マタイによる福音書説教025           主の201126

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書朗読とその解き明かしである説教を通してわたしたちの心を照らし、御言葉を理解し、福音において提供される主イエス・キリストをわたしたちの救い主として受け入れさせてください。アーメン。」

 

 

 

「『そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台にしていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると。倒れて、その倒れ方がひどかった。』

 

イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

 

                    マタイによる福音書第7章2429

 

 

 

  説教題:「岩の上に建てた家」

 

 

 

 主イエスは、山上の説教を終えられました。その時主イエスは弟子たちに、群衆に、そしてここにいますわたしたちに4つのお勧めをしておられます

 

今朝は、主イエスの最後のお勧めと、主イエスの山上の説教を聞きました群衆たちの驚きを学びましょう。

 

主イエスは、弟子たちに、群衆に、そしてわたしたちに、こう言われます。57章の主イエスの山上の説教を聞いて行う者は、岩の家に家を建てた賢い人に似ており、聞いても行わない者は砂の上に家を建てた愚かな人に似ていると。

 

主イエスは、弟子たち、群衆、そして、わたしたちに、「自分たちの土台を見よ」と言われます。

 

主イエスは、今ここにいてくださっています。目にはみえませんが。あなたの心のうちに主に質問して見てください。「主よ、このたとえは、何を教えてくださったのですか」と。 

 

主はお答えくださるでしょう。「あなたは、わたしを土台にして生きているのか。あなたの生活に、このわたしの山上の説教は生きているのか。そして、あなたが拠り所にしているこの上諏訪湖畔教会は本当にわたしを土台にし、わたしの山上の説教の御言葉に生きているのか」と。

 

主イエスが、弟子たち、群衆、そしてわたしたちにたとえを語られます。どうしてでしょうか。主イエスは、一つのことを願っておられるからです。主イエスの御言葉を聞き、かつ、行うことです。

 

弟子たち、群衆、そして、わたしたちは、キリスト教会であり、神の御国の市民です。使徒パウロは、使徒言行録14章で小アジアのキリスト者たちを励ましました。そして、次のように語りました。「わたしたちが神の国に入るには多くの苦しみを経なければならない。」(使徒言行録1422)。キリスト教会と神の御国の市民であるキリスト者にとって、この世に様々な苦難があります。しかし、最大の苦難は神の最後の審判の前に立つことです。

 

主イエスが弟子たち、群衆、そしてわたしたちにお話しになるこのたとえは、その神の最後の審判を見据えて話されています。

 

そこで主イエスは、弟子たちに、群衆に、わたしたちにそれが分かるように次のたとえを話されました。主イエスの山上の説教の御言葉を聞いて行う者は、岩の上に家を建てる賢い人に似ており、聞いても行わない者は砂の上に家を建てる愚かな人に似ていると。

 

賢い人は、必ず自然災害を考えて、岩の上に家を建てます。しっかりとした土台の上に家を建てないと、どうなるか知っているからです。愚かな人は、家を建てる時に建てることしか考えません。土地が安く、建築費も安上がりにできることを喜ぶでしょう。だから、平気で砂の上に、家の土台がしっかりしていないところに建てます。

 

主イエスの時代、家づくりに二つの方法がありました。石造りと土壁造りです。集中豪雨や強風が家を襲いました。大洪水や強風が簡単に土壁の家を倒し、押し流しました。しかし、岩の上にしっかりと建てられた石造りの家は、洪水や強風に抵抗できました。

 

主イエスは、このたとえで「似ている」と言われていますね。正確に日本語にしますと、「似ることであろう」です。主イエスは、弟子たちに、群衆に、そしてわたしたちに将来に起こることを暗に示されています。それは、わたしたちが主の日の礼拝ごとに使徒信条を告白し、キリスト教会が常にその日に備えていることです。神の最後の審判です。

 

わたしたちの家に襲いかかる集中豪雨、洪水、台風、竜巻などの強風、この自然の大災害を、主イエスは神の最後の審判にたとえられています。

 

岩の上に家を建てた人の賢さと砂の上に家を建てた人の愚かさが、明らかになるのは建てた家が自然の大災害に襲われた時です。同様に主イエスの御言葉を聞いて行う者の賢さと聞いても行わない者の愚かさが明らかにされるのは神の最後の審判の時であります。

 

主イエスは言われています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ721)

 

神の最後の審判は人の目に今は見えません。しかし、主イエスはわたしたちにはっきりと言われます。自然の大災害がわたしたちの建てた家に襲ってくるのと同じに、必ずすべての人に、今生きている人、既に死んだ人、これから生まれるすべての人に、すべてのキリスト者に必ず訪れると。

 

また、主イエスがたとえられる「賢い人」と「愚かな人」は、頭の問題ではありません。要領が良い人と悪い人の問題でもありません。神の審判の時が何を意味するかを知っている者を、主イエスは「賢い」と言われ、知らない者を「愚か」と言われています。

 

だから。主イエスはわたしたちに賢い者のように神の最後の審判に備えて、主イエス・キリストという土台の上に自分の信仰生活を建て上げるようにお勧めになりました。

 

イギリスの有名な説教者、ロイドジョンズは『山上の説教』の中で、こう説教しています。「山上の説教を実行しなければならないとは言わない。けれども私たちは、もし聞いただけでこれを実行しないなら、呪われるのである。注釈するだけで、これを実践しないなら、さばきの時にこれらの聖句が私たちを訴え断罪する」

 

神の最後の審判が何を意味するかを知る者として、わたしたちは主イエスの御言葉を聞くのみではなく、主イエスに従い、主イエスの御言葉を行えるように、聖霊にお助けを求めて祈りたいと思います。

 

わたしたちのすべての生活の中で、主イエスの山上の説教の御言葉を実行する努力を続けたいと思います。

 

弱い者ですが、絶望する必要はありません。確かに神の最後の審判に主イエスは立たれて、わたしたちの行いを裁かれます。この裁きの前にキリスト者もキリスト者でない者も、主イエスは裁かれます。しかし、今主イエスはこの教会に、わたしたちと共に居てくださいます。神のインマヌエル、神わたしたちと共に居ますお方として。わたしたちを神の御国へと導くお方として。だから、主イエスは、今わたしたちに神の最後の審判に備えて生きるようにお勧めくださっています。教会のかしらとして、教会の手を取り、わたしたちの手を取り、聖霊に導かれて天の父なる神さまに祈るように導いてくださっています。だから、失敗を恐れる必要はありません。自分の弱さを心配する必要はありません。常に自分の罪を悔いるだけで良いのです。十字架のキリストを仰ぎ、自分の罪が神に赦されていることを感謝し、キリストがわたしたちの助け手としてお遣わしくださった聖霊なる神の助けをいただいて、父なる神に御心を歩ませてくださいと祈るだけで良いのです。「主よ、御心をなさせてください」と祈るのです。主イエスに従おうとする者を、主イエスはお見捨てにならないのです。最後の審判の時に、主イエスは父なる神の御前に顔を上げられないわたしたちを執り成してくださいます。だから、喜んで主の御言葉に励もうではありませんか。

 

主イエスが山上の説教を終えられました。すると、主イエスと弟子たちを取り囲み、主イエスの山上の説教を聞いていた群衆たちは、主イエスの教えにとても驚きました。その理由は、第1にいつも教えを聞いていた律法学者たちとは違っていたからです。第2に権威ある者として教えられたからです。

 

御言葉を聞くことの驚き。群衆たちの驚きは、彼らの中に神であるキリストが臨在されたという驚きです。旧約聖書の中にこの驚きがよく出てきます。族長ヤコブは兄エソウを騙して祝福を奪い、自分の家におれなくなり、逃亡しました。その途中で石を枕に眠っていますと、神の御使いたちが天の梯子を登り降りする夢を見ました。そこに主が現れて、ヤコブを祝福してくださいました。ヤコブは目を覚まし、「主がこの場所におられるのに、私は知らなかった。」と、恐れおののき、言いました(創世記281022)

 

この驚きはキリストの臨在を感得するという驚きです。インマヌエル、神わたしたちと共にいますという驚きです。

 

律法学者たちは、後に主イエスに批判されますように、教えるが、それを実践しませんでした。彼らはユダヤの民衆に神の律法を知識として教えても、神を愛し、隣人を愛することを実践しませんでした。ところが、主イエスにおいては教えと行いは一つでした。そして、主イエスの山上の説教は、メシア・キリストの御言葉でした。キリストは律法を捨てられませんでした。むしろ完成されました。律法の正しさをもって、神の御前に罪ある者を、助け無き者を祝福する、あの十字架の行為によって罪の赦しの恵みをお与えになりました。キリストの臨在と御言葉が、神に罪ある者、神から離れた者、神の御前に助け無き者を、罪を赦し、父なる神と和解し、神の祝福の食事に与る、神との交わりを回復しました。

 

群衆の驚きは、今のわたしたちの驚きです。「宣教」は教えることです。キリスト教会は、御言葉を語り、教えることで、主イエスの山上の説教を継続しているのです。そして、主イエスは今もわたしたちに御言葉を通してここに臨在を約束してくださっています。主イエスは、神がわたしたちと共にいますお方として、御言葉と聖餐を通してわたしたちを教え、戒め、慰め、祝福してくださっています。わたしたちと共にいますキリストは、神の最後の審判の時まで、この世界の歴史の終わりまで、わたしたちのこの教会に留まり、御言葉と聖餐を通して教会を助け、教会を教え、今も世界が大きく変動する中で、教会とキリスト者たちが新たなこの世界の挑戦を受けている中で、常に教会に寄り添い、わたしたちの人生の旅路に寄り添ってくださっているのです。お祈りします。

 

御在天の父なる神よ。山上の説教を学び終える恵みを感謝します。主イエスが教えてくださったように、神の最後の審判に備えて教会生活、信仰生活を歩ませてください。インマヌエル。神がわたしたち共にいますお方として、キリストが教会に臨在され、わたしたちの人生に同行してくださっていることを感謝します。素直に自分の罪を認め、キリストの十字架と復活を仰ぎ、罪の赦しと永遠の命を確信させてください。主イエスに感謝し、教会と共に残された人生を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教026           主の2011213

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書朗読とその解き明かしである説教を通してわたしたちの心を照らし、御言葉を理解し、福音において提供される主イエス・キリストをわたしたちの救い主として受け入れさせてください。アーメン。」

 

 

 

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」

 

                    マタイによる福音書第41822

 

 

 

  説教題:「主イエス・キリストの弟子となる」

 

 

 

 今朝は、主イエス・キリストがペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子に召されたことを学びましょう。

 

4111節で荒野において悪魔の誘惑に打ち勝たれた主イエスは、412節以下でガリラヤで伝道を始められました。主イエスは人々に「心を神に向けて生きよ。神の支配が近づいた」と宣べ伝えられました(17)。そして、主イエスは、御自身が語られる神への民の喜び、天の国の福音を広めるために御自身の弟子たちを集められました。

 

412節に主イエスがガリラヤ伝道を始められ、弟子たちを集められた時を記しています。洗礼者ヨハネが、ガリラヤの領主、ヘロデに捕らえられ、牢に入れられた時でした。ヨハネは、メシアの道を備え、ユダヤの民衆に罪の悔改めの洗礼を授けていました。

 

さらにマタイによる福音書は、主イエスがガリラヤのカファルナウムの町に住み、ガリラヤ伝道をはじめられたことを物語り、それは旧約聖書の預言者イザヤが、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(イザヤ書82391)と預言したことが、主イエスによって実現したと証ししています。

 

このように主イエスのガリラヤ伝道は、預言者によってあらかじめ知らされていた神の御計画でした。そして、サタンに打ち勝たれた主イエスは、神の御計画に従って、ガリラヤ湖を中心とした伝道活動を始められました。その目的は、近づきつつある神の国の光を照らして、異邦人の救いを実現するためでした。そのために主イエスは、今弟子たちを集めようとされていることを、今朝の御言葉はわたしたちに伝えています。

 

最初に主イエスの行動に注目しましょう。第1は、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられることです。

 

主イエスは、初めの弟子を得るために、まずガリラヤ湖のほとりを、教会の前にあります諏訪湖の湖畔沿いを歩き回られるように、歩き回られました。

 

主イエスの目的は、最初の弟子を得ることでした。主イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩きまわり、様々な人々を御覧になり、弟子を捜されました。

 

2は、主イエスが初めに弟子たちを「御覧になり」ました(18節、21)。主イエスがペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを発見されました。主イエスは、ガリラヤ湖のほとりで働いている大勢の漁師たちの中からペトロとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネ兄弟を御自分の弟子にお選びになりました。

 

3は、主イエスの召しであります。ペトロとアンデレたちがガリラヤ湖のほとりで投げ網で魚取りをしている時に、主イエスは彼らの前に現れ、「わたしに従いなさい」と彼らを御自身の弟子に召されました。また、ヤコブとヨハネ兄弟が父親と一緒に網の手入れをしている時に、主イエスは彼らに現れ、恐らくペトロとアンデレに言われたことを言われたでしょう。「わたしに従いなさい」と。

 

4は、主イエスは、弟子に召したペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに使命を与えられました。「人間をとる漁師にしよう」。

 

このように主イエスは、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを選び、彼らがこの世において仕事をしている中から弟子に召し、人間をとる漁師にしようとされました。

 

マタイ福音書は、わたしたちに主イエスがペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子に召された物語を通して何を伝えているのでしょうか。

 

1に主イエス・キリストの弟子となることは、主の選びと召しが必要であります。主イエスは、「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ」と言われています(ヨハネ1516)。主イエスの弟子は、主イエスの選び、召しがなければ、生まれません。

 

2に主イエス・キリストの弟子となることは、主イエスの「わたしについて来なさい」という御声に従順に聞き従う者となることです。主イエスは、仕事中のわたしに、学生のわたしに、こどものわたしに、年老いたわたしに、悩み、病めるわたしに、今でも聖霊と御言葉を通して現れ、「わたしについて来なさい」と呼びかけられます。

 

この呼びかけは、「弟子となって従う」「主イエス・キリストに属するものとなる」ことを意味しています。

 

70人訳の旧約聖書に、主イエスの「わたしについて来なさい」という言葉が、主なる神ヤハウェに従うか、異教の神々に従うかの、選択を迫る時に使われています。「他の神々,周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。」(申命記614)。主イエス・キリストの弟子となることは、この世の異教の神々を捨て、主イエス・キリストのものとなることです。

 

だから、主イエスの「わたしについて来なさい」という御声は、417節の「悔い改めよ」を主イエスが日常生活の中で、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネに語られました。

 

3に主イエス・キリストの弟子なることは、人間をとる漁師にしようという祝福の約束があります。「人間をとる漁師」とは何か。主イエスは具体的に説明されていません。それは、弟子たちを新しい存在とするという約束です。榊原康夫引退牧師は、有名なマタイ福音書講解の中で「人間をとる漁師」を、「他人に救いを与え、人々を神の国に連れ込む奉仕者にする」ということだと説明されています。そして、次のように説教しておられます。「ペテロたちを人をとる漁師にする、ということは、このようにイエス・キリスト御自身が駆けずり回って人を集め、人を救い、人をとってくださって、その喜びに、ペテロたちを招き入れてくださるということに他なりません。」

 

本当にその通りだと思います。主イエス・キリストの弟子となり、35年になりました。どうしてわたしを、主は伝道者に召されたのだろうと思うほど、働きの少ない者ですが、どこの教会に遣わされても、また、1信徒として教会生活をしても、主イエスが人を集め、人を救い、この世から、サタンの手から勝ち取ってくださった教会の交わりに入れていただき、主の救いの喜びに、わたしも招き入れていただいている、この喜びは、わたしが病気になろうが、年老いようが変わることはないと思います。

 

最後に主イエス・キリストの召しと呼びかけにペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネはすぐに答え、主の弟子となりました。ペトロとアンデレは生活の糧であった投げ網を捨てて、主の弟子となりました。ヤコブとヨハネは一緒に働いていた父を残して、主の弟子となりました。

 

身内と縁を切り、生活の糧を捨てて、主の弟子となることは、厳しい選択であります。しかし、もっと奥深いところと縁を切り、もう一度主が憐れみ、身内を救い、新たな関係を築いてくださるのも事実です。

 

わたしが大学生のころ、キリスト者になろう、洗礼を受けようと思ったとき、一番の問題は家を捨てること、肉親と縁を切ることでした。わたしの家は異教の神々に深く結び付いています。主イエスの弟子となることは、それらと縁を切って、わたしがキリストのものなることです。悩んで、主に祈りました。一生涯キリスト者として生きていけるようにしてくださいと。主がお示しくださった道は献身の道でした。

 

神学校に入り、牧師になり、ある意味で家と縁を切りました。しかし、主は身内と新たな関係を持たせてくださいました。長男で、家を継ぐのがあたりまえですが、身内の者に家は継がないと言っても、村八分にされるわけでもありません。本当に30年ぶりに母と同じ屋根の下で今年は生活を許され、感謝しています。

 

確かに、主イエス・キリストの弟子となることは、家族との決別を含む過激な従順がわたしたちに要求されることがあります。しかし、他方で主イエスは、わたしたちを試練に耐えられないほどの重荷負わされることもないという現実があります。

 

わたしは、自らの弱さを主に率直に訴えて祈り、主に信頼する以外にないと、主に委ねるならば、主が道を必ず開いてくださる、なぜなら、主イエスを救い主と信じ、主イエスの十字架がわたしの罪のためと受け入れ、洗礼を受けてキリスト者となったものを、主はお見捨てにならないと信じています。裏切ったペトロを赦された主が、弱いわたしたちを赦されないはずがなく、教会の兄弟姉妹を迫害した罪人のかしらパウロを、主は弟子とされました、どうして弱い主の弟子であるわたしたちを、主はお見捨てになることがありましょう。お祈りします。

 

御在天の父なる神よ。主イエス・キリストの弟子となることを学ぶ機会をお与えくださり、感謝します。主イエスの「わたしに従いなさい」という御声を聞いて、わたしたちは主を信じ洗礼を受け、信仰告白をし、主の弟子となりました。しかし、わたしたちの生活において主の弟子となることに、多くの困難を覚えております。自分では解決できないこともあります。どうか主よ、わたしたちに常に寄り添って助けてくださり、家の問題、地域の問題、自らの信仰の弱さの問題を、主が担い、解決してください。小さな群れですが、主イエスが諏訪地方、伊那、松本、安曇野を駆け巡り、わたしを集め、救い、あなたの救いの喜びに加えていただけたことを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教027           主の2011220

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書朗読とその解き明かしである説教を通してわたしたちの心を照らし、御言葉を理解し、福音において提供される主イエス・キリストをわたしたちの救い主として受け入れさせてください。アーメン。」

 

 

 

「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。『だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。』」

 

                    マタイによる福音書第814

 

 

 

  説教題:「よろしい、きよくなれ」

 

 

 

 主イエスは弟子たちや群衆に山の上で説教をし終わると、山を下りられました。群衆たちは、主イエスと弟子たちの後について行きました。

 

 その時に思いがけない大事件が起こりました。それを、わたしたちの聖書は「すると」としか、書いていません。もう少し丁寧に表現すれば、「すると見よ」という、人々の大きな驚きをあらわす表現になります。

 

主イエスの弟子たちと従って来た群衆たちは、信じられない出来事に出合いました。突然主イエスと弟子たちと群衆たちの前に重い皮膚病を患った人が現れました。そして主イエスに近づいて来ました。主イエスが通られる道の前にひれ伏しました。主イエスを主なる神と拝み、彼は主イエスに言いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。

 

 主イエスの時代、重い皮膚病は恐ろしい病気でありました。モーセ時代、イスラエルの民は、この皮膚病を「ツァーラアート」と呼んでいました。今日のハンセン病にとどまらず、様々な症状の皮膚病をそとまとめにして、「ツァーラアート」と呼びました。祭司が診て、「ツァーラアート」であると宣言されると、その人は「汚れた者」として、民の交わりから断たれました。神を礼拝することも家族や民と共に生活するもできません。強制的に社会から追放され、神と民との交わりから断たれました。礼拝等の公けの場に出ることは許されませんでした。

 

 「ツァーラアート」を、マタイによる福音書は、「レプラ」と呼び、この重い皮膚病の人を「レプロス」と呼んでいます。この病気の恐ろしいことは、人々の偏見です。主イエスの時代の人々は、この皮膚病を、その人が神に罪を犯した結果、神に刑罰を受けて、この恐ろしい病気を患っているのだと、考えたのです。

 

 岩波書店が刊行しました聖書は「らい病人」と訳しています。その理由は、病気に対する偏見と差別が日本の歴史上の「らい病」とではとても似ているからです。らい病の人たちが社会の偏見と差別によって社会から隔離され、交わりを断たれました。ですから、わたしたちの聖書のように「重い皮膚病を患っている人」と訳さないで、敢て「らい病人」と訳しました。

 

 主イエスが、重い皮膚病を患っている人を癒された、この物語は単なる病気の癒しの物語ではありません。

 

 社会の偏見と差別の中で罪人という烙印を押され、神と神の民との交わりを断たれた者が、人となられた主なる神、主イエスに救いを求め、神との命ある交わりに回復されることを求めた物語です。

 

 この重い皮膚病を患った人が、主イエスの山上の説教を聞いていたのか、どうか、分かりません。しかし、この人は主イエスの噂を聞いたでしょう。だから、彼は主イエスを「主よ」と呼びかけ、信仰告白しました。

 

山上の説教を聞きました群衆たちは、主イエスが説教を終えられると、その教えに非常に驚きました。岩波書店の出した聖書には群衆は主イエスの教えに「仰天したままであった」と訳されています。その理由は、主イエスが「権威ある者ように」教えられたからです。

 

 マタイの福音書は、主イエスが飛びぬけて偉く尊い教えをされたと言っているのではありません。主イエスは、主なる神と同等のお方であると言っているのです。昔モーセの時代に主なる神は、モーセを通して神の民に御言葉を語り、教え、服従しない神の民を裁かれました。同じように主イエスは説教され、その御言葉に聞き従ない者を裁かれます。主イエスと主なる神は、同一のお方です。だから、マタイ福音書は、「主」という御名を、主イエスが審判者として裁かれる所で初めて用います。主イエスに裁かれた者が「主よ、主よ」と叫んでいるところです。

 

 重い皮膚病を患った人は、直接山上の説教を聞いていなかったとしても、人々の噂を聞いて、主イエスは主なる神であると信じました。このお方ならば、自分を清めて、神との交わりに回復してくださる、主なる神と同じ権威をお持ちだと信じたのです。

 

 だから、彼は勇気を出して、命がけで、主イエスの御前に近づき、ひれ伏しました。彼は、その行動を通して、主イエスは主なる神と告白したのです。

 

彼は、主イエスに願いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。彼は、主イエスに自らの信仰を告白しました。「主なる神、主イエスよ、あなたが今お望みならば、わたしは今清くしていただけます」。

 

主イエスは、お言葉だけで重い皮膚病を患った人を癒すことができました。しかし、主イエスはその人に手を差し伸べて、その人に触れられました。主イエスは、主なる神ですのに、清いお方ですのに、汚れた者に手を差し伸べて、その体を触られ、その汚れを御自身の身にお受けになられたのです。そして、主イエスは彼に「よろしい。清くなれ」と言われました。

 

「よろしい」は、そのまま言葉にすると「今わたしは望みます」です。「あなたは清くなれ」と、主イエスはお命じになりました。病気のゆえにユダヤ社会の中で罪人と差別され、神に罰せられた者と偏見の目で見られてきた人に、主イエスは審判の座に立つ者として、権威を持って「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。その証しとして、重い皮膚病を患う人はすぐさま癒され、清くなりました。

 

主なる神は、モーセを通して重い皮膚病が癒された者が再び神と民との交わりに回復される道を定められていました(旧約聖書のレビ記13章、14)。祭司に自分の体を診せて、皮膚病が癒されたと宣言を受け、モーセが命じた供え物を主なる神に献げることです。こうしてその人は、民たちの間に病が癒された証しをし、神と民の交わりに、ユダヤ社会の神の民の一員に迎え入れられました。

 

主イエスは、彼に一言忠告をされました。「だれにも話さないように気をつけなさい」と。主イエスが彼に求められたのは、主イエスに救われた者は何よりも神の御言葉に従って生きることです。誰でも、主イエスの奇跡を言いふらしたいでしょう。主イエスが奇跡によって救ってくださったことを。しかし、主イエスが願われることは、主に救われた者が主イエスの御後に従い、弟子たちや群衆と共に主イエスに従い、神に感謝して聖書の御言葉に従って生きることでした。だから、主イエスは彼に自分が主イエスに病気を癒されたことを人々に証しする前に、旧約聖書にモーセが命じていることを守るようにお勧めになりました。なぜなら彼にとって大切なことは、病気が癒されることではなく、神と民との交わりが回復されることだったからです。

 

そして、主イエスは、主なる神として、モーセに命じられた律法を守ることを証しされました。

 

今朝の物語は、第一に主イエスと主なる神は、同一のお方であるというキリスト教会の信仰告白です。第二に重い皮膚病の人は、主イエスを、罪を赦す権威があるお方と信じて、救われました。第三に主イエスは、律法を捨てるためでなく、成就するために来られました。だから、主イエスは癒された人にモーセの律法を守り、神と民たちの交わりに加わるように勧められました。

 

こうしてマタイは、キリスト教会は弟子たちや群衆のように主イエスの後に従う群れであり、主イエスを主なる神と信仰告白し、罪を赦され、主の御言葉を守り、洗礼を受けて神の民に加えられ、神の永遠の命の交わりに入ることを物語っているのです。お祈りします。

 

御在天の父なる神よ。本日より主イエス・キリストの奇跡の物語を学びます。どうかわたしたちに主イエスの弟子となる道を教えてください。重い皮膚病を患った人のように、「イエスは主なり」という信仰を与え、主イエスのみがわたしたちの罪を赦し、わたしたちを清め、永遠の命をお与え下さると確信させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。