ウェストミンスター信仰告白151        主の2020923

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第73940(新約聖書P309)

 「第二十四章 結婚と離婚について」の三節

思慮分別をもって自分の同意を与えることのできるすべての種類の人々にとって、結婚することは合法的である。しかし、主にあってのみ結婚することが、キリスト者の義務である。それゆえ、真の改革派信仰を告白する者は、無信仰者・教皇主義者・あるいは他の偶像礼拝者と結婚すべきではない。また敬けんな人々は、生活におけるなうての悪人や破滅的な異端の主張者と結婚して、つり合わないくびきにつながれるべきではない。

 

今夜は、「第二十四章.結婚と離婚について」の三節を学ぼう。先週は、「第二十四章.結婚と離婚について」の一-二節を学んだ。結婚の制定と目的を学んだ。聖書とウ告白は、神が最初に制定された血痕は、一人の男と一人の女の結婚(一夫一妻)であり、一夫多妻と一妻多夫は合法的でないと述べている。そしてその目的は、夫婦相互の助け合い、嫡出子による人類と教会員の増加、性的不品行の防止であると述べていることを学んだ。

 

今夜は、「第二十四章.結婚と離婚について」の三節からウ告白が述べる結婚の合法性について学ぼう。第一は思慮分別のある者たち同士が同意する結婚である。第二は主に結ばれている者同士の結婚である。第三は釣り合わない軛につながれるべきではないということである。

 

いつものように他の訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

判断力をもって自分の同意を表すことのできるすべての種類の人々にとって、結婚することは合法的である。とはいえ、主においてのみ結婚することがキリスト者の義務である。それゆえにこそ、真の宗教改革信仰の信奉者は、不信仰者や教皇主義者、あるいは他の偶像礼拝者と結婚すべきではない。また敬虔な人々が邪悪な生活でよく知られた者たちや、いまわしい異端説の保持者と結婚して釣り合わないくびきにつながれるべきではない。

   松谷好明訳

判断力をもって自分の同意を与えることができる、あらゆるたぐいの人々にとって、結婚することは合法的である。しかし、主においてのみ結婚することが、キリスト者の義務である。従って、真の改革された宗教[プロテスタント信仰]を信仰する人々は、不信者や教皇主義者、あるいはその他の偶像崇拝者と結婚すべきではない。また、敬虔な人は、生活においてひどく邪悪な人や、さまざまな、いまわしい異端を唱える人と結婚することによって、不釣合な軛につながれてはならない。

   鈴木英昭訳

自己の判断で知的同意を表わすことができるすべての種類の人が、結婚することは合法的である。しかし、主にあってのみ結婚することが、キリスト者の義務である。したがって、真の改革派信仰を告白している者は、無信仰者、ローマ・カトリック信者、あるいは他の偶像礼拝者と結婚すべきではない。また、信仰者は、生活において評判の悪人や罰せられなければならない異端思想の持ち主と結婚して、釣り合わないくびきを負うべきでない。

 

ウ告白が合法的であると認める結婚は、自己の判断力で結婚の同意を言葉にできるあらゆる種類の人々の結婚である。ウ告白は、「すべての種類の人々」と、結婚が同国人同士だけなく、外国人との結婚も想定している。

日本国憲法は、成人年齢が18歳以上に改正されたので、18歳以上の男女は、自分の判断力で結婚の意志を表わすことができれば、自由に結婚することができる。また16歳と17歳の男女は、自分たちの判断による結婚の意志だけでなく、親の同意がいる。

 

ウ告白の「思慮分別をもって自分の同意を与えることのできるすべての種類の人々にとって、結婚することは合法的である。」ということを、わたしたちは次のように教会規程の第三部「礼拝指針」によって具体的に進めている。結婚を決意した男女は、婚約式を通して彼らの結婚を公に公表し、結婚の備えをする。そして牧師の指導に従い結婚について学ぶ。そして結婚式において花婿と花嫁は、(1)結婚に関する国の法律に従っていること、(2)自らが結婚を決断できる年齢に達していること、未成年は親の同意があること、(3)主にある結婚について理解が一致している者に主の祝福があること、(4)結婚に必要な準備教育が十分になされていること、これらを確認し、夫婦となる誓約をする。その後司式者は二人が一体であることを宣言し、神の祝福を祈る。こうして神の御前にこの二人の結婚の合法であることを明らかにするのである。

 

日本キリスト改革派教会は、ウ告白を聖書のように一字一句間違いないものとして受け入れているではない。教理の体系を受け入れているのである。だから、ウ告白の「主にあってのみ結婚することが、キリスト者の義務である。」という条文は、日本キリスト改革派教会においては違反すれば戒規に処せられるものではない。

 

結婚は、日本国憲法に従ってなされれば、合法的である。しかし、聖書とウ告白は、原則としてキリスト者はキリスト者にふさわしく結婚することを奨励している。

 

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一第739節で、キリスト者の再婚について次のように述べている。キリスト者の夫婦は互いに相手が生きている間は、夫婦の関係ですが、どちらかが亡くなると、自由の身になります。だから、残った者が再婚することは自由である。しかし、パウロは次のように勧めている。「妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。

 

アメリカ長老教会のチャルズ・ホッジは、この制限(「主に結ばれた者のみ」)を理解できる二つの方法があると言う。一つは、キリスト者とユダヤ教徒や異邦人との結婚はあり得ない。第二はキリストにある者たちになる。すなわち、キリスト者のマナーにおいてである。「彼女は一人のキリスト者となるように結婚すべきである」と。ホッジは、終わりに前の説明がより単純で自然であると付け加えている。

 

わたしたちの結婚は、「礼拝指針」に従ってなされる。ただし、現実は日本の事情を考慮し、教会員がローマ・カトリックの信者や未信者と結婚し、司式を、教会ですることはあり得る。

 

牧師は、聖書の神について、キリスト教の結婚について未信者の方に教導し、神の御前で誓うことの重要性を少しでも理解できるように配慮すべきである。その理解のために礼拝出席を勧めるべきである。

 

 

ただしウ告白が述べているように、「敬けんな人々は、生活におけるなうての悪人や破滅的な異端の主張者と結婚して、つり合わないくびきにつながれるべきではない。」「敬けんな人々」とはキリスト者である。キリスト者は、反社会的な者、異端を唱える者とは結婚すべきではない。不品行者と異端は、教会戒規の対象である。神が怒り裁き給う者との結婚に、神の祝福はない。

 

ウェストミンスター信仰告白152        主の2020930

聖書箇所:レビ記第18章1-30(旧約聖書P190191)

 「第二十四章 結婚と離婚について」の四節

結婚は、み言葉において禁じられている血族あるいは姻族の親等内でなすべきではない。またこのような近親相姦的な結婚は、人間のどのような法律や当事者たちの同意によっても、そのような人々が夫婦として同棲ができるよう合法化することは、決してできない。男子は自分の血族で結婚できるより以上に近い妻の血族とは結婚できないし、女子も自分の側でできるより以上に近い夫の血族とは結婚できない。〔最後の一文は、日本基督改革派教会第十七回大会削除〕

 

今夜は、「第二十四章.結婚と離婚について」の四節を学ぼう。先週は、「第二十四章.結婚と離婚について」の三節を学んだ。結婚の合法性について学んだ。結婚は、判断力を持つ男と女の合意に基づく。成人に達しない者は、両者の合意と共に両親の同意が必要であることを学んだ。また、キリスト者の結婚の原則は、プロテスタントの信者同志の結婚である。ウ告白は、それゆえカトリック信者と未信者〔他宗教の者〕との結婚を奨励しない。また、キリスト者は不品行者と異端の者との結婚はできないことを学んだ。

 

今夜は、「第二十四章.結婚と離婚について」の四節で、ウ告白は近親相姦的な結婚を禁じている。

 

いつものように他の訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

結婚は御言葉で禁じられている血族あるいは姻族の親等内で行われるべきではない。また、そのような近親相姦的な結婚は、いかなる人間の法によっても、また当事者たちの同意によっても、それらの人々が夫婦として生活を共にできるように合法化することは決してできない。男性は自分の血族で自分が結婚できる人よりも、妻の血族で血縁がより近い者とは結婚できない。また女性も、自分の血族の中で自分が結婚できる人よりも、血縁がより近い夫の血族の誰とも結婚できない。〔「男子は自分の血族で自分が結婚できる人よりも・・・」以下の部分は、日本キリスト改革派教会第十七回大会で削除〕

   松谷好明訳

結婚は、御言葉において禁じられている血縁あるいは姻戚の親等内でなされるべきではなく、また、このような近親相姦的結婚は、人間のいかなる法律や当事者たちの同意によっても、そうした人々が夫婦として暮らせるように、合法とされることは決してできない〔従って、配偶者が亡くなって再婚する場合〕男性は、自分自身の縁者と結婚できる範囲よりも、血縁関係でもっと近い、妻の縁者と結婚することはできず、女性も、自分自身の縁者と結婚できる範囲よりも、血縁関係でもっと近い、夫の縁者と結婚することはできない。

   鈴木英昭訳

結婚は、御言葉によって禁じられている血族あるいは婚姻関係内でなすべきではない。このような近親相姦的な結婚は、どのような法律や当事者たちの同意をもってしても、そのような人々が夫婦として同棲できるよう合法化することは決してできない。(「男子は自己の血族で結婚できる者より以上に近い妻の血族とは結婚できないし、女子も自己のできるより以上に近い夫の血族とは結婚できない。」は日本基督改革派教会第十七回大会において削除)

 

ウ告白の第1924章は、キリスト者の倫理を扱っている。第24章は結婚と離婚である。ウ告白は、1節は、聖書の教える結婚が一夫一妻であること、2節で結婚の制度の目的、そして、3節でどのような結婚が合法であるかを教えている。

 

ウ告白は、4節で聖書の御言葉とこの世の法律でどのような結婚が禁じられているかを教えている。それは、近親相姦的な結婚である。

 

 旧約聖書のレビ記第18章に、主なる神はモーセを通して神の民イスラエルに「いとうべき性関係」を教えられている。主なる神は近親相姦と異教の性的習慣を禁じておられる。ここでは、法的な所有権の侵害の面から近親相姦が禁じられている。妻は夫の所有であり、未婚の女性は父親にその所有権があった。

 

レビ記18618節で主なる神は、モーセを通して神の民に近親相姦を禁じられている。近親相姦は、いとうべき性的関係という道徳的面と劣性遺伝を防ごうという意図があった。

 

使徒パウロは、コリント教会の信者たちにこの「いとうべき性関係」を非難している。彼の耳にコリント教会においてある信者が父の妻といとうべき性関係を持ったという醜聞が届いた。それは異邦人の間でも行われない不道徳であった。すなわち、ある信者が義母と同棲したのである。パウロは、コリント教会がレビ記1867節で主なる神が禁じられた不品行に対して、何ら処置を取らないことを非難しているのである。

 

レビ記1825節で主なる神は、「これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである」と言われている。創世記6章でノアの洪水の原因が神の子らのいとうべき性的関係にあったことが暗示されている。主なる神は人の悪を御覧になり、彼らを造られたことを後悔された。611節で「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」とある。いとうべき性的関係が社会全体を腐らせ、人々の悪の根となり、地は不法に満ちたのである。そこで主なる神は、洪水によって、この地から悪を除き去ろうとされたのである。

 

結婚は神の祝福であるが、人の罪ゆえに祝福されない結婚がある。いとうべき性的関係によって、この地が汚され、ソドムの町のように神の災いを招くのである(創世記19)

 

最後の一文は、再婚の場合である。ウ告白は、妻を亡くした夫が妻の姉妹と結婚し、夫を亡くした妻が夫の兄弟と結婚することを禁じている。しかし、夫が死別した妻の姉妹と結婚し、妻が死別した夫の兄弟と結婚することは、聖書で許されえいるし、法律も合法的と認めている。それゆえ、日本キリスト改革派教会は、第十七回大会で削除することを決議したのである。

 

旧約聖書の創世記では、アブラハムとサラとの結婚は、近親相姦であった。アブラハムとサラは、父は同じだったが、母が違った。彼は異母姉妹の妹と結婚した。モーセの両親、アムラムとヨケベドは、アムラムが叔母のヨケベドと結婚した。レビ記の規定に反しているが、創世記と出エジプト記は彼らの結婚を非難してはいない。また、主イエスは、レビラート婚のたとえを話されている。兄が亡くなると、弟が兄の代わりに兄の妻と結婚し、兄の子を設けることになっていた。

 

 

近親相姦が厳しく禁じられたのは、出エジプト以後、荒野の生活からカナンの地での定着にかけてであろう。嗣業地をいとうべき性的関係で汚すことを、避けようとしたのであろう。

 

 

ウェストミンスター信仰告白153        主の2020107

聖書箇所:マタイによる福音書第53132(新約聖書P18)

 「第二十四章 結婚と離婚について」の五節

婚約後に犯した姦淫または淫行は、結婚目に発見されるならば、潔白な側にその婚約を解消する正当な理由を与える。結婚後の姦淫の場合には、潔白の側が離婚訴訟をし、離婚後はあたかも罪を犯した側が死んだかのように、他の人と結婚しても合法的である。

 

今夜は、「第二十四章.結婚と離婚について」の五節を学ぼう。五―六節は「離婚について」である。先週は、「第二十四章.結婚と離婚について」の四節を学んだ。ウ告白は近親相姦的な結婚を合法的ではないと禁じている。どの国の法律でも、近親相姦的結婚は禁じられている。信濃毎日新聞に5000年昔の縄文時代の辰野町の集落跡が発掘された記事が載せてあった(2020106日)。発掘からその集落が近親相姦的結婚を避けていた痕跡が見つかった。

 

今夜は、「第二十四章.結婚と離婚について」の五節で、ウ告白は婚約と結婚が破棄されるのは、両者の一方の姦淫、または淫行の場合であると述べている。

 

いつものように他の訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

婚約後に犯された姦淫または淫行は、結婚前に発見されると、罪のない側にその婚約を解消する正当な理由を与える。結婚後の姦淫の場合には、罪のない側は離婚を申し立てることが合法的である。そして離婚後には、罪を犯した側があたかも死んだかのように、別の人と結婚することは合法的である。

   松谷好明訳

婚約後に犯された姦淫あるいは密通は、結婚前に見つけられたならば、潔白な側に、その婚約を解消する正当な理由を与える。結婚後の姦淫の場合は、潔白な側が訴訟を起こして離婚をかちとること、そして離婚後に、罪を犯した側が死んだかのようにして、別の人と結婚することは、合法的である。

   鈴木英昭訳

婚約後に犯した姦淫あるいは淫行は、結婚以前に発見されたなら、潔白な側はその婚約を解消する正当な理由を与えられる。結婚後の姦淫の場合は、潔白な側が離婚を求め、離婚後は犯した側があたかも死んだかのように、他の者と再婚することは合法的である。

 

ウ告白は、婚約と結婚を解消する正当な理由を与えるのは、「姦淫あるいは淫行」であると述べている。

 

ウ告白が婚約の解消の正当な理由を与えるのは、「姦淫あるいは淫行」であると述べる根拠として、マタイによる福音書第11820節の御言葉を引き合いに出している。

 

主イエス・キリストの誕生の物語である。ヨセフとマリアは婚約中であった。この時代のユダヤの男女の婚約は、性的な関係はなかったが、事実上結婚と同じであり、二人は同居していた。

 

母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした。」(マタイ1:1819)。

 

ヨセフとマリアは、夫婦生活をしてはいなかったが、ユダヤの法律では夫と妻であった。ヨセフは義人であった。彼は、婚約者のマリアの懐妊に驚いた。彼女が姦淫、あるいは淫行で子を身ごもったと思った。ユダヤの律法に従えば、マリアは姦淫の罪で石打の刑に処せられる。だから、ヨセフは、表ざたにしないで、密かに彼はマリアとの婚約を解消しようとしたのである。しかし、天使が現れ、ヨセフにマリアの懐妊は聖霊によると告げたことで、ヨセフは身ごもったマリアを妻として受け入れたのである。

 

ウ告白は、このヨセフの行為を例証にあげ、婚約者の一方の姦淫あるいは淫行は、潔白な側に婚約を解消する正当な理由を与えると述べている。

 

続いてウ告白は、結婚後も、離婚に正当な理由を与えるのは、夫婦の一方が姦淫した場合であると述べて、離婚手続きと離婚後の再婚についても述べている。

 

ウ告白は、「結婚後の姦淫の場合には、潔白の側が離婚訴訟をし」と述べて、マタイによる福音書の53132節の御言葉を引き合いに出している。

 

マタイによる53132節は、主イエスが離婚を禁じられたのである。古代のユダヤ社会は夫が妻に離縁状を渡せば自由に離婚できた。主イエスは、結婚関係を重んじられた。なぜなら、主イエスはマルコによる福音書1069節で創造主なる神が合わせられた夫婦を引き離すことはできないと言われている。本来離婚はあり得ず、再婚は重婚になる。これが主イエスの考えである。

 

しかし、マタイによる福音書は、離婚の可能性として、主イエスが「不法な結婚」を挙げられたと述べている。「不法な結婚」に相当するのは、旧約聖書のレビ記18章にある「いとうべき性的関係」であろう。そこで主なる神は、モーセを通して神の民イスラエルに「あなたたちは以上のいかなる性行為によっても、身を汚してはならない。これらすべて、あなたたちの前からわたしが追放しようとしている国々が行なって、身を汚していることである。」(レビ記18:24)。

 

主イエスが言われた「不法な結婚」は、教会の中でいとうべき性的関係で結婚関係を壊すことと考えられた。ウ告白の言う「姦淫あるいは淫行」である。

 

結婚は、契約関係である。誓約し夫婦は一体となる。だから、姦淫は夫婦の一方が契約を破棄したのであり、姦淫した者は、ウ告白が言うように「あたかも死んだ者」である。

 

それゆえにこの世の法律に従い、潔白な側は、姦淫を犯した者に離婚訴訟をし、離婚することができるし、その後再婚しても重婚にはならないのである。

 

 

ウ告白は、離婚について正当な理由を与えているのは姦淫と淫行であると述べているが、主イエスが離婚に正当な理由を与えられているのは、いとうべき性的関係である。それは、今日姦淫だけでなく、家庭内暴力というパワハラも、離婚について正当な理由を与えるものではないだろうか。神は人を御自身の似像に造られた。愛し合う者として男と女を一つとされた。だから、夫婦間と家庭内におけるパワハラは、「不法な結婚」として、離婚について正当な理由を与えるのではないかと、この頃考えるのである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白154        主の20201014

聖書箇所:マタイによる福音書第1939(新約聖書P3637)

 「第二十四章 結婚と離婚について」の六節

人間の腐敗は、神が結婚において合わされた人々を不当に離すために、論議に苦心しがちなものであるが、姦淫以外の、または教会や国家的為政者によってもどうしても救治できないような故意の遺棄以外のどのような事柄も、結婚の結びを解消することの十分な理由ではない。離婚する場合には、公的な秩序正しい訴訟手続きが守られるべきで、当事者たちは自分自身の事件において、自分の意志と判断に任されてはならない。

 

今夜は、「第二十四章.結婚と離婚について」の六節を学ぼう。六節でウ告白は、姦淫と教会と国家為政者によって救治できない故意の遺棄以外に離婚の十分な理由はないと述べている。そして、離婚の手続きは、公的な秩序正しい訴訟手続きを取るべきであると勧めているウ告白は、離婚において当事者たちの意志と判断に委ねることに反対する。

 

いつものように他の訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

人間の腐敗ははなはだしいもので、神が結婚において結び合わされた者たちを不当に引き離そうとしていろいろ理屈を考え出そうとしがちであるが、それにもかかわらず、姦淫あるいは教会や国家的為政者によっても救済できないような故意の遺棄以外の何事も結婚の絆を解消するに足る理由にならない。そして、離婚の場合も公的できちんとした手続きが守られるべきであり、当事者たちは自分自身の件において自身の意志と裁量に任せるべきではない。

   松谷好明訳

人間の腐敗は相当なもので、神が結婚において結び合わされた者たちを不当に引き離すために、さまざまな理由を挙げるのに腐心しがちであるが、しかし、姦淫、もしくは、教会や国家的為政者によってもどうしても救済できない故意の遺棄、以外の、いかなることも、結婚のきずなを解消するのに十分な根拠とはならない。結婚のきずなの解消に当たっては、公的で正規の手続きが遵守されるべきであり、問題の取り扱いが、当事者たち自身の願いと裁量にまかされてしまってはならない。

   鈴木英昭訳

人間の罪による腐敗のために、神が結婚において合わせた者たちを、不当に離すことを正当化しようという議論をしがちである。しかし、姦淫、または教会や国家的為政者によっても対処できないような故意の遺棄だけが、結婚の結合を解消する十分な理由になる。

離婚する場合は公的で秩序正しい手続きが守られるべきで、当事者は自分たちの事を、自分たちの意志と判断だけで行ってはならない。

 

ウ告白は、離婚の問題の背後に人間の罪による腐敗があることを、聖書から考察している。ファリサイ派の人々は、主イエスに「夫が妻を離縁することは律法に適っているか」と質問した。主イエスは彼らに答えられた。「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」「それゆえ人は父母と離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」主イエスは、創世記127節と同224節の聖書の御言葉を根拠にして、結婚の絆を引き離す離婚に反対された。

 

ところが、ファリサイ派の人々は、主イエスに反対するためにモーセの離縁状を引き合いに出して、「では、なぜモーセは、離縁状を渡して、離縁するように命じたのですか」と反論した。主イエスはお答えになった。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ1939)。

 

主イエスが「あなたたちの心が頑固なので」と言われているのは、まさに罪ある人間の腐敗した姿である。モーセの時代だけではなく、ウ告白の時代や現代も人間の腐敗は甚だしいので、人間は神が結婚において合わされた人々を、引き離すためにあらゆる理由と理屈を見いだそうと苦心している。しかし、主イエスは姦淫と不法の結婚以外に神が結婚において合わされた者を引き離す理由はないと言われている。

 

遺棄については、使徒パウロが信者の妻にコリントの信徒への手紙一の715節で「信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。」とアドバイスしている。使徒パウロが異邦人への宣教において異邦人の妻がキリスト者となり、それを理由に彼女の未信者の夫が彼女を捨てたのである。使徒パウロもコリント教会も両者の調停を試みたかもしれない。しかし、夫が強硬に妻が信仰を捨てなければ離縁すると一方的に通告したのだろう。ウ告白は、このケースを「教会や国家的為政者によってもどうしても救治できないような故意の遺棄」と述べている。「救治」(委員会訳)は、「救済」(村川・袴田訳、松谷訳)、「対処できない」(鈴木訳)である。

 

前回も述べたが、DVも遺棄に等しいと思う。身体は同居していても、実際は遺棄された状態である。神の似像である相手を暴力で辱めている。この問題は、プライバシーという壁があり、教会も国も救済が難しい故意の遺棄に相当すると思う。なぜなら、夫あるいは妻の暴力で、命の危険に当人が置かれるだけでなく、子供たちも巻き込まれるのである。

 

また、負債による自己破産で、多額の借金を返済できず、妻あるいは夫と子供たちを遺棄し、失踪する者も、このケースに相当するのではないか。

 

しかし、こうしたケースは適応が難しいだろう。第一に離婚は、「公的な秩序正しい訴訟手続き」が必要である。現在家庭裁判所において離婚訴訟手続きが行われている。和解の道があるかを確かめ、なければ円満に離婚する手続きがなされる。当事者の過失の度合いにより責任の負担が決められると思う。

 

第二に当事者たちが訴訟手続きを無視して、当事者同士で双方の願いと裁量にまかせることはできない。

 

DVも負債による自己破産者の遺棄も、離婚訴訟手続きが極めて稀なのではないだろうか。また、当事者同士の話し合いで解決を試みようとしても、ウ告白は当事者同士の願いと裁量で解決することに否定的である。その理由は、神の御心、すなわち、聖書の御言葉に反するからである。

 

 

モーセは離婚において離縁状を書いて、夫は妻に渡せば、妻は家を出て別の男と結婚し、妻の夫が死んでも妻と再婚することはできないと述べている(申命記2414)。妻は離婚によって汚され、再婚は嗣業地を汚すことになり、主なる神の忌み嫌われることであるからである。当事者同士の願いと裁量で離婚はできない。訴訟手続きが必要である。

 

 

ウェストミンスター信仰告白155        主の20201021

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第1323(新約聖書P352353)

 「第二十五章 教会について」の一節

公同または普遍の教会は、見えない教会であり、そのかしらなるキリストのもとに、過去・現在・未来を通じてひとつに集められる選民の全員から成る。それは、すべてのものをすべてのもののうちに満たしているかたの配偶者、からだ、また満ちているものである。

 

今夜から「第二十五章.教会について」学ぼう。ウ告白の19章から24章でキリスト教倫理について学んだ。神の律法、キリスト者の良心と自由、礼拝と安息日、国家的為政者、そして結婚と離婚である。神の律法は、キリスト者の良心、礼拝と安息日、そして国家と家庭においてキリスト者の規範となり、キリスト者の倫理の基準となっている。また神の律法は神の創造の秩序を守り、維持している。

 

ウ告白の25章から31章は教会論である。使徒信条の告白する「公同の教会」と「聖徒の交わり」、そして礼典論(洗礼と聖餐)、教会戒規、そして教会会議について学ぼう。ウ告白の25章一節は公同または普遍の教会についてである。ウ告白は「見えない教会」とも名付けている。

 

いつものように他の訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

公同的あるいは普遍的な教会は、目に見えないものであって、その頭なるキリストの下に、過去・現在・未来にわたって集められて一つにされている選ばれた者の全員から成り立つ。そしてそれはキリストの配偶者、キリストの体、またすべてにおいてすべてを満たしている方が満ち満ちておられるところである。

   松谷好明訳

目に見えない、公同的あるいは普遍的教会は、その頭であるキリストの下に、過去・現在・未来を通じて、ひとつに集められた選びの民全員から成り、すべてにおいてすべてを満たしているキリストの、花嫁・体・満ちておられる場、である。

   鈴木英昭訳

公同の、すなわち普遍的教会は、見えない教会であり、その頭であるキリストのもとに、過去、現在、未来を通して集められる選民の全員から成る。この教会は、キリストの花嫁、またキリストの体であり、すべてのものをすべてのものの内に満たしておられるお方が満ちておられる。

 

ウ告白は、キリスト教会を聖書、そして使徒信条や古代教会の信条、宗教改革の諸信条に従い「公同の、または普遍の教会」と告白する。教会(共同体)は、使徒信条が告白するように「公同の教会」であり、普遍的な教会である。それを、使徒パウロは、次のように言う。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるもののもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エフェソ110)。キリストがお一人あるように、その体である教会も一つなのである。

 

教会の公同は、その召しにある。主イエス・キリストより神の和解の福音を委ねられおり(マタイ281920、Ⅱコリント51820)、その召しを遂行するために聖霊の賜物を与えられている。教会は和解の福音を忠実に世の人々に伝えることで、使徒たちと神の民イスラエルとの連続性を維持する。

 

ウ告白は、第一に教会を「見えない教会(一節)と「見える教会(二節)に分けている。「見えない教会」は、「そのかしらなるキリストのもとに、過去・現在・未来を通じてひとつに集められる選民の全員から成る。

 

ウ告白は、改革派諸信条と共に、教会論を教会から始めるのではなく、神の召しから始める。神の救済史というダイナミックな視点でもって教会論を神の選びの教理との関係で述べている。

 

他の改革派諸信条と共に、ウ告白も教会のアイデンティテ(同一視)は、「そのかしらなるキリストのもちに、過去・現在・未来を通じてひとつに集められる選民の全員」である。教会は、父なる神が主イエス・キリストを通して選ばれ、聖霊のお働きと賜物によって召し集められた選民である。

 

見えない教会」は、父なる神が主イエス・キリストによって選ばれた選民のすべてである。天上の教会であり、真実で完全な教会である。生きている者も死んだ者も神が選ばれた者たちの聖徒の交わりである。

 

このように「この公同の、普遍的な教会は、民族的、場所的、時代的制約を突破して、歴史と世界全体を包み、天と地を貫いて存在しているわけです。」(矢内昭二著『ウェストミンスター信仰告白講解』P246)

 

ひとつにされる」という教会の一致は、すべての教会とキリスト者が画一の行動を取り、理解を持つことではない。「そのかしらなるキリストのもとに」とウ告白が言うように、主イエス・キリストという共通の源にあって一つになることである。

 

使徒パウロは、次のように告白する。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父なる神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エフェソ456)

 

父なる神は唯一の神として、キリストにあってすべてのもの(宇宙)を完全に統一されている。それに基づいて教会もキリストにあって一つとされている。だから、わたしたちが「キリストのもとに」あることは、神の選びの民としてこの上諏訪湖畔教会に召され、教会員となり、毎週日曜日に礼拝を共にし、共に神の御言葉を聴き、イエスをキリストと告白し、共に洗礼と聖餐に与るのである。

 

だから、教会は建物でも、人間が作れるものでもない。何よりもキリストの臨在が必要である。そして、キリストが父なる神の御心に従われて、ここに召された選びの民が必要である。

 

和解のキリストの臨在されるところに選びの民がおり、キリストは彼らに義を授け、父なる神との和解の道を開かれるのである。それは、聖霊が御言葉と礼典をこの教会の礼拝で執行することを通して行われるのである。

 

 

だから、父なる神は、御自身と共に宇宙の支配者である主イエス・キリストを教会に与えられた。世界の教会、普遍的な教会は、世界を創造し、支配されるキリストと一つとされ、キリストの御力によって豊かに満たされている所である。それは、聖書の言う永遠の命である。その命が教会からあふれて、この世へと伝えるために、教会は過去、現在、未来へと福音宣教という使命を果たすことを委ねられているのである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白156        主の20201028                                                               

聖書箇所:使徒言行録第23947(新約聖書P217)

 「第二十五章 教会について」の二節

見える教会は、(律法のもとにあった先の日のように、ひとつの民族に限らないで)福音のもとでは、やはり公同または普遍の教会であり、全世界にわたって、真の宗教を告白するすべての者と、その子らとから成る。それは、主イエス・キリストのみ国、神の家また家族であり、そのそとには救いの通例の可能性はない。

 

今夜は、「第二十五章.教会について」の二節を学ぼう。先週は「第二十五章 教会について」の一節を学んだ。ウ告白は、「公同的あるいは普遍的教会」が目に見えないものであると叙述する。それは、頭であるキリストの下に過去・現在・未来を通してひとつに集められた選民から構成されている。天上の教会であり、真実で完全な教会である。そこでキリストは臨在され、キリストの花嫁であり、体である神の選民全てと永遠に交わられ、そこには満ち満ちた命があふれているのである。

 

ウ告白の「第二十五章 教会について」の二節で、ウ告白は目に見える地上の教会について叙述する。いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

目に見える教会もまた、福音の下では公同的あるいは普遍的であって(かつて律法の下にあった時のように、一つの民族に限定されない)、真の宗教を信奉する世界中のすべての人々と、その子どもたちとから成り立つ。それは主イエス・キリストの御国、神の家また家族であって、その外には救いの通常の可能性はない。

   松谷好明訳

目に見える教会―これも福音の下では公同的、あるいは普遍的である(律法の下でそうであったように、一つの民族に限られていない)―は、真の宗教を信仰する世界中のすべての人々と、その子どもたちとから成り、主イエス・キリストの御国、神の家また家族であって、その外に、救いの通常の可能性はない。

   鈴木英昭訳

見える教会は、福音のもとでは(律法のもとにあった以前のように、ひとつの民族に限定されることはないが)、見えない教会と同様に、公同のすなわち、普遍的教会であり、全世界にわたって、真の信仰を告白するすべての者と、その子らとから成っている。それは主イエス・キリストの国、神の家また家族であり、その外には救いの通常の可能性はない。

 

ウ告白は、地上の、この世にある目に見える公同的、普遍的教会について叙述する。それは、新約のキリスト教会である。旧約時代のように一つの民、ユダヤ民族だけを神は選ばれて、律法の下に一つに集められるのではない。新約の教会は、福音宣教によって世界中から真の信仰を告白するすべての人々とその子どもたちから成る目に見える教会である。

 

目に見えない教会は、天上の教会、勝利の栄光の教会と呼ばれ、真実で完全な教会である。使徒信条が告白する生者も死者をも含む「聖徒の交わり」である。神が選んだすべての者から成っている。神の選びと深い関係にある。

 

目に見える教会は、地上の教会、戦いの教会と呼ばれ、途上の教会である。罪があり、常に欠点を抱えていて不完全である。しかし、目に見える教会も、一つであり、聖であり、公同的で、使徒的である普遍の教会である。

 

教会が一つであり、公同的で、普遍であるということは、世界中のすべてのキリスト教会が同じことをするという点で一致しているということではない。主イエス・キリストへの信仰告白において一致することである。

 

教会は、主イエス・キリストにあって一つの国、神の家、そして神の家族となるのである。キリストを介して福音宣教によって神に召され、「主イエスをキリスト」と信仰告白し、洗礼を授けられた者たちと彼らの子どもたちは、キリストの所有であり、キリストの国に属するものであり、神の家であり、神の家族である。

 

キリストの主性と教会の公同的、普遍的であることは深く関係する。目に見える教会においては、わたしたちがキリストと一体となることは、それはわたしたちが「主イエス・キリストは神である」と信仰告白し、洗礼を受けることで、キリストの御国の一員となり、神の家族の一員となることである。

 

使徒パウロは、次のように述べている。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ(Ⅰコリント12)。パウロの言う「コリントにある神の教会」は礼拝共同体であり、この世にキリストの福音を宣教していた共同体である。

 

また目に見える教会は、礼拝と福音宣教が密接に関係する。教会が公同的であるというのは、教会をイエス・キリストと結びつけると同時に、イエス・キリストを告白するところに教会が存在するということである。これは、教会の礼拝と福音宣教を通してなされるのである。

 

アンテオケのイグナティオスは、「イエス・キリストがおられるところ、そこに公同の教会が存在する」と言っている。主イエス・キリストは、通常主日礼拝において教会に臨在される。

 

日本キリスト改革派教会創立二十周年宣言の「礼拝」で、次のように宣言している。「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへ聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう。

 

これが通常の見える教会での礼拝であり、そこに臨在されるキリストの救いは、聖霊が聖書の御言葉の朗読と説教およびそれへの聴従をとおして人の心に働きかけてなされるのである。

 

ですからウ告白は、「そのそとには救いの通例の可能性はない。」と述べているのである。村川・袴田訳、松谷訳、鈴木訳は「通例」を「通常」と訳している。

 

 

使徒言行録は、247節で次のように記している。「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」主イエスは、教会の礼拝を通して多くの神の民を加えて、エルサレム教会を成長させられたと、使徒言行録は証言しているのである。

 

ウェストミンスター信仰告白157        主の2020114                                                                 

聖書箇所:マタイによる福音書第281620(新約聖書P60)

 「第二十五章 教会について」の三節

キリストは、世の終わりまで、この世にある聖徒らを集めまた全うするために、この公同の見える教会に、教役者とみ言葉と諸規定とを与えられ、また約束に従って、ご自身の臨在とみたまとによって、それらをその目的のために効果あるものとされる。

 

今夜は、「第二十五章.教会について」の三節を学ぼう。先週は「第二十五章 教会について」の二節、見える教会について学んだ。ウ告白は、見える教会(地上の教会)も「公同的あるいは普遍的教会」であると言う。それは、世界中で真の信仰を告白する者とその子から成る。見えない教会は神の選びと有効召命から成るのに対して、見える教会は真の信者とその子らから成る。主イエス・キリストの御国、神の家、家族と呼ばれており、その外に救いはないと、ウ告白は述べている。

 

ウ告白の「第二十五章 教会について」の三節で、ウ告白は二節で「そのそとには救いの通例の可能性はない」と述べた目に見える地上の教会を通しての通例の救いについて叙述する。いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

この公同的な目に見える教会にキリストは、神の聖職者と神の御言葉と神の諸規定をお与えになった。それはこの世においては、世の終わりまで、聖徒たちを集め、完成するためであり、じっさいにキリストは、御自身の臨在と聖霊により、その約束に従って、それらのものをその目的のために有効にされるのである。

   松谷好明訳

この公同的な、目に見える教会に対して、キリストは、この世において、世の終わりまで、聖徒たちを集め、完成させるため、牧師職と聖書と神の諸規定をお与えになり、また、自らの約束に従い、御自身の現臨と霊により、これらのものをその目的のために有効なものとされる。

   鈴木英昭訳

キリストは、この世にあって、世の終わりに至るまで、聖徒たちを集めまた彼らを練達した者とするために、この公同の見える教会に、奉仕職と御言葉と神の諸規定とを与えられた。そしてこの目的のために、約束にしたがい、御自身の臨在と御霊によって、これらの手段を有効なものにされる。

 

ウ告白は、目に見えない教会と目に見える教会を別個なものとは考えない。なぜなら、神の選びと有効召命は、目に見える教会の礼拝と福音宣教を通してなされるからである。

 

目に見えない教会と目に見える教会は頭であるキリストのひとつの体である。そして神の選びと有効召命は、目に見える教会の恵みの手段(神の御言葉と聖礼典と祈り)を通してなされる。

 

ウ告白が「この公同的な目に見える教会にキリストは、神の聖職者と神の御言葉と神の諸規定をお与えになった。それはこの世においては、世の終わりまで、聖徒たちを集め、完成するためであり、じっさいにキリストは、御自身の臨在と聖霊により、その約束に従って、それらのものをその目的のために有効にされるのである。」と述べているのは、この世における通常の救いの過程である。

 

通常、キリストは、目に見える教会の礼拝と福音宣教を通して神の選びの民、すなわち聖徒たちを召される。そして、彼らは、キリストと一つとされ、目に見える教会の一員となるのである。

 

救いの通例の可能性」とは、教会の福音宣教を通して礼拝に招かれ、聖書の御言葉と解き明かしである説教を聞き、自分の罪を認めて、キリストの十字架が自分の罪のためであったと受けいれ、主イエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰にある。その信仰によって、神に罪を赦され、義とされ、神の子とされるのである。そして洗礼を通してキリストに結びつけられ、聖餐に与ることで信仰を強められるのである。そして目に見える教会における聖徒の交わりを通して、御国における御救いの完成へと導かれるのである。

 

目に見える教会でのこの「救いの通例の可能性」を保証するのが、復活の主イエス・キリストの臨在と聖霊である。

 

復活主イエス・キリストは、ガリラヤに11弟子たちを集められ、そこで彼らに臨在され、次にように約束された。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わるまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ281820)

 

この約束に従って、キリストは目に見える教会の礼拝と福音宣教を通して、この世が終わりに至るまで神に選ばれたすべての聖徒たちを世界中から集められ、それぞれの時代に、それぞれの国、そして地域にある目に見える教会に集められ、弟子訓練をなさるのである。

 

そこで主イエスは、第一に弟子たちを召して訓練された。目に見える教会に集められる聖徒たちを教えるために教職者を設けられた。次に「神の御言葉」を与えられた。これは、聖典である聖書とそれを説き明かす説教である。「諸規定」とは聖礼典である洗礼と聖餐であり、教会の戒規である。

 

通常教会のしるしと呼ばれる神の恵みの外典手段である。教会は、神の御言葉、すなわち、聖書が朗読され、それが解き明かされる説教がなされ、それを聴従するところに、そして聖礼典である洗礼と聖餐が忠実になされるところに存するのである。

 

改革派教会は、それらに加えて、教会戒規、すなわち、教会訓練を教会のしるしに加えている。

 

神の御言葉と礼典と教会訓練がこの世の目に見える教会のしるしである。しかし、どんなに目に目る教会で礼拝がなされ、神の御言葉が語られ、聞かれ、そして聖礼典がなされても、そこに主イエス・キリストが臨在され、聖霊がわたしたちの心に働きかけてくださらなければ、信仰という奇跡は起こらないのである。

 

目に見える教会は真の信仰を告白する者たちとその子らから成るのであるが、教会を教会として保証するのは、主イエス・キリストの臨在と聖霊の働きである。キリストが与えられた恵みの手段は、キリストの臨在と聖霊の働きによって、わたしたちに有効なものとなるのである。

 

 

だから、わたしたちは、この通常の救いの可能性のために祈り続けなければならないのである。

 

ウェストミンスター信仰告白158        主の20201111                                                               

聖書箇所:ヨハネの黙示録第21節-第322(新約聖書P453457)

 「第二十五章 教会について」の四-五節

公同教会は、時によってよく見え、時によってあまり見えないことがあった。またその肢体である個々の教会は、そこで福音の教理が教えられ奉じられ、諸規定が執行され、公的礼拝が行なわれている純粋さに従って、その純粋さに相違がある(四節)

 

世にある最も純粋な教会も、混入物と誤りとをまぬがれない。そしてある教会は、キリストの教会ではなくサタンの会堂になるほどに堕落した。それにもかかわらず、地上には、み旨に従って神を礼拝する教会が、いつでも存在する(五節)

 

今夜は、「第二十五章.教会について」の四-五節を学ぼう。

 

先週は「第二十五章 教会について」の三節で、見える教会を通してわたしたちに救いの恵みが伝達される普通の手段について学んだ。それは、福音宣教と牧会を通してわたしたちが教会の礼拝に招かれ救われる手段である。そのために主イエスは、御言葉を語り牧会する教役者を立て、御言葉と礼典(洗礼と聖餐)をお与えくださり、御自身が常に御臨在くださり、聖霊を通してわたしたちを救いに導かれることを約束されたことを学んだのである。

 

ウ告白の「第二十五章 教会について」の四-五節で、この世の個々の教会の純粋さに相違があり、不純と誤りを免れないこと、サタンの会堂に堕落するリスクが常にあるが。それでも常に神のみ旨に従って礼拝する教会が存在することを学ぼう。いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

この公同的教会は、時によってよく見えることもあり、あまり見えないこともあった。そしてそれの各部分である個々の教会は、そこで教えられ受け入れられている福音の教理と、執行されている諸規定と、行なわれている公的礼拝の純粋さに従って、その純粋さの度合いに違いがある(4)

 

地上にある最も純粋な教会も、不純と誤りの両者を免れない。そして教会の中には堕落してもはや全くキリストの教会ではなく、サタンの会堂になってしまっているものもある。それにもかかわらず、神をその御意志に従って礼拝する教会は常に地上に存在するであろう(五節)

   松谷好明訳

この公同的教会は、時により、比較的よく目に見えることもあれば、あまり目に見えないこともあった。また、その枝である個々の教会は、そこで福音の教理が教え、受け入れられ、諸規定が執行され、公的礼拝が行なわれる、純粋さに応じて、より純粋な場合もあれば、それほどでない場合もある(四節)

 

天の下の最も純粋な教会も、混合と誤りのいずれも免れず、教会の中には、あまりにも堕落して、キリストの教会ではなく、サタンの会堂になり果てたものもある。それにもかかわらず、地上には、御心に従って神を礼拝する教会が常に存在するであろう(五節)

   鈴木英昭訳

この公同教会は、これまで時には良く見え、時には良く見えなかった。この公同教会の部分である個々の教会は、そこで教えられ受け入れられる福音の教理と執行される諸規定と守られる公的礼拝の純粋さの程度に応じて、その純粋さに相違がある(四節)

 

地上で最も純粋な教会であっても、混入物と誤りとから免れることはできない。そしてキリストの教会ではなく、サタンの会堂になるほど堕落した教会もある。それにもかかわらず、神の御旨にしたがって神を礼拝する教会が、常に地上に存在する(五節)

 

矢内昭二先生は、「第四、第五節に歴史の上に具現化された見ゆる教会を、どのような尺度に照らして判断すべきかが記されています。」と述べ、「第四、第五節は、自分たちの教会が純粋だと考え、他の教会をさばく規準ではなく、むしろ、自分たちの教会の霊的状態を正しく判断するという意味で、読まれるべきだと思います。」と述べられている(『ウェストミンスター信仰告白講解』新教出版社 P250)

 

ウ告白が「公同教会は、時によってよく見え、時によってあまり見えないことがあった。」と述べていることを理解するためには、教会史を学ぶことが有益である。どうして宗教改革が起こったのか、このことを知るだけでも、公同教会が時によく見え、時によく見えなかったことを知ることができるだろう   。

 

宗教改革者カルヴァンは、こう述べている。「教会の姿が我々に出現し、また目に見えるようになるのはここからである。『二、三人が我が名によって集まる所に、私は彼らのただ中にいる』(マタイ18:20)との約束は欺くことのあり得ないものであって、神の言葉が真摯に説教されまた聞かれる所、聖礼典がキリストの制定に従って執行されると見られる所、そこに神の教会(公同教会)があることは何ら疑うべきでないからである。」(『キリスト教綱要』419節)。

 

だから、「福音の教理が教えられ奉じられ」とは、カルヴァンの述べるように「神の言葉が真摯に説教されまた聞かれる所」である。「諸規定が執行され」とは、「聖礼典がキリストの制定に従って執行されると見られる所」である。またウ告白が「公的礼拝が行なわれている純粋さに従って、その純粋さに相違がある」と述べているように、個々の教会の礼拝が聖書の御言葉に忠実になされているかによって、相違が生まれるだろう。

 

細田広司長老にリジョイスの「わたしの町の教会」というシリーズのインタヴューの記事をいただいた。宿毛伝道所の牧田吉和宣教教師が「今、教会が心がけていることは、どんなことですか」という質問に幾つかの事を答えられていますが、次の答は心に響きました。「小さくても神の言葉に堅く立ち、福音の喜びに溢れた本物の教会を目指すこと。とりわけ霊的緊張感のある最善の礼拝をささげること」。

 

わたしたちの教会も地方の小さな教会であるが、神の御言葉が真摯に福音として語られ、また聴かれ、洗礼と聖餐が執行され、喜んでそれに与る礼拝が行なわれるように望み、祈ろう。

 

 

しかし、この世の教会は、罪人の集まりである。弱さがあり、誤りがあり、麦と毒麦が混じり、堕落し、サタンの会堂となることがあろう。しかし、主イエスは約束された。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3:20)。主イエスは、いつでもわたしたちと共に居てくださる。だから、この地上に常に教会は存在し、そこで神の御心に適う礼拝がなされているのである。

 

ウェストミンスター信仰告白159        主の20201118                                                               

聖書箇所:マタイによる福音書第23112(新約聖書P45)

 「第二十五章 教会について」の六節

主イエス・キリストのほかに、教会のかしらはない。どのような意味ででもローマ教皇は教会のかしらではない。その反対に彼こそは教会においてキリストとすべて神と呼ばれるものとに反抗して自分を高くするところの、かの非キリスト、不法の者、滅びの子である。

 

今夜は、「第二十五章.教会について」の六節を学ぼう。

 

先週は「第二十五章 教会について」の四-五節で、教会しるしとその純粋に各個教会によって差があり、この世の教会は堕落するが、常に御旨に従って神を礼拝する教会が存することを学んだ。

 

ウ告白の「第二十五章 教会について」の六節は、ウ告白が主イエス・キリスト以外に教会の頭はないと告白し、ローマ教皇について述べている。いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

主イエス・キリスト以外に教会の頭はない。そしてローマ教皇も、どんな意味でも、教会の頭では決してあり得ない。むしろ、彼は、キリストとすべて神と呼ばれているものとに逆らって、教会の中で自らを高くする、あの反キリスト、あの不法の者、滅びの子である。

 

   松谷好明訳

主イエス・キリスト以外に、教会の頭はない。また、ローマ教皇は、いかなる意味でも、教会の頭ではありえず、かえって、キリストと、すべて神と呼ばれるものに逆らって、教会の中で、自らを高くする、あの反キリスト、すなわち、あの不法の者、滅びの子である。

 

   鈴木英昭訳

主イエス・キリストのほかに、教会の頭はない。ローマ教皇はどのような意味においても教会の頭ではない。彼は、キリストそしてさまざまな名で呼ばれる神に逆らって教会において己を高くする、あの反キリスト、不法の者、滅びの子である。

 

主イエス・キリストのほかに、教会のかしらはない」と、ウ告白がこのように力強く告白するのは、見えない天上の教会だけでなく、目に見えるこの地上の教会のかしらも主イエス・キリスト以外にないという意味である。

 

ウ告白は、ローマカトリック教会のローマ教皇を念頭においてそのように告白し、ローマカトリック教会のローマ教皇はこの地上の教会のかしらではないと否定しているのである。

 

ウ告白を理解するには、教会史の理解が必要である。特に16世紀の宗教改革以後、プロテスタント教会が生まれて、ローマカトリック教会の教皇主義と戦ってきた歴史を知る必要がある。

 

「教皇」はラテン語で「パパ(父)」である。ローマの司教に対する敬称である。日本では「法王」と言う。6世紀以降にローマの司教に対してのみ使われた。カトリック教会では、ローマの司教が全世界の教会の最高の指導者であった。

 

ローマカトリック教会においては、職制が確立され、ローマの司教が首位権を得て、使徒ペトロの継承者となった。4世紀にはローマの司教が指導的地位を確立し、これが教皇の始まりである。

 

使徒ペトロは晩年にローマ教会を指導し、殉教した。ローマの司教はペトロの継承者を主張した。ローマカトリック教会は使徒ペトロが12使徒団の頭に立てられたと理解している、だから、使徒ペトロの後継者であるローマの司教、後の教皇がこの地上の教会の最高の指導者である。

 

特に西ローマ帝国がゲルマン民族の移動によって滅びると、カトリック教会は中世の西方キリスト教世界に絶大な影響を及ぼした。教皇は権力と富を一手にした。その結果、教会と社会の中に様々な腐敗が生まれたのである。それが、16世紀にマルチン・ルターが宗教改革運動を起こす原因になったのである。

 

ルターは、有名な『バビロン捕囚』というパンフレットを書いている。ローマ教皇によってキリスト教会が支配され、バビロン捕囚されていると述べている。そして、彼はローマ教皇を「アンチキリスト」と批判している。これが宗教改革者のローマ教皇理解である。

 

ウ告白の「主イエス・キリストのほかに、教会のかしらはない。」という告白は、プロテスタント教会がローマ教皇にキリスト教会が支配され、バビロン捕囚されていつことからの解放を宣言しているのである。主イエス・キリストの支配の中でこそ教会とキリスト者は自由を得ることができるのである。

 

宗教改革者ルターが『キリスト者の自由』を世に書いたのは、ローマカトリック教会に対して、ローマ教皇の教会支配に対して、主イエス・キリスト以外に頭がないと主張したからである。

 

聖書の出エジプトの事件でも、バビロン捕囚からのエルサレムへの帰還の出来事でも、事件当初は、批判は厳しい。宗教改革から130年、ウ告白の時代、宗教改革者たちの影響は強かっただろう。だから、ウ告白もルターやカルヴァンたちと同じように、ローマ教皇を反キリスト、不法の者、滅びの子と呼ぶのである。

 

矢内昭二先生が前回にウ告白を他派をさばく基準ではなく、わたしたちの霊性を正しく判断する基準にしなさいと言われたが、今夜のこの所もローマ教皇を批判する基準ではなく、わたしたちが見える教会も見えない教会も主イエス・キリスト以外に頭がないことをしっかりと心に留める基準としよう。

 

現在もローマカトリック教会はローマ教皇が見える教会の最高の指導者である。しかし、彼は、プロテスタント教会とユダヤ教に対して和解と対話を呼びかけ、ルーテル教会と和解をした。また世界の諸宗教の宗教者たちとも対話をしている。戦争や紛争に対する和解を、貧困や環境汚染にも声明を出している。

 

 

ローマ教皇は反キリスト、不法の者、滅びの子と判断することは、できないのではないか。逆に今日、わたしたちの方がローマ教皇に学ぶ点が多くあるのではないか。日本キリスト改革派教会が近い将来「教会についての宣言」を出すときに、ウ告白の第25章教会についての六節は、ローマ教皇に関して別の記述が必要だろう。

 

ウェストミンスター信仰告白160        主の20201125                                                               

聖書箇所:使徒言行録第23747(新約聖書P217)

 「第二十六章 聖徒の交わりについて」の一節

みたまにより、また信仰によってかしらなるキリストに結合されているすべての聖徒は、イエス・キリストの恵み・苦しみ・死・復活・また栄光において彼との交わりにあずかる。また彼らは、愛において互いに結合されて、相互の賜物と恵みを分かち合い、また内なる人においても外なる人においても共に相互の益に貢献するような彼らの公私の義務の実行を義務付けられる。

 

今夜は、「第二十六章.聖徒の交わりについて」の一節を学ぼう。

 

「第二十五章 教会について」の一-六節で、次のことを学んだ。公同的、普遍的教会は見える地上の教会と見えない天上の教会である。天上の教会は選民の全員から成る。地上の教会は、真の宗教を信仰告白したすべての者とその者の子らから成る。公同の見える教会は教役者と御言葉と礼典を与えられ、主が約束しに従って臨在される。個々の教会は礼拝において御言葉と礼典を執行する。その純粋さには相違がある。また地上の教会は罪と誤りを避けることはできない。そして堕落する。しかし、キリストは約束に従って常に共に居てくださる。だから、神を礼拝する教会は常に存在する。主イエス・キリスト以外に教会の頭はいない。ローマ教皇は教会の頭ではない。

 

ウ告白の「第二十六章 聖徒の交わりについて」の一節は、ウ告白が「聖徒の交わり」とは何かを述べている。ウ告白の「第二十五章 教会について」は、教会の概念である。聖書が教える教会とは何かを学んだ。「第二十六章 聖徒の交わりについて」は、教会の本質である。教会が教会として成り立つのは聖徒の交わりである。使徒信条も「我は教会を信ず。聖なる教会の交わり」と告白している。教会は、交わりと相互の愛における「聖徒たちの群れ」である。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

すべての聖徒たちは、頭である主イエス・キリストに、その御霊により、また信仰によって、結合されているので、その恵みと苦難と死と復活と栄光をキリストと共にする。また彼らはお互いに愛によって結合されているので、互いの才能と賜物を共有しており、内なる人においても外なる人においても、じっさい相互の益になるような公的、私的な義務をはたさなければならない。

   松谷好明訳

自分たちの頭である主イエス・キリストに、彼の霊により、信仰によって、結ばれているすべての聖徒たちは、イエス・キリストの、恵みの賜物・苦難・死・復活・栄光において、彼との交流を持つ。また、聖徒たちは、愛において互いに結ばれているので、互いの[一般的な]賜物と恵みの賜物にあずかる交わりを持っており、内なる人においても外なる人においても[内面的にも外面的にも]相互の益となるような、公的、私的な義務を果たさなければならない。

   鈴木英昭訳

キリストの御霊により、そして信仰により、頭であるイエス・キリストに結合されているすべての聖徒は、キリストの恵み、苦しみ、死、復活、そして栄光を彼と共にする。

また聖徒たちは、愛によって互いに結び合わされており、互いに他の者の賜物や恩恵にあずかる。また内なる人においても外なる人においても、互いの益になるように公的にも私的にも義務を果たす責任がある。

 

ウ告白は、わたしたちを「聖徒」と呼んでいます。聖徒は「切る」「分ける」から派生した名詞である。主に聖別された者である。旧約では神の民イスラエルである。彼らは主礼拝のために聖別された(詩編34:10「主の聖なる人々」)。神の選びと恵みを賜った者である。新約ではギリシア語の「ハギオイ」である。「聖なる者」、「きよめ分かたれた者」である。キリスト者のことである。聖徒は、主イエスに対しては弟子、同信の友に対しては兄弟姉妹である。主イエスの贖いによってこの世から分離され、聖別された者である。教会、選びの民である。聖徒はその身分を神に愛され、召されて得たのである(ローマ1:7)。恵みにより召された聖徒は、それに相応しく生きることを、主イエスに求められている(エフェソ5:14)

 

わたしたちは、御霊と信仰によってキリストと結合している。洗礼がそのしるしであり、証印である。そして礼拝における御言葉と聖餐がキリストとの結合を養い育て、「イエス・キリストの恵み・苦しみ・死・復活・また栄光において彼との交わりにあずか」らせるのである。

 

イエス・キリストの恵み」は、信仰という手段を通していただく神の賜物のすべてである。罪の赦し、永遠の命、御国の相続人等である。使徒ヨハネは、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」と述べている(ヨハネ1:16)。「苦しみ・死・復活・また栄光において彼と交わり」は、キリストの十字架と死、復活、キリストの栄光の体に与ることである。キリストと苦しみを共にするのである。キリストの十字架と復活によって罪に死んでいたわたしたちは永遠の命に生かされているのである。教会の礼拝は神の御国のキリストとの交わりの前味である。

 

一節の後半でウ告白は、聖徒の交わりがキリストだけではなく、兄弟姉妹との交わりであることを教えている。「また彼らは、愛において互いに結合されて、相互の賜物と恵みを分かち合い、また内なる人においても外なる人においても共に相互の益に貢献するような彼らの公私の義務の実行を義務付けられる。

 

頭である主イエス・キリストの体のひとつの肢として一体である。主イエスは12弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(ヨハネ13:3435)と命じ、約束されたのである。

 

だから、聖徒は「相互の賜物と恵みを分かち合い」を主の義務として与えられている。使徒言行録は、それを次のように証言する。聖霊降誕後にエルサレム教会が生まれ、聖霊に満たされた「信者たちは皆一つとなって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」と。

 

私有財産を認めないということではない。信者の義務として神からいただいた御恵みを、教会の中で、教会の外でも、シェア(共有)するのである。キリストよりいただいた豊かな恵みを、教会の兄弟姉妹への愛の証しとして共に分かち合い、隣人愛の証しとして隣人に分かつのである。それが信者の義務である。

 

松谷訳では「内なる人においても外なる人においても[内面的にも外面的にも]」となっている。その通りだろう。教会の成長は、わたしたち相互の助け合いの中で、聖霊が為してくださるのである。わたしたちが兄弟姉妹を支援し合っている。これはわたしたちの義務なのである。