いました。ですから、戦後イスラエル共和国が建てられ、ユダヤ教がありますが、エルサレム神殿は再建されず、動物犠牲の儀式もそれを司る祭司も存在しません。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、キリストの身代わりの死によって、世界に散らされている神の子たち、すなわち、異邦人キリスト者たちを、一つに集めるためにキリストは死なれたと教えているのです。

 

 

 

3のチャレンジは、聖書の真理は長い歴史の中で証しされるということです。

 

 

 

大祭司カイアファは、サンヘドリンの議員たちが主イエスをどうすべきか、迷っていた時に、「あなたがたは何もわかっていない」と言いました。ところが、キリストの身代わりの死を預言したカイアファ自身も、自分が預言したことを知りませんでした。

 

 

 

サンヘドリンの議員たちが主イエスによってユダヤに騒動が起こり、ローマが武力でユダヤの国を亡ぼすことを恐れていました。大祭司カイアファは、その騒動で一人の者が身代わりに死んでくれるならば、ユダヤ国民も我々指導者も安泰であると考えていました。

 

 

 

しかし、歴史が証明したことは、ユダヤ国民の安泰でも、ユダヤの指導者たちの安泰でもありませんでした。主イエスがゴルゴタの丘においで十字架で死なれることで、世界に散らされている神の子たち、異邦人キリスト者たちが一つに集められるという祝福の出来事を起こりました。

 

 

 

主イエスは、世界中の神の子たちを、父なる神が御子キリストを通して選ばれた者たちを一つに集めるために死なれたのです。

 

 

 

主イエスの十字架の目的に、わたしたちの教会を建て上げることが入っていました。

 

 

 

本日は、月の最初の主の日ですから、この後聖餐式を執り行います。

 

 

 

どうか、今朝の御言葉、「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」という御言葉に心を留めて、キリストの十字架の死がわたしたちのためであったことを、今朝の聖餐式を通して喜び味わってください。

 

 

 

既に2世紀の教会は、聖餐式の式文を用いて、聖餐のパンが配餐されます時に、このように語るように定められていました。

 

 

 

「このパンが丘の上に散らされ、また集められて一つされし如く、汝の教会も地の果てより汝の御国に集められんことを」(『十二使徒の教訓』94)

 

 

 

教会は、主イエス・キリストの死を記念して聖餐式を執行するたびに、一つのパンが裂かれ、そのパン屑が一つに集められるという信仰の共同体であることを常に確認して来たのです。

 

 

 

ですから、今、聖餐にあずかるわたしたちは、今ここに「復活であり、命である」主イエスがわたしたちと共におられ、散らされている神の子たちを、この教会の外にいる、この礼拝の外にいる神の子たちを、わたしたちと共に一つに集めるために死なれたことを心に留めましょう。

 

 

 

ですから、第4のチャレンジは、互いに愛し合うということです。これから受難の道を歩まれる主イエスは、弟子たちにお別れの説教をなさり、「あなたがたは互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と命じられます。

 

 

 

今「復活であり、命である」主イエスの御前で、聖餐式にあずかるわたしたちがチャレンジされるのは、ここに一つに集められた者たちは「互いに愛し合う」ことで、十字架のキリストの愛に答えていくことができるのかをチャレンジされているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書114557節の御言葉から主イエスの身代わりの死について学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

ヨハネによる福音書がわたしたちに主イエスが死んだラザロを甦らされたことと御自身が死なれることに深い関係があることを伝えています。

 

 

 

今朝の御言葉を聞き、本当に今わたしたちがここにいて共に礼拝をし、共に御言葉を聞き、賛美し、聖餐の恵みにあずかるために、主イエスは十字架に死なれたのだと、深く心に留めさせられました。

 

 

 

わたしたちは、小さな群れでありますが、この小さな群れを一つとし、キリストの教会として建て上げるために、主イエスは十字架に死んでくださいました。

 

 

 

キリストの死がわたしたちのためであり、散らされた神の子たちを一つに集めるためであることを心に留めて、聖餐式にあずからせてください。

 

 

 

そして、聖霊を通して、互いに愛し合えるものとしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

ヨハネによる福音書説教49    主の201779

 

 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

 

 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

 

             ヨハネによる福音書第第12111

 

 

 

 説教題:「わたしの葬りの日」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の12111節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 今朝の御言葉は、過越祭の六日前に主イエスがベタニアの村でマリアから香油を注がれ、御自分の葬りの用意をされたという出来事を記しております。

 

 

 

 過越祭は、パスカと呼ばれるユダヤ人たちが祝う三大祭の一つです。

 

 

 

 過越祭は、ユダヤ人たちが春に偉大な歴史的出来事である出エジプトを記念して祝いました。

 

 

 

出エジプトの時、ユダヤ人たちの家の鴨居に犠牲の小羊の血が塗られ、主がエジプトに下された災いがユダヤ人たちの所は通り過ぎました。そして、ニサンの月の14日の夕方に傷のない小羊が屠られ、ユダヤ人たちは家族で犠牲の小羊の肉と種を入れないパンと苦菜で感謝の食事をしました。

 

 

 

 出エジプトの出来事は、イスラエルの神の民の存在を左右する出来事でした。過越祭でユダヤ人たちは、主なる神がご自分の民のためになされた偉大な業を思い起こしました。エジプトの奴隷状態から解放された喜び、約束の地であるカナンでの神の民たちの定住は、シナイ山で主なる神が彼らと結ばれた契約に対して忠実であられたことの証しでした。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネの口を通して、主イエス・キリストを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と指摘しています。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、主イエス・キリストを過越の小羊と理解しています。旧約聖書のイザヤ書5368節の御言葉で預言されている苦難の僕を、主イエス・キリストと理解しています。

 

 

 

 だから、ヨハネによる福音書は、過越祭の六日前から記述を始めて、メシアである主イエス・キリストの受難と苦しみを通して、神の栄光を描いているのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書にとって、過越の小羊、種を入れないパン、そして、苦菜は、神の選びの民を汚れと罪から救い出し、咎ある者を永遠の滅びから解放するキリストの予型でありました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、832節で主イエスが「真理はあなたがたを自由にする」と宣言されたことを記しています。それは、咎あるわたしたちを、真理であるキリストが罪の拘束と永遠の滅びから解放するという意味でした。

 

 

 

それゆえに主イエスは、過越祭の六日前にベタニアの村に行かれ、マリアから香油を注がれ、御自分の葬りの用意をされました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、そこに主イエスが死者の中からよみがえらされたラザロが同席していたと証言しています。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたちに12章で主イエスがベタニアの村でマリアから香油を注がれた事件と、その後王としてエルサレムの都に入城され、ユダヤの群衆に大歓迎された事件が、よみがえらされたラザロと深い関係にあることを記しています。

 

 

 

さて、主イエスは12弟子たちを伴い、ベタニアの村に行かれました。マルタとマリア姉妹、その姉妹の兄弟で死者の中から主イエスによみがえらされたラザロの家に行かれました。

 

 

 

主イエスのために宴会の食事の用意が整えられていました。マルタは主イエスと12弟子たちをはじめ宴会に来た者たちのために給仕をしました。そして、兄弟ラザロは、その宴会の食事に同席している一人でありました。

 

 

 

その時、サプライズがありました。マリアが純粋で高価な香油を持ち込み、主イエスの足に塗り、彼女の髪の毛で拭きました。

 

 

 

香油一リトラは、今日の重さで、焼く328グラムです。

 

 

 

香油の香りが部屋中に満ちました。

 

 

 

その時、12弟子の一人、イスカリオテのユダがマリアの行為を非難しました。彼は真っ当なことを言いました。その場の誰もが彼に賛成したでしょう。きっとわたしたちもその場にいれば、「その通りだ」と言ったでしょう。

 

 

 

ユダは言いました。「香油一リトラを売れば、三百デナリオンとなり、多くの貧しい人々を助けることができたのに」。

 

 

 

デナリオンはローマの銀貨です。その銀貨はローマ皇帝の肖像が刻まれていました。

 

 

 

一デナリオン銀貨は、エスの時代、労働者の一日分の賃金に相当しました。ローマの兵卒の年棒が300デナリオンで、マリアが主イエスに注いだ一リトラの香油の値段と同じでした。

 

 

 

だから、ユダの非難もうなずけるものです。

 

 

 

ところが、ヨハネによる福音書は、ユダの偽善を非難します

 

 

 

なぜなら、彼の非難は別に動機があったからです。彼は貧しい人々に心使いしていたのではありません。彼は盗人だから、マリアの行為を非難したと。

 

 

 

ユダは、その時主イエスと弟子たちの生活費、すなわち、会計を預かっていました。そして、私的に使い込みをし、会計をごまかしていました。

 

 

 

 ところが、主イエスは、ヨハネによる福音書が指摘するユダの罪と偽善をよくご存じだったにもかかわらず、何も言われませんでした。

 

 

 

主イエスはおそらく12弟子たちに次のように命じて、マリアのしていることの意味を告げられました。

 

 

 

 「この人のするままにさせておきなさい。」

 

 

 

 ギリシャ語を直訳で日本語にすると、「イエスは彼女を許せ」と言ったとなります。これは、マリアの行為が悪いことだからでありません。為すが儘にさせておくという意味です。「この人の邪魔をするな」と意訳できます。

 

 

 

 教会の中ではユダのような偽善がまかり通っています。一見誰が見ても、その非難はその通りだと思えます。しかし、そのユダの非難を主イエスは支持されません。逆に主イエスはユダとユダの非難に同調した弟子たちに「この人の邪魔をするな」と命じられました。

 

 

 

 どうして主イエスは、そう言われたのでしょうか。マリアの行為が主イエスの葬りの日を準備するものであると、主イエスは受け取られたからです。

 

 

 

 実際にマリアは、瓶の中のすべての香油を主イエスの足に注いだのではないでしょう。一部を使い、後は墓に埋葬された主イエスの遺体に用いるために保存していたでしょう。

 

 

 

 主イエスの御言葉は、既に主イエスがゴルゴタの十字架を見据えて、これからの一週間を歩もうとされている、主イエスの決意が示されていると思います。

 

 

 

 また、主イエスは、8節で「貧しい人々は、いつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつもあなたがたと共にいるわけではない」と言われました。

 

 

 

 これは、意訳しています。直訳すれば、こうです。「なぜなら、貧しい人々を、いつもあなたがたは、あなたがた自身と共に持っている。しかし、わたしを、あなたがたは持ってはいない。」

 

 

 

主イエスの不思議な言葉ですが、主イエスが12弟子たちに伝えたかったことは、キリスト教会は常にこの地上では貧しい者たちと共に生きるのです。貧しい人々に施すことは、教会にとって呼吸のようなものです。

 

 

 

どんなに熱心に福音宣教しても、貧しい者たちと共に生きることをしなければ、それはキリストの教会ではありません。本日「共に生きる」というパンフレットを教会員に配布しました。

 

 

 

それが、今朝のこの主イエスのお言葉の真実を証ししていると思います。教会は、福音宣教と共に、愛の業を命じられていますし、実際に常に教会は貧しい人々に寄り添って歩む時、教会はキリストの教会としてこの世を歩むことができると思います。

 

 

 

だが、主イエスを、弟子たちはいつでも持つことはできません。実際に今、主イエスは自分の葬りの日の準備をされ、ゴルゴタの丘の十字架へと歩まれようとしておられるのです。

 

 

 

それは、ヨハネによる福音書にとって神の栄光の時であります。主イエスの死と復活により、この宴会に同席しているラザロのように、わたしたちキリスト者は死んでも生きることができ、生きていて死なないという希望を持つことが許されるのではないでしょうか。

 

 

 

最後にヨハネによる福音書は、大勢のユダヤ人たちがベタニアを訪れ、主イエスと共に、復活したラザロを見ようとし、ユダヤの指導者たちが、主イエスと共にラザロも殺そうと決議したと伝えています。

 

 

 

今朝の御言葉から一つのことを学びましょう。主イエスが「わたしの葬りの日」と言われた時、そこに主イエスが死者の中からよみがえらされたラザロがおりました。

 

 

 

主イエスの十字架の死によって、わたしたちというキリスト者がこのラザロのように、この世の存在しているのです。

 

 

 

わたしたちのためにキリストは死んでくださいました。だから、この世でわたしたちはキリスト者として生きているのです。

 

 

 

そして、わたしたちは、十字架のキリストへの愛と感謝によって、この世の貧しい人々と共に生きているのです。

 

 

 

マルタの給仕は、女性が教会の役員として主イエスに仕える姿を、わたしたちはイメージできると思います。

 

 

 

香油一リトラ、主イエスの注いだマリアは、本当に十字架の主イエスの死に感謝し、教会にサプライズするキリスト者の姿をイメージできると思います。

 

 

 

たとえば、サンタクロースの原型となったミラノのニコラウスです。彼は、全財産を教会に寄進し、子どもたちにプレゼントをした聖人として、記録され、アメリカのニユーアルステルダムに移住したオランダのプロテスタントのキリスト者たちがサンタクロースの名によってプレゼントをしたのが始まりで、全世界に広まりました。

 

 

 

まさか、サンタクロースが子どもたちにプレゼントをすることを非難する者はいないでしょう。

 

 

 

教会は小さな子供たちと共に歩むことで、キリストへの愛を証ししました。キリスト御自身が、御自分の所に来る幼子を拒まれず、彼らの頭に手を置いて祝福されました。

 

 

 

わたしたちは、キリストの葬り、十字架の死を、わたしたちへの神の最高のプレゼントと、心から感謝し、この教会で主イエスに喜んで仕え、また貧しい人々のために仕えて生きたいと思うのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書から、キリストの葬りの日の備えを学びました。

 

 

 

マリアが高価な香油を主イエスの足に注ぎ、髪で拭き、心からキリストの十字架の死に感謝しました。

 

 

 

わたしたちも主から与えられたこの世の富をもって、主の十字架の死に、この死があればこそ、今ここにキリスト者のわたしたちがいることを感謝させてください。

 

 

 

今朝の御言葉を聞き、教会とわたしたちキリストは、この世の貧しい人々共にいる祝福を教えられ、感謝します。

 

 

 

福音宣教と共に、この世の貧しい人々、弱い人々、苦しみの中にある人々と共に歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

ヨハネによる福音書説教50   主の2017716

 

 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。

 

 「ホサナ。

 

 主の名によって来られる方に、祝福があるように、

 

イスラエルの王に。」

 

イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。

 

「シオンの娘よ、恐れるな。

 

見よ、お前の王がおいでになる、

 

ろばの子に乗って。」

 

弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではなか。」

 

            ヨハネによる福音書第第121219

 

 

 

 説教題:「メシアの訪れ」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の121219節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 ヨハネによる福音書の12章に入り、ヨハネによる福音書はいよいよキリストの御受難を物語ります。

 

 

 

二つの事件を記します。先週学びましたベタニアの村でマリアから香油を注がれた事件と今朝学びます主イエスが王としてエルサレムに入城された事件であります。

 

 

 

共観福音書、すなわち、マタイ、マルコ、ルカによる福音書にも、この二つの事件は記されています。

 

 

 

しかし、ヨハネによる福音書は、この二つの事件が過越祭を背景にしているということと主イエスがラザロを復活させられたことに密接に結びついていることを記しています。

 

 

 

共観福音書には、主イエスに香油を注いだ女性の名前は出て来ません。ところが、ヨハネによる福音書は、マリアであったと記しています。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、共観福音書のキリストの受難の順序を変更しています。マリアが主イエスの葬りのために香油を注いだ後に、主イエスはエルサレムに子ろばに乗られ、王としてエルサレムの都に入城されます。

 

 

 

過越祭にエルサレムの都に巡礼に来ていた大勢の群衆が、主イエスがラザロを死者の中から復活させられたことを聞いて、イスラエルの王として歓迎します。

 

 

 

だから、12節の「その翌日」は、マリアが主イエスの香油を注いだ事件の翌日です。

 

 

 

エルサレムの都は、過越祭の巡礼者たちで溢れていました。そして、エルサレムの都に来た者たちは、主イエスが死んだラザロを甦らせたという噂を聞きました。

 

 

 

だから、大勢の群衆たちが、主イエスがエルサレムの都に来られると聞いて、椰子の枝を手に持って、主イエスを出迎えようとしました。

 

 

 

新共同訳聖書は、主イエスを出迎えた群衆たちが手にしていたのが「なつめやしの枝」であったと訳しています。昔は「棕櫚の枝」と訳されていました。マタイによる福音書は「木の枝」と記し、マルコによる福音書は「葉の付いた枝」と記しています。

 

 

 

椰子は中近東社会では宗教において「永生」の象徴でした。ユダヤ社会では死後の復活の象徴でした。椰子は中近東世界を代表する樹木であり、その強靭な生命力が、死後の復活というイメージに結び付いたのでしょう。

 

 

 

だから、ヨハネによる福音書は、主イエスを出迎える大勢の群衆たちが手に椰子の枝を持っていたと特定することで、主イエスのエルサレム入城の事件を、この受難の主イエスは復活し、永遠の命に甦られるという視点から見るようにと、わたしたち読者に迫っているのではないでしょうか。

 

 

 

こうして、この二つの事件が、主イエスが死んだラザロを甦らされたことに結び付くのです。すなわち、ベタニアでマリアが主イエスの香油を注ぎ、主家鵜の葬りの日に備え、エルサレムに入城される主イエスは、ラザロのように死者の中から復活し、永遠の命を得られるのです。だから、ヨハネによる福音書は、大勢の群衆たちが手に椰子の枝を持って主イエスを歓迎したのだと記しているのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書にとって、主イエスがエルサレムに入城され、大勢の群衆が手に椰子の枝をもって歓迎するのは、詩編118編の詩人が預言したことの成就でありました。

 

 

 

詩編118編は、過越祭のために作られた最後の「ハレル詩編」の最後のものでした。詩人は、「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」(詩編118:2226)

 

 

 

 詩編118編は、見捨てられたイスラエルが世界の中心になるという意味のことを記しています。それが主の救いの御業であると、主に感謝し賛美しています。そして、神の民は、主の御救を祈り求めています。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、主イエスがイスラエルの王として都に入城され、十字架の道を歩まれることで、詩編118編の御言葉が成就したと記しているのです。

 

 

 

 エルサレムに入城される主イエスは、「祝福あれ、主の御名によって来る人」です。永遠の神の御子であり、言が肉となり、この世に来られた父なる神の独り子です。

 

 

 

 彼は、今、大勢の群衆に「イスラエルの王」として出迎えられ、歓迎されました。

 

 

 

 共観福音書には、群衆たちが主イエスを「イスラエルの王」として歓迎したことを記していません。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、大勢の群衆が主イエスを「イスラエルの王」と歓呼したこの主イエスのエルサレム入城を、預言者ゼファニヤとゼカリヤの預言の成就であると記しています。

 

 

 

「シオンの娘よ、恐れるな。」は、ゼファニヤの預言です。「見よ、お前の王がおいでになる。ろばの子に乗って」はゼカリヤの預言です。

 

 

 

 シオンの娘は、エルサレムの都です。エルサレムの都が美しいおとめにたとえられているのです。主が共にいて救われるので、恐れるなと、ゼファニヤは預言しました。

 

 

 

「見よ、お前の王がおいでになる」とは、神は神の民イスラエルの王として、神の民イスラエルをお救いくださるということです。「ろばの子に乗って」とは、王としての権威を表わしています。

 

 

 

エルサレムの都に入城される主イエスは、軍馬に乗った王ではありません。十字架の死に至るまでへりくだられる王であります。

 

 

 

ですから、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に16節で次のように記しているのです。最初主イエスの弟子たちは、へりくだりの王、主イエス・キリストの受難を理解できなかったと。

 

 

 

弟子たちが理解できたのは、主イエスが栄光を受けられた時でした。すなわち、主イエスが十字架刑で死なれ、3日目に復活し、そして、昇天し、父なる神の右に座され、そこから聖霊を弟子たちに賜った時でした。

 

 

 

主イエスの弟子たちは思い起こしました。あんなに主イエスをイスラエルの王として大歓迎した群衆が、ユダヤの指導者と共にポンテオ・ピラトの裁判で主イエスを十字架につけよと叫び、主イエスは十字架刑で死なれました。それは、旧約聖書と預言者たちが預言しており、人々はその通りに主イエスを十字架につけたのです。

 

 

 

ここでは、群衆は、主イエスが死者であるラザロを甦らせた奇跡を聞いて、主イエスを「イスラエルの王」に祭り上げようとしたのです。

 

 

 

ユダヤの指導者たちは、お手上げの状態でした。誰もが主イエスの奇跡を信じて、主イエスの後を追って行ったからです。

 

 

 

「メシアが訪れる」という題を付けましたのは、少し飛躍があります。ヨハネによる福音書は、使徒ヨハネが伝道・牧会した教会のキリストたちに主イエスがイスラエルの王としてエルサレムに入城したことを記しました。

 

 

 

その時、エルサレムは、ローマ軍によって紀元70年に破壊されていました。主イエスは、復活され、天におられ、キリスト者たちは地におります。

 

 

 

両者が交わるのは、聖霊とみ言葉を通してです。

 

 

 

それは、礼拝の場で、ということになります。

 

 

 

この教会の礼拝に主イエスは、聖霊を通してわたしたちをお招きくださいます。そして、復活の主イエスは天におられますが、聖霊とみ言葉を通してこのわたしたちの礼拝の場に臨在されているのです。

 

 

 

だから、わたしたちは、ある意味でこの群衆たちが、主イエスがラザロを死者の中からよみがえらされたというニュースを聞いて、主イエスをエルサレムの都で「イスラエルの王」として迎えたように、わたしたちも教会が伝える福音宣教を聞いて、メシアである主イエスをこの教会の礼拝で「わたしたちのメシア」としてお迎えしているのです。

 

 

 

主の名によって来られる主イエスを、賛美します。このお方だけがわたしたちの罪のために十字架に死に、そしてこの世で死と滅びの中にあるわたしたちのために復活し、永遠の命をお与えくださるのです。

 

 

 

キリストの復活というリアリティーは、礼拝ごとにメシアがわたしたちの所に訪れてくださるという祝福であり、だから、今なお罪の死が支配するこの世界に生きるわたしたちにはキリストの十字架と復活だけが希望となり得るのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書から、主イエスが王としてエルサレムの都に入城された事件を学びました。

 

 

 

主イエスがろばの子に乗って、へりくだった王として、エルサレムの都に入城されたことを感謝します。

 

 

 

今、主イエスは天におられ、わたしたちは地にいます。しかし、復活の主イエスは、毎週主の日の礼拝で、聖霊とみ言葉を通して、わたしたちと共にいて下さり、わたしたちの礼拝に訪れてくださることを感謝します。

 

 

 

今朝の御言葉を聞き、わたしたちも群衆たちのようにキリストがわたしたち罪のために死なれ、わたしたちの永遠の命の保証として復活されたことを聞いて、こころから主イエスをわたしたち主、救い主とほめたたえさせてください。

 

 

 

そして、この世の人々、わたしたちの家族や友人たちに、主イエスの救いの御業を伝え、共にこの礼拝で主イエスを迎え、そして、再臨のキリストを待ち望ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。