ウェストミンスター信仰告白26    主の201837

 

 

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第41626(新約聖書P169170)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の「一」

 

 

 

 ただひとりの、生ける、まことの神がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり、最も純粋な霊であり、見ることができず、からだも部分も欲情もなく、不変、偏在、永遠で、とらえつくすことができず、全能であって、最も賢く、最もきよく、最も自由、最も絶対的で、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い、ご自身の栄光のために、すべての物事を営み、最も愛とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく、すべての罪を憎み、とがある者を決してゆるさないおかたである。

 

 

 

 前回は、神がその存在において完全で、無限の最も純粋な霊であることを学んだ。霊である神は見ることができず、からだも部分もない。すなわち、神はわたしたち人間のように身体や器官、そして情欲もないのである。

 

 

 

 次に神はその存在と属性において「不変、偏在、永遠で」ある。

 

 

 

「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ」た(出エジプト3:14)。神は昨日も今日も永遠に変わらぬ、契約に忠実なお方である。神には変化がない。だから、使徒ヤコブは「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」と述べている(ヤコブ1:17)

 

 

 

変化は、神が創造された被造物のすべての特徴である。この世は変容するが、神は永遠に変わられない。

 

 

 

ソロモンが神殿を建てた時、こう祈った。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てた神殿など、なおふさわしくありません」(列王記上8:27)と。主はソロモンに神殿に臨在することを約束されたが、主なる神は創造者であり、主権者である。天に居て、同時に地に居てくださる。しかし、ソロモンには、主は不可測的である。松谷好明氏は「偏在」を「不可測的」と訳されている。神は無限の霊であり、有限な人は神を知り得ないし、とらえられない。神が御自身を自己啓示される程度において、人は知ることを許されているのである。

 

 

 

神がその存在と属性において無限、永遠、不変の霊であるとは、神は絶対的人格的存在者ということである。だから、神は「全能であって、最も賢く、最もきよく、最も自由、最も絶対的で、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い、ご自身の栄光のために、すべての物事を営み」と、ウ告白は証言する。

 

 

 

神は、アブラハムに「わたしは全能の神である」と自己啓示された(創世記17:1)。神は人とは違い、自分で何でもおできになる、全能のお方である。だから、100歳のアブラハムと90歳のサラから約束の子イサクを生まれさせられた。

 

 

 

神は絶対的な主権者であるので、「最も賢く、最もきよく、最も自由、最も絶対的で、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い、ご自身の栄光のために、すべての物事を営み」というふうに、神は自由に、神が自己の意志決定で行為される。神は他のいかなるものの干渉も受けられない。他の指図も強制も感化も助けも受けることはない。主権的に御自身の栄光のためにすべてのことを計画し、その通りに物事を営まれるのである。神の支配は宇宙全体に及んでいる。

 

 

 

そして神は人格者である。だから、「最も愛とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく、すべての罪を憎み、とがある者を決してゆるさないおかたである」。

 

 

 

 カルヴァンは、『キリスト教綱要』の中でこう述べている。「我々の精神は、神に何らかの礼拝を捧げていなければ神を理解できない」(同Ⅰ・21)と。

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白27    主の2018314

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第31315(旧約聖書P97)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の「二」

 

 

 

 神は、ご自身のうちに、おんみずからすべての命、栄光、善、祝福をもっておられ、ご自身だけで、またご自身にとって全く充足しておられ、彼が造られたどの被造物をも必要とせず、それから何の栄光を得てくることもなく、ただ御自身の栄光を、それらの中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表わされる。彼は、すべての存在の唯一の源であって、万物は彼から出、彼によって成り、彼に帰する。彼は、ご自身よしとされることを何事でも、万物によって、万物のために、万物の上に行なうために、万物を最も主権的に支配される。彼の目には万物も歴然とあらわであり、彼の知識は無限無謬で、被造物に依存しないので、何ひとつとして、彼には偶然や不確かなものがない、彼は、そのすべての計画、すべてのみわざ、すべての命令において最もきよい。彼には、み使い、人間、その他あらゆる被造物に彼が要求することをよしとされるどのような礼拝・奉仕・服従も、当然払われなければならない。

 

 

 

 ウ告白は、1節で聖書の神を「唯一の、生ける、まことの神が存在されるだけである」と告白した。そして、その神を、「その存在において最も完全で、無限の、純粋な霊である」と告白した。すなわち、神は人の目に見えず、身体も器官も持たれず、人間のように情欲もない、不変、偏在、永遠の純粋な霊である。だから、有限な人間が無限な神を把握できないのである。

 

 

 

 また、ウ告白は、神は絶対的人格的存在者であり、絶対的な主権者であると告白した。だから、神は全能で、英知によって、自由に自己決定で行為し、他の何者によって動かされることなく、慈しみとまことに満ち、最も公平に裁かれ、主権的に御自身の栄光のために、すべてのことを計画し、そのとおりに物事を営まれるのである。

 

 

 

 ウ告白は、1節で聖書から「神はどのような方である」かを、2節で神と被造物との関係を、多くの聖書の御言葉を引用して述べている(矢内昭二『ウェストミンスター信仰告白講解』P49)

 

 

 

 ウ告白を読むと、神について非常に多くのことが述べられ、たくさんの聖書の御言葉の引用があり、面食らってしまうであろう。整理が必要である。

 

 

 

 「神は、ご自身のうちに、おんみずからすべての命、栄光、善、祝福をもっておられ、ご自身だけで、またご自身にとって全く充足しておられ、彼が造られたどの被造物をも必要とせず、それから何の栄光を得てくることもなく、

 

 

 

 この文章は、ウ告白が神の絶対的自己充足性を告白している。

 

 

 

 「それらの中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表わされる。彼は、すべての存在の唯一の源であって、万物は彼から出、彼によって成り、彼に帰する。

 

 

 

 この文章は、ウ告白が「神が万物の唯一の源泉である」と告白している。

 

 

 

 「彼は、ご自身よしとされることを何事でも、万物によって、万物のために、万物の上に行なうために、万物を最も主権的に支配される。彼の目には万物も歴然とあらわであり、彼の知識は無限無謬で、被造物に依存しないので、何ひとつとして、彼には偶然や不確かなものがない、彼は、そのすべての計画、すべてのみわざ、すべての命令において最もきよい。彼には、み使い、人間、その他あらゆる被造物に彼が要求することをよしとされるどのような礼拝・奉仕・服従も、当然払われなければならない。

 

 

 

 この文章は、ウ告白が「神は万物の支配者である」と告白している。

 

 

 

 このように整理してみると、ウ告白は2節で次のように告白している。「神は絶対的な自己充足者であるので、万物の唯一の源泉であり、主権的な支配者である」と。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白28    主の2018321

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第31315(旧約聖書P97)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の「二」

 

 

 

 神は、ご自身のうちに、おんみずからすべての命、栄光、善、祝福をもっておられ、ご自身だけで、またご自身にとって全く充足しておられ、彼が造られたどの被造物をも必要とせず、それから何の栄光を得てくることもなく、ただ御自身の栄光を、それらの中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表わされる。

 

 

 

 ウ先週よりウ告白の「二.神について、また聖三位一体について」の「二」を学び始めた。まずはこの二節絶全体を3つに分けた、すなわち、「神は絶対的自己充足者である」、「神は万物の唯一の源泉である」、「神は万物の支配者である」という3つの主題を見出した。

 

 

 

そして、次のように整理し、ウ告白がこの2節で「神は絶対的な自己充足者であるので、万物の唯一の源泉であり、主権的な支配者である」と告白していることを学んだのである。

 

 

 

今夜は、ウ告白の「神は絶対的自己充足者である」ことから学ぼう。

 

 

 

最初に他の翻訳を参考にしよう。

 

 

 

村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

神は、命と栄光と善と幸福のすべてを、自らのうちに、自らによって、持っておられる。そして、ただひとり、自らにおいて、自らに対して、全く満ち足りていて、御自分が造られたいかなる被造物も必要とせず、また、それから何の栄光も引き出してくることなく、ただ御自身の栄光を、それらのうちに、それらによって、それらに対して、またそれらの上に、現しておられる。

 

 

 

 松谷好明訳(一麦出版社)

 

 神は、御自身の内に、御自身で、すべての命・栄光・慈しみ・幸いを所有しておられ、また、ひとり御自身の内で、御自身に対して、全く充足しておられて、彼がお造りになったいかなる被造物をも必要としたり、それらから幾らかでも栄光を引き出したりすることなく、かえってただ、それらの被造物の内に、それらにより、それらに対し、それらの上に、御自身の栄光を現しておられる。

 

 

 

 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

 神は、あらゆる生命、栄光、善、そして祝福を、御自身のうちに、またご自身のものとして所有しておられる。彼は、御自身だけで、また御自身に対して、全く満ち足りておられ、その造られたどの被造物をも必要とせず、それらからどのような栄光をも引き出さず、御自身の栄光を、それらのうちに、それらに対して、それらの上にあらわされるだけである。

 

 

 

 神は、「」を内に所有し(ヨハネ5:26)、「栄光」の神と呼ばれ(使徒言行録7:2)、「あなたはなる方、すべてをとする方」(詩編119:68)であり、「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」(Ⅰテモテ6:16)である。

 

 

 

 ウ告白が強く主張するのは、創造主なる神の「被造物よりの独立性」(岡田稔『解説ウェストミンスター信仰告白』)である。使徒パウロは次のように証言する。「この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒言行録17:2425)

 

 

 

 聖書の神は自存し、行為し、計画し、実行される。ウ告白が「命も栄光も善も祝福もすべて、このお方の内にあり、このお方の所有である」と告白するとき、ウ告白はわれわれにあるものを創造主なる神に移すことで、われわれが「神を崇めて、神を知るように」に導くのである。創造主なる神のみが「すべての命、栄光、善、祝福」を所有され、創造の行為を通して被造物に与えられたのである。

 

 

 

 だから、創造主なる神は、絶対的自己充足者であり、被造物から独立し、被造物に依存されることはないのである。何者も神は必要とされないのである。

 

 

 

 

 次回から整理したことを、個々に学ぶことにする。

 

 

 

 わたしたちは、礼拝を通して主イエス・キリストに神の御人格を見る。

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白29    主の2018328

 

 

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第113336(新約聖書P291)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の「二」

 

 

 

 彼は、すべての存在の唯一の源であって、万物は彼から出、彼によって成り、彼に帰する。

 

 

 

先週は、「神は絶対的自己充足者である」ことを学んだのである。創造主なる神は、被造物から独立され、被造物に依存されず、絶対的自己充足者であるので、何ものも必要とされないお方なのである。

 

 

 

今夜は神が「万物の唯一の源泉である」ことを学ぼう。

 

 

 

最初に他の翻訳を参考にしよう。

 

 

 

村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

神は、すべての存在の唯一の源であって、すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのである。

 

 

 

 松谷好明訳(一麦出版社)

 

 神は、あらゆる存在の唯一の源であって、万物は彼から出、彼によって、彼のために存在するのであり、

 

 

 

 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

 彼は、あらゆる存在の唯一の根源であり、万物は彼から出て、彼によって保たれ、彼に向っている。

 

 

 

 ウ告白の文章は使徒パウロの次の御言葉に依る。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです(新共同訳聖書ローマ11:36)

 

 

 

万物のすべての根源、生成と発展、そしてその帰結はすべて神にある。万物は神に発し、神によって成り、そして、神に至るのである。

 

 

 

使徒パウロは、神の根源性と絶対性を賛美するのである。

 

 

 

 使徒パウロは神を頌栄する。創造主なる神の根源性と絶対性を。万物のすべては神より発し、神によって創造され、神の摂理によって保たれているのである。そして、終末に向けて万物のすべてが神に向かうのである。絶対的自己充足者である神は何ものにも依拠せずに、万物のすべてを聖定(永遠に御計画)され、そして人類の救いを御計画されたと。

 

 

 

 この使徒パウロの頌栄を、英国の聖書学者バークレーは次のように賞賛する。「パウロはこれ以上に特徴的な文章を他のどこにも記していない。神学が詩に変わり、知性の探究が心の賛美に変わっている。すべては人の理解できない神秘にあって、しかもその神秘の真髄は愛である。もし人が万事は神から由来し、神によって存在し、神に終末的に関わっている、と言うならば、さらにこれ以上何も言うことは残っていないではないか。」(バークレー『ローマ』ヨルダン社 P200)

 

 

 

 ウ告白も使徒パウロと同じである。パウロの御言葉に依拠するだけでなく、ウ告白も「神学が詩に変わり、知性の探究が心の賛美に変わっている。」

 

 

 

 最高の神学は美しい詩として表現される。人間の知性の探究が聖霊によって心の賛美に変えられるからである。

 

 

 

 神は「他の一切のものの根源であられるから、他のものはすべて神なくしては存在しえず、神によってのみ、すべては存在しえる。」(岡田稔『解説ウェストミンスター信仰告白』P17)

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白30    主の201844

 

 

 

聖書箇所:ヨハネの黙示録第51114(新約聖書P458459)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の「二」

 

 

 

 彼は、ご自身よしとされることを何事でも、万物によって、万物のために、万物の上に行なうために、万物を最も主権的に支配される。彼の目には万物も歴然とあらわであり、彼の知識は無限無謬で、被造物に依存しないので、何ひとつとして、彼には偶然や不確かなものがない。彼はそのすべての計画、すべてのみわざ、すべての命令において最もきよい。彼には、み使い、人間、その他あらゆる被造物に彼が要求することをよしとされるどのような礼拝・奉仕・服従も、当然払わなければならない。

 

 

 

 先週は、「神は万物の唯一の源である」ことを学んだのである。使徒パウロは、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです(ローマ11:36)と、神の根源性と絶対性を賛美した。万物は神より発し、神に創造され、神の摂理によって保たれ、そして終末に向けて万物は神に向かうのである。

 

 

 

それゆえに今夜は神が「万物を主権的に支配するお方である」ことを学ぼう。

 

 

 

最初に他の翻訳を参考にしよう。

 

 

 

村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

そして、神は、すべてのものを最も主権的に支配し、それらによって、それらのために、またそれらの上に、何事であれ御心のよしとされることを行われる。神の目にはすべてのものがあらわで、明らかであり、神の知識は無限で、誤ることがなく、被造物に依存しないので、神には何事も偶然ではなく、また不確かでもない。神はそのすべての意向と、すべての業と、すべての命令において、最も聖である。この神に対しては、天使も人間もその他どんな被造物も、神が求めることをよしとされるどのような礼拝も奉仕も服従も、当然ささげるべきである。

 

 

 

 松谷好明訳(一麦出版社)

 

 また、神は、何事であれ御自身がよしとされることを、万物により、それらのために、あるいは、それらの上になすため、万物を最も主権的に支配しておられる。神の目には万物が明らかで、露わであり、神の知識は無限、無謬で、被造物に依存せず、そのため、神には偶然なものや不確かなものは何もない。神は、すべての計らい・すべての御業・すべての命令において、最も清くあられる。神が天使と人間、および他のすべての被造物に対してもとめるのをよしとされる、どのような礼拝・奉仕・あるいは従順も、当然それから神に対してささげられるべきである。

 

 

 

 鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

 彼は、御自分のよしとされることは何事であっても、万物により、万物のために、そして万物の上になされるよう、完全に主権的に万物を支配しておられる。

 

 彼の目には万物が裸であり、さらけ出されている。彼の知識は無限であって誤ることはあり得ない。彼は被造物から独立しており、彼にとって偶然や不確かなものは、何ひとつとしてない。彼は、そのすべての計画、すべての業、すべての命令において最も清い。

 

 彼が、天使、人間、その他あらゆる被造物に求めることをよしとされる礼拝、奉仕、服従のいずれであれ、彼には当然ささげられるべきものである。

 

 

 

 以上の訳文を比較されれば、ウ告白の教える聖書の神を理解できると思う。それを解説するより、以下のことに注意すべきである。

 

 

 

ウ告白はわたしたち読者に「神について信じなければならない」ことを、「神がわたしたちに求められる義務」を内容として教えている(矢内昭二『ウェストミンスター信仰告白講解』P46)ということである。

 

 

 

 わたしたちは、ウ告白によって聖書の神は万物を主権的に完全に支配する創造主・摂理の神であると教えられるのだから、また、神は万物すべてに御自身を礼拝し、御自身に奉仕し、御自身に服従することを求めておられることを教えているのだから、「わたしたちは、信仰告白のどの場所でも、この神を取り扱い、この神と出会い、この神を礼拝し、この神を告白する。」(矢内昭二)。神を知り、神の御業を理解し、生涯神を礼拝し、仕え、服従するのである。