ウェストミンスター信仰告白106    主の20191023

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第2110(新約聖書P353354)

 

 

 

 「十六.よきわざについて」の二節

 

神の戒めに服従してなされるこれらのよきわざは、真の生きた信仰の結実またあかしである。それによって信者は、自分の感謝を表わし、確信を強め、兄弟の徳をたて、福音の告白を飾り、手金口を封じ、また神の栄光をあらわす。信者はよきわざをするようにキリスト・イエスにあって造られた神の作品であって、きよきに至る実を結んで、終極である永遠の命をもつようになるのである。

 

 

 

今夜は、「十六.よきわざについて」の二節を学ぼう。

 

 

 

前回は「十六,よきわざについて」の一節を学んだ。ウ告白は一節で「よきわざ」の定義について述べている。よきわざは、神の御意志によって要請された善を、わたしたちが行うことである。神の啓示、その書である聖書、そして聖書の説き明かしである説教がわたしたち信者の「よきわざ」を保証する。

 

 

 

つまり、「よきわざ」は、聖書の中に明白に示され、「正当で必然的な結論として聖書から引き出される」ものである。

 

 

 

今夜は、「よきわざ」と信仰との関係、そして善き業の目的を学ぼう。生きた信仰は「よきわざ」を結実し、証しする。信者はキリストと結びつき、聖霊によって再生され、信仰だけでなく「よきわざ」を結実し、善き業は永遠の命を得ることを目指す。善き業はキリスト者の聖化に深く結びついている。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 神の戒めに服従してなされるこのような善い業は、真の、生き生きとした信仰の実、また証拠である。そしてこの善い業によって、信仰者は自らの感謝を表し、その確信を強め、兄弟たちを向上させ、福音の告白を飾り、敵対者の口を封じ、神の栄光を顕す。彼らは神の作品であって、善い業をするようにキリスト・イエスにおいて造られたのであるから、聖さに至る実を結んで、終局目的である永遠の命を得ることを目指すのである。

 

(2)松谷好明訳

 

 神の戒めに服従してなされるこのような善い行いは、真の、生きた信仰の実りであり、証拠である。そして善い行いによって信者は、彼らの感謝を表し、彼らの確信を強め、彼らの兄弟たちを教化し、福音の告白を美しく飾り、敵対者の口を封じ、神に栄光を帰す。信者は、そうするようにイエス・キリストにおいて造られた、神の作品だからである。かくして信者は、清きに至る実を結んで、目的である永遠の命を得ることができる。

 

(3)鈴木英昭訳

 

神の戒めに服従してなされる善い業は、真実で生きた信仰の実また証しである。これらの善い業によって信仰者は、自分の感謝をあらわし、確信を強め、兄弟の徳を建て、福音の告白を飾り、反対者の口を封じ、そして神の栄光をあらわす。信者は、善い業をするように、キリスト・イエスにあって造られた神の作品であって、清さを示す実を結び、終局にある永遠の命をもつようになる。

 

 

 

ウ告白は、善き業を「神の戒めに服従してなされるこれらのよきわざ」と述べる。善き業の動因は、人間の意志ではなく、神の御意志である善の要請である。それは、神の戒めに服従することでなされる善き業である。

 

 

 

ウ告白が善き業を「真の、生きた信仰の実りであり、証拠である」と述べるのは、善き業が聖霊のお働きによるものだからである。真の生きた信仰は、「一つ善き生活」(創立宣言)として実を結び、証しする。聖霊のお働きを通してキリスト者は神の御言葉に服し、信仰と共に善き業をもって証しする。

 

 

 

善き業は信者の礼拝生活を基盤とする。「自分の感謝をあらわし」とは神礼拝である。詩編116編の詩人は、主なる神の救いに対して神礼拝を持って答えている。救いは、主なる神の選びである。主なる神は、礼拝する民として、わたしたちを主イエスによって救われたのである。「確信を強め」は信仰を強めること、礼拝の御言葉と聖礼典によってわたしたちは信仰を強められる。「兄弟の徳をたて」、信者はキリストによって「愛し合う」ことを命じられている。それに服することは善き業であり、それによってキリストの教会が形成される。それを見て敵対する者は口を塞がれ、神の栄光があらわされる。このようにキリスト者はキリストにあって善い業をなす神の作品である。

 

 

ウェストミンスター信仰告白107    主の2019116

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第15110(新約聖書P198199)

 

 

 

 「十六.よきわざについて」の三節(1)

 

彼らがよきわざをする能力は、全然自分自身によるものではなくて、全くキリストのみたまからのものである。そして彼らがよきわざをすることができるためには、すでに受けている恵みのほか、彼らのうちに働いて、み心のままに願いを起こさせ実現に至らせる同じみたまの実際の作用が必要である。しかし、みたまの特別な活動がなければ、何の義務も果たす責任がないかのように、ここで怠惰になってしまってはならない。むしろ、彼らは、自分の中にある神の恵みをかき立てることに勤勉でなければならない。

 

 

 

今夜は、「十六.よきわざについて」の三節を学ぼう。2回に分けて学ぶ。

 

 

 

聖書の教える「よきわざ」の定義は、ウ告白によれば、神の御意志によって要請された善を、わたしたちが行うことである(1)。キリスト者の信仰は「よきわざ」によって証し、善き業は永遠の命を得ることを目指す(2)

 

 

 

わたしたち罪人は堕落し、「よきわざ」をする能力がない。だから聖霊のお働きによって「よきわざ」をなすことを学ぼう。「よきわざ」が、どのようにキリスト者の聖化と深い関係するかを学ぼう。

 

 

 

他の訳を参照しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 彼らが善い業をする能力は決して彼ら自身から出るのではなく、全くキリストの御霊から来るものである。そして彼らが善い業をすることができるようになるためには、既に受けているさまざまの恵みの賜物のほかに、彼らの内に働いて、彼らが御心のよしとされるままに意志し、行なうようにさせる、同じ聖霊の現実的働きが必要である。とはいえ、ここで彼らは、聖霊の特別な働きかけがなければ、どんな義務も果たさなくてもよいかのように、怠惰になってはならない。むしろ、自分たちの内にある神の恵みの賜物を燃えたたせることに励むべきである。

 

(2)松谷好明訳

 

 善い行いをする信者の能力は、決して彼ら自身によるものではなく、全くのキリストの霊によるものである。また、彼らが善い行いができるようになるためには、彼らが既に受けているさまざまな賜物のほかに、彼らの内に働き、御自身がよしとされることを望み、行うようにさせる、同じ聖霊の実際の働きかけが必要とされる。しかしここで信者は、御霊の特別な導きが無ければ、いかなる義務も果たさなくてよいかのように、怠惰になってはならず、むしろ、自分たちの内にある神の恵みをかきたてることに熱心であるべきである。

 

(3)鈴木英昭訳

 

善い業をする彼らの能力は、彼ら自身からでるものでは全くなく、ことごとくキリストの御霊から来るものである。そして、彼らが善い業をするためには、すでに御霊の特別な働きかけが必要である。しかし、特別な働きかけがなければ、どんな義務も果たす責任がないかのように、怠惰になってはならない。むしろ、自分たちのうちにある神の恵みをかきたてることに勤勉でなければならない。

 

 

 

アダムが神の命令に背いて善悪の木の実を取って食べ、罪を犯し、堕落して後、全人類は神が要請される善を行う能力がない。だから、ウ告白は、「彼らがよきわざをする能力は、全然自分自身によるものではなくて、全くキリストのみたまからのものである。」と告白するのである。「よきわざ」は、人間の内にある能力によるのではない。復活のキリストが遣わされた聖霊の働きなのである。

 

 

 

よきわざ」とキリスト者の聖化は一体である。神の御心に服従する生活がキリスト者の「よきわざ」である。主イエスは、御自分が葡萄の木で、弟子たちがその枝であるとたとえられ、キリストに結びつかなければ、弟子たちは何の善い業もできないと言われている(ヨハネ15:45)。神はキリストを通して、わたしたち神の民に聖霊を授けると約束されている。そして聖霊によって石の心が肉の心となり、神への不服従から服従の生活へと変えられるのである(エゼキエル書36:2627)

 

 

 

続いてウ告白は、こう告白する。「そして彼らがよきわざをすることができるためには、すでに受けている恵みのほか、彼らのうちに働いて、み心のままに願いを起こさせ実現に至らせる同じみたまの実際の作用が必要である。」キリスト者の「よきわざ」は、実際に聖霊のお働きが必要であるということである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白108    主の20191113

 

聖書箇所:ペトロの手紙二第1311(新約聖書P436)

 

 

 

 「十六.よきわざについて」の三節(2)

 

彼らがよきわざをする能力は、全然自分自身によるものではなくて、全くキリストのみたまからのものである。そして彼らがよきわざをすることができるためには、すでに受けている恵みのほか、彼らのうちに働いて、み心のままに願いを起こさせ実現に至らせる同じみたまの実際の作用が必要である。しかし、みたまの特別な活動がなければ、何の義務も果たす責任がないかのように、ここで怠惰になってしまってはならない。むしろ、彼らは、自分の中にある神の恵みをかき立てることに勤勉でなければならない。

 

 

 

今夜は、「十六.よきわざについて」の三節の後半を学ぼう。

 

 

 

前回は、わたしたちの内に「よきわざ」をする能力がなく、聖霊のお働きによってわたしたちは「よきわざ」をなすことを学んだ。「よきわざ」は、聖霊のお働きであるキリスト者の聖化と深く関係している。聖霊はわたしたちに信仰の賜物を与え、キリストと結合させ、わたしたちを聖化されている。そして、わたしたちの心に「よきわざ」への願いを起こさせ、わたしたちが実際によきわざを為すように働きかけられているのである。

 

 

 

今夜は三節の後半の部分を学ぼう。

 

 

 

ウ告白は、わたしたちがよきわざを為すためには「同じみたまの実際の作用が必要である」と告白している。矢内昭二先生は、次のように解説されている。「『実際の』と訳されている言葉は、『アクチュアル』ですが、この意味は『実際の』という意味でなく、この場合よきわざを実際に『行わせる』ように、人間に継続的に働きかける、聖霊の活動をいうのです。」(『ウェストミンスター信仰告白講解』P172)

 

 

 

「聖霊の恵みを二つの種類に分けて考え、わたしたちに新しい聖められた性質を与えて下さる恵み(ここでは、すでに受けている恵み)と、わたしたちに継続的に働きかけて、よきわざに励むように願いを起こさせ、それを実際に『行わせ』て下さる恵みの作用があるのです。これを各々神学ではハビチュアル・グレース(グラチャ・ハビチュアリス)、アクチュアル・グレース(グラチャ・アクチュアリス)と呼んでいます。信仰告白は、人間は聖霊によって生まれ変わらせられ、新しい聖められた性質を与えられれば、それだけで後は自分でよいわざをすることができるのではなく、実際によいわざを行うように、継続的に働きかけるみ霊の活動が必要である、というのです。」(同上P172173)

 

 

 

聖霊のお働きには、創造と摂理におけるわたしたちの保持、聖定におけるわたしたちの統治、そしてこのわたしたちを聖化なさしめる共働という働きがある。よきわざは、この聖霊の共働という働きであり、聖霊の恩寵の働きである(同上P173)

 

 

 

だから、使徒パウロは、フィリピの教会のキリスト者たちによきわざに常に励めと勧めている(フィリピ2:1218)。従順にキリストに従い、聖霊がキリスト者の心に願いを起こさせ、よきわざをなさせてくださるので、何事も不平を言うことなく、主が求められることを行うようにと。神の御国を目指してこの世の曲がった時代に非のうちどころのない神の子として、命の言葉を保って歩むようにと。パウロはキリストの教会のために殉教を覚悟している。

 

 

 

わたしたちは、洗礼式で、転入式、加入式で聖霊に謙虚に寄り頼むことを誓約した。キリスト者としての人生、生活は徹頭徹尾聖霊の恩寵に依存している。そのことを信仰告白する者としてわたしたちは、常に聖霊に寄り頼み、主の御心をなさせてくださいと熱心に祈ろう。

 

 

 

キリストは、わたしたちの生の全領域を支配されている。家庭、学校、職場、社会、世界と。わたしたちは御国を目指して、この世では旅人として、また、良きサマリア人として、よきわざを持って神と人に仕えて生きよう。

 

 

 

『信徒の手引き』(日本キリスト改革派教会大会教育委員会、一麦出版社)に「『善き生活』への祈りと実践は、教会の交わりと形成を目標に定めるべきものです」とある。礼拝を中心とし、神の御言葉を聞き、そこで聖霊に助けられて主がお求めのよきわざを為しキリストの体なる教会を形成するのである。

 

ウェストミンスター信仰告白109    主の20191120

 

聖書箇所:ルカによる福音書第17710(新約聖書P142)

 

 

 

 「十六.よきわざについて」の四節

 

服従において、この世での可能な最高度に到達する人々でも、義務以上にすること、すなわち、神の要求以上にすることはとても及びもつかないだけでなく、義務以上しなければならぬ多くのことさえ達しないほどである。

 

 

 

今夜は、「十六.よきわざについて」の四節を学ぼう。

 

 

 

前回と前々回で三節を学んだ。よきわざをする能力は、わたしたちの内になく、全くキリストの御霊から来ること、御霊の実際の働きが必要であることを学んだ。そして、ウ告白によって、わたしたちは、御霊に寄り頼み、熱心によきわざをなせるように祈り励むように励まされたのである。

 

 

 

今夜の四節は、だれも神の要求以上のことをすることは不可能であり、神の要求すら満たし得ないことを学ぼう。

 

 

 

いつものように他の訳と比較しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 その服従において、この世で可能な最高の高さまで到達する人々も、余剰の功績を積み、神が要求される以上のことをすることなど到底できないばかりか、義務としてしなければならないこともできないのである。

 

(2)松谷好明訳

 

従順においてこの世で可能な最高度まで到達する者たちも、いわゆる余功を積み、神がお求めになる以上のことをすることなど到底できず、かえって、彼らが義務でしなければならない多くのことさえも、なしえない。

 

(3)鈴木英昭訳

 

 この世において可能な最高の服従をなしとげる人々でさえ、義務以上のことをすることが全くできず、神の求めを越えてすることもできず、義務としてすべきことの多くを実際にはしていないのである。

 

 

 

 ウ告白は、四節でカトリック教会の誤りについて述べているのである。「服従において、この世での可能な最高度に到達する人々」とは、カトリック教会が認定する諸聖人である。カトリック教会は、諸聖人たちが神の要求以上のことを為し、彼らが「余剰の功績を積み(村川・袴田訳)・「いわゆる余功を積み(松谷訳)、その諸聖人たちを崇拝し、御国の途上にあるカトリック信徒が彼らに執り成しの祈りをするときに、既に御国にいる諸聖人たちは彼らを助けると教えている。

 

 

 

 この誤りを、ウ告白は聖書から論証しているのである。ウ告白が「服従において、この世での可能な最高度に到達する人々」と述べているのは、創世記2章のアダムとエバである。彼らは、神の要求に最高度に到達することが可能であった。しかし、ウ告白は彼らでも、「義務以上にすること、すなわち神の要求以上にすることはとても及びもつかない」と述べている。神の要求以上のことができる者は神に造られた人間にはいない。神と同等の人間は存在しない。

 

 

 

 むしろ、主イエスが給仕をする僕のたとえを話されたように、僕は主人に命じられたことをすべて為したとしても、「しなければならないことをしただけです」。よきわざは、神の要求を満たしたにすぎません。義務を為したにすぎません。よきわざが神の御前に功績を積みことになりません。

 

 

 

 中世のカトリック教会は、よきわざが神の御前に功績を積むという考えから、免罪符という誤った教理を生み出しました。まさにウ告白161節の「人間がみ言葉の保証なしに、盲目的熱心から」教会堂の修繕のために免罪符を「案出」しました。

 

 

 

 ヨブ記のヨブは、「神より正しいと主張できる人間があろうか」と自問自答し、ないと答えている(ヨブ記9:23)。使徒パウロも、次のように言う。」「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立し合っているので、あなたがたは、自分がしたいと思うことができないのです。」(ガラテヤ5:17)

 

 

 

 ウ告白は、第4章の「創造について」の二節で神が人間を創造され、彼に律法を与えられた時、彼は神の要求を守るだけで、神との交わりに幸いを得ていたと記している。神に服従するだけで、人は幸いであったのである。

 

 

ウェストミンスター信仰告白110    主の20191127

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第4章1-12(新約聖書P278)

 

 

 

 「十六.よきわざについて」の五節

 

わたしたちは、自分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない。その理由は、そのよきわざと来るべき栄光の間に大きな不釣合があり、またわたしたちと神との間には無限の距離があって、わたしたちはよきわざによって神を益することも前の罪の負債を神に償うこともできず、かえって、なし得るすべてをなした時にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからであり、またそれが善であるのは、それがみたまから出ているからであって、わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである。

 

 

 

今夜は、「十六.よきわざについて」の五節を学ぼう。

 

 

 

前回の四節で、わたしたちは神の要求以上のことをすることは不可能であり、神の要求すら満たし得ないことを学んだ。中世カトリックのよきわざが神の御前で功績を積むことができ、それを他の者に分け与えられるという誤った考えを、ウ告白は否定する。

 

 

 

今回の五節で、ウ告白は最良のよきわざでも神から罪の赦しと永遠の命を得られる功績とならないことを述べている。

 

 

 

いつものように他の訳と比較しよう。

 

(1)村川満・袴田康裕訳

 

 われわれは自分の最善の業によっても、神の御手から、罪の赦しも永遠の命も受けるに値しない。それは、それらの業と来るべき栄光との間に非常な不釣合があり、またわれわれと神との間には無限の隔たりがあるためである。じっさい、われわれはその最善の業によっても、神を益することはできないし、自分の以前の罪の負債を償うこともできず、むしろ自分にできる限りのことをなし終えた時も、われわれは自分の義務を果たしただけで、われわれは役に立たない僕なのである。さらにわれわれの業は善いものである限りは、神の御霊から出ているのであり、それがわれわれによってなされる限りは、汚れており、多くの弱さや不完全さと混じり合っているので、神の裁きの厳しさに到底耐えることができないからである。

 

(2)松谷好明訳

 

わたしたちは、自分たちの最善の行いによっても、神の御手から罪の赦しや永遠の命を功績として得ることはできない。それは、[第一に]それらの最善の行いと来るべき栄光との間にある大きな不釣合と、わたしたちと神との間にある無限の隔たりのためでありーわたしたちは最善の行いによっても神を益することも、自分の以前の罪の負債に対して償いをすることもできず、自分にできることをすべてしてしまったときも、わたしたちはただ自分の義務を果たしただけで、無益な僕に過ぎないー、また[第二に]行いが善いかぎり、それらは神の霊から出ているのであり、行いがわたしたちによってなされるかぎり、それらは汚れており、非常に多くの弱さと不完全さが混じっているため、神の裁きの厳しさに到底耐えることができないからである。

 

(3)鈴木英昭訳

 

 わたしたちは、自分の最高の業によってさえ、神の御手から罪の赦しや永遠の命を得ることはできない。それは、善い業とやがて来る栄光との間には、大きな比較にならない不釣合があるためである。それに加えて、わたしたちと神との間には無限の距離があり、わたしたちが、善い業によって神に益を与えることも、以前の自分の負債を償うこともできず、何かできることをなした時でも、義務を果たしたに過ぎない無益なしもべだからである。

 

 また、わたしたちの業が善きものであるのは、神の御霊から出ているからである。そして、それらがわたしたちによってなされているかぎり、汚れていて、多くの弱さや不完全さが混じり合っていて、神の審判の厳しい規準に耐えられないのである。

 

 

 

 今夜は、テキスト文章が長く、十分な解説はできない。わたしたちは善行によって他の者に自分の功績を分け与えることはできないだけでなく、わたしたちが最高善を行っても自分の罪の赦しや永遠の命さえ得られない。自分たちの行いによって自分たちを救うことはできないのである。ウ告白は、行いによる救い、すなわち律法主義を否定する。

 

 

 

 使徒パウロは、律法を行うことによっては、だれも神に義とされないし、罪の自覚が生まれるだけだと言っている(ローマ3:20)。わたしたちは善き業を神の御前で誇れません(ローマ4:2)。なぜならわたしたちは神の御前にわたしたちのしなければならない義務を果たしているにすぎないからです。次回に続きを学ぼう。