ウェストミンスター信仰告白75 主の2019年3月13日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第8章1-11節(新約聖書P283-284)
「九.自由意志について」の「三」
人間は、罪の状態に堕落することによって、救いを伴うどのような霊的善に対する意志の能力もみな全く失っている。それで生まれながらの人間は、そういう善からは全然離反していて、罪のうちに死んでおり、自らを回心させるとか、回心の方に向かって備えることは、自力ではできない。
今夜は、ウ告白の第九章の「三」節を学ぼう。ウ告白は9章で人間の自由意志について告白する。ウ告白は、自由意志を4つの状態に分ける。9章2節では神が人間を創造された時に自由意志の状態を学んだ。人間は神に自由意志を賦与された。その人間の自由意志は可変的であった。神の命令に従うことも背くこともできたのである。
第9章三節を他の訳と比較しよう。
(1)村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
人間は罪の状態に堕落することによって、救いに伴ういかなる霊的善にも向かう意志の能力をすべて失っている。したがって、生まれながらの人間は、そのような善に全く逆らい、罪の中に死んでいるので、自分自身の力では、自分で回心することも、回心の備えをすることもできない。
松谷好明訳(一麦出版社)
人間は、罪の状態への堕落により、救いに伴ういかなる霊的善に対しても、意志のあらゆる能力を全面的に喪失している。そのため、生まれながらの人間は、そのような善から全く離反して、罪の中に死んでいるため、自分自身の力によっては、回心することも、回心に向けて準備することもできない。
(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)
人間は、罪の状態に堕落した結果、救いに固有の霊的善を意志する能力をすべて失っている。それで、生まれながらの人間は、その善から全く離反し、罪のうちに死んでいるので、自己を回心させるとか、回心に備えるということを自力で行うことはできない。
ウ告白は、3節で人間の堕落状態における自由意志について叙述している。
堕落状態の人間の自由意志を知るために、主イエスの御言葉に耳を傾けよう。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:6)。キリストは、わたしたちに神の愛と父親のような神の善意を映し出す鏡である(カルヴァン『ヨハネによる福音書註解』P492)。堕落状態の人間には、キリストなしに神との和解の道はないのである。
さて、ウ告白は2節で「人間は無罪状態においては、善であり神に喜ばれることを意志し、行なう自由と力を持っていた」と叙述した。その「善」を、ウ告白は3節で「救いに伴うどのような霊的善に対する意志の能力もみな全く失っている」と「霊的善」と叙述している。
2節の無罪状態の人間は、霊と肉に分離することなく、「善」を行う能力があり、神を喜び、神に栄光を帰することが出来たのである。ところが、堕落状態の人間には、ウ告白が3節で叙述するように「霊的善」、この善は救いと関係するもので、人間が神との和解に至る善である。その善は神の喜ばれるものである。それを、堕落状態にある人間の自由意志は完全に行う能力がない。
ウ告白は、堕落状態の人間は神と敵対し、神から離反しており、罪ゆえに霊的死んでいると宣告している。だから、堕落した人間には神の像の残滓があり、自由意志もあるが、誰一人「善を行う」者はいないのである(ローマ3:12)。
堕落状態の人間は、神から離反した状態にあり、霊的に死んだ者である。だから、彼の自由意志は神を喜び、神に栄光帰するためには働かないのである。すなわち、自らを回心させて、神との和解を求めることはない。神に立ち帰るという思いも、それに備えるという意志も持ち合わせていないのである。
ウ告白は生まれながらの人間の自由意志が救いに対して完全に絶望的であることを自覚させ、聖霊に寄り頼む信仰へと導こうとしているのである。
ウェストミンスター信仰告白76 主の2019年3月20日
聖書箇所:ヨハネによる福音書第8章31-38節(新約聖書P182)
「九.自由意志について」の「四」
神が罪人を回心させて恵みの状態に移されるとき、神は彼を、罪のもとにある生まれながらの奴隷のきずなから解放し、彼を恵みによってのみ、霊的な善を自由に意志しまた行為することができるようにされる。そうであっても、彼の残存している腐敗のゆえに、彼は完全に、あるいはもっぱら善だけを意志しないで、かえって悪も意志する。
今夜は、ウ告白の第九章の「四」節を学ぼう。ウ告白は、人間の自由意志を4つの状態に分ける。9章3節では人間の堕落した状態における自由意志について学んだ。「罪のもとにある生まれながらの」人間は神に離反し、敵対し、自由意志でもって霊的善(救いを伴う善)を行う能力を喪失していることを学んだ。だから、堕落した人間は自らの力で神に立ち帰ることができないことを学んだ。
ウ告白は9章4節で、恵みの状態における人間(キリスト者)の自由意志について述べている。恵みの状態とは、キリストの十字架の贖いにより罪から解放され、神の子として自由を与えられたキリスト者の自由意志である。
第9章四節を他の訳と比較しよう。
(1)村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
神は、罪人を回心させ、恵みの状態に移されるとき、彼をその生まれながらの罪への隷属状態から解放される。そしてただ御自身の恵みによって、彼が霊的に善であることを自由に意志し、行なうことができるようにされる。それにもかかわらず、彼は自分に残存している腐敗のために、善であることを完全に意志することも、またそれだけを意志することもなく、悪であることをじっさい意志するのである。
松谷好明訳(一麦出版社)
神は、罪人を回心させて、恵みの状態に移すとき、彼をその生まれながらの罪の奴隷状態から解放し、ただ御自身の恵みによって、彼が霊的に善なることを自由に望み、行うことができるようにしてくださる。しかしそれでも、彼に残っている腐敗のゆえに、彼は善なることを完全に、あるいはそれだけを、望むということはなく、邪悪なことも望む。
(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)
神は、罪人を回心させ恵みの状態に移されるとき、その人を罪のもとにある生まれながらの奴隷のきずなから自由にし、ただ神の恵みによって、その人が霊的善を意志し行うことができるようにしてくださる。しかし、そうであっても、残存する腐敗のために、その人は霊的善を完全に、あるいは霊的善だけを意志することはできず、悪をも意志する。
ウ告白は、4節で神の恵みによってキリストの十字架により罪を贖われたキリスト者の自由意志について叙述している。
堕落状態の人間は、自分の力で回心、すなわち、神に立ち帰ることはない。なぜなら、「わたしたちをすべての善に全くやる気をなくさせ、不能に」しているからである(ウ告白6:4)。だから、「神が人を恵みの状態に移される」のであり、人は「ただ神の恵みによって」回心、すなわち、神に立ち帰らされるのである。それゆえにウ告白は9章の「自由意志にについて」に続き、10章で「有効召命について」述べているのである。この自由意志論が人間論から聖霊論への橋渡しになっている。
さて、前回ウ告白がわたしたちを「聖霊に寄り頼む」信仰へと導こうとしていることを、わたしは述べた。神は罪人を恵みの状態に移すために、キリストの十字架によって神の選民の罪を贖われたのである。ゆえにキリスト者は罪の奴隷、律法の奴隷の状態から解放され、神の子としての自由を与えられた(ガラテヤ5:1)。しかし、この自由を行使するために、彼は聖霊に寄り頼まなければならない。この自由意志は、「彼を恵みによってのみ、霊的な善を自由に意志しまた行為することができる」ものであるから。
「恵みによって」とは、10章以後の聖霊のお働きによってである。「霊的な善」は救いを伴う善であり、神の御心を行うことである。キリスト者は、アダムの無罪状態に戻ったのではない。彼には罪の残滓がある。それゆえに彼の意志は善だけでなく、悪へと傾くのである。彼の自由意志は完全ではない。
ウェストミンスター信仰告白77 主の2019年3月27日
聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第4章12-16節(新約聖書P356)
「九.自由意志について」の「五、」
人間の意志は、ただ栄光の状態においてのみ、善だけを行為するように、完全かつ不変的に解き放される。
。
今夜は、ウ告白の第九章の最後の「五」節を学ぼう。ウ告白の自由意志論は、人間の自由意志を4つの状態に分けて考察している。第一の無罪状態と第二の罪に堕落した状態は、人間一般の自由意志である。第3の恵みの状態と今夜学ぶ栄光の状態はキリスト者(再生者)の自由意志である。
ウ告白は、第4章二節で創造時の人間の自由意志は「変化しうる自分自身の意志の自由に委ねられて、違反する可能性のある者として創造された」と告白している。また、ウ告白は恵みの状態にあるキリスト者の自由意志は、「彼の残存している腐敗のゆえに、彼は完全に、あるいはもっぱら善だけを意志しないで、かえって悪をも意志する」(ウ告白9章4節)と告白している。
今夜は、キリスト者の自由意志の栄光の状態について学ぼう。
第9章五節を他の訳と比較しよう。
(1)村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
人間の意志は、ただ栄光の状態においてのみ、完全かつ不変的に、ただ善にのみ自由に向かうようにされる。
松谷好明訳(一麦出版社)
人間の意志は、栄光の状態においてのみ、完全かつ不変的に、善のみを自由に選ぶようにされる。
(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)
神人間の意志は、栄光状態においてのみ、善だけに向かうように、完全にそして不変的に自由にされる。
ウ告白の言う「人間の意志」とは、キリスト者の意志である。「栄光の状態」とは、キリスト者の完成の状態である。使徒パウロはそれを「成熟した人間となり、キリストの満ち溢れる豊かさまで成長する」と述べる(エフェソ4:13)。ヘブライ人への手紙の記者は、「完全なものとされた正しい人たち」と述べる。彼らはキリストの出現を待ち望む旧約時代の神の民たちである。彼らは天国の完全なキリスト者たちの原型である。ヨハネの手紙一3章2節でヨハネは、完全なキリスト者を「御子に似た者」と述べている。ユダの手紙24節では「あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方」と述べている。この栄光の状態がキリスト者の到達点であり、キリスト者が永遠の命を得た状態である。
この「栄光の状態」は、永遠の命を得ている状態と同じである。エデンは人が永遠の命を得る出発点であり、天国は到達点である。キリスト者の今の恵みの状態は原理的には栄光の状態に入れられている。だから、わたしたちは礼拝の聖餐ごとに天国の前味を味わっている。
この「栄光の状態」は救いの完成であり、キリスト者の完全聖化である。その時キリスト者は御子に似た者とされる。彼の自由意志は、キリストの従順のように「完全かつ不変的に善だけを行為するように」なる。
今、わたしたちの自由意志は恵みの状態にあり、毎週の礼拝で福音として提供される十字架のキリストの御言葉に励まされ、またキリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順に歩まれた模範に倣い、わたしたちは聖霊によって回復された自由意志で神の御心に従って生きることを学んでいるのである。
この世はキリスト者の信仰の旅路である。その歩みは日々不完全であっても、必ず救いの完成の日が来る。キリスト者の完全聖化の日が来る。旧約の神の民たちがキリストの出現を待ち望んだように、わたしたちはキリストの再臨を待ち望む。キリストの再臨の時、キリストが復活されたようにわたしたちも復活し、永遠の命を持つ者とされる。その時、キリスト者の自由意志も完全に、そして不変的にキリストが神の御心を自由に行われたように、自由に善だけを行うようになるのである。再生者は聖霊によって生まれ変わらされた者。
ウェストミンスター信仰告白78 主の2019年4月3日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第8章28-30節(新約聖書P285)
「十.有効召命について」の「一」
神が命に予定されたすべての人間を、そして彼らだけを、神は、自ら定めてよしとされる時に、神のみ言葉とみたまとで、生まれながらに置かれていた罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへと有効に召命するをよしとされる。それは、神のことを理解するために、彼らの心を霊的に、また救拯的に照らすことにより、また彼らの石の心を取りさって、肉の心を与えることにより、彼らの意志を新たにし、その全能の力によって、善にむかって決断させることにより、また彼らをイエス・キリストへと有効に引き寄せることによってである。しかも、彼らは神の恵みによって自発的にされ、最も自由にくるのである。
今夜は、ウ告白の第十章の「有効召命について」の「一」節を学ぼう。ウ告白は、神の啓示(聖書)、三位一体の神、神の聖定、創造と摂理、人間の堕落と罪と刑罰、業の契約と恵みの契約、仲保者キリスト、そして自由意志について述べてきたのである。要約すれば、聖書、神論、人間論、キリスト論となる。それに続くのが聖霊論である。
矢内昭二先生は、第9章の「自由意志について」から第18章の「恵みと救いの確信について」までを「聖霊論」に区分されている(『ウェストミンスター信仰告白講解』新教新書)。第9章の「自由意志について」を聖霊論に加えるか、人間論に加えるか、難しいと思う。わたしは第9章を既述した通り、人間論から聖霊論への橋渡しと考える。
自由意志は人間が自由にふるまう意志である。これは罪と堕落によって喪失したのである。聖霊の再生によりキリスト者は心を新たにされ、キリストを信じ、キリストに従い、神を自由に礼拝し、賛美し、奉仕している。これはキリスト者の自由意志でしているのである。
さて、聖霊論を学ぼう。その前に一つの事実を確認しよう。矢内昭二先生が『ウェストミンスター信仰告白講解』を出版された時、日本で異言問題があった。そして、東部中会で異言問題が起こった。1975年に東部中会はこの問題を解決した。だから、過去の東部中会の異言問題の反省に立ち、ウ告白の聖霊論を学ぶことは、わたしたちにとって重要である。
ウ告白第十章の有効召命は、聖霊がキリストの十字架の贖いを、神がキリストにあって選ばれた神の民の生活に内的に、主体的に適応してくださる御業である。聖霊は、主イエスの霊である(ローマ8:9他)。聖霊はもう一人の助け主である(ヨハネ14:16)。神に選ばれた民、キリスト者の信仰・礼拝・証し・奉仕を可能にするのは、この助け主なる聖霊のお働きなのである。
第十章一節を他の訳と比較しよう。
(1)村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)
神は、命に予定した者たちすべてを、そして彼らだけを、自ら定めたふさわしい時に、御言葉と御霊により、彼らが生まれながら置かれている罪と死の状態から恵みと救いへと、イエス・キリストによって、有効に召すことをよしとされる。すなわち、彼らの知性を霊的にそして救いに至るように照らして神の事柄を理解させ、彼らの石の心を取り去って、肉の心を与え、また彼らの意志を新たにして、全能の御力により、それを善なるものへと向かわせ、そのようにして彼らをイエス・キリストへ有効に引き寄せられる。とはいえ、彼らは神の恵みにより、自ら進んでそうするようにされ、全く自由に来るのである。
(2)松谷好明訳(一麦出版社)
御自分が命に予定している者たちすべてを、そして彼らだけを、神は、御自分が定めた、ふさわしいときに、彼の言葉と霊により、彼らが生まれながらにしてその中にある罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへと、有効に召命することをよしとされる。すなわち、神は、[第一に]御自身に関する事柄を霊的に、かつ、救いに役立つように理解できるよう、彼らの知性を照らし、また[第二に]彼らの石の心を取り去って、彼らに肉の心を与え、更に[第三に]彼らの意志を新たにし、その全能の力によって、彼らを善なることへと向かわせ、かくして彼らをイエス・キリストへと有効に引き寄せられる。しかし、彼らは、神の恵みにより進んでそうするようにされているので、全く自由に[キリストのもとに]行く。
ウェストミンスター信仰告白79 主の2019年4月10日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第8章28-30節(新約聖書P285)
「十.有効召命について」の「一」(2)
神が命に予定されたすべての人間を、そして彼らだけを、神は、自ら定めてよしとされる時に、神のみ言葉とみたまとで、生まれながらに置かれていた罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへと有効に召命するをよしとされる。
今夜は、前回の続き、ウ告白の第十章を他の訳との比較から始めよう。
(3)鈴木英明訳(つのぶえ社)
神は、御自身が命に予定されたすべての人々を、そして彼らだけを、自ら定めた良いと思われる時に、その御言葉と御霊によって、生まれながらの罪と死の状態から恵みと救いへ、イエス・キリストによって有効に召命されることをよしとされる。
すなわち、神は、彼らの思いを霊的にまた救いのために照らして、彼らが神について理解するようにさせる。石の心を取り除いて肉の心を与え、彼らの意志を新しくし、その全能の力によって彼らに善い事を決断させ、彼らを有効にイエス・キリストへ引き寄せる。しかも、彼らは神の恵みによってそれを願い、最も自由にキリストのもとに来る。
矢内昭二先生は、この章を対話形式で解説され、わたしたち読者に「正しい聖霊論の確立」を強調されている(『ウェストミンスター信仰告白講解』P120-121)。
矢内先生は、ウォーフィールドがカルヴァンの教理史的貢献は聖霊論の領域であったと評価していることを紹介し、カルヴァンのキリスト教綱要の第3編を読むなら、彼の評価の正当性を理解できると述べておられる。
矢内先生は、さらに英語圏内の改革派(長老派)教会には多くの聖霊についての文献があり、その土壌からウ告白10章が生み出されたと指摘しておられる。そして、矢内先生はこう提言しておられる。「日本の改革派教会も聖霊論を神学的にも、実践的にも、もっと重視し、生命的に掘り下げる必要があるわけです。何よりも改革派の神学的、教会的、信仰的遺産と伝統の豊かさを、この点でももっと理解し、そしゃくし、継承し、発展させていかなければならないと思いますね。」(同書P123-124)。
それをわたしたちが身に着ける方法を、矢内先生は次のように指摘しておられる。よく聖書を読むこと、その聖書の教理の体系を理解するために、繰り返しウ告白、大小教理問答書を利用し、聖書の知識を整理することであると。
「温故知新」は、孔子の『論語』が出典である。岩波書店の広辞苑に「ふるい物事を究めて、新しい知識や見解を得る」と、その意味の記載がある。日本キリスト改革派教会は70周年以後の課題を検討し、東部中会も同じように課題を検討している。聖書をよく読み、ウ信条を繰り返し学び、そして信仰の先輩たちが残された書籍、論文等を研究し、そこから日本キリスト改革派教会の歩むべき道を継承し、実践する中で、今のわたしたちが何を課題とすべきかが見えてくるだろう。
「神が命に予定されたすべての人間を、そして彼らだけを、神は、自ら定めてよしとされる時に、神のみ言葉とみたまとで、生まれながらに置かれていた罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへと有効に召命するをよしとされる。」
まず、ウ告白は、神の「予定(選び)」と「有効召命(救い)」の関係を霊的命の関係として告白する。「霊的命の関係」とは、聖霊が御言葉(福音宣教)を通して、わたしたちを「罪と死の状態(霊的死)」から「イエス・キリストによる恵みと救い(キリストの命にあずかる)」にあずかる状態に移してくださることである。
ウ告白の救済論は限定的贖罪である。キリストは「神の選民のあがない主」である(ウ小教理問20)。「あがないのみわざは、・・・・選民に伝達され」(ウ告白8:6)、「キリストがあがないを買いとられたすべての人々に対して、彼はそれを確実有効に適用し、伝達される」(ウ告白8:8)。「命に定められたすべての人々が信じようとし、また信じることができるようにするために、聖霊を約束された。」(ウ告白7:3)。有効召命は神の恩寵による救いであり、福音宣教を通してなされる。
ウェストミンスター信仰告白80 主の2019年4月17日
聖書箇所:マルコによる福音書第14章1-11節
ローマの信徒への手紙第8章28-30節(新約聖書P285)
「十.有効召命について」の「一」(3)
それは、神のことを理解するために、彼らの心を霊的に、また救拯的に照らすことにより、また彼らの石の心を取りさって、肉の心を与えることにより、彼らの意志を新たにし、その全能の力によって、善にむかって決断させることにより、また彼らをイエス・キリストへと有効に引き寄せることによってである。しかも、彼らは神の恵みによって自発的にされ、最も自由にくるのである。
今夜は、受難週の第4日目です。キリストの御受難を覚えつつ、前回に続き、ウ告白の第十章1節を学ぼう。
使徒パウロは、有効召命が神の選びと福音宣教(「神の言葉とみたまとで」)を通してなされたことを、神に感謝している(Ⅱテサロニケ2:13-14)。なぜなら、パウロたちの福音宣教を通して神がキリストにおいて選ばれた者たち皆を、生まれながらの罪と死の状態からキリストの不滅の命にあずかる恵みへと解放されたからである(ローマ8:2,エフェソ2:1-5,Ⅱテモテ1:9-10)。
矢内昭二先生は、「有効召命は、わたしたちの内に神の救いが実現する第一歩です」と述べ、パウロのローマ書8章29-30節の御言葉を引用し、「ここに神の予定と選びとわたしたちの現実の救いの関係がはっきり記されています」と述べられている(『ウェストミンスター信仰告白講解』P123)。
それに続いて矢内先生は、「わたしたちの救いは神の予定の中にその永遠的根拠を持ち、有効召命にその実現の端緒を持ち、栄光化において完成する」と述べておられる(同P123)。
有効召命はわたしたちの現実の救いのことである。それは、神の予定と選びの中に永遠的根拠を持っている。それゆえにウ告白は、「神が命に予定されたすべての人間を、そして彼らだけを、・・・・有効に召命するをよしとされる」と告白するのである。
有効召命、すなわち、わたしたちの現実の救いは福音宣教を通してなされる。だから、使徒パウロは、「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです」(ローマ10:14-15)と述べている。
有効召命は、福音宣教を通して現実化される。第一に「それは、神のことを理解するために、彼らの心を霊的に、また救拯的に照らすことにより」である。松谷好明訳は、こう訳している。「神は、[第一に]御自身に関する事柄を霊的に、かつ、救いに役立つように理解できるよう、彼らの知性を照らし」。
神は福音宣教(聖霊と神の御言葉)を通して、聞く者の知性を照らし、神御自身に関する事柄を、霊的に、救いに役立つように理解させてくださる。
使徒パウロは、ローマ総督フェストゥスとアグリッパ王の前で弁明した時に、こう言った、「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」(使徒言行録26:18)。
第二に「また彼らの石の心を取りさって、肉の心を与えることにより」である。聖霊はわたしたちキリスト者の心を再生してくださる(エゼキエル36:26)。石の心(すなわち、頑なな心)を、肉の心(すなわち、従順な心)に変えてくださる。
第三に「彼らの意志を新たにし、その全能の力によって、善にむかって決断させることにより、また彼らをイエス・キリストへと有効に引き寄せることによってである。しかも、彼らは神の恵みによって自発的にされ、最も自由にくるのである。」
キリスト者の新生である。聖霊はキリスト者の心を再生し、その全能の御力により彼らを善へと向かわせ、キリストへと引き寄せられる。しかも、主の恵みゆえに彼らは何ら強制されることなく、福音宣教を通して自発的に、自由にキリストのもとに来るのである(ヨハネ6:44-45)。
ウェストミンスター信仰告白81 主の2019年4月24日
聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第2章1-10節(新約聖書P353-354)
「十.有効召命について」の「二」
この有効召命は、神の自由な特別恩恵からだけ出るものであって、決して人間の中に予知される何物からでもない。ここでは人間は、聖霊によって生かされ新たにされ、それによってこの召命に答え、またそこで提供された伝達される恵みを捕えることができるようにされるまでは、あくまで受け身である。
今夜は、ウ告白の第十章二節を学ぼう。
知には学習で得られるものと体験で得られるものがある。キリスト者はその知を分離しない。体験知として統合する。礼拝を通して聖書の御言葉を聞き、その聖書を理解するために教理を学ぶ。そこで得た知を、キリスト者は生活の実践の中で体験し、「アーメン」と承認する知である。
有効召命は、その良き実例である。パウロはローマの信徒への手紙8章28節で「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と記している。このパウロの知は彼とローマ教会のキリスト者たちとの共通の体験知である。この体験知ゆえにキリスト者はどんな絶望状況でも希望を持ち祈ることができるのである。
ウ告白第10章2節の他の訳を参照しよう。
(1)村川満・袴田康裕訳
「この有効召命はただ神の無償の特別な恵みから出るものであって、人間の中に予見される何ものにも全く由来しない。人間はこのことにおいて全く受け意であって、彼は聖霊によって命を与えられまた新たにされ、それによってこの召しに応え、その召しにおいて提供され、渡される恵みを受け入れることができるようになるのである。」
(2)松谷好明訳
「この有効召命は、ただ神の無償の特別な恵みによるもので、何か人間の内に予見されたものに由来するのでは全くない。有効召命において、人間は完全に受動的であり、聖霊によって生き返らされ、新たにされて初めて、それにより、この召命に応え、その内に差し出され、与えられている恵みを受け止めることができるようにされる。」
(3)鈴木英明訳
「この有効召命は、神の自由で特別な恩恵だけから出るものであって、人間のうちに予知されるどのようなものからも全く出てこない。有効召命において、人間は全く受け身であり、聖霊によって命を与えられて新しくされ、それによってこの召命に応答し、そこに提供され示唆される恵みを受け入れることができる。」
ウ告白は、第一に有効召命が「神の自由な特別恩恵から出るもの」と述べている。村川・袴田と松谷訳は「ただ神の無償の特別な恵みによるもの」と訳している。どちらも同じである。「特別な恩恵」は神の救いの恵みである。だから、だから、ウ告白は「決して人間の中に予知される何物からも出ない」と述べる。これはアルミニウスの主張に反対したドルト教会会議(1618-19年)を支持しているのである。アルミニウスは、「神は、悔い改めてキリストに信頼するようになる者を予知し、その人たちすべてを救いに確定する。神の選びはこのように人間の応答についての神の予知に基づくものである」と主張した。
ウ告白は、アルミニウスの主張を否定した。ウ告白は、「有効召命において人間は全く受け身である」と告白する。どうしてか、わたしたちは、聖霊によって再生されない限り、霊的に死んだ者であるからである(エフェソ2:1)。
「聖霊によって生かされ新たにされ」は聖霊の再生である。聖霊が福音宣教を通して霊的に死んだわたしたちを再生し、「それによってこの召命に答え」るように、わたしたちをしてくださるのである。それを新生という。わたしたちは聖霊によって知性と心情と意志を新たにされ、「そこで提供された伝達される恵みを捕えることができるようにされる」。聖霊がわたしたちに礼拝における御言葉と礼典の恵みを通して提供されるキリストの恵みを理解し、それに応答できるようにされる。その有効召命への応答がわたしの悔い改めと信仰なのである。
その二つを含めて、回心という。わたしたちは、回心によって神の赦しと愛を経験し、生活が罪から神の恵み、キリストへの信仰へと方向転換する。
ウェストミンスター信仰告白82 主の2019年5月1日
聖書箇所:ヨハネによる福音書第3章1-11節(新約聖書P167)
「十.有効召命について」の「三」
幼少のうちに死ぬ選ばれた幼児は、いつでも、どこでも、どのようにでも、自らよしとされるままに働かれるみたまを通して、キリストにより、再生させられ、救われる。み言葉の宣教で外的に召されることのできない他の選ばれた人もみな、同様である。
今夜は、ウ告白の第十章三節を学ぼう。
先週は、有効召命が神の救いの恩恵であり、神の予知に基づく人間の行為に基づくものでは決してなく、有効召命のすべてのプロセスにおいて人間は受け身であることを学んだのである。
今夜は、三節で幼児のうちに死ぬ選ばれた者と宣教を通して召される環境にない他の選ばれた者の有効召命(救い)を学ぼう。
ウ告白第10章3節の他の訳を参照しよう。
(1)村川満・袴田康裕訳
選ばれている幼児たちは、幼い時に死ぬと、自らよしとされる時と場所と方法で働かれる御霊を通して、キリストによって再生させられ、そして救われる。御言葉の宣教によって外的に召されることの出来ない他のすべての選ばれた人々もまた同様である。
(2)松谷好明訳
幼くして死ぬ、選びの民である幼児は、御自身がよしとされるとき、場所・方法においてお働きになる御霊を通して、キリストによって再生させられ、救われる。また、御言葉の宣教によって外的に召されることができない、他の選びの民である人々もみな、同様である。
(3)鈴木英昭訳
幼い時期に死ぬ選民である幼児は、自らよしとされる時と場所と方法によって働かれる聖霊を通し、キリストによって、再生させられ救われる。御言葉の働きによって、外的に召されることのできない他の選民たちついても、みな同様である。
3節は、福音宣教を通しての外的召命が困難な場合、またはない場合、神に選ばれた幼児、または宣教を通して召される環境にない他の神の選びの民が、どのように救われるのかを扱っている。
ウ告白が「幼少のうちに死ぬ選ばれた幼児」と述べるのは、契約の子たちの両親、親族に契約の子たちの救いを確信させるためである。幼児は通常の福音宣教を通して、すなわち、説教を理解できないだろう。キリストの福音を理解し、信じる年齢に達していないからである。
その限界が幼児で死ぬ契約の子にはある。しかし、ウ告白は次のように述べている。幼児の契約の子たちにその限界があっても、神が永遠の命に選ばれた幼児は神が恵みの契約をその子のうちに実現してくださり、彼は聖霊を通していつでも、どこでも成人のキリスト者の救い同様に、キリストにより再生されて救われると(詩編8編2節後半―3節前半)。
それだけでない。ウ告白は続けて「み言葉の宣教で外的に召されることのできない他の選ばれた人もみな、同様である。」と告白する。
福音宣教の届かない世界にも神が選ばれた民がいる。彼らは、通常の福音宣教を通してではなく、聖霊が「いつでも、どこでも、どのようにでも、自らよしとされるままに働かれる」。その時神が選ばれた者たちは、「キリストにより、再生させられ、救われる」のである(Ⅰヨハネ5:12)。
日本で福音宣教し、キリストを伝える時、言葉では伝わらない者がいる。福音宣教以前の人々、言葉を理解できない障碍者たちである。彼らの中にも神が選ばれた者たちがおり、神は彼らの心に聖霊を働かせて、キリストにより再生させ、救われるのである。ウ告白第十章三節は、環境や障碍により普通の信仰告白できない者たちに、光を提示するものではないだろうか。
ウェストミンスター信仰告白83 主の2019年5月8日
聖書箇所:マタイによる福音書第22章1-14節(新約聖書P42-43)
「十.有効召命について」の「四」
選ばれていない他の者たちは、たとえみ言葉の宣教で召され、みたまの一般的な活動に浴しようとも、決して真実にはキリストにこないし、それゆえ救われることができない。とりわけ、キリスト教を告白しない人々は、たとえどれほど彼らが自然の光と自ら告白するその宗教の律法に従って、自分の生活を築きあげることに勤勉であるとしても、これ以外のどのような方法でも、救われることはできない。また彼らが救われると断言し主張することは、きわめて有害で憎むべきことである。
今夜は、ウ告白の第十章四節を学ぼう。
先週は、神に選ばれた幼児と人々が通常の福音宣教を通して外的召命が困難であっても、聖霊のお働きによって再生され救われることを学んだ。
今夜は、その逆の場合である。神の選民以外の人々は、福音宣教を通して外的召命がなされても、決して聖霊のお働きにより再生され救われることがないこと、キリスト以外に救いのないことを学ぼう。
ウ告白第10章4節の他の訳を参照しよう。
(1)村川満・袴田康裕訳
それ以外の選ばれていない人々は、御言葉の宣教によって召されたり、御霊のある一般的な働きを経験することがあるとしても、それでも、決して真実にキリストに来ることはなく、それゆえ決して救われることはない。ましてキリスト教を奉じていない人々は、他のどんな方法によっても救われることは決してない。たとえ彼らが自然本性の光と自分が現に奉じている宗教の戒律とに従って、どれほど懸命に自分の生活を整えようとしていても決して救われない。それゆえ、彼らが救われることがあり得ると断言し主張することは、極めて有害であり、憎むべきことである。
(2)松谷好明訳
選ばれていない他の人々は、たとえ御言葉の宣教によって召命されることがあり、御霊の一般的な働きの幾つかにあずかることがあっても、真実にキリストのもとに行くことは決してなく、従って、救われることはできない。まして、キリスト教を信仰していない人々は、たとえ彼らが、本性の光と、彼らが信仰している宗教の律法に従って、自分たちの生活を整えることに、どれほど熱心であっても、他のいかなる方法によっても救われることはできない。それで、彼らが救われうると断定し、主張することは、極めて有害であり、非難されるべきである。
(3)鈴木英昭訳
選ばれていない他の者たちは、御言葉の働きによって呼び出され、御霊の一般的な働きを受けてはいても、決して真実にキリストに来ない。したがって、救われることはできない。まして、キリスト教信仰を告白していない人々は、どれほど本性の光と彼らの告白するその信仰の掟に従い、その生活の形成に勤勉であっても、こうした他の方法によって救われることができると主張し、その主張を変えないことは、極めて有害で憎むべきことである。
ウ告白の救済論は限定的贖罪である。主イエス・キリストは神の選民の救い主である。だから、ウ告白は「選ばれていない他の者たち」の救いの可能性はないと主張する。主イエスの種まきのたとえの「石だらけの所に蒔かれたもの」(マタイ13:20-21)は彼らである。福音宣教を聞いてすぐに喜んで受け入れるが、「自分には根がいないので」、すなわち、神に選ばれた者でないので、艱難や試練、迫害が起こると、信仰につまずき、キリストを捨てる。
「御霊の一般的な働き」とは、救いに至らない一般恩寵の働きである。例えば罪の抑制である。彼は信仰告白をし、洗礼を受けてキリスト者になる。熱心に奉仕をする。しかし、いつの間にか彼の信仰は冷め、教会から離れる。それと共に再び罪深い生活に戻るのである。彼は、真にキリストへと回心することがない。御国へと聖化の道を歩まない。ただ一時的に彼の罪が抑制される。
ウ告白は、次にキリストの外に救いのないことを告白する。「キリスト教を告白しない人々」は救われないと。主イエスが「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(ヨハネ8:24)と言われ、使徒ペトロも「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)と述べ、使徒パウロは「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(1テモテ2:5)と述べる。
ウェストミンスター信仰告白84 主の2019年5月15日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第8章28-30節(新約聖書P285)
「十一.義認について」の「一」
神は、有効に召命した人々を、また価なしに義とされる。それは、彼らに義を注入することによってではなく、彼らの罪をゆるし・またその人格を義なるものとして認め受け入れることによってであり、彼らの中で・また彼らによってなされる何事のゆえでもなくて、ただキリストのゆえだけによる。信仰そのもの・信ずる行為・あるいはその他どんな福音的服従を彼ら自身の義として彼らに転嫁することによるのでもなく、かえってキリストの服従と償いを彼らに転嫁し、彼らが信仰によって彼とその義とを受け・それに寄り頼むことによる。この信仰も、彼ら自身から出るものではなく、これも神の賜物である。
今夜は、ウ告白の第十一章一節を学ぼう。
使徒パウロは、神の救いの恵みの順序を次のように述べている。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:29)。パウロは、神が永遠の命に定められた者を世界の歴史の中でどのように救われるのか、そのプロセスを述べているのである。神が召し、義とし、子とし、聖とし、栄光化する。
神の救いの恵みが聖霊のお働きを通して一定の順序に従ってわたしたちに与えられる。その第一歩が「神の召し」、有効召命であった。続いて今夜から第二歩である「義認について」学ぼう。
ウ告白第11章1節の他の訳を参照しよう。
(1)村川満・袴田康裕訳
神は、自らが有効に召される者たちを、また無償で義とされる。それは彼らに義を注入することによってではなく、彼らの罪を赦し、そして彼らの人格を義とみなして受け入れることによってである。しかもそれは、彼らの内に生み出される、あるいは彼らによってなされる何事のゆえでもなく、ただキリストのゆえである。またそれは、信仰そのもの、信じるという行為、あるいはその他のどんな福音的服従でも、それを彼らの義として彼らに帰することによるのではない。そうではなく、それはキリストの服従と償いを彼らに帰することによってであって、彼らは信仰によってキリストとかれの義を受け取り、これに寄り頼むのである。そしてその信仰も彼ら自身から出るのではなく、神の賜物である。
(2)松谷好明訳
御自分が有効に召命する者たちを、神はまた、無償で義とされる。それは、[第一に]彼らに義を注入することによってではなく、彼らの罪を赦すことによって、また、彼らの人格を義なるものと見なし、受け入れることによって―いずれも、何か彼らの内になされたことや彼らによって行われたことのゆえにではなく、ただキリストのゆえになされる―であり、更に、[第二に]信仰それ自体や信じる行為、あるいは何か他の福音的従順を、彼らの義として彼らに転嫁することによってではなく、キリストの従順と償いを彼らに転嫁し、彼らの方では、信仰によってキリストと彼の義を受け入れて、それらに依り頼むことによって、である。―この信仰を、彼らは自分で持つのではない、それは神の賜物である。
(3)鈴木英昭訳
神は、有効に召命する人々を、また無償で義とされる。すなわち、神は、彼らに義を注ぎ入れることによってではなく、彼らの罪を赦し、彼らの人格を義と認め、受け入れてくださるのである。それは、彼らのうちに生じたことや、彼らが行った何事かによってではなく、ただキリストのゆえである。義認は、彼らの信仰そのもの、信じる行為、あるいは他のどのような福音的服従も、彼らの義として彼らに転嫁することではなく、キリストの服従と償いを彼らに転嫁し、彼らがキリストとその義を信仰によって受け、それに信頼することによる。
この信仰は彼ら自身から出たものではなく、神の賜物である。
1節の表題は「神は、有効に召命した人々を、また無償で義とされる」である。「価なしに」は、「無償で」という意味である。宗教改革者ルターは、「義認は『教会が建つか倒れるかの条項である』」と宣言した。
ウ告白は、一節で「義認について」定義する。それは、カトリック教会の「彼らに義を注入すること」ということではない。義認とは、神が「彼らの罪をゆるし・またその人格を義なるものとして認め受け入れること」である。ルターは、「恵みのみにより、信仰を通しての義認」と説いた。しかし、ウ告白は、この義認は「彼らの中で・また彼らによってなされる何事のゆえでもなくて」と、人間の能力やどんな行いにも依拠せず、「ただキリストのゆえだけによる」のである。
ウェストミンスター信仰告白85 主の2019年5月22日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第3章21-26節(新約聖書P277)
「十一.義認について」の「一」(2)
神は、有効に召命した人々を、また価なしに義とされる。それは、彼らに義を注入することによってではなく、彼らの罪をゆるし・またその人格を義なるものとして認め受け入れることによってであり、彼らの中で・また彼らによってなされる何事のゆえでもなくて、ただキリストのゆえだけによる。信仰そのもの・信ずる行為・あるいはその他どんな福音的服従を彼ら自身の義として彼らに転嫁することによるのでもなく、かえってキリストの服従と償いを彼らに転嫁し、彼らが信仰によって彼とその義とを受け・それに寄り頼むことによる。この信仰も、彼ら自身から出るものではなく、これも神の賜物である。
今夜は、ウ告白の第十一章一節の学びの続きである。
一節は、「神は、有効に召命した人々を、また価なしに義とされる」という表題があり、続いて「義認について」定義している。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第3章21-26節で「信仰による義」を定義している。今やキリストの十字架と復活の出来事により終末が始まっている。神の義が聖書に現わされ、それは律法とは関係なく、イエス・キリストを信じる信仰によって、信じるすべての者に無償で与えられる神の義である。キリストを立てて、その十字架の血により、罪を償う供え物とするという仕方で、神は御自身の義を貫かれたのである。
ウ告白は、この神の義をパウロが「神と人間との関係を作り出す救いの働き」と理解していると受け取っている。それゆえカトリック教会の主張を否定し、「彼らに義を注入することによってではなく」と告白し、「彼らの罪をゆるし・またその人格を義なるものとして認め受け入れることによってであり」と、義認を神と人間との関係を作り出す救いの働きと告白する。
神は、キリストの十字架と復活の出来事を通して、「有効に召命した人々」と和解され、「彼らの罪をゆるし・またその人格を義なるものとして認め受け入れ」てくださったのである。
ウ告白は、ローマの信徒への手紙の使徒パウロの二つの主張を受け入れている。すなわち、第一に義認は神の恵みの御業であり、第二に律法の下に置かれている我々人間は罪と悲惨の中にある(ローマ1:18-3:20)と。
その事実を踏まえてウ告白は、「彼らの中で・また彼らによってなされる何事のゆえでもなくて、ただキリストのゆえだけによる。」と告白する。ウ告白は、義認は我々人間と人間のいかなる行為にも依拠せず、「ただキリストのゆえだけによる」と告白する。使徒パウロが「ただキリスト・イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と述べているからである。
義認は神の恵みの御業である。神が主イエスの十字架の死を贖いとして、わたしたちの無罪を判決されたのである。義認はキリストの真実によってすべての信仰者に神が無償で与えてくださったのである。
ウ告白は、義認が神の恵みの御業であるキリストにのみ依拠し、人間とその行為に依拠しないと告白する。そして続けてこう告白している。「信仰そのもの・信ずる行為・あるいはその他どんな福音的服従を彼ら自身の義として彼らに転嫁することによるのでもなく、かえってキリストの服従と償いを彼らに転嫁し、彼らが信仰によって彼とその義とを受け・それに寄り頼むことによる。この信仰も、彼ら自身から出るものではなく、これも神の賜物である。」
ウ告白は、徹頭徹尾使徒パウロの教えに従っている。パウロは、神の義が信仰による義であると述べる。神の義が我々に与えられる手段は信仰である。その信仰の主体は我々ではないのである。それゆえウ告白は「信仰そのもの・信ずる行為・あるいはその他どんな福音的服従を彼ら自身の義として彼らに転嫁することによるのでもなく」と主張する。主体的に我々の信仰という行為によって、または我々のキリストへの服従によってではない。むしろ、我々が信じるキリストによってである。パウロが言う信仰、それを支持するウ告白の信仰は、「イエス・キリストの内にある義をいただく」ことである。だから、ウ告白は「かえってキリストの服従と償いを彼らに転嫁し、彼らが信仰によって彼とその義とを受け・それに寄り頼むことによる」と告白する。その信仰は聖霊の賜物である。