ウェストミンスター信仰告白16    主の20171220

 

 

 

聖書箇所:ペトロの手紙二第31418(新約聖書P439440)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「七」

 

 

 

 聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様にあきらかでもない。しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの個所で非常に明らかに提出され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる。

 

 

 

 前回は、「日本改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「六」を学んだのである。

 

 

 

信仰の宣言は、カルヴァンの「キリスト教綱要」の中の文章を引用して、「聖書は聖霊の学校であって、神御自身の栄光、人間の救いと信仰と生活について知らねばならないことは何一つ省略されていない。それで、聖書に追加したり除いたり変更したりすることは、人にも御使にも許されていない」と宣言している。

 

 

 

また信仰の宣言は、聖書の充分性の教理と聖書が与えられた目的との関係を指摘し、「み言葉を学ぶに際しては、聖書記者たちが証言しているのはどういう意図によるものかを常に考慮することが、特に重要である。」と宣言する。

 

 

 

従って信仰の宣言もまた、「あらゆる種類の勝手気儘な事項についてせんさくしたり、聖書がいかなる事柄についても充分な情報を提供するかのように期待したりしてはならない。」と、聖書を解釈する時の注意を与えているのである。

 

 

 

ウ告白の「7節」は、聖書の明白性(明瞭性)と多様性を教えている。

 

 

 

聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様にあきらかでもない。しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの個所で非常に明らかに提出され、開陳されている

 

 

 

この教理は、個人の聖書解釈を前提に告白されているのである。宗教改革者たちは、ルターに代表されるように聖書を自国語に翻訳し、民衆が聖書を手に取り、読めるようにした。

 

 

 

当時、印刷された聖書は高価で、教会、貴族、金持ちしか手にできなかったろう。しかし、教会は礼拝で聖書を読み、説教し、聖書を買った者たちも、民衆に読んで聞かせたろう。そうした状況を踏まえて、7節は聖書の明白性と多様性を教えているのである。

 

 

 

ペトロがパウロの手紙について次のように述べている。(1)「神から与えられた知恵による」(Ⅱペトロ3:15)(2)「その手紙の中には理解しにくい所もあり、無学な人や、心の定まらない人は、ほかの聖書と同じように、これを曲解し、自ら滅びを招いています」(フランシスコ会訳聖書同3:16)

 

 

 

ペトロは、パウロの手紙を聖書の他の書物と同様に「神から与えられた知恵による書」と認めている。それから、個人の聖書解釈を認め、その上で聖書を曲解し、パウロの手紙も曲解し、自らを滅びに招いていると警告している。

 

 

 

その曲解とは、パウロが手紙で神との正しい関係に入れられることとキリスト者の自由について教えていたことである。

 

 

 

ウ告白が7節で言っていることは、こう要約できる。(1)聖書は学者の専有する書物ではない。無学な人も読んで理解できる書物である。(2)聖書は個人的解釈を許されているが、読む者皆が聖書のすべての事柄を理解できるわけではない。なぜなら、聖書66巻は律法、歴史、文学、預言、黙示等の多様性があり、理解に苦しむ個所もあるから。(3)しかし、教理上、または信仰と生活において知らねばならないことは明白であり、誰でも、普通に個人礼拝、家庭礼拝、主の日の礼拝を続け、聖霊の学校で学ぶことで、また牧師の導き、教会の学びの交わりで、水曜日の聖書研究と祈りを続けることで、「救いのために知り信じ守る必要のある事柄は明白に理解できる」。その通りか、実際に聖書を読まれて、確かめてみてください。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白17    主の20171227

 

 

 

聖書箇所:ペトロの手紙二第31418(新約聖書P439440)

 

 

 

 「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「七」

 

 

 

 すべての人は、聖書を読み、その意味を探り、聖書の教える教理を採択する権利と義務とを有する。

 

聖書を学ぶにあたっては、聖霊の啓明と導きとを祈り求めつつ、聖書の権威に服従し、神が授けてくださる能力と手段を十分に用い、聖書の内容や目的に注意しつつ、個人で、また信仰者の交わりの中で、熱心に真理を探らなければならない。それと共に、み言葉の教師の教えや助言、教会の信仰告白や教理問答にも、ふさわしい配慮を払わなければならない。

 

聖書の使信を理解した時には、それを信仰と愛をもって受け入れ、私たちの心のうちにたくわえ、生活において実践しなければならない。

 

 

 

 前回は、「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「七」を学んだのである。

 

 

 

ウ告白の「一.聖書について」の「七節」は、聖書の明白性(明瞭性)と多様性を教えている。

 

 

 

この教理が個人の聖書解釈を前提に告白されていることを学んだのである。宗教改革者たちは、万民に聖書を自国語に翻訳し、聖書を民衆が手に取り、読み、解釈できるようにした。

 

 

 

貧しい人たちも教会で、自国語で聖書の御言葉を聴き、説教を聴くことができた。

 

 

 

だから、(1)聖書は学者の専有する書物ではない。無学な人も読んで理解できる書物である。(2)聖書は個人的解釈を許されているが、読む者皆が聖書のすべての事柄を理解できるわけではない。なぜなら、聖書66巻は多様性があり、解釈の難しい個所もあるから。(3)しかし、教理上、または信仰と生活において知らねばならないことは明白であり、通常の手段を用いれば、誰でも理解できるのである。

 

 

 

さて、信仰の宣言の「一.聖書について」の「七節」は、ウ告白を今のわたしたちの信仰生活にうまく適用するものである。

 

 

 

信仰の宣言は、個人が聖書を読み、解釈する権利と義務を有することを明確化している。宗教改革によりローマカトリック教会が独占していたものを、個人の権利と義務として得た喜びを、「すべての人は、聖書を読み、その意味を探り、聖書の教える教理を採択する権利と義務とを有する」という言葉で高らかに宣言したのである。

 

 

 

実際にわたしたちはおのおの聖書を所有し、それを自由に読み、その意味を探り、解釈し、聖書の教える教理を自分で採択する権利と義務を与えられている。

 

 

 

この権利と義務を有するゆえに、プロテスタント教会は多くの教派に分かれているのである。

 

 

 

しかし、この権利と義務を、「あらゆる種類の勝手気儘な事項についてせんさくしたり、聖書がいかなる事柄についても充分な情報を提供するかのように期待したり(6)して、乱用することは許されないのである。

 

 

 

だから、信仰の宣言は個人の聖書解釈の解釈法と適用について教えている。

 

 

 

聖書は「聖霊の学校(6)であるから、「聖書を学ぶにあたっては、聖霊の啓明と導きとを祈り求めつつ、聖書の権威に服従し、神が授けてくださる能力と手段を十分に用い」、既に学んだ「聖書の充分性の教理(6)を踏まえて「聖書の内容や目的に注意しつつ、個人で、また信仰者の交わりの中で、熱心に真理を探らなければならない(7)と教えている。

 

 

 

聖書を学ぶために、個人、祈祷会の聖書研究、男子会と婦人会、教理科、有志の学び会、修養会等で、聖霊の照明を求める祈りで始めるのである。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白18    主の2018110

 

 

 

聖書箇所:ペトロの手紙二第31418(新約聖書P439440)

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「八」

 

 

 

 (昔の神の民の国語であった)ヘブル語の旧約聖書と、(しるされた当時、最も一般的に諸国民に知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは、神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である。それですべての宗教論争において、教会は最終的にはこれらに訴えるべきである。しかしこれらの原語は、聖書に近付く興味をもち、神を恐れつつ聖書を読みまた探求するように命じられているすべての神の民に知られてはいないから、聖書は、神のみ言葉がすべての者に豊かに内住して、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために、聖書が接するあらゆる国民の言語に翻訳されなければならない。

 

 

 

 前回は、「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「七」を学んだのである。

 

 

 

聖書の明白性(明瞭性)という教えである。これは、個人の聖書解釈の権利を擁護するものである。信仰の宣言は、ウ告白を今のわたしたちの信仰生活にうまく適用し、個人の聖書解釈の方法と適用について次のように教えている。

 

 

 

聖書を学ぶにあたっては、聖霊の啓明と導きとを祈り求めつつ、聖書の権威に服従し、神が授けてくださる能力と手段を十分に用い」、既に学んだ「聖書の充分性の教理(6)を踏まえて「聖書の内容や目的に注意しつつ、個人で、また信仰者の交わりの中で、熱心に真理を探らなければならない(7)と。

 

 

 

ウ告白の「一.聖書について」の「八」は、聖書原典の権威と聖書翻訳の有効性を教えている。

 

 

 

旧約聖書はヘブル語で、一部アラム語で書かれている。新約聖書はギリシャ語で書かれている。聖書の原本は直接神の霊感を受けて書かれ、神の特別な配慮と摂理によってあらゆる時代に純粋に保存されてきたので真正のものである。しかし、今日聖書原本は現存していない。

 

 

 

聖書は今日印刷と製本技術の進歩により一冊の書物として、手に取り読むことができる。古代から中世は手写し本で、写し間違いが生じたのである。しかし、今日学者たちの本文批評学によって数千の写本を比較検討し、原本にほぼ近づいている。

 

 

 

ウ告白は、次のことを教える。宗教上の論争の時は聖書原典(ヘブライ語の旧約聖書とギリシャ語の新約聖書)が最終的権威である。しかし、聖書は万民のものであり、万民が聖書を知る権利がある。万民は聖書原典では言語を理解できず、聖書を知り得ないので、聖書原典を各国の言語に翻訳し、誰もが恐れをもって聖書を読み、知り得るようにしなければならないと。

 

 

 

ウ告白は聖書翻訳の益を次のように教える。(1)聖書の神の御言葉が万民の心に豊かに宿る。(2万民は聖書に教えられた神礼拝をする。(3)万民は聖書の与える忍耐と慰めによって、希望を持つことができる。

 

 

 

ウ告白がわたしたちに伝えたいことは、次のことである。聖書は万民に神の救いのメッセージを語るので、いつの時代でも、どの国民にも同じ真理を土台にしており、翻訳で聖書原典の力が減じたり、弱められたりすることはない。聖書原典と翻訳聖書は同じ聖書である。

 

 

 

今日聖書原典を日本語に翻訳した聖書があるから、わたしたちは聖書から神の救いのメッセージを聴き、神の御心にかなう礼拝し、日々翻訳聖書を読み、忍耐と慰めを与えられ、再臨のキリストと御国の希望を持つことが許されている。

 

 

 

昨年「新改訳聖書2017」という翻訳聖書が出版された。刊行以来版切れが続き、2月にならないと手に入らない。読めるのを楽しみにしている。聖書協会も今年「聖書協会共同訳」を出版予定である。「新共同訳聖書」とどれほど違う訳となるか楽しみである。カトリック教会はフランシスコ会聖書研究所が「聖書 原文校訂による口語訳」を出版している。読み比べてみるのもよい。

 

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白19    主の2018110

 

 

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第142633

 

 

 

 「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「八」

 

 

 

 キリスト者には、聖書に近付く多くの機会が与えられなければならない。そのために、教会は七十人訳と呼ばれる旧約の最も古いギリシア語訳を自己の聖書として採用した。その他、シリヤ語訳、ラテン語訳など各種の古代語訳を産み出し、とりわけいわゆるウルガタ語訳を広く長い期間にわたって提供し、宗教改革時代に至っては、正確で力強い多くの各国語訳を聖書原典から作成するに至った。

 

 教会は、神のみ言葉を委託されたものとして、聖書の翻訳・出版-頒布をについて意を用いなければならない。

 

 聖書は、礼拝・研究・教育・伝道など、その使用目的に応じて翻訳され、適切なものが選択され、使用されなければならない。責任をもって作成された翻訳聖書において、私たちは、確実十分に、神のみ言葉に接することができるのである。

 

 神は種々翻訳聖書を用いて、御自身のみ言葉をさまざまな歴史的文化的状況の中で語ってこられたから、今日、激動する世界のあらゆる形の人間文化の中でも、この聖書を用いて語り続けられると、私たちは信じる。すなわち、聖霊の啓明に寄り頼み、進んで神のみ言葉に聞き従う用意をもって、聖書が注意深く読まれ、また、御言葉の教師が聖書を正しく力強く熱心に説教し、会衆が信仰と愛と従順をもってこれに聞きいるところでは、神のみ言葉が今日も神の民に向かって語られているのである。

 

 

 

 

 

 前回は、「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「八」を学んだのである。ウ告白は、聖書原典の権威と聖書翻訳の有効性を教えている。

 

 

 

 信仰の宣言もわれわれキリスト者が聖書に近付くために多くの機会が与えられなければならないので、様々な翻訳聖書が必要であることを宣言する。

 

 

 

 信仰の宣言は、教会と翻訳聖書の歴史的関係を明らかにし、教会は神の御言葉を委託され、聖書翻訳・出版・頒布に意を用いる責任のあることを宣言する。実際は、聖書協会等の団体を通して聖書翻訳・出版・頒布の事業はなされており、教会とキリスト者はこれらの団体を献金によって支え、その責任を担っているのである。

 

 

 

 次に信仰の宣言は、聖書の翻訳の目的の多様性と翻訳聖書の確実性を宣言する。聖書翻訳の目的は多様である。礼拝、研究、教育、伝道と多様の用途のために聖書翻訳がなされる。新共同訳聖書は礼拝用に翻訳されたので、改革派教会は礼拝で使用する聖書として採択している。他に口語訳聖書と新改訳聖書も礼拝用聖書として採択している。

 

 

 

 これらの翻訳聖書は、わたしたちが確実十分に神の御言葉に接することを可能としていると、信仰の宣言は宣言している。

 

 

 

 神は初代教会、古代教会から、中世を経て、宗教改革の時代、そして現代に至るまで種々の翻訳聖書(70人訳、ウルガタ訳、ドイツ訳、英訳、日本語訳等)を用いて御自身の御言葉を、いろんな歴史的状況下で語られて来たので、現代の激動する時代と状況の中でも翻訳聖書を用いて語られると、「私たちは信じる」と宣言している。

 

 

 

 聖霊の啓明に寄り頼み、進んでサムエルのように「主よ、お語り下さい。僕は聴きますと」神の御言葉を聴く用意のある者には、聖書を読み、教会の礼拝で牧師の聖書の解き明かしである説教を熱心に聴く時、神の御言葉が今日神の民に語られていると、信仰の宣言は宣言するのである。

 

 

 

 今日、聖書翻訳は聖書協会や聖書刊行会等の働きであるが、本来は教会が責任をもってすべき事業である。そのことを改革派教会はよく理解し、教師を理事として聖書協会と聖書刊行会に遣わし、大会で理事の教師は一年間の聖書協会と聖書刊行会の働きを報告をし、大会はそれを聴取しているのである。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白20    主の2018124

 

 

 

聖書箇所:ペトロの手紙二第11621

 

 

 

 「ウェストミンスター信仰告白 一.聖書について」の「九」

 

 

 

 聖書解釈の無謬の基準は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって探究し、知らねばならない。

 

 

 

 前回は、「日本キリスト改革派教会信仰の宣言 一.聖書について」の「八」を学んだのである。

 

 

 

 信仰の宣言は、キリスト者が聖書に近付くために様々な翻訳聖書が必要であると宣言し、教会は神の御言葉を委託され、聖書翻訳・出版・頒布に意を用いる責任のあることを宣言し、実際に改革派教会と各個教会、そしてキリスト者は聖書協会と聖書刊行会等の団体の聖書翻訳・出版・頒布の事業を献金によって支え、その責任を担っていることを学んだのである。

 

 

 

 また、信仰の宣言は、聖書の翻訳の目的の多様性と翻訳聖書の確実性を宣言し、聖書翻訳が礼拝、研究、教育、伝道と多様の用途に用いられることを認め、これらの翻訳聖書は、わたしたちが確実十分に神の御言葉に接することを可能としていると宣言している。

 

 

 

 今回は、ウ信仰告白が「聖書が聖書自体の無謬の解釈者である」と告白していることを学ぶのである。

 

 

 

有名な「聖書解釈の無謬の規準は聖書自身である」という告白である。この告白は当時のカトリック教会に対する「否」である。カトリック教会は、聖書解釈の権威は教会の決定であると主張していたのである。聖書が何を教えているかを、教会が決定したのである。そのことにウ信仰告白は「否」を唱え、「聖書が聖書自体の無謬の解釈者である」と告白したのである。教会が何を教えるべきかを、聖書が決定するのである。

 

 

 

 まさに聖書解釈のコペルニクス的転回である。

 

 

 

 そこでウ信仰告白は、その前提を次のように明らかにするのである。

 

 

 

従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって探究し、知らねばならない。

 

 

 

二つの前提がある。第一は、聖書が本質的に全く一つのものであること。第二は、聖書は神の御言葉であり、他の文学等の解釈が当てはまらないということである。つまり、中立で聖書を読み解き明かす(解釈する)者はいないのである。信じて聖書を読むか、否かである。

 

 

 

さらにウ信仰告白は、「七節」との関係で聖書を解釈する二つの原則を明らかにしている。

 

 

 

第一の原則は「多様ではなくて、ひとつである」ということである。聖書の意味ないしは言おうとしていることは一つであるということである。これは、中世の聖書解釈者の聖書解釈方法を否定するのである。彼らは、聖書テキストを4つのレベルで解釈したのである。(1)比喩的ないし道徳的、(2)寓意的ないし霊的、(3)天上の教理的、類比的、()字義的な意味である。ウ告白は、聖書のどの聖句もそのように多様ではなく、ひとつであると告白している。現在では、字義解釈とは文法的、歴史的解釈のことである。

 

 

 

第二の原則は、「真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって探究し、知らねばならない。」という原則である。

 

 

 

聖書の中には一見矛盾と思える御言葉がある。疑問を持つ個所もある。意味不明と思えるところもある。その場合、聖書の他の個所に明瞭に記されているところから理解し、聖書を正しく研究するようにと、わたしたちを導いているのである。聖書が聖書を解釈する聖書の統一的解釈こそ聖書解釈の原理なのである。