ウェストミンスター信仰告白171        主の2021216                                                             

聖書箇所:マルコによる福音書第141226(新約聖書P9192)

 「第二十九章 主の晩餐について」の一節

 わたしたちの主イエスは、渡される夜、主の晩餐と呼ばれる彼のからだと血との礼典を制定され、彼の教会において世の終わりまで守るべきものとされた。それは、彼に死によるご自身の犠牲を不断に記念するため、その犠牲のすべての祝福を真の信者に保証するため、彼らのキリストにある霊的養いと成長のため、彼らがキリストに対して負っているすべての義務を更に履行するため、またキリストの神秘的からだの肢体としての彼らのキリストとの交わり、また彼ら相互の交わりのきずなと保証になるためである(一節)

 

今夜から「第二十九章 主の晩餐について」学ぼう。前回までは、「第二十八章 洗礼について」の一-七節までを学んだ。洗礼と主の晩餐は、主イエスが制定された新約の礼典である。新約の礼典は、この二つだけである。そしてこの二つの礼典は世の終わりまで教会が守るべきものである。洗礼は恵みの契約の祝福の保証である。その祝福とは、キリストと神秘的結合、再生、罪の赦し、聖徒の交わり、永遠の命等の保証である。主の晩餐は、真の信者の霊的養いと成長のためである。キリストとの神秘的結合を保証し、教会における聖徒の交わりを保証するものである。子らには幼児洗礼を授けなければならない。しかし、信仰告白していない契約の子らは主の晩餐に与れない。洗礼はただ一度の執行であるが、主の晩餐は定期的に執行される。洗礼と主の晩餐は真の信者の信仰を強めるものであるが、それ自身が救いの条件ではない。信仰なしに救いはないが、この二つの礼典が無くても、御言葉(福音宣教)を通してキリストを信じる者は救われる。

 

今夜から以下の順に学ぼう。主の晩餐の定義と目的(一節)、カトリック教のミサの誤り、キリストの十字架の贖罪は一度限りであること、主の晩餐はその記念であること(二節)、主の晩餐は教役者が執行し、パンとぶどう酒を用いて、その場にいる者だけに配算すること(三節)、個人的ミサはキリストの制定に違反している(四節)、パンとぶどう酒はキリストの十字架を指し示す物質である(五節)、カトリック教会の化体説に反対する(六節)。主の晩餐においてどのようにキリストのからだと血が現臨するかを説明する(七節)、ふさわしくない陪餐について述べている(八節)

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

  村川満・袴田康裕訳

われわれの主イエスは、引き渡される夜、主の晩餐と呼ばれるかれの体と血の礼典を制定して、自らの教会において世の終わりまで守られるべきものとされた。それは、その死による御自身の犠牲をいつまでも覚えさせるためであり、またそれがもたらすすべての益を真の信仰者に保証し、彼らがキリストにおいて霊的に養われ、成長して、彼らがキリストに対して果たさなければならないすべての義務に一層専念するようになるためである。さらにそれは、彼らがキリストの神秘体の部分として持っているキリストとの交わり、また相互の交わりの絆となり保証となるためである(一節)

  松谷好明訳

わたしたちの主イエスは、引き渡される夜、世の終わりまで彼の教会において守られるべきものとして、主の晩餐と呼ばれる、彼の体と血の聖礼典を制定された。これが制定されたのは、[第一に]その死による主イエス御自身のいけにえをいつまでも記念するため、また[第二に]彼の死が真の信者たちにもたらすあらゆる益と、主イエスにおける、彼らの霊的養いと成長、および、主イエスに対して負っているすべての義務における、またそれらへの、彼らの一層の献身、に証印するため、更に[第三に]彼の神秘体の部分として彼らが持つ、主イエス、およびお互いとの交わりの、きずなと保証となるためである(一節)

  鈴木英昭訳

わたしたちの主イエスは、渡される夜、主の晩餐と呼ばれる彼の体と血による礼典を制定された。

それは主の教会において世の終わりに至るまで守られるべきである。それは、死による主御自身の犠牲を永遠に覚えるため、その死がまことの信者に与えるすべての恩恵を印証するため、信者たちへの主による霊的栄養と成長のため、主にたいするあらゆる義務をはたすため、そして、主の神秘的な体の部分としての主とのまた相互の交わりの絆と保証のため、である(一節)

 

ウ告白は「第二十九章 主の晩餐について」の一節で、主の晩餐の定義と目的を述べている。「わたしたちの主イエスは、渡される夜、主の晩餐と呼ばれる彼の体と血による礼典を制定された。」「渡される夜」の「渡される」は「裏切る」という言葉である。主イエスは、受難週の木曜日の夜、12弟子のひとりユダに裏切られ、ユダヤの官憲に引き渡された。その夜は「除酵祭の第一日」であった。「過越の小羊を屠る日」であった。主イエスは、エルサレムの都のある家の部屋を借り、12弟子たちと過越の食事をされた(マルコ14:1226)。マルコによる福音書は、主イエスと12弟子たちの最後の食事を、主イエスが主の晩餐を制定された物語として記している。

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マルコ14:2224)

 

ひとつのパンを裂き食べる行為は、主イエスの死に参与し、またその死がもたらす益を受けることを意味する。さらに共にぶどう酒を飲む行為によって、主イエスの一つの体に与る交わりが生まれる。主イエスは、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われた。主イエスは主の晩餐の後にユダに裏切られユダヤの官憲に逮捕され、死刑判決を受けられた。そしてユダヤの官憲は主イエスを死刑にするために、ローマ総督ポンティオ・ピラトに主イエスを引き渡した。そして主イエスはローマ兵士の手で処刑にされ、十字架の上で血を流され、殺された。

 

主イエスは、仲保者として自らの死によって恵みの契約に神の民ユダヤ人だけではなく、異邦人たちを入れられた。彼らは洗礼という新約の礼典を通して恵みの契約に入った。そしてユダヤ人も異邦人も皆、キリストの神秘的な体の部分として、共に主の晩餐においてパンを食し、ぶどう酒を飲む。それは、神の御国で共に食事する前味である。教会の礼拝における聖餐式は、そこに集まる神の民に主イエスと12弟子たちとの最後の食事とキリストの十字架を思い起こさせる。そして、聖餐を共に祝い、わたしたちの主イエス・キリストに共に従い、御国へと歩む展望を開かせるのである。

 

だから主の晩餐は、教会において洗礼と共に世の終わりまで守られ執行される。そしてその度に第一にキリストの死を記念し、十字架の贖いを常に思い起こすのである。第二にキリストの死がわたしたちに恵みの契約のすべての祝福を受ける保証となるのである。また恵みの契約は、わたしたちにキリストへの信仰と服従を義務として求めるゆえに、主の晩餐はわたしたちが信仰から信仰へと成長し、主イエスに従って御国へと歩める保証となるのである。第三にわたしたちは主イエスの体の一つの肢体として、愛と一つの絆で結ばれているのである。主の晩餐は、主イエスと兄弟姉妹を一つの交わりに固く結びつける保証である。

ウェストミンスター信仰告白172        主の2021223                                                                 

聖書箇所:ヘブライ人への手紙第92328(新約聖書P411412)

 「第二十九章 主の晩餐について」の二節

 この礼典において、キリストが、生きている者または死んだ者の罪のゆるしのためにみ父にささげられるのではなく、またどのような現実の犠牲がなされるのでもない。それは、キリストが自らご自身をただ一度だけ十字架にささげられたことの記念、またそのため神にささげうるすべての賛美の霊的ささげ物にほかならない。それゆえ、いわゆる教皇主義的ミサ犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめの供え物であるキリストのただひとつの犠牲にとって、最もはなはだしく有害である (二節)

 

今夜は「第二十九章 主の晩餐について」の二節を学ぼう。前回は、「第二十九章 主の晩餐について」の一節を学んだ。主の晩餐の定義と目的について学んだ。主の晩餐は、主イエスが制定された新約の礼典の一つである。キリストの体と血との礼典である。この礼典は、御言葉(福音宣教)と洗礼と共にキリストの十字架の贖いを伝える外的手段であり、キリスト教会が世の終わりまで守るべきものである。主の晩餐の目的は、キリストの贖罪死を記念し、その死による祝福を真の信者に保証し、彼らを霊的に養い、信仰を成長させ、彼らが洗礼を通して入れられた恵みの契約を遂行させるためである。キリストとの神秘的結合により主イエス・キリストに対する信仰と服従に歩み、聖徒の交わりを保証するためである。

 

今夜は、キリストの十字架の贖罪は一度限りであること、主の晩餐はその記念であることを学ぼう。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

この礼典では、キリストがその御父に献げられるのではない。また、生きている者あるいは死んだ者の罪の赦しのためにどのような現実の犠牲がなされるのでも全くない。それはただ、キリストがあのように、御自身を、自ら、ただ一度限り、十字架の上で献げられたあのただ一つのことの記念にほかならない。またそれは、そのことのゆえに、神に献げるできる限りの讃美の霊的な献げ物にほかならない。それゆえ、いわゆる教皇主義のミサの犠牲は、キリストの選びの民のあらゆる罪に対するただ一つのなだめの供え物である、キリストの唯一の犠牲にとって最もはなはだしく有害である(二節)

   松谷好明訳

この聖礼典において、キリストが彼の御父に献げられるのではなく、また、生きている者や死者の罪の赦しのために何が実際のいけにえが行われるのでは全くなく、[この聖礼典は] 、ただ、キリスト御自身が、あのようにして一度限り十字架の上で自らを献げられたことの記念であり、そのことのゆえに神に献げる、できる限りの賛美の霊的な奉献である。従って、教皇主義者のミサのいけにえ(彼らはそう呼ぶ)は、彼の選びの民のあらゆる罪に対するただ一つのなだめの供え物である、キリストのいけにえ、唯一のいけにえ、をひどく損なうものである(二節)

   鈴木英昭訳

この礼典では、キリストが御父にささあげられるのではない。また、キリストは、生きている者あるいは死んだ者の罪の赦しのために、現実にささげられる犠牲でもない。この礼典は、十字架の上で一度だけ御自身をささげられたその犠牲の記念である。また、礼典はこの義性のために神にささげられる最高の賛美という霊的な献げ物である。それで、ローマカトリック教会がミサ(と彼らが言う)犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめのいけにえであるキリストの唯一の犠牲にとって、最も嫌悪すべき侮辱である(二節)

 

ウ告白は「第二十九章 主の晩餐について」の二節で、ローマカトリック教会が教会で行っているミサ犠牲を非難しているのである。

 

ローマカトリック教会のミサは、主の晩餐に起源がある。キリストが最後の晩餐でパンとぶどう酒を取り、行なわれた一連の動作と言葉から出ている。「わたしの記念としてこのように行いなさい」と使徒たちに命じられたことから発展してきた記念祭儀(聖餐式)がミサである。初代教会の時代は、主の死と復活を記念して聖餐式を行ってきた(Ⅰコリント11:2326)。中世になると、ラテン語で聖餐式は行なわれた。そして、その式の終わりで「イテ・ミサ・エスト」(「行きなさい。解散の時です」)と言われたのである。その言葉から6世紀以後聖餐式全体がミサと呼ばれ始めたのである。ローマカトリック教会は、化体説の主張し、聖餐式のパンとぶどう酒がキリストの体と血に変化すると信じた。だから、聖餐式のキリストの制定の言葉の中にキリストが聖餐式のパンとぶどう酒という形を取って現臨され、聖餐式においてキリストの十字架のいけにえを再現していると信じているのである。だから、ローマカトリック教会は、ミサにおいて司祭が祭壇にキリストの体であるパンと血であるぶどう酒をささげるのである。そして聖体拝領者(信者)はキリストの体であるパンの品を受けることによってキリストの体と血を受けるのである。

 

16世紀の宗教改革者たちは、ローマカトリック教会がミサで十字架のキリストの犠牲を繰り返すことに対して、キリストの贖いの犠牲はただ一度であると主張して、反対した。聖餐式は十字架上の奉献を再現するものではなく、またキリストのなだめの犠牲ではなく、主の死と復活を記念するもの、神にささげる最高の賛美の霊的ささげものであると。

 

ウ告白は、宗教改革者たちの主張を支持し、忠実に継承している。「この礼典において、キリストが、生きている者または死んだ者の罪のゆるしのためにみ父にささげられるのではなく、またどのような現実の犠牲がなされるのでもない。それは、キリストが自らご自身をただ一度だけ十字架にささげられたことの記念、またそのため神にささげうるすべての賛美の霊的ささげ物にほかならない

 

主の晩餐は、わたしたちの罪のためのキリストの唯一無二の自己犠牲をあらわすものである。聖餐式のパンとぶどう酒の品は、ローマカトリック教会が主張する受洗後の信者の罪に対する現世の刑罰を免除するために、キリストのいけにえとして献げられるものではない。ミサで司祭がキリストに代わり仲保の働きをしている。このようにミサにおいてキリストの仲保者としての栄誉が汚されているので、ウ告白は「それゆえ、いわゆる教皇主義的ミサ犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめの供え物であるキリストのただひとつの犠牲にとって、最もはなはだしく有害である」と非難するのである。

 

ヘブライ人への手紙第92728節でこう記している。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 

 

聖餐式は、祭壇の場ではない。十字架のキリストの犠牲を再現する場ではない。むしろ感謝の食卓である。ただ一度、わたしたち選民の罪のために犠牲となられたキリストを記念する場である。罪を赦された喜びに感謝する場である。だから、聖餐式のキリストの言葉は、福音の約束である。キリストと結び合わされ、義とされ、聖とされ、神の子とされ、御国を相続するとの祝福の約束にあずかるのである。それゆえに聖餐式において聖別と感謝の祈りがあり、讃美歌を歌い、あるいは詩編歌を歌うのである。

 

ウェストミンスター信仰告白173        主の202133                                                                 

聖書箇所:マルコによる福音書第142226(新約聖書P9192)

 「第二十九章 主の晩餐について」の三-四節

 主イエスは彼の教役者に、この規定において、礼典制定のみ言葉を会衆に宣言し、祈り、パンとぶどう酒の品を祝福し、それによってこれらのものを普通の用から聖なる用に聖別すること、パンを取って裂き、杯をも取り、(彼ら自身もあずかりながら)陪餐者に二品を与えること、しかしその時列席していない者にはだれにも与えないことを命じられた(三節)

個人的ミサすなわち司祭またはその他の者からひとりでこの礼典を受けることは、会衆に杯を与えることを拒むこと、品々を礼拝すること、崇敬のためにそれらを持ちあげたり、持ち回ったりすること、偽りの宗教的用途のためにそれらを保存することと同様に、すべてこの礼典の性質とキリストの制定に反する(四節)

 

今夜は「第二十九章 主の晩餐について」の三―四節を学ぼう。前回は、「第二十九章 主の晩餐について」の二節を学んだ。キリストの贖罪死はただ一度限りであり、主の晩餐はその記念である。だからウ告白は、カトリック教会のミサ(記念祭儀)に反対する。ミサにおいてキリストの十字架のいけにえを再現し、キリストの犠牲を繰り返すことに反対する。主の晩餐の理解に有害であるからである。

 

今夜は、主の晩餐を執行する教役者の役割と主の晩餐の資格者(三節)、そして主の晩餐に関するカトリック教会の数々の誤り(四節)について学ぼう。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

主イエスはこの礼典において、かれに仕える聖職者たちに次のようにすることを定められた。すなわち、制定の御言葉を会衆にはっきりと告げること、祈ってパンとぶどう酒を祝福し、そのよってそれらの品を普通の用途から聖なる用途に取り分けること、そしてパンを取って裂き、また杯を取り、(自らもそれにあずかりながら)両方の品を陪餐者に与えること、しかしその時集会に列席していない人には誰にも与えないこと、である(三節)

個人的ミサ、すなわち、この礼典を司祭あるいは他の誰からでも、ひとりで受けること、さらにまた、杯を会衆に与えないこと、品々を礼拝すること、崇拝のためにそれらを持ち上げたり、持ち回ったり、何か偽りの宗教的用途のためにそれらを保存しておくことなど、これらはすべてこの礼典の本性とキリストの御制定とに反するものである(四節)

   松谷好明訳

主イエスは、この規定において、彼に仕える牧師たちに、次のようにすることを定めておられる。すなわち、[第一に]主イエスの制定の言葉を会衆に告げること、[第二に]祈って、パンとぶどう酒の品を祝福し、それによって、それらの品を日常の用途から聖なる用途へと聖別すること、[第三に]パンをとって割き、杯を取り、(自分自身もあずかりながら)両方の品を陪餐者に与えること、しかし[第四に]そのとき、集会に出席していない人には、だれにも与えないこと、である(三節)

私唱ミサ、すなわち、この聖礼典を司教や他のだれかからひとりで受けること、また同じように、杯を会衆に与えないこと、品々を礼拝すること、崇敬のためにそれらを高くかかげたり、持ち回ること、そして、偽りの宗教的用途のためにそれらを保存しておくこと、などは、すべて、この聖礼典の本質とキリストの制定とに反する(四節)

   鈴木英昭訳

この規定において、主イエスは彼の奉仕者に、次のことを定められた。すなわち、制定の御言葉をその民に宣言すること、祈ること、パンとぶどう酒の品々を祝福し、これらのものを一般の用途から聖なる用途に聖別すること、そしてパンを取って裂き、杯を取り、(彼自身もあずかりながら)これら二品を陪餐者に与えることである。しかし、その時に列席していない者には与えてはならない(三節)

個人的なミサ、すなわち、司祭またはその他の者から、ひとりでこの礼典を受けることは、礼典の性質とキリストの制定に反する。同じように、会衆に杯を与えることを否定すること、それらの品々を礼拝すること、崇拝のためにそれらをかかげたり、持ち歩くこと、わざとらしい宗教行事のために、それらを残しておくことについても言える(四節)

 

今夜は、ウ告白が三節で主の晩餐についての規定において、教役者、すなわち、教会の牧師たち、伝道所の宣教教師たちに定められている行為と主の晩餐に与る者の資格について教え、四節でローマカトリック教会の数々の過ちについて教えていることを学ぼう。

 

主の晩餐は、過越の最後の食事に起源がある(マルコ14:2226、マタイ26:2630、ルカ22:1520、Ⅰコリント11:2325)。キリストは12弟子たちと最後の食事をされた。その時主イエスは主の晩餐を制定された。主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、12弟子たちに与えられた。そして、主イエスは彼らに「取りなさい。これはわたしの体である」と宣言された。また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らに渡された。12弟子たちは皆飲んだ。主イエスは彼らに宣言された。「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14:2226)

 

主イエスの主の晩餐における行為は、目に見える神の御言葉である。主イエスが12弟子たちに主の晩餐においてなさったように、教会の主の晩餐において、見える神の言葉として、会衆に分かるようになされなければならない。聖餐式を執行する牧師の言葉と動作が会衆に理解できるようになされなければならない。

 

主の晩餐は食事であって、犠牲ではない。必要なのは祭壇ではなく、食卓である。用いられる品はパンとぶどう酒である。日常に使われているものである。牧師は、第一に主イエスの制定語を朗読し、それに伴う福音の約束を会衆に告げる。第二に聖別と感謝の祈りをする。パンとぶどう酒を祝福し、それによって日常に用いられている二品を、主のために用いる品とするのである。その後に神賛美、詩編歌を賛美し、使徒信条を唱え、小説教をする場合がある。

 

第三に牧師は、パン裂きの行為をする。会衆はその行為を見なければならない。その時牧師は主イエスの「取りなさい。これはわたしの体である」と宣言する。牧師は、長老にパンを渡して、会衆に配餐する。そして会衆はパンを食する。続いて牧師は杯を取り、祝福し、感謝の祈りをする。そして牧師は、ぶどう酒をかかげて、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの身から作ったものを飲むことは決してあるまい」と、主イエスの御言葉と福音の約束を宣言する。牧師は、ぶどう酒を長老に渡し、長老は会衆に配餐する。そして会衆はぶどう酒を一緒に飲むのである。

 

 

主の日の礼拝に出席せず、主の晩餐に列席していない者は、ウ告白が言うように聖餐に与ることはできない。また、ウ告白が述べているように、主の晩餐において祈って二品を祝福するが、それらを礼拝しないし、二品を崇拝するために保存することも、会堂の中で列をなして持ち歩くこともしない。ウ告白は、カトリック教会のそのような行為は迷信を助長し、主の晩餐の本質と主イエスの制定語に反すると批判する。

 

ウェストミンスター信仰告白174        主の2021310                                                                 

聖書箇所:マルコによる福音書第142226(新約聖書P9192)

 「第二十九章 主の晩餐について」の五-六節

キリストによって定められた用途のために正しく聖別されたこの礼典における外的な品は、真に、しかしただ礼典的にそれらが表わしているもの、すなわちキリストのからだと血という名でしばしば呼ばれるような関係を、十字架につけられたかたに対してもつ。しかしそれらは、その実質と性質とにおいては、依然として前と同じように、真実に、ただパンとぶどう酒のままである(五節)

パンとぶどう酒の実質が、司祭の聖別あるいは他のどのような方法ででも、キリストのからだと血の実質に変わると主張する(普通に化体説と呼ばれる)教理は、聖書に反するばかりでなく、常識にも理性にも反し、礼典の性質をくつがえし、従来も現在も様々な迷信、いな、ひどい偶像礼拝の原因である(六節)

 

今夜は「第二十九章 主の晩餐について」の五―六節を学ぼう。前回は、「第二十九章 主の晩餐について」の三‐四節を学んだ。三節で主の晩餐を執行する教役者(牧師・宣教教師)の役割と主の晩餐の資格者について、四節でローマカトリック教会の個人的ミサや主の晩餐における所作についての数々の誤りについて学んだ。

 

今夜は、主の晩餐においてキリストのからだと血はどのような仕方で現在するかという問題について学ぼう。五節でウ告白は、次のように述べている。パンとぶどう酒は、キリストによって聖別され、用いられる品である。礼典的に「キリストのからだと血」を象徴し、霊的にキリストは現在されている。そして二品は十字架のキリストの一度限りの贖罪死と関係している。しかし、二品は実質と性質において変化することなく、パンとぶどう酒のままである。六節でウ告白はカトリック教会の化体説が聖書に反し、それが二品を偶像礼拝する原因になっていると指摘する。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

この礼典の外的な品々は、キリストによって定められた用途に正しく聖別されたとき、時としてそれが表しているものの名、すなわちキリストの体と血と呼ばれることがある。それは真実にではあるが、あくまで礼典的にそう呼ばれるのであって、それらの品々はそのような関係を十字架につけられたキリストに対してもっているのである。もっとも、それらは実質と本性においては、以前と同様、真にそしてただパンとぶどう酒のままであるが(五節)

司祭の聖別やその他のどんな方法によってでも、パンとぶどう酒の実体がキリストの体と血の実体に変化するという教理(一般に実体変化説と呼ばれる)は、聖書だけではなく、常識と理性にさえも反している。それはこの礼典の本性をくつがえし、多種多様な迷信の、いやそれどころか、はなはだしい偶像礼拝の原因になってきたし、また現在もなっているのである(六節)

   松谷好明訳

キリストによって定められた用途のためにしかるべく聖別された、この聖礼典の外的品々は、ときどき、それらが表しているもの、すなわち、キリストの体と血、という名で、真に、しかし、聖礼典的にのみ、呼ばれる、そのような関係を、十字架につけられたキリストに対して持っている。しかし、それにもかかわらず、外的な品々は、実体と本質において、以前と同様、真に、ただパンとぶどう酒のままである(五節)

司祭の聖別や他の何らかの方法により、パンとぶどう酒の実体がキリストの体と血の実体に変化するとする教理(一般に全実体変化説と呼ばれる)は、聖書のみにでなく、常識と理性にも反し、この聖礼典の本質をくつがえし、過去においても現在においても、数多くの迷信、更には、ひどい偶像崇拝の原因である(六節)

   鈴木英昭訳

この礼典における目に見える品々は、キリストによって定められた用途に適切に聖別されるとき、十字架につけられたキリストとの間に、まことに、しかし、ただ礼典的にそれらがあらわしているものの名、すなわちキリストの体と血という名で呼ばれるような関係をもつ。しかし、これらは実体と性質において、以前と同じように、なおまことにただパンでありぶどう酒のままである(五節)

パンとぶどう酒の実体が、祭司の聖別や、他の何らかの方法によって、キリストの体と血とに変わることを教える(一般に化体説と呼ばれる)教理は、聖書に反するだけでなく、常識と理性にも反する。それは礼典の性質をくつがえし、これまで多くの迷信やはなはだしい偶像礼拝の原因になったし、現在もそうである(六節)

 

ウ告白が五節と六節で述べているのは、ローマカトリック教会のミサ聖祭と聖体拝領への批判である。そして、ミサ聖祭と聖体拝領を成り立たせている教理が化体説である。村川・袴田訳は、「実体変化説」、松谷訳は「全実体変化説」と訳している。わたしは神学生のとき、「化体説」という名で学んだ。パンとぶどう酒の実体がキリストの体と血の実体に変化するという教えである。

 

今日は、「化体説」は死語になりつつある。「実体変化」と呼ばれている。聖餐で用いられるパンとぶどう酒がキリストの体と血に変化するという中世神学的表現である。「実体変化」という表現は、トリエント公会議で最終的に採択された。そしてカトリック教会は現代バチカン公会議以後も「実体変化」をめぐり今日に相応しい表現を模索している。要するにカトリック教会は、聖餐においてパンとぶどう酒がキリストの体と血に実体的に変化し、キリストが血肉的現存をすると言うのである。

 

ミサ聖祭は、パンとぶどう酒が外観は変わらないが、司祭が聖別すると、キリストの体と血に変化し、司祭はパンとぶどう酒をキリストの体と血として、罪の赦しの犠牲として神に捧げるのである。そして信徒たちは、聖体拝領でパンのみを司祭の手から口に入れてもらう。ぶどう酒には与らない。

 

ウ告白は、聖書に基づいて最後の晩餐においてキリストが定められたパンとぶどう酒を聖別して、礼典の用途に用いる。パンとぶどう酒は、「キリストの体と血」と呼ばれ、陪餐者たちを十字架のキリストに関係づける。キリストの十字架の贖いがただ一度わたしたちの罪の犠牲であることをあらわすのである。しかし、パンとぶどう酒の実体は変わらないのである。

 

それゆえにウ告白は、カトリック教会のパンとぶどう酒がキリストの体と血に実体変化するという教理に対して、次の四点で反対する。第一は、実体変化の教理は聖書に反している。第二は人間の常識と理性に対しても反している。第三は、礼典の性質を覆している。第四は、カトリック教会のミサは様々な迷信が入り込み、偶像礼拝の原因になっている。

 

 

キリストは、12弟子たちとの最後の晩餐で主の晩餐を定められた。パンとぶどう酒の二品を用いられた。パンがキリストの裂かれた体を、ぶどう酒が十字架で流されたキリストの血によって恵みの契約を結ばれたことを告げられた。しかし、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変化するとは言われていない。だから、ウ告白は聖書に反すると述べている。信仰には分別が必要である。分別、すなわち、人の常識と理性にも反する。聖餐式に聖別して用いても、パンとぶどう酒は真実パンとぶどう酒そのものである。礼典は恵みの契約のしるしである。奇跡の場ではない。しかし、化体説は教会の中に迷信と偶像礼拝の原因となっている。

 

ウェストミンスター信仰告白175        主の2021317                                                                 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第112734(新約聖書P315)

 「第二十九章 主の晩餐について」の七-八節

ふさわしい陪餐者は、この礼典において、見える品々にあずかりつつ、信仰によって現実にまた実際に、しかし身体的、または肉的にではなく霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる。その時キリストのからだと血とが、身体的にまたは肉的にパンとぶどう酒の中に、またそれらと共に、あるいはそれらのもとにあるわけではないが、この規定において、品々そのものが信者の外的感覚に対すると同じように現実に、しかし霊的に、信者の信仰に対して存在する (七節)

無知で邪悪な者がこの礼典において外的な品を受けても、それによって示されているものを受けないばかりか、彼らがふさわしくないままでこれに近付くことによって、キリストのからだと血とを侵し、自分にさばきを招くのである。それゆえ、すべて無知で不信仰な者は、キリストとの交わりを享受するのに不適当であるから、主の食卓にあずかる値打ちがないし、彼らがその状態を続けている限り、キリストに対して大罪を犯すことなしにこの聖なる奥義にあずかり、あるいはあずかることを許されることはできない (八節)

 

前回は、「第二十九章 主の晩餐について」の五‐六節を学んだ。五節で主によって定められた礼典の主の晩餐に用いられる聖なる品、パンとぶどう酒は「キリストの体と血」を象徴し、キリストの霊的現在を表しており、キリストの一度限りの贖罪死と関係している。しかし、パンとぶどう酒はそのものにおいて変化することはないことを学んだ。そして六節でローマカトリック教会の化体説が聖書に反する教えであり、その教えが二品への偶像礼拝の原因となっていることを学んだ。

 

今夜は「第二十九章 主の晩餐について」の七―八節を学ぼう。七節では、主の晩餐のふさわしい者祝福について、八節では主の晩餐のふさわしくない者の災いについて学ぼう

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

ふさわしい陪餐者は、この礼典において、目に見える品々に外的にあずかるとき、その時信仰によってじっさい内的にも、現実そして本当に、しかし肉的物体的にではなく、霊的に、十字架につけられたキリストとかれの死のもたらすすべての益を受け、それらに養われる。その時キリストの体と血は、パンとぶどう酒の中に、またそれらとともに、あるいはそれらの下に、物体的あるいは肉的にあるのではない。それにもかかわらず、この礼典において、キリストの体と血とはその品々そのものが信仰者の外的感覚に対してあるのと同じほど現実的に、しかし霊的に、信仰者の信仰に対して現臨しているのである (七節)

無知で邪悪な人々は、この礼典において外的な品々を受けても、それでも、彼らはそれによって示されているものを受けることはなく、むしろ、ふさわしくないままでこの礼典にあずかることによって、主の体と血について罪があり、自らに裁きを招くことになる。それゆえ、無知で不信仰な人々はすべて、主との交わりを享受するのにふさわしくなく、同様に主の食卓にあずかるに値しない。そしてもし彼らがそのような者であり続けながら、これらの聖なる奥義にあずかったり、あるいはあずかることを許されるのはキリストに対して重大な罪を犯すことになる(八節)

   松谷好明訳

この聖礼典の目に見える品々に外的にあずかるふさわしい陪餐者は、そのとき同時に、信仰により内的に、現実的に、また実際に、しかし肉的、身体的にではなく、霊的に、十字架につけられたキリストと、彼の死がもたらすすべての益を受け、それらに養われる。このとき、キリストの体と血は、パンとぶどう酒の中に、それらと共に、あるいはそれらの下に、身体的あるいは肉的にあるわけではないが、しかし、信者の信仰にとっては、この規定の中に、品々自体が信者の外的感覚に対してそうであるのと同じほど現実に、しかし霊的に、現臨している(七節)

無知で邪悪な人々がこの聖礼典において外的品々を受けても、彼らは、それらによって意味されているものを受けることはなく、かえって、ふさわしくないままこの聖礼典に臨んでいたことにより、主の体と血に対して罪を犯して、自らに裁きを招くことになる。従って、すべての無知で不信仰な人々は、主との交わりを享受する資格はないのであるから、同様に、主の食卓にもふさわしくなく、もし彼らが、依然としてそのような者でありながらこれらの清い奥義に自らあずかったり、あずかることが許されるなら、彼らは必ずキリストに対して重大な罪を犯すことになる(八節)

   鈴木英昭訳

ふさわしい陪餐者は、現実に実際に、この見える品々に外的に、また信仰によって内的にあずかりながら、十字架につけられたキリストと彼の死によるすべての祝福を、身体的にではなく、霊的に受け、それに養われる。

キリストの体と血は、身体的に、パンとぶどう酒の中に、パンとぶどう酒と共に、あるいはパンとぶどう酒のもとにあるのではない。この規定においては、品々そのものが信者に外的に感知できるのと同じように、信者の信仰にたいして現実に霊的に存在する(七節)

この礼典において、無分別で無信仰な者が、外的な品々を受けるとしても、それらが内的に示すものを受けることはない。むしろ、ふさわしくないままでこの礼典に臨むために、主の体と血とにたいして罪を犯し、自分に裁きを招くことになる。

したがって、無分別で不信仰な者はすべて、主との交わりを享受するに、適しておらず、主の食卓にあずかるのはふさわしくない。彼らがふさわしくないままでいる限り、これらの聖なる奥義にあずかって主の食卓に参加することは、キリストに対して大罪を犯すことになる(八節)

 

七節を読む時に、実際教会の主の日の礼拝において聖餐式に与っている自分を思い起こそう。聖餐式は、信者だけがあずかることができる。信仰によってあずかるものであるからである。「ふさわしい陪餐者」とは、キリストの十字架がわたしの罪のためであると弁えている者である。彼は、信仰によってパンとぶどう酒を食する。パンを食べ、ぶどう酒を飲むことは、現実であり、実際である。今ここでの出来事である。しかし、パンとぶどう酒で示される十字架のキリストは、ローマカトリック教会が教えるように、パンとぶどう酒の中に身体的に、肉的におられない。ルター派教会が教えるようにパンとぶどう酒と共に、あるいはパンとぶどう酒の下に肉的、身体的キリストが共におられない。信仰によって霊的に、すなわち、目で見ることのできないキリストを、パンとぶどう酒を味わうように今ここにいてくださると信じるのである。御国の前味として、聖餐の恵みに、わたしたちの信仰によって与ろう。

 

聖餐式において目には見えないキリストがわたしたちの信仰によって現在される。だから、わたしたちは罪を赦されるキリストの御前に、その主の食卓に喜んで参加しよう。パンとぶどう酒を食べ、食べた実感と共に、信仰によって十字架のキリストによって罪を赦され、義とされ、神の子とされ、御国の相続人とされている祝福を喜ぼう。

 

 

しかし、「無知で邪悪な人々」、すなわち、聖書の言う「無分別で、不信仰な者」たちは、主の晩餐に与ることは相応しくないし、その資格がない。むしろ、与ることで、キリストに対する罪を犯し続けることになる。キリストの十字架がわたしたちの罪のためであると知ることなくして、聖餐式にヘリ下り参加することはできないだろう。使徒パウロは、コリント教会の聖餐式に信仰によって与らなかった者たちが弱い者や病人となり、多くの者が死んだと述べている(Ⅰコリント11:30)

 

ウェストミンスター信仰告白176        主の2021324                                                                 

聖書箇所:マタイによる福音書第281620(新約聖書P60)

 「第三〇章 教会の譴責について」の一節

主イエスは、教会の王またかしらとして、教会に、国家的為政者とは別個の教会役員の手にある政治を定められた(一節)

 

前回は、「第二十九章 主の晩餐について」の七‐八節を学んだ。主の晩餐(聖餐式)は、御言葉(聖書朗読と説教)と共に礼拝の中心である。神の御言葉が正しく語られ、聞かれ、聖礼典が正しく執行される、そこにキリストの臨在と祝福がある。しかし、この世の教会は、罪によって堕落する。神よりも人のことを思っている。ゆえに使徒ペトロのように、主イエスの道を妨げて、「サタンよ、退け」と叱責される(マルコ8:33)。しかし、主イエスは、ペトロを教会の使徒に任命され、主の羊の群れ(教会)を治めさせられたのである(ヨハネ21:1517)

 

今夜から「第三〇章 教会の譴責について」学ぼう。一節では、主イエス・キリストは世と教会の王であり支配者、そして、主イエスは教会の王であると共にかしら()であり、この世の支配者とは別個に教会を治めるために教会役員を定められたことを学ぼう

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

主イエスは自らの教会の王また頭として、そこに国家的為政者とは全く別の、教会役員の手による政治を定められた(一節)

 

   松谷好明訳

主イエスは、彼の教会の王また頭として、その中に、国家的為政者とは別の、教会役員の手による政治を定めておられる(一節)

 

   鈴木英昭訳

教会の王また頭として、主イエスは教会に、国家的為政者とは別個の、教会役員による政治を定められた(一節)

 

「譴責」は、日本語大辞典を紐解くと、「①不正や過失をとがめること。②責めとがめること。③戒告の旧称。」とある。今日の教会において「譴責」という言葉は使われず、「教会戒規」と言っている。英語は「ディシプリン(discipline)」である。「訓練、規律、懲戒、風紀、しつけ、自制」である。教会戒規には、この「訓練、規律、懲戒」という意味を含んでいる。教会形成のためには、教会員の規律が重要である。そのために教会戒規が積極的な働きをするのが、教会員の訓練である。消極的に働くのが、教会員が不注意に、あるいは故意に、教会の規律に違反したときである。違反した教会員を懲戒する。こうして教会の純潔と平和を守るのである。

 

国家と教会は、共に主イエス・キリストから権能を委ねられて、政治を行うのである。国家の権能は剣の権能である。国家的為政者は、悪人を裁き、善人には栄誉を与える。教会の権能は霊的権能であり、天国のカギを委ねられているのである。

 

国家も教会も政治を為すのであるから、憲法がある。日本キリスト改革派教会の憲法は、信仰規準と教会規程の二部から成っている。信仰規準は、日本キリスト改革派教会信仰規準の前文を付したウェストミンスター信仰告白・大小教理問答書から成っている。教会規程は、政治規準・訓練規定・礼拝指針から成っている。

 

ウ告白が告白する通り、「主イエスは、教会の王またかしら」である。主イエスが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28:18)と言われているように、主イエスは受難の死と復活を通して「天と地の一切の権能」を持つ者となられたのである。そして主イエスは、御自身の権能を教会に授けられ、すべての国民を弟子にせよとお命じになったのである。

 

教会規程の前文に「主イエス・キリストは、教会の王また頭として、教会に、仕える人、教導の言葉、礼典を含む礼拝儀式その他の活動を与えられ、特に、教理、政治、訓練、礼拝の大綱を定められた。これらすべては、聖書が明らかに教えているか、さもなければ聖書から必然的に推論することのできるものである」と記している(教会規程P2)

 

主イエス・キリストは、教会に、この世の為政者たちとは別個の教会役員たちを立てて、教会政治を行うことを定められたのである。

 

教会員が役員を選挙し、教会役員の手で教会政治がなされるのである。それが小会‐中会‐大会という会議のシステムである。小会は、だれを教会員とするか、天国の鍵の権能を与えられている。中会は教職養成が行われている。そして大会は、信仰規準と教会規程を作成する。小会、中会、大会の機能には、他に重要な働きがあるが、小会で教会員の信仰試問と戒規が、中会で教職者の養成と戒規がなされる。大会では憲法が審議されるのである。

 

改革派教会の政治は長老政治と呼ばれている。長老は、宣教長老である牧師と治会長老がいる。宣教長老は、御言葉と礼典に仕える者である。治会長老は、教会を治める者である。それから教会員を配慮し、教会に奉仕する執事がいる。

 

宣教長老と治会長老は、小会、中会、大会の会議に携わるが、執事は会議に参加し、報告や提案等の発言をしても議決権はない。会議の議長は、通常宣教長老、すなわち、牧師である。

 

会議は、礼拝同様にキリストが霊的に臨在される。それゆえ会議は礼拝形式で始められる。讃美歌、聖書朗読、祈りがあり、会議が始められる。中会と大会では説教と聖餐式と献金がある。

 

日本キリスト改革派教会は、規模が大きくないので、各個教会から教師、長老が出席して、中会と大会の会議を行っている。将来は代議制が行われるかもしれない。

 

 ウェストミンスター信仰告白177        主の2021331                                                                 

聖書箇所:マタイによる福音書第181520(新約聖書P35)

 「第三〇章 教会の譴責について」の二節

これらの役員に、天国のかぎが委ねられている。そのゆえに、彼らはそれぞれ罪をとどめ、またゆるし、悔い改めない者に対してはみ言葉と譴責とによってみ国を閉ざし、悔い改めた罪人には、その場合の必要に応じて、福音の奉仕や譴責の解除によって、み国を開く権能を持っている(二節)

 

前回は、「第三〇章 教会の譴責について」の一節を学んだ。説明が遅れたが、第三〇章の「教会の譴責について」と第三一章の「地方会議と総会議について」は、改革派・長老派教会の長老政治の根本理念である。国家同様に教会も政治を行う。そのために憲法があり、組織とシステムがある。教会の頭として、王として、主イエス・キリストは、教会に霊的権能、すなわち、天国のカギを授けられている。

 

先週は「第三〇章 教会の譴責について」の一節を学んだ。教会政治の基礎は、教会の頭であり、王である主イエス・キリストである。教会の権能は一切、このお方にあることを学んだ。教会の権能は、この世の支配者とは別個の、教会役員、すなわち宣教長老と治会長老の共同の統治による政治であることを学んだ。教会の職制は、宣教長老(牧師・教師)、治会長老、執事(教会役員であるが、政治には参加しない)である。教会のシステムは小会‐中会―大会である。下位の会議は上位の会議に従う。

 

いつものように他の翻訳を参照しよう。

   村川満・袴田康裕訳

これらの役員たちそしてそれによって彼らか、場合に応じて、それぞれ、罪を赦さないでおいたり、赦したりし、また悔い改めない者に対しては、御言葉と譴責の両方によって御国を閉ざし、悔い改める罪人には福音の宣教と譴責の解除によって、御国を開くという権能を持っている(二節)

 

   松谷好明訳

これらの役員に、天国の鍵がゆだねられている。これによって彼らは、場合に応じて、[第一に]罪を留め置いたり、赦し、[第二に]悔い改めない者には、御言葉と譴責の両方によって天国を閉ざし、[第三に]悔い改めた罪人には、福音の宣教と譴責の解除によって天国を開く、そのような権能を有している(二節)

 

   鈴木英昭訳

これらの教会役員には、天国の鍵が授けられている。そのために、彼らは罪を抑制し、赦し、また悔い改めない者にたいしては、御言葉と戒規とによって御国を閉ざし、悔い改める者にたいしては、福音を用いて、時に応じて戒規を解除し、御国を開く権能をもっている(二節)

 

「譴責」の言葉の説明については。前回を参照してほしい。「これらの(教会)役員たち」は、小会の牧師と長老たちである。彼らが共同に統治する小会に「天国のかぎが委ねられている。

 

天国のかぎ()」とは、「教会戒規」のことである。前回も述べたように、教会戒規には、「訓練、規律、懲戒」という意味を含んでいる。主イエスは、12弟子たちに「兄弟への忠告」を教えられた(マタイ18:1520)。教会が形成されると、これを健全に維持し、罪から守り、悔い改めの機会を促すために「教会戒規」が必要となる。主イエスは、罪を犯した兄弟に対して三段階での指導を与えている。これが教会戒規である。マタイによる福音書の教会は、このルールを採用していただろう。だから、「兄弟」は、教会員のことである。

 

改革派の宗教改革者たちにとって教会戒規は重要な課題であった。どうしても教会の中に罪を犯す者がいる。教会は、この教会員を除名するという教会戒規を行えるのか。教会戒規は、教会裁判と世俗の司法裁判のどちらの管轄下にあるのか。教会は世俗の社会問題に関わることができるのか。

 

チューリッヒで宗教改革を行ったツヴィングリは、教会戒規という考えを持っていた。しかし、教会と世俗は一つのキリストの共同体であり、世俗の行政官が市民生活の関わる全ての事柄を裁いた。教会には教会員に対する教会戒規はなく、罪を犯した教会員を、教会役員が除名できなかった。

 

エコランパディウスが改革派教会には教会戒規が必要であると提案した。彼は、世俗の行政官とは別に、教会員によって選挙された長老たちが開く教会裁判で罪を犯した教会員の教会戒規を執行すべきであると提案した。しかし、その提案は却下された。

 

しかし、カルヴァンが彼の提案を発展させ、カルヴァンは彼が作成したジュネーブ教会規定(1541)の中に教会戒規を実現しようとした。ジュネーブ教会の小会(教会会議)は、ジュネーブの牧師全員と12名の教会員によって選挙された長老から構成されていた。そこで教会戒規が執行された。教会員の違反者に訓戒がなされ、必要であれば除名がなされた。

 

カルヴァンにとってこの教会戒規の目的は三つだった。教会の純潔を守ること、キリスト者を罪の影響から保護すること、そして彼に罪の悔い改めを促すことである。

 

改革派・長老派教会は、この章の一節で告白するように、世俗の裁判と教会裁判との間に明確な区別があり、教会戒規はこの二節で述べているように教会員に拘束力を持つのである。

 

マタイによる福音書によれば、譴責は三段階で執行されている。第一段階は、忠告という形である。二人だけで、罪を犯した教会員への忠告がされる。第二段階は、罪を犯した教会員に対して少数の証人を置いて、決着をつける。罪を悔い改めるならば赦すのである。第三段階は、教会裁判である。それによっても罪を悔い改めない教会員に対して、除名がなされる。これらの段階を経る目的は、兄弟を得ることである。

 

ウ告白が2節で天国の鍵の権能の行使を二分法で述べて、罪を犯した教会員が罪を聞いて、再び福音宣教と教会戒規によって天国へと導かれるように、だから、小会は、よくよくこの点に心の留めるべきである。教会戒規の目的は、兄弟を得ることであり、「罪人の悔い改めを促す」ことであると。

 

問題は、今の日本の改革派教会の現状である。教会戒規の執行には問題がある。教会裁判がうまく機能していないという問題である。教会裁判にならないのである。重大な罪を犯した違反者が小会に出席しないで、欠席のまま、教会戒規が執行され、除名されるのである。そして、他派の教会で教会員として生活している。また、出席しても、自発的告白で決着するケースがほとんどである。その後、罪を告白した者が福音の宣教と譴責の解除によって天国を開く機能の教育的システムがないのである。