マタイによる福音書説教043         主の201194

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「全能の父なる神よ、あなたの真理の御言葉を正しく理解し、心から従うことができるよう、わたしたちにあなたの御霊をお与えください。あなたの掟を愛し、あなたからの約束を願い求めることができるよう、わたしたちの心を照らし、真理の御言葉に心を開かせてください。今、説教によって語られるあなたの知恵をよく理解できるように導いてください。わたしたちの主イエス・キリストをとおして祈ります。アーメン。」

 

 

 

 「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子が師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

 

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 

                     マタイによる福音書第102433

 

 

 

  説教題:「あなたに平安がある」

 

 今朝は、マタイによる福音書第102433節の御言葉を学びましょう。

 

 キリスト教会は、キリストの御言葉を聞き続ける教会です。使徒パウロがわたしたちの信仰を定義して、こう言っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです」(ローマ1017)

 

 「キリストの言葉」とは、今日の説教です。わたしたちが主イエスを信じ、クリスチャンとなったのは、大学生のころに宝塚教会の礼拝において説教を聞くことによってでした。マタイによる福音書は、教会の説教から生まれました。

 

だから、マタイによる福音書の主イエス・キリストの御言葉は、主イエスが12弟子たちに、主イエスの時代の人々に語られた説教です。その主イエスの御言葉を、マタイによる福音書はユダヤ人たちに伝えました。ユダヤ人キリスト者たちに伝えました。主イエスが十字架に死なれ、よみがえり、そして、天に昇られて、50年という年月を経ていました。聖霊がエルサレムの弟子たちの群れに下られて、エルサレムにキリスト教会が生まれて、50年を経ていました。

 

そして、マタイによる福音書が生まれた時代、教会はユダヤ人から迫害を受け、ローマ帝国の皇帝による迫害を受けていました。

 

そこでマタイによる福音書は、そうした厳しい状況の中でキリストの御言葉を当時のキリスト者たちに伝えようとしました。それが、キリストが迫害を予告された御言葉でした。 

 

キリストは、12弟子たちと教会の弱さをよく御存じです。キリスト御自身がユダヤ人やローマ帝国の官憲から迫害を受けらました。当然12弟子たちと教会も迫害を避けることはできません。だから、主イエスは弟子たちに迫害を受ければ、町から町へ逃げて行きなさいと命じられました。逃げ切れずに官憲に捕まれば、すべては主御自身に身を委ねなさいとお命じになりました。そして最後まで耐え忍ぶ者は救われると励まされました。

 

今朝は、主イエスが12弟子たちに迫害を受けるという予告をされた続きです。主イエスは、12弟子に言われました。「わたしが迫害を受けるのだから、当然あなたがたもわたしのように迫害を受ける」と。主イエスは、ユダヤ人の指導者たちに「ベルゼブル」によって悪霊を追い出す奇跡をしていると悪口を言われました。「ベルゼブル」は、「悪霊たちの親分」です。先生が悪魔と言われたのですから、その弟子たちが天使だと誉められるはずがありません。おまえたちは悪魔の子分どもだと蔑まれるでしょう。主人である主イエスが悪魔と呼ばれるのですから、僕の弟子たちは悪魔の子分たちと呼ばれるでしょう。

 

主イエスは、弟子たちも先生であり、彼らの主人である御自分同様に迫害を受けるという真実を伝えるために、ユダヤの諺を用いられました。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子が師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子が師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

 

主イエスが12弟子たちに伝えたかったことは、ただ一つのことです。12弟子たちは、迫害をこの世で受けるが、それは主イエスと同じ苦難を受けているのだと言うことです。だから、使徒言行録に12使徒たちがユダヤの指導者たちに逮捕され、鞭で打たれ辱められたときに、彼らは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」と証ししています(使徒言行録641)

 

マタイによる福音書は、主イエスの御言葉をこう伝えたかったのです。弟子たる者は、師であり、主人である主イエス同様に迫害と苦難を当然の運命として忍耐しなければならないだろう。しかし、その迫害の中にもあなたがたに平安があるではないか。主イエスと同じように迫害を受け、苦しもうと、あなたがたがわたしの家族の一員であることは消せないからと。12弟子、教会、わたしたちキリスト者は、主イエスの神の家族の一員です。

 

次に、主イエスは12弟子たちに「人を恐れるな」と命じられました。迫害は、人の手による暴力です。人の暴力は本当に怖いです。腕力のある人に、誰も向かう勇気はありません。まして手に武器を持つ者たちに、人を殺す権力を持つ者に、12弟子たちは立ち向かう勇気を持っていませんでした。この事実を主イエスはよく知っておられます。御自身がユダヤの指導者に逮捕されれば、弟子たちは裏切り逃げて行くことを。

 

わたしたちも同じです。いつ、また戦前、戦時中の教会になるのか、迫害を受けたキリシタンと同じ迫害を受けるのか、分かりません。考えると、本当に怖いです。でも主イエスは、弟子たちを励まされます。弟子たちの伝道は、主イエスの伝道の続きであると。主イエスは、弟子たちを見捨てられません。復活され、弟子たちに聖霊を遣わされます。聖霊は、主イエスの霊として弟子たちの内に住まい、弟子たちに御自身の十字架が人類の罪の身代わりであり、御自身の復活のように弟子たちも新しい命によみがえることを理解させてくださいます。だから12使徒たちは、聖霊によってキリストの十字架と復活を理解した時、人々を恐れないで、大胆に伝道しました。

 

迫害を受けて、墓の中で、暗闇の中で礼拝を守り、キリストの御言葉を聞いていたマタイ福音書の時代のキリスト者たちは、主イエスのお言葉に励まされ、罪の赦しと身体のよみがり、永遠の命の希望に満たされ、白昼堂々と伝道しました。

 

主イエスが、「暗闇で耳打ちされたことを、明るみ、光の中で、白昼屋根の上で言い広めよ」とお命じになるだけでなく、御自身が聖霊をとおしてわたしたちの中に住まわれ、その勇気をお与え下さるのです。

 

わたしは牧師で、伝道者ですが、そのように主に召されていることを確信していますが、人を恐れています。伝道集会やクリスマス集会のチラシ一枚配る時も、人目を避けるようにポストに入れて、次へと回ります。しかし、庭にその家の人がおられるときがあります。そのとき、瞬間の祈りをします。「主よ、勇気をください」。「主よ、手渡しできるようにしてください。」手渡すことができると、ほっとします。

 

主イエスは、勇気のない、意気地のない弟子たちを励まされました。身体を殺すことができても、魂を殺すことのできない人を恐れるな。身体も魂も地獄で殺すことのできる主を恐れよと。

 

わたしたちは、心の中で恐れを抱くと、常に恐ろしいものにだけ目を向けます。人が恐いと思うと、その人の顔色ばかりを窺うようになります。そのわたしたちの心を知られる主イエスは、12弟子たちに真実に恐るべき方を見よと命じられました。

 

主イエスは、12弟子たちに神の裁きは恐ろしいよと教えられているのではありません。むしろ、人の身体と魂を地獄で滅ぼすことができるお方が、わたしたちの父なる神であり、愛なる神であると教えておられます。なぜなら、わたしたちの父なる神は、10円、20円で売られている雀を見守ってくださっています。父なる神の許しなしに、人は1羽の雀も捕ることはできません。まして、わたしたちキリスト者は主イエスを通して父なる神の子にされ、神の家族の一員にされています。

 

父なる神は、主イエスのとりなしのゆえに、わたしたちを御自身の子供として大切に心配りしてくださり、わたしたちの髪の毛1本すら数えて、御心に留めてくださっているのです。

 

だから、わたしたちは、ハイデルベルク信仰問答の問1のように「生きるにも死ぬにも唯一の慰め」を持っています。父なる神です。父なる神は、御子主イエスの十字架によってわたしたちの罪を赦し、わたしたちを神の子として受け入れ、わたしたちの髪の毛1本までも心配りをしてくださっています。主イエスは、わたしたちに「だから、あなたがたは平安にあるでしょう」と励ましてくださっています。

 

ただ一つのことを、主イエスは、わたしたちにお求めです。どんなに人々の迫害の中でも、主イエスをキリストと告白することです。キリスト教会とキリスト教は、イエスを誰と告白するか、この1点にかかっています。イエスをキリストと告白するのが、キリスト教会であり、キリスト教です。教会とキリスト者は、人々の前でイエスは誰かと聞かれたら、イエスはキリストですと告白する群れであります。その告白をする教会とキリスト者だけが、わたしの真の弟子であり、まことの教会であると、主イエスは宣言されました。

 

主イエスは、迫害があれば、わたしたちが町から町へ逃げることを許してくださいます。恐れることも許し、励ましてくださいます。だが、「イエスはわたしのキリストです」と人の前で告白する者だけが、まことに主イエスの弟子です。人前で主イエスはわたしのキリストでないと公言するならば、主イエスも終わりの審判の時に、父なる神の御前で「わたしはあなたを知らない」と宣言されます。

 

ここでも注意すべきは、今なのです。今、あなたが「イエスはわたしの救い主です」とここで、人前で告白すれば、主イエスを通して父なる神は世の終わりまでわたしたちを神の子として心配りしてくださるのです。わたしたちの救いは、今ここにあります。キリストの言葉が語り続けられている今です。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝の御言葉を通して、主イエス・キリストの十字架のとりなしにより罪赦されて、神の子とされ、父なる神の愛の心配りの中で生きているという喜びを教えられ感謝します。

 

今より聖餐の恵みにあずかれることを感謝します。自分たちの日々の苦しみの中で、十字架のキリストを仰がせてください。復活のキリストに目を向けて、罪の赦しと復活と永遠の命を乞い願わせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教044         主の2011911

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

 

 人をその父に、

 

 娘を母に、

 

 嫁をしゅうとめに。

 

 こうして、自分の家族の者が敵となる。

 

 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 

                    マタイによる福音書第103439

 

 

 

 説教題:「あなたに永遠の命を」

 

 今朝は、マタイによる福音書第103439節の御言葉を学びましょう。

 

主イエスは、わたしたちに「思ってはならない」と言われました。そして、34節と35節において3度繰り返して「わたしが来たのは」と言われています。

 

主イエスがこの世に来られたことについて、弟子たちに、そして、わたしたちに何か誤解があったのでしょうか。

 

その誤解とは何でしょうか。主イエスは弟子たちに言われました。「思ってはならない。わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためだと。」

 

主イエスのお言葉を聞いた弟子たちは、「ええー」と驚いたのではないでしょうか。主イエスは、弟子たちに伝道をお命じになられて、12節と13節で弟子たちが伝道する家族のために平和を祈るようにお命じになりました。主イエスを救い主として受け入れる家の者たちには弟子たちが祈る平和が与えられると約束されました。救い主イエスは、預言者イザヤが預言した「平和の君」(イザヤ書95)として、人々を神と和解させ、神との平和を打ち立てるために来られたのではないでしょうか。

 

しかし、主イエスは、今弟子たちに、そしてわたしたちに反対のことを伝えようとなさっています。だから、主イエスは、弟子たちに、34節のはじめに「あなたがたは思ってはならない」と強く言われました。主イエスは、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ」(34)という弟子たち、そしてわたしたちの思いを強く打ち消すためでした。

 

主イエスは、3度「わたしが来た」と繰り返し言われ、救い主である主イエスがこの世に来られたことによって、弟子たちの群れである教会にどんなことが引き起こされるのかをお告げになりました。

 

 主イエスは、「わたしが来たのは、平和ではなく剣を投ずるために来た」と言われました。 主イエスが救い主としてこの世に来られた結果、キリストの福音が伝えられる人の家族の中に主イエスを救い主として受け入れる者と拒む者が生まれました。それによって家の者たちの中に平和ではなく、争いが生まれました。

 

 主イエスは、御自分のお言葉の正しさを、旧約聖書の預言者ミカの預言によって次のように証しされました。「人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(36)

 

預言者ミカは、旧約聖書の列王記に記録されています南ユダ王国のヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代に預言活動をしました。預言者イザヤとほぼ同じ時代の預言者です。

 

預言者イザヤは宮廷の預言者であり、ミカは罪に腐敗した民衆に、彼らの罪にする神の怒りと裁きを語りました。彼はイスラエルに正義なく、人は誰も信頼できないと嘆きながら、救い主イエスが来られるのを待ち望んでいました。

 

預言者ミカが救い主を待ち望んだ嘆きの言葉を、主イエスが御自身のお言葉として弟子たちにお告げになりました。預言者ミカはこう言いました。「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」(ミカ書76)

 

預言者ミカが嘆き預言しました意味は、こうです。救い主を待ち望む正しい信仰者は、必然的に家族の者との対立という苦しみに遭うと。

 

そして、主イエスは、預言者ミカが預言した救い主が今来ている、このわたしだと告げられています。

 

ヨセフとマリアが救い主である幼子主イエスをエルサレム神殿に連れて行き、神に献げました。そのとき救い主が来られるまで死なないと聖霊に告げられていましたシメオンが、幼子主イエスに出会いました。彼は幼子主イエスを腕に抱き、預言しました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」(ルカ福音書234)

 

救い主イエスが来られ、イスラエルの人々は分かたれます。主イエスを救い主として受け入れる者と受け入れない者とに。そして、主イエス御自身が受け入れない者の剣、すなわち、政治的権力によって殺される定めであると、シメオンは預言しました。

 

救い主イエスの訪れは、主イエスの弟子たちを、彼の親しい隣人、家族の者から引き離すのです。

 

この事実は、わたしたちの人間的な思い、家族の絆から思えば、まことに辛いことです。しかし、主イエスと弟子たちの関係から見れば、違う面が見えて来ます。弟子たち、そしてキリスト者であるわたしたちを所有されているのは、どなたですか。主イエス・キリストではありませんか。

 

救い主イエスは、弟子たちやわたしたちキリスト者を、この世の家族から引き離し、父なる神の子とし、神の家族にするために、この世に来られ、わたしたちのために十字架の道を歩まれました。

 

だから、マタイ福音書の時代の教会とキリスト者たちは、今朝の主イエスのお言葉を聞いて、二つのことを体験したでしょう。第1に主イエスのお言葉の正しさを、彼らの信仰の経験を通して知っていたでしょう。彼らの家族にキリストの福音が伝えられました。初代教会のキリスト者たちは主イエスを救い主と信じました。しかし、彼ら家族の者の中には信じない者がいました。だから、「息子が父に、娘が母に、嫁がしゅうとめに対立する」という家の問題が生まれました。信仰を続ける上で、家族の者の反対が大きな問題であったでしょう。それは、今のわたしたちも同じでしょう。

 

わたしも、主イエスの御言葉の真実を味わった一人です。家族の中で、わたしだけがキリスト者となりました。田舎は親戚や地域のつながりがあります。またわたしの弱さもあり、家族に熱心に伝道できませんでした。

 

主イエスはわたしを伝道者に召し、家族から引き離されました。幸いに家族がわたしの敵となり、わたしを迫害することはありませんでした。そして、今母を引き取り、わたしは家も故郷を失いました。主イエスが言われた通りのことを、わたしは信仰生活において体験しています。

 

2に、わたしが実感することです。わたしは、主イエスのお言葉に、次のような主イエスの御声を聞きます。「あなたは、誰のものか」と。わたしは、わたしを罪から贖われたキリストのものです。わたしの家族は教会であり、わたしは主イエスのものであります。十字架の主イエス・キリストは、母マリアに弟子のヨハネを指して、言われました。「婦人よ、あなたの息子です」と。主は、ヨハネに母マリアを指して、言われました。「見なさい。あなたの母です」と。

 

主イエスは、弟子たちにこの世の家族から引き離されて、神の家族、教会をお造りになりました。

 

それゆえにわたしたちは、主イエスのものなのですから、主イエスにふさわしく歩むべきでしょう。

 

そこで主イエスは、弟子たちに3738節に3度「わたしにふさわしくない」と繰り返し言われ、主イエスの弟子として条件をお示しになりました。

 

1に主イエスは、弟子たちに御自身を取るか、肉親を取るか、選択を迫り、「わたしより父や母を愛する者はわたしにふさわしくない」と言われています。

 

十戒の第5戒に「あなたの父母を敬え」とあります。わたしたちが隣人を愛することにおいて最優先されるのは、わたしたちの父と母を愛することです。

 

しかし、十戒の隣人愛より神の愛が優先されます。十戒の第1戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあります。わたしたちの神、わたしたちの救い主より優先するものは、主の弟子たちにはありません。あれば、その者は「キリスト者」と呼ばれません。キリストのものではないからです。だから、主イエスは、その者は「わたしにふさわしくない」とお告げになります。

 

2に主イエスは、弟子たちに「わたしよりも息子や娘を愛する者はわたしにふさわしくない」とお告げになりました。主イエスは、弟子たちに親子のきずなより御自身を優先することを迫られました。

 

3に主イエスに従わない者は、わたしにふさわしくないとお告げになりました。「自分の十字架を担って」とは、自分自ら、心から喜んで、どんなに多くの苦しみがあろうとも、主イエスを救い主と信じて、主イエスに心から信頼して従うことです。

 

主イエスがわたしたちに「わたしにふさわしくない」と繰り返されるときに、わたしたちは心を閉ざして落ち込む必要はありません。そのように主イエスは、わたしたちに求められるほどに、わたしたちに大きな愛を注いでくださっています。十字架の愛です。罪人であり、神に背を向けて生きていたわたしたちのために、神の御子キリストが御自身の命を差し出してくださいました、わたしたちのために父なる神の罪のとりなしをしてくださいました。わたしたちを父なる神と和解させて、御自身同様にわたしたちを神の子として、神の家族の一員に加えてくださいました。その恵みに感謝して生きることを、主イエスはわたしたちに期待されています。

 

最後の39節は、主イエスがわたしたちに「あなたに永遠の命を」と呼びかけて、招かれています。自分たちがこの世で得る命と主イエスがわたしたちに与えてくださる命は、同じ「命」という言葉でも、内容と質が異なります。

 

わたしたちがこの世で得る命は、限りある命です。朽ちて行く命です。その命は、この地上の命であり、「人生」とも呼ばれています。

 

「自分の命を得る」を、今日の言葉にすれば、勝ち組になることでしょう。日本女子サッカーの「なでしこジャパン」のように、女子世界ワールドカップで優勝し、国民栄誉賞に輝くことは、自分の命を得ようとする者、すなわち、この世で勝ち組になりたい者にとって最高の栄誉です。しかし、ソロモンの栄華と同じであり、朽ちて行くのです。

 

しかし、主イエスのためにこの世の命を捨てる者とは、主イエスのために迫害される者、最悪の場合は殉教する者でしょう。殺されなくても、この世では少数者として生きざるをえません。負け組というレッテルを貼られる人生かもしれません。

 

しかし、復活の主イエスは、御自身の復活の命を、神と永遠に生きる命を、わたしたちにお与えくださいます。

 

この喜びを知るのは、キリストの弟子たちであり、教会です。神の国の秘密を知る者たちです。毎週の礼拝を通して、主イエスが聖霊と御言葉を通して、「あなたに永遠の命を」と呼びかけておられる者たちです。

 

先週の水曜日よりウェストミンスター小教理問答を学び始めました。問1と答を学ぶ中で、19世紀のキリスト教哲学者カーライルの晩年の言葉に出会いました。トーマス・カーライルは、次のようにこの問1の答を晩年に回想しています。「私は年とって、永遠という断崖の上に立った今、少年時代に学んだ小教理問答の第1問の答の言葉に益々立ち戻って行くのである。『人の主な目的は何か。それは神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである』という言葉は私にとって益々深奥な意味を持って迫って来るのである。」(玉木鎮『小教理問答講解』P1415)

 

「永遠という断崖に立った今」を、わたしはうまく説明できませんでした。しかし、わたしは、老人になり、この世の命が少なくなり、見える希望があることをカーライルに教えられます。それは、今このわたしのこの世の命を失わなければ見えない永遠の命の希望です。それは、聖書の約束であり、主イエス・キリストの復活によって明らかにされた命の希望です。

 

教会には、罪の赦し、身体のよみがり、永遠の命があります。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、復活の主イエス・キリストに、永遠の命を見出す者を、わたしたちの家族から、この町の人々からお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教045         主の2011918

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 

 イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

 

               マタイによる福音書第1040節-第111

 

 

 

 説教題:「あなたは水一杯で幸せになれる」

 

 主イエスは、12弟子たちを伝道に遣わすために、彼らに説教をなさいました。それがマタイ福音書第10章の「派遣宣教の説教」です。

 

 今朝は、その説教の結びであります。主イエスは、12弟子たちに伝道について指図を終えられると、ガリラヤの町々村々で教え、伝道されました(マタイ111)

 

 主イエスは12弟子たちをガリラヤ伝道に、そしてユダヤ伝道に遣わされます。人々が12弟子たちを受け入れることを、主イエスは期待されています。そして、人々が主イエスの弟子たちを受け入れる幸いを語られました。

 

 「あなたがたを受け入れる人」の「あなたがた」は、主イエスの12弟子たちです。主イエスは、さらに「あなたがた」を言い換えられて、「わたしを受け入れる人」、「預言者」「正しい者」「わたしの弟子」「この小さな者の一人」と、12弟子たちを呼ばれています。

 

 このように主イエスは、主イエスの弟子を受け入れる人の幸いを語られ、祝福を約束されました。

 

 4041節に「受け入れる人」「受け入れ」「受け」「受ける」という言葉が繰り返し使われています。皆同じ言葉です。

 

この「受け入れる」という言葉は、マタイ福音書の1014節に主イエスが12弟子たちに「あなたがたを迎え入れもせず」と言われています。

 

この言葉は、本来客を迎え入れ、歓迎するときに使われました。それを、マタイ福音書は弟子たちが伝えるキリストの福音を受け入れるという意味で使いました。

 

ですから、主イエスははっきりと言われました。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れる」と。

 

主イエスがここで語られていることは、驚くべきことです。福音の使者として遣わされた12弟子たちが、派遣したキリストとキリストを派遣した神と同一であると、主イエスは主張されています。

 

12弟子たちが家族に、友人に、町の人々にイエス・キリストを伝えます。「イエスさまはあなたの罪のために十字架に死なれ、あなたの罪を赦し、永遠の命を与えるために甦られました」。

 

聞いた人が、弟子たちを受け入れます。主イエスは、「家族も友人も町の人々もわたしを受け入れ、わたしを遣わされた父なる神を受け入れた」と認めてくださいます。

 

「預言者」とは、神の御言葉を与る者です。神の側に立ち、神に代わって、神の御言葉を告げる者です。預言者は神に召されて、その働きに携わります。アブラハム、モーセ、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤのように。

 

預言者たちは、彼らの御言葉と証しによって約束の救い主が来られることを告げ知らせました。預言者イザヤは、苦難の僕として主イエスの十字架と復活による救いの約束を告げ知らせました(イザヤ書53)

 

12弟子たちも預言者です。彼らは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、救い主の救いが実現し、イエス・キリストを救い主と信じる者の救いを告げ知らせました。そして、わたしたちキリスト者も預言者です。主イエスに召されて、キリストの十字架と復活の福音を告げ知らせています。

 

主イエスは、「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受ける」と約束されました。マタイ福音書は、12弟子たちを「預言者」と言い換えています。12弟子たちは主イエスに召され、預言者として遣わされ、神の御言葉を語りました。彼らが預言者として受ける報いは、彼らが伝えるイエス・キリストの救いです。彼らは十字架と復活のキリストを伝えました。罪の赦し、身体のよみがり、永遠の命の祝福を得ました。

 

主イエスは、弟子たちを預言者として受け入れた人も、弟子たちと同じようにこの世の終わりに罪の赦しと永遠の命の祝福にあずかると約束されています。

 

12弟子たちは、「正しい者」と呼ばれています。「正しい者」とは、義人です。神の御前に義とされた人です。弟子たちは、キリストの十字架の福音を語りました。そして、キリストの十字架によって罪を赦され、神と和解し、神の子とされた喜びを知らせました。その喜びこそ、12弟子たちがこの世の終わりに望みました報いです。主イエスは、弟子たちを受け入れた人も、弟子たちと同じようにこの喜びを報いとして与えると約束されました。

 

そして、主イエスは、この説教の終わりにはっきりと宣言されました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 

「はっきり言っておく」とは、「アーメン、わたしは言う」です。今ここで主イエスは、わたしたちに確かなお言葉をくださいます。喜びに満ちた御言葉です。

 

主イエスは言われます。「わたしの弟子であると知って、この小さな者の一人に、幼子のように自分では何もできない者の一人に、その人が水を一杯でも飲ませて、介護してくれるのであれば、わたしはその人を覚えて、決して彼への報いを消し去ることはしない。」

 

主イエスは、人に善い行いをすれば、救われると言われているのではありません。主イエスの弟子がこの世においてどんなに幸いな存在かを告げられているのです。

 

弟子たちは、この世に存在することそのものが幸いです。第1に主イエスに遣わされた福音の使者である弟子たちは、遣わした主イエスに、主イエスを派遣した神に、等しい者だからです。だから、弟子たちが語りますキリストの福音を受け入れる人は、主イエスを受け入れ、主イエスを遣わした父なる神を受け入れるのです。

 

わたしは、自分が救われたことを思い起こしますと、主イエスのお言葉にアーメンと言わざるを得ません。大学時代にクリスチャンの先生と出会い、その先生を受け入れました。教えてくださること、伝えてくださる福音を本当に素直に受け入れました。そして宝塚教会に導かれ、主イエスを救い主と信じて、洗礼を受けキリスト者となりました。

 

大学の恩師は、大学生にキリストを伝える使命を持たれていました。しかし、わたしは強引に教会に誘われたことはありません。大学の恩師が信仰を証しされた時、本当に神を喜び、キリストの救いを喜んでおられました。己が人生において神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことを、大学生にキリスト教哲学を教えることによって実践されていました。よく家庭に招かれ、食事をいただきました。恩師が家拝しおりを用いて、祈り、食事をいただきました。わたしは、はじめてクリスチャンがこのようにして食事をしているのだと知りました。わたしは、恩師が日曜日に教会に行き、礼拝するように礼拝し、水曜日に祈祷会に行くように祈祷会に出席しました。

 

「預言者」と「正しい者」という言葉で思い起こすのは、聖書のアブラハムやノアです。アブラハムを「預言者、義人」と認めたゲラルの王アビメレクは、アブラハムを「預言者」「義人」として重んじました。主なる神は、アブラハムのゆえにアビメレク王を祝福されました(創世記20)

 

ノアも預言者であり、義人です。彼は、自分の家族を救うために箱舟を造り、この世の人々に罪を警告しました。しかし、ノアを預言者、義人として認め、受け入れたのは、彼の家族だけでした。

 

2に主イエスの弟子は、小さな者の一人です。人の目には価値無き存在です。しかし、主イエスは、弟子たちを、幸いな存在としてくださいました。

 

「この小さな者」とは、「幼子」に由来します。マルコによる福音書1015節に、主イエスはこう言われています。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。

 

子供は、幼子であり、無力な者です。乳飲み子は、世話する者がなければ、生きることもできません。

 

主イエスは言われます。「自分では一杯の水を飲むこともできない、まことに幼子のように小さな者を、わたしの弟子であると知って、あなたが水一杯でも飲ませてくれるならば、わたしはあなたを覚えて、決して報いを消し去ることはない」。

 

わたしたちの教会は、高齢化の時代を迎えています。段々とわたしたちは、今幼子のように介護を必要とする日を迎えようとしています。マタイ福音書の時代は迫害の時代でした。弟子たちは逮捕され、牢獄に入れられました。指し入れを必要としました。自分では水一杯も飲めないという悲惨さの中にありました。そのような有様にはなりたくないと、わたしたちは思っています。

 

しかし、主イエスは、その有様を祝福してくださいます。御自身の十字架同様に祝福と幸いの存在としてくださいます。もし人が不自由なキリスト者を、主イエスの弟子と知って、好意を示し、もてなせば、主イエスはそのもてなしを御自身へのもてなしとして、決して忘れることなく、その人を報いると約束されました。

 

わたしには、その人に、主イエスがどのように報いられるかは、分かりません。しかし、この事は事実であります。主の弟子、キリスト者は、小さな者であっても、キリストを運ぶ者です。人を一杯の水で幸せにできる存在として、この世に置かれています。

 

頑張る必要はありません。人は、キリスト者を通してキリストをもてなすのです。マタイ福音書25章に主イエスがこの世の終わりについて説教されていますね。最後の審判について説教されています。そこで主イエスがわたしたちに問われることは、ただ一つです。主の弟子をどのように世話をしたかです。病気の兄弟姉妹を見舞ったか、牢に入れられた兄弟姉妹を訪ねて、水一杯を与えたか、です。

 

ロシアの文豪トルストイは、それをモチーフにして「靴屋のマルチン」を書きました。彼は雪かきをする老人に紅茶を振る舞いました。赤ん坊を抱いた貧しい母親に肩掛けをプレゼントしました。リンゴを盗まれた老婆とリンゴを盗んだ少年を仲直りさせました。彼は、主イエスが来られるのを待っていたのです。人に親切にした夜に、主イエスはマルチンを訪れて言われました。雪かきの老人に、赤ちゃんを抱く母親に、老婆と子供に親切にしたのは、わたしに親切にしてくれたのだと。

 

主の弟子、キリスト者は、昔から小さなキリストと呼ばれました。人が主の弟子に一杯の水を分け与えることで、主イエスがその人に幸いを得させられる、この世の存在であるのです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは小さな者であります。しかし、あなたは御目にわたしたちを尊い者とし、人々の御救いのために器としてお用いくださりありがとうございます。家族やこの町の人々に、キリストを証しさせてくださいと毎日祈ります。しかし、高齢化と病気で、自分のことだけで精一杯の毎日です。主イエスがこの小さな者を幸いな存在としてくださり、感謝します。人や家族が、兄弟姉妹たちが主の弟子と知って、親切にしてくれることを、それが水一杯であっても、主よ、あなたは覚えて、祝福すると約束してくださいました。おかげで、何もできないわたしですが、この世に命ある限り生きていてよいのだと、今日、主イエスが言ってくださったのだと感謝します。この祈りと感謝を、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。