ウェストミンスター信仰告白70    主の201926

 

 

 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第417(新約聖書P347)

 

 

 

 「八.仲保者キリストについて」の「六」

 

 

 

 あがないのみわざは、キリストの受肉後までは、彼によって実際にはなされなかったのではあるが、それでもその徳力と効果と祝福とは、世の初めから引き続いて、いつの時代にも、約束・予型・犠牲の中に、またそれらによって選民に伝達された。そこにおいて彼は、へびの頭を砕くべき女のすえ、世の初めからほふられて、きのうもきょうもいつまでも変わることのない小羊として啓示され、表象されていた。

 

 

 

今夜は、ウ告白の第八章の「六」節を学ぼう。

 

 

 

前回はウ告白の5節を学んだ。恵みの契約の仲保者であり、保証人であるキリストが、永遠の御霊である聖霊を通して、積極的服従(父なる神に完全な服従)と消極的服従(自己犠牲)より父なる神の義を完全に満たされた。それによって父なる神はキリストにあって選ばれたすべての選民と和解し、彼らに永遠の命を与えるために、主イエス・キリストの十字架を通して、彼らを贖われたことを学んだ。「買いとられた」とは、「身代金を払って身受けする」という意味。キリストの十字架に死によって、神の選民は律法と罪と死の支配から解放されたのである。

 

 

 

今夜は、そのキリストの贖いの御業の世の初めからなされ、今日も明日も変わらずになされていることを学ぼう。

 

 

 

8章六節を他の訳と比較しよう。

 

(1)  村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

贖いの御業は、キリストの受肉後まで、かれによって現実にはなされなかったが、それにもかかわらず、それの力と効果と益は、さまざまの約束と予型といけにえにおいて、また、それらによって、世の初めからあらゆる時代を通じて連続して、選ばれた者たちに分かち与えられた。それらの約束、予型、いけにえにおいて、キリストは蛇の頭を砕くべき女の子孫、また世の初めから屠られた小羊として啓示され、指し示されていたのである。キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方である。

 

(2)  松谷好明訳(一麦出版社)

 

 贖いの御業は、彼の受肉後に初めてキリストによって現実になされたのであるが、しかし、その効力・効果・益は、キリストが蛇の頭を砕くべき女の子孫、世の初めから屠られた小羊、として啓示され、表されている種々の約束・予型・いけにえにおいて、また、それらによって、世の初めから、引き続きあらゆる時代に、選びの民に分かち与えられた。─キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方である。

 

(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

 贖いの御業は、キリストの受肉以前には、彼によってなされなかったのであるが、贖いの力と効果と利益とは、世の初めからいつの時代にも、約束と予型と犠牲のなかに、また、それらによって選民に伝達されていた。そして、それらにおいてキリストは、蛇の頭を砕くべき女のすえ、世の初めから殺された小羊、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方として、啓示され表象されていた。

 

 

 

ウ告白は第8章を、第7章を前提にして告白する。キリストが恵みの契約の仲保者・保証人として、実際に恵みの契約を遂行され、贖いの御業をなされたのは、受肉後である。しかし、永遠において御子キリストは父なる神と神の選民を救うためにの贖いの契約を結ばれ、それに基づき、世の初めから歴史の中で恵みの契約が遂行される。そして、キリストの贖いの力と効果と益はいつの時代(律法(旧約)と福音(新約)の時代)にもある。特にキリストの受肉以前の律法の時代(旧約)は「約束・予型・犠牲」の中に、それらによって父なる神が神の選民イスラエルに伝えられていたと(ウ告白75)

 

 

 

恵みの契約は、「約束」においては原始福音(創世記3:15)、アブラハム・イサク・ヤコブとの契約、シナイ契約、ダビデ契約、そして主イエスの受肉と歴史の中で遂行された。「予型」においてはアダム、ノア、アブラハム、モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデ、そして預言者、祭司、王を通してメシアが神の民に伝えられた。「犠牲」において幕屋や神殿の動物犠牲を通して神の民にキリストの十字架の贖いが神の民に伝えられた。

 

 

 

キリストの贖いは、いつの時代も変わらないのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白71    主の2019213

 

 

 

聖書箇所:ヘブライ人への手紙第91115(新約聖書P411)

 

 

 

 「八.仲保者キリストについて」の「七」

 

 

 

 キリストは、仲保のみわざにおいて、両性に従って行動される。それぞれの性質により、それぞれに固有なことをされる。しかし、人格の統一性のゆえに、一方の性質に固有なことが、聖書ではときどき、他方の性質で呼ばれる人格に帰されている。

 

 

 

今夜は、ウ告白の第八章の「七」節を学ぼう。

 

 

 

前回はウ告白の6節を学んだ。ウ告白のキリスト論は、恵みの契約の仲保者であり、保証人であるキリストの二性一人格、積極的服従と消極的服従、そして謙卑と高挙のキリストを告白し、旧約と新約において変わることなく救いの働きをされたことを告白する。

 

 

 

今夜は、そのキリストの仲保者としての救いの御業について学ぼう。

 

 

 

8章七節を他の訳と比較しよう。

 

(1)  村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

キリストは仲介の御業において、神性と人性の両方の本性に従って行動されるが、それは、それぞれの本性がそれ自身に固有なことをなすことによってである。それにもかかわらず、人格の統一性のゆえに、一方の本性に固有なことが、聖書の中で時には、もう一方の本性で呼ばれる人格のものとされることがある。

 

松谷好明訳(一麦出版社)

 

 キリストは、仲介の御業において、「神・人」両方の本性に従い、それぞれの本性がそれ自身に固有なことをなすことによって、行動される。しかし、人格の統一性のゆえに、一方の本性に固有なことが、聖書では時々、他方の本性によって呼ばれる人格に帰されている。

 

(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

 キリストは、仲保の御業において、彼の二つの性質にしたがって行動される。すなわち、それぞれの性質により、それぞれに固有なことをされる。しかし、その人格の統一性のため、聖書において時には、一方の性質に固有なことが、他方の性質で呼ばれる人格に帰されることがある。

 

 

 

昔は「仲保(仲保者)」であったのに、新共同訳聖書と新改訳聖書2017は「仲介者」(1テモテ2:5)と翻訳している。新共同訳聖書をテキストとするゆえに村川・袴田訳と松谷訳も「仲介(仲介者)」と訳している。「仲介」とは、第三者が中に入り便宜を図るとか、紛争を解決するという時に使われる言葉である。「仲保」は純粋にキリスト教用語である。広辞苑はそれを認める。だからこう解説する。「神と人との間の宥和媒介をなすこと。キリストは神と人との間に立って十字架上の死により人類の罪を贖い人類を救済したので、仲保者と称される」。広辞苑で「仲保」がキリスト教の用語として認識されているのに、翻訳聖書事業の聖書協会と聖書刊行会が折角日本に定着した「仲保」「仲保者」というキリスト教用語を捨て、「仲介」「仲介者」という言葉を使用するのか、わたしにはよく理解できない。

 

 

 

だから、わたしは、委員会訳と鈴木訳が「仲保」と訳することを支持する。

 

 

 

わたしは、思う。キリストの御業は仲介ではなく、仲保であると。なぜなら、「仲介」でわたしがイメージするのは、便宜を図ってもらうとか、国際紛争で、あるいは社会的な問題で、第三者が入り、紛争解決し、問題の解決を図ることである。

 

 

 

さて、ウ告白は、「キリストは、仲保のみわざにおいて、両性に従って行動される」と告白する。矢内昭二先生は、ここは「属性の交流」のことではなく、「仲保者の職務行為の交流」であると解説する。キリストの神性と人性という異なる性質がキリストの人格の中で統一され、キリストは両性において固有な性質を持たれている。それを、キリストの「属性の交流」という。

 

 

 

キリストの御業はキリストという一つの人格を持った者の行為である。だから、キリストは神の性質を持ち、この世界を創造され、人の性質を持ち、わたしたちと同じように飲食をし、衣服を着、家に住まわれる。そして、両性に従って働きが、キリストの一人格の働きとしてつながり、協力し合っている。そして、聖書は、人の子キリストが神の性質に従って奇跡をなさることを記す。

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白72    主の2019220

 

 

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第63440(新約聖書P175176)

 

 

 

 「八.仲保者キリストについて」の「八」

 

 

 

 キリストがあがないを買いとられたすべての人々に対して、彼はそれを確実有効に適用し、伝達される。それは、彼らのために執成しをし、救いの奥義をみ言葉において、み言葉によって、彼らに啓示し、みたまによって信じ従うように有効に彼らを説得し、み言葉とみたまによって彼らの心を治め、彼の不思議な、きわめがたい配剤に最もよく調和する方途で、彼の全能の力と知恵により、彼らのすべての敵を征服することによってである。

 

 

 

今夜は、ウ告白の第八章の「八」節を学ぼう。キリストの贖いはどのように確実、有効にわたしたちに適用・伝達されるのかを学ぼう。この節はキリスト論から聖霊論へのつなぎ目である。

 

 

 

8章八節を他の訳と比較しよう。

 

(1)村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

キリストは御自分が贖い取られたすべての人々に、その贖いを、じっさい確実また有効に適用し、分かち与えられる。すなわち、彼らのために執り成し、御言葉において、また御言葉によって、彼らに救いの奥義を啓示される。そしてかれの霊によって、彼らが信じて従うように彼らを有効に説得し、かれの言葉と霊によって、彼らの心を治められる。またその全能の力と知恵により、その驚くべき、計り知れない配剤に最も合致した仕方と方法で、彼らのすべての敵を征服される。

 

松谷好明訳(一麦出版社)

 

キリストは、御自分が贖いを買い取っておられる者たちすべてに対して、その贖いを確実かつ有効に適用し、分かち与えられる。すなわち、キリストは、[第一に]彼らのために執り成し、御言葉において、また御言葉により、救いの奥義を彼らに啓示し、[第二に]信じて従うように、彼の霊によって彼らを有効に説得し、彼の言葉と霊によって彼らの心を治め、更に[第三に]彼の全能の力と知恵により、また、彼のすばらしく、測り知れない配剤に完全に一致する仕方と方法で、彼らのすべての敵を征服されるのである。

 

(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

 キリストは、彼が贖ったすべての人に対し、その贖いを確実にまた有効に適用し伝達される。

 

すなわち、彼らのために執り成し、救いの奥義を御言葉のなかに、また御言葉によって彼らに啓示し、信じ従うように御霊によって彼らを有効に説得し、御言葉と御霊によって彼らの心を治めてくださる。またその驚くべき知り尽くすことのできない統治に最も調和した方法で、その全能の力と知恵によって、彼らのあらゆる敵を征服してくださる。

 

 

 

あがない」は「買い取る」という意味である。身代金を支払って身受けすることが「贖い」という概念である。キリストはわたしたちを律法・罪・死から贖う「身代金」として、十字架上で死なれた。それによってわたしたちは律法の呪いと罪の力、悪魔の支配、そして死の支配から解放されたのである。

 

 

 

ウ告白は、その贖いがわたしたち選民に確実、かつ有効に適用され、伝達されると告白する。

 

 

 

第一は、キリストの執り成しである。しかし、ここで問題になっているのは、キリストの贖いの適用である。どのようにしてキリストの贖いは、すべての神の選民に確実・有効に適用され、伝達されるのかという問題である。

 

 

 

第一にキリストの執り成しである。復活の主が父なる神の右に座されて、わたしたち選民を執り成してくださっている(ローマ8:34)。キリストの十字架の贖いがすべての神の選民に確実、有効に適用され、伝達されるのはキリストの執り成しの祈りがあるからである(ローマ8:34)

 

 

 

第二に御言葉によってわたしたちに救いの奥義が啓示されているからです。わたしたちは聖書によって、その聖書の御言葉の説き明かしである説教によって神が啓示された救いの奥義を知ることが出来る。

 

 

 

第三に聖霊の内的照明によって、わたしたちは聖霊に説得される。キリストは礼拝で、家庭礼拝で、祈祷会で、ディーボションで、聖書の学びで、男子会・婦人会で聖霊と御言葉を通してわたしたちの心を統治される。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白73    主の2019227

 

 

 

聖書箇所:ヤコブの手紙第11215(新約聖書P421)

 

 

 

 「九.自由意志について」の「一」

 

 

 

神は、人間の意志にあの自然的自由を賦与された。それは善にも悪にも強制されていないし、また自然の絶対的必然で決定されてもいない。

 

 

 

今夜は、ウ告白の第九章の「一」節を学ぼう。8章では業と恵みの契約を学び、9章では恵みの契約の仲保者であり、保証人のキリストについて学んだ。

 

 

 

9章一節を他の訳と比較しよう。

 

(1)村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

神は人間の意志に自然本性的自由を賦与しておられる。すなわち、人間の意志は強制されないし、また自然本性の絶対的必然性によって、善あるいは悪へと向けられてもいない。

 

松谷好明訳(一麦出版社)

 

神は人間の意志に対して、強制されることも、本性の絶対的必然性といったものによって善また悪に決定されているということもない、そのような生まれながらの自由を与えておられる。

 

(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

 神は、人間の意志に生まれながらの自由を与えられた。すなわち、それは強制されることもなければ、絶対的な必然性をもって、善か悪のいずれかに傾くこともない。

 

 

 

ウ告白は、1章で「聖書論」、25章で「神論」、68章で「キリスト論」を論じてきた。9章は「人間論」である。人間の自由意志を叙述している。

 

 

 

ウ告白は、第6章ですでに「人間論」を叙述している。人間の罪と堕落、そして、神の刑罰を叙述している。人間は堕落し、本性的に腐敗し、そこから現実罪が生じることを学んだ。そして、堕落した人間は、正しい神の律法に違反し、神の怒りの下に置かれ、霊的、永遠的に死に服しているという悲惨な状態にあることを学んだ。救済の視点からの人間論である。

 

 

 

9章の人間論は、神の恩寵と人間の自由意志という視点である。

 

 

 

ウ告白9章は中世のラテン教父アウグスティヌス以来の「神の恩寵と人間の自由意志」というテーマを扱っている。

 

 

 

宗教改革の時代、エラスムスが「人間の自由意志論」を著し、宗教改革者ルターはエラスムスに反対し、「人間の奴隷的意志論」を著した。ウ告白は、宗教改革時代の人間の自由意志論争の成果である。

 

 

 

人間には自由意志がある。神は人間を創造された時、彼に自然的(生まれながらの)自由意志を賦与された。ウ告白は、アウグスティヌス以来の自由意志を人間の無罪状態、罪によって堕落した状態、恵みの状態、そして、天上における栄光の状態に分けて叙述する(ウ告白9:2)

 

 

 

1節は、創造時の人間の自由意志についてである。1節の「自然的自由」「自然本性的自由」とは、「生まれながらの自由」である。神は人間を男と女に創造された時、彼らに生まれながらの自由な意志を与えられたのである。

 

 

 

創造時の人間の意志は、自由であった。だから、「善にも悪にも強制されないし」、また、「自然の絶対的必然性(自然法則)で決定されてもいない」。

 

 

 

だから、蛇がエバを誘惑するという事件が起こり得たのである(創世記3)。神は彼女の自由意志を損ねることなく、彼女が蛇の誘惑によって善悪を知る木の実を食べることを予定されたのである(ウ告白3:1)

 

 

 

だから、アダムもエバも、神が予め彼らが罪を犯すようにお定めになったので、蛇に誘惑され、神に禁じられていた善悪を知る木の実を必然的に食べたのではない。

 

 

 

むしろ、神は彼らに自由意志を与えられ、彼らに強制することなく、また、神が定められた自然法則に従って彼らを必然的に決定された行為をさせられたのではない。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白74    主の201936

 

 

 

聖書箇所:コレヘトの言葉第7章29(旧約聖書P1043),創世記第21617(旧約聖書P3)

 

 

 

 「九.自由意志について」の「二」

 

 

 

人間は、無罪状態においては、善であり神に喜ばれることを意志し、行なう自由と力を持っていた。しかし、可変的であって、そこから堕落することもありえた。

 

 

 

今夜は、ウ告白の第九章の「二」節を学ぼう。91節では神が人間に自由意志を賦与され、その自由意志は善にも悪にも強制されず、自然法則で人間の自由意志が決定されることもないことを学んだ。

 

 

 

9章二節を他の訳と比較しよう。

 

(1)村川満+袴田康裕訳(一麦出版社)

 

人間は無罪の状態においては、善であって神に喜ばれることを意志し行う自由と力を持っていた。しかし、それにもかかわらず、それは可変的な仕方においてであって、それゆ人間はその状態から堕落することもあり得た。

 

松谷好明訳(一麦出版社)

 

人間は、無罪の状態においては、善であり神に喜ばれることを、望み、行う、自由と力を持っていた。しかしそれは可変的にであったから、人間はその状態から堕落することもありえた。

 

(3)鈴木英昭訳(つのぶえ社)

 

 人間は、無罪の状態において、善であって神に喜ばれる事柄を意志し行う自由と力とを所有していた。しかし、それは、不変的なものではなかったので、そこから堕落することもあり得た。

 

 

 

ウ告白は、2節で無罪の状態においての自由意志を叙述し、3節で罪の状態に堕落した人間の自由意志を叙述し、4節で恵みの状態においての自由意志を叙述し、5節で栄光の状態における自由意志を叙述している。

 

 

 

神が人間を創造された時、神は言われた、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう(創世記1:26)。神は御自身の自由な決断によって人間を創造された。だから、神が自由意志をお持ちのように、自由意志を持つ人間を創造された。神は御自身に対応する人間を創造された。だから、神が自由意志をお持ちのように、そして、語り、聞くことがおできになるように、神は人間にも自由意志を賦与し、語り、聞くことが出来るように創造されたのである。

 

 

 

そして、神が創造された世界は、神の御目に「見よ、それは極めて良かった(創世記1:31)。それゆえに神に創造された人間は、「善であり神に喜ばれることを意志し、行なう自由と力を持っていた」のである。人間は、自由意志でもって神と神が創造された世界を喜ぶことを許されていたのである。

 

 

 

しかし、人間の自由意志は、「可変的」であった。人間は自由意志を持っている。それは、人間は自由だということである。その人間の自由意志、すなわち、人間の自由は、神の命令に背くこともできる自由なのである。だから、人間の自由意志は「可変的」なのである。だから、人間は過ちを犯し、罪に堕ちたのである。

 

 

 

蛇に誘惑されたエバは、善悪を知る木を見た。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(創世記3:6)

 

 

 

蛇に誘惑されたエバは、蛇に罪を犯すように強制されたのではない。蛇は、エバに真実と偽りを混ぜて誘惑したのである。エバは、自分の目で善悪の木の実を見て、食べるに良いと思い、彼女の自由な意志で善悪を知る木の実を取って食べ、夫のアダムにも与えたのである。アダムも当然彼の自由な意志で妻から渡された善悪を知る木の実を食べたのである。こうして彼らは自由な意志で神の戒めに背き、そして堕落したのである。

 

 

 

それによって人間は、善に対する意志の能力を喪失するのである。使徒パウロは、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。(ローマ7:18)。これについては、次回で学ぼう。