ウェストミンスター信仰告白101  主の2019年9月18

 

聖書箇所:ルカによる福音書第151124(新約聖書P139)

 

 

 

 「十五.命に至る悔い改めについて」の二節

 

これによって罪人は、自分の罪を神のきよい性質と正しい律法に反するものとして、その危険さばかりでなく、そのけがらわしさやいとわしさをも見また感じ、そして後悔している者へのキリストにある神のあわれみを悟って、自分の罪を悲しみ憎んで全くそれを捨てて神に立ち帰り、神の戒めのすべての道において神と共に歩むようにめざし努力するのである。

 

 

 

今夜は、「十五.命に至る悔い改めについて」の二節を学ぼう。

 

 

 

前回は「十五,命に至る悔い改めについて」の一節を学んだ。命に至る悔い改めがキリストへの信仰と同様に聖霊のお働きであり、神の恵みゆえに教役者によってキリストの罪の赦しの福音的恵みとして説教する義務があることを学んだ。

 

 

 

今夜は、「命に至る悔い改めについて」の本質を学ぼう。ウ告白は、その本質を語る前提として、次のことを知っている。カルヴァンの『キリスト教綱要』の神認識と自己認識である。聖霊のお働きによって神を知り、自己を知ることが人を真の命に至らせる信仰と悔い改めへと導くのである。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 それによって、罪人は自分の罪が危険なものであるだけではなく、それが神の聖なる性質とその正しい律法に反するものとして不潔で憎むべきものであることを見、また感じることにより、そして同時に、悔いる者に対するキリストにある神の憐れみを悟ることによって、自分の罪を悲しみ憎んで、それらすべての罪から神に立ち帰り、神の戒めのすべての道において、神とともに歩むことを決意し、そう努めるようになるのである。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 命に至る悔い改めによって罪人は、自分のもろもろの罪を神の清い性質と正しい律法に反するものとして、その危険性だけでなく、その汚らわしさといまわしさをも見、感じ、また、悔いている者へのキリストにおける神の憐れみを悟って、自分の罪を深く悲しみ、憎んで、それらすべての罪から離れて神に立ち帰り、神の戒めのすべての道において神と共に歩むことを決意し、そう努めるようになる。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

罪人は自分が神の清い性質と正しい律法に反しているので、悔い改めによって、自分の罪の危険だけでなく、汚らわしさやいやらしさも見、また感じる。そして、悔いる者へのキリストにある神の憐れみを悟って、自分の罪を悲しみ憎み、それらからすべて離れて神に立ち返り、神の戒めのすべての道で神と共に歩むよう決意し努力する。

 

 

 

これによって」とは、牧師が語る説教である。聖書の説き明かしである説教を聞き、聖霊によって心を開かれ、わたしたちは真の神を知り、自分を知るのである。自分を「罪人」と自覚する。「神のきよい性質と(神の)正しい律法に反する」自分の罪を悟らせられる。その罪は、頭だけでなく、自分の目で見て、体で感じ、自分にとって危険なものであることを理解できる。

 

 

 

他方、キリスト者たちは、説教を通して聖霊に導かれ、神の恵みの福音へと招かれます。放蕩息子が放蕩によって全財産を失い、自分の今の悲惨さが神と父から離れ、神と父の戒めを捨てたからだと、自分の罪を悟り、自分の今の汚らわしさを憎み、父の使用人と同じ扱いを受けてでもよいからと、父のところに帰りました。ところが父は遠くから彼を見て、快くわが子として迎え入れてくれました。

 

 

 

真の悔い改めは、人の心の改心ではありません。回心です。罪人の自分を知り、その罪を悔いる者に神はキリストの十字架を通して罪の赦しを与えられる。その神の憐れみ()を、聖霊によって理解する時、わたしたちは放蕩息子のように自分たちのすべての罪を捨て、神に立ち帰るのである。そして、これからは神と共に、神の戒めを守って生きることを決心するのである。常にキリストの十字架にわたしたちの心を向け、キリストへの服従の道を歩むことが、すなわち、兄弟姉妹を愛することが真の命に至る悔い改めなのである。

 

ウェストミンスター信仰告白102    主の2019年9月25

 

聖書箇所:ルカによる福音書第1315(新約聖書P134)

 

 

 

 「十五.命に至る悔い改めについて」の三節

 

罪のための償いまたは罪のゆるしの原因は、キリストにある神の自由な恵みの行為であるから、悔改めが、何かそのようなものであるかのように信頼されてはならないが、それはすべての罪人にとって必要なものであって、だれでも悔い改めないならば、ゆるしを期待することはできない。

 

 

 

今夜は、「十五.命に至る悔い改めについて」の三節を学ぼう。

 

 

 

前回は「十五,命に至る悔い改めについて」の二節を学んだ。命に至る悔い改めの本質について学んだ。福音宣教を通して自分を罪人と自覚することから神に立ち帰ることが悔い改めである。すなわち、神の聖い性質と正しい神の律法に自分が反していることを知ります。自分の罪の危うさだけではなく、自分がいかに汚れた者かを理解する。同時にキリストを通して神の憐れみに触れる。そして自分の罪を悲しみ憎み、神に立ち帰ることである。悔い改めたキリスト者は、神の戒めの下に自分の生のすべてを置いて、神と共に歩もうと努力する。

 

 

 

今夜は、「命に至る悔い改め」は()キリストにある神の自由な恵みの行為であること」、(2)悔い改めを、人間の功績として信頼してはならない。(3)悔い改めはすべての罪人に必要であり、悔い改めなければ罪の赦しを期待できないことを学ぼう。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 悔い改めは、罪に対するいかなる償い、あるいは罪の赦しのいかなる根拠としても信頼されてはならない。罪の赦しはキリストにおける神の無償の恵みの行為なのである。とはいえ、悔い改めはすべての罪人にとって必要宇不可欠なものであるから、誰もそれなしには赦しを期待することはできない。

 

(2)松谷好明訳

 

 悔い改めは、罪に対する償いや、罪の赦しの根拠として頼られてはならない。―赦しの根拠は、キリストにおける神の無償の恵みの決定である。―が、しかし、それはすべての罪人に必要であるから、だれも悔い改めなしに赦しを期待することはできない。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

悔い改めは、罪のための償い、または罪の赦しの根拠とされるべきではない。赦しの根拠はキリストにある神の無償の恵みの決定である。しかしながら、悔い改めはすべての罪人にとって必要であって、悔い改めることをしないで、だれも赦しを期待することはできない。

 

 

 

ウ告白は、悔い改めが「罪のための償い」ではなく、「罪の赦しの原因」でもないと告白する。「罪のための償い、または罪の赦しの原因は、キリストの完全な服従と十字架である。だからウ告白は、罪の赦しの原因と根拠を、人の悔い改めという行為に求めるのではなく、「キリストにある神の自由な恵みの行為」に求めている。

 

 

 

では、悔い改めは必要ないのであるか。ウ告白は、悔い改めは罪を赦されるために必要であると言う。罪とは的を外すことである。神に背を向け、神の御心に反して生きることである。罪の道は、神の怒りと滅びである。そこから方向転換して神の方に向けて心を入れ替えることが悔い改めである。

 

 

 

それは聖霊の御業である。聖霊は福音宣教を通して、わたしたちがキリストの御言葉を聞き、自分たちの罪を悟り、放蕩息子のように神へと方向転換させてくださるのである。十字架のキリストの招きに自分が身を委ねるようにと導かれるのである。このようにすべての罪人は悔い改めることなく、神からの罪の赦しにあずかれるという希望はない。

 

 

 

主イエスは、人々にこう言われた。不幸な目に遭った者たちだけが、命を亡くして不幸なのではない、悔い改めない者も、神の最後の審判において永遠に滅びるのだと宣告された(ルカ13:15)

 

 

福音宣教を聞いて、自分の罪深さを知り、「神よ、こんなわたしを憐れみお救いください」と、悔いる者だけがキリストを信じて救われる。

 

 

ウェストミンスター信仰告白103    主の2019102

 

聖書箇所:イザヤ書第11120(旧約聖書P10611062)

 

 

 

 「十五.命に至る悔い改めについて」の四‐五節

 

永久刑罰に価しないほど小さな罪がないように、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない(四節)

 

 

 

人は、一般的な悔改めで満足すべきではなくて、自分の個々の罪を個別的に悔い改めるように努力することが、各人の義務である(五節)

 

 

 

今夜は、「十五.命に至る悔い改めについて」の四-五節を学ぼう。

 

 

 

前回は「十五,命に至る悔い改めについて」の三節を学んだ。命に至る悔い改めは、()キリストにある神の自由な恵みの行為であること」、(2)悔い改めを、人間の功績として信頼してはならないこと、(3)悔い改めはすべての罪人に必要であり、それなくして罪の赦しを期待できないことを学んだ。

 

 

 

四節は、罪を軽視する者には大きな警告であり、罪に苦しむキリスト者には大きな慰めである。五節は、悔い改めの実践を教えている。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 永遠の断罪に値しないほど小さな罪がないように、真実に悔い改める者に、永遠の断罪をもたらすことができるほど大きな罪もない(四節)

 

 

 

 人は、一般的な悔い改めで満足すべきではなく、自分の個々の罪を個別的に悔い改めるように努めることが、すべての人の義務である(五節)

 

(2)松谷好明訳

 

 裁きに値しないほど小さな罪が存在しないのと同様に、真実に悔い改める者に裁きをもたらしうるほどの大きな罪も存在しない(四節)

 

 

 

 人々は、一般的な悔い改めで満足すべきではなく、かえって、自分の個々の罪について個別に悔い改めるように努めることが、各人の義務である(五節)

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

どんな小さな罪でも、永遠の刑罰に値するが、真に悔い改めている者に、永遠の刑罰をもたらすことのできるような大きな罪はない(四節)

 

 

 

人は、全般的な悔い改めだけで満足すべきではない。自分の個々の罪を個別的に悔い改めるよう努力することが、一人一人の義務である(五節)

 

 

 

ウ告白とウ大小教理は、信仰と義務から成り立っている。だから、教理は実践へと導かれる。聖書から教理を学び、キリスト者の生活で実践する。この悔い改めの教理も同様である。聖書から悔い改めの定義と本質、そして義認、すなわち十字架のキリストとの関係を学び、警告と慰めを得て、自分たちの信仰生活の中でキリスト者の義務として実践するのである。その全過程が聖霊の働きであり、命に至る悔い改めなのである。

 

 

 

四節は、警告と慰めである。「永久刑罰に値しないほど小さな罪」は存在しない。罪は罪である。神への反逆であり、神の怒りと裁きの対象である。神の裁きは永遠の刑罰である。すべての人は罪人であり、神の永遠の刑罰の下にある。十字架のキリストがその罪を償い、神の永遠の刑罰を受けてくださったのである。だから、ウ告白は、キリストを信じて、神に立ち帰る者には、神の永遠の刑罰に値する大きな罪は存在しないと教えるのである。キリスト者の罪はすべて、十字架のキリストが負われ、償われたので、キリスト者はすべての罪を赦される。キリスト者には永遠の刑罰に値する大きな罪は存在しない。

 

 

 

キリスト者の生活の座は礼拝である。教会の礼拝では罪の告白と赦しの宣言がなされる。これが「一般的な悔い改め」「全般的な悔い改め(鈴木訳)である。礼拝で会衆は口を揃えて罪を告白する。ウ告白はそれだけで満足するなと警告する。

 

 

 

キリスト者の全生涯は悔い改めである。聖霊はキリスト者を日々信仰と悔い改めに導かれる。ウ告白は日々家庭で礼拝し、個人のデェーボ―ションをし、キリスト者各人が各々の個別の罪を具体的に覚えて罪を悔い改め、日々罪に打ち勝てるように努力せよ、それを義務とせよと勧めている。

 

ウェストミンスター信仰告白104    主の2019109

 

聖書箇所:ルカによる福音書第151132(新約聖書P139140)

 

 

 

 「十五.命に至る悔い改めについて」の六節

 

各人は、自分の罪のゆるしを祈りつつ、神に対しそれを私的に告白すべきであり、その上その罪を捨てることによってあわれみを得る。だから自分の兄弟やキリストの教会をつまずかせた者は、自分の罪を私的または公的に告白し、またそれを悲しむことにより、被害者に対して自分の悔改めを選んで表明すべきである。これによって被害者は、彼と和解し、愛において彼を受け入れるべきである。

 

 

 

今夜は、「十五.命に至る悔い改めについて」の六節を学ぼう。

 

 

 

前回は「十五,命に至る悔い改めについて」の四-五節を学んだ。四節は、罪を軽視する者への大きな警告であり、罪に苦しむキリスト者への大きな慰めであり、五節からは、悔い改めの実践を教えていることを学んだ。

 

 

 

今夜は六節で、私的な悔い改めと公的な悔い改めの実践を学ぼう。悔い改めは、罪の告白と神の赦し(和解)から成る。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 人は誰でも、神に対して自分の罪を私的に告白して、罪の赦しを祈り求めなければならない。そのようにし、さらにその罪を捨てるとき、その人は憐れみを受けることになる。同様に、自分の兄弟、あるいはキリストの教会を傷つけた者は、私的あるいは公的な告白と、自分の罪を悲しむことにより、傷つけた相手に対して進んで自らの悔い改めを表明すべきである。これによって、傷つけられた側は、彼と和解し、愛をもって彼を受け入れるべきである。

 

(2)松谷好明訳

 

 だれでも、自分の罪を、神に私的に告白して、罪の赦しを祈り求めるべきであるーそのようにし、かつ罪を捨てることによって、その人は憐れみを見いだすであろうーが、同様に、自分の兄弟、あるいはキリストの教会をつまずかせる者は、私的、あるいは公的な告白と、自分の罪を悲しむことにより、傷つけた相手の人々に対して、自分の悔い改めを進んで明らかにすべきである。そのようになされたならば、傷つけられた者たちはその人と和解し、愛をもってその人を受け入れるべきである。

 

(3)鈴木英昭訳

 

人はだれでも、自分の罪の赦しを祈り求め、神たいし罪を私的に告白すべきである。そして、その罪を捨てることによって、神の憐れみを見いだす。同様に、自分の兄弟やキリストの教会をつまずかせる者は、自分の罪の私的または公的告白と、自分の罪を悲しむことにより、自分の悔い改めを被害者にたいして進んで表明すべきである。それによって、被害者はその人と和解し、愛においてその人を受け入れるべきである。

 

 

 

キリスト者はキリストの十字架によって罪を贖われ、神の子とされ、神の律法の下に生きる者とされたのである。キリスト者はこの地上では罪を赦された罪人である。だから、ウ告白は、「各人は、自分の罪のゆるしを祈りつつ、神に対しそれを私的に告白すべきであ」る、と告白する。

 

 

 

各人」とは「キリスト者は誰でも」という意味である。「私的に」とは、彼らが日々神の御前に犯す罪に対して告白し、個々人が神にキリストの十字架のゆえに罪の赦しを祈り求めることである。そして、告白した者は犯した罪を二度と繰り返さないように捨てなければならない。罪にとどまる限り神の憐れみを見いだすことはない。放蕩息子(ルカ福音書15)のように罪を悔い改めて罪の生活を捨て、神に方向転換するなら、彼は神の憐れみを見つけることができる(ルカ15:2432)

 

 

 

罪は個人だけでなく、兄弟姉妹、キリスト教会、隣人関係の問題でもある。ウ告白は牧会上の問題を扱う。兄弟姉妹を傷つけ、またキリストの教会をつまずかせるという問題である。この問題は、和解と愛でしか解決が無い。

 

 

キリストの教会をつまずかせ、兄弟姉妹を傷つけた罪は、教会の裁判において、あるいは礼拝の会衆の前で告白され、彼が自分の罪を悲しみ、罪の悔い改めを表明しなければならない。教会と傷ついた兄弟姉妹たちは、十字架のキリストのゆえに彼の悔い改めを進んで愛によって受け入れ、和解しなければならない。この悔い改めが実践されてこそ教会とキリスト者は神に立ち帰る道を得、神に罪を赦され、神と和解し、神との愛の交わりに生きる命を得る。

 

ウェストミンスター信仰告白105    主の20191016

 

聖書箇所:ペトロの手紙一第21325(新約聖書P429)

 

 

 

 「十六.よきわざについて」の一節

 

よきわざとは、神がそのきよきみ言葉において命じられたものだけであって、人間がみ言葉の保証なしに、盲目的熱心から、または何か良い意図を口実にして案出するものではない。

 

 

 

今夜は、「十六.よきわざについて」の一節を学ぼう。

 

 

 

前回は「十五,命に至る悔い改めについて」の六節を学んだ。ウ告白はわたしたちに悔い改めの実践を勧める。公的だけでなく、私的にも祈りつつ告白し、自分の罪を捨てるように勧める。また積極的に被害者に自分の悔い改めを表明し、被害者は愛において受け入れるように勧めている。

 

 

 

今夜から「十六.よきわざについて」学ぼう。わたしたち日本キリスト改革派教会は、創立宣言において「一つ信仰告白、一つ教会政治、一つ善き生活」を備える聖書的な教会形成を主張した。聖書と共にウェストミンスター信条(ウ告白・ウ大小教理)を学び、長老主義政治に習熟し、わたしたち一人一人が善き生活に励んで、この国でキリストの教会を建て上げていくことがわたしたち改革派信徒の目標であり、祈りであり、課題である。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 善い業とは神がその聖なる御言葉において命じておられるものだけであって、御言葉の保証なしに、無分別な熱心からであれ、善い意図を口実にしてであれ、人間によって考え出されるようなものではない。

 

(2)松谷好明訳

 

 善い行いとは、ただ神がその清い御言葉において命じておられるものだけであり、御言葉の確証もなしに、無批判的な熱心から、あるいは何か良い意向を口実に、人間によって考え出されたようなものではない。

 

(3)鈴木英昭訳

 

善い業とは、神がその清い御言葉において命じられたものだけである。御言葉による保証なしに、人間の盲目的熱心や何らかの善意を口実にして、作り出されたものではない。

 

 

 

ウ告白は一節で「よきわざについて」の定義を述べている。「よきわざ(善き業・善い行い)」は、新約聖書では「善いこと(行為)をする(マタイ12:12,ルカ6:27)、「善を行う(ガラテヤ6:10,ローマ2:10,エフェソ4:28)と同義で用いられている。キリスト者の倫理の総括として、信仰にふさわしい行為の在り方を意味する。反対語は「悪をなす(マルコ3:4,Ⅰペトロ3:17)である。

 

 

 

ペトロの手紙一21325節で使徒ペトロはわたしたちキリスト者に「善き生活」しようと勧めている。彼の勧めは、使徒のパウロのローマの信徒への手紙第122節を受け継いでいる。パウロは、神の御意志が人間に善を要請すると考えたのである。それゆえ国家は神の御意志に従い悪をなす者を罰し、善をなす者を称賛する責務を負っている。国家は功労者、善を行う市民を表彰する。従ってペトロは、わたしたちが神の僕として善き行いを通して聖なる者であることを証しせよと勧めるのである(Ⅰペトロ2:1516)

 

 

 

ウ告白は以上に従って、「よきわざ」を次のように定義する。「よきわざとは、神がそのきよきみ言葉において命じられたものだけ」である。神の御意志によって要請された善を、わたしたちが行うことだけが「よきわざ」なのである。「一つ善き生活」とは、わたしたちがこの世で神の御意志に従ってこの世のあらゆる領域で神が要請される善を行うことである。

 

 

 

よきわざ」は「御言葉の保証」が必要である。御言葉とは(1)神の啓示である(キリストの啓示)(2)(キリスト)の啓示が書き記された聖書である(書かれた御言葉)(3)聖書の説き明かしである説教である(語られた御言葉)

 

 

 

御言葉から確証できない無分別な熱心によって、あるいは人の善意を口実にして考え出した「よきわざ」は、どこまでも人間の意志から出た行為であって、神の御意志によってわたしたちに要請された「よきわざ」ではない。

 

 

 

神の御意志から要請された善は、キリストの教会を建て上げ、教会における兄弟愛を奨励し、この世における隣人愛(サマリア人の善き行い)を奨励する。