ウェストミンスター信仰告白86    主の2019529

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第1613(新約聖書P163)

 

 

 

 「十一.義認について」の「二」

 

このようにキリストとその義を受け、これに寄り頼む信仰が、義認の唯一の手段である。しかもそれは義とされる人物の中に孤立していることなく、常にすべて他の救いの恵みを伴っており、かつ死んだ信仰ではなく、愛によって働く。

 

 

 

今夜は、ウ告白の第十一章二節を学ぼう。

 

 

 

一節の「神は、有効に召命した人々を、また価なしに義とされる」という文章の「価なしに義とされる」を、袴田・村川訳、松谷訳、鈴木訳は「無償で義とされる」と訳している。これは、要するに、罰に服することなく無罪宣告を受けるという意味である。義認は神の恩寵の1回限りの行為である。

 

 

 

今夜は、義認の唯一の手段である信仰とは、どんな信仰かを学ぼう。

 

 

 

ウ信仰告白第112節の他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

  このようにキリストとその義を受け取り、これに依り頼む信仰は、義認の唯一の手段である。とはいえ、それは義とされる者の中にそれだけで存在するのではなく、常に他のすべての救いの恵みの賜物とともにあり、決して死んだ信仰ではなく、愛によって働くものである。

 

(2)松谷好明訳

 

このようにしてキリストと彼の義を受け入れ、それらに依り頼む、信仰が、義認の唯一の手段である。しかし、信仰は、義とされる人の中に、ただそれだけで存在するのではなく、他の、救いにかかわる恵みの賜物すべてを常に伴っており、死んだ信仰ではなく、愛によって働く。

 

(3)鈴木英昭訳

 

このようにキリストとその義を受け入れ、これに頼る信仰が義認の唯一の手段である。しかし、この信仰は義とされた人の内に何もしないでいるのではなく、常に救いの他のすべての恵みを伴う。義認の信仰は死んだ信仰ではなく、愛によって働く信仰である。

 

 

 

わたしたちが「キリストと彼の義」を得る唯一の手段は信仰である。そして、この義認はわたしたちの内に孤立して存在していない。なぜなら、ウ告白は「常にすべて他の救いの恵みを伴っており」と告白する。他の子とすること、聖とすること、栄光化等の神の救いの恩寵が伴っており、それゆえにこの信仰は、死んだ信仰ではなく、愛によって働く生きた信仰である。

 

 

 

 使徒ヨハネは、ヨハネによる福音書第112節で「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と記している。第一に彼は福音書の中で「信じる」という言葉を多用している。第二彼に神の子となる恵みが「自分を受け入れ・・・その名を信じる人々に」与えられたと述べている。

 

 

 

榊原康夫牧師は『ヨハネ福音書講解 上巻』の中で、ヨハネの「信じる」信仰を次のように述べておられる。「『すべて人を照すまことの光』なるイエス・キリストの中に、信じて私を入れてしまう信仰なのです」。

 

 

 

キリストとその義を受け、これに寄り頼む信仰」とは、十字架と復活のキリストの中に、信じて私を入れてしまう信仰」のことであると言える。

 

 

 

使徒パウロは、その信仰をダイナミックにこう告白する。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2:1920)

 

 

 

キリストと彼の義」を受け取る手段は、自分の力でキリストを信じることではない。むしろ、自らの罪と無力さを知り、十字架と復活のキリストの中へと、パウロのようにわたしたちを委ねることである。

 

 

 

わたしたちは、神の恩寵によって義認だけ賜ったのではない。子とする恵み、聖とする恵み、それに伴う多くの神の救いの恵みにあずかっている。

 

 

 

ウ告白は、次のように告白する、復活のキリストの内在により、わたしたちの信仰は生けるキリストの愛によって働くのである。

 

ウェストミンスター信仰告白87    主の201965

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第5111(新約聖書P279280)

 

 

 

 「十一.義認について」の「三」

 

キリストは、彼の服従と死によって、このように義とされるすべての人の負債を十分に支払い、彼らのために、み父の正義に対して、当然で真実で十分な償いをされた。とはいえ、キリストはみ父によって彼らのために与えられたのであって、その服従と償いとは、彼らの身代わりとして受けられたものであり、ともに価なしにであって、彼らの中にある何事のゆえでもなかったのであるから、彼らの義認は、全くの自由な恵みによるものである。それは、神の厳正な正義と豊かな恵みが、ともに、罪人の義認においてあがめられるためである。

 

 

 

今夜は、ウ告白の第十一章三節を学ぼう。

 

 

 

一節で義認の定義を学び、二節で「キリストとその義を受け、これに寄り頼む信仰が義認の唯一の手段である」こと、義認は信仰という唯一の手段を通してなされることを学んだのである。

 

 

 

3節では義認の基礎(土台)について学ぼう。キリストの従順と身代わりの十字架によって義認の正当な根拠が据えられたのである。

 

 

 

ウ信仰告白第113節の他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

キリストはその服従と死によって、このように義とされる者たちすべての負債を、じっさい果たされた。とはいえ、キリストはかれらのために御父によってあたえられたのであり、かれの服従と償いが彼らに代わって受けられたのであり、しかも彼らの中にある何もののゆえでもなく、ともに無償でなされたのだから、彼らの義認は全く無償の恵みによるものである。そしてそれは、神の厳正な義と豊かな恵みがともに、罪人の義認においてあがめられるためである。

 

(2)松谷好明訳

 

キリストは、このようにして義とされた者たちすべての負債を、自らの従順と死によって完全に支払い、彼の御父の義に対し、彼らの代わりに、ふさわしい、真の、完全な償いをなさった。しかし、キリストは、彼らのために御父によって与えられ、また、キリストの従順と償いは、彼らの代わりに受け入れられ、そしてその両方のことが、彼らの内にある何もののゆえでもなく、無償でなされたのであるから、彼らの義認は、ただ、無償の恵みによるのであり、それは、神の厳正な義と豊かな恵みが共に、罪人の義認においてほめたたえられるためである。

 

(3)鈴木英昭訳

 

キリストは、その服従と使徒によって、このように義とされるすべての人々の負債を十分に支払い、彼らのために、御父の正義にたいして、ふさわしい現実で十分な償いをされた。しかし、キリストは御父によって彼らに与えられ、キリストの服従と償いが彼らによるものとして気前良く受け入れられた。それらは共に彼らのうちにある何物のゆえでもなく、彼らの義認はただ神の自由な恵みである。それは、神の厳正な正義と豊かな恵みとが共に、罪人の義認において崇められるためである。

 

 

 

ウ告白は、3節で義認の根拠(土台)を次のように告白する。「キリストは、彼の服従と死によって、このように義とされるすべての人の負債を十分に支払い、彼らのために、み父の正義に対して、当然で真実で十分な償いをされた。」。

 

 

 

キリストの仲保の御業によって、すなわち、キリストの完全な服従によって父なる神の義が満たされ、キリストの身代わりの死によってわたしたちの罪は完全に償なわれ、現実にわたしたち罪人は父なる神の御前に義とされたのである。

 

 

 

ウ告白は、続いて信仰義認が神の無償の、自由な恵みであると次のように告白する。「とはいえ、キリストはみ父によって彼らのために与えられたのであって、その服従と償いとは、彼らの身代わりとして受けられたものであり、ともに価なしにであって、彼らの中にある何事のゆえでもなかったのであるから、彼らの義認は、全くの自由な恵みによるものである。

 

 

 

罪人であるわたしたちに、罪と死の支配を断ち切る力はない。だから、神の子キリストが人の子となり、服従と死によってわたしたちに代わって父なる神の義を得られ、わたしたちの罪を死によって贖ってくださり、全く神の恩寵、自由な恵みによって、キリストのゆえにわたしたちは義とされたのである。

 

 

 

最後にウ告白はわたしたちの義認は神賛美のためであると告白している。

 

ウェストミンスター信仰告白88    主の2019612

 

聖書箇所:テトスへの手紙第3章4-7(新約聖書P398)

 

 

 

 「十一.義認について」の「四」

 

神は、永遠の昔から、選ばれた者すべてを義とすることを聖定された。またキリストは、時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らが義とされるためによみがえられた。とはいえ、聖霊が時至って実際にキリストを彼らに適用されるまでは。彼らは義とされない。

 

 

 

三節で義認の正当な根拠がキリストの積極的服従(キリストの従順)と消極的服従(十字架の死)によって据えられたことを学んだのである。

 

 

 

4節では義認の聖定とキリストの十字架と復活の御業による義認の成就と聖霊の義認の適用を学ぼう。

 

 

 

ウ信仰告白第114節の他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

神は、じっさい全く永遠から、すべて選ばれた者たちを義とすることを整定され、キリストは、じっさい時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らが義とされるために復活された。それにもかかわらず、彼らは聖霊が、じっさい時至って、現実にキリストを彼らに適用されるまでは義とされないのである。

 

松谷好明訳

 

神は、全くの永遠から、選びの民すべてを義とすることを整定され、キリストは、時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らの義認のためによみがえられた。しかし、それにもかかわらず、彼らは、聖霊が、しかるべき時に、キリストを実際に彼らに適用なさるまでは、義とされない。

 

(2)鈴木英昭訳

 

神は、永遠からすべての選ばれた者を義とするように聖定された。そしてキリストは、時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らを義とするために復活された。しかしながら、時至って、聖霊が実際にキリストを彼らに当てはめてくださるまでは、彼らは義とされない。

 

 

 

ウ告白は、3節で信仰義認が神の無償の、自由な恵みであると次のように告白した。「とはいえ、キリストはみ父によって彼らのために与えられたのであって、その服従と償いとは、彼らの身代わりとして受けられたものであり、ともに価なしにであって、彼らの中にある何事のゆえでもなかったのであるから、彼らの義認は、全くの自由な恵みによるものである。

 

 

 

ウ告白は、義認が全く神の無償の、自由な恵みであることを、聖書から三位一体の神の救いの働きを通して告白している。父なる神の聖定(御計画)、キリストの十字架と復活の御業、そして聖霊の我々への適用である。

 

 

 

父なる神が永遠から神の選びの民を義とすることを聖定(御計画)された。使徒パウロは、次のように述べる。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。(ガラテヤ3:8)。神はアブラハムにあらかじめ良い知らせを告げた。すなわち、「異邦人は皆あなたにあって祝福される」という約束である。旧約聖書はアブラハムに神が信仰によって異邦人を皆義とすることを見越して、その約束の祝福を告げたのである(創世記18:18)

 

 

 

その約束は、キリストが成就された。ウ告白は「またキリストは、時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らが義とされるためによみがえられた」と告白する。キリストは受肉し、十字架と復活の御業によって神の選民の罪のために死に、彼らの義のために復活された(ローマ4:25)。使徒パウロが義認の信仰を十字架と復活のキリストの御業に結び付けるように、ウ告白も同様である。それによって義認が神の無償の、自由な恵みであることを明らかにする。

 

 

 

しかし、ウ告白は、聖霊がキリストと彼の御業をわたしたちに適用してくださらなければ、義認は実現しないと告白する。「とはいえ、聖霊が時至って実際にキリストを彼らに適用されるまでは。彼らは義とされない。

 

 

 

使徒パウロは、この聖霊のお働きをこう述べている。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。(テトス3:57)

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白89    主の2019619

 

聖書箇所:詩編第51914(旧約聖書P885)

 

 

 

 「十一.義認について」の「五」

 

神は、義とされた者たちの罪をゆるしつづけられる。それで彼らは義とされた状態から決して落ちることはできないのであるが、それでも彼らは、自分の罪によって、神の父としての不興をこうむり、彼らが自らへりくだって、自分の罪を告白し、ゆるしを乞い、自分の信仰と悔改めをもう一度新しくするまでは、神のみ顔の光を取り戻せないこともありうる。

 

 

 

今夜は、「十一.義認について」の五節を学ぼう。義認の定義(1)、手段(2)、根拠(3)、適用(4)と学んできた。

 

 

 

5節では義認と聖徒の堅忍の関係について学ぼう。

 

 

 

ウ信仰告白第115節の他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

神は義とされる者たちの罪をじっさい赦し続けられる。そして、かれらは義とされている状態から落ちることは決してないが、にもかかわらず、自らの罪によって、神の父としての不興をこうむり、彼らがへりくだって、自らの罪を告白し、赦しを乞い、自らの信仰と悔い改めをもう一度新たにするまでは、御顔の光を回復していただけないことがある。

 

(2)松谷好明訳

 

神は、義とされた者たちの罪を赦し続けられる。そして、彼らは、義認の状態から落ちてしまうことは決してありえないが、それでも、自らの罪によって、神の父としての不興を買い、そのため、へりくだって、自らの罪を告白し、赦しを乞い、自らの信仰と悔い改めを新たにするまでは、神の御顔の光を戻してもらえないことがある。

 

(3)鈴木英昭訳

 

神は義とされた者たちの罪を赦し続けられる。それでも彼らは義とされた状態から落ちることはあり得ない。しかし、自分たちの罪によって、神の父としての不興をこうむることがあるかも知れない。そして、彼らが自らのへりくだり、自分の罪を告白し、赦しを乞い、自分の信仰と悔い改めをもう一度新しくするまでは、神の御顔の光を回復していただけないこともあり得る。

 

 

 

ウ告白は、義認が全く神の無償の、自由な恵みであるゆえに、「神は、義とされた者たちの罪をゆるしつづけられる。」と告白する。村川・袴田訳は「じっさい」という言葉を補い、このことがキリスト者の日常で経験できるというニュアンスを含ませている。主イエスは弟子たちに主の祈りを教え、「わたしたちの負い目を赦してください」と祈るように教えられた。主イエスの弟子は「義とされた者」である。キリストの十字架のゆえに父なる神は、無償で、自由な恵みによって義とされた者の罪を赦し続けてくださる。

 

 

 

ウ告白は「それで彼らは義とされた状態から決して落ちることはできないのである」と告白する。ウ告白の「十七章の聖徒の堅忍について」の一節と関係する。義認をキリスト者の日常レベルで理解しようとすれば、聖徒の堅忍とつながるのである。すなわち、わたしたちが主の祈りを日々することは、日々神はわたしたちの罪を赦し続けてくださることである。

 

 

 

ウ告白は171節でこう告白する。「神がその愛するみ子において受け入れ、みたまによって有効に召命され、きよめられた人々には、恵みの状態から全的にも最後的にも堕落することはあり得ない。かえってその状態に終わりまで確実に堅忍し、そして、永遠に救われる。

 

 

 

義認は、神の一度限りの無償で、自由な恵みである。しかし、神は義とされた者を、十字架と復活のキリストを根拠に彼の罪を赦し続けられるのである。それゆえ彼は義とされた状態から落ちることはあり得ない。これが、聖徒の堅忍である。聖霊の救いの秩序のお働きの中で、わたしたちキリストの日常生活の中で、義認と聖徒の堅忍が固く結びついているのである。

 

 

 

ウ告白を神の視点から我々の視点に移せば、ルターが言うように、「わたしたちは罪赦された罪人である」。義とされた者とは言え、罪の残滓があり、肉の体を持つのである。それゆえ、「それでも彼らは、自分の罪によって、神の父としての不興をこうむ」ることは避けられない。この世でキリスト者の試練は避けられない。へりくだり、自らの罪を告白し、キリストに信頼し、信仰と悔い改めをもう一度新たにして歩むまで、神の恩寵は戻らないのである(ウ告白173節,153節を参照)

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白90    主の2019626

 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第3714(新約聖書P345346)

 

 

 

 「十一.義認について」の「六」

 

旧約のもとでの信者の義認は、これらすべての点から見て、新約のもとでの信者の義認と同一であった。

 

 

 

今夜は、「十一.義認について」の六節を学ぼう。ウ告白は旧約の信者の義認と新約の信者の義認は同一であると告白している。

 

 

 

ウ信仰告白第116節の他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

旧約の下での信仰者の義認は、これらすべての点において、新約の下での信仰者の義認と全く同一であった。

 

(2)松谷好明訳

 

旧約の下にあった信者たちの義認は、以上のすべての点で、新約の下にある信者たちの義認と、全く同一であった。

 

(3)鈴木英昭訳

 

旧約のもとでの信者の義認は、すべて以上の点で、新約のもとでの信者の義認と同一である。

 

 

 

委員会訳と鈴木訳、村川・袴田訳と松谷訳は、それぞれ同じテキストか、それに近いテキストを翻訳に用いている。

 

 

 

矢内昭二先生は、6節をウ告白の7章「人間との神の契約について」の5節と6節を参照するようにと指摘されている。

 

 

 

ウ告白の「これらすべての点から見て」とは、ウ告白の11章の15節から見て、という意味である。ウ告白は、11章の「義認について」を6節で端的に総括し、旧約時代の神の民イスラエルの義認と新約のキリスト教会のキリスト者たちの義認は全く同一であったと告白する。

 

 

 

ウ告白は、恵みの契約(アブラハム契約)を旧約と新約をひとつにつなぐ金の鎖と見、キリストがその二つをつなぐ環であると見ている。

 

 

 

ウ告白は、恵みの契約は律法の時代(旧約)と福音の時代(新約)とで異なって執行されたと告白する(ウ告白7:)

 

 

 

旧約の時代には恵みの契約は、「約束・預言・犠牲・過越の小羊・その他の予型・規定」によって執行され、神の選民イスラエルにキリストを予示し、メシアへの信仰を教え、育てた。彼らは聖霊によって来るべきキリストを信じて、義とされ、罪を赦され、永遠の命を得ていた(ウ告白7:)

 

 

 

新約の時代には恵みの契約は、御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)によって執行され、ユダヤ人だけでなく、異邦人らすべての国民が福音によって提示されたキリストを、聖霊によって救い主と信じて、義とされ、罪を赦され、永遠の命を得ている(ウ告白7:)

 

 

 

ウ告白は、恵みの契約が旧約と新約を通して一つであるように、義認も旧約の信仰者と新約の信仰者とって一つの同一のものであると告白している。

 

 

 

キリストは、受肉され、全き服従と十字架の犠牲の死と復活によって、神とアブラハムの契約の約束を実現し、恵みの契約を新しくされ、キリストは教会の頭となり、ユダヤ人だけでなく、異邦人たち、すべての民を、御言葉と聖礼典を通して、御自身に結び付けられている。だから、旧約の神の民イスラエルと同じく、教会につながる信者たちは、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」である。

 

 

 

ウ告白にとって信仰義認は、恵みの契約の執行によって、神がアブラハムに約束されたことを、キリストによって実現し、そして、世界の全歴史を通して神の民をひとつに結ぶきずなである。

 

 

 

恵みの契約も義認も、旧約と新約を通して、一つのものである。