マタイによる福音書説教070            主の201278

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。(主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせ、)主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 

                   マタイによる福音書第1815

 

 

 

 説教題:「身を低くして天の国に入る」

 

 主イエスは、12弟子たちにガリラヤに集められました(1722)。そして主イエスと12弟子たちはカファルナウムに滞在しました(1724)。その時に12弟子たちが主イエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問しました。

 

天の国とは、この世の終わりに実現する神の支配なさる王国のことです。12弟子たちは、主イエスに「あなたがこの世の終わりに天の国を打ち立て、王として御支配なさったとき、12人のわたしたちの中でだれがいちばん偉いのですか」と質問したのです。

 

「いちばん偉い」という言葉は、わたしたちに分かりやすいように日本語にしたのです。12弟子たちは主イエスに「天の国ではいったいだれが大きいのですか」と尋ねたのです。自分たちを互いに比較し、だれがいちばん偉いかを知りたかったのでしょう。

 

そこで主イエスは12弟子たちの質問に具体的に答えられました。主イエスが弟子たちを教育するやり方は、実物教育です。天の国のたとえを、主イエスは12弟子たちや大勢いの群衆たちに教えるのに、植物の「からし種」を教材にお用いになりました。ここでは一人の子供を御自身のところに来させ、そして12弟子たちの真ん中に立たせ、こう言われました。

 

 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(35)

 

 主イエスは12弟子たちに「はっきり言っておく」と言われました。主イエスが語られたままに言いますと、こうです。「アーメン、わたしは言う、あなたがたに」。これは、主イエスの御決意です。主イエスは、主なる神として、弟子たちが質問しました天の国を御支配する王として、12弟子たちに御自身の御決意をお語りになりました。

 

 主イエスは、弟子たちに第1に「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と宣言されました。

 

 「心を入れ替えて」は、わたしたちに分かるように日本語にしました。この言葉から、わたしたちは「心を悔い改めて」と思わないでしょうか。

 

しかし、主イエスが言われたのは、「立ち戻って」です。「グルッと向きを変える」ことです。主イエスは、今大人である12弟子たちに言われました。「あなたがたは、戻る所に戻って来て、あなたたちの真ん中に立っている子供のようにならなければ、天の国に入ることはできない」今風の言い方をすると、「発想を逆転して、子供になってみよ」です。

 

 12弟子たちが主イエスに「天の国ではいったいだれが大きいのですか」と質問したとき、主イエスは一人の小さな子供を彼らの真ん中に立たせて、「この子供のようになれ」と言われました。

 

 23歳の子供でしょう。わたしたち日本人は赤ちゃんを見ると、すぐに純真無垢と思ってしまいます。その思いから主イエスのお言葉を理解すると、赤ちゃんのように純真無垢な心にならないと、天国に入れないと思ってしまいます。

 

主イエスには、赤ちゃんは純真無垢であるという思いはありません。主イエスが幼子に注目されたのは、母親に守られ、母親に信頼する姿です。常に母親から離れずについて行く姿です。幼子は、親への信頼だけで生きています。もうひとつ幼子は、他人と自分を比較しませんし、社会的地位も力も金もありませんし、求めません。

 

主イエスが12弟子たちの真ん中に子供を立たされ、彼らに第一に教えられたのは、弟子たちが発想を逆転することです。立派な大人を模範にしないで、小さな子供を模範にして生きることです。弟子たちは、主イエスに「グレートである」と言われる人間になりたかったでしょう。「ラビ」と呼ばれる律法学者のように、人に尊敬される者になりたかったでしょう。何も誇れない小さな者ではありたくないと思っていたでしょう。

 

しかし、主イエスは12弟子たちに「発想を逆転して、子供のようにただ神のみを頼り、主イエスのみに従って生きて行きなさい。そうでなければ、彼らは天の国に入れません」と言われました。

 

天の国は、神の恵みの支配の国です。ただ神の憐れみと恵みによって、わたしたちはこの国に入れるのです。天国に入る資格は、人の大きさでありません。才能が豊かで、力があり、社会的地位があり、ラビのように人に尊敬されているので、神の国に入れるのではありません。

 

幼き子供で良いのです。子供が母親を信頼し、母親について行くように、12弟子たちもわたしたちも天の父なる神の子として、神に信頼し、主イエスについて行くだけで良いのです。その場所が教会生活なのです。

 

主イエスは12弟子たちに、第2に「自分を低くして、子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と宣言されました。

 

主イエスは、12弟子たちに「自分を低くして、子供のようになれ」と言われています。「自分を低くする」ことを、主イエスは12弟子たちに求めておられます。これが、この世との違いです。主イエスは12弟子たちにこの世と天国の逆転を教えておられるのです。

 

この世は、自己主張できる人、自分をアピールできる人が優秀で役立つ人、大きな者です。自己主張もアピールもできない幼児は、無用な者であり、小さな者です。

 

しかし、天の国ではこの世と逆であります。そのことを、主イエス御自身がわたしたちに証しされています。主イエスは、天の国の支配者です。主なる神です。しかし、人となり、この世に来られました。宇宙の支配者である神が身を低くし、人となり、人の世で最も貧しい者となられました。そして、およそ30年の生涯を、幼子のように父なる神に信頼し、あたかもこの世において最も惨めな人として、十字架の上で死なれました。その後主イエスは死人の中から復活し、天の国にお帰りになり、父なる神の右に座されて、今は天の国において大いなるお方として支配されています。このようにこの世と天の国は逆転します。

 

どうしても教会もわたしたちキリスト者も、この世にあり、この世の影響を免れることができません。12弟子たちも同じでした。彼らは、その当時のユダヤ人世界の中で「いったいだれが大きな者であるのか」という誘惑から逃れることができませんでした。

 

 この世にあっては、人は人を見て生きています。自分を人と比較して生きています。そして常に人と競争して生きています。人より何か優れていないと、人よりお金を持ち、強くないと、わたしたちは落ち着けないし、家庭に、学校に、会社に、この地域に居場所がありません。

 

 主イエスは、この世に生きる弟子たちに、そしてわたしたちに「身を低くして、子供のようになれ」と命令されるのです。天の国は人を見て生きる所ではないからです。人と競争する所でもありません。主を見て、主に倣うところです。それ故に主イエスは、12弟子たちとわたしたちに、教会とは自分の身を低くし、子供のように神を信頼する所であると教えておられます。

 

主イエスは12弟子たちに、第3に「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と宣言されました。

 

これは、この世と天の国の価値の相違を鮮やかに示している御言葉です。

 

「わたしの名のために」とは、主イエスを信じていることです。教会は、「わたしの名のために」集められた群れです。主イエスの十字架の御救いに与った者たちが、共にキリストを告白し、礼拝し祈る所です。

 

主イエスに救われ、主イエスを告白しているキリスト者と言っても、色々な立場の者が集まっているのです。

 

その中に12弟子たちの真ん中に立たされた小さな子供のような力無き弱き小さなキリスト者がいるのです。信仰の弱い者です。迫害があれば逃げて行く者です。社会的身体的弱者です。罪を犯したキリスト者です。

 

主イエスは、12弟子に次のように教えられました。「キリストの御救いに与った小さな仲間であるキリスト者たちを、あなたがたが教会の仲間として受け入れるのなら、それはわたしを教会の仲間として受け入れていることである」と。

 

主イエスが12弟子たちを通して、今のわたしたちに伝えておられることは、こうでしょう。教会は、主イエスによって建てられたものであり、天の国をこの世に示す所だということです。

 

その教会生活のあり方は、第1に子供を模範とすることです。子供は大人のように社会的地位も力も金もありませんし、求めもしません。親無しには無力であることを知っています。それ故親に全幅の信頼を寄せて生きています。それこそが教会生活において主イエスがわたしたちに求められることです。

 

2に主イエスは、「身を低くして」と教会生活をせよと促されました。主イエスが神であるのに人となられたへりくだりを、教会生活の中でわたしたちが模範とすることを求めておられます。

 

3に主イエスが12弟子たちとわたしたちに教えられた教会生活は兄弟姉妹が互いに愛し合うことです。

 

主イエスは、今聖霊とみ言葉を通して、主イエスを信じて教会生活をしているわたしたちと共におられます。だから、わたしたちが主イエスをキリストと告白した兄弟姉妹を受け入れること、愛することは、わたしたちと共におられるキリストを受け入れ、愛することなのです。お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、父なる神の御子主イエスが、御自身をへりくだらせて、十字架の道を歩まれ、わたしたちの命を贖い、わたしたちを主の御前に生きる者としてくださり感謝します。本日より教会生活について学びます。主イエスの御言葉を学び、主イエスがお求めの教会生活を、聖霊とみ言葉を通してわたしたちに行わせてください。自らをへりくだり、兄弟姉妹を愛し、共に天の国を目指してこの地上の生涯を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教071            主の2012715

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。(主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせ、)主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは。一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 

                   マタイによる福音書第1869

 

 

 

 説教題:「命が大切です」

 

 主イエスから教えられることは、主の御前に、あの主の十字架の下に、わたしたちが自分を低くして天国に入ることです。天国に入るとは、わたしたちが教会生活を始めることです。わたしたちは、聖霊に導かれて、主イエスを信じ、洗礼を受け、教会員となり、天にいます主イエスの御支配に服します。それが、教会生活です。そして、わたしと同じように聖霊に導かれて主イエスを信じ、洗礼を受け、教会員となった兄弟姉妹たちを、共に主イエスを信じ、主イエスに従っているという、それだけの理由で、わたしたちが教会の中で互いに敬い受け入れるなら、主イエスは「あなたがたは、真実わたしを受け入れている」と言われました。

 

 さて、今朝の御言葉は、主イエスの教会生活に関する第2の説教です。主イエスは12弟子たちに「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」の禍いを教えられました。

 

 この世にあるキリスト教会の一番大きな問題は、信仰のつまずきです。主イエスを信じて、洗礼を受け、キリスト者となり、教会員となったのに、信仰につまずいて、キリストから去って行く者があります。

 

 信仰の未熟なキリスト者たち、信仰の弱いキリスト者たちを、主イエスは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」と呼ばれています。

 

 さらに主イエスははっきり信仰をつまずかせた者を呪っておられます。

 

「大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」と。「大きな石臼」とは、人の手で引く小さな石臼ではありません。家畜のロバに引かせる大きな石臼のことです。それを首に懸けられて深い海の底に投げ捨てられ、溺死する方が、つまずかせた者を神が裁かれる裁きよりもましであると、主イエスは呪われました。

 

 主イエスが呪われるほど、教会生活の中で信仰のつまずきは大きな問題なのです。なぜなら教会は、キリスト告白によってキリストを中心に一つの共同体を目指しています。わたしたちは、キリストを頭とする一つの共同体です。それがキリスト教会です。そして教会を危機に陥れるものが、信仰のつまずきです。つまずいた者はキリストを離れ、教会を離れるからです。そして、キリストに対する信仰から離れます。

 

 主イエスに呪われた者は、3種類の者たちです。主イエスは12弟子たちに、こう言われています。「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸だ」と。

 

 主イエスのお言葉に、わたしは2種類の呪われた者たちを見ます。第1に教会の外の敵です。この世の迫害者たちです。主イエスがこの世の権力者たちに迫害されたように、キリスト教会も国家権力の迫害を避けることはできません。その時に信仰の未熟な者、弱い者たちがつまずき、信仰を捨てるでしょう。

 

 第2にこの世にある教会の分裂と争いと対立です。初代教会には、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の対立が起こりました。強いキリスト者たちと弱いキリスト者たちの対立も起こりました。偽教師、偽預言者たちが現れ、キリスト教の異端が起こりました。それによって教会の中が分裂しました。多くの信者たちが信仰につまずきました。分裂と異端によって多くの者が教会を離れました。

 

 国家の迫害と教会の中の分裂と対立、異端の問題は、この世にキリスト教会がある限り、避けられません。主イエスは、御自身の教会を迫害する者、つまずかせる者を呪い、災いを下すと宣言されました。

 

 そして、第3にキリスト者個人の信仰のつまずきを、主イエスは警告されています。教会生活において信仰のつまずきとして大きな問題になっていたのは、キリスト者の不道徳な行いです。

 

そのひとつの例が、裏切り者ユダです。彼は主イエスを裏切り、自殺しました。彼は、弟子たちの集団の会計をあずかり、不正をしていました。お金に目がくらみ、主イエスを裏切り、信仰につまずきました。

 

教会の中で多くの者が、ユダのように不道徳、不正により姦淫、盗み等を行い、自ら信仰につまずき、あるいは、兄弟姉妹をつまずかせました。コリント教会には、父の妻と姦淫している者が兄弟姉妹の交わりをしていました。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙の中でキリスト者たちに「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(428)と警告しています。

 

表立って不道徳や不正をしなくても、主イエスは、目と心で姦淫する者たちを裁かれています。「わたしは、言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(マタイ52730)

 

主イエスは、この世にある教会とキリスト者たちに、信仰のつまずきという大きな問題と常に直面しつつ、教会生活をすることを、あなたがたは避けられないと教えておられます。そこで唯一のわたしたちの慰めは、キリストにこそ罪の赦しがあることです。

 

わたしたちの教会生活は、信仰のつまずき、すなわち、人と自分に対して信仰のつまずきをもたらす罪を避けられません。その罪は重く、地獄の刑罰を免れないでしょう。しかし、そのわたしたちの罪のために、主イエス・キリストは十字架に死に、わたしたちを永遠の命に与らせるために、死人の中から復活されました。

 

主イエスの呪いの言葉は、反面に主イエスはわたしたちに「わたしと常に結び付いた命が大切です」と訴えておられる御言葉ではないでしょうか。

 

主イエスは、教会生活を通してわたしたちがキリストの命に与ることを喜ばれているのです。それは、わたしたちが聖霊を通してキリストを信じることによって与えられます。キリストに対する信仰から何人も離れさせないこと、それが主イエスの願いなのです。祈りましょう。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝も、主イエスを通してわたしたちに教会生活について教えてくださり感謝します。教会生活に信仰のつまずきが大きな問題であり、そのことを通してキリストの十字架と復活の御業を通して、わたしたちに与えられた罪の赦しと永遠の命の大切さを学ぶことが許され感謝します。主イエスの御言葉を学び、わたしたしたちの教会生活の中に信仰のつまずきという大きな問題があり、わたしたちもその危険性に常に直面していますが、主イエスが聖霊とみ言葉を通してわたしたちと共に居てくださり、この礼拝をとおしてわたしたちに罪の赦しと永遠の命に招いてくださることを感謝します。どうか兄弟姉妹を愛し、共に天の御国を目指してこの地上の生涯を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。