マタイによる福音書説教082         主の20121118

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。御言葉を聞きますわたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、福音において提供されています主イエス・キリストを、わたしたちの主として受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向うの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 

「シオンの娘に告げよ。

 

 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、

 

 柔和な方で、ろばに乗り

 

 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

 

 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆はイエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。

 

 「ダビデの子にホサナ。

 

  主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 

 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

 

                   マタイによる福音書第21111

 

 

 

 説教題:「王なる主イエス」

 

 今朝は、マタイによる福音書の第21111節の御言葉を学びましょう。マタイによる福音書は、いよいよ主イエスの御受難を物語ります。ガリラヤを立たれて、エルサレムの都に着かれるまでに、主イエスは12弟子たちに御自身がエルサレムにおいて受難し、復活することを予告されました。今主イエスは、御自身のお言葉を実行されます。まずは、主イエスは、ろばの子に乗られ、エルサレムの都に王として入城されます。そして、十字架の道を歩まれます。

 

 主イエスは、12弟子たち一行と共にエルサレムの都に近づかれ、オリーブ山のふもとにあるベトファゲという村に来られました時に、受難のメシアとして、王として、エルサレムの都に入る用意をされました。

 

ベトファゲの村は、過越の祭りを祝う巡礼者たちが宿をとり、巡礼者たちでにぎわっていたでしょう。

 

 主イエスは、二人の弟子たちをベトファゲの村に使いに出されました。そして、主イエスは、二人に「向うの村に行きなさい」と命じられました。その村はベトファゲです。主イエスは、その村に荷を負う雌ろばと子ろばがつながれているのを御存知でした。

 

 主イエスは、弟子たちに「つながれた雌ろばと子ろばをほどいて、わたしのところに連れて来なさい」とお命じになりました。

 

 村の者ではないよそ者がつないである雌ろばと子ろばをほどいて連れて行こうとすれば、村人たちは不信に思うでしょう。彼らは弟子たちに「何をするのだ」と言うでしょう。すると、主イエスは、二人の弟子たちに「『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに雌ろばと子ろばを渡してくれる」と言われました。

 

 わたしたちは、今朝のお話をよく知っています。そして、主イエスの「主がお入用なのです」というお言葉をとても大切にしています。主イエスがお乗りになった子ろばは、わたしたちキリスト者であると思っている方は多いと思います。そして、子ろばのように、わたしたちも主の御用にお用いくださいと祈ったことのある方は、キリスト者たちの中に多いと思います。

 

 ですから、わたしたちは「主がお入り用なのです」と主イエスが言われた「主」とは、キリストのことであると思っています。

 

 しかし、ベトファゲの村の人々に主イエスが、どれほど知られ、有名であったのでしょう。むしろ、この「主」とは、雌ろばと子ろばの持ち主のことではないのでしょうか。

 

 わたしたちの聖書は、「主」をキリストと解釈して、「主がお入り用なのです」と丁寧な日本語の文章にしています。しかし、主イエスは、二人の弟子たちに「主がそれらの必要を持つ」と言われたのです。主イエスは、二人の弟子たちに「『雌ろばと子ろばの持ち主が、それらを必要としている』と言いなさい」と言われました。だから、弟子たちの言葉を聞いて、ベトファゲの村人たちは、すぐに雌ろばと子ろばを渡してくれました。

 

 一つの推測ですが、わたしは雌ろばと子ろばの持ち主がエルサレムに向かわれていた主イエスに従っていた群衆の中にいたと思います。主イエスは、彼がベトファゲの村に雌ろばと子ろばを持っていることを知っておられました。雌ろばと子ろばの持ち主は、主イエスに請われて、提供したのか、彼が喜んで主イエスに雌ろばと子ろばを提供したのか、分かりません。主イエスに主に従って来た群衆たちの中に持ち主がいたと思います。

 

 では、どうして主イエスは、雌ろばと子ろばをお求めになられたのでしょうか。マタイによる福音書は、わたしたち読者に4節に次のように説明しています。「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と。

 

 昔のイスラエルの預言者たちがメシアである主イエスがろばの子に乗って、王としてエルサレムの都に入ることを預言していました。それは、預言者イザヤとゼカリヤです。

 

 マタイによる福音書は、二人の預言者の預言を、5節に一つの預言として、次のように記しています。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。

 

 その一人の預言者イザヤは、イザヤ書6211節に来たるべきメシアの救いを、次のように預言しています。「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んでくる。見よ、主のかち得られたものは御もとにしたがい 主の働きの実りは御前に進む」と。

 

もう一人の預言者ゼカリヤは、ゼカリヤ書99節に来たるべきメシアが王として子ろばに乗ってエルサレムの都に入ることを、次のように預言しています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」と。

 

 主イエスは、この二つのメシア預言を実現するために、ベトファゲの村につながれている雌ろばと子ろばを、二人の弟子たちに取りに行かせられました。そして、二人の弟子たちは、主イエスに命じられた通りに雌ろばと子ろばを、主イエスのところまで引いて来ました。そして、主イエスが人が乗ったことのない子ろばに乗られるために、弟子たちはろばに背に服をかけました。

 

 主イエスの12弟子たちや主イエスに従った群衆はろばの子に乗り、エルサレムに入られる主イエスを、ダビデの子、イスラエルの王として歓迎しました。

 

12弟子たちと群衆は、ろばの子に乗り、エルサレムに入られる主イエスの姿に、昔のイスラエルの偉大な王であるソロモン王を重ねて見ていたかもしれません。

 

旧約聖書の列王記上13246節にダビデの子、ソロモン王がらばに乗り、ケデロンの谷にあるギホンの泉に下り、油を注がれてイスラエルの王となり、エルサレムの都の人々が「ソロモン王、万歳」と歓呼する中を、王としてエルサレムの都に入ったことを記しています。

 

マタイによる福音書は、主イエスがろばの子に乗って王としてエルサレムの都に入ることで、幾つかの点に注目しています。第1は、この世の普通の王とは異なり、この世の王らしくない謙虚な姿でエルサレムの都に入られたことです。高ぶることなく、柔和なお方として。十字架の受難に向かわれる王であるからです。主イエスは、この世の王のように武力、力によって民を支配する王ではありません。むしろ、エルサレムの都の指導者たちや民に嘲られ、笑われ、異邦人に鞭打たれ、辱かしめられて、御自身を十字架にささげられる、まさに徹底して無抵抗の王であります。それを、マタイ福音書は、このメシア預言の中で「柔和なお方」と信仰告白しました。

 

 もう一つは、主イエスとソロモン王の違いであります。ソロモン王は、エルサレムの都の人々に「ソロモン王、万歳」と歓呼の中、イスラエルの王として即位しました。

 

ところが、主イエスを王として歓迎したのは、主イエスに従った12弟子たちと群衆たちでした。彼らが主イエスの通られる道に彼らの服と木の枝を切って敷きました。それは、王座に就く者が歩くところに、彼を王として歓迎した者たちが彼らの服を敷いて、「イエフが王となった」と宣言した故事に倣ったのでしょう(列王記下9114)

 

 だが、エルサレムの都の人々は、王として来られた主イエスを歓迎しませんでした。主イエスの12弟子たちや主イエスに従って来た群衆たちが、子ろばに乗ってエルサレムの都に入られる主イエスを、ダビデの子、イスラエルの王、メシアとして、歓呼をもって迎えているのを見て、エルサレムの都の人々は非常に驚きました。大きな地震のような衝撃でありました。そして、都の人々は「いったい、これはどういう人だ」と騒ぎ立てました。

 

その時に主イエスに従って来た群衆が、彼らに「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。

 

 その後は、マタイによる福音書に何も記されていません。都の人々は、きっと群衆の答に失望したでしょう。預言者イザヤは、ガリラヤを暗黒の地、異邦人の地と呼んでいます。そして、彼はそこに光が射したと預言し、将来にメシアがガリラヤに現れることを預言しました(イザヤ91)。しかし、エルサレムの都の人々は、主イエスの弟子であるナタナエルが弟子のフィリポから「ガリラヤで預言者、メシアに出会った、ナザレのイエスだ」と聞いて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えたように(ヨハネ146)、ガリラヤのナザレから出た預言者、メシアに何の期待もしていませんでした。おそらく都の人々は、主イエスを王として歓迎するよりも、好奇心で、あるいは猜疑心で見ていたでしょう。そして、後にエルサレムの都の人々は、指導者たちに逮捕された主イエスの十字架刑に加担します。そして、預言者ゼカリヤの「神に従い勝利を得る者」という預言は、主イエスの十字架の死と復活によって実現されます。

 

 マタイによる福音書は、わたしたちに今朝の御言葉によって、次のことを証しします。神の御子であり、人の子として生まれられた主イエスが、預言者ザカリヤとイザヤが預言しましたようにわたしたちの救い主として、わたしたちを罪と死から救い出すために、どんなにへりくだられたか、十字架の死に至るまでへりくだってくださったということです。そのことによってこの世界に教会が生まれ、世界とこの日本の国にキリストを救い主と賛美し、神を礼拝する群れが存在しているのです。お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、主イエスが御国の王として、わたしたちを罪と死、永遠の滅びから救い出すために、御自身をへりくだらせ、十字架の道を歩まれたことを感謝します。聖霊よ、今朝の御言葉によってわたしたちを導き、わたしたちを闇からキリストの光の中へと導いてください。アドベントが近づいています。神の御子が人としてこの世にお生まれになったクリスマスを思いつつ、日々キリストの憐れみの中に生かしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教083          主の2012122

 

 

 

 聖霊の照明を求めてお祈りします。「聖霊なる神よ、今読まれます聖書の御言葉と説き明かされる説教を通して、聞きますわたしたちの心に信仰の慰めと励ましをお与えください。聖霊よ、御言葉と聖餐を通してわたしたちに主イエス・キリストが今ここに臨在され、わたしたちを命の食卓にお招きくださり、わたしたちに信仰によって天の御国を継がしてくださることを確信させてください。アドベントを迎えました。希望を持ち、キリストが再び来られることを待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。」

 

 

 

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。

 

『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』

 

ところが、あなたたちは

 

 それを強盗の巣にしている。」

 

 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。『子供たちが何と言っているか、聞こえるか。』イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニヤに行き、そこにお泊まりになった。

 

                  マタイによる福音書第211217

 

 

 

説教題「主イエス、神殿を清める」

 

本日よりアドベントに入ります。クリスマスに向けて心を整えて行きましょう。

 

さて、マタイによる福音書の21章に入り、主イエスのエルサレムにおける御受難を学び始めました。今朝の御言葉は、有名な主イエスの宮清めの出来事を記しています。

 

主イエスは、ろばの子にお乗りになり、メシア、王としてエルサレムの都にお入りになりました。弟子たちと過越の祭に詣でた群衆たちが、ろばの子に乗り、エルサレムの都に入られる主イエスを、「ダビデの子」、メシアとして歓迎しました。

 

その騒ぎを聞き付けて、エルサレムの都中の人々が、ろばの子に乗り、エルサレムの都に王として入られた、この出来事を驚きましたが、群衆たちから主イエスが「ガリラヤのナザレから出た預言者だ」と、エルサレムの都の人々は聞いて、失望したと思います。だから、マタイによる福音書は、エルサレムの都の人々が主イエスをどのように迎えたかを、沈黙しています。むしろ、主イエスは王として歓迎されなかったと、わたしは思います。

 

マタイによる福音書は、ろばの子に乗り、メシア・王としてエルサレムの都に入られた主イエスが、そのままエルサレム神殿に入られたと記しています。

 

マタイによる福音書には、はっきりと書かれていませんが、旧約聖書に『十二小預言書』と呼ばれている預言書の一つに、旧約聖書の一番終わりにあります書物です。マラキ書という預言書があります。新約聖書のマタイ福音書の前にあります書物です。そのマラキ書の31節に預言者マラキが次のようにメシアの到来を預言しています。「あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる」と。

 

預言者マラキがそこで預言していることは、主なる神の裁きです。突如、主なる神がエルサレム神殿に来られて、主なる神に仕える祭司とレビ人たちを裁き、彼らを清め、神殿においてイスラエルの民たちの不正と不正義を裁かれることを預言しています。

 

主イエスがエルサレム神殿を清める行為をされた背景に、このマラキ書の預言が関係していると思います。

 

12節と13節です。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」

 

 主イエスは突如、神殿の境内に入り、エルサレム神殿において売り買いしていたすべての人々を神殿から追い出されました。そして、神殿の中庭において両替商人たちの台と鳩を売る人たちの腰掛けを倒されました。

 

 そして、主イエスが神殿から物の売買をしていた人々を追い出された理由を、主イエスは13節において旧約聖書のイザヤ書とエレミヤ書の御言葉を用いて語られています。

 

「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」という御言葉は、旧約聖書の預言書、イザヤ書の御言葉の一節です。イザヤ書567節です。新共同訳聖書は、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と訳されています。イザヤ書56章は、預言者イザヤを通して主なる神が異邦人たちの救いを告げられているところです。見捨てられていた異邦人たちが安息日に主なる神を礼拝することが許されます。異邦人たちが神の民イスラエルと共に主なる神がいます所で、主の家で喜びの祝い、安息日に主なる神を礼拝し、主なる神に犠牲をささげることが許されます。安息日に主を礼拝する主の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるのです。神殿は商売するところではなく、すべての民が安息日に主を礼拝し、すべての民の祈りの家です。

 

「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」という御言葉は、旧約聖書の預言書、エレミヤ書の御言葉の一節です。エレミヤ書711節です。主なる神は、預言者エレミヤにエルサレム神殿において裁きを預言するようにお命じになりました。それは、エルサレム神殿が主の目に甚だしく腐敗していたからです。だから、預言者エレミヤを通して主なる神が言われました。「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟に見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる」。

 

最初に今朝の御言葉は、主イエスの宮清めの出来事であると言い、説教題にも「主イエス、神殿を清める」と付けました。しかし、預言者マラキ、イザヤ、エレミヤを通して告げられた主なる神の御言葉に耳を傾けると、別のメッセージが聞こえてきませんか。

 

キリストの語られた御言葉と宮清めの行為を通して、「キリストの父なる神は、もうエルサレム神殿は主の御名にふさわしいものでは無くなっている。」と裁きをお告げになりました。キリストの振る舞いは、エルサレム神殿を清くするというようなことではありませんでした。キリストの行為は、神がこの神殿とこの都をお見捨てになったことを象徴する行為でした。

 

そのように腐敗したエルサレム神殿でしたが、そこに主イエスがいましたので、神の憐れみが示されました。それが14節の御言葉です。神がお見捨てになるエルサレム神殿に主イエスがいまして、神の恵みが示されました。それがエルサレム神殿において主イエスが目の見えない人たちと身体の不自由な人たちを癒された奇跡であります。

 

主イエスの癒しの行為は、エルサレム神殿の規則を破っていました。ダビデ王がエルサレムの都を建て、そこに神の幕屋が置いて以来、ソロモン王の時代に神殿が建てられ、そしてこの後ローマ帝国にエルサレムの町と神殿が破壊されて、地上から亡くなるまで、イスラエルの民であるのに、目が見えない者、身体が不自由である者は、神殿の中庭に入り主なる神を礼拝することを禁じられていたのです。

 

しかし、主イエスは、神殿に入り、主イエスに近づいた彼らを癒されました。彼らを神殿の境内で迎え入れ、癒されることで、主イエスは神殿を中心としたユダヤの宗教権力者たちと真っ向から対立されました。

 

その主イエスを、メシアとして受け入れたのは、小さな子供たちでした。子供たちは、おそらく主イエスがなさる宮清めと神殿における癒しの奇跡を見ていたでしょう。そして小さな子供たちが主イエスに「ダビデの子にホサナ」と叫びました。

 

そして、子供たちの主イエスへの讃美の叫びが、主イエスとユダヤ教の権力者たちの決定的な対立となりました。

 

15節と16節です。「他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。『子供たちが何と言っているか、聞こえるか。』イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 

宗教的権力者たちも、子供たちと同じように主イエスがなさる癒しの奇跡を見ていました。彼らには、主イエスの癒しの奇跡は不思議な業でした。どうして神殿の規則を守らない男に、こんな癒しの奇跡が行えるのだと思ったでしょう。

 

ところが子供たちは、喜び、騒いで、主イエスに「ダビデの子にホサナ」と叫んでいます。ユダヤの宗教的指導者である祭司長と律法学者たちは、第1に何の権威もないガリラヤのナザレ出身の預言者と呼ばれて者が、エルサレム神殿において彼らが許可していた両替商人たちや鳩を売る商売人を勝手に追い出したことに腹を立てたと思います。第2に宗教的権力者は、主イエスをメシアと信じていませんでした。それを、彼らは子供たちを非難することで、明らかにしたのです。

 

それに対して主イエスは、聖書の御言葉によって子供たちの賛美を正しいとされました。旧約聖書の詩編83節です。「幼子、乳飲み子の口によって」、主なる神が主イエスを讃美させられたと、主イエスは聖書の御言葉によって子供たちの賛美を正しいとされました。

 

こうして、主イエスは、主と対立するユダヤの宗教的指導者を滅ぶべき神殿に置き去りにされて、エルサレムの隣りのベタニヤの村に行かれ、そこで宿泊されました。

 

エルサレムの町とエルサレム神殿とユダヤの宗教的指導者たちは、主イエスの宮清めと主が神殿を去り、彼らを別れて、彼らを置き去りにされる行為によって、神の裁きの判決を受けました。

 

他方主イエスは、神殿で目の見えない者と身体の不自由な者たちを癒す奇跡を通して、神殿から遠ざけられた者たちを、御自身の恵みと救いに招かれました。そして、子供たちの主イエスへの賛美を正しいとされ、エルサレムの町と神殿が捨てられ、滅ぼされた後、この子供たちに新しい希望があることを約束されました。主イエスが十字架に死に、3日目に復活し、神殿に代わってキリストの教会を立て、子供たちは再び主イエスを讃美するのです。主イエスは、この世のエルサレム神殿を神が裁かれるしるしとなられて、宮清めをされましたが、今も主イエスはわたしたちの神殿の宮清めを、聖霊と御言葉を通してなさっています。わたしたちの心から主なる神を崇めないすべてのものを、聖霊と御言葉によって追い出されています。そして、主の日ごとにわたしたちが神を礼拝し、御言葉と聖餐の恵みにあずかり、神の祝福をいただいて日々生きることを許してくださっています。  

 

今年も本日よりアドベントの季節を迎えました。クリスマスに向けて、子供たちのように主イエスを讃美するクリスマスの歌を歌わせてくださいます。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今年もアドベントの季節を迎えました。わたしたちの教会もエルサレム神殿のように人の罪によって腐敗するでしょう。しかし、主イエスは腐敗した神殿に入られたように、罪に汚れたわたしたちのところに入られて、聖霊を御言葉を通してわたしたちの身体を、神の宮を清めてくださり、幼子のようにクリスマスの讃美の歌を歌わせてくださり、感謝します。主イエスよ、あなたがここに居てくださることが、わたしたちの救いであり、罪の赦しの、確かなしるしです。どうか主イエスよ、メシア・王としてエルサレムの都に入り、汚れた神殿に入られたように、聖霊を通してわたしたちの一人一人の信者の体なる神殿にお入りください。わたしたちを、聖霊と御言葉によって清め、御国へとお導きください。主イエス・キリストの御名によって、お願いします。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教084           主の2012129

 

 

 

 聖霊の照明を求めてお祈りします。「聖霊なる神よ、聖書の御言葉とその説き明かしである説教を通して、聞きますわたしたちの心に信仰の慰めと励ましをお与えください。アドベントを過ごしています。今朝の御言葉を通してキリストが再び来られることを待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

 

                  マタイによる福音書第211822

 

 

 

説教題「信じるならば」

 

アドベントの第2週に入ります。クリスマスに向けて心を整えて行きましょう。今朝は、マタイによる福音書211822節の御言葉を学びましょう。主イエスの御受難の一週間の2日目の出来事を記しています。主イエスは、御受難の1週間の1日目にろばの子に乗り王としてエルサレムに入られ、神殿の中で売り買いをしている人々を追い出されました。

 

2日目の月曜日の夜明けに主イエスは、ベタニヤの村からエルサレムの都に戻られました。その途中で主イエスは空腹になられました。そして、主イエスは見られました。一本のいちじくの木が道の傍らにありました。主イエスは行って見られました。

 

いちじくの木は年に2度実を結びます。夏の収穫期は89月ごろです。ですから3月、4月の過越の祭の頃は、いちじくの木は実がありません。ただし、いちじくの木によっては、実が落ちないで越冬し、サイズの増すものがあるそうです。主イエスは、その実をお求めになりました。しかし、主イエスは、そのいちじくの木に何も見出されませんでした。葉っぱしかありませんでした。そこで主イエスは、いちじくの木に言われました。「もう決してあなたから実はならないように、永遠に」と。主イエスのお言葉を聞いたいちじくの木は、すぐに枯れてしまいました。

 

主イエスに従っていた弟子たちは、それを目撃しました。そして驚いて、主イエスに尋ねました。「どうして、たちまちに枯れてしまったのか、いちじくの木は」と。

 

すると主イエスはお答えになって、弟子たちに言われました。「アーメン、わたしはあなたがたに言います。もしあなたがたが信仰を持ち、疑わなければ、このいちじくのことのみではなく、この山に『あなたは立ち上がれ、そして海に投げ入れられよ』と、あなたがたが言っても、それはなる。そして、祈りで、信じて求めるところのものは皆、あなたがたがは受ける。」

 

短い奇跡物語です。主イエスが奇跡を行われた中で、呪いの奇跡は他にありません。さらに驚くことは、マタイによる福音書は、なぜ主イエスが実を結ばないいちじくの木を呪われたかに何無関心です。主イエス御自身も、弟子たちにそれを説明されませんでした。

 

12弟子たちは、主イエスがいちじくの木を呪われると、すぐにいちじくの木が枯れた、主イエスの奇跡に驚きました。いちじくの木がたちまちに枯れるのを、弟子たちは目撃して驚きました。そして、主イエスに、彼らは「なぜ、たちまちに枯れてしまったのですか」と質問しました。

 

今朝の主イエスの奇跡物語は、12弟子たちが主イエスの奇跡を目撃して驚き、主イエスに「どうしてそんな奇跡をなさることができるのですか」と尋ねたことが、今朝の御言葉を理解する大きなポイントです。

 

主イエスは、弟子たちの質問にお答えになって信仰の力をお教えになりました。信じて祈り、求めることの大切さを、主イエスは弟子たちに教えられました。

 

「はっきり言っておく」という言葉は、「アーメン、わたしはあなたがたに言います」という文章です。これは、神の権威を持たれたキリストのお言葉です。だから、主イエスが言われたことは、聞いた者たちの身に事実となり、実現します。

 

主イエスは、弟子たちに「もしあなたたちが信仰を持ち、決して疑わないならば」と言われていますね。主イエス御自身が、御自分が口にされたことを信じておられました。父なる神がその通りにしてくださることを疑われたことはありません。子供が父を信頼するように、主イエスは御自身が口にしたことを、父なる神はその通りにしてくださると信じ、子供が父親に期待するように素直に期待されていました。だから、弟子たちの見ている前でいちじくの木はすぐに枯れました。

 

主イエスは、12弟子たちにいちじくの木を枯らす奇跡を通して信仰の力を示す実例をお見せになった、それがマタイによる福音書がわたしたちに伝えるメッセージです。主イエスは、12弟子たちにいちじくの木を枯らす奇跡を通して、信仰者の信仰の力の摸範をお示しになりました。

 

そして、主イエスは12弟子たちに次のようにお勧めになりました。「あなたがたも信じて、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりではなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」と。

 

主イエスは、それを疑っておられません。本当に弟子たちにできると信じて、言われています。そして、弟子たちの目の前でいちじくの木が枯れた事実こそが、主イエスのお言葉の真実を保証しています。

 

そして、主イエスは、12弟子たちに「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と約束されました。

 

あなたがたは、この主イエスのお言葉を素直に信じておられるでしょう。信じているから、クリスチャン、あるいはキリスト者として日々生きているのです。信じているので、わたしたちは、毎日聖書を読み、祈る生活をしているのではありませんか。毎週礼拝を続け、毎週曜日に祈祷会を続け、日々家庭礼拝、個人礼拝を続けているのではありませんか。そして、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」ということを、自分たちの日々の生活において体験しているので、自分たちの生活において困難に出会っても、素直に主イエスに依り頼むことができるのではありませんか。山と海を創造された神の御力を、主イエスを通して信じるがゆえに、わたしたちはわたしたちの目にどんなに不可能に見えても、主イエスを通して天地創造の父なる神に不可能はありませんので、わたしたちは主イエスを通して父なる神がしてくださると信じて、祈るのです。

 

主イエスは、今聖霊と御言葉を通して、わたしたちにチャレンジされています。あなたたちは、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と確信しているのかと。

 

信じているのであれば、あなたがたは2016年までにわたしがこの教会を経済的独立できるようにすることを、信じて祈り求めなさい。わたしがいちじくの木を枯らす奇跡を、弟子たちに目撃させたように、信じて祈り求めるならば、わたしはあなたたちに教会の経済的独立という奇跡を見せよう。

 

教会の経済的独立だけではありません。わたしたちにとって家族の救いは、教会の経済的独立よりも重要な教会の課題であり、困難な問題であります。主イエスは、それについても「アーメン、わたしはあなたがたに言います」と、断言して言われます。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と。

 

主イエスは、わたしたちに御言葉で約束するだけではありません。主イエスを信じて祈るわたしたちの祈りを真剣に聞いてくださり、わたしたちが不可能と思っていることを、奇跡によってわたしたちの目に事実として見せてくださるお方なのです。信じて待つことが大切です。何もできなくても、自分の無力、教会の無力を感じても、信じて祈り、求め、そして、わたしたちの祈りと願いを主イエスが聞き届けてくださり、わたしたちの目に奇跡を見せてくださるのを、待つのです。この信仰の姿勢こそ、アドベントにふさわしいと、わたしは思うのです。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、2016年に教会の経済的独立を、わたしたちの家族の救いを、あなたは主イエスの約束に従い、神を信じて祈り、求めるならば、何でも与えるとおしゃってくださいました。どうかわたしたちの心を、聖霊が清めてくださり、素直な心に変えてくださり、「主イエスのお言葉の通りになりますように」とマリアのように祈らせてください。そして、主イエスがいちじくの木を枯らされた奇跡を12弟子たちが目撃したように、わたしたちに教会の経済的独立と家族の救いという奇跡を見させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教085           主の20121216

 

 

 

 聖霊の照明を求めてお祈りします。「聖霊なる神よ、今朝の聖書の御言葉とその説き明かしである説教を、聞きますわたしたちの心に留めさせてください。そして、わたしたちに信仰の慰めと励ましをお与えください。今わたしたちはアドベントを過ごしています。今朝の御言葉を通してキリストが再び来られることを待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。」

 

 

 

 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか。あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 

                   マタイによる福音書第212327

 

 

 

説教題「主イエスの権威は、どこから」

 

わたしたちは、マタイによる福音書21章より27章までキリストの御受難の一週間の出来事を学んでおります。21117節は、第1日目の出来事、主イエスがろばの子の乗り、王としてエルサレムに入城され、そしてエルサレム神殿に行かれ、そこで物の売り買いをしている者たちを追い出されたことを学びました。

 

受難週の第2日目は、2118節から265節まで、大変長い記事であります。先週、2118節から22節の御言葉を学びました。2日目の夜明けの出来事を学びました。主イエスは、実を付けていないいちじくの木を見て、その木に永遠に実を付けないようにと言われると、枯れてしまいました。

 

23節以下から265節までは、主イエスが群衆たちにエルサレム神殿において教えられ、そこにやって来た祭司長たち、民の長老たち、律法学者たちと論争された出来事を記しています。そして、父なる神の御計画により主イエスが祭司長たち、民の指導者たち、律法学者たちと決定的に敵対関係になり、彼らに命を狙われるようになった様子を記しています。

 

さて、今朝の2123節から27節の御言葉は、主イエスの権威は、どこから来たのかを、問題にしています。

 

短い記事ですが、3つのことを記しています。23節と2426節と27節です。

 

23節を見てください。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。』」

 

主イエスは、エルサレム神殿に入り、その境内において群衆たちに教え始められました。エルサレム神殿は祭司長たちが管理していました。主イエスは彼らに許しを得ることなく、昨日は神殿において物を売り買いしている者たちを追い出し、今朝は神殿の境内において群衆たちに教えておられました。

 

神殿は、祭司長たちが管理していました。そして、エルサレムの町と神殿の治安に民の指導者であります長老たちが関わっていました。だから、彼らは主イエスのところに来まして、主イエスに「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問い質しました。その質問は、「わたしたちはお前にこの神殿で行動する許可を与えてはいないぞ」という強い怒りがありました。彼らは、主イエスが神殿から追い出した両替商人たちや犠牲の動物の鳩を売る商人たちからお金を得ていたのです。主イエスは、彼らにとって自分たちの権益を脅かす存在でした。

 

24節と25節を見てください。「イエスはお答えになった。『では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか。あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、人からのものか。』彼らは論じ合った。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と我々に言うだろう。「人からのものだ」と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。』」

 

主イエスは、祭司長たちと民の指導者である長老たちの質問に答えられませんでした。むしろ、主イエスは彼らに質問を返されたのです。このやり方は、ラビと呼ばれていました主イエスの時代のユダヤの学者がよく使ったそうです。

 

主イエスは、その当時のラビのやり方をお使いになり、言われました。「ではわたしも一つ尋ねる。それにあなたがたが答えてくれるならば、わたしもあなたがたに何の権威で、どんな資格でこの神殿において物を売り買いする者たちを追い出し、群衆たちに教えるのか、あなたがたに話そう」と。

 

そして、主イエスは彼らに質問されました。「洗礼者ヨハネの洗礼はどこからのものだったのか。天からか、人からか。」

 

洗礼者ヨハネは、父なる神が御子キリストに備えさせるために遣わされた預言者でした。彼は、ユダの荒野においてメシアにユダヤの民を備えさせるために罪を悔い改める洗礼を施しました。そして、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが妻と離婚し、兄弟の妻を自分の妻とするという悪しき行いをしたので、ヨハネはヘロデの姦淫の罪を責めました。その結果彼はヘロデに殺されて、殉教しました。

 

主イエスは、その洗礼者ヨハネがユダヤの民衆に施していた罪を悔い改めるための洗礼は、何の権威で、どんな資格でなされたのかと問われました。それは、天、すなわち、神から来ているのか。否ヨハネ個人の思いから、人の思いから来ているのかと。

 

その質問は、祭司長たちや民の指導者たちの不信仰と欺瞞をあばき出すものでした。だから、彼らはそこにいた群衆たちに聞かれないように、互いに内々で論じ合いました。

 

彼らは、民衆が主イエスを、洗礼者ヨハネと同じように神から遣わされた預言者であると認めていることを知っていました。そして、彼らも群衆の思いに反対できませんでした。実際に2114節と15節に主イエスが神殿の境内において病める人々を癒す奇跡を行われています。それを祭司長たち、律法学者たちが目撃したと記しています。

 

だが、彼らは、主イエスの質問によって彼ら自身が不信仰と欺瞞という袋小路に閉じ込められました。彼らがヨハネの洗礼を神からのものと認めれば、主イエスは「あなたがたは、どうして洗礼者ヨハネを信じて罪を悔いる洗礼を受けなかったのか。そしてわたしを同じように神から遣わされたメシアと信じようとしないのか」と問われるでしょう。では、彼らが主イエスに「洗礼者ヨハネもあなたも神から遣わされた預言者ではない」と答えると、神殿に集っている群衆たちが彼らに怒りだすでしょう。群衆たちはヨハネもイエスも神が遣わした預言者と信じているのだから。彼らは、群衆たちが怖くて、彼らの前でヨハネの洗礼は神からのものではないと言えませんでした。

 

27節を見てください。祭司長たちと民の指導者である長老たちは、主イエスに「分からない」と答えました。彼らが自分たちの身の安全を選択した答えとしては、良い答えでしょう。「分からない」。これほど中立な立場はありません。

 

しかし、主イエスは、イエスか、ノーかと問われました。「分からない」は、主イエスには受け入れられません。だから、主イエスは、彼らの不信仰と欺瞞に否を付き付け、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えられました。

 

主イエスの権威が語られないところに、神の恵みの出来事は起こらないのです。マタイによる福音書が今朝の主イエスのお言葉から、わたしたちに伝えていることは、教会の中で主イエスの権威が語られている、すなわち、主イエスは預言者以上の者である、主イエスは神の御子であり、わたしたちを罪から救い、わたしたちに永遠の命をお与えくださる救い主であると語られるから、聞くわたしたちに主イエスの救いの出来事が起こるのです。

 

今アドベントを過ごし、クリスマスに備えています。教会は、クリスマスの準備をし、人々をお招きし、このキリストの権威を伝えるのです。キリストは、天地万物を創造された御子なる神であり、人としてこの世に生まれられ、わたしたちを罪と死から救い、永遠の命を与える権威を持つ救い主であることを伝えています。

 

だから、わたしたちは、キリストこそがわたしたちを罪から救い、永遠の命を与えることのできる唯一の救い主と信じて、教会において洗礼を受けました。洗礼は、わたしたちの罪を水で流すというしるしであり、キリストが死人の中から甦られたように、わたしたちも新しい命に甦るしるしです。そして、このしるしのある者を、キリストは再臨の時に、永遠の裁きの中から救い出して、神の御国に入れてくださるのです。

 

このアドベントの日々に、再臨のキリストの救いに大いに期待し、御国に入れて下さる喜びを共に待ち望みましょう。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、「お言葉の通りになりますように」とマリアは祈りました。どうかこの教会を通して主イエスが御自身の権威をお語りくださり、聞きますわたしたちがその権威によって信仰を与えられ、強められ、永遠の命の喜びを得る者とされ、キリストの再臨を待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。