ウェストミンスター信仰告白161        主の2020122                                                                 

聖書箇所:使徒言行録第23747(新約聖書P217)

 「第二十六章 聖徒の交わりについて」の二節

信仰告白をした聖徒らは、神礼拝、またその他彼ら相互の建徳に資するような霊的奉仕の実行、更にまた彼らのそれぞれの能力と必要とに応じて外的な事柄においても互いに助け合うことにおいて、聖なる交誼と交わりとを保たなければならない。この交わりは、神が機会を供えてくださるままに、主イエスのみ名を呼ぶ至る所のすべての人々に広げられなければならない。

 

今夜は、「第二十六章.聖徒の交わりについて」の二節を学ぼう。

 

「第二十六章 聖徒の交わりについて」の一節で、次のことを学んだ。(1)聖徒とは、頭である主イエス・キリストに聖霊と信仰によって結合している者たちである。主イエス・キリストの恵みと苦難と死と復活と栄光を共にする者である。(2)聖徒は、兄弟姉妹の相互の愛の交わりである。共に愛においてキリストと結ばれ、互いに愛し合うことを義務づけられ、互いの賜物と恵みを分かち合い、相互の益に仕え合う者たちである。

 

ウ告白は、「第二十六章 聖徒の交わりについて」の二節で、「聖徒の交わり」の実践を教えている。具体的には神礼拝の実践と相互の恵みと賜物を分かち合うことである。聖徒の交わりは一定の地域に閉鎖されたものではなく、この世の至る所で主の御名を呼ぶ者たちすべてに広がるものである。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

信仰を公に告白している聖徒たちは、神礼拝において、またはその他の互いを向上させるのに役立つような霊的奉仕を行うことにおいて、更にはまた、外的な事柄においても、それぞれの能力と必要に応じて、互いに助け合うことにおいて、聖なる親交と交わりを保たなければならない。そしてこの交わりは、神が機会を提供してくださるままに、あらゆるところで、主イエスの名を呼ぶすべての人々に広げられるべきである。

   松谷好明訳

信仰を告白している聖徒たちは、[第一に]神礼拝において、また[第二に]相互の教化に役立つ他のさまざまな霊的奉仕を行うことにおいて、更に[第三に]外的な[物質的・物理的な]事柄に関しても、それぞれの能力と必要に応じて、互いに助け合うことにおいて、清い交流と交わりを保たなければならない。この交わりは、神が機会を提供してくださるままに、至る所で、主イエスの名を呼んでいる、すべての人々に広げられるべきである。

   鈴木英昭訳

信仰を告白している聖徒は、神礼拝と互いの建徳となるような霊的奉仕を行って、聖なる友情と交わりを保たなければならない。また、自分たちの能力と必要に応じて、物質的な事柄においても互いに援助し合わなければならない。

この交わりは、神が機会を与えてくださる場において、主イエスの名により頼む至る所のすべての人々に、広められるべきである。

 

聖徒の交わりの場は、神礼拝と「外的な事柄」、すなわち、「外的な[物質的・物理的な]事柄」である。使徒言行録に聖霊降臨によって生まれたエルサレム教会の信者の生活が描かれている(使徒言行録2:3747)3742節は、神礼拝における交わりであり、4347節は物質的な交わりの場である。神礼拝における主イエス・キリストの交わりを通して、エルサレム教会の信者たちはこの世で物質的な神の恵みと賜物を分かち合い、各家で愛餐を共にしていたのである。神を賛美し、彼らの交わりを開放し、民衆全体から好意を持たれていたのである。

 

神礼拝と伝道(証し)が教会形成の要である。

 

聖徒の交わりの実践は、神礼拝と信者相互の愛の交わり、相互の支援である。その交わりは、「神が機会を供えてくださる」ものである。実際に使徒言行録は、聖霊降臨の出来事によってエルサレム教会が生まれ、神礼拝と信者相互の愛の交わりが始まったと記している。神が聖徒の交わりという機会を、わたしたちに提供してくださったのである。

 

ウ告白は、わたしたちに聖徒の交わりの実践を教える時、この交わりは神が与えられた機会であることを、特に強調するのである。

 

神礼拝における聖徒の交わりの場で、主イエスは信者たちと求道者たちが互いの信仰と愛を高め合うために機会を提供されたのである。その具体的な実践が礼拝の奉仕であり、教会の奉仕である。

 

牧師、長老、執事の奉仕、祈り、奏楽、献金、受付、会堂清掃、教会学校の教師、伝道集会等の教会の奉仕である。これらの奉仕は、人の業と創造ではない。主イエスが神礼拝において与えてくださった機会である。その機会は、主の召しであるので、信仰的応答が求められる。

 

神の御言葉が語られ、わたしたちがそれを聴従する時、主イエス・キリストは臨在される。また、聖餐において主イエスはわたしたちを食卓に招かれる。御言葉を聞く、聖餐に与ることはわたしたちにとって受け身である。しかし、そこでわたしたちは、罪赦され、義とされ、神の子とされる、救の恵みを、信仰を通して与えられるのである。その感謝の応答は、主イエスが12弟子たちに「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15:17)と言われたことを実行することである。それが聖徒の交わりである。

 

聖徒の交わりの実践として心すべきは、神礼拝の奉仕において互いに信仰を高め合い、互いに仕え合い、助け合うことである。牧師、長老、執事が一方的に教会員に奉仕し、仕え、助けているのではない。牧師の説教を聞き、長老たちの指導に従い、執事たちと奉仕を共にするようになる。こうして彼らは、主イエスが提供される機会を得て、彼らも神礼拝と教会の奉仕に携わり、その奉仕のために祈るのである。

 

物理的、物質的な聖徒の交わりがある。聖恵会、静岡盲人伝道センター、聖書協会、ギデオン協会である。その他キリスト教の介護施設、キリスト教の学校、国際飢餓機構、カルヴィニスト協会等がある。わたしたちは、自分の賜物と能力を分かち合って、必要に応じて、この世における聖徒の交わりを支援すべきである。

 

 

諏訪地方には超教派の牧師と牧師夫人の祈祷会があり、そこから諏訪地方のプロテスタント諸教会が集まり、共に礼拝と交わりをした。世界祈祷日会が三月にあり、カトリックとプロテスタントの諸教会が集まり、共に礼拝をし、一つの国のキリスト教会のために祈っている。このようにこの交わりは広がっていくのである。

 

ウェストミンスター信仰告白162        主の2020129                                                                 

聖書箇所:使徒言行録第23747(新約聖書P217)

 「第二十六章 聖徒の交わりについて」の三節

聖徒らがキリストともつこの交わりは、どのような意味ででもキリストの神性の本質にあずからせず、またどのような点でもキリストと等しくならせるものではない。そのどちらを主張しても不敬けんであり冒とくである。また聖徒としての彼ら相互の交わりは、おのおのが自分の財産や所有に対してもっている権利すなわち所有権を奪ったり侵害するものではない。

 

今夜は、「第二十六章.聖徒の交わりについて」の三節を学ぼう。

 

「第二十六章 聖徒の交わりについて」の二節で、「聖徒との交わり」の実践について学んだ。具体的には神礼拝と信者相互の愛の交わりと相互の支援である。

 

「第二十六章 聖徒の交わりについて」の三節で、ウ告白が主張する誤った二つの考えについて学ぼう。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

聖徒たちがこのようにキリストと交わりをもっているということは、決して彼らをキリストの神性の本質にあずかる者とはしない。また、どんな点でも彼らをキリストと同等の者にはしない。そしてそのいずれを主張することも不敬虔であり、冒瀆である。また、彼らの聖徒としての相互の交わりは、それぞれの人が自分の所有物と財産に対してもっている権利や所有権を取り去ったり無効にするものではない。

   松谷好明訳

聖徒たちがキリストと持つこの交わりは、彼らを、いかなる意味でもキリストの神性の実体にあずかる者とはしないし、また、いかなる点でも、キリストと同等な者にすることはなく、そのいずれを主張することも、不敬虔であり、冒瀆である。また、彼らの聖徒としての相互の交わりは、各人が自分の所有物と財産に対して持っている権利や所有権を、取り去ったり、侵害するものではない。

   鈴木英昭訳

聖徒がもつキリストとのこうした交わりは、どのような点ででも、彼らをキリストの神性の本質にあずからせることはないし、どのような点においてもキリストと等しい者にはしない。このいずれを主張しても、それは不敬虔であり冒涜である。

また、彼らの聖徒としての互いの交わりは、互いのどのような財産権、すなわち、自己の所有物や財産に対する権利を、奪ったり侵害したりするものではない。

 

改革派神学は、カルヴァン以来「有限は無限を容れられない」という立場である。人は神と同一になれないし、人が神と混合することはない。創造者である神と被造物である人間は絶対的質的区別がある。

 

神は、人間の肉体を取って現れられたのである。この時独り子である神の子キリストは、神性を持ちつつ、人間性を取られたのである。キリストにおいて神性と人性の混合はない。しかも神の独り子であるキリストという一つの人格に神性と人性が混合することなく結合しているのである。

 

 聖徒の交わりについても、「有限は無限を容れられない」という立場に立つべきである。キリストの神性と人性が混合しないように、聖徒の交わりにおいて、わたしたちがキリストの神性の本質、すなわち、実体にあずかり、神であるキリストと等しく、わたしたちも神となることはない。

 

聖徒の交わりの実践である礼拝において、わたしたちはどのような意味でもキリストの神性の本質を持つことも、どのような点においてもわたしたちがキリストになることはない。

 

だから、聖徒の交わりをとおして、自分はキリストの神性の本質にあずかったと主張する者、またわたしはキリストと等しい者であると主張する者は、神である主権者キリストを低める不敬虔な者であり、神であるキリストを冒瀆する者である。

 

ウ告白は、最後に聖徒の交わりが決して個人の財産権、所有権を侵害し、奪うものではないと主張している。

 

使徒言行録24445節、第432節の御言葉への弁明である。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。

 

この記述は、個人の財産権と所有権を否定しているのではない。信者たちが聖徒の交わりを通して相互の愛において、自発的に彼らの財産を、所有物を献げて、貧しい兄弟姉妹と分け合ったのである。

 

エルサレム教会が強制して富める兄弟姉妹から財産や所有物を献金させたのではない。聖徒の交わりにおける愛によってエルサレム教会の信者たちは、自発的に貧しい兄弟姉妹のために献金したのである。

 

使徒言行録5章にアナニアとサフィラ夫婦の偽りの献金の事件を記している。彼らは聖霊を欺き、彼らの売った土地の代金をごまかして、全額献金したように装った。ペトロは夫のアナニアに次のように彼らに財産権も所有権もあり、売っても売らなくても、また売った代金を自分たちで自由にできたと述べている。

 

ウ告白は、このように聖書に基づいて聖徒の交わりが、個人の財産権と所有権を奪うことも、侵害することもないと主張する。教会の献金は、教会員の財産権や所有権を奪い、侵害するものではない。まことに聖徒の交わりにおける信仰と愛において自由に、自発的になされるものである。

 

大切なことは、神の賜物と恵みを互いに分かち合うことで、兄弟姉妹が互いに信仰を高め合い、互いに信仰を励まし合い、貧しい兄弟姉妹や困難にある兄弟姉妹のために支援をし合うことである。

 

 

教会の神礼拝における奉仕だけでなく、この世におけるキリスト者の交わりにおける奉仕においても、自由に自発的に神の賜物と恵みの分かち合いによって、支え合うことを、ウ告白は奨励するのである。

 

ウェストミンスター信仰告白165        主の20201230                                                               

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第21729(新約聖書P275276)

 「第二十七章 礼典について」の三節

正しく用いられる礼典の中で、またはそれによって、表示される恵みは、礼典のうちにあるどのような力によって与えられるのではない。また礼典の効果は、それを執行する者の敬けんあるいは意図によるのでもない。それはただ、みたまの働き、および礼典の使用を権威付ける命令と、ふさわしい陪餐者に対する祝福の約束とを含む礼典制定のみ言葉とによるのである。

 

今夜は、「第二十七章.礼典について」の三節を学ぼう。前回は「第二十七章 礼典について」の二節を学んだ。

 

礼典は洗礼と主の晩餐から成る。二節では、洗礼と主の晩餐のしるしとそれが象徴されているものとの関係を学んだ。洗礼の場合は水がしるしで、主の晩餐はパンとぶどう酒である。そのしるしの霊的関係とどちらも神が制定された礼典的一致があることを学んだ。

 

今夜は、礼典の効力と有効性は聖霊のお働きと制定の御言葉によることを学ぼう。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

正しく用いられた礼典において、あるいはそれによって差し出される恵みは、礼典自体の中にあるどのような力によっても与えられるものではない。また礼典の効力も、それを執行する者の敬虔さや意向によるものではない。その効力は御霊の働きと、礼典制定の御言葉とによるのであって、その制定の言葉には礼典の使用を権威づける命令とともに、ふさわしい陪餐者に対する恩恵の約束が含まれているのである。

 

   松谷好明訳

正しく用いられた聖礼典において、あるいは、それによって、提供される恵みは、聖礼典の内にある、いかなる力によって与えられるのでもない。また、聖礼典の効力は、それを執行する者の敬虔さや意向によるのではなく、御霊の働きと、制定の言葉―これは、聖礼典の使用に権威を与える命令と共に、ふさわしい陪餐者に対する益の約束を含んでいる―によるのである。

 

   鈴木英昭訳

正しく用いられる礼典において、あるいはそれらによって、あらわされる恵みは、礼典それ自体にあるどのような力によっても与えられない。また礼典の効力は、それを執行する者の敬虔さと意図にもよらない。それは御霊の働きと、礼典を用いよとの命令の言葉と共に、ふさわしい陪餐者への恵みの約束の制定の御言葉と、による。

 

礼典は奥義(ミュステーリオン)である。ヘレニズム世界には密儀宗教が存在した。奥義を受けた者だけが関与できる神聖な儀式そのものを表現するのがミュステーリオンである。キリスト教の礼典は隠されたものより以前は知られていなかったが今や啓示されたものである。神から人に聖霊のお働きによって解き明かされる真理である。その媒体の手段が御言葉としるしである。それは、福音として伝えられるのである。キリストの十字架と復活、再臨と御国と永遠の命である。

 

正しく用いられる礼典」とは、キリストが命じられた通りに執行される洗礼と主の晩餐である。

 

またはそれによって、表示される恵み」とは、洗礼と主の晩餐の執行によって表される恵みである。それはキリストの福音の全てである。個々にはキリストの受肉、十字架、復活、キリストの内住、キリストの再臨と神の御国と永遠の命である。

 

ウ告白が三節で主張することは、二つである。聖礼典におけるしるしと執行者に礼典を効力あるものとする力も礼典を有効なものとする力もないということである。

 

キリスト教は、奥義である礼典から徹底的に魔術を排除する。あるいは何らかの人間の力というものを排除するのである。

 

しるし」である洗礼の水も、主の晩餐のパンとぶどう酒も、礼典に用いられる品物に過ぎない。その物に何らかの神秘的な力があり、礼典に効力を発揮させることはない。

 

また礼典の効果は、それを執行する者の敬けんあるいは意図によるのでもない」。ローマカトリックでは、典礼の執行者に対する人効論と事効論の対立がある。人効論の語源は、「為す者の業によって」という言葉に由来する。神の恩恵はそれに与る者や司祭の功徳によって授けられるという思想である。12世紀以後のカトリック教会の秘跡において定着した。しかし、13世紀に事効論がローマカトリック教会の主流になった。事効論の語源は、「なされた業によって」という言葉に由来する。教会の秘跡が持つ超自然的力は、それを授かる者や司祭の功徳によってではなく、教会の秘跡儀礼のうちにキリスト自身によってもたらされるという思想である。

 

確かに人効論と事効論には違いがある。しかし、ウ告白は、ローマカトリック教会が礼典に超自然的な力があると考えることに、そして秘跡を教会が客観的な聖性として与えると考えていることに反対している。

 

礼典そのものに何らかの超自然的働きはない。しるしは、しるしである。礼典執行者は神の用いられる器である。

 

だから、ウ告白は、礼典が正しく礼典として効力あるものとなり、受ける者に益となるためには、聖霊のお働きと礼典制定語である御言葉が必要であると述べている。

 

ウ告白は、礼典制定語についてこう述べている。「その制定の言葉には礼典の使用を権威づける命令とともに、ふさわしい陪餐者に対する恩恵の約束が含まれているのである。

 

ウ告白は、宗教改革者たちが礼典の有効性を信仰の内に求めた伝統に従うのである。矢内昭二先生は、こう記している。「後半は、小教理問九一、大教理問一六一にもはっきり確言されているように、礼典を制定されたキリストの祝福と信仰によって礼典にあずかる人々の中に働くキリストのみ霊の働きが礼典を有効にするということを述べている」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P264265)

ウェストミンスター信仰告白166        主の2021113                                                             

聖書箇所:マタイによる福音書第281620(新約聖書P60)

 「第二十七章 礼典について」の四‐五節

福音のうちにわたしたちの主キリストが命じられた礼典は、ただ二つ、すなわち洗礼と主の晩餐だけである。そのいずれも、合法的に任職されたみ言葉の教役者以外のだれによっても執行されてはならない(四節)

旧約の礼典は、それによって表象され表示される霊的な事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である(五節)

 

前回は「第二十七章 礼典について」の三節を学んだ。ウ告白は、カトリック教会の礼典理解に対する反論を述べている。それは、礼典の効力が礼典のしるしそのもの中に含まれているのではないし、礼典の効果が執行する者の信仰に根差しているのではないということである。

 

今夜は、「第二十七章 礼典について」の四‐五節を学ぼう。四節では主イエスが命じられた礼典の数と執行者、五節では旧約の礼典と新約の礼典は霊的事柄において、実質的に同一であること。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

  村川満・袴田康裕訳

福音においてわれわれの主なるキリストが定められた礼典はただ二つだけである。すなわち洗礼と主の晩餐である。そしてそのいずれも、合法的に任職された御言葉の奉仕者以外の誰によっても執行されてはならない(四節)

旧約の礼典は、それによって示され、差し出される霊的な事柄に関しては、新約の礼典と、実質的に、同一である(五節)

  松谷好明訳

福音においては、わたしたちの主キリストによって、ただ二つの聖礼典、すなわち、洗礼と主の晩餐、が定められているだけである。そのいずれも、合法的に任職された御言葉に仕える牧師以外の、いかなる人によっても施されてはならない(四節)

旧約の聖礼典は、それらによって意味され、提示された霊的な事柄に関する限り、新約の聖礼典と実体においては同じであった(五節)

  鈴木英昭訳

礼典は、わたしたちの主キリストが福音のうちに定められたただ二つ、すなわち洗礼と主の晩餐だけである。そのいずれも、合法的に任職された御言葉の牧師以外のだれによっても執行されてはならない(四節)

礼典の意味が示され、しるしが表示された霊的事柄に関して、旧約の礼典は、新約の礼典と実質的に同じである(五節)

 

ウ告白の礼典についての総論は、今夜で終わりである。次回からはウ告白の礼典についての各論、すなわち28章では「洗礼について」、29章では「主の晩餐について」学ぼう。

 

キリストの福音は聖書(新約聖書)に記述されている。その福音には、キリストが礼典として洗礼と主の晩餐だけを定められたことを証言している。その証言は以下の通りである。

主イエス・キリストは、復活後ガリラヤで11弟子たちに現れ、福音宣教を命じられた。すべての国民をキリストの弟子にするように。そして「父と子と聖霊の御名によって」彼らに洗礼を施すように命じられた(マタイ28:19)

 

また、主イエスは十字架の前の夜に12弟子たちと最後の食事、主の晩餐をされた。そして、主イエスは12弟子たちに「わたしを記念として、このように行いなさい」と命じられた(マタイ26:2629,マルコ14:2225,ルカ22:1720)

 

使徒言行録は、ペンテコステの日に使徒ペトロが神殿で説教し、キリストの名によって洗礼を授け、三千人がキリスト者となり、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と証言している(使徒言行録2:3741)

 

復活の主イエスに召されて異邦人たちの使徒となったパウロは、主キリストが福音として伝えられた主の晩餐を、キリストが命じられた通りにコリント教会で執行している(1コリント11:2326)

 

ウ告白は、聖書の証言に基づいてキリストの救いの恵みを伝達する外的手段は、洗礼と主の晩餐であると述べている。だから、この二つの礼典以外のカトリック教会の礼典は、キリストが命じられたものではない。

 

12使徒たち、使徒パウロが洗礼と主の晩餐を執行している。これは御言葉と礼典が切り離せないという関係を理解するなら、主に召され御言葉を説き明かす牧師が、礼典である洗礼と主の晩餐を執行すべきであることは明瞭である。

 

ウ告白の「合法的に任職された」とは、内的召命と外的召命によって牧師・宣教教師に任職した者である。内的召命はその者に主の召しの確信があることである。外的召命は小会の推薦で神学校・研修所に入り、卒業し、中会が教師候補者として承認し、訓練し、教会と伝道所から牧師、宣教教師に招聘があり、大会の教師試験に合格し、牧師・宣教教師として任職されたものである(日本キリスト改革派教会の場合)

 

礼典は恵みの契約の下で執行される。ウ告白の「第七章人間との神の契約について」の五―六節に述べられている。律法と福音の時代という状況の変化はあるが、恵みの契約は一つである。どちらもキリストが示され、しるされている。旧約の礼典ではキリストが予示され、新約の礼典では実体であるキリストが提供されている。どちらもキリストという霊的事柄が提示されている。だから、旧約の礼典と新約の礼典は共にキリストが提供されている点で同一である。

 

ウ告白は、「第八章 仲保者キリストについて」の六節でキリストの贖いの歴史を記している。恵みの契約(キリストの救済史)は、原福音に始まり(創世記3:15)、「世の初めから屠られた小羊として啓示され、指示されたのである」。キリストは昨日も今日も、いつまでも変わらないお方である。 

 

ウェストミンスター信仰告白167        主の2021120                                                                 

聖書箇所:マタイによる福音書第281620(新約聖書P60)

 「第二十八章 洗礼について」の一節

洗礼は、イエス・キリストによって定められた新約の礼典であって、受洗者をおごそかに見える教会に加入させるためだけでなく、彼にとって、恵みの契約、キリストにつぎ木されること、再生、罪のゆるし、イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい命に歩くことのしるし、また証印となるためである。この礼典は、キリストご自身の指定によって、世の終わりまでキリストの教会のうちに継続されなければならない。

 

「第二十七章 礼典について」と「第二十八章洗 礼について」、「第二十九章 主の晩餐について」は、礼典の総論と各論の関係にある。ウ告白は礼典の全体について述べ、第二十八章で「洗礼について」の項目を述べ、第二十九章で「主の晩餐について」の項目を述べている。

 

今夜は、「第二十八章 洗礼について」の一節を学ぼう。ウ告白は、洗礼の定義を述べる。次に洗礼が見える教会への加入だけではなく、恵みの契約の中に入れられることのしるしであり、証印であると述べる。そして、この礼典は、キリストご自身の指定によって世の終わりまで継続されると述べている。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

洗礼はイエス・キリストによって定められた新約の礼典であって、その目的は受洗者を目に見える教会に厳粛に加入させることだけではない。それが受洗者にとって、恵みの契約、キリストに接木されること、再生、罪の赦し、イエス・キリストを通して神に身をささげて新しい命の中を歩くことなどの、しるし、また証印となるためである。この礼典は、キリスト自らの御命令によって、世の終わりまでキリストの教会において継続されねばならない。

   松谷好明訳

洗礼は、イエス・キリストによって定められた新約の一つの聖礼典で、受洗者を目に見える教会に厳粛に加入させるためのものであるだけでなく、また、受洗者に対し、恵みの契約・キリストへの彼の接ぎ木・再生・罪の赦し・新しい命の内に歩むためイエス・キリストを通して自分を神にささげることなどの、しるし、また証印となるためのものである。この礼典は、キリスト御自身の指示によって、世の終わりまで、キリストの教会において継続されなければならない。

   鈴木英昭訳

洗礼はイエスキリストによって制定された新約の礼典の一つであって、それによって受洗者は見える教会に厳粛に加えられる。洗礼はそれだけではなくさらに、恵みの契約、キリストに接ぎ木されること、再生、罪の赦し、イエス・キリストによって新しい生命に生きるために神に自己をささげること、のしるしまた証印である。この礼典は、キリスト御自身の定めによって、彼の教会のうちに世の終わりに至るまで、継続されねばならない。

 

ウ告白が「洗礼は、イエス・キリストによって定められた新約の礼典であって」と述べる聖書箇所は、マタイによる福音書第2819節である、復活の主イエス・キリストは、ガリラヤで11弟子たちと会われて、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(マタイ28:18)とお命じになった後、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」とお命じになった。洗礼は、主イエスの復活後、キリストのこの御命令により教会の基本的任務として、異邦人伝道と共に洗礼が果たすべき務めとなった。

 

新約の礼典」は、既に学んだように「旧約の礼典」に対してである。恵みの契約において割礼が恵みに契約に入れられる旧約の礼典である。それに対応するのが新約の礼典の一つ、洗礼である。

 

だから、ウ告白は続いて「受洗者をおごそかに見える教会に加入させるためだけでなく、彼にとって、恵みの契約、キリストにつぎ木されること、再生、罪のゆるし、イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい命に歩くことのしるし、また証印となるためである。」と述べているのである。

 

通常洗礼の説明は、こうである。「イエス・キリストを信じた者が、キリストの体である教会に加わるために、キリストに対する信仰を見える形で公に表明するために行う儀式である。」(『エッセンシャル聖書辞典』いのちのことば社)。ウ告白にとってこれは、洗礼の一面にすぎない。自らが主イエス・キリストへの信仰を表明して、洗礼の儀式によって厳かに教会の一員となる。そこで教会はその者の信仰だけを試問する。

 

ウ告白は、それだけでは洗礼の理解において不十分とする。受洗者は教会の加入と共に恵みの契約に入れられるのである。すなわち、キリストとの神秘的結合(キリストに接ぎ木されること)、「再生(聖霊によって受洗者に霊的な回心と新生の出来事が起こること)、「罪の赦し」、「イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい命に歩くこと」(恵みの契約は、受洗者に対して信仰と服従を義務として求める)。洗礼は、以上のように、恵みの契約のしるし、証印となるためのものなのである。

 

洗礼の形式は受洗者の教会への加入、教会員となることである。そしてその実質は、恵みの契約に入れられることである。キリストとの神秘的結合、再生、罪の赦し、聖化(信仰と服従)である。

 

それゆえに改革派教会は、受洗者に彼の信仰だけではなく、彼の生活をも試問する。そして「小会により承認された者は、信仰と服従の決意を公に告白し、その後に洗礼を授けられる」(『教会規程』第三部「礼拝指針」第61)

 

日本には昔から「卒業クリスチャン」と呼ばれるものがいる。信じて洗礼を受けて、教会員となる。すると、目的を達成したかのように、いつのまにか教会を離れるのである。主イエスを信じること、キリスト者になることが目的で、そこで終わってしまうのである。

 

洗礼は、恵みの契約の入口であり、キリスト者の生活、教会員の歩みの入口である。御国へ向けての地上の歩みの出発点である。キリストの死と復活の命にあずかり、キリストと共に生きる豊かさを味わおう。キリストと共に死に、キリスト共に生きている再生の喜びに生きよう。罪赦され、神と和解し、神の子として生きることに感謝しよう。今の暗き世に、われらの国籍は天にあるという希望に生きよう。

 

最後にウ告白は、「この礼典は、キリストご自身の指定によって、世の終わりまでキリストの教会のうちに継続されなければならない。」と述べている。この世への福音宣教が主イエス・キリストの御名によってこの世が終わるまで継続されるように、洗礼の礼典も継続されなければならない。

 

福音宣教と洗礼の礼典がこの世の終わりに至るまで継続されることは、常にわたしたちの身の回りの人々の救いの可能性を示唆している。だから、時が良くても悪くても、キリストの福音を伝えて行こう。 

 

ウェストミンスター信仰告白168        主の2021127                                                                 

聖書箇所:マタイによる福音書第281620(新約聖書P60)

 「第二十八章 洗礼について」の二-三節

この礼典において用いられるべき外的な品は、水であり、当事者はそれでもって、合法的にその職に召された福音の教役者によって、父と子と聖霊のみ名において洗礼を授けられなければならない(二節)

 

その人を水に浸すことは、必要ではない。だがその人に水を注ぎ、あるいは水をふりかけることによって、洗礼は正しく執行される(三節)

 

今夜は、「第二十八章 洗礼について」の二-三節を学ぼう。前回は、一節で洗礼の定義について学んだ。そしてウ告白は、今夜二節で、洗礼で用いられる外的な品と執行者を、三節で洗礼の正しい執行について教えている。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

この礼典において用いられるべき外的な品は水である。それでもって受洗者は、この務めに合法的に召された福音に仕える聖職者によって、父と子と聖霊の御名において、洗礼を授けられなければならない(二節)

 

受洗者を水の中に浸すことは必要でない。洗礼はその当人に水を注ぐか、振りかけることによって、正しく執行される(三節)

   松谷好明訳

この聖礼典において用いられる外的な品は水であり、それでもって受洗者は、その職に合法的に召された福音に仕える牧師により、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授けられなければならない(二節)

 

受洗者を水の中に浸すことは、必ずしも必要ではなく、洗礼は、受洗者に水を注ぐか、ふりかけることによって、正しく執行される。

   鈴木英昭訳

この礼典において用いられる外的な要素は水である。これをもって受洗者は、その職務に合法的に召された福音の奉仕者によって、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授けられなければならない(二節)

 

その人を水に浸すことは必要でない。洗礼はその人に水を注ぐか、水を振りかけることによって正しく執行される(三節)

 

改革派教会は、洗礼を契約のしるしと理解してきた。契約は、アブラハムと彼の霊的子孫に対してなされた神の恵みの約束である(創世記12:13,7,同15:121,同17:114)。神がアブラハムと彼の霊的子孫の神となり、父となるゆえに、彼と彼の霊的子孫は神の恵みにより信仰(信頼)と服従をもって神の御前に生きるようにされるのである。これが恵みの契約のである。そしてこの契約は主イエス・キリストによって新しい様式と豊かな意味が付与されたのである(マタイ28:19,同26:2628)。それが教会における洗礼と主の晩餐であり、仲保者主イエス・キリストの血によって証印された御自身の民(教会)に対する罪の赦しと永遠の命である。

 

以上の恵みの契約の理解の下で洗礼の執行について考え見よう。ウ告白が「父と子と聖霊のみ名において洗礼を授けられなければならない(マタイ28:19)と述べているように、父と子と聖霊の御名による洗礼(水を用いての洗い)である。それは受ける者に福音の約束を証印する(ウ告白28:6)。すなわち、キリストとの神秘的結合、再生、義とし、子とし、聖とし、御国を相続させる諸々の祝福の約束を証印する。

 

ウ告白は、聖書に基づいて洗礼について述べている。主イエスはユダヤの荒れ野のヨルダン川で洗礼者ヨハネから水で洗礼を授けられた(マタイ3:16)。これは、主イエス・キリストが罪を悔い改められたからではない。主イエスは、神の新しい契約の民を約束の神の御国に導き入れるために、洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けられたのである。それによって主イエスは父なる神から聖霊を受けられたのである(マタイ3:16)。こうして主イエス・キリストは、父なる神が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)と宣言されたとおりに、聖霊の御力により仲保者として神の民の御救いを成し遂げられたのである。

 

キリストの洗礼は、宗教改革者にとってキリスト者が受ける洗礼の型である。これに基づき、ウ告白も「この礼典において用いられるべき外的な品は、水であり」と述べているのである。

 

改革派教会は、礼典である洗礼と主の晩餐を契約のしるしと理解して来たのである。旧約聖書のレビ記では神殿の諸々の儀式はすべて按手を受けた祭司、アロンの子たちが執行した。特に水による洗いや血の注ぎを伴う儀式が洗礼の予型と見なされたのである。また、新約聖書の使徒言行録において使徒ペトロは、異邦人たちに福音を説教してから、彼らに洗礼を授けている(使徒言行録2)。その洗礼には、次の保証が伴っていたのである。イスラエルの神の民だけではなく、異邦人たちとその子らも新しい契約に入れる約束である(使徒言行録2:39)

 

聖書は按手を受けた祭司と使徒たちが洗礼の礼典の執行をしていると証言する。だから、ウ告白は、「合法的にその職に召された福音の教役者によって、父と子と聖霊のみ名において洗礼を授けられなければならない」と述べているのである。「合法的に」は、聖書の御言葉通りにという意味である。按手を受けて、福音を語る教役者が、主イエスの御命令に従って父と子と聖霊の御名によって洗礼を執行することが合法的なのである。

 

改革派教会の洗礼式は、次の四つのことを心に留めるべきである。第一に御言葉を伴う水の洗いである(エフェソ5:26)。主イエス・キリストが制定したこと、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けることが最重要である。式の中でキリストの制定語が読み上げられ、教会はキリストの御命令通りに洗礼を執行していることが明らかにされるのである。

 

洗礼は、ウ告白が三節で「その人を水に浸すことは、必要ではない。だがその人に水を注ぎ、あるいは水をふりかけることによって、洗礼は正しく執行される」と述べているように、三つの方法がある。水に浸すこと、水を注ぎかけること、水を滴らすことで、洗礼は執行される。

 

 

第二に祈りの重要性である。洗礼は通常礼拝において罪の告白の祈りで始められる。それから洗礼を執行する際にも、次の祈りがある。外的なしるしである洗礼が聖霊の内的な働きによって全うされることを願い求める祈りである。聖霊のお働きなしに、神秘的結合と再生はない。信仰と悔い改めもない。永遠の命の喜びもないのである。最後に洗礼式は洗礼者に祝福の宣言を持って終えられる。三と四は次回で学ぼう。

 

ウェストミンスター信仰告白169        主の202123                                                                 

聖書箇所:使徒言行録第8925(新約聖書P228)

 「第二十八章 洗礼について」の四-五節

実際にキリストへの信仰と服従を告白する人々だけでなく、信者たる両親または片親の幼児らも、洗礼を授けられなければならない(四節)

 

この規定を侮り、あるいはなおざりにすることは、大罪ではあるが、それなしにはだれも再生させられ、あるいは救われることができないとか、受洗者はみな疑いもなく再生されるといったように、恵みと救いがそれに不可分に付加されているのではない(五節)

 

今夜は、「第二十八章 洗礼について」の四-五節を学ぼう。前回は、二-三節で洗礼に用いられる品が水であり、誰が洗礼を執行するか、そして洗礼の正しい執行の仕方について学んだ。今夜は四節で誰に洗礼を授けるべきかを、五節で洗礼と再生は表裏一体ではない、すなわち、洗礼に恵みと救いが不可分に付与されないことを学ぼう。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

キリストに対する信仰と服従をじっさいに告白する人々だけではなく、両親もしくは片親が信仰者である幼児たちも洗礼を授けられなければならない(四節)

 

この洗礼という規定を軽蔑したりおろそかにすることは大きな罪であるが、それにもかかわらず、これを受けなければ誰も再生させられないとか、すくわれないとか、あるいは受洗者はすべてたしかに再生させられているというほど、恵みと救いが洗礼という規定に不可分に結びついているわけではない(五節)

   松谷好明訳

キリストに対する信仰と従順を実際に告白する者たちだけでなく、信仰を持つ、片方の親もしくは両親の、幼児たちも、洗礼を授けられるべきである(四節)

 

この規定[洗礼]を軽蔑したり無視することは大きな罪であるが、しかし、この規定にあずからなければ、だれも再生させられたり、救われることはできないとか、受洗者はすべて疑いもなく再生させられている、というほど、恵みと救いが、不可分にこの規定に結びつけられているわけではない(五節)

   鈴木英昭訳

キリストへの信仰と服従を現実に告白する人々だけではなく、片親または両親が信者である幼児たちも、洗礼を授けられなければならない(四節)

 

そこの洗礼という規定を侮りあるいは怠ることは大きな罪である。しかし、洗礼を受けなければ、人は再生されないとか、あるいは救われないというように、恵みと救いがこの規定と密接で不可分な関わりをもっているわけではない。また、洗礼を授けられた者がみな確実に再生されるわけでもない(五節)

 

ウ告白は、四節で、成人洗礼だけでなく、幼児洗礼の必要性を説いている。洗礼は、恵みの契約に入れられることである。アブラハムと彼の家族、そして彼の所有である僕たちが主なる神との恵みの契約に入れられた時、アブラハムと僕たちだけでなく、彼の子であるイサクとイシュマエルも割礼を授けられた(創世記17章、同244)

 

同様にキリスト教会は、キリストに対する信仰と服従を告白する者たちに、すなわち、恵みの契約に入れられる者たちに洗礼を授けるだけでなく、洗礼を授けられた片親、あるいは両親の子供たちにも洗礼を授けるのである。

 

「恵みの契約」は、神の恵みの約束のことである。主なる神はアブラハムと彼の霊的子孫に対して「わたしはあなたたちの神、父となり、あなたたちはわたしの民となる」と永遠の契約を結ばれたのである。すなわち、アブラハムと彼の霊的子孫は、神の恵みによリ信仰と服従をもって神の御前に生きることができるようにされる(これが再生である)という永遠の約束を与えられたのである。その目に見えるしるしが割礼である。

 

恵みの契約は、父なる神が神の民との間に立てられ、主イエス・キリストの血によって証印されたのである。こうして旧約の神の民と新約の教会(神の民)は一つとされた。キリストは御自身の全き服従と犠牲の死と復活によって旧約の約束を成就し、恵みの契約の仲保者となられたのである。

 

洗礼者(信者)とその子どもたちは、洗礼によってキリストと結ばれ、キリストとの体として、神の恵みにより信仰と服従をもって神に御前に生きる者とされているのである。

 

恵みに契約に入れられ、キリストに属する肢()として、キリストに結ばれた生きるしるしとしての洗礼を、侮り軽んじることは、大きな罪である。キリストの御命令に背いているからである(マタイ28:19)

 

しかし、再生は神の恵みであり、聖霊のお働きである。使徒パウロは、再生について、こう定義している。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」(テトス3:5)。救いは、神の主権的恵みの行為である。わたしたちの救いは、父なる神がキリストの十字架の贖いを聖霊のお働きによって実現してくださったのである。聖霊がわたしたちの心を再生し、キリストを信じる信仰をお与えくださり、キリストと共に生きることができるようにしてくださったのである。洗礼は、その目に見えるしるしである。

 

ウ告白は、五節で洗礼を侮ることは大きな罪であると主張する。しかし、カトリック教会ように洗礼を受けなければ救われないとは主張しない。なぜなら、救いは、聖霊の主権的なお働きだからである。聖霊は洗礼を用いないでも、わたしたちをお救いになれる。ウ告白は、使徒パウロが言うように、聖霊が恵みによってわたしたちを再生し、造り変えられ、救われたことを、洗礼がわたしたちの目に見えるしるしとして証印しているのである。

 

 

割礼を授けられたイシュマエルとエサウは恵みの契約から離れて行った。同様に洗礼を授けられても、教会から離れ、信仰から離れる者がいる。逆にヨブは神の民イスラエルの一員ではない。エサウの子孫である。しかし、主なる神の憐れみによって彼は、主なる神を信じ、犠牲をささげて来るべきキリストを待ち望んだのである。アラム人ナアマンは、主なる神の恵みにより捕虜のイスラエルの少女から預言者エリヤのことを聞いた。彼は自分の重い皮膚病を直してもらおうと、エリヤを訪れた。そしてヨルダン川で癒された時、彼は主なる神を信じたのである。彼らは割礼を授けられていなかっただろう。しかし、救われた。

ウェストミンスター信仰告白170        主の2021210                                                                 

聖書箇所:テトスへの手紙第317(新約聖書P397398)

 「第二十八章 洗礼について」の六-七節

 洗礼の効果は、洗礼が執行されるその時だけのものではない。けれども、この規定の正しい使用によって、約束されている恵みはただ提供されるだけではなく、神ご自身のみ旨の計画に従って神が定められた時に、老幼を問わずその恵みが属している者に、聖霊によって現実に表示され授けられるのである(六節)

 

洗礼の礼典は、だれに対しても、ただ一度だけ執行されるべきである(七節)

 

今夜は、「第二十八章 洗礼について」の六-七節を学ぼう。前回は、四-五節で誰に洗礼を授けるべきかを、また、洗礼に恵みと救いが不可分に付与されないことを学んだ。恵みの契約のしるしである洗礼は、信仰者だけではなく、彼の子たちにも授けられるべきである。また、洗礼を授けられない者が再生し救われることはあるし、授けられた者が再生せず、救われないこともある。

 

今夜は、六節では洗礼の効果が一時的ではなく永続的であると教え、洗礼の正しく使用によって、約束されている恵みを無償で得るだけではなく、神の永遠のみ旨の御計画を通して、その時が来れば、大人も子供も恵みの契約に属する者は、現実にその祝福に入れることを教えている。七節は、洗礼は誰に対してもただ一度の執行であることを教えている。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

洗礼の効果はそれが執行されるその時に結びついてはいない。しかしそれにもかかわらず、この規定が正しく用いられることによって、約束されている恵みはただ単に提供されるだけではなく、その恵みが属している人々に(老幼を問わず)、神御自身の意志の御計画に従って、神の定められた時に、聖霊によって現実に提示され、与えられるのである(六節)

 

洗礼の礼典は、誰に対しても、ただ一度だけ執行されるべきである(七節)

   松谷好明訳

洗礼の効果は、それが執行される時点に結びつけられている[その時点で直ぐに現れる]とは限らない。しかし、それにもかかわらず、この規定の正しい使用により約束されている恵みは、ただ単に提示されるだけでなく、その恵みが属している人々(成人、幼児を問わず)に対して、神御自身の御心の計らいに従い、神が定められたときに、聖霊によって、現実に提供され、与えられる(六節)

 

洗礼の聖礼典は、いかなる人に対しても、ただ一度だけ執行されるべきである(七節)

   鈴木英昭訳

洗礼の効果は、それが執行されたその瞬間に必ずしも現されない。しかし、この規定が正しく行使されると、約束された恵みが、その時に提供されるだけではなく、神御自身の御旨による計画にしたがい、神が定められた時に、(成人、幼児を問わず)その恵みを所有する人々に、聖霊によって現実に示され授けられる(六節)

 

洗礼の礼典は、だれに対しても、一度だけ執行されるべきである(七節)

 

今夜でウ告白の「第二十八章 洗礼について」の学びは終わる。ウ告白は、六節で洗礼の効果について次のことを教える。第一に洗礼の効果の現れと持続性である。第二にそれは正しく使用されることで、聖霊が父なる神の永遠の御旨の御計画に従い、神の定められた時に、恵みの契約に入れられた成人と幼児のすべてに聖霊が現実に提供し、与えてくださる。

 

ヨハネによる福音書第3章に主イエスとファリサイ派のニコデモとの有名な会話がある。ニコデモは過越の祭の間エルサレムでしるし(奇跡)をなさる主イエスを目撃し、多くのユダヤ人たちと同様に主イエスをメシアと信じた(ヨハネ2:23)。彼は、密かに主イエスのところを訪問し、主イエスと対話した。それが再生論争であった。主イエスは、彼に「人は、新たに生まれなければ、神の国を見る(永遠の命を得ること)ことはできない。」と言われた。しかし、ニコデモは主イエスの御言葉が理解できなかったのである。彼は人が生まれ変わることができるだろうかと思ったのである。主イエスは、聖霊による再生を語られたのである。聖霊は風のように思いのままにお働きになる(ヨハネ3:8)

 

ウ告白は、洗礼の効果は聖霊のお働きであると述べる。聖霊は、その場で瞬間的に効果を現されないかもしれない。そのように洗礼の効果は一時的なものではない。むしろ、ウ告白は、洗礼の効果を、それが正しく使用されるならば、神の永遠の御計画に従い、神が定められた時にキリスト者の全生涯を通して現実に現わされ、与えられると述べている。

 

使徒パウロは、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」と言っている(ガラテヤ3:27)。洗礼は恵みの契約に属する者がキリストに結合しているしるしである。父なる神は、永遠の御計画に従って、御自身が定められた時に、御子主イエスを世に遣わされました。そして恵みの契約に属する者たちのために、主イエスが十字架の贖いをなされたのである。その恵みを聖霊が適用してくださる。聖霊は、人の心を再生し、彼に主イエスを信じ、彼が主イエスに信頼する信仰を与えて、彼を義とし、神の子とし、永遠の御国の相続者としてくださったのである(テトス3:57)

 

使徒言行録は、第2章でペンテコステの出来事を記している。使徒ペトロの説教を聞き、三千人の人々が主イエスを信じて洗礼を受けました。彼らは、キリストに結びつけられ、罪を赦され、永遠の命を得ました。そして、彼らは、洗礼を受けた後に、キリスト者たちの仲間に加わり(使徒言行録2:41)、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と、使徒言行録は証言している(2:42)

 

このように洗礼の効果は、教会において現実に現わされているのである。礼拝における御言葉の宣教、キリスト者の相互の交わり、その中心である聖餐、そして祈りである。これらは、聖霊のお働きである恵みの外的手段である。

 

わたしたちは神の永遠の御計画に従って、神が定められた時に、全生涯を通して聖霊が用いられる外的手段によって神の恵みの契約の祝福を現実に与えられているのである。

 

 

ウ告白は、7節でアナ・バプテスト派の再洗礼を拒否するのである。洗礼の礼典は、だれに対しても、ただ一度執行するのみで良いのである。恵みの契約は、ただ一度であり、人は破っても、神は破られることはないからである。旧約の神の民たちは、神との恵みの契約を更新し、ただ一度割礼を授けられたのである。割礼の再執行は行なわれなかった。同様に再洗礼の執行は行われるべきではないのである。