ウェストミンスター信仰告白21    主の2018131

 

 

 

聖書箇所:ペトロの手紙二第11621

 

 

 

 「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「九」

 

 

 

 聖書は、キリストにおける神の和解のみわざに対するその証言に照らして、解釈されなければならない。

 

神はその救いの啓示を、聖なる人々によって漸進的に与えられた。神は、啓示と霊感の神であると同時に、摂理と恩恵の神でもあられる。聖書の生成は長期間の実に複雑な過程であり、そこには無数の極めて多様な神の諸活動が含まれており、そのすべてが聖書の生成に関係している。聖書記者たちは、この神によってそれぞれ異なる性質と才能と教養を与えられ、支えられ、導かれて、それぞれの時代に普及していた言語や慣用句や文学様式を用い、また、さまざまの伝承や歴史的資料を用いて、誤りなく神のみ言葉を書きしるした。

 

従って、聖書を解釈するにあたっては、その文章が書かれた時の歴史的状況と文学様式に考慮を払い、文献的歴史的理解をもって近付かなければならない。そこで、私たちは、歴史における聖書の位置と背景、」ならびに聖書の性質と目的をよりよく理解する助けとなるような聖書の研究は、これを歓迎する。

 

聖書全体が神的性格と人間的歴史的性格との両面を備えていることを、正しく認めることによって、教会は、聖書のもろもろの言葉の中に神のみ声を一層よく聞きとることができるのである。

 

 

 

 前回は、「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「八」を学んだのである。

 

 

 

 ウ告白は、「聖書解釈の無謬の規準は聖書自身である」と信仰告白する。これは、聖書解釈のコペルニクス的転回であった。ローマカトリック教会は、「聖書解釈の権威は教会である」と主張していた。聖書が何を教えるかを、教会が決定した。ウ告白はカトリック教会に「否」と答え、「聖書が聖書自体の無謬の解釈者である」と主張し、教会が何を教えるべきかを、聖書が決定すると主張した。

 

 

 

ウ告白は、聖書を解釈する二つの原則を明らかにしている。第一の原則は「多様ではなくて、ひとつである」ということである。第二の原則は、「真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって探究し、知らねばならない」ということである。

 

 

 

信仰の宣言は、ウ告白の聖書解釈を踏まえて、さらに詳しく聖書解釈を解説している。聖書解釈を、信仰の宣言は「神学的解釈」と規定している。

 

 

 

信仰の宣言は、聖書解釈を他の文学や哲学等の解釈とは区別している。「聖書は、キリストにおける神の和解のみわざに対するその証言に照らして解釈されなければならない」と。

 

 

 

そのように聖書解釈が他の文芸批評や哲学的解釈と異なるのは、聖書の成立とその歴史性にある。すなわち、神は御自身の救いの啓示をアブラハム、モーセ、ダビデ、イザヤ等の預言者たち、福音書記者たち、使徒パウロ等の70人以上の聖なる人々を用いて与えられたのである。

 

 

 

信仰の宣言は、次のように述べている。神御自身が御自身を「在ってある者」と啓示され、人々に霊感を与え、同時に摂理と恵みの神である。だから、聖書は4000年以上の長い歴史の中で複雑な過程を経て、神の歴史の中における御業を証言し、神は聖書記者たちの異なる性質、才能、教養を与え、彼らを支え、導かれて、それぞれ時代の言語で、慣習句や文学様式で、伝承や歴史的資料を用いて神の御言葉である聖書を産み出されたのであると。

 

 

 

だから、信仰の宣言は、われわれに次のように勧める。聖書の歴史的生成に照らして、それを解釈するに聖書が書かれた時代の歴史的状況と文学的様式を考慮して文献的歴史的理解を持って聖書に近付くように、と。

 

 

 

信仰の宣言は、われわれに次のように聖書を解釈することの益を伝えるのである。聖書には神的性格と人間的性格の両面があり、それをよく理解し、正しく認めて、教会が礼拝説教を通して神の御声を聞くようにすることが聖書を解釈することの益であると。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白22    主の201827

 

 

 

聖書箇所:使徒言行録第282428(新約聖書P271)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「十」

 

 

 

 それによってすべての宗教論争が決裁され、すべての会議・古代の著者たちの意見・人々の教義・個人の精神が検討されなければならないところの、またその宣告にわたしたちがいこわなければならないところの至高の審判者は、聖書の中に語っておられる聖霊以外の何者でもありえない。

 

 

 

 前回は、「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「九」を学んだのである。

 

 

 

 9節は、「聖書解釈」である。聖書解釈の規準は聖書自身であるということである。聖書は聖書によって解釈する、それを聖書の類比と言うのである。聖書の明白な個所から聖書の困難な個所を理解するのである。

 

 

 

信仰の宣言は、ウ告白の聖書解釈を踏まえて、さらに詳しく聖書解釈を解説している。たとえば聖書の目的や意図にそって解釈する「神学的解釈」を規定している。文学的様式、歴史的資料を用いて、「文献的歴史的研究」で、聖書の神的性格と人的性格を正しく認めて解釈し、聖書から正しく神の御声を聞くように勧めているのである。

 

 

 

さて、ウ告白は、9節との関連で10節は聖書解釈の至高の判定者は聖霊であると告白する。

 

 

 

すべての宗教論争」は、9節の「どの聖句の真の完全な意味についての疑問のある場合」の教理上の異論であり、ウ告白はその判定の権威を個人、会議、伝承などの人間的なものに置くのではなく、聖書自身が判定するのであり、その聖書の権威は聖書の著者である聖霊御自身であると主張しているのである。

 

 

 

ウ告白は、教会の会議や古代の教父たちの見解を軽んじているのではない。しかし、それらが、信仰者の良心を束縛することはあり得ないと考えている。

 

 

 

個人の信仰の良心が依拠すべきは聖書であり、「その宣告にわたしたちがいこわなければならないところの至高の審判者は、聖書の中に語っておられる聖霊以外の何者でもありえない」のである。

 

 

 

古代の教父の見解も教会会議の決定も、聖書の権威の前では相対的である。しかし、聖書の権威は絶対的であり、聖書の中で語られる聖霊こそ至高の判定者なのである。

 

 

 

わたしたちの良心は、聖書の中で語られる聖霊の御声に従わなければならないのである。

 

 

 

聖書の権威とは、「聖書の中に語っておられる聖霊」の権威である。そして、聖霊が語られる言葉である聖書がわたしたち信仰者の信仰と生活の唯一の規準である。

 

 

 

教会の会議の決定も法王の勅令も古代の教父たちの見解も現代の神学者たちの見解も、この世の人間的権威のすべては、一切聖書の権威によって判定されなければなりません。

 

 

 

ウ告白の背後に当時のローマカトリック教会の教えに対する否がある。宗教改革の時代のローマカトリック教会は、良心の自由を束縛していたのである。聖書の中で聖霊が個人に語られる声を黙らせ、教会の教える、教会の教理が無謬であり、信者たちはそれに無批判に盲従させられていたのである。

 

 

 

ウ告白は、教会の権威に対して聖書の権威を主張し、聖書を個人が解釈する自由を主張したのである。なぜなら、聖書の中で語られる聖霊が信仰を通して信者の心に聖書の真理を明らかにしてくださるからである。

 

 

 

こうして10節は、「第1章聖書について」の結論として、聖書の権威は聖書の著者であり、聖書の中で語られる聖霊自身であり、聖霊だけが聖書の意味を究極的に判定されるのであると主張するのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白23    主の2018214

 

 

 

聖書箇所:使徒言行録第282428(新約聖書P271)

 

 

 

 「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「十」

 

 

 

 聖書の無謬の解釈者およびすべての宗教論争の至高の審判者は、聖書の中に語っておられる聖霊以外の何者でもあり得ない

 

この聖書の権威のもとに教会が奉仕的宣言的に行使する教会会議の権能と、聖書の個人的解釈の権利および個人の良心の自由とは、聖書に従って正しく行使される場合、互いに矛盾せず、破壊し合うことなく、互いに他を保持し維持して、両者は見事に調和する。

 

従って、神の教会において論争が生じ、聖書の解釈と意味について容易に一致が得られない時、もしその解釈が、教会の信仰告白が教える教理の体系と矛盾しないか、あるいはそれが、信仰告白の明白に教えていない事柄に関する場合は、聖書解釈の自由と解釈の多様性とが、認められなければならない。

 

それは、私たちが、教会のかしらである主イエス・キリストの御約束に信頼し、真理のみたまであり一致ののみたまである聖霊に導かれて、いよいよ勤勉にみ言葉を学びつつ、よりよい解釈が示される日のあることを、信仰と愛をもって待ち望むからである。

 

アーメン。造り主なるみたまよ、来たりませ。

 

 

 

 前回は、「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「十」を学んだのである。

 

 

 

 10節で、ウ告白は教会における宗教論争の至高の審判者は、聖書の中で語られている聖霊であると告白している。

 

 

 

 信仰の宣言は、ウ告白に従い、「聖書の無謬の解釈者およびすべての宗教論争の至高の審判者は、聖書の中に語っておられる聖霊以外の何者でもあり得ない」と宣言する。

 

 

 

どんな人間の権威も、聖書の無謬の解釈者、あるいは教会における宗教論争の至高の審判者とはなり得ない。最高の判定者は聖霊である。

 

 

 

次に信仰の宣言は、教会の権能と個人の聖書解釈の権利と良心の自由が調和することを宣言する。

 

 

 

ウ告白は、聖霊が無謬の聖書解釈者であると告白し、聖霊に導かれて聖書を個人が解釈する権利と良心の自由を擁護したのである。

 

 

 

信仰の宣言は、ウ告白に従いつつ、更に教会会議の権能と個人の聖書解釈の権利及び良心の自由との調和を宣言する。その調和の条件は、教会と個人が聖書の権威に従い、互いに正しく聖書を解釈し、互いに矛盾し合うことなく、破壊することなく、互いに他を保持し維持することである。

 

 

 

「信仰の宣言」こそ、その調和によって産み出されたのである。大会において「教会が奉仕的宣言的に行使する教会会議の権能」で「信仰の宣言」が公にされ、個人も聖霊に導かれて聖書を解釈し、「信仰の宣言」に矛盾なくば、喜んで自らの信仰生活の中で信仰の宣言を証しすべきなのである。

 

 

 

次に信仰の宣言は、「信条外の自由」を認めるのである。「神の教会において論争が生じ、聖書の解釈と意味について容易に一致が得られない時、もしその解釈が、教会の信仰告白が教える教理の体系と矛盾しないか、あるいはそれが、信仰告白の明白に教えていない事柄に関する場合は、聖書解釈の自由と解釈の多様性とが、認められなければならない。

 

 

 

教会の中で宗教論争が起こり、聖書解釈と意味について教会会議で一致が得られない時がある。その場合ウ信条の教理の体系に矛盾しない限り、あるいは、ウ告白が明白に教えていない事柄に関する時、信仰の宣言は聖書解釈の自由と多様性を認めるべきであると宣言する。

 

 

 

そして、信仰の宣言は、わたしたちに最後に教会の頭である主イエス・キリストの御約束に信頼し、教理の一致が与えられるように聖霊に導かれ、いよいよ勤勉に聖書の御言葉の学びに励むように勧告し、必ず将来に良き解釈を与えてくださるとの希望を持ってこの宣言を閉じるのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白24    主の2018221

 

 

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第816(新約聖書P309)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の「一」

 

 

 

 ただひとりの、生ける、まことの神がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり、最も純粋な霊であり、見ることができず、からだも部分も欲情もなく、不変、偏在、永遠で、とらえつくすことができず、全能であって、最も賢く、最もきよく、最も自由、最も絶対的で、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い、ご自身の栄光のために、すべての物事を営み、最も愛とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく、すべての罪を憎み、とがある者を決してゆるさないおかたである。

 

 

 

 

 

 前回は、「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「十」を学んだのである。これをもって、ウェストミンスター信仰告白の「一.聖書について」の学びを終える。

 

 

 

 今回より「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の学びを始める。

 

 

 

 ウ告白は、神について、「ただひとりの、生ける、まことの神がおられるだけである。」と力強く信仰告白する。「コーラム・デオ(神の御前に)」生きる聖なる畏れを持ち、告白する。

 

 

 

 ウ告白は神の存在を証明しない。パスカルが『パンセ』の中で指摘するように、神の存在証明はわたしたちを聖書の唯一の生ける神に導かず、哲学者たちの神に導くだけである。

 

 

 

 わたしたちは、聞く以外に唯一の神、生ける神を信じることはできない。モーセが神の民イスラエルに「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と告げている(申命記6:45)

 

 

 

 主なる神はモーセを通して御自身を4つの言葉で、神の民イスラエルの知らせられたのである。「主(ヤーウェ)、我らの神、主(ヤーウェ)、ひとり」と。そして、神の民イスラエルは、主がモーセを通して主なる神が彼らを愛されたように、心と体で彼らが主を愛し尽すとき、すなわち、心から主を信じた時に、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」ことを知るのである(申命記5:7)

 

 

 

 使徒パウロもコリント教会のキリスト者たちに偶像に供えられた肉について勧告した時に、次のように述べている。「そこで偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」(Ⅰコリント8:4)

 

 

 

 聖書を信じる者は、そこで御自身を啓示された神について、「ただひとりの、生ける、まことの神がおられるだけである。」と信じている。

 

 

 

 神の存在の知識は、聖書を信じる信仰によって得られるのである。聖書で御自身を啓示された神の存在を信じて、わたしたちは「主、我らの神、主、ひとり」に近づくのである。

 

 

 

 カルヴァンは、ジュネーブ教会信仰問答問1で「人生の主な目的は何であるか」と問い、「神を知ることです」と答えている。わたしたちの信仰と生活は、「ただひとりの、生ける、まことの神」を知ることの上に築かれている。その神を、わたしたちが心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、愛するのである。自分たちの人生を通して、神の栄光を現わすことを通して、わたしたちは聖書の神のみが「ただひとりの、生ける、まことの神」であることを信じ、この世の人々に証しするのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白25    主の2018228

 

 

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第41626(新約聖書P169170)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の「一」

 

 

 

 ただひとりの、生ける、まことの神がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり、最も純粋な霊であり、見ることができず、からだも部分も欲情もなく、不変、偏在、永遠で、とらえつくすことができず、全能であって、最も賢く、最もきよく、最も自由、最も絶対的で、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い、ご自身の栄光のために、すべての物事を営み、最も愛とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく、すべての罪を憎み、とがある者を決してゆるさないおかたである。

 

 

 

 前回は、「ウェストミンスター信仰告白 二.神について、また聖三位一体について」の学びを始めました。

 

 

 

 ウ告白は、神について、「ただひとりの、生ける、まことの神がおられるだけである。」と力強く信仰告白する。それは聖書が啓示する神である。

 

 

 

 ウ告白は、聖書が啓示する唯一の、生ける神を4つに分けて告白するのである。

 

 

 

 (1)彼は、存在と完全さにおいて無限であり、最も純粋な霊であり、見ることができず、からだも部分も欲情もなく、不変、偏在、永遠で、とらえつくすことができず、全能であって、最も賢く、最もきよく、最も自由、最も絶対的で、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い、ご自身の栄光のために、すべての物事を営み

 

 

 

 ウ告白の第二章1節は、神の定義である。神の定義と言っても、有限な人間は無限な神を把握できないのである。だから、ウ告白は「神は何か」という問いに「できず」「なく」という言葉を用いて、神とは何かを告白するのである。「神とは何か」と問われて、わたしたちは「神はこういう方ではない」と否定的に答えざるを得ないのである。

 

 

 

 岡田稔先生は、「神は限りがない方、少しもまじりけのない霊、目に見えず、部分がなく、変化がなく、結局、人間の心では『こうだ』ととらえられない方である。これをひと言で『有限は無限をとらえず』と、表現することができる」と言われている(『解説ウェストミンスター信仰告白』つのぶえ社 14)

 

 

 

 わたしたちは、「神について」学ぶ時、「有限は無限をとらええず」ということをよく心に留め、へりくだって聖書に聞き、学ぶべきである。

 

 

 

 聖書は「ただひとりの、生ける神はおられる」と証言する。「おられる」は英語の「ビーイング(存在する)」である。ウ告白は、その存在する神を「彼は、その存在と完全さにおいて無限であり」と告白する。

 

 

 

 神はその存在においても完全さにおいて無限の方なのである。聖書に神の存在証明はない。むしろ、神に近づくこと望む者は、「神の存在を信じる」以外にない。聖書では信仰者とは神の存在を信じ、不信仰者は神の存在を信じない。

 

 

 

 神の存在は完全である。神は存在そのものにおいて完全であり、無限であられる霊である。

 

 

 

 神は無限の霊である。「最も純粋な霊であり」。主イエスは、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)と言われた。

 

 

 

 「」とは「見ることができず」「からだも部分も」ない存在者である。神は、人間とも物質とも異なる存在者である。人間の魂とも異なる。それは人間の体に属して、罪に影響され、人の感情や情念に影響される。神の霊の存在は、純粋な霊であり、「欲情もな」い。神は人間とは異なり、「身体や器官、欲情のない」最も純粋な霊である。