ウェストミンスター信仰告白141 主の2020年7月15日
聖書箇所:創世記第24章1-9節(旧約聖書P33-34)
「第二十二章 合法的宣誓と誓願について」の三節
宣誓する人はだれでも、非常に厳粛な行為の重大さを正当に考慮すべきであり、宣誓においては、真理であると十分確信していること以外の何事をも公言してはならない。だれでも、善で正しいこと、自分がそう信じていること、また自分が行なうことができ、行なう決意をしていること以外の何事をも行なうと、誓うべきではない。とはいえ、合法的権威によって課せられて、善で正しいことについての宣誓を拒むことは、罪である。
今夜は、「第二十二章.合法的宣誓と誓願について」の三節を学ぼう。先週は二節の合法的宣誓を正しく行う方法について学んだ。宣誓が成立するのは、神の御名によって宣誓する時だけであり、神は誓約する者の誠実さを求めておられ、偽って誓うこと、神の御名以外で誓うことを禁じられていることを学んだ。聖書において神は誓約を認めてられ、神の御心に適う合法的誓約は、神の御心に適う合法的権威によって課せられている時、行なわなければならない。
今夜は、誓約する態度について学ぼう。誓約は、神の御名によってなされる行為であるので、非常に厳粛な態度を求められることを学ぼう。
いつものように他の訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
誓約を行う人は誰でも、これほど厳粛な行為の重大さを正当に考慮し、そこにおいては、真実であると自分が全く確信していることのみを明言すべきである。また、いかなる人も、善であり正しいこと、そして自分がそうだと信じていること、さらに自分に実行でき、実行しようと決意していること以外の何事にも、宣誓によって自分を拘束してはならない。とはいえ、合法的な権威から課せられた場合、善であり正しいことであれば、どんなことについても、宣誓を拒否することは罪である。
② 松谷好明訳
誓約を行う人はだれでも、かくも厳粛な行為の重大さをしかるべく考慮すべきであり、宣誓においては、自分が真実であると完全に確信していること以外は、何事も、真実だと言明してはならない。また、いかなる人も、良く、正しいこと、自分がそうだと信じていること、そして、自分が果たすことができ、また果たそうと決意していること、以外の、いかなることにも、宣誓によって自分を拘束してはならない。しかし、合法的な権威によって課されながら、良く、正しい、いかなることについても宣誓を拒否することは、罪である。
③ 鈴木英昭訳
宣誓する者はみな、このような厳粛な行為の重大性を真剣に考えるべきであり、その行為においては、真理であると十分に確信していること以外は、何事も断言してはならない。善であって正しい事柄、善であって正しいと信じている事柄、さらに自分で行うことがで、行なうことを決意している事柄以外のことを宣誓して、自分を拘束してはならない。しかし、合法的権威によって課せられる場合、善であって正しい事柄について宣誓を拒むことは罪である。
宣誓は、十戒の第三戒に基づいて、神の御名によって宣誓するのであるから、ウ告白はわたしたちに「非常に厳粛な行為の重大さを正当に考慮すべきであり」と注意を促している。
聖書は、「重大な宣言や証言の真実性が快く受け入れられない状況にある時、その主張を真実性の誓いという行為で表す」(『エッセンシャル聖書辞典』 いのちのことば社 P385)。
だから、ウ告白は、宣誓の態度について次のように述べている。「宣誓においては、真理であると十分確信していること以外の何事をも公言してはならない。だれでも、善で正しいこと、自分がそう信じていること、また自分が行なうことができ、行なう決意をしていること以外の何事をも行なうと、誓うべきではない」
創世記24章でアブラハムが息子イサクの嫁探しをしている。そこで彼は、自分の財産を管理させ、最も信頼できる年寄りの僕を、彼の親族が住む地に遣わし、息子イサクの嫁を連れて来るように使命を与えた。
アブラハムは、僕に彼の手をアブラハムの腿の間に入れさせて、天地の神の御名によって誓いを立てさせ、僕が彼の使命を忠実の果たすように誓わせた。
アブラハムは、息子イサクの嫁をカナン人の娘から選びたくはなかった。だから、僕を遣わして彼の親族から選び、カナンの地に連れて来ようとした。
僕はアブラハムに一つだけ質問した。彼が選んだイサクの嫁がカナンに来ることを拒むなら、どうすべきであるかと。
アブラハムは僕に、決してイサクを彼の親族の地に行かしてはならないと答えた。なぜなら、アブラハムは主なる神と契約した。そして、神はアブラハムに、彼の子孫とカナンの地の相続を約束された。
それゆえに、アブラハムは、神が彼の子孫をカナンの地で繁栄させてくださると十分に確信していた。だから、彼が僕に天地の神の御名によって息子イサクの嫁をカナンに連れて来るように誓わせることは、神の御心に適う善で、正しい事柄であった。そして、この誓いを、アブラハムはこの信頼できる僕を通して、必ず行うことができると確信し、行なうことを堅く決意していた。
アブラハムと僕の誓いは、創世記24章10-66節で主なる神の摂理の下で僕が使命を果たして、イサクの嫁をカナンに地に連れて来て、誓いが誠実の果たされたのである。
「誓うべきではない。」と委員会訳は訳しているが、村川・袴田訳、松谷訳、鈴木訳は「宣誓によって自分を拘束してはならない」という趣旨で訳している。偽りの宣誓によって自分に神の裁きを招かないようにという警告だろう。また、神の御心に適う制度においては、誓約は必要である。
ウェストミンスター信仰告白142 主の2020年7月22日
聖書箇所:サムエル記上第25章1-35節(旧約聖書P469-471)
「第二十二章 合法的宣誓と誓願について」の四節
宣誓は、言葉の平明な普通の意味において、あいまいな言葉使いや隠したてなしに、すべきである。それは罪を犯す義務を負わせることはできない。しかし宣誓するならば、罪の事柄でさえなければどのような事でも、たとえ自分自身の損失になっても果たす義務がある。またたとえ異端者や不信者にしたものであっても、宣誓を破ってはならない。
今夜は、「第二十二章.合法的宣誓と誓願について」の四節を学ぼう。先週は三節の誓約する態度について学んだ。宣誓は神の御名によってなされる行為であるので、非常に厳粛な態度が求められることを学んだ。十分に真理と確信している事柄を、また善で正しいと信じている事柄を宣誓すべきであり、必ず実行すると決意している事柄を宣誓すべきであることを学んだ。
今夜は、宣誓の文章が平明であること、どちらにも解釈できる曖昧な言葉は使用しないこと、宣誓は罪の事柄以外は誓約者に不利になっても守る義務があること、異端者や不信者に対する宣誓は、守る義務があることを学ぼう。
いつものように他の訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
宣誓は言葉の平明で普通の意味でなされるべきで、曖昧表現や、意中保留を用いてはならない。宣誓は人に罪を犯すことを義務づけることはできないが、しかし、宣誓がなされた場合には、罪でないことならどんなことでも、たとえその人自身の損失になっても、それはどうしても実行しなければならない。また、宣誓は異端者や不信仰者に対してなされたものであっても、破られてはならない。
② 松谷好明訳
宣誓は、用いられる言葉の、明瞭で、通常の意味において、あいまいさや意中留保[言葉の普通の意味を、自分の心の中で特定の意味に限定すること]なしに、なされるべきである。宣誓は人に、罪を犯すように強いることはできないが、しかし、罪ではない、いかなることにおいても、いったんなされたならば、たとえその人自身が損失をこうむるとしても、果たすことを義務づける。また、宣誓は、たとえ異端者や不信者に対してなされたとしても、破られてはならない。
③ 鈴木英昭訳
宣誓は、曖昧な言い方や隠しだてをせず、平易で通常の意味をもつ言葉でなされるべきである。宣誓は、人に罪を犯させることになってはならない。しかし、宣誓することが、罪になる事柄でなければ、それがたとえ自己の損失になっても、それを果たす義務がある。異端者や不信者に対してなされたものであっても、宣誓は破棄されてはならない。
この宣誓は、合法的宣誓である。罪の事柄でない、善で正しいと信じている宣誓である。宣誓に用いられる文章は、平明で、曖昧な表現がなく、意中保留(言葉の普通の意味を、自分の心の中で特定の意味に限定すること)なしに、誰に対しても明瞭なものでなければならない。その理由は、「それは罪を犯す義務を負わせることはできない。」からである。村川・袴田訳は「宣誓は人に罪を犯すことを義務づけることはできない」と訳し、松谷訳は「誓は人に罪を犯すことを義務づけることはできない」と訳している。宣誓は十戒の第三戒に基づき、正しくない目的のために、神の御名を使って祈願してはならないのである。人に罪を犯させる宣誓は許されないのである。
預言者エレミヤは、北イスラエル王国の神の民たちに罪の悔い改めを呼びかけて、次のように言っている。「もし、あなたが真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」(エレミヤ書4:2)。北イスラエル王国の神の民たちがバアル神を捨て、主なる神に立ち帰り、真実と公平と正義をもって「主は生きておられる」と誓うならば、彼らを通して諸国の民は主の祝福を得て、彼らは神の民イスラエルを誇りとすると、エレミヤは預言している。この誓いの言葉は平明で、曖昧な表現はない。言葉通りの意味であり、人の心の中で、特定の意味に限定されることもない。
ウ告白は、「しかし、宣誓するならば、罪の事柄でさえなければどのような事でも、たとえ自分自身の損失になっても果たす義務がある」と述べている。サムエル記上の25章にダビデとアビガイルの物語がある。ダビデがサウル王の迫害から逃れていた時の出来事を記している。ダビデはサウル王の迫害から逃れて、マオンの荒れ野に身を隠していた。彼と家来たちは、ナバルの羊飼いと羊の群れを保護した。羊の毛を刈り込む日は祝いの日であり、ダビデはナバルに祝いの分け前を求めた。それは、ナバルの羊飼いたちと羊の群れを保護した当然の報酬であった。しかし、ナバルはダビデの要求を拒否しました。ナバルの拒否はダビデに伝えられ、ダビデは400人の家来たちを連れ、ナバルと彼の持ち物すべてを滅ぼそうとしました。一人の羊飼いがナバルの妻に危機を知らせました。妻のアビガイルは、すぐに祝いの分け前を整えて、ダビデを訪れました。ちょうどダビデが主なる神の御前で彼の善意に対して悪意で報いたナバルと彼の家の男たちをすべて殺すことを誓って、ナバルの家に向かっていました。アビガイルはダビデに対して丁重に礼を述べて、夫の非礼に赦しを求め、祝福の分け前を差し出しました。こうしてダビデは、主の御前に誓ったことを実行して人の血を流すことを免れたことを喜びました。アビガイルの機転が無ければ、ダビデは主なる神に誓ったことを果たさなければならなかったのである。
ウ告白は、「またたとえ異端者や不信者にしたものであっても、宣誓を破ってはならない。」と述べている。ヨシュア記の9章にカナンの民族の一つギブオンがイスラエルに降伏した記事がある。ギブオン人は、ヨシュアとイスラエルの民と偽りの誓いをした。遠くの国から来たように見せて、イスラエルと契約を結んだ。すぐに目の前のカナンの民ギブオン人だと判明した。しかし、誓約したことは、破棄できなかった。そこでヨシュアは、イスラエルの民にギブオン人たちを殺すことを許さず、彼に神の幕屋でおいて柴刈りと水くみの労役を課したのである。
借金の連帯保証人となり、借金した本人が返済できない時、連帯保証人となった者は、その負債を負わなければならない。取立人が異教徒、不信者であっても、破棄することはできないのである。箴言23章26-27節に次のように警告がある。「手を打って誓うな。負債の保証をするな。償うための物があなたになければ 敷いている寝床まで取り上げられるであろう」。箴言6章1-5節でも他人の保証人とならないようにと警告がある。
ウェストミンスター信仰告白143 主の2020年7月29日
聖書箇所:サムエル記上第1章1-28節(旧約聖書P428-429)
「第二十二章 合法的宣誓と誓願について」の五―六節
誓願は、約束的宣誓と同じ性質のものであり、同じ宗教的注意をもってなし、同じ忠実さをもって履行すべきである(五節)。
誓願は、どのような被造物に対してもなすべきでなく、神のみになすべきである。そして誓願が受け入れられるためには、自発的に、信仰と義務の良心とから、受けたあわれみに対しあるいはわたしたちの必要を得たことに対する感謝として、なすべきである。それによってわたしたちは、しなければならぬ義務や、適切にその助けとなる限り他の事柄を、一層厳密に果たすことを誓うのである(六節)。
今夜は、「第二十二章.合法的宣誓と誓願について」の五―六節を学ぼう。先週は四節で宣誓の文章が平明であり、曖昧でないこと、罪の事柄以外、宣誓者がどんなに不利な状況になっても守る義務があり、異端者や不信者に対して宣誓したことを破棄できないことについて学んだ。
今夜からは誓願(五―七節)について学ぼう。「約束的宣誓」は、これまで学んで来た宣誓のことです。「約束的宣誓」は、神を証人に立てて、人と人が約束することである。「誓願」は神と人の間でなされる「約束的宣誓」である。
いつものように他の訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
誓願は、約束の宣誓と同様の性質のもので、同様の信仰的な注意をもってなされ、同様の誠実さをもって果たされるべきである(五節)。
誓願はいかなる被造物に対してもなされるべきでなく、ただ神に対してのみなされるべきである。そしてそれが受け入れられるためには、自発的になされ、信仰と義務の意識から出て、受けた憐れみに対する感謝として、あるいは望むものを得ることを目指して、なさるべきである。そしてこの誓願によってわれわれは、避けられないもろもろの義務や、他の事柄でも、その義務の遂行に適切に役立つ限り、また役立つ間は、それらに自らをより一層厳しく拘束するのである。
② 松谷好明訳
誓願は、約束の宣誓と同様の性格を持つもので、同様の信仰的な注意をもってなされ、同様の忠実さをもって果たされるべきである(五節)。
誓願は、いかなる被造物に対してもなされてはならず、ただ神に対してのみなされるべきである。そして、それが受け入れられるためには、任意で、信仰と義務感とから、受けた憐れみに感謝して、あるいは、求めているものを得るために、なされるべきである。誓願によってわたしたちは、必要な義務や、それらの義務の遂行に役立つかぎりで他の事柄に、自らを一層きびしく拘束するのである(六節)。
③ 鈴木英昭訳
誓願は、約束の宣誓と同様の性質がある。それで、同様の信仰的注意をもってなされ、また同様の誠実さをもって、履行されるべきである(五節)。
誓願は、神のみになされるべきであって、他のどのような被造物に対してもなされるべきでない。
誓願が受け入れられるためには、自発的に信仰から、義務への自覚から、憐れみに対する感謝から、あるいは欠けているものを得る願いからなさるべきである。この誓願によって、わたしたちは以前にもまして厳密になすべき義務に縛られる。あるいは、そうした義務を果たせるようにする他の事柄にも縛られる(六節)。
ウ告白は、1-4節で学んで来た宣誓とこれから学ぶ誓願との共通点と相違点を、注意深く教えている。両方とも、神に向けてなされる約束であり、必ず果たさなければならないという性質がある。神の御前に信仰と誠実さが問われるのである。だから、村川・袴田訳、松谷訳、鈴木訳は、委員会訳の「宗教的注意」を「信仰的な注意」と訳しているのである。
旧約の神の民は、神に誓願する時、いけにえの献げ物を携えた。「満願の献げ物」である。全焼のいけにえであり、傷のないものである。その犠牲の肉は町の中で食べてはならず、主の御前で食べなければならなかった(申命記12:17-18)。誓願の言葉は破ってはならず、神の御前に必ず果たさなければならなかった(民数記30:3-16)。
ウ告白は、6節で「誓願は、どのような被造物に対してもなすべきでなく、神のみになすべきである。」と教えている。これは聖書の教えである。神の民は、主なる神に対してのみ誓願を立てることが許された。他の被造物に対する誓願は許されない。十戒の第一と第二の戒めの対する違反であるからである。主なる神以外、また神が造られたどのような被造物も信じ、信頼することは許されない。
次に誓願の条件、「誓願が受け入れられるためには」、4つの条件がある。「自発的に、信仰と義務の良心とから、受けたあわれみに対しあるいはわたしたちの必要を得たことに対する感謝として」である。
第一に、任意である、誓願者が自発的にする誓いである。神が強いられたのではない。第二に「信仰と義務の良心とから」である。「信仰と義務の意識から出て」(村川・袴田訳)、「信仰と義務感とから」(松谷訳)、「信仰から、義務への自覚から」(鈴木訳)。誓願には信仰と義務への意識が必要である。主なる神への信仰と信頼、そして神に誓ったことを果たそうという義務の意識が無くて誓願は成り立たない。第三に「受けたあわれみに対し」である。神の民は出エジプトとカナン定住という神の憐れみに対して神に誓願を立てたのである。わたしたちは、キリストの十字架の贖いと罪の赦しと永遠の命という神の憐れみに対して洗礼において主への服従を誓ったのである。第四に「わたしたちの必要を得たことに対する感謝」として、である(委員会訳、鈴木訳)。村川・袴田訳は「望むものを得ることを目指して」、松谷訳は「求めているものを得るために」。旧約聖書のサムエル記上にハンナが子を得るために、生まれた男の子をナジル人として主なる神に献げると誓願し、果たしたことを記している(サムエル記上1:1‐2:11)。ハンナのように誓願は義務の遂行に拘束される。
ウェストミンスター信仰告白144 主の2020年8月5日
聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第7章1-24節(新約聖書P306-308)
「第二十二章 合法的宣誓と誓願について」の七節
だれでも、神のみ言葉が禁じているどのようなことをも、あるいはそれが命じているどのような義務を妨げるようになることをも、あるいは自分の力の中になく、その履行のために神から約束や能力を得ていないことを、果たすと誓ってはならない。これらの点において、終生の独身、公約した貧困、修道規則への服従という教皇主義者の修道誓願は、より高い完全の度合いであるどころか、迷信的な罪深いわなである。キリスト者はだれでも、このことにかかわり合うべきではない。
今夜は、「第二十二章.合法的宣誓と誓願について」の七を学ぼう。先週は五―六節で誓願について学んだ。宣誓と誓願の相違点は、次のとおりである。宣誓は神を証人に立てて、人と人が約束することであるが、誓願は神と人との間でなされる約束的宣誓である。宣誓と誓願の共通点は神に向けてなされる約束であり、必ず果たさなければならない。誓願は旧約においては神にのみなされる満願の献げものであり、それが成立する条件は、第一に自発的であること、第二に信仰と義務の意識が必要であること、第三に神の憐れみに対する応答の誓いであること、第四に求めていることを得るために誓うことである。
今夜は、七節について学ぼう。ウ告白は、何を誓願してはならないかを教えて、カトリック教会の修道院の誓願を批判している。
いつものように他の訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
何事であれ神の言葉において禁じられていること、また、神の言葉で命じられているどんな義務でも妨げるようになること、あるいは自分自身の力に余り、それを実行する能力を神から全く約束されていないこと、などをなすという誓いを、何びとも立ててはならない。その点において、終生の独身、誓願を立てた清貧、修道規則への服従、などの教皇主義の修道誓願は、より高い段階の完全性であるどころか、迷信的で罪深い罠であって、キリスト者は誰もそれに巻き込まれてはならない。
② 松谷好明訳
いかなる人も、神の言葉において禁じられていること、神の言葉において命じられている義務の遂行を妨げること、あるいは、自分の力にあまり、しかもそれを成し遂げる能力を神から約束されていないこと、などを、果たすと誓願してはならない。これらの点で、終生の独身、修道者になるための清貧・上長者への従順、という教皇主義の修道誓願は、より高い完全性の段階であるどころか、迷信的で罪深い罠であり、キリスト者はだれも、そのようなもので身動きをとれなくしてはならない。
③ 鈴木英昭訳
だれでも、神の言葉が禁じていること、命じられている義務の妨げになること、あるいは、自己の能力及ばないことを、また履行のための能力を神から約束されていないことを、果たす誓願をしてはならない。これらの点に関して、ローマ教会における終生の独身、公約した貧困、修道者的服従の誓願は、より高度の誓願の段階ではなく、迷信的な罪深いわなである。キリスト者はだれも、これらのこととかかわり合うべきではない。
ウ告白は、7節で誓願してはならないことを教えている。第一に十戒において主なる神が禁じられていることを、誓願することはできない。第二に主なる神が命じられている義務を妨げる誓願はできない。第三に誓願を果たす能力もなく、主なる神が誓願を果たせると約束もされていないことを誓うことはできない。
使徒言行録第23章12-22節でユダヤ人たちが使徒パウロの暗殺を計画し、彼らは彼を殺すまで何も食べないと、主なる神の御前に物断ちの誓いをした。それは、明らかに「殺してはならない」(出エジプト記(20:13)という神の殺人の禁止命令の違反であり、旧約聖書の民数記30章2節で、主なる神は次のように命じられている。「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。」という主なる神に誓いを口にしたことは、必ず義務を果たさなければならないことに反する誓いであった。使徒パウロの暗殺は、神の御心ではなく、ローマ帝国の軍隊が警護するパウロを、彼らが暗殺することはできなかった。彼らの誓願は、願掛けのような迷信的行為であり、罪深い罠であった。
マルコによる福音書6章14-29節でガリラヤの領主ヘロデが洗礼者ヨハネを殺す事件を記している。ヘロデの誕生日に彼は、高官や将校たち、そして有力者を招待した。その宴会で彼の妻の娘が踊りを披露した。ヘロデは娘に無制限の誓いをした。ヘロデの妻は娘を唆して、洗礼者ヨハネの首を盆に載せていただきたいと言わせた。ヘロデは、高官や将校、そして有力者たちの前で誓約したことなので、実行した。罪のないヨハネを処刑し、彼の首を盆に載せて娘に渡した。罪のない洗礼者ヨハネを殺したヘロデと彼の妻ヘロデアは、主なる神に裁かれ、ガリラヤの領主を失脚し、ガリヤ(今日のフランス)に流罪となった。
ウ告白は、ローマカトリック教会の修道誓願を批判する。「終生の独身の誓い」、「公約した貧困」、「修道規則への服従」である。これらの誓願は、福音的勧告を守ることである。平信徒たちに対して修道誓願者は、誓願によって「より高い完全の度合い」となろうとしている。矢内昭二先生は、「ここには自力救済、功績思想がその根底にある」と指摘されている(『ウェストミンスター信仰告白講解』(新教新書)P226)。
どんなに熱心さから出たことであっても、「受けた憐れみに対する感謝として」(ウ告白22;6)献身生活を誓うのでなければ、その誓いは迷信的で罪深い罠となる。ローマカトリック教会は、神父、司祭の子どもへの性的虐待が大きな問題となっている。
今日の世俗化と物質的豊かさの中で清貧を誓うことがローマカトリック教会だけでなく、プロテスタント教会の牧師も困難である。清貧に生き、人格を高めるという理想は、その根底に自力救済、功績思想がある。むさぼりの罪がある。使徒パウロは、律法が罪なのではなく、律法がわたしたちに「むさぼるな」と命じることで、わたしたちの心にむさぼりの罪があることに気づかされると述べている(ローマ7:7)。
ウェストミンスター信仰告白145 主の2020年8月12日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第13章1-4節(新約聖書P292-293)
「第二十三章 国家的為政者について」の一節
全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰をあたえさせておられる。
今夜は、「第二十三章.国家的為政者について」の一節を学ぼう。これまで「第二十二章 合法的宣誓と誓願について」学んだ。キリスト者は、神と隣人に対して偽り誓うこと、また誓ったことを果たさないことは許されない。誓うことは、十戒の第三戒に根拠を持つ。誓いは、合法的宣誓にしても誓願にしても、神の御名を口にすることである。偽りの誓いと誓ったことを果たさないことで、神の御名を汚し、隣人を傷つけることは許されない。それによって神の秩序が破壊され、共同体が危うくなるのである。
今夜からは「第二十三章 国家的為政者について」学ぼう。ウ告白が「合法的宣誓と誓願について」に続いて、「国家的為政者について」聖書の教える所を告白しているのには意味がある。合法的宣誓と誓願が神の御名に関し、神の秩序と共同体に、そして隣人を傷つけないことに関わるのであれば、「国家的為政について」は、十戒の第五戒に基づいた神が定められた秩序を守るためにある。
いつものように他の訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
全世界の至上の主であり王である神は、御自身の栄光と公共の益のために、御自身の下にあって、民の上に立つものとして、国家的為政者を定められた。そしてこの目的のために、剣の権能を身につけさせ、善き者たちを守り励まし、悪を行う者たちを罰するようにさせておられる。
② 松谷好明訳
全世界の至上の主であり王である神は、御自身の栄光と公共善のため、御自身の下にあって、国民の上に立つ、国家的為政者を定めておられ、そしてこの目的のため、善良な者は守り励まし、悪を行う者は処罰するように、国家的為政者に剣の権能を帯びさせておられる。
③ 鈴木英昭訳
全世界の至高の主、また王である神は、国家的為政者を御自身の栄光と公共の益のために、御自身のもとに、また民の上に存在するように、任命された。そして、この目的にそって、神は善を行う者たちを守り励まし、また悪を行う者たちを罰するために、剣の権能をもって彼らを武装させた。
ウ告白は、神を「全世界の至上の主であり王である神」と告白する。聖書の神は創造主、すべてのものの支配者であり、王である。神は、人間を御自身の御姿に似せて創造し、造られた世界を人間に委ねられた(創世記1‐2章)。しかし、人間の代表者であるアダム(人)が神の御命令に背き、神の造られた世界に罪が入り、神は御自身が創造された世界の秩序を守るために、「御自身の栄光と公共善のため、御自身の下にあって、国民の上に立つ、国家的為政者を定めておられ」るのである。カインが町を建て、彼の子孫が文化、文明の父となり、この世に人類が増え、ノアの洪水後にクシュにニムロドという地上で最初の勇士、すなわち、王、国家的為政者が生まれた(創世記10:8)。
人類は腐敗し、地上に悪が満ちて、神の怒りによりノアの洪水が起こった(創世記6-8章)。そして神は二度と洪水により人類を滅ぼすことをしないと誓われた(創世記9:11)。そこで人類に善を促し、悪を抑制するために、御自身の支配下に民を支配する者としてニムロド、地上の最初の権力者をお立てになった(創世記10:8)。
神が定められた創造の秩序は、家庭、社会、国家である。これらは、聖書を読むと、歴史的に形成されている。アダムとエバの家庭、そして子と孫が増えて部族を形成し、さらに出エジプト後、部族が民族となり、サウルとダビデが王となり、国家を形成した。
しかし、アダム以来、人類は罪によって堕落し、悪を行う。だから、ウ告白は、こう告白する。「ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰をあたえさせておられる」。
神は人類の罪を抑制するために、王を立てられ、彼に剣の権能を与えて、武装することを許されたのである。
神は、創造された家庭、社会。国家の秩序を守るために、国家的為政者が神から与えられた剣の権能を用いて、善を行う者を守り励まし、悪を行う者を罰することを許されている。
国家的為政者も国家も、人類の罪と堕落によって必要とされたものである。人類に善を奨励し、罪と悪を抑制するために、神が造られた世界に定められたシステムである。
それゆえに使徒パウロは、神が定められたローマ帝国と皇帝に服従するように、ローマ教会のキリスト者たちに命じている。
カルヴィニストは、世界と人生の全領域を主なる神が絶対的に支配されていると告白する。神は一般恩寵(救済的恩寵ではない)によって堕落した人類の罪を抑制するために、国家的為政者を立て、彼に剣の権能を与えておられるのである。
国家的為政者も罪人であるので、神から与えられた剣の権能を濫用し、教会を迫害し、民を搾取することがある。それゆえに教会とキリスト者は、国家と為政者が神の目的に従って剣の権能を用いているかを、見張らなければならない。
ウェストミンスター信仰告白146 主の2020年8月19日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第13章1-4節(新約聖書P292-293)
「第二十三章 国家的為政者について」の二節
キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる。
今夜は、「第二十三章.国家的為政者について」の二節を学ぼう。前回は「第二十三章 国家的為政者について」の一節を学んだ。人類が堕落した結果、創造の秩序を守り、罪を抑制するために、神は国家的為政者を任命し、剣の権能を委ね、善を行なう者には彼を擁護し、奨励し、悪を行なう者には罰を与えることを定められたことを学んだ。
今夜は「第二十三章 国家的為政者について」の二節を学ぼう。ウ告白は、キリスト者が為政者の職務に召され、就任し、その職務を果たすことは合法的であると述べている。ウ告白は、各国が定めた法律に従って、為政者が敬虔と正義と平和を維持すべきであり、その目的のためには合法的に戦争を行なうことは可能であると、ウ告白は述べている。
いつものように他の訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
キリスト者は為政者の職務に召されるとき、それを受け入れて果たすことが合法的である。その職務の執行に当たって、彼らはそれぞれの国の健全な法律に従いつつ、特に敬虔と正義と平和を維持するようにすべきである。同様に、その目的のために、彼らは新約の下にある今日も、公正で、やむを得ない場合に、戦争を行うことは、合法的で、許される。
② 松谷好明訳
キリスト者が為政者の職務に召されるとき、それを受け入れて遂行することは、合法的である。職務の執行に当たって、彼らは、それぞれの国の健全な法律にのっとり、特に信心と正義と、平和の維持に努めるべきである。それで、その目的のために為政者は、正当で必要な場合には、新約の下にある今でも、合法的に戦争を行うことができる。
③ 鈴木英昭訳
キリスト者は、自分が為政者として召されたとき、それを受け入れ果たすことは合法的である。その職務の遂行にあたっては、各国の健全な法律に従い、敬虔と正義と平和の維持に特に尽くすべきである。新約のもとにある今では、この目的のために、正当でやむをえない場合には、合法的に戦争を行うこともあり得る。
ウ告白が「キリスト者は為政者の職務に召されるとき、それを受け入れて果たすことが合法的である。」と教える事には歴史的背景がある。故矢内昭二先生は、次のように記している。「この節の背景には歴史的事情があるのですね。宗教改革の時代にアナバプティスト(再洗礼派)の人々は、幼児洗礼の否定、教会と国家の完全分離を主張し、非戦論をとなえ、法廷での宣誓を拒否し、クリスチャンが公職につくことを拒否したわけです。」
二節は、アナバプティスト(再洗礼派)に対する反論である。キリスト者は、公職に就くことが許されている。
箴言は8章15-16節で「わたしによって王は君臨し 支配者は正しい掟を定める。君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆、わたしによって治める。」と記している。「正しい掟を定める」は、義を布告することである。神が王(支配者)を立て、王は国民に義を布告する。「君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆」とは、一定の政治的権力を持つ者である。彼らは、神が立てられ、職に召された者たちである。だから、キリスト者が神に召されて公職に就き、為政者の職を遂行することは、神の御心に適い合法的であると、ウ告白は主張している。
為政者たちは、恣意的判断で国民を支配しない。各国には健全な法律があり、為政者はそれに従って国民を治めるのである。「健全な法律」とは、敬虔と正義と平和を維持するものです。
そのために使徒パウロは、為政者たちのために祈ることを勧めています(Ⅰテモテ2:2)。キリスト者の信心とキリスト者が平和に生活を営むためである。
ウ告白は、「各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので」と、キリスト者が各国の健全な法律に従って、信仰と正義と平和の維持のために、公職に就くことは合法的であると主張しているのである。
ウ告白は、アナバプティスト(再洗礼派)のように非戦論の立場ではなく、戦争を、敬虔と正義と平和の維持のために、合法的に行うことがあり得ると、許容している。
今日、ウ告白の時代のように、「正しい、またやむえない場合」に戦争を許容できるだろうか。正義の戦争はあり得ないし、核戦争の下で戦争が敬虔と正義と平和の維持という目的で遂行できるものかは疑問である。
日本の敗戦後75年を経た今、もう一度日本の近代化の足跡を検証すべきである。日清、日露、太平洋戦争と、日本は天皇の名のために聖戦を戦い、隣国の隣人たちの命を奪い、多大な損失を与え、自国も多くの若者の命が失われ、空襲と原爆で多くの国民の命が失われ、多大な損害を被ったのである。
日本国憲法に従い、平和主義と戦争の放棄をこれからも遂行すべきである。自衛隊を廃棄できないだろうけれども、徴兵制の復活に反対し、靖国神社の国営化に反対し、日本の政府が核廃絶に署名するように、働きかけることは大切であると思う。
ウェストミンスター信仰告白147 主の2020年8月26日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第13章1-4節(新約聖書P292-293)
「第二十三章 国家的為政者について」の三節
国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならない。しかし、一致と平和が教会において維持されるため、神の真理が純正に欠けなく保持されるため、すべての冒とくと異端がはばまれるため、礼拝と訓練においてすべての腐敗と乱用が防がれ、あるいは改革されるため、また神のすべての規定が正当に決定・執行・遵守されるため、国家的為政者はふさわしい配慮をする権威を持ち、またそうすることが義務である。このことを更に有効にするため、彼は教会会議を召集し、会議に出席し、またそこで処理されることが一切神のみ旨に従ってなされるように準備する権能を持つ。
〔一七八七年合衆国長老教会総会改訂 「国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国の鍵の権能を、自分のものとしてとってはならないし、信仰上の事柄に少しでも干渉すべきではない。しかし、養育する父親のように、ひとつのキリスト教教派を他派以上に優遇せず、およそすべての教会の人々が、暴力や危険なしに自分の神聖な機能のどの部分をも履行する十分な・解放された・疑う余地のなき自由を受けるような方法で、わたしたちの共同の主の教会を保護することが、国家的為政者の義務である。そして、イエス・キリストはその教会に正規の政治と訓練とを定められたので、どのキリスト教教派の自発的会員の中での・自分自身の告白と信仰に従うその正当な行使を、どの国家のどのような法律も干渉したり、邪魔したり、妨害したりすべきではない。だれも、宗教または無信仰を口実にして、何か軽べつ・暴力・虐待・傷害を他人に加えることがゆるされないような効果的方法で、すべての国民の人物と名声を保護すること、またすべての宗教的教会的集会が、邪魔や妨害なしに開催されるよう、ふさわしい配慮をすることが、国家的為政者の義務である」。日本基督改革派教会第四回大会採択〕
今夜は、「第二十三章.国家的為政者について」の三節を学ぼう。前回は「第二十三章 国家的為政者について」の二節を学んだ。ウ告白は、アナバプティスト(再洗礼)に反対し、キリスト者が為政者の職に就くことを合法的と擁護した。国家為政者は、各国の健全な法律に従い、信仰と正義と平和を維持すべきである。そのために公正でやむを得ない場合に戦争を行うことは合法的で許されると、ウ告白は主張していることを学んだ。
今夜は「第二十三章 国家的為政者について」の三節を学ぼう。民主化により、ウ告白の三節は、アメリカと日本の教会の現状に適合しない部分が生じて、アメリカ合衆国長老教会は一七八七年に改訂し、日本キリスト改革派教会は、第4回大会で「一七八七年合衆国長老教会総会改訂」を採択した。
いつものように他の訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
国家的為政者は、御言葉と礼典の務めや、また天国の鍵の権能を自らのものとして取ってはならない。とはいえ、国家的為政者は権威を持っており、教会の中に一致と平和が維持され、神の真理が純粋かつ完全に保たれ、すべての冒涜と異端が抑えられ、礼拝と規律におけるすべての腐敗と悪弊が予防されまた改革され、神の規定がすべて適切に定められ、執行され、遵守されるように、整えることがその義務である。それをよりよく達成するために、国家的為政者は教会会議を招集し、それに出席し、そこで取り扱われることがすべて神の御心に従ったものになるように注意を払う権能を持っている。
〔一七八八年合衆国長老教会総会改訂・日本キリスト改革派教会第四回大会採択〕
国家的為政者は御言葉と礼典の務めや、また天国の鍵の権能を自らのものとして取ってはならない。また信仰上の事柄に少しでも干渉してはならない。とはいえ、養父として、われわれの共通の主の教会を保護することが国家的為政者の義務であって、その際彼らはキリスト者のどの教派をも他の教派よりも優遇せず、およそすべての教会の人々が、暴力や危険なしに、それぞれの聖なる役割を果たすことができる十分な・独立した、そして疑問の余地のない自由を持つことのできるようにしなければならない。そしてイエス・キリストは御自分の教会に正規の政治と規律を定めておられるので、どの国のどんな方も、キリスト者のどの教派であれ、その自発的会員が自分自身の告白と信仰に従って教会の政治と規律を正当な仕方で行使するときに、それに、干渉したり、邪魔したり、妨害したりすべきではない。何ぴとも宗教または無信仰を口実にして他の誰にも、いかなる侮蔑、暴力、虐待、傷害を加えることを許さないように、効果的方法で、すべての国民の人身と名誉を保護すること、そして、すべての宗教的、教会的集会が邪魔や妨害なしに開催されるように適宜な方法をとることが、国家的為政者の義務である。
② 松谷好明訳
国家的為政者は、御言葉と聖礼典の執行や、天国の鍵の権能を、自らのものとしてはならない。しかし、国家的為政者は、〔第一に〕教会の中に一致と平和が維持されるように、また、〔第二に〕神の真理が純粋かつ完全に保たれるように、更に[第三に]すべての冒涜と異端が抑圧され、礼拝と規律におけるすべての腐敗と悪弊が予防あるいは改革され、神の規定すべてがしかるべく定められ、執行され、遵守されるように、取り計らう権威を有しており、また、そうすることが、彼らの義務である。こうしたことをより効果的に行うため、国家為政者は、教会会議を召集し、そこに出席し、そこで取り扱われることがすべて神の御旨にそったものとなるように配慮する、そのような権能を有している。
③ 鈴木英昭訳
国家的為政者は、御言葉と礼典の執行、または天国の鍵の権能を、自己のものとしてはならない。しかし、神の真理が純粋に欠けることなく保たれるため、すべての冒涜と異端が抑制されるため、礼拝と訓練におけるすべての腐敗と乱用が防がれ改革されるため、そして神のすべての規定が正当に定められ執行され守られるために、国家的為政者は権威をもち、教会において一致と平和が保たれるようにする義務がある。このことをいっそう有効にするために、彼は地域会議を招集し、それに出席し、また、そこにおいて処理されることがすべて神の御旨にしたがってなされるようにする権能を持つ。
国家的為政者は、御言葉と礼典の執行、そして天国の鍵の権能を、自己のものとしてはならない。あるいは、信仰上の事柄にいかなる干渉もすべきではない。しかし、国家的為政者は、主の教会を守るために、一つのキリスト教教派を他の教派以上に優遇せず、すべての教会の人々が、暴力や危険なしに彼らの神聖な働きを果たすのに、十分な、束縛されない、疑問視されない自由を享受できるように、養育する父親らしくわたしたちの共通の主の教会を守る義務がある。また、イエス・キリストは、御自身の教会に秩序だった政治と訓練とを定められたので、どのキリスト教教派の自主的な会員の、彼らの告白と信仰にしたがった彼らの適切な実践を、どの国のどの法律も干渉したり、妨げたり、邪魔したりすべきではない。信仰また無信仰のゆえに、だれも軽蔑、暴力、虐待、あるいは傷害を加えられないように、そのすべての国民の人物と名声を保護することが国家的為政者の義務である。また、すべての信仰的、教会的集まりが、邪魔や妨害なしに開催されるように、配慮されるべきである。(全文を日本基督改革派教会第四回大会(一九四九年)採択)
ウェストミンスター信仰告白148 主の2020年9月2日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第13章1-7節(新約聖書P292-293)
「第二十三章 国家的為政者について」の三節
国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならない。しかし、一致と平和が教会において維持されるため、神の真理が純正に欠けなく保持されるため、すべての冒とくと異端がはばまれるため、礼拝と訓練においてすべての腐敗と乱用が防がれ、あるいは改革されるため、また神のすべての規定が正当に決定・執行・遵守されるため、国家的為政者はふさわしい配慮をする権威を持ち、またそうすることが義務である。このことを更に有効にするため、彼は教会会議を召集し、会議に出席し、またそこで処理されることが一切神のみ旨に従ってなされるように準備する権能を持つ。
〔一七八七年合衆国長老教会総会改訂 「国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国の鍵の権能を、自分のものとしてとってはならないし、信仰上の事柄に少しでも干渉すべきではない。しかし、養育する父親のように、ひとつのキリスト教教派を他派以上に優遇せず、およそすべての教会の人々が、暴力や危険なしに自分の神聖な機能のどの部分をも履行する十分な・解放された・疑う余地のなき自由を受けるような方法で、わたしたちの共同の主の教会を保護することが、国家的為政者の義務である。そして、イエス・キリストはその教会に正規の政治と訓練とを定められたので、どのキリスト教教派の自発的会員の中での・自分自身の告白と信仰に従うその正当な行使を、どの国家のどのような法律も干渉したり、邪魔したり、妨害したりすべきではない。だれも、宗教または無信仰を口実にして、何か軽べつ・暴力・虐待・傷害を他人に加えることがゆるされないような効果的方法で、すべての国民の人物と名声を保護すること、またすべての宗教的教会的集会が、邪魔や妨害なしに開催されるよう、ふさわしい配慮をすることが、国家的為政者の義務である」。日本基督改革派教会第四回大会採択〕
今夜は、「第二十三章.国家的為政者について」の三節を続けて学ぼう。前回は「第二十三章 国家的為政者について」の三節の各々の翻訳を載せるだけで精一杯だった。今回は、三節の内容を学ぼう。
ウ告白は、「国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならない。」と国家為政者の統治に制限を設けている。主なる神は、教会と国家にそれぞれ異なる権能を与えられた。それが「天国のかぎの権能」と「剣の権能」である。
それゆえ教会と国家は分離した機関であり、両者の義務が重なり合うことはない。しかし、カルヴァンは、両者が共同責任を負う場があると言う。「正義が行なわれる場、憐れみのわざが遂行される場、貧しい人々が擁護される場、そして市民が安心して暮らせる場としての社会を形成すること」である(『リフォームド神学事典』いのちのことば社P146)。カルヴァンは、牧師会とジュネーブ市の小委員会の監督領域を分離した。そして長老会を通して両者は協力し合った。
牧師会は、牧師の按手、御言葉と礼典との執行、教理問答などの教会活動を整えることに従事した。小委員会は日々のジュネーブ市民の生活を監督した。だから、カルヴァンの時代、統治権の混交が生じた。教会の中に姦淫の罪を犯した者がいると、その者は長老会で戒告か破門を言い渡された。そして市の議会に送られて、判決が下された。礼拝の会衆の前に晒され、数日間パンと水しか与えられなかった。
この統治権の混交がカルヴァンのジュネーブ市から追放の原因となった。なぜならカルヴァンは、道徳問題については統治権の混交を主張し、市の当局者はそれを市民を監督する統治権への干渉とであると非難されたからである。
スイスの宗教改革者たちは皆、「政府は純粋な神の言葉が忠実に説教されるように、あらゆる努力を傾けるべきである」(「第一スイス信仰告白」1538年)と考えていた。教会と説教者は国家為政者によって擁護されるべきであり、教会と国家は慈善事業と教育事業において協力すべきであると考えていた。カルヴァンは、市の指導者たち(国家為政者)に「神の代官または代理人」としての政治の仕事を遂行するための士気を吹き込んだのである(「ジュネーブ教会信仰告白」1537年)。
カルヴァンの流れを汲む改革派教会は、政府は教会を擁護し、宗教に敵対する違反者を罰するために世俗の剣を使用すべきであると考えた。そして神の僕である為政者への服従を主張した。
しかし、同時に宗教改革者たちは、ツヴィングリは別として、霊的な事柄に関しては、国家為政者は教会に従うべきであると考えていた(「規律第二の書」1578年)。
ウ告白が「国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならない。」と述べる時、宗教改革者たちの伝統を受け継いでいる。「一七八七年合衆国長老教会総会改訂」はさらに「信仰上の事柄に少しでも干渉すべきではない」と、国家為政者が教会の霊的な事柄に干渉することを一切排除している。
新大陸アメリカは、ヨーロッパで迫害された多くのキリスト者が移住し、他教派に分かれたゆえに、「しかし、養育する父親のように、ひとつのキリスト教教派を他派以上に優遇せず、およそすべての教会の人々が、暴力や危険なしに自分の神聖な機能のどの部分をも履行する十分な・解放された・疑う余地のなき自由を受けるような方法で、わたしたちの共同の主の教会を保護することが、国家的為政者の義務である。」という条文を加えて、国家為政者が特定の有力教派のみを擁護し、他の少数派の教派を蔑視することがないように、どの教派、教会も国家の迫害がなく、自由に礼拝し教会活動できる集会の自由がある状態で教会を保護する義務があることを明記している。そして、キリスト教だけでなく、無信仰者、他宗教の者たちの信仰と集会の自由と彼らの人権(命と名誉)を守ることが国家為政者の義務であると明記している。
このように18世紀以後、改革派教会の諸信条によって信仰・信条と集会の自由と人権の擁護が次第にこの世で認められるようになってきたのである(フランス革命とアメリカの独立宣言等)。
今日日本でも日本国憲法でこのウ告白の信条は生きている。戦前の国家の教会の迫害と干渉によって、日本の教会は自らの罪と苦難に苦しみ、戦後解放されたのである。このウ告白の23章3節とアメリカ長老教会の「一七八七年合衆国長老教会総会改訂」が今日の日本で生かされるためにも、わたしたちの改革派教会は日本国憲法を擁護しなければならない。戦争の放棄と平和主義は、日本が戦争責任を負う国として当然の義務である。そして、戦前の罪は戦争責任だけではない。教会は信仰と集会の自由を守れず、現人神天皇を偶像礼拝した罪を負っている。だから、ウ告白の信仰に生きるために、日本国憲法を擁護すべきなのである。日本国憲法は、改革派教会の教会と国家に対する戦いの成果のひとつなのである。
ウェストミンスター信仰告白149 主の2020年9月9日
聖書箇所:テモテへの手紙一第2章1-3節(新約聖書P385)
「第二十三章 国家的為政者について」の四節
為政者のための祈り、その人物を尊び、彼に税と他の納めるべき物を納め、良心のためにその合法的な命令に服従して彼らの権威に服することは、国民の義務である。無信仰または宗教上の相違は、為政者の正しい法的権威を無効にせず、為政者に対するその当然の服従から国民を自由にせず、教職者も免除されない。まして教皇は、彼らが支配している国の中での為政者に対し、またはその国民に対し、何の権威も司法権ももっていない。とりわけ、彼が彼らを異端者と判断しても、または何か他の口実に頼っても、彼らからその国や命を取り去ることは断じて許されない。
今夜は、「第二十三章.国家的為政者について」の四節を学ぼう。前回と前々回は「第二十三章 国家的為政者について」の三節を学んだ。ウ告白が国家的為政者の権限に制限を設けていることを学んだ。また国家的為政者は、特定の有力教派のみを優遇することは許されないこと、またキリスト教以外の宗教者、無宗教の者にも信仰と集会の自由を与え、彼らの人権と名誉を擁護すべきことを学んだ。
今夜は、ウ告白が為政者と彼に服従する国民の義務について教えていることを学ぼう。ウ告白は、またこの節で教皇が剣の権能(司法権等)を持つことを否定している。
いつものように他の訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
為政者のために祈り、彼らの人格を尊び、彼らに税とその他の納めるべきものを納め、その合法的命令に従い、その権威に服すること(すべて良心に従ってである)は、国民の義務である。不信仰や宗教上の違いは、為政者の公正で法的な権威を無効にはせず、また彼らに対する当然の服従から国民を解き放つこともない。聖職者もこの服従を免除されないし、まして教皇は為政者たちの領土において、彼らに対しても、また彼らの国民の誰に対しても何の権能も司法権も持っていない。とりわけ、教皇が彼らを異端者と判断しても、また他のどんな口実を設けても、彼らからその領土や生命を奪う権力も裁治権も有していないのである。
② 松谷好明訳
為政者のために祈り、彼らの人格を尊び、彼らに税と他のさまざまな負担金を納め、良心のゆえ、彼らの合法的命令に従い、彼らの権威に服することは、国民の義務である。為政者の不信仰や宗教上の違いは、彼らの正当で法的な権威を無効にはせず、また、彼らに対する当然の従順から国民を解くこともない。教会人[特に高位聖職者を指す]といえども、この当然の従順から除外されず、まして教皇は、為政者たちの領土において、彼らや彼らの国民の一部を治めたり、いわんや、たとえ教皇が為政者を異端と断定し、あるいは、他のどんな口実を設けても、彼らからその領土や生命を奪い取るといった、そのような権能と管轄権を何ら有してはいない。
③ 鈴木英昭訳
為政者のために祈り、彼らを尊び、彼らに税と他の納めるべきものを納め、彼らの合法的な命令に従い、良心のために彼らの権威に服することは、国民の義務である。無信仰または宗教上の相違によって、為政者のもつ正当で法的な権威は失われない。また、教会関係者を含めて国民は、為政者に対して当然果たすべき義務を免れることはない。ましてローマ教皇は、その国を支配している為政者にたいし、また為政者が治める国民のだれにたいしても、支配権も裁判権も所有していない。なおのこと、教皇が為政者を異端であると判断し、他のなんらかの口実をもうけて、彼らからその支配や生命を奪うことはできない。
ウ告白は、国民の義務とローマ教皇に剣の権能がないことを教えている。
カルヴァンは、『キリスト教綱要』の第4編20章で「国家の行政について」論じている。彼によれば、国家的為政者は、神の代理人である。彼は神の奉仕者(しもべ)として神が立てられた権威(剣の権能)を行使し、神礼拝を育成し、保護し、健全な教理と教会を擁護し、市民生活が共存と正義に調和し、平和と安寧が維持されるようにするのである。
ウ告白もカルヴァン以来の改革派教会の伝統に立ち、国家的為政者が神の立てられた権威であり、彼に服従すべきことを認めている。使徒パウロが述べているように、ウ告白も「国家的為政者のために祈り、彼らの人格を尊び、彼らが国民に課す税や他の負担金等を納めることは、義務である」(Ⅰテモテ1:1‐2,ローマ13:6-7)と主張する。
日本国憲法も、国民に納税の義務を定めている。わたしたちも国家的為政者のために祈り、彼らの人格を尊び、国民に課せられた税や他の負担金等を納めるべきである。
カルヴァンは、不正な国家的為政者にも服従するように勧めているが、ウ告白は、「無信仰または宗教上の相違は、為政者の正しい法的権威を無効にせず、為政者に対するその当然の服従から国民を自由にせず、教職者も免除されない。」と述べている。国家的為政者がキリスト者ではなく、他の宗教を信じているか、あるいは無信仰者であっても、彼が合法的に国家的為政者に就いているならば、彼は神の代理人であり、彼が剣の権能を用いることは当然のことである。
旧約聖書によれば、主なる神は不従順な神の民を裁く道具として異邦人の王(ネブカドネツアル王)をお用いになった。異邦人の王は主なる神を信じていなかったが、主なる神は彼が剣の権能を行使することを拒まれなかった。それゆえに国家的為政者が異教徒であろうと、無信仰者であろうと、国民は彼に服従すべきである。また、聖職者も国家的為政者に服従すべきである。
最後にウ告白は「まして教皇は、彼らが支配している国の中での為政者に対し、またはその国民に対し、何の権威も司法権ももっていない。とりわけ、彼が彼らを異端者と判断しても、または何か他の口実頼っても、彼らからその国や命を取り去ることは断じて許されない」と述べている。ウ告白の時代(17世紀)、バチカン市国という独立国家は存在しなかった。中世においてローマ教皇は、神聖ローマ帝国の皇帝を破門し、教皇の支配下に皇帝を置いた。そうして教皇は世俗の権威に干渉することができた。ウ告白は、教会と国家の権能を分離し、そして教皇が剣の権能を用いて国家的為政者に干渉することに反対しているのである。
近世のヨーロッパの歴史において教会と国家(国家的為政者)の関係は、国家(国家的為政者)が教会に干渉する歴史であった。カルヴァンは、『キリスト教綱要』の第4編20章32節で旧約聖書の預言者たちやダニエル、そして使徒言行録の次の御言葉を引用して、国家的為政者への抵抗を認めている。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」。カルヴァンの言葉に励まされて、教会は国家的為政者の干渉に対して盲目的に服従するよりも国家的為政者の迫害に耐える苦難の道に慰めを見出したのである。そして、その苦難を経て今日、信教と集会の自由と政教分離の原則という恵みを手にしているのである。
ウェストミンスター信仰告白150 主の2020年9月16日
聖書箇所:創世記第2章21-24節(旧約聖書P3)
「第二十四章 結婚と離婚について」の一-二節
結婚は、ひとりの男子とひとりの女子の間でなすべきである。どのような男子にとっても、ひとりより多数の妻を、またどのような女子にとっても、ひとりよりも多数の夫を、同時に持つことは合法的ではない(一節)。
結婚は、夫婦お互いの助け合いのため、嫡出の子供をもって人類を、またきよい子孫をもって教会を増加さすため、また汚れの防止のため、制定された(二節)。
今夜は、「第二十四章.結婚と離婚について」の一-二節を学ぼう。「第二十三章 国家的為政者について」の一-四節を学んだ。神は、御自身の栄光と公共の益のために民の上に国家的為政者を任命される。彼に剣の権能を与え、悪を罰し、善を奨励するようにされる。そして、国の法律に従って敬虔と正義と平和を維持し、その目的を遂行するために、彼はやむを得ない場合合法的に戦争を行うこともあり得る。しかし、彼は、天国の鍵の権能をわが物とし、教会を干渉することはできない。教会や他の宗教団体を保護することは彼の義務であり、他宗教や無信仰者の集会の自由を妨げることはできない。また、国民は彼のために祈り、彼を尊び、彼に税と他の負担金を納めることは義務である。ローマ教皇もプロテスタント教会の教職者も彼に服従しなければならない。国民を支配する権限はない。以上のことを学んだ。
今夜から結婚と離婚について学ぼう。家庭は神の創造の秩序であり、その家庭はひとりの男とひとりの女子との結婚によって成り立っている。ウ告白は、一節で神の創造の秩序である結婚が健全に成り立つために、聖書が教える一夫一妻を支持し、一夫多妻と多夫一妻を神の御心に適わないと告白する。また、二節では結婚の目的を三つ指摘する。第一に夫婦相互の助け合いである。第二に嫡出の子供によって人類を増加させ、清い子孫によって教会を増加させるためである。第三に性的、道徳的汚れの防止のためである。
いつものように他の訳を参照しよう。
① 村川満・袴田康裕訳
結婚は一人の男性と一人の女性の間でなされるべきものである。いかなる男性も一人より多くの妻を、またいかなる女性も一人より多くの夫を、同時に持つことは、いずれも合法的でない(一節)。
結婚は夫と妻の相互の助け合いのため、嫡出の子どもによる人類の増加と聖なる子孫による教会の増加のため、さらには不潔の防止のために定められた(二節)。
② 松谷好明訳
結婚は、一人の男性と一人の女性の間でなされるべきである。いかなる男性も、一人以上の妻を同時に持つことは合法的でなく、また、いかなる女性も、一人以上の夫を同時に持つことは合法的ではない(一節)。
結婚は、夫と妻が互いに助け合うため、嫡出子をもって人類を増やし、清い子孫をもって教会を増やすため、また、不品行を防ぐため、に定められた(二節)。
③ 鈴木英昭訳
結婚は、ひとりの男子とひとりの女子との間でなすべきものである。どのような男子もひとりより多数の妻を、またどのような女子もひとりより多数の夫を、同時にもつことは合法的ではない(一節)。
結婚は、夫婦相互の助けのため、合法的な子孫による人類の増加のため、また清い子孫による教会の増加のため、さらに性的汚れの防止のために制定された(二節)。
ウ告白は、神が定められた制度としての結婚とその目的について、一-二節で述べている。
主なる神は、人間を男と女に創造し(創世記1:27,2:7,2:21-23)、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)ようにされた。神は人間を男と女に、共同体的存在として創造され、一人の男と女が結婚することによって家庭という共同体をなすようにされた。男と女が一つとなるとき、共同体の基礎である家庭が成り立つ。そして彼らは、神の「産めよ、増えよ」という祝福を遂行するのである。結婚は、神の祝福である。それによって生殖、受胎、出産を通して、人類は子孫を増やし、諸世代が連続していくのである。
主イエスは、創世記の神が男と女を創造されたことに言及されて、こう言われている。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マタイ19:5-6)。主イエスも、男と女が一つの共同体となることは、神が定められた創造の秩序であると考えられている。結婚は神が定められた男と女が一つの共同体を作り、神の祝福の中で「産めよ、増えよ」という神の文化命令を遂行するために必要なのである。
ウ告白は、創世記と主イエスの御言葉に従い、結婚を一人の男と一人の女との間でなすべきであると主張する。これが創造主なる神が定められた結婚である。しかし、人類の堕落後、最初にレメクが二人の妻を娶り(創世記4:23)、それ以来族長アブラハム、ヤコブ、ダビデ王、ソロモン王など旧約聖書は一夫多妻であった。それを根拠に今日もイスラムの社会で身分高き者は一夫多妻を続けている。さらに現代でも妻以外に愛人を多く持つ者がいる。ウ告白は、それを合法的ではないと否定する。神の御心に適わないからである。
次に結婚の目的である。第一に「夫婦のお互いの助け合いのため」である。主なる神は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」人間はひとりでは生きていけない。だから、彼に女を与えて、一つとし、一つの共同体を造られたのである。男と女が被造物としての人間の社会である。今日職業、スポーツに性差が無くなりつつあることは神の御心に適う合法的なことである。助け手は補助的存在ではない。女は、男のあばら骨、胸の骨で造られた。愛し合う対象として造られたのである。
ウ告白は、結婚の目的の第二に「嫡出の子」によって人類と教会の子孫の増加を挙げている。嫡出子は正妻の子という意味である。要するに夫と妻の間で生まれた子が神に祝された人類の一員であり、教会員の一員である。契約の子は、人類の一員であり、教会員である。彼らが増えることは神の祝福である。
結婚の目的の第三に、ウ告白は不品行の防止を挙げている。使徒パウロは、コリント教会の教会員たちに性的な不品行を避けるために、次のように勧告しています。「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」(Ⅰコリント7:2)。パウロの「男は女に触れないがよい」は、男女の性交を示す歪曲的表現である。コリント教会に性的な不品行があったのである。パウロは、彼らの魂を配慮し、彼らに不品行な行いを避けさせるために、結婚を勧めたのである。これはパウロが彼らに譲歩して言っているのである。