ウェストミンスター信仰告白91    主の201973

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第1113(新約聖書P163)

 

 

 

 「十二.子とすることについて」

 

義とされるすべての者を、神はそのひとり子イエス・キリストにあって、また彼のゆえに、子とする恵みにあずかるものとされる。それによって、彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を受け、神のみ名をその上にしるされ、子たる身分を授ける霊を受け、大胆に恵みのみ座に近付き、アバ父と呼ぶことができるようにされ、あわれみをこうむり、守られ、備えられ、親から受けるように神から懲らしめられ、しかし決して捨てられず、それどころか、あがないの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、いろいろな約束を受けつぐ。

 

 

 

今夜は、「十二.子にすることにいて」学ぼう。ウ告白は、第10章から18章まで聖霊の継続的な働きについて信仰告白している。それは、この世におけるキリスト者の生の始めから終わりまでに関わっている。「子とすること」は、神との親子関係である。それは、子なる神キリストと聖霊との関りを通してキリスト者はキリストを長子とする神の家族の一員となり、

 

 

 

ウ信仰告白第116節の他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

義とされる者たちすべてを、神はその独り子イエス・キリストにおいて、またイエス・キリストのゆえに、子とする恵みにあずかる者にしてくださる。その恵みによって彼らは神の子たちの数に入れられて、そのもろもろの自由と特権を享受し、神の御名をその上に記され、子とする霊を受け、大胆に恵みの御座に近づいて、「アッパ、父よ」と叫ぶことができるようにされ、父親からのように、神によって憐れまれ、守られ、養われ、そして懲らしめられる。しかしそれでも決して見捨てられることはなく、贖いの日に対して保証されており、そして永遠の救いの相続者として、もろもろの約束を受け継ぐのである。

 

(2)松谷好明訳

 

義とされた者たちすべてを、神は、その独り子イエス・キリストにおいて、また彼のゆえに、子とする恵みにあずかる者としてくださる。これによって彼らは、[第一に]神の子たちの数に入れられて、神の子たちの自由と特権を享受し、[第二に]神の御名をその上に記され、[第三に]ことする霊を受け、[第四に]恵みの御座に大胆に近づき、[第五に]「アッパ、父よ」と呼ぶことができるようにされ、[第六に]父によってされるように、神によって、憐れまれ、守られ、必要を満たされ、懲らしめられる。しかし、決して捨て去られてしまうことはなく、かえって贖いの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、もろもろの約束を受け継ぐ。

 

(3)鈴木英昭訳

 

神は、義とされるすべての者を、そのひとり子イエス・キリストにあって、また彼のゆえに、養子とされる恵みを受ける者としてくださる。それによって、彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を享受し、神の御名を記され、子とされる霊を受け、大胆に恵みの座に近付いて、アッパ父よと呼ぶことができ、父からされるように神から憐れみをこうむり、守られ、備えられ、懲らしめられる。

 

しかし、決して捨てられず、贖いの日にたいして保証されている。そして、永遠の救いの相続人として、約束を受け継ぐ。

 

 

 

子とされること」という文章は、パウロ書簡のみに出て来る(ローマ書8章、ガラテヤ書4)。パウロは、次のウように述べている。「神の子とする霊を受けたのです。」「この霊によってわたしたちは『アッパ、父よ』と呼ぶのです。」「子供であれば、相続人でもあります。(ローマ8:1517、ガラテヤ4:67)

 

 

 

キリスト者は、神に義とされ、子とされる。それは、神の永遠の決定である。それに基づき父なる神は、独り子イエス・キリストを世に遣わされ、女から生まれさせられた。そして、御子が律法と罪の奴隷となっていた者らを贖われて、彼らを神の子とされた。御子はキリスト者に神の子となる聖霊を授け、キリスト者は「アッパ、父よ」と呼びかける御子の霊をいただいたのである。キリスト者は、聖霊によってキリストと結合し、キリストにあって生き、キリストを長子とする神の家族の一員であり、御国の相続人である。

 

 

 

ウ告白にとって「子とすること」は、義認と切り離せません。なぜなら、「義とされるすべての者を、神はそのひとり子イエス・キリストにあって、また彼のゆえに、子とする恵みにあずかるものとされる。」からである。

 

 

 

 

神の子とされる恵みは法廷的用語である。養子縁組と子に相続権が与えられること、すなわち、子とされ、彼らは御国の栄光に入れられるのである。

 

ウェストミンスター信仰告白92    主の2019710

 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第4章4-7(新約聖書P347)

 

 

 

 「十二.子とすることについて」

 

義とされるすべての者を、神はそのひとり子イエス・キリストにあって、また彼のゆえに、子とする恵みにあずかるものとされる。それによって、彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を受け、神のみ名をその上にしるされ、子たる身分を授ける霊を受け、大胆に恵みのみ座に近付き、アバ゙父と呼ぶことができるようにされ、あわれみをこうむり、守られ、備えられ、親から受けるように神から懲らしめられ、しかし決して捨てられず、それどころか、あがないの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、いろいろな約束を受けつぐ。

 

 

 

今夜は、前回に続いて「十二.子にすることにいて」学ぼう。「子とすること」は、聖霊の継続的なお働きである、ウ告白は聖霊が義とされたすべての者を、主イエス・キリストにあって神の子とする恵みにあずからせると告白する。それは、神の永遠の決定であることを前回学んだ。

 

 

 

さて、主イエスは、神の「ひとり子」である。この「」の称号は、父なる神と御子イエスとの断ち切りがたい絆を表す。そして「そのひとり子イエス・キリスト」の「」は、旧約聖書のユダヤ教の伝統では「その人の機能」のことである。

 

 

 

例えば神の民イスラエルは神の子と呼ばれている(出エジプト4:22イスラエルはわたしの子)。これは、神が諸国民の中からイスラエルを選び出し、神が創造された被造世界の中で特別な任務を与えられたのである。「神のひとり子主イエス・キリスト」は父なる神に選民の贖い主の任務を与えられ、アブラハムの恵みの契約を成就し、神の選民をすべて救うために律法の下に女から生まれられ、十字架に死に至るまで父なる神に従順に歩まれた。そのようにキリストの十字架の贖いにより罪を赦され、義とされ、神の子とされたキリスト者は、主イエスに特別の任務を与えられた。

 

 

 

主イエスはが弟子たちに言われた。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ(ヨハネ15:16)。キリストとの断ちがたい絆で結ばれ、キリストの弟子として従順に従い、諸国民に福音宣教を任じられたのである。

 

 

 

ウ告白は、父なる神との断ちがたい絆を、次のように告白するのである。「彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を受け、神のみ名をその上にしるされ、子たる身分を授ける霊を受け、大胆に恵みのみ座に近付き、アバ゙父と呼ぶことができるようにされ、あわれみをこうむり、守られ、備えられ、親から受けるように神から懲らしめられ、しかし決して捨てられず、それどころか、あがないの日のために証印され、永遠の救いの相続人として、いろいろな約束を受けつぐ。

 

 

 

神の子の数に入れられ、罪と律法、この世の神々と迷信と魔術の奴隷状態から解放され、自由とされ、御救いを得、キリストと共に御国の相続人とされ、聖霊を授けられ、神の子の身分を得、礼拝に招かれて、主との親しい交わり、神を「アバ父よ」と呼び、祈ること、そして親が子を慈しみ育てるように、わたしたちは「あわれみをこうむり、守られ、備えられ、親から受けるように神から懲らしめられ、しかし決して捨てられ」ないという祝福を与えられたのである。

 

 

 

ウ告白は子とするというこの教理を、本質と共に機能的に語ろうとする。神の子は、父子御霊の三位一体の神との断ちがたい絆を告白するだけでなく、子としての神に対する従順とキリストの召しに応答することを期待している。主イエスは弟子たちに次のように任務を果たせと命じられた。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにせよ(ヨハネ15:16)。福音宣教を実行し、伝道の実を結び、結ばれた実であるキリスト教会を持続せよと。それが神の子であるキリスト者の任務であると。その任務を果たせる保証として主イエスは、弟子たちに次のように約束されました。「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる(ヨハネ15:16)。わたしたちキリスト者は、神の子として、人々に伝道し、その実である教会形成をせよとの任務を与えられた。そして、同時にその任務を遂行できるように、聖霊を与えられ、主の御名によって、父なる神にその必要性を祈るなら、キリストの霊である聖霊のとりなしにより父なる神は何でもわたしたちに賜るという約束です。

 

 

教会は葡萄の木、わたしたちはその枝、枝が伸びるように、わたしたちはこの町に、この国に、この世界に、家庭に、職場に、学校に出て行こう。

 

 

ウェストミンスター信仰告白93    主の2019717

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第314-21(新約聖書P355)

 

 

 

 「十三.聖化について」

 

有効に召命され、再生された者たちは、自身のうちに創造された新しい心と新しい霊を持っているので、み言葉と彼らに内住するみたまで、キリストの死と復活の力によって、実質的に人格的に、さらに聖とされる。罪の全身にわたる支配が破壊され、そのいろいろな欲情は段々に弱められ、殺されていくし、また彼らは、それなしにはだれも主を見ることができないところの真の聖潔の実践にむかって、すべての救いの恵みに段々生かされ強くされていく。

 

 

 

前回と前々回は「十二.子にすることにいて」学んだ。今夜から「十三.聖化について」学ぼう。

 

 

 

有効召命、義認、子とすること、聖化と、ウ告白は聖霊の一連の働きを告白する。

 

 

 

ウ告白によれば、有効召命は神の予定に、義認はキリストの功績に、子とすることと聖化とは義認に基づいている。

 

 

 

わたしたちは、罪を赦されただけでなく、聖霊をいただき神の子の身分を得、聖霊によって再生された。使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙61516節でこう述べている。「大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、<中略>平和と憐れみがあるように。

 

 

 

パウロの言う「新しく創造されること」とは、わたしたちが聖霊によって再生され、聖化と栄化の状態に入れられることである。「このような原理に従って生きていく人」とは聖霊によって再生された者である。彼は聖霊によって新しい心と霊を与えられ、隣人愛を実践するように動かされる。内住する聖霊が彼をキリストに倣う者とし、彼は愛をもって隣人に仕える生活を通して、キリストの救いを証しするのである。

 

 

 

ウ告白第131節の他の翻訳を参照しよう。

 

 

 

  村川満・袴田康裕訳

 

 ひとたび有効に召され、再生させられて、自らの内に新しい心と新しい霊を創造されている者たちは、さらに、キリストの死と復活の力により、また彼らの内に宿るキリストの言葉と霊によって、現実にそして個人的に聖化される。すなわち、体全体に及ぶ罪の支配が破壊され、その体のさまざまの欲望はますます弱められ殺されていく。そして彼らは救いに伴うあらゆる恵みの賜物を受けて、ますます命を与えられ、強められて、それなしには誰も主を見ることができない真の聖さの実践に向かうのである。

 

  松谷好明訳

 

有効に召命され、再生させられた者たちは、自らの内に、新しい心と新しい霊を創造されているふぁ、更に、キリストの死と復活の力を通して、彼らの内に宿るキリストの言葉と霊により、現実に、また個人的に、聖徒される。すなわち、全身にわたる自摸の支配は破壊され、罪のさまざまな欲望はますます弱められ、力をそがれていき、そして彼らは、それなしにはだれも主を見ることができない、真の清さを実践できるように、救いにかかわる恵みの賜物すべてにおいて、ますます生かされ、強められていく。

 

  鈴木英昭訳

 

有効に召命され再生された者たちは、自分のうちに創造された新しい心と新しい霊をもっていて、キリストの死と復活の力により、彼の御言葉と内住の御霊により、現実に個人的にさらに聖化される。

 

それは、全身にわたる罪の支配が破壊され、罪の欲情がますます弱められ殺される。また彼らは救いの恵みのなかで、ますます奮い起こされ強くされ、まことの清さの実践に向かう。この清い生活なしには、だれも主を見ることはできない。

 

 

 

ウ告白は、聖霊のお働きを通して、キリスト者がこの世で与えられる3つの祝福を述べている。義認(11)と子とすること(12)と聖化(13)である。この3つの祝福はキリストに基づくのである。

 

 

このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです(1コリント1:30)。使徒パウロは、キリストの霊である聖霊がキリスト者に内住し、知恵、義、聖、贖いとなると述べる。

 

 

ウェストミンスター信仰告白94    主の2019717

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第314-21(新約聖書P355)

 

 

 

 「十三.聖化について」の一節(前回の続き)

 

有効に召命され、再生された者たちは、自身のうちに創造された新しい心と新しい霊を持っているので、み言葉と彼らに内住するみたまで、キリストの死と復活の力によって、実質的に人格的に、さらに聖とされる。罪の全身にわたる支配が破壊され、そのいろいろな欲情は段々に弱められ、殺されていくし、また彼らは、それなしにはだれも主を見ることができないところの真の聖潔の実践にむかって、すべての救いの恵みに段々生かされ強くされていく。

 

 

 

今夜は「十三.聖化について」の一節を、前回に続き学ぼう。

 

 

 

キリスト者に義認と聖化は、不可分に与えられている神の恵みである。

 

 

 

古代教会、中世の教会は、義認と聖化を明確に区別していなかった。しかし、宗教改革者たちは、次のように考えた。聖霊が福音宣教(有効召命)を通して人の心に働きかけ、神の恵みによる信仰によって人は神に義とされ(義認)、罪の赦しと神との和解を得、更に聖霊が義とされたキリスト者を再生(聖化)の生活へと導かれると。

 

 

 

カルヴァンは、キリスト者の義認と聖化との関連に関心を持った。神は、キリスト者を信仰によって義と認められ、罪を赦し、彼と和解されるだけではない。聖霊によって彼をキリストにある新しい生活(再生・聖化)へと導かれる。

 

 

 

ウ告白が述べるように「有効に召命され、再生された者たちは、自身のうちに創造された新しい心と新しい霊を持っている」。それは聖霊との内なる働き(再生と聖化)である。キリスト者には罪の残滓があり、不完全であるが、聖霊の再生と聖化の働きによって神への愛と隣人愛に対してキリスト者たちは自発的な服従を証しするのである。それがウ告白の言う「真の聖潔の実践」である。

 

 

 

義認と聖化は並行するものではなく、補い合うものである。義認は神の1回限りの行為である。キリストの十字架と復活の出来事によるキリストの義に根拠持つものである。キリスト者は信仰によってキリストの義に接ぎ木され、神に義と認められ、聖化はその義認を根拠とし、義認の目標がキリスト者の再生と聖化、そして栄光化である。

 

 

 

義認と聖化は、この世におけるキリスト者の二重の祝福である。聖化の祝福と無関係の義認はないし、聖霊に「真の聖潔の実践」にむかって心動かされないで、キリスト者が神の信仰による義認の恵みを手に入れることはない。

 

 

 

だからキリスト者は、常に「み言葉と彼らに内住するみたま」に導かれ、「キリストの死と復活の力によって」日々に罪に死に、古き人を脱ぎ捨て、新しき人を着て、「実質的に人格的に、さらに聖とされる。」キリスト者に内住されるキリストの霊、すなわち、聖霊によって聖とされるのである。

 

 

 

キリストの霊である聖霊によって聖とされるキリスト者の現実が次の事である。第一に「罪の全身にわたる支配が破壊され」る。第二に「そのいろいろな欲情は段々に弱められ、殺されていく」。第三に「彼らは、それなしにはだれも主を見ることができないところの真の聖潔の実践にむかって、すべての救いの恵みに段々生かされ強くされていく。

 

 

 

キリストは十字架に死に、復活し、今神の右に座されている。サタンと罪と死に勝利された。そのキリストの霊がわたしたちキリスト者の内に内住され、わたしたちは、キリストの死と復活の力によって罪の支配から自由にされている。

 

 

 

わたしたちに内住される聖霊は、キリストの霊としてわたしたちの内にキリストの聖を形成される。キリスト者の聖化はキリスト者に残存する罪との戦いである。キリストの勝利と御国の約束は確実であるが、この世のキリスト者の生活は日々前進するだけでなく、後退することもある。しかし、確実にわたしたちの内に聖霊はキリストの聖を形づくられ、キリストのように愛をもって隣人に仕えるように導いてくださる。キリスト者は自らの肉の欲を捨て、キリストを仰ぎ、そのキリストの御救いを世の人々に知らせるために、この世で聖化の道を歩んでいるのである。「すべての救いの恵みに段々生かされ強くされていく」からである。それを証しするのがキリスト者の伝道である。

 

ウェストミンスター信仰告白95    主の2019731

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第7725(新約聖書P282283)

 

 

 

 「十三.聖化について」の二節

 

この聖化は、全人に行きわたるけれども、この世にある間は未完成である。どの部分にもなお腐敗の残部が残っている。そこから、絶え間のない和解できぬ戦いが生じ、肉の欲がみたまに反し、みたまもまた肉に反するのである。

 

 

 

今夜は「十三.聖化について」の二節を学ぼう。

 

 

 

前回と前々回は「聖化について」の定義と実践を、義認との関係で学んだのである。

 

 

 

今夜は、聖化の範囲と未完成について学ぼう。御霊による聖化は全人、すなわち、霊と魂と体全体である。しかし、キリスト者のこの世における聖化は未完成である。

 

 

 

使徒パウロは、こう述べている、「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださるように。(Ⅰテサロニケ5:23)

 

 

 

あなたがたの霊も魂も体も」は、人間の人格、または存在の全体を表す。ウ告白は「全人」と述べている。パウロは、平和をもたらす神にキリスト者の質的と全範囲の聖化を強く祈り求めている。

 

 

 

いつものように他の訳を参照しよう。

 

 

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 この聖化はその人全体に、くまなくいきわたっている。とはいえ、それはこの世では未完成であって、どの部分にも腐敗の残り滓がなお残っている。そこから絶え間のない、そして和解できない戦いが生じる。すなわち、肉の望むところは御霊に反し、御霊の望むところは肉に反するのである。

 

 

 

(2)松谷好明訳

 

 この聖化は、全人にわたるものであるが、しかし、それはこの世においては不完全で、どの部分にも腐敗の残滓がなお残っている。そこから、肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するという、継続的で和解不可能な戦いが生じている。

 

 

 

(3)鈴木英昭訳

 

この聖化は、その人のすべての部分に行きわたるが、この世にあっては未完成であり、どの部分にもなお腐敗の残りがある。そこから断続的で和解のできない戦いが生じ、肉の欲は御霊に反し、御霊の願いは肉に反する。

 

 

 

ウ告白は、聖化について三つのことを述べる。第一に、聖化の範囲である。「聖化は全人に行きわたる」。「霊・魂・体」の全体である。聖化は、この世における全人の漸進的な過程である。

 

 

 

第二に、聖化はこの世にあって未完成であり、不完全である。義とされたキリスト者の全人に罪の残滓があるからである。霊の部分、魂の部分、体の部分、どの部分にも罪の残り滓がある。

 

 

 

使徒ヨハネは、こう述べている。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(1ヨハネ1:10)

 

 

 

それゆえに、第三にこの世に生きるキリスト者の内には常に和解できない霊と肉の戦いがある。

 

 

 

使徒パウロは、次のように告白する。「わたしたちはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えています。」(ローマ2425)