ウェストミンスター信仰告白06    主の2017104

 

 

 

聖書箇所:ルカによる福音書第161931(新約聖書P141142)

 

 

 

 聖書すなわちしるされた神のみ言葉という名の下に、今では、旧新約のすべての書が含まれている。それらは、次のものである。旧約聖書では、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記上、サムエル記下、列王紀上、列王紀下、歴代志上、歴代志下、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。新約聖書では、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる福音書、使徒行伝、パウロのローマ人への手紙・コリント人への第一の手紙・コリント人への第二の手紙・ガラテヤ人への手紙・エペソ人への手紙・ピリピ人への手紙・コロサイ人への手紙・テサロニケ人への第一の手紙・テサロニケ人への第二の手紙・テモテへの第一の手紙・テモテへの第二の手紙・テトスへの手紙・ピレモンへの手紙、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの第一と第二の手紙、ヨハネの第一・第二・第三の手紙、ユダの手紙、黙示録。これらは皆、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である。

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「二」の本文である。

 

 

 

 ウ告白の「一.聖書について」の一節で、わたしたちは「聖書の必要性」について学んだのである。矢内昭二先生は、『ウェストミンスター信仰告白講解』(以後、ウ告白講解)でウ告白の「一.聖書について」の一節全体を「啓示論」と指摘され、啓示論全体の中に聖書を位置づけている」と教えられている(ウ告白講解P20)。そして、「聖書の必要性は啓示の文書化、文書啓示という形態化、あるいは啓示方法がなぜ必要」であるかを明らかにすることであると指摘されている。

 

 

 

 ウ告白の「一.聖書について」の「二」は、「聖書の正典性」である。

 

 

 

ウ告白は「これらは皆、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である。」と信仰告白している。「正典(カノン)」という語は、聖書との関連では、神の霊感によるものとして、それゆえ信仰と生活(実践)の規範もしくは基準として受け入れられた一連の書ないし収集を意味する」(『リフォームド神学事典』P269)

 

 

 

 ウ告白は、「聖書すなわちしるされた神のみ言葉という名の下に」と告白しているように、聖書正典は権威ある神の御言葉である旧約と新約の諸書を収集しているのである。

 

 

 

 聖書の正典を生み出したのは、個人でも教会会議でもない。「これらは皆、神の霊感によってわたしたちに与えられており」、個人や教会会議は聖書の権威ある特質を認識し、承認したに過ぎないのである。それは、ウ告白の「一.聖書について」の「五」で明らかにされている。「聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言してくださる聖霊の内的みわざから出るものである」。

 

 

 

 旧約は39の諸書、新約は27の諸書、合わせて66巻が聖書の正典のリストである。

 

 

 

 矢内昭二先生は、聖書は「聖経典」であると指摘されている。カノンはギリシア語で「ものさし」「基準」を表す語である。ウ告白は、2節の聖書のリストは皆、神の御言葉であり、神の霊感によって与えられ、わたしたちの信仰と生活の唯一の規準であると教えている(聖書の効用の範囲を示す)

 

 

 

 2節は、聖経典の範囲である。教会は、神より霊感されているものとして受け入れて来た旧約と新約の諸書とどれほど宗教的で助けになるものであっても、神の霊感されたものでない書物とを境界線を引くために「正典」「聖経典」という神学用語を用いているのである。

 

 

 

 ウ告白は、聖書を「聖書すなわちしるされた神のみ言葉」と呼んでいる。それは、聖書が神の御言葉の記録であるという意味ではない。「文書における神の言葉」という意味である。「神の霊感によって与えられており」とは、聖書の「権威の根拠、出所」を指すのである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白07    主の20171011

 

 

 

聖書箇所:テモテへの手紙一第217(新約聖書P385)

 

 

 

 「日本キリスト改革派教会 信仰の宣言 一.聖書について」の「二」

 

 

 

 旧約聖書と新約聖書の双方において、永遠の命が、神と人との間の唯一の仲保者、真の神にして真の人なるイエス・キリストによって、人類に提供されている。

 

 すなわち、来るべきキリストについてモーセと預言者たちとは証しし、時満ちて来たり、やがて再び来たるべき主イエス・キリストについて、福音書記者たちと使徒たちとは証しする。旧約と新約、預言者と使徒、という二重にして一つの完結した証言を通して、キリストのみたまが無謬の証言をされる。

 

 従って、旧約聖書はそこにおいて神が、み子イエス・キリストを通し、みたまによって、私たちに今語っておられる、神の生けるみ言葉であり、信仰と生活の唯一の誤りなき規準である。

 

 

 

 前回は、ウ告白の「一.聖書について」の「二」、「聖書の正典性」について学んだのである。聖書正典は、「聖書すなわちしるされた神のみ言葉という名の下に」、権威ある神の御言葉である旧約と新約の諸書を収集している。ウ告白は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻のリストを記し、「これらは皆、神の霊感によってわたしたちに与えられており、信仰と生活の唯一の規準である」と告白し、聖書の効用の範囲を示しているのである。

 

 

 

信仰の宣言は、旧約39巻と新約27巻の諸書には、第一に統一性があることを主張している。旧約と新約の主題は永遠の命である。神と人との間の唯一の仲保者、真の神にして真の人であるイエス・キリストにあって、永遠の命が人類に提供されているという福音を伝えているのである。

 

 

 

第二にキリスト証言である。旧約のモーセと預言者たちは来るべきキリストを証しし、時満ちてキリストが到来し、新約の使徒たちと福音書記者たちは到来したキリストを証しすると共に、再び来るべきキリストを証ししている。旧約と新約、預言者と使徒という二重の完結したキリスト証言を通して、「キリストのみたまが無謬の証言をされる」のが、聖書正典であることを指摘する。

 

 

 

第三に「信仰の宣言」は聖書正典が「そこにおいて神が、み子イエス・キリストを通し、みたまによって、私たちに今語っておられる、神の生けるみ言葉であり、信仰と生活の唯一の誤りなき規準である。」と教えている。

 

 

 

 聖書正典は、特別啓示であり、その中心がイエス・キリストである。だから、旧約聖書も新約聖書もイエス・キリストを証言する。

 

 

 

 ウ告白本文と「信仰の宣言」の本文は、表裏一体であり、ウ告白は、聖書正典を「記された神のみ言葉」と記し、「信仰の宣言」は「そこにおいて神が、み子イエス・キリストを通し、みたまによって、私たちに今語っておられる、神の生けるみ言葉」と記している。

 

 

 

 礼拝で聖書朗読がなされる時、日本キリスト改革派教会は牧師が聖書を読んでいると思っていないのである。神が今礼拝者に語られていると確信しているのである。今神は、礼拝における聖書朗読を通して、「み子イエス・キリストを通し、みたまによって、私たちに今語っておられる」のである。

 

 

 

 説教は、神が今語られておられる御言葉の解き明かしであり、記された神の御言葉に対して、語られる神の御言葉なのである。

 

 

 

 これを、わたしたちが真実であると確信するのは、聖霊のお働きによるのです。聖書は「神の霊感によってわたしたちに与えられており」、聖霊の照明によってわたしたちは聖書の記された御言葉と語られる説教を理解させられるのである。

 

 

 

 聖霊がわたしたちの心に働かなければ、どうしてヨハネによる福音書の御言葉を聞き、説教で語られるペトロを、「それはわたしである」と思い、自らの罪を悔い改めて、十字架のキリストにわたしたちの身を委ねることは起こり得ないのである。

 

 

 

水野源蔵さんが「キリストを『十字架につけよ』と叫んだ人々の中にわたしもいる」と詩に読まれている。聖霊が彼の心を照らして下さったのである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白08    主の20171025

 

 

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第21922(新約聖書P524)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「三」

 

 

 

 普通に経外典と呼ばれる書は、神の霊感によるものではないから、聖書の聖経典の一部ではない。従って神の教会内では何の権威もなく、ほかの人間的な文書と違ったどのような仕方ででも是認されたち使用されてはならない。

 

 

 

 

 

 前回は、「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 聖書について」の「二」について学んだのである。

 

 

 

そこで信仰の宣言が主張するのは、旧約39巻と新約27巻の諸書には、第一に統一性があること、その主題が永遠の命であり、神と人との間の唯一の仲保者、真の神にして真の人であるイエス・キリストにあって、キリストを通して永遠の命が人類に提供されているという福音である。

 

 

 

さらに旧約と新約、預言者と使徒という二重の完結したキリスト証言を通して、「キリストのみたまが無謬の証言をされる」のが聖書正典であることを指摘している。

 

 

 

第三に「信仰の宣言」は聖書正典が「そこにおいて神が、み子イエス・キリストを通し、みたまによって、私たちに今語っておられる、神の生けるみ言葉であり、信仰と生活の唯一の誤りなき規準である。」と教えている。

 

 

 

 今夜は、ウ信仰告白の「聖書について」の3節を学ぶ。「日本基督改革派教会大会出版委員会編『ウェストミンスター信仰基準』では、「普通に経外典と呼ばれる書」と、「外典」のことを記している。

 

 

 

 今日では、「外典」と記している(松谷訳、鈴木訳、村川・袴田訳)。「アポクリファ」と呼ばれ、初代教会のキリスト者たちが使用した「七十人訳聖書」(旧約聖書のギリシャ語訳聖書)の中に、旧約正典への一種の付け足しとして入れられていたのである。ローマカトリック教会は、トレント会議(1545)でこの外典を、ローマカトリック教会内において正典としての地位を公に与えたのである。

 

 

 

 しかし、宗教改革者たちは、ルターに代表されるように、「外典」を「有益で、読むのには良い」面があるのを認めつつも、外典は「霊感されていない」ものとして、聖書正典から退けたのである。

 

 

 

 だから、「経外典(外典)」は「聖書正典」に対する用語で、信仰と生活の規準である聖書正典に対して、近い関係にあり、有益であるが、「霊感されていない」書物として、ウ告白は宗教改革者たちの見解に従い、聖書正典と区別し、除外しているのである。

 

 

 

 経外典(外典)を、聖書正典に入れない理由は、明確である「神の霊感によるものではないから」である。

 

 

 

 「神の霊感」は、パウロがテモテへの第二の手紙316節で「聖書はすべて、神の霊感によるもので」と記しているように、「神の」と「吹く息」との合成語で、「聖書が神の霊感で書かれた」ことを示している。神は人を創造された時、塵から形造り、命の息を吹きこまれた。それで人は生きた者となった。同様に聖書も神の霊感を受けて、人格化されて(生きて)働くのである。

 

 

 

 外典を外的に排除する理由。(1)ユダヤ人たちは外典を「神の霊感されたもの」として受け入れなかった。(2)主イエスは一度も外典を引用されたことも言及されたこともない。(3)ウ信仰告白は、聖書正典の神的権威を、1章5節で「み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざから出るもの」と告白しているが、外典は聖書正典ように自己の信憑性を立証するしるし(神の霊感等)を帯びていない。(4)外典は、事実において虚偽があり、教理において誤りがあり、道徳において不健全であることが指摘されている。

 

 

 

 だから、ウ信仰告白は外典に何の権威も認めず、人間的文書として扱う。

 

 

ウェストミンスター信仰告白09    主の2017111

 

 

 

聖書箇所:テモテへの手紙二第31417(新約聖書P394)

 

 

 

 「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「三」

 

 

 

 旧約聖書のヘブル語正典にはなく、七十人訳ギリシア語聖書のある旧約外典と呼ばれる書物は、神の霊感によるものではなく、主イエス・キリストを証ししてはいない。

 

 従って、旧約外典は、聖書正典の一部を成すものではなく、神の教会では、何の権威もないので、これを第二正典と呼ぶこともできない。

 

 しかし、旧約外典は、ほかの人間的な文書と同様の使用には耐えうるので、たとえば、旧約と新約との中間時代の空白を埋める歴史的資料としては、益がある。

 

 

 

 前回は、「ウェストミンスター信仰告白 聖書について」の「三」、「外典と呼ばれる書物」について学んだのである。

 

 

 

今夜は、信仰の宣言の主張を学ぶのである。信仰の宣言は、旧約聖書正典のヘブライ語本文には、外典はないと明記する。外典は、七十人訳ギリシア語旧約聖書に含まれているのである。

 

 

 

さらに信仰の宣言は、外典について、二つの事実を明記する。それは、(1)外典は「神の霊感によるものではなく」「主イエス・キリストを証ししてはいない」ということである。

 

 

 

この二つの事実こそ、外典が聖書正典ではないという証拠である。

 

 

 

使徒パウロは、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえで有益である」(Ⅱテモテ3:16)と述べている。

 

 

 

いのちのことば社の『新キリスト教辞典』によれば、「聖書の霊感」の定義は、次の通りである。「神が選ばれた聖書記者たちの上に及ぼされた神の御霊の超自然的な影響であり、その影響の結果として彼らの著作が神的な真実性が与えられることになった」(740)

 

 

 

外典は、紀元前3世紀から紀元後1世紀にユダヤ人が書いた書物である。七十人訳ギリシア語旧約聖書と成立が重なる。

 

 

 

古代教会では、外典を「教会の書物」と呼んで用いていたのである。それゆえ七十人訳ギリシア語旧約聖書に含まれたのである。

 

 

 

しかし、前回ウ告白で学んだように、外典は「神の霊感によるものでない」こと、「イエス・キリストを証ししていない」こと、その2点で聖書正典から区別されたのである。だから、信仰の宣言は、ウ信仰告白に従って、「旧約外典は、聖書正典の一部を成すものではなく、神の教会では、何の権威もないので、これを第二正典と呼ぶこともできない。」とはっきり宣言しているのである。

 

 

 

カトリック教会が外典を「第二正典」と呼んで、聖書正典に入れていることに反対するのである。

 

 

 

しかし、ウ信仰告白も信仰の宣言も、外典を全く無益であると排除はしていないのである。外典の益を認めている。

 

 

 

それは、歴史的資料として、である。

 

 

 

例えば、主の日の礼拝でヨハネによる福音書を学んでいる。ヨハネによる福音書の1022節に「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われていた」と記されている。この祭は、旧約聖書のどの箇所を読んでも、出典が見つからない。

 

 

 

新共同訳聖書の「続編つき(外典)」のマカバイ記一45259節にこの祭が記されている。ユダヤ人たちがシリアの王に迫害され、3年間戦い、勝利した紀元前164年に汚されたエルサレム神殿を清めて、祭りが祝われ、以後ユダヤ人たちは神殿奉献記念祭を毎年祝うようになったのである。このように歴史的資料としては有益な書物である。

 

 

ウェストミンスター信仰告白10    主の2017118

 

 

 

聖書箇所:ペトロの手紙二第1章1621(新約聖書P437)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「四」

 

 

 

 聖書がそのために信じられ服従されねばならないところの聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれられなければならない。

 

 

 

 前回は、「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 聖書について」の「三」、「外典と呼ばれる書物」について学んだのである。

 

 

 

信仰の宣言は、三つのことを宣言する。「外典と呼ばれる書物」は、(1)神の霊感の書物ではなく、全く主イエス・キリストを証ししていない。(2)それゆえ、聖書正典ではなく、神的権威はない。(3)しかし、歴史的資料としては価値があり、学ぶに益がある。

 

 

 

信仰の宣言は、ウ告白が厳しく外典は神的権威がなく、人間の他の書物と同じ扱いをすべきだということに対して、外典に神的権威がなくても、歴史的資料としての価値を認めて、新約聖書を解釈する時に役に立つと、積極的に受け入れています。外典を聖書正典と同格にできませんが、聖書正典を理解するための歴史資料として、改革派信徒は積極的に外典を読み、聖書正典をよりよく理解する上で、外典を無視せずに利用すべきだと、信仰の宣言は訴えている。

 

 

 

1節で「聖書の必要性」、2節で「聖書正典が神の霊感の書であり、主イエス・キリストを証言している」こと、聖書正典の範囲について、3節で外典の益について学んで来たのである。

 

 

 

今夜はウ告白の4節である。聖書の権威とその起源について学ぶのである。

 

 

 

聖書は、わたしたちにとって、ウ信仰告白はすでに2節の終わりで「これらはみな、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である」と告白している。

 

 

 

4節は、聖書的権威の源泉を尋ねているのである。どうしてわたしたちは、聖書を読むだけではだめなのか。聖書を信じて、それに服従しなければならないのかと。それほど聖書は神の御言葉なのかと。

 

 

 

鈴木英昭訳は、シンプルで、信徒に分かりやすいと思う。「信じられ服従されるべき聖書の権威は、どのような人間や教会の証言に基づかず、(真理そのものであり)その著者である神をすべての拠り所とする。したがって、聖書は神の御言葉であるゆえに、受け入れられるべきである。」

 

 

 

岡田稔先生は次のように指摘する。「『神の霊感によって与えられた』と言うのは、聖書の『権威の根拠、出所』を指す言葉である。また『信仰と生活の規準として与えられた』と言うのは、『聖書の効用の範囲』を示す言葉である」(『解説 ウェストミンスター信仰告白』P4)

 

 

 

ウ告白が「2節で「これらはみな、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である」と告白するゆえに、必然的に4節でウ告白は「聖書がそのために信じられ服従されねばならない」と告白する(岡田稔前書)

 

 

 

ウ告白は、聖書の神的権威を、わたしたちがどのように容認するのか、その手段を告白しているのである(岡田先生前書)

 

 

 

ウ告白は、聖書に神的権威があると判断するのは、人間でも教会でもないと主張し、聖書の神的権威は聖書の著者である神にあると告白するのである。

 

 

 

だから、岡田稔先生は次のように記している。「聖書の権威はその真の出所である神以外に依拠できない神の言葉と言うことだけが、聖書の権威の拠り所なのである」(前書P6)

 

 

 

聖書が信仰と生活の唯一規準であるのは聖書の著者が神であるからである。