マタイによる福音書説教108            主の201391

 

 

 

 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるだろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 

                  マタイによる福音書第264756

 

 

 

 説教題:「見捨てられた主イエス」

 

 今朝は、マタイによる福音書264756節の御言葉を学びましょう。主イエスが12弟子の一人、ユダに裏切られ、ユダヤの祭司長たちや民の長老たちが遣わした大勢の群衆に捕らえられ、11弟子たちが主イエスを見捨てて逃げてしまったことを記しています。

 

 これまで主イエスは、12弟子たちに3度御自身の受難と死と復活を予告されてきました。1度目はマタイによる福音書の1621節以下です。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と、予告されました。2回目はマタイによる福音書の1722節です。主イエスは12弟子たちに言われました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」3回目は、マタイによる福音書201719節です。主イエスは、12弟子たちだけを呼び寄せて、言われました。「わたしはエルサレムに上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

 

 ゲツセマネの園で祈られた主イエスは、御自身の受難を父なる神の御心と確信し、覚悟されました。そして、主イエスは11弟子たちに次のように言われました。「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マタイ264546)

 

 主イエスが予告された時、父なる神が定められている主イエスがユダヤの官憲に捕らえられる時が来たのです。

 

 4751節をご覧ください。「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。」

 

 12弟子の一人、ユダの裏切りと主イエスの逮捕、そして主イエスと一緒にいた一人の弟子が祭司長たちの手下の一人を、剣で耳を切り落としたことを記しています。

 

 主イエスが12弟子たちに3度「祭司長たちや長老たちに捕らえられて、殺される」という予告は、12弟子の一人、ユダの裏切りによって実現しました。

 

 ユダは、最後の晩餐が終わりますと、すぐに祭司長たちや民の長老たちの所に行きました。そして、主イエスと11弟子たちが祈っているゲツセマネの園に祭司長たちや民の長老たちが遣わした大勢の群衆を手引きしました。

 

 ユダは、祭司長たちや民の長老たちとあらかじめ主イエスを逮捕する手はずを打ち合わせていました。ユダは言いました。「わたしが接吻するのが、その人だ。すぐに彼を逮捕せよ」と。

 

 祭司長たちと民の長老たちは、主イエスと弟子たちの抵抗を想定し、遣わす大勢の群衆に剣と棒を持たせました。

 

 ユダは、打ち合わせ通りに主イエスに近づきました。そして、あいさつしました。「先生、こんばんは」と。主イエスの弟子たちは、主イエスを「先生、ラビ」とは呼びません。「主」よと呼びます。ユダは、主イエスを捨てたのです。そして、形式的に主イエスと師弟のあいさつをかわして、主イエスに接吻しました。

 

 「こんばんは」というあいさつは、「幸いあれ」という意味です。ユダの偽善的行為を、マタイによる福音書は鋭く描いています。ユダは口では、主イエスに「先生に幸いあれ」と言って接吻しながら、主イエスを抱きかかえ、逃げられなくし、祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆に引き渡したのです。

 

 主イエスは、ユダの裏切りを御存知でした。そして、主イエスはユダに何度も罪を悔い改めるように促されました。ここでも同じです。主イエスは裏切り者のユダを「友よ」と呼びかけておられます。ユダは、主イエスを捨て「主」と呼ばないで、「先生」と呼びました。ところが、主イエスは12弟子の一人、ユダを見捨てることなく「友よ」と呼びかけられました。

 

 わたしたちの新共同訳聖書によると、主イエスがユダに「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われています。実は、主イエスはこう言われたのです。「エテーレ、エフォパーリ」と。「エテーレ」が「友よ」です。「エフォパーリ」は、謎の言葉です。意味不明と言ってもよいと思います。わたしたちの新共同訳聖書は、ヨハネによる福音書の最後の晩餐のところで主イエスが、12弟子たちの前でユダの裏切りを予告され、ユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ1327)と言われたのを、参考にして訳しています。別の訳があります。疑問文に訳すのです。「友よ、あなたはこのために来たのか」と。

 

 主イエスは、ユダの裏切りを御存知でした。ユダの偽善的な接吻という見下げた行いに対しても主イエスは、ユダを見捨てられませんでした。どこまでもユダに、主イエスは罪の悔い改めをお求めになりました。ですから、わたしは、どちらの訳が正しいのかということよりも、主イエスがユダをどう思われていたのか。主イエスは、ユダに何を言われたかったのか。わたしは、それを知りたいと思うのです。「友よ、あなたは本当にここで、わたしに偽りの接吻をして、わたしを主と告白しようとしているのですか。それが本当にあなたのしたいことなのですか。」

 

 ユダは、主イエスのお言葉に答えませんでした。主イエスがユダに最後まで助けの手を差し伸べられたのに、ユダは主イエスのところに帰りませんでした。そして、ユダが手引きした大勢の群衆が主イエスに近寄り、主イエスに手をかけて捕らえました。

 

 その時に驚くべき出来事が起こりました。51節の「そのとき」という言葉は、ギリシャ語の本文を見ますと、「すると見よ」という言葉です。主イエスと一緒にいた12弟子たちの一人が剣を取って、大祭司カイアファの手下を切りつけ、彼の片方の耳を切り落としました。12弟子の一人が、暴力行為をしたのです。

 

 それに対する主イエスの見解を、マタイによる福音書は5254節に次のように記しています。「そこで、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるだろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。』」

 

 主イエスは、御自身と一緒にいた11弟子たちの一人が行った暴力行為について、次のように言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と。主イエスは、山上の説教において復讐を禁じて、次のように言われました。「あなたがたが聞いているとおり、『目には目、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」と。

 

 主イエスは、わたしたち人類の罪を償うために、神の御子であられたのに、人の子となってこの世界に来られました。人類の罪は、剣では解決しません。暴力行為では解決しないのです。主イエスは、悪人の罪を剣によって、暴力行為によって解決を求められませんでした。なぜなら、父なる神御自身が剣によって解決を求めておられないからです。

 

 ある人たちは、主イエスの言葉を、主イエスが弟子たちに非暴力を教える機会を持たれたと主張します。わたしは、違うと思うのです。主イエスは、十字架の道を進まれています。人類の罪を贖う道です。その道に剣は必要ありません。暴力行為も必要がありません。必要なのは、主イエスが父なる神の御心に従うことのみでした。

 

 だから、主イエスは、続けてこう言われているのです。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるだろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

 

 主イエスは、父なる神の一人子です。お願いなされば、父なる神は御子キリストの願いをお聞きくださるでしょう。12軍団の天使たちを遣わして、主イエスを助け、主イエスに手向かう祭司長たちや民の長老たちが遣わした大勢の群衆を滅ぼしてくださるでしょう。しかし、主イエスは言われます。「それでは、父なる神が旧約聖書において預言者たちを通して言われてきた人類を罪より救い出すことができない」と。

 

 父なる神は、旧約聖書の預言者イザヤをはじめ、さまざまな預言者たちを通して苦難のメシアが人類を罪より救い出すことを預言されていました。たとえば、預言者イザヤは、苦難のしもべを預言しました。そのしもべは、罪がないのに逮捕され、裁判にかけられ、一言も弁明しないで、罪人たちと共に木にかけられるのです。木にかけられる者は、神に呪われた者であります。

 

 主イエスは、剣によってではなく、旧約聖書の預言者たちが預言したメシアの苦難の道を歩む決心をされているのです。御自身が十字架の上で、人類の罪を引き受けることによって、人類の罪を贖うことが、父なる神が願われていることであると確信されているからです。

 

 また主イエスは、御自身を捕らえようとしている群衆に次のように言われています。「またそのとき、群衆に言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。』」

 

 主イエスは、主イエスを捕らえに来た群衆たちに御自分は革命家ではないと言われたのです。なぜなら、主イエスは彼らの罪のために十字架の道を歩まれているからです。だから、彼らに御自分のことを弁護されたのです。

 

ユダヤの民衆たちは、メシアを革命家と信じる者たちがいました。強盗とは、文字通り盗人という意味ではありません。自らをメシアと自称して、ローマ帝国からユダヤを独立させるために武装し暴力行為を行う者たちを、革命家のことを強盗と呼んだのです。だから、主イエスは、群衆たちに御自分を弁明して、「わたしはそのような強盗、政治的メシアではありません」と言われました。そして、その証拠を示されました。主イエスがエルサレム神殿において、彼らの目の前でそこに座って主イエスは民衆たちを教えておられました。ですから、彼らは今ここで主イエスを捕らえなくても、すでに神殿において容易に逮捕することができました。

 

ですから主イエスは、彼らに今御自身が彼らに逮捕されることは、旧約聖書の預言者たちが旧約聖書に預言したことが、実現することであると弁明されたのです。

 

そして、旧約聖書の預言者ゼカリヤが旧約聖書のゼカリヤ書137節に、次のように預言しています。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ わたしの同僚であった男に立ち向かえ 万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さい者を撃つ。」

 

主イエスは、預言者ゼカリヤの御言葉通り、剣と棒を持った大勢の群衆に捕らえられ、そして、11弟子たちは主イエスを見捨てて、逃げて行きました。

 

そして、主イエスは一人で十字架の苦難の道を歩まれるのです。たった一人で、神の御子であられるのに、人々の辱めを受け、神の呪いの十字架へと歩まれるのです。この道以外に神が人類の罪を赦すことはないからです。

 

今朝の御言葉から学ぶことは、主イエス・キリストの愛だけが、わたしたちが罪と死から救われるただ一つの希望であるということです。使徒パウロが「わたしたちの主イエス・キリストの愛から、わたしたちを引き離すことはできないからです」(ローマ838)と言っています。主イエスは、裏切り者のユダを最後まで「友よ」と呼びかけて、罪を悔いるように、御自身のところに帰るように最後まで招かれました。そして、無知のゆえに主イエスを捕らえた群衆たちに、御自分が革命家ではなく、救い主であることを弁明されました。11弟子たちは、主イエスを見捨てましたが、主イエスは彼らを罪から救うために一人で十字架の道に進まれました。

 

大切なことは、主イエスが父なる神の御心の服従し、旧約聖書の預言者たちの預言したとおりに、一人で十字架の道を歩まれ、わたしたちの罪を贖ってくださったという恵みの事実です。今から聖餐の恵みにあずかります。この主イエスの十字架の恵みの事実に、わたしたちの信仰の目を向けましょう。わたしたちのすべての罪は赦されているからです。お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、主イエスがユダに裏切られて逮捕され、弟子たちに見捨てられたことを学びました。主イエス・キリストの十字架の死にのみ、わたしたち人類の罪の赦しがあることを教えられ感謝します。キリストの受難を思いつつ、日々を歩ませてください。主イエスを見捨てた弟子たちのように、弱いわたしたちを憐れみ、聖餐の恵みにあずからせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教109             201398

 

 

 

 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、ことの成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。 

 

さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました』と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。

 

大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」

 

 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

 

                  マタイによる福音書第265768

 

 

 

 説教題「神の子、主イエス」

 

 わたしたちは、マタイによる福音書を通して、主イエスの御受難の出来事を学んでおります。マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスの御受難の出来事を、次のように明確に物語っています。それは、主イエス御自身が自らの御意志によって、御受難の道を歩まれているということです。

 

主イエスは、裏切り者のユダの手引きによって祭司長たちと民の長老たちが遣わした大勢の群衆にゲツセマネの園で捕らえられました。

 

そして、主イエスは、ユダヤの最高法院で裁判を受けるために、大祭司のカイアファのところへ連れて行かれました。

 

最高法院は、70人の議員から成っていました。メンバーは、祭司長、民の長老、律法学者でした。最高法院には、主イエスに死刑宣告をする権限はありませんでした。そこで大祭司と最高法院のメンバーは、主イエスをローマ総督ポンティオ・ピラトの裁判に訴えて、ローマの法律によって主イエスを十字架刑にしたのです。

 

 最高法院の裁判は、大祭司カイアファのところで行われました。主イエスを捕らえた大勢の群衆たちは、主イエスを大祭司カイアファのところへ連れて行きました。大祭司カイアファの屋敷は、主イエスと12弟子たちが最後の晩餐をした家の近くにありました。

 

 大祭司の屋敷に最高法院のメンバーである律法学者たちや民の長老たちが集まっていました。マタイによる福音書の263節に大祭司カイアファの屋敷で最高法院のメンバーである祭司長たちや民の長老たちが主イエスを捕らえて殺そうと相談していたことを記しています。そして、今彼らは、最高法院の裁判において主イエスを殺す計画を実行しました。

 

 マタイによる福音書は、最高法院における主イエスの裁判に弟子のペトロがいたことを証言します。「ペトロは遠くに離れて主イエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、ことの成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた」と記しています(58)。ペトロは、1度は逃げましたが、大祭司に仕えていた下役たちの中に密かに紛れ込み逮捕された主イエスの様子を遠くから伺いました。

 

 最高法院のメンバーは、初めから主イエスを死刑にしようとして裁判を開きました。死刑の判決を下すためには、最高法院のメンバーの3分の2の賛成が必要でした。しかし、主イエスの裁判は、最高法院のメンバーの全員が裁判を開く前から主イエスを死刑にしようとしていました。不正な裁判でありました。

 

 ですから、裁判が始まりますと、主イエスに不利な偽りの証言だけが集められました。そして、偽りの証人たちが何人も裁判に立って、主イエスを告発し、偽りの証言をしました。ところが、偽りの証言ですから、その証言には、確かな証拠が得られませんでした。

 

 マタイによる福音書は、60節後半から61節に「最後に二人の者が来て、『この男は「神の神殿を打ち壊し、三日あれば建てることができる」と告げた』」と記しています。主イエスを裁判で死刑にしようとしている最高法院のメンバーたちにとって都合のよい、律法の条件を満たす証拠が現れたのです。旧約聖世の申命記の176節に主なる神は、モーセを通してイスラエルの民に次のように言われています。「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする」と。

 

 大祭司カイファは、主イエスの死刑を確信しました。主イエスは聖なる神殿を冒涜したのです。それは生ける神を冒涜したのと同じです。彼は、立ち上がり、裁判で一言も弁明しないで沈黙している主イエスに言いました。「どうして沈黙している。お前にとって不利な証言がなされているのだぞ。なんとか言ったらどうか。」

 

 マタイによる福音書は、最高法院の裁判における主イエスについて、「イエスは黙り続けておられた」とだけ証言しています。わたしたちは、この主イエスのお姿に旧約聖書の預言者イザヤがイザヤ書537節に次のように預言しているのを思い起こしましょう。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かない。屠り場に引かれる子羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かない。」

 

 ダビデもメシアの苦難を次のように預言しています。詩編381315節です。「わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は 欺こう、破滅させよう、と決めて 一日中それを口にしています。わたしの耳は聞こえないかのように 聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。わたしは聞くことのできない者 口に抗議する力もない者となりました。」

 

 主イエスは、この裁判を通して、預言者イザヤとダビデが預言した御言葉を実現しようとされています。

 

 そして、この裁判において驚くべきことを、主イエスは証言されました。大祭司カイファは、沈黙する主イエスに質問しました。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と。主イエスは、不思議な答をされます。「それは、あなたの言ったことです」と。これは、「わたしの言う意味とは違うが」という慣用句であります。主イエスは、大祭司にこう答えられたのです。「大祭司が理解する神の子、メシアとわたしが理解する神の子メシアとは意味が違うが」と。

 

 大祭司が理解する神の子メシアは、政治的解放者でした。ユダヤの国をローマ帝国から解放する者でした。ところが、主イエスが理解する神の子メシアは、聖なる父なる神の愛と信任を一身に受けている者であり、生ける神の意志により全権を持つ者として任命された者です。神の子メシアは、主イエスの理解ですと、人の救いのすべてを託された聖なる方であります。

 

 それゆえに主イエスは、続けて御自身が「神の子メシアである」ことを公言して次のように宣言されたのです。「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲の乗って来るのを見る」と。

 

 主イエスは、ダビデが詩編1101節に預言した御言葉と預言者ダニエルがダニエル書714節に預言した御言葉に基づいて、御自身を神の子メシアと宣言されました。

 

 ダビデは神の子メシアについて次のように預言しました。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」。ダニエルも次のように神の子メシアを預言しました。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り」と。

 

 主イエスは、御自身を「神の子メシア」と宣言されました。そのメシアは、単なる政治的メシアではありません。主イエスは、父なる神の右に座されて、天地を支配する者であります。この世の終わりの日に天の雲に乗り、地上のすべての者を審判する者です。

 

 要するに全人類は、今捕らえられ、最高法院の裁判を受けている主イエスに生死のすべてを握られているのです。罪のままに死に果てるのか、新しい命に生かされて、天の御国に入れられるのか。最高法院の裁判に立たされた主イエスを、神の子メシアと信じて、すべての信頼を置くか否かにかかっているのです。

 

 大祭司カイファには、主イエスのお言葉は、大変な神を冒涜する言葉に聞こえました。だから、彼は言い放ちました。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」最高法院のメンバーは皆、「死刑にすべきだ」と主張しました。そして、主イエスに暴力をふるい、侮辱したのです。

 

 マタイによる福音書が、わたしたちに今朝の御言葉から伝えようとしているメッセージは、次のことです。最高法院の裁判において屈辱と苦難の中にある主イエスが、神の子メシアであり、間もなく十字架に死に、三日目に復活し、勝利者として父なる神の右に座され、今主イエスを裁いている者を、そしてキリストの教会とキリスト者を迫害する者たちを逆に裁くために、父なる神の全権を委ねられて、再びこの世に到来されるということです。

 

 今朝も、聖霊と御言葉を通して、主イエスはわたしたちに宣言されます。「わたしは神の子メシア。全能の父なる神の右に座する者。人の生き死にと裁きを託された者。あなたがたは今からそれを見るだろう。」

 

わたしたちは、今朝聞いた御言葉の主イエスが、世界の審判者として、使徒信条が告白するように「全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」と信じて、主の再臨に備えるべきであります。お祈りします。

 

御在天の父なる神よ、最高法院の裁判を受けられた主イエスの苦難を学びました。屈辱と苦難を受けられた主イエスが、十字架の上に死なれ、三日目に復活し、天に昇られ、父なる神の右に座されました。主イエスは、世界の審判者として再びこの世に来られます。そして、全人類の生死は、主イエスに握られています。どうか、わたしたちの教会の伝道を通して、一人でも多くの人々に主イエスが神の子メシアであることを知らせ、キリストの再臨に備えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教110             2013915

 

 

 

 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合せた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。

 

 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。

 

 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 

                  マタイによる福音書第266975

 

 

 

 説教題「石の心を砕きたまえ」

 

 先週、わたしたちは、主イエスがユダヤの最高法院において裁判を受けられたことを学びました。12弟子の一人、ユダが手引きし、祭司長たちと民の長老たちが遣わした大勢の群衆に主イエスは逮捕され、大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれました。そこで主イエスは、御自身が政治的メシアではなく、旧約聖書の預言者が預言したメシア、全能の神の右に座り、全人類を審判するメシアであると宣言されました。大祭司カイアファと最高法院の議員たちは皆、主イエスが御自身を主なる神と同等であると述べて、神を冒涜したと非難し、主イエスを死刑にすべきだと結論付けました。

 

 今朝は、聖書の見出しにありますように、大祭司カイアファの中庭に座り、最高法院の主イエスの裁判の成り行きを見守っていた主イエスの弟子ペトロが主イエスを三度知らないと告白したことを学びましょう。

 

 今朝のペトロのお話は、すでにマタイによる福音書の中に用意されていました。主イエスが12弟子たちと最後の晩餐の食事をされた後に、オリーブ山に行かれました。ゲツセマネの園において祈るためです。その途中で主イエスは、12弟子たち全員が御自身を見捨てることを予告されました。それは、旧約聖書の預言者ゼカリアが「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう。」と、主なる神の御言葉を預言した、その御言葉が主イエス・キリストにおいて実現するためでした。主イエスは、その後で御自身が復活し、先にガリラヤで弟子たちを待っていると約束されました。

 

 その時に12弟子の一人、ペトロが主イエスに言いました。他の弟子たち皆がつまずいても、わたしは決してつまずかないと。マタイによる福音書は、2634節に次のように主イエスがペトロに言われたことを記しています。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう』」と。

 

主イエスが12弟子たちに「あなたがたは皆、わたしにつまずく」と予告された通りに、ゲツセマネの園において主イエスが祭司長たちと民の長老たちに遣わされた大勢の群衆に逮捕されると、弟子たちは皆、逃げてしまいました。

 

その時、ペトロは、主イエスに言った言葉を覚えていました。彼は、勇気を出して、一人、大祭司カイアファの中庭に入りました。マタイによる福音書は、2658節に次のように記しています。「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた」と。

 

マタイによる福音書は、ほとんどマルコによる福音書の146672節の御言葉を下敷きにして記しています(新約聖書P94)

 

ペトロは、大祭司カイアファの屋敷の中庭に入り、座って、最高法院の主イエスの裁判の成り行きを見守っていました。大祭司たちの下役たちにまぎれて、だれもペトロに注目するなどと考えていませんでした。

 

そこへ大祭司カイアファの屋敷に雇われている一人の女中が来ました。彼女は、屋敷に集まりました人々を接待していたのでしょう。彼女は、ペトロを知っていました。だから、中庭で下役たちと一緒に座っているペトロを見て、近寄って来て、周りの人々に聞こえるように、ペトロに言いました。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と。

 

マルコによる福音書は、ペトロが大祭司カイアファの中庭に入り、火にあたっており、その女中は火の光に照らされたペトロの顔を見て、ペトロが主イエスの弟子の一人であることを知ったと記しています。ところが、マタイによる福音書は、その記述を削除しました。マタイによる福音書の関心は、ペトロが主イエスの予告通りに三度主イエスを知らないと告白し、そのことを心から悔いたことにあります。だから、今マタイによる福音書は、わたしたちの目をペトロのみに向けさせようとしています。

 

ペトロは、女中の言葉を否定しました。「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と。ペトロは、はっきりと周りの人々に聞こえるように、その女中に「あなたが何を言っているのか、わたしには分からない」と言いました。ペトロは、はっきりと、主イエスを知らないと否定しました。

 

そして、ペトロは怖くなりました。ここにいる人々に自分が主イエスの弟子であることを知られることが。ペトロは、一刻も早くこの女中から離れたかったでしょう。中庭から門まで移動しました。ところが、そこに他の女中がおりました。彼女もペトロを知っていました。彼女は、ペトロを見ると、彼女が接待していた人々に言いました。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と。

 

ペトロは、もう一人の女中が言った言葉を、だれもが聞いている前ではっきり否定し、主イエスを知らないと言いました。「そんな人は知らない」と誓って打ち消しました。

 

二人の女中たちがペトロに向かって「あなたはイエスの弟子だ」と言った言葉を聞きました人々は、ペトロに近寄って来て言いました。「確かにお前も、あの連中の仲間だ。お前のしゃべる方言で分かる」と。ペトロは、ガリラヤなまりで、女中たちに答えていたからです。

 

ペトロは、窮地に追い込まれました。きっと彼の頭の中は真っ白になったでしょう。思わずペトロは、大勢の人々に向かって呪いの言葉さえ口にして、「そんな人は知らない」と、はっきりとペトロは、三度主イエスを知らないと言いました。

 

「呪いの言葉を口にしながら」とは、ペトロは、主イエスを呪ったという意味です。ペトロは、最初の女中の問に対して、単に知らないと嘘をつきました。2番目の女中の問いに対して、彼は裁判所において証言をする人が宣誓をするように、彼は誓いを立て、イエスを知らないと偽りの宣言をしました。そして、人々の問いに対して、ペトロは「イエスは呪われよ」と言い始めて、彼はイエスを知らないと偽りの誓いをしました。

 

ペトロが三度目に、主イエスを呪いながら「イエスを知らない」と誓い始めた時、鶏が鳴きました。主イエスがペトロに予告された通りになりました。

 

ペトロは、弟子としてどんなに大きな罪を犯したのか、気付いたでしょう。だが、彼の心を占めたのは、主イエスのお言葉でした。彼は、主イエスのお言葉を思い起こしました。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。この主イエスのお言葉を思い起こして、ペトロは大祭司の屋敷を出て、外の暗闇の中で泣き崩れました。

 

わたしたちは、このペトロが主イエスを三度知らないと言った事件から、3つのことを学びましょう。

 

聖書は、教会の指導者となったペトロの罪と失敗を明らかにしています。それは、ペトロ自身が教会の中で彼の罪と失敗を公にしていたからです。ペトロを通して、マタイによる福音がわたしたちに伝えようとしていることは、教会はわたしたちの罪と失敗を主と会衆の前に告白するところであるということです。

 

次に主イエスは、ペトロを初め弟子たちの罪と失敗を知り、予告されていました。それでも主イエスは、十字架の道を歩まれました。その十字架のみが、ペトロのように神の御前に罪を告白する者に、神が罪を赦す根拠であったからです。

 

3に主イエスは、旧約聖書が預言するメシアとして、大祭司たちや宗教的指導者たちに嘲られ、弟子たちに見捨てられ、十字架の道を一人で歩まれました。マタイによる福音書は、ユダヤの指導者たちが主イエスに「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と侮辱する中で、真のメシアとして十字架の道を歩まれ、ペトロが三度主イエスを知らないと言うことを予告し、その通りにペトロが犯した罪を、贖うために十字架の道を歩まれているのです。

 

まだペトロは、主イエスが予告されたお言葉を思い起こして、自分の罪と失敗を夜の暗闇の中で深く悲しんでいます。そして、主イエスが弟子たちに約束された復活が起こっていません。

 

しかし、マタイによる福音書は、わたしたちに一つの希望の光を示しています。ペトロが、キリストのお言葉を思い起こして、外の暗闇の中で泣いたことです。

 

わたしは、そこに主の導きを見ます。ペトロはこのときから変わり始めたでしょう。そして、復活の主イエスは、お言葉通り、弟子たちをガリラヤで待っていてくださり、ペトロは、復活の主に3度「わたしを愛するか」と問われて、彼の罪を赦され、再び弟子として歩むことができました。ペトロの罪を背負われたキリストを、彼は、生涯追い求めて行くのです。お祈りします。

 

 

 

御在天の父なる神よ、今朝は使徒ペトロが主イエスを三度知らないと言ったことを学びました。聖書の中にペトロの失敗が正直に証しされていることに感謝します。わたしたちも弱い者です。周りを気にしながら、生きています。迫害が起こり、わたしたちが屈辱と苦難に置かれたら、と思うと、心が萎えて行きます。どうか、主イエスがわたしたちの罪のために十字架の上に死なれ、わたしたちの永遠の命のために三日目に復活し、天に昇られ、今父なる神の右に座されて、わたしたちをお守りくださっていることを信じさせてください。ペトロのようにわたしたちの心にキリストの御言葉を蓄えさせてくださり、聖霊に導かれて、信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。