ウェストミンスター信仰告白121    主の2020219

 

聖書箇所:創世記第12627節、同第21517(旧約聖書P23)

 

 

 

 「十九.神の律法について」の一節

 

神は、アダムにわざの契約として律法を与えられた。それによって神は、アダムとそのすべての子孫とに、人格的な、全き、厳密な、また恒久的な服従の義務を負わせ、それを果たせば命を与えることを約束し、破れは死を報いると威嚇し、それを守る力と能力を彼に授けられた。

 

 

 

今夜は、「十九.神の律法について」の一節を学ぼう。

 

 

 

これまで聖書について(一章)、神について(二-五章)、キリストについて(六-八章)、聖霊について(九‐十八章)学んで来た。聖書と三位一体の神とその御業について学んで来た。

 

 

 

今回から(十九‐二十四章)は、神の律法(キリスト教倫理)について学ぼう。十九章は「神の律法について」である。

 

 

 

宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革派教会の律法観は、第一に律法の三用法を強調する。第二にウ告白のように契約と律法を密接に関係させて考察する。聖書によれば神は人を創造された時に、彼を神の形に創造し(創世記1:2627)、彼の心に道徳律法を与えられた。さらに神は特別な摂理としてアダムとわざの契約を結ばれた。その時神はアダムに善悪を知る木の実を取って食べるなと禁じられ、死を罰則として与えられた。創造時に人の心に与えられた道徳律法は、アダムの堕落後も、人の心から消されることなく、神がアブラハムと恵みの契約を結ばれ、彼が信仰によって神に服従する基準とされた。さらにモーセの時代に神は道徳律法を文書化し、契約の民に十戒を与えられた。そしてキリストはそれを神への愛と隣人への愛と要約され、新しいイスラエルであるキリスト教会が服すべき愛の律法(キリストの律法)とされた。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

  村川満・袴田康裕訳

 

 神はアダムに、行いの契約として、律法をお与えになり、それによってアダムとそのすべての子孫に、個人的な、完全な、的確な、そして永続的な服従を義務づけ、それを果たした時には命を与えることを約束し、それを破った時には死をもって報いると威嚇し、また、それを守る力と能力をアダムに授けられた。

 

  松谷好明訳

 

 神はアダムに、行いの契約として、律法をお与えになり、この律法によって神は、アダムと彼のすべての子孫に、個人的、全面的、厳正で、かつ恒久的な従順を義務づけ、それ(律法)を果たすことに対しては命を約束し、それを破ることに対しては死をもって威嚇し、また、それを守る力と能力をアダムにお授けになった。

 

  鈴木英昭訳

 

 神は、アダムに業の契約としての律法を与えられた。それによって神は、アダムと彼のすべての子孫に、個人的で、完全で、厳格で、恒久的な服従を義務づけ、それを果たせば命を約束し、破れば死の報いの警告を与え、彼らにその律法を守る力と能力を授けられた。

 

 

 

 ウ告白は、創世記1章と2章を背景に、神がアダムとわざの契約を結ばれた時に、神はアダムと彼のすべての子孫に律法を与えられたと証言する(創世記1:26272:1517)。この証言は、ウ告白の第四章「創造について」の二節での次の証言と照らし合わせて理解すべきである。「神は、他のすべての被造物を作られたあとで、人間を男と女に、理性ある不死の霊魂をもち、ご自身のかたちに従って知識と義とまことのきよさとを賦与され、心の中にしるされた神の律法とそれを成就する力をもち、しかも変化しうる自分自身の意志の自由に委ねられて、違反する可能性のある者として創造された。彼らは、心にしるされたこの律法のほかに、善悪を知る木から食べるな、という命令を受けたが、これを守っている間は、神との交わりにおいてしあわせであり、もろもろの被造物を支配していた。

 

 

 

 業の契約(行いの契約)は、神の特別摂理としてアダムと彼のすべての子孫と結ばれた。そして神はアダムに「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました。このように神はアダムと彼のすべての子孫に「人格的な、全き、厳密な、また恒久的な服従の義務を負わせ」られた。「人格的な」はパーソナルである。他の訳のように「個人的な」が良いと思う。神は、アダムを人類の代表者とし、彼のすべての子孫とアダムのように個人的に業の契約を結ばれたのである。それは、完全、厳格、そして恒久的な服従をすべての人類に義務付け、違反すれば死という罰則があった。

 

 

ウェストミンスター信仰告白122    主の2020226

 

聖書箇所:申命記第5122(旧約聖書P289290)

 

 

 

 「十九.神の律法について」の二節

 

この律法は、アダムの堕落後も、続いて義の完全な規準であった。そのため、神によって、シナイ山で十誡として宣布され、二枚の板に書かれた。最初の四つの戒めは、神に対するわたしたちの義務を、他の六つの戒めは、人間に対するわたしたちの義務を含んでいる。

 

 

 

今夜は、「十九.神の律法について」の二節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「十九.神の律法について」の一節を学んだ。神は人間を神のかたちに造られた時、神は人の心に神の律法を刻まれた。また、神は特別な摂理によってアダムとわざの契約を結ばれた時、神はアダムに善悪を知る木の実を取って食べるなと禁じられ、守れば命を、違反すれば死を罰則として与えられたことを学んだ。このように神は人間に恒久的な義務を負わせるだけでなく、それを守る力と能力を授けられていたことも、ウ告白から学んだ。

 

 

 

今夜は、アダムの堕落後も、道徳律法が義の完全な規準であったこと、それが十誡として文書化されたこと、十誡は二枚の意志の板に書かれ、第一-四誡は、神に対するわたしたちの義務、第五-十誡は他の人間対するわたしたちの義務を教えていることを、ウ告白から学ぼう。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

  村川満・袴田康裕訳

 

 この律法は、アダムの堕落後も、義の完全な規範であり続けた。そしてそのようなものとして、神によってシナイ山で、十の戒めの形で、二枚の板に書かれて、与えられた。その四つの最初の戒めは神に対するわれわれの義務を内容としており、残りの六つは人間に対するわれわれの義務を内容としている。

 

  松谷好明訳

 

 この律法は、アダムの堕落後も、義の完全な規範であり続け、まさにそのようなものとして、神により、シナイ山の上で、十の戒めの形で与えられ、二枚の意志の板に記された。その初めの四つの戒めは、神に対するわたしたちの義務を、残りの六つは、人間に対するわたしたちの義務を含んでいる。

 

  鈴木英昭訳

 

 アダムの堕落後も、この律法は義の完全な規準であり続けた。それは、シナイ山で十戒の形で神より与えられ、二枚の石の板に書かれた。初めの四つの戒めは神に対するわたしたちの義務を、他の六つの戒めは人に対するわたしたちの義務を含んでいる。

 

 

 

 2節から4節で、ウ告白は旧約聖書の律法について述べる。2節は、神の道徳律法の基本的原理である十戒について、3節は儀式律法について、4節は司法律法についてである。

 

 

 

律法は、ヘブライ語のヤーラー(「投げる」「教えを示す」)に由来し、指示、教導を意味する。神の律法はモーセ、祭司、預言者、賢者、王のしもべを通して与えられた神からの具体的指示や教えを意味した。

 

 

 

宗教改革者カルヴァン以来、改革派神学は、神についての生来の認識(内的啓示・自然的啓示)と啓示に基づき救いへと至らせる認識(外的啓示・特別啓示)とを区別した。前者は良心、被造世界における神の自然(一般)啓示である。後者は夢、預言、奇跡等を通してなされた神の特別啓示である。それは、十戒の石の二枚の板のように文書化された。それが聖書である。

 

 

 

さて、ウ告白は、アダムの堕落後も道徳律法は義の完全な規準であり続けたと告白する。神はシナイ山でモーセを通して十の言葉(十戒)を与えられた。それは、神の道徳律法の基本的原理についての宣言である。ウ告白は、十戒を通して神は、神の民に彼らの義務を啓示し、二枚の石の板に記されたと述べる。

 

 

 

ウ告白は、2節で十戒にわたしたちの神に対する義務の内容が含まれていると述べる。二枚の石の板に最初の四つは、神に対するわたしたちの義務の内容を、残りの六つは、人間に対するわたしたちの義務の内容を含んでいる。

 

 

 

主イエスは神の律法を、神への愛と隣人への愛に要約された(マタイ22:3440)。神に対するわたしたちの義務は神礼拝によって神を愛することであり、人に対する義務は自分のように隣人を愛ることである。

 

ウェストミンスター信仰告白123    主の2020311

 

聖書箇所:ヘブライ人への手紙第9122(新約聖書P410411)

 

 

 

 「十九.神の律法について」の三節

 

普通に道徳律法と呼ばれるこの律法のほかに、神は、未成年の教会としてのイスラエルの民に対して、儀式律法を与えることをよしとされた。これは、いくつかの予表的規程を含み、一方において、礼拝についてはキリストとその恵み・行為・苦難・祝福を予表し、また他方において、道徳的義務についての種々な教えを提示している。この儀式律法はみな、今の新約のもとでは廃棄されている。

 

 

 

今夜は、「十九.神の律法について」の三節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「十九.神の律法について」の二節を学んだ。アダムの堕落後も義の規準は道徳律法であったこと、道徳律法は十誡として石の板二枚に記され、文書化されたこと、十誡は神への義務(14)、他の人間に対する義務(510)を教えていることを学んだ。

 

 

 

今夜は、聖書が道徳律法の他に儀式律法について教えていることを、ウ告白から学ぼう。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

  村川満・袴田康裕訳

 

 一般に道徳律法と呼ばれるこの律法の他に、神は未成年の教会としてのイスラエルの民に、儀式律法を与えることをよしとされた。これはさまざまな予型的規定を内容としているが、それらの規定の一部は、キリストとその恵みの賜物・その行為・苦難・利益をあらかじめ表す礼拝の規定であり、また一部は、道徳的義務についてのさまざまの教えを提示するものであった。これらの儀式律法はすべて、今、新約の下では廃止されている。

 

  松谷好明訳

 

 一般に道徳律法と呼ばれるこの律法のほかに、神は、未成年の教会としてのイスラエルの民に、さまざまな儀式律法を与えることをよしとされた。この儀式律法は、予型となるいろいろな規定を含んでいたが、これらの規定のあるものは、キリストと、彼の恵みの賜物・行為・苦難・益をあらかじめ表す礼拝に関するものであり、また他のあるものは、道徳的義務についてのさまざまな教えを提示するものだった。これらの儀式律法はすべて、新約の下では、今は廃棄されている。

 

  鈴木英昭訳

 

 普通に道徳律法と呼ばれるこの律法のほかに、神は、未成熟の教会としてのイスラエルの民に、儀式律法を与えることをよしとされた。それには、予型的ないくつかの規定があり、礼拝に関しては、キリストと彼の恵み、行為、苦難、恩恵を予表し、他には道徳的義務に関する種々の教えの提示がある。

 

 これらの儀式律法はすべて、今の新しい契約のもとでは廃棄されている。

 

 

 

 ウ告白は、3節で旧約聖書の神の律法について、すなわち、儀式律法について教えている。

 

 

 

ウ告白は、旧約の神の民イスラエルを、「未成年の教会としてのイスラエルの民(委員会、村川・袴田、松谷訳)、「未成熟の教会としてのイスラエルの民(鈴木訳)と呼ぶ。その背景に古い契約の下での礼拝(教会)と新しい契約の下での礼拝(教会)という理解がある(ヘブライ人への手紙9)。旧約での幕屋(神殿)は聖所と至聖所に分かたれ、神の民が直接神に近づく道は開かれず、新約の下でキリストが来られて、初めて開かれたのである。だから、キリストが十字架で死なれた時に、神殿の聖所と至聖所を隔てる幕が裂けたのである(マルコ15:38)

 

 

 

古い契約、すなわち、モーセ五書(創世・出エジプト・レビ・民数・申命記)に記されている種々の規定を、儀式律法と呼んでいる。礼拝を行う場所は、古い契約の下では幕屋(神殿)である。一時的で、過ぎ去るものである。

 

 

 

古い契約の下で神の民イスラエルは幕屋(神殿)を中心に礼拝をし、過越・ペンテコステ・仮庵の祭を祝った。この古い契約の礼拝の目的は神の民の罪の除去である。幕屋(神殿)における礼拝と種々の規定を通して、神は神の民イスラエルにキリストの犠牲を予型(予表)された。

 

 

 

大祭司キリストは来られた。御自身の血を携えて、至聖所に入られ、神の民の罪を贖った。だから、キリストの予表(予型)は必要なくなり、旧約(古い契約)の儀式律法はすべて、新約(新しい契約)においては廃棄されたのである。

 

ウェストミンスター信仰告白124    主の2020311

 

聖書箇所:出エジプト記第21117(旧約聖書P127128)

 

 

 

 「十九.神の律法について」の四節

 

一政治体としての彼らに対してもまた、神は多くの司法的律法を与えられた。これは、その民の国家と共に終わり、その一般的原則適用が求める以上には、今はどのような事を義務付けていない。 

 

 

 

今夜は、「十九.神の律法について」の四節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「十九.神の律法について」の三節を学んだ。神は「未成年の教会としてのイスラエルの民に」儀式律法を与えられた。礼拝における儀式律法は、キリストの予型であり、また道徳的義務について、すなわち、罪や汚れを除去し、離れることについて教えていた。しかし、キリストが来られ、罪を贖われたので、キリストの予型としての儀式律法と罪と汚れについての道徳的義務は必要でなくなり、廃棄された。

 

 

 

今夜は、司法律法について学ぼう。紛争を解決するために法を適用して行う民事と刑事の裁きである。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

  村川満・袴田康裕訳

 

 政治的統一体としてのイスラエルの民に、神はまた、さまざまの司法的律法を与えられたが、それらは、その民の国家とともに無効となった。そこで、それらは今、そこに含まれている一般的公正さが要求する以上のことを他のいかなる民にも義務づけることはない。

 

  松谷好明訳

 

 神はまた、政治的統一体としてのイスラエルの民に、種々の司法律法を与えられた。しかしこれらは、その民の国家と共に失効したから、今では、その一般的公正さが求めうる以上のことを、他のいかなる人にも義務づけることはない。

 

  鈴木英昭訳

 

 一つの政治をもつ国としてのイスラエルの民に、神はまた、さまざまな司法律法を与えられた。しかし、それらはその民の国家と共に終わり、今では、それら律法がもつ公平と正義の原則が要求する以上には、人に義務づけることはない。

 

 

 

 ウ告白は、4節で旧約聖書の神の律法について、すなわち、司法律法について教えている。神は神の民イスラエルの訴訟を解決するために多くの司法律法を与えられたのである。「義務」は法律が強制する行為である。

 

 

 

ウ告白は、儀式律法と同様に司法的律法は道徳律法とは違って永遠不変なものではなく、旧約時代における民族的で、一時代のものであると述べている。

 

 

 

だから、ウ告白は「その民の国家と共に終わり」と述べる。国家が終わると、司法律法も終わる。モーセの時代以後の神の民イスラエルの共同体からサウル・ダビデ王以後の王制の国家、そして捕囚後のペルシア帝国とローマ帝国の支配、さらに中世と近世の国家、そして現代の国家と変遷するごとに、司法律法も古きものから新しきものに替わったのである。

 

 

 

しかし、ウ告白は、「その一般的原則適用が求める以上には、今はどのような事を義務付けていない。」と述べる。「一般的原則適用」とは、「一般的公正さが要求する」ことである(村川・袴田訳、松谷訳)。鈴木訳は、司法律法が持つ「公平と正義の原則が要求する」ことと訳している。

 

 

 

例えば、旧約聖書の出エジプト記21章に奴隷について、刑法(死に値する罪)について、傷害について、隣人の財産の償いについて、盗みと償いについて、司法律法の記載がある。旧約の時代のモーセの時代には、その司法律法通りに執行したであろう。しかし、今日では、国家に奴隷制はないし、すべての償いは「公平と正義の原則」に従って、金銭で身体の障碍、財産の損傷を償っている。金銭で償えない場合は、その障碍や損害に応じて刑に服することになる。

 

 

 

特に宗教改革以後の国家は、教会を擁護し、キリスト教に敵対する者たちを罰するために、国家は剣の権能を用いた。しかし、現在の国家は民主的政治形態を取り、少数者の人権が擁護され、宗教的寛容の時代である。司法律法は、正義と公正、平等の原則から国民の基本的人権を擁護している。特に戦後日本国民は、納税と教育を義務づけられている。

 

ウェストミンスター信仰告白125    主の2020325

 

聖書箇所:マタイによる福音書第51720(新約聖書P7)

 

 

 

 「十九.神の律法について」の五節

 

道徳律法は、義と認められた者にも他の人にもすべての者に、永久に、それへの服従を義務付けている。そのことは、そのうちに含まれている事柄のゆえだけでなく、それを与えられた創造者である神の権威のゆえにもそうである。キリストは福音において、この義務をいささかも廃棄せず、それを大いに強化しておられる。 

 

 

 

今夜は、「十九.神の律法について」の五節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「十九.神の律法について」の四節を学んだ。次のことを学んだ。旧約聖書には、道徳律法、儀式律法、司法律法がある、道徳律法は義の基準であり、永遠で不変の律法であり、儀式律法と司法律法は民族的、一時的な律法である、司法律法は国家が終われば、司法律法も終わる、司法律法は、紛争を解決するために法を適用して行う民事と刑事の裁きを執行する法である。

 

 

 

今夜は、道徳律法がすべての人に創造者なる神の権威のゆえに義務付けられており、キリストは福音においてこの義務を大いに強化されていることを学ぼう。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

  村川満・袴田康裕訳

 

 道徳律法は、義とされた者も他の者も同様に、すべての人々に、それに服従することを、じっさい永久に義務づけている。そしてそれは、その律法に含まれている内容のゆえばかりでなく、それをお与えになった創造者なる神の権威のゆえである。じっさいキリストもまた、福音においてこの義務を決して解消せず、むしろ大いに強化しておられるのである。

 

  松谷好明訳

 

 道徳律法は、義とされた人々もそうでない人々も、すべての人々に、それへの従順を、いつの時代も義務づける。それは、単に道徳律法に含まれている内容のゆえばかりでなく、その律法をお与えになった創造者なる神の権威のゆえである。また、キリストは福音において、この義務を少しも解消なさらず、かえって、大いに強化しておられる。

 

  鈴木英昭訳

 

 義と認められた者も、そうでない者も、すべての者は永遠に道徳律法に服従する義務がある。それは、その律法の内容のゆえだけでなく、それを与えられた創造者である神の権威のゆえである。福音において、キリストはこの義務を破棄なさらず、大いにこれを強化なさる。

 

 

 

 ウ告白は、5節で道徳律法が人類に普遍的に義務付けられたものであり、その根拠は創造者なる神の権威にその根拠があり、キリストは福音において道徳律法を廃棄しないで、むしろ大いに強化されていると告白している。

 

 

 

 道徳律法は、キリスト者もそうでない者も、ひとりの例外者なく、永遠、不変に人類すべてに義務付けられている。

 

 

 

 ウ告白が指摘することは、こうである。道徳律法は神が人間を御自身のかたちに創造されて以来、キリスト者とそうでない者の区別なく、全人類に歴史と民族を超えて普遍的に人間を拘束し、義務付ける神の御意志である。

 

 

 

 人間は創造者なる神に神のかたちに造られ、道徳律法を心に刻まれているのである(創世記1:27)

 

 

 

創造者である神の権威」とは、御自身が造られた人間を服従させる力である。創造者である神は、アダムに道徳律法を与えられ、義務付けられた。しかし、それは奴隷的服従ではなかった。むしろ、彼の自由意志に委ねられた(創世記2:1617)

 

 

 

キリストは、福音において道徳律法を廃棄せずに、積極的にキリスト者が守るように大いに励まされた(マタイ5:1720)。守るために助け主である聖霊を賜った。キリスト者は聖霊に助けられ、善き業として大いに道徳律法を守るように励むのである。義の基準であり、永遠の命の保証である道徳律法は、永遠にわたしたちが守るならば、永遠の命の祝福である。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白126    主の202041

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第7781(新約聖書P282283)

 

 

 

 「十九.神の律法について」の六節

 

まことの信者は、わざの契約としての律法の下におらず、それによって義と認められたり罪に定められたりはしないが、それでも律法は、彼らにも他の人々にも同様に、きわめて有用である。すなわち、生活の規準として、神のみ旨と自分の義務を知らせて、ふさわしく歩くように彼らを導き、束縛し、また彼らの性質・心・生活の罪深い汚れをあらわに示し、彼らはそれによって自分を検討して罪をさらに認め、罪のために謙そんになり、それを憎むようになる。それと共に、キリストとその完全な服従についての自分の必要を一層明白に悟るようになる。律法は、また同様に、再生した者にとって、罪を禁じている点で彼らの腐敗を制御するのに有用である。またその威嚇は、彼らが律法に威嚇されているのろいから解放されているとはいえ、彼らの罪でさえも何に価するか、また罪のためにこの世でどんな災いを期待すべきか、を示すのに役立つ。同様に律法の諸約束は、服従に対する神の是認と、それを果たした場合、わざの契約としての律法によって彼らに当然のこととしてではないが、どのような祝福が期待できるか、を示す。それで、人が善を行い悪をやめることは、律法が一方を奨励し他方をとめているゆえ、彼らが律法の下にあって恵みの下にいないということの証拠にならない。

 

 

 

今夜は、「十九.神の律法について」の六節を学ぼう。前回は、「十九.神の律法について」の五節を学んだ。道徳律法がすべての人に普遍的に義務付けられ、その権威の根拠が創造者なる神であることを学んだ。創造者なる神は、人の心に道徳律法を刻まれた。そして彼らの自由意志に委ねられた。

 

 

 

今夜は、「まことの信者」、すなわち再生した者が業の契約としての律法の下にはいないけれど、道徳律法が再生した者にも有用であることを学ぼう。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 真の信仰者たちは、行いの契約として、律法の下にあるのではなく、従ってそれによって義とされ、あるいは罪に定められることはないが、それでも、彼らにとって律法は、他の人々にとってと同様に、非常に有用である。というのは、律法は、彼らに神の意志と自分の義務を知らせる生活の規範として、それに一致した歩みをするように彼らを導き、義務づける。また、律法は彼らの本性と心と生活の罪深い汚れを暴露する。そのようにして、彼らはそれによって自らを吟味して、罪を一層確信し、罪のためにへりくだり、罪を憎むようになり、同時にキリストが自分にどれほど必要であり、キリストの服従がどんなに完全であるかということを一層はっきりと悟るようになるからである。律法はまた再生している者にとっても、罪を禁止することによって、彼らの腐敗を抑制するのに有用である。そして律法の与えている威嚇は、彼らの罪でさえも何に値するか、また、彼らは律法において威嚇されているそれの呪いから解放されているとはいえ、その罪のためにこの世でどんな苦難を受けていることになるか、を示す働きをする。律法の与えている諸約束は、同様にして、彼らに、神が服従をよしとしてくださること、また律法を実行した場合どのような祝福を受けることになるかを示している。もっとも、その祝福は、行いの契約としての律法によって彼らに当然与えられるべきものだというわけではないが、それゆえ、律法が善を勧め、悪をとどめているということから、人が善を行い、悪を行わないのは、彼が律法の下にあるということ、そして恵みの下にないということの、証拠には決してならないのである。

 

   松谷好明訳

 

 真の信者たちは、行いの契約としての律法の下にはなく、従って、それによって義とされたり、罪に定められたりすることはないが、しかし律法は、他の人々にとってばかりでなく、真の信者にとっても、非常に有益である。なぜなら、[第一に]律法は、神の御心と彼らの義務を彼らに教える生活の規範として、彼らを導き、その教えに従って歩むよう義務づけるからであり、また[第二に]律法は、彼らの本性・心・生活が、罪に汚れているありさまを露わにし、そのため、それによって彼らが自分を吟味するとき、一層罪を確信し、その罪のゆえにへりくだり、罪を憎むようになるからであり、それと共に[第三に]彼らが、キリストをどれ程必要としているかと、キリストの従順の完全性とを、一層明瞭に見て取るようになるからである。同様に、律法は再生している人々にとって、罪を禁じているので、彼らの腐敗を抑制するのに有益である。そして、律法が与える威嚇は、彼らの罪でさえも何に値するか、また、彼らが、律法において威嚇されている律法の呪いからは解放されているが、罪のゆえにこの世においていかなる災いを予期できるか、を示すのに役立つ。律法が与える約束は、同様にして、再生している人々に、神が従順を是認してくださること、また、律法を果たすときどのような祝福が予期できるかを示す。もっとも、それらの祝福は、行いの契約としての律法によって彼らに当然のものとして与えられるのではない。従って、ある人が、律法が善を奨励し悪を思いとどまらせるという理由で善を行い悪から遠ざかることは、その人が律法の下にあって恵みの下にはいない、という証拠ではない。

 

   鈴木英昭訳

 

 まことの信仰者たちは、業の契約としての律法のもとにいないので、律法によって義と認められたり、罪に定められたりすることはない。しかし、律法は信仰者にとっても、他の者にとっても、大いに有用である。すなわち、生活の規準として、律法は彼らに神の御心と彼らの義務を知らせ、それに基づいて歩むように彼らを導き拘束し、彼らの本性や心や生活の罪深い汚れをあらわにする。彼らはそれによって、自分を吟味し、罪をいっそう認識し、罪のゆえに謙遜になり、罪をいっそう憎むようになる。それと共に、キリストの必要と、その完全な服従とをいっそう明らかに理解するようになる。律法はまた、再生した者には、罪の禁止により、彼らの堕落を抑制するのに有用である。また、律法による威嚇は、彼らの罪が何に値するかを示す。そして、彼らは律法がもたらす呪いから解放されているが、この世でどんな苦悩が予期されるかを示すのに役立つ。律法のもつもろもろの祝福は、業の契約としての律法の場合には当然とされるようなものとは違うが、従順に対する神の承認と律法を果たすときに期待される祝福とを、彼らに示している。それで、律法は善を奨励し、悪を引き止めるので、人が善を行い、悪を抑制するという事実は、人が律法のもとにあって恵みのもとにないという証拠にはならない。

 

 

 

 六節を詳しく解説できない。真の信者(聖霊によって再生した者)は、業の契約の下にいない。道徳律法は、真の信者の生活の規準である。神についての信仰と義務を教える。道徳律法は、信者の本性・心・生活の罪を露わにする。またキリストの必要とキリストの完全な従順の必要を一層明白にする。道徳律法は再生者に罪を禁じるゆえに、悪への抑制となる。再生者は罪と神の呪いから解放されているが、道徳律法は人の罪がこの世に、人々にどんな災いをもたらすかを予期させる。また、道徳律法には諸々の神の祝福があるが、業の契約としての道徳律法とは異なる。再生者も善を行い、悪を抑制するが、神の恵みによって善き業を行うので、業の契約の下にはいない。

 

 

 

 コロナ・ウィールスの災禍。これは、律法による威嚇ではないか。人類の罪と神への傲慢が全世界に罪が何に値し、全世界がどんな苦悩を予期すべきかを、まさに神は道徳律法で示されている。

 

 

ウェストミンスター信仰告白127    主の202048

 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第32125(新約聖書P346)

 

 

 

 「十九.神の律法について」の七節

 

上に述べた律法の用途は、福音の恵みに反対せず、かえって、見事にそれにかなっている。すなわちキリストのみたまは、律法に啓示された神のみ旨が行なうように求めていることを、自由に喜んでなすように、人間の意志を従わせ、またそれをなす力を与えられる。

 

 

 

今夜は、「十九.神の律法について」の七節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「十九.神の律法について」の六節を学んだ。真の信者(聖霊によって再生した者)は、業の契約としての神の律法の下にいないことを学んだ。真の信者にとって神の律法は、彼の生活の規準であり、彼の罪を露わにし、キリストとキリストの従順の必要性を明白にし、神の律法が彼に罪を禁じるので、罪の抑制となり、神の律法は人の罪がこの世に、人々にどんな災いをもたらすかを予期させることを学んだのである。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 また、前述の律法の諸用法は、福音の恵みに反するものではなく、それと見事に一致している。キリストの御霊が人間の意志を従わせて、律法において啓示されている神の意志が要求することを、自由にそして喜んでなすことを可能にしてくださるのである。

 

   松谷好明訳

 

 以上に挙げた律法の用法はいずれも、福音の恵みと相容れないものではなく、かえってそれに見事に一致している。なぜなら、律法の中に啓示された神の御心が行なうように求めていることを、自由に、喜んで、行うよう人間の意志を従わせ、そうできるように、キリストの霊が、してくださるのだからである。

 

   鈴木英昭訳

 

 律法のこれらのもろもろの効用は、福音の恵みに反することなく、むしろ全く調和している。なぜなら、律法に啓示された神の御心が人に行うように求めていることを、人が自由に喜んで行うよう、人の意志を従わせ、また行うことを可能になさるのは、キリストの御霊だからである。

 

 

 

 ウ告白は、六節と七節で、律法の用法について述べている。神の律法は、万民共通の用途があり、真の信者と未信者の別途の用途がある。共通の用途は、第一に生活の規準として、万民を導き、束縛する。第二に万民に罪を自覚させ、キリストと彼の救いの御業の必要性を明白にする。第三に神の律法の威嚇である。万民の罪と傲慢さが彼らにどんな災いをもたらすかを予期させるのである。

 

 

 

 ウ告白は、七節で、キリスト者が神の律法を熱心に守ることは、「福音の恵みに反対せず、かえって、見事にそれにかなっている」と述べている。その理由は、第一に神の律法が「啓示された神のみ旨」であり、聖霊はキリスト者に神の啓示された御旨である道徳律法を行うように求められ、実際にキリスト者に善き業として、喜んで神の律法を行うように、キリスト者の意志を促されるのである。

 

ウェストミンスター信仰告白128    主の2020415

 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第3113(新約聖書P345346)

 

 「第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について」の一節

 

キリストが福音の下にある信者のために買い取られた自由は、罪責・神の断罪的なみ怒り・道徳律法ののろいからの自由と、今の悪い世・サタンへの隷属・罪の支配から、またかん難の害悪・死のとげ・墓の勝利・永遠の刑罰からの彼らの解放と、彼らの自由な神への接近、奴隷的恐れからでなく子のような愛と自発的精神から神に服従をささげることにある。これらはすべて、律法の下にある信者にも共通であった。しかし、新約の下では、キリスト者の自由は、ユダヤ人教会が服していた儀式律法のくびきからの自由において、恵みのみ座に一層大胆に近付くことにおいて、また神の自由のみたまを、律法の下にある信者が普通にあずかったよりも豊かに与えられることにおいて、更に拡大されている。

 

 

 

今夜は、「第二十章.キリスト者の自由および良心の自由について」の一節を学ぼう。

 

 

 

前回まで、「第十九章.神の律法について」の17節を学んだ。今夜からは「第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について」を学ぼう。一節は、キリスト者の自由とは何から成っており、旧約の神の民よりも新約のキリスト者の方がさらに自由が拡大されていることを教えている。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 キリストが福音の下にある信仰者たちのために獲得してくださった自由とは、彼らが罪責と、神の断罪的怒りと、道徳律法の呪いとから解放されていること、そして、彼らがこの今の悪しき世と、サタンへの隷属と罪の支配とから、また、さまざまの苦難の害悪と、死の棘と、墓の勝利と、永遠の断罪とから救い出されていること、さらにまた、彼らが自由に神に近づいて、奴隷的な恐れからではなく、子どもらしい愛と自発的な心から、神に服従をささげることができることにある。これらはすべて、律法の下にあった信仰者たちにも共通であった。しかし、新約の下では、キリスト者の自由はさらに拡大されている。すなわち、彼らはユダヤ人の教会がその下に置かれていた儀式律法のくびきから解放されていること、そして律法の下にあった信仰者たちが通常できたよりもずっと大胆に恵みの御座に近づくことができ、神の自由の御霊にもっと豊かにあずかることができるという点においてである。

 

   松谷好明訳

 

 キリストが、福音の下にある信者たちのために買い取っておられる自由は、[第一に]罪責・罪に定める神の怒り・道徳律法の呪い、から自由と、[第二に]彼らが、今のこの悪の世・サタンへの隷属・罪の支配から、またさまざまな災いという悪・死のとげ・墓の勝利・永遠の裁きから、救い出されること、更に[第三に]彼らが自由に神に近づくこと、および、彼らが奴隷的な恐怖心からではなく、子どもらしい愛と自発的な考えから、神に従順に従うこと、から成る。これらはみな、律法の下にあった信者たちにも共通であった。しかし、新約の下で、キリスト者の自由は、[第一に]ユダヤ教会が服していた儀式律法のくびきから彼らが自由であること、[第二に]恵みの御座に一層大胆に近づくことができること、[第三に]律法の下にあった信者たちが通常あずかっていたよりも、神の自由の霊を一層豊かに分かち与えられていること、などの点で、更に拡大されている。

 

   鈴木英昭訳

 

 キリストが、福音時代のもとにある信仰者たちのために、買い取られた自由とは、罪責、断罪する神の怒り、および道徳律法の呪いからの自由である。これは、現在の悪い世、サタンへの隷属、および罪の支配から彼らが解放されること、艱難のもつ害悪、死の棘、墓の勝利、および永遠の刑罰から、彼らが解放されること、そして彼らが神に自由に近づくことと、奴隷的な恐怖からではなく、子のような愛と自発的な思いから神に服従することから成っている。

 

 これらはすべて、律法時代のもとにあった信仰者たちにも共通であった。しかし、新約時代には、キリスト者の自由はさらに拡大され、ユダヤ的教会が服してきた儀式律法のくびきから自由になり、律法時代のもとにあった信仰者たちが通常あずかっていたものよりも、よりいっそう大胆に恵みの御座に近づき、よりいっそう豊かに神の自由な御霊の賜物をもっている。

 

 

 

 ウ告白の「キリスト者の自由」は、キリストの十字架の贖いの恵みに依拠するものである。ウ告白は、キリスト者の自由を、キリストが福音(福音宣教)の下にある信仰者たちのために「買い取られた自由」であると定義する。

 

 

 

 キリスト者の自由は次の3つから成っている。すなわち、松谷訳が分類するように、第一に罪責・罪に定める神の怒り・道徳律法の呪いからの自由。第二に今のこの悪の世・サタンへの隷属・罪の支配から自由、すなわち、この世の苦難と害悪、死の棘、墓の勝利、永遠の断罪から解放されることである。第三に自由に神に近づくことである。キリスト者は神を恐れて服従するのではない。聖霊によって神を「アバ、父よ」と呼びかけ、子どもらしい愛と自発的な心から進んで神に服従するのである。

 

 

 

 ウ告白は、この3つの自由が福音時代のキリスト者たちだけでなく、旧約時代の神の民たちも共通であったと告白する。

 

 

 

 しかし、ウ告白は、以下の三点で、ユダヤ教会、すなわち、旧約の神の民たちより、新約のキリスト者たちの方がさらに自由が拡大していると告白している。第一にキリスト者たちは、キリストの十字架の贖いによって儀式律法から解放され、自由にされた。第二に恵みに御座に大胆に近づくことができる。旧約時代は、神殿の聖所に入れるのは祭司だけであった。大祭司だけが年に一度至聖所に入ることが許された。キリスト者たちは万人祭司である。聖所と至聖所を隔てる垂れ幕は裂かれ、だれもがキリストの臨在に自由に近づくことを許されている。第三に旧約の神の民たちが与るよりももっと豊かに聖霊の賜物に与り、自由に神を礼拝し、神に奉仕することができる。

 

 

 

 宗教改革者ルターは、『キリスト者の自由』を書いている。彼は、「キリスト者は何ものにも従属しない主人である」と述べ、「キリスト者はすべてのものに従属する仕える僕である」と述べている。この対立する命題を解説した本である。彼は、こう述べている。キリスト者の生は信仰によって義とされ、律法の行いから自由である。同時に信仰から自発的に出る愛の行為も自由であると。

 

 

 

 信仰によって義とされたキリスト者は、罪の奴隷状態と律法の呪いから自由にされ、新しい服従の道を歩んでいる。この服従の生活は、聖霊による正しい導きであり、神の律法はキリスト者を罪に定める役割ではなく、永遠の命へと至らせる役割である。キリストにあって、福音宣教を通して、キリスト者の自由は、彼を神に仕えさせ、信仰告白させ、安息日を正しく守らせるのである。

 

ウェストミンスター信仰告白129    主の2020422

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第141323(新約聖書P294295)

 

 「第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について」の二節

 

神のみが良心の主であり、神は、何事においてもみ言葉に反し、あるいは、信仰と礼拝の事柄においてであれば、み言葉の外にあるところの、人間の教えと戒めから良心を自由にされた。それで、良心を離れてこのような教えを信じまたは戒めに服従することは、良心の真の自由を裏切ることである。また盲従的信仰や絶対的・盲目的服従を要求することは、良心の自由と理性とを破壊することである。

 

 

 

今夜は、「第二十章.キリスト者の自由および良心の自由について」の二節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について」の一節を学んだ。キリスト者の自由が3つの自由から成り立っていること、旧約時代の神の民よりも新約時代のキリスト者の方が、自由が拡大されえいることを学んだ。今夜は、良心の自由について学ぼう。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 ただ神のみが良心の主であって、神は、何事においてであれ、その御言葉に反するような、また、信仰や礼拝に関わる事柄であれば、御言葉に付加されるような、人間の教説と戒めから、良心を自由にされた。それゆえ、良心に従って、そのような教説を信じたり、そのような戒めに従うことは、真の良心の自由に背くものである。そして黙従的信仰や、理解を伴わない絶対的服従を要求することは良心の自由とさらには理性の自由をも破壊するものである。

 

   松谷好明訳

 

 神のみが良心の主であり、神は、いかなることにおいても、その御言葉に反する、また、信仰や礼拝にかかわる事柄の場合には、その御言葉にない、そのような人間の教説と戒めから、良心を自由にされた。従って、良心のゆえにそのような教説を信じたり、そのような戒めに従うことは、良心の真の自由に背くことである。また、理解抜きの信仰や絶対的で無批判的な従順を要求することは、良心の自由と、更には理性をも破壊することである。

 

   鈴木英昭訳

 

神のみが良心の主である。神は何事であれ御言葉に反することから、あるいは、信仰と礼拝の事柄に関して、御言葉に人間が追加する教理と命令から、良心を自由にしてくださった。

 

そのため、良心を離れてこうした教理を信じたり命令に従うことは、良心のまことの自由を裏切ることである。また鵜呑みにする信仰や絶対的で盲目的な服従の要求は、良心の自由と理性とを破壊する。

 

 

 

 キリスト者の良心は、「キリストにある神の無償の贖いに対する信仰を通してのみ可能となる」(『リフォームド神学事典』いのちのことば社 P410)ものである。キリスト者はキリストの十字架によって神に贖われた者、神の所有である。パウロは自分をキリストの奴隷であると言っている(ローマ1:1)

 

 

 

 それゆえにウ告白は、「神のみが良心の主であり」と告白する。カルヴァンは、この良心についてキリスト教綱要の中で次のように定義している。「人は神の審判をいわば証人付きのものと意識する。それは己れの罪を隠したままにしておくことを許さず、被告人を法廷に引き出す者で、この証人付きの神の審判の意識が良心と呼ばれる」と(キリスト教綱要31915)。カルヴァンに従えば、良心は、神と人との媒介物である。人は己れの知ることを隠して置けません。良心は彼の罪を攻め立て、彼の罪責を認めさせるものである。

 

 

 

 ルターの良心の定義も同じであるが、ルターはキリスト者の罪責よりも服従に力点がある。彼自身がヴォルムスの国会(15214)でローマカトリック教会の審問官から彼の宗教改革著作の撤回を求められた時に、次のように弁明したのは有名な話である。「わたしは聖書の証明、または明白な論拠によって心服させられない限り―法王と教会会議とは、今までしばしば誤りを犯しているので信頼いたしません―また聖書から正当なる理由を示されない限り、わたしは何ものをも撤回することは出来ませんし、撤回しとも思っていません。わたしの良心は、聖書にとらえられています。わたしは聖書にさからうことは出来ません。神よ、わたしを助けて下さい。アーメン。」(矢内昭二『ウェストミンスター信仰告白講解』P208)

 

 

 

 ウ告白は、ルターの良心の自由に依っている。神は、御自身の御言葉に服従する以外は、キリスト者の良心を自由にされたと告白する。特に信仰と礼拝に関わる事柄では、聖書にない教理や命令から、ルターがヴォルムスの国会で弁明したように、良心の自由をキリスト者に与えられた。

 

 

 

 ウ告白は、ルターのように良心を神の御前におけるキリスト者の意志もしくは理性に結びつけている。キリストの十字架によって贖われたキリスト者は、神の御言葉に対する服従に彼の良心は縛られているが、神の御言葉に反すること、あるいは神の御言葉にないこと、また、聖書から理性的判断によって正当に導き出されたことでない限り、良心は服従することから自由である。

 

 

 

 このキリスト者の良心の自由を守ることがどんなに困難なことであるか。初代教会のキリスト者たちは、皇帝礼拝を強要された。殉教は、初代教会のキリスト者が主はキリストという信仰を守ったからである。キリスト者が良心の自由を守ることは、命にかかわる問題である。

 

 

 

 キリスト者の良心は、理性に結びついている。だから、無批判な信仰を受け入れない。理解抜きの信仰を受け入れない。キリスト者は自由に聖書を学び、理解して信仰を受け入れる。コロナ・ウイルスの災禍の中でも、大会執事活動委員会の信仰の指針を鵜呑みに信じて、盲目的に服従することはない。参考にしつつも、聖書の御言葉に従うことを、各人が良心に従って選択する自由を持っているのである。

 

 

 

 キリスト者の良心と律法と善き業は、密接な結びつきがある。キリスト者が神に服従してなす業が善き業である。その時にキリスト者の良心は神の律法に照らして自分の行為ないし決断の持つ道徳性に対する神の評決を宣言するのである。

 

 

 

 この世界は神が創造され、摂理され、今も活動されている。キリスト者はその神の活動に自発的に参与するのである。神の御言葉(御意志)に服従することで。その時にキリスト者の良心が神の御心と環境、温暖化、原子力、人権等の問題とを結びつけるのである。

 

ウェストミンスター信仰告白130    主の2020429

 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第5215(新約聖書P349)

 

 「第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について」の三節

 

キリスト者の自由を口実にして、何か罪を犯したり欲情をいだいたりする者は、それによって、キリスト者の自由の目的を破壊する。すなわち、それは、敵の手から救い出された、わたしたちが、生きている限り、恐れなく、主のみ前にきよく正しく仕えることなのである。

 

 

 

今夜は、「第二十章.キリスト者の自由および良心の自由について」の三節を学ぼう。

 

 

 

前回は、「第二十章 キリスト者の自由および良心の自由について」の二節を学んだ。キリスト者は、神のみが良心の主であり、神の御言葉に反すること、神の御言葉に付加された人の教えと戒めからは良心は自由であること、良心は理性的判断によって正当に導き出されたことに服従することを学んだ。今夜は、キリスト者の自由の濫用に対する戒めを学ぼう。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

   村川満・袴田康裕訳

 

 キリスト者の自由を口実にして、じっさいどんな罪でも犯したり、どんな欲情でも抱いたりする者は、それによってキリスト者の自由の目的を破壊してしまうのである。なぜなら、その自由の目的は、われわれが敵の手から救い出されて、全生涯を通じて、御前に聖さと義とをもって、恐れなく主に仕えることができるようにということだからである。

 

   松谷好明訳

 

 キリスト者の自由を口実にして罪を犯したり、欲望を抱く者たちは、それによって、キリスト者の自由の目的、すなわち、敵の手から救い出されて、わたしたちが、生涯のすべての日々、恐れなく、御前に清さと義をもって、主に仕えることができるようになること、を破壊するのである。

 

   鈴木英昭訳

 

神キリスト者の自由を口実にして、罪を犯し、あるいは欲望をもつ者は、キリスト者の自由の目的を破壊する。キリスト者の自由の目的は、キリスト者が自分たちの敵の手から救い出され、生きている限り、恐れなく、主の御前に清く正しく仕えることである。

 

 

 

 キリスト者の自由は、無目的に与えられたものではない。そのキリスト者に自由を、良心の自由を与えられた神の目的に沿って用いるように、ウ告白はキリスト者の自由の濫用を戒めている。

 

 

 

 日本基督改革派宣言(創立宣言)に次のような文章がある。「一つ善き生活とは何ぞ。我等は律法主義者に非ず、又律法排棄論者に非ず。キリストに由る贖罪に基きて聖霊なる神の我等の衷に恵み給ふ聖化は信仰者の必ず熱心に祈りて求む可きものなり。(『日本キリスト改革派教会宣言集』一麦社 P16)

 

 

 

 キリスト者の自由、そして良心の自由なくして、このキリスト者の「善き生活」は成立しない。キリスト者の自由は、わたしたちの「善き生活」を支え、導く原動力である。

 

 

 

 ウ告白は、わたしたちにキリスト者の自由を濫用しないように、その目的を教えて、こう述べている。「キリスト者の自由の目的は、キリスト者が自分たちの敵の手から救い出され、生きている限り、恐れなく、主の御前に清く正しく仕えることである。(鈴木訳)

 

 

 

これは聖化であり、「善き生活」である。キリスト者は、キリストの十字架の贖いによって律法と罪と死の奴隷から救い出されて、神の子の身分を得たのである。

 

 

 

この世に生きる限り、神の子の身分をもって生きるのである。それが、「恐れなく、主のみ前にきよく正しく仕えることなのである。」。

 

 

 

だから、キリスト者の自由は、キリストの十字架の贖いによってキリスト者に与えられた神の賜物である。キリスト者が聖霊の導きによって聖化の道を、すなわち、主の御前に清く正しく仕えるために与えられたのである。

 

 

 

キリスト者の「善き生活」は、神礼拝を起点とする。ウ告白は、二節でキリスト者は、御言葉に反することと、「信仰と礼拝の事柄においてであれば、み言葉の外にあるところの、人間の教えと戒めから良心を自由にされた」と述べている。

 

 

 

キリスト者は、キリストによって自由を与えられたからこそ、神の御言葉に反することには何事も不服従を貫き、神が命じても禁じてもいない礼拝と信仰に関するこの世の教えや戒めに対して、キリスト者の良心が理性的判断によって自由に決断するのである。すなわち、キリスト者は「恐れなく、主の御前に清く正しく仕え」て、主の栄光をあらわすのであれば、自由を用いてそれを為すのである。

 

 

 

キリスト者の自由は、神の御心に反することに用いられるならば、それは濫用であり、自由そのものを破壊することになる。

 

 

 

だから、キリスト者は、自由を口実にして再び罪と欲望の奴隷になることは許されない。キリスト者は、自分の罪と欲望を満たすための神の賜物である自由を用いることなく、むしろ、キリスト者は心から喜び「善き生活」を為すために、この自由を用いるべきである。

 

 

 

エラスムスが『自由意志論』で人には自由意志があると主張した時、宗教改革者ルターは『奴隷的意志論』を書いて反論し、人は罪の奴隷であり、罪を犯す自由しかないと主張した。

 

 

 

人間本来の自由意志は、アダムの原罪と人類の堕落により、喪失した。だから人は生まれながらに罪の奴隷状態にあり、神の御前で罪を犯し、不道徳をなすのである。今日、人々はあらゆる権威を否定し、自由を高らかに叫んでいる。社会は無秩序になり、人々の間に不道徳が広まっている。

 

 

 

この世に神に対する畏れがない。しかし、キリスト者は、聖霊によりキリストが得られた自由を賜り、その自由を用いて恐れなく神を礼拝し、神の御言葉に服従し、善き生活をするのである。