ウェストミンスター信仰告白96    主の201987

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第41116(新約聖書P356)

 

 

 

 「十三.聖化について」の三節

 

この戦いにおいて、残っている腐敗が、一時、大いに優勢になることもあるが、それでもキリストの聖化のみたまからくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る。それで聖徒たちは、恵みに成長し、神をおそれて聖潔を完成させて行く。

 

 

 

今夜は「十三.聖化について」の三節を学ぼう。

 

 

 

前回は「聖化について」の三節、聖化の範囲と未完成について学んだのである。聖化は全人に及ぶ、すなわち、魂と霊と体の全体に及ぶ。しかし、この世では罪の残滓が残るゆえに、キリスト者のこの世における聖化は、霊と肉の戦いである。

 

 

 

今夜は、キリスト者の聖化と「聖潔の完成」への継続的で漸進的で、最終的に勝利の道であり、福音宣教と教会形成の力であることを学ぼう。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 この戦いでは、残っている腐敗が、しばらく、大いに優勢になることもある。それにもかかわらず聖化するキリストの御霊から絶えず力が供給されることによって、再生した性質の側が必ず勝利する。このようにして、聖徒たちは恵みにおいて成長し、神を畏れつつ聖さを完成していく。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 この戦いにおいては、残っている腐敗が一時的に非常に優勢になることもあるが、しかし、聖化するキリストの霊から継続的に力が供給されるので、再生した性質の側が、必ず勝利する。かくして聖徒たちは、恵みにおいて成長し、神を畏れつつ、清さを完成していく。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

この戦いにおいて、残っている腐敗が一時的に大いに優勢になることがあるが、キリストの聖化の御霊の断続的な力の供給によって、再生の側が勝利を得る。それで、聖徒たちは神を畏れて聖化の完成にむかって歩み、恵みのうちに成長する。

 

 

 

ウ告白は、キリスト者の聖化が継続的な働きであると述べている。キリスト者のこの世における完全聖化を阻むものは「残っている腐敗」である。キリスト者は罪を赦された罪人であり、だから、キリスト者のうちに「残っている腐敗」が一時的非常に強くなることがある。罪を憎んでいるのに罪を犯し、欲する善をなさず、欲せぬ悪をなすことがある。

 

 

 

しかし、ウ告白は、キリスト者の罪の現実に絶望するのではなく、聖書の御言葉の約束のゆえに、キリスト者は聖霊の継続的な力の助けを得て、神の恵みのうちにキリスト者の聖化を完成するという終末的希望に生きるように励まされているのである。

 

 

 

使徒パウロは、キリスト者の聖化を、こう述べている。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。(エフェソ4:13)。「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(4:15)。これがキリスト者の聖化の道であり、目標である。

 

 

 

日本キリスト改革派教会は、創立宣言以来、キリスト者の聖化を「善き生活」と述べてきた。キリスト教会は福音宣教と教会形成においてキリスト者の「善き生活」の実践によって効果を上げてきたのである。

 

 

 

この世の腐敗した中でキリスト者は、キリストに倣いて神と隣人愛を実践した。キリストへの信仰と十戒を生活の土台に据え、真面目過ぎる、堅苦しいと批判されながらも、信仰と高い倫理を保持し、キリストを証しし、家族に地域に伝道してきたのである。福音宣教と教会形成を、善き生活によって行った。

 

 

日本伝道の力はキリスト者の聖化の生活、「善き生活」にある。創立70周年宣言は教会を見直すと共に、キリスト者の「善き生活」によって教会の伝道の力を回復する試みである。一人ひとりのキリスト者の聖化が伝道の力である。

 

 

ウェストミンスター信仰告白97    主の2019821

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第11617(新約聖書P273)

 

 

 

 「十四.救拯的信仰について」の一節

 

選ばれた者が、それによって、自分の魂が救われるように信じることができる信仰の恵みは、彼らの心の中で働くキリストのみたまのみわざであって、通常、み言葉の宣教によってうみ出されるものであり、み言葉の宣教と礼典の執行と祈りとによって増進され、強化される。

 

 

 

今夜は「十四.救拯的信仰について」の一節を学ぼう。

 

 

 

前章で「聖化について」を学んだ。ウ告白は、10章より聖霊の働きについて告白している。有効召命、義認、子とすること、聖化、そして14章の救拯的信仰である。英語で言えば“saving faith”「救う信仰」「救いを与える信仰」である。

 

 

 

「救」と「拯」は、同じ「救う・助ける」という意味である。前者の用例は「救いの手」「神の救い」等、後者は「あげる・引き上げる」という意味で、用例は水に溺れている者をすくい上げる。そこから「救う・助ける」という意味で使われる。

 

 

 

ウ告白によれば「救拯的信仰」は、選ばれた者に聖霊が賜った恵みの信仰であり、彼の魂の救いに至る確信である。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 選ばれた者たちがその霊魂の救いに至るように信じることを可能にする信仰という恵みの賜物は、彼らの心の中に働くキリストの御霊の御業であり、通常は御言葉の宣教によって生み出され、そしてこの御言葉の宣教と礼典と祈りとによって増し加えられ、強められる。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 選びの民が彼らの魂の救いのために信ずることができるようにされる、信仰という恵みの賜物は、彼らの心の中におけるキリストの霊の御業であり、通常は御言葉の宣教によって生み出される。信仰は、また、この御言葉と、聖礼典の執行、ならびに祈りにより、増し加えられ、強められる。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

選ばれた者が、その魂の救いに至るよう、信じることが可能にされる信仰の恵みは、その心のなかに働くキリストの御霊の御業であり、通常それは御言葉の働きによって生み出される。そして、御言葉と礼典の執行と祈りによって増進され強化される。

 

 

 

今日「救拯的信仰」という表現は死語であり、村川・袴田訳は「救いに至る信仰」、松谷訳は「救いに導く信仰」、鈴木訳は「救いを受ける信仰」とそれぞれ異なる表現を用いている。わたしは、「救いの確信」と表現したい。

 

 

 

死語とは言え、棄てるに惜しい神学用語と思う。選ばれた者の魂の救いに至る確信であり、それは、神の民の心の中に働くキリストの霊(聖霊)の恵みの御業である。 

 

 

 

ウ告白にとって「救拯的信仰」とは、神の賜物である。この信仰は人間が成し遂げる業ではなく、「自分の魂が救われるように信じることができる信仰の恵みは、彼らの心の中で働くキリストのみたまのみわざであって」である。

 

 

 

ウ告白は救拯的信仰が聖霊の働きとして、「通常、み言葉の宣教によってうみ出されるものであり、み言葉の宣教と礼典の執行と祈りとによって増進され、強化される。」と述べる。恵みの手段によってこの信仰は教会で養われ強められる。

 

 

 

使徒パウロは、信仰が福音宣教者の宣教を通して(ローマ10:14)、宣教の御言葉を聞くことによって始まる(ローマ10:17)と述べている。福音宣教は、キリスの言葉(説教)である。通常信仰はキリスト共同体(教会)の営みの中で、特に礼拝において養われ、強められる。

 

 

 

教会で神のみ言葉が正しく語られ、聴衆が聴き、聖礼典(洗礼と聖餐)が適正に執行され、祈りを通して信仰の確信がわたしたちに与えられるのである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白98    主の2019828

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第11013(新約聖書P163)

 

 

 

 「十四.救拯的信仰について」の二節

 

この信仰によって、キリスト者は、み言葉において語られる神ご自身の権威のために、そこに啓示されてあるすべての事柄を真実であると信じ、そのそれぞれの個々の章句が含んでいる事柄に応じて異なって行動する。すなわち命令には従い、威嚇にはおののき、この世の命と後の命への約束は信じる。しかし、救拯的信仰のおもな行為は、義認と聖化と永遠の命のため、恵みの契約に基づいて、ただキリストのみを認め、寄り頼むことである。

 

 

 

今夜は「十四.救拯的信仰について」の二節を学ぼう。

 

 

 

前回は「十四,救拯的信仰について」の一節を学んだ。これは、真のキリスト者(神に選ばれた者)の信仰である。ウ告白は、真のキリスト者でない者(神に選ばれてない者)の一時的信仰(マタイ13:2021)と区別するために使っている。

 

 

 

ウ告白は、この信仰は聖霊のお働きであり、神の恵みの賜物であると言う。福音宣教を通して、神のみ言葉を聞くことで与えられ、聖礼典(洗礼と聖餐)、祈りによって強められる。聖霊が恵みの手段を通してこの信仰を与え、強められる。真のキリスト者が聖霊によって賜った恵みの信仰であり、彼の魂の救いに至る信仰の確信である。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 この信仰によって、キリスト者は、御言葉において啓示されていることは何であれ、そこで語っておられる神御自身の権威のゆえに、すべてを真実であると信じる。そして御言葉の個々の箇所のそれぞれの内容に応じて異なった行為をする。すなわち、命令には服従し、威嚇にはおののき、この世と来るべき世についての神の約束は喜んで受け入れる。しかしながら救いに至る信仰の主要な行為は、恵みの契約に基づいて、義認と聖化と永遠の命のために、ただキリストのみを認め、受け入れ、かれにのみ依り頼むことである。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 この信仰によって、キリスト者は、御言葉において啓示されていることは何事であれすべて真実であると、御言葉において語っておられる神御自身の権威のゆえに信じ、御言葉のそれぞれの箇所が含んでいることに応じて、さまざまに行為する。すなわち、命令には従順に従い、いかにはおののき、この世と来るべき世についての神の約束はしっかりと受け止める。しかし、救いに導く信仰の主な行為は、恵みの契約のゆえに、義認と聖化と永遠の命を得るため、ただキリストのみを認め、受け入れ、依り頼むことである。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

この信仰によって、キリスト者は、御言葉において語られる神の権威のゆえに、御言葉に啓示されているすべての事柄を真理であると信じる。そして、キリスト者は、個々のそれぞれの章句が含んでいる事柄に応じて異なって行動する。すなわち、命令に従い、威嚇におののき、この世と後の世の命への約束を受け入れる。しかし、救いを受ける信仰のおもな行為は、義認と聖化と永遠の命を得るために、恵みの契約に基づき、ただキリストだけを認め、受けいれ、信頼することである。

 

 

 

翻訳を味わう喜びは、より深く救拯的信仰(saving faith)について、思いを巡らせることである。「救いに至る信仰」、「救いを導く信仰」「救いを受ける信仰」。訳は異なるが、キリスト者を救う信仰であり、キリスト者を聖霊のお働きにより、御言葉(福音宣教)と聖礼典、そして祈りを通してこの世から後の世の永遠の命へと導く信仰である。

 

 

 

まずにこの信仰をよく理解するために、もう一度ウ告白の第1章「聖書について」を読もう。聖書は「神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である(1:2)、「聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれなければならない(1:4)。聖書に啓示された神の御言葉に対する権威とキリストに対する信頼は、この信仰によって養われ、強められ、救いの確信となる。この信仰はわたしたちが義認と聖化と永遠の命を得るために、聖書の恵みの契約(神の救いの歴史)に基づいて、キリストのみを信頼するのである。この信仰は神の命令には服従を、神の威嚇には恐れを生じさせる。

 

 

ウェストミンスター信仰告白99    主の2019年9月4

 

聖書箇所:ヘブライ人への手紙第6612(新約聖書P407)

 

 

 

 「十四.救拯的信仰について」の三節

 

この信仰は、程度に強弱の相違があって、しばしば、またいろいろと攻めこまれたり、弱くされることもあるが、勝利を得、多くの場合、わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者であるキリストによって、全き確信に至るまで成長するものである。

 

 

 

今夜は「十四.救拯的信仰について」の三節を学ぼう。

 

 

 

前回は「十四,救拯的信仰について」の二節を学んだ。この信仰は、わたしたちキリスト者に聖書に啓示された神の御言葉に対する堅固な認識とキリストに対する深い信頼であることを学んだのである。

 

 

 

キリスト者のこの信仰は、この世において未完成であり、聖徒の堅忍によって維持され、継続され、成長する。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 この信仰は強弱の程度に差がある。またそれは、しばしばいろいろな仕方で、攻撃を受けて、弱められることがあるが、しかし勝利を得る。そして多くの人々の場合それは、われわれの信仰の創始者であり完成者でもあるキリストによって、完全な確信に到達するまで成長していくのである。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 この信仰は、強弱に程度の差があり、また、しばしば、さまざまな仕方で、攻撃され、弱められることがあるが、ついには勝利を得る。そして少なからざる人の場合、信仰は、わたしたちの信仰の創始者また完成者であるキリストを通して、完全な確信に到達するまで成長していく。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

この信仰は、強弱の程度の点で相違がある。それはしばしば、いろいろな方法で攻撃を受けて弱められることはあるが、ついには勝利を得る。多くの信仰者の場合、この信仰はわたしたちの信仰の創始者また完成者であるキリストによって、完全な確信に至るまで成長する。

 

 

 

ウ告白は、この信仰に「程度に強弱の相違」があると告白する。信仰の強弱の程度に差がある。

 

 

 

キリスト者のこの世の現実は、罪があり、誘惑があり、試練があり、迫害がある。その度にキリスト者の確信は揺れ動く、不信仰との戦いがあり、弱さと戦わなければならない。

 

 

 

信仰を攻撃され、教会を攻撃され、キリスト者個人も世の人々に非難されることがあり、信仰の確信が弱まるときがある。

 

 

 

しかし、ウ告白はこの信仰の勝利を確信する。常に十字架と復活のキリストに目を向け、再臨のキリストに期待するからである。

 

 

 

多くの場合」、「そして多くの人々の場合それは、」、「そして少なからざる人の場合」、「多くの信仰者の場合」と翻訳は異なるが、真のキリスト者、神の民の場合である。

 

 

 

ウ告白は、次のように告白する。聖霊が真のキリスト者(神の民)に賜るこの信仰は、「わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者であるキリストによって、全き確信に至るまで成長するものである」。

 

 

 

信仰は、人間的努力による行いではない。聖書と聖書に啓示されたキリストへの信頼である。このキリストがわたしたちキリスト者の信仰の創始者であり完成者である。御自身の十字架と復活によって救い(神の恵みの契約)を完成し、昇天されたキリストが聖霊を遣わし、キリスト者に信仰を賜り、教会で礼拝を通して恵みの手段(御言葉と礼典と祈り)を通してこの信仰を養い、強め、成長させてくださるのである。

 

 

信仰の完成者であるキリストは再臨される。その時、わたしたちは復活し、完全にキリストを知り、キリストと永遠の交わりに生きるのである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白100    主の2019年9月11

 

聖書箇所:マルコによる福音書第11415(新約聖書P61)

 

 

 

 「十五.命に至る悔い改めについて」の一節

 

命に至る悔い改めとは、福音的恵みであって、その教理はキリストへの信仰の教理と同様に、すべての福音の教役者によって説教されるべきである。

 

 

 

今夜より「十五.命に至る悔い改めについて」学ぼう。

 

 

 

前回は「十四,救拯的信仰について」学んだ。信仰はキリストの福音を聴くことがら生じる(ローマ10:17)。罪からの方向転換としての悔い改めは信仰に依拠する。だからウ告白は14章の「救拯的信仰」に続いて、15章で「命に至る悔い改めについて」告白するのである。

 

 

 

命に至る悔い改めとは、福音的恵みであって」という一節こそ改革派神学の際立った特色である。なぜなら、真の悔い改め(命に至る悔い改め)は、人の心に働きかけられる聖霊の御業であると信じるからである。聖霊は、御言葉と共に働かれる。それゆえ「命に至る悔い改め」はキリストの言葉を聴くことから、信仰と同様に生まれる。だからウ告白は、信仰同様に悔い改めも「福音的恵みであって」と述べているのである。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 命に至る悔い改めは、福音的な恵みの賜物の一つであって、それについての教理は、キリストに対する信仰についての教理と同様に、福音に仕えるすべての聖職者によって説教されるべきである。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 命に至る悔い改めは、福音的恵みの賜物の一つであり、この教理は、キリストに対する信仰についての教理と同様、福音に仕えるどの牧師によっても説教されるべきである。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

命に至る悔い改めは、福音的恵みであり、その教理はキリストへの信仰の教理と同様、すべての福音の教師によって説教されるべきである。

 

 

 

福音的恵みであって」と「福音的な恵みの賜物の一つであって」との翻訳の相違は、テキスト本文の相違である。

 

 

 

相違はあっても、実質は同じである。福音的恵みとは、信仰と悔い改めである。信仰と悔い改めは、聖霊の働きによる賜物である。ゼカリヤ書1210節でゼカリヤは、主が聖霊を選びの神の民に注がれ、刺し貫かれた者(十字架のキリスト)を見せ、悔い改めを促すと預言する。

 

 

 

使徒言行録1118節でカイサリアの異邦人キリスト者たちが使徒ペトロの説教を聞き、聖霊が彼らに悔い改めさせ、命を与えられたことを証言し、エルサレム教会は主を称えました。

 

 

 

信仰と同様に、命に至る悔い改めも、ゼカリヤや使徒たちのように、「すべての福音の教役者によって説教されるべきである」。

 

 

 

「人はだれでも罪から離れて向きを転じないなら、神と和解させられていることを確信できないからである。」(『リフォームド神学事典』P114)

 

 

 

聖霊は、御言葉と共に働かれるので、福音を語る者が必要である。

 

 

 

使徒パウロは、福音を告げ知らせる者の幸いを、こう述べている。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える」人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか』と書いてあるとおりです。(ローマ10:1415)

 

 

 

主の派遣、派遣された者が福音を語る。聴衆が聴いて、信仰と悔い改めが生まれる。その一連の行為が聖霊の働きである。