マタイによる福音書説教114             2013113

 

 

 

 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合せた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待って、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人た

 

ちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグラダのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 

                  マタイによる福音書第274556

 

 

 

 説教題「この人は神の子だった」

 

 今朝は、マタイによる福音書第274556節の御言葉を学びましょう。今朝は、主イエスの十字架の死と異邦人の百人隊長と彼の部下たちの信仰告白について学びましょう。

 

 主イエスがゴルゴタの十字架に磔にされたのは、紀元30年のニサンの月の14日の金曜日の午前9時でした。十字架刑は、とても残酷な刑罰です。ある受刑者は十字架に磔にされて数日間苦しみ抜いて死に至りました。主イエスは、朝の9時に十字架に磔にされ、午後3時に息を引き取られました。

 

 主イエスが十字架に磔にされて、3時間後の正午に全地が闇になりました。そして主イエスが午後3時に死なれるまで全地は暗闇に包まれました。主イエス・キリストの十字架刑は、人が政治犯を裁いたのではありません。神の裁きでありました。

 

 ですから昔の預言者アモスは、主の日、神が罪人を裁かれる終わりの日について、次のように預言しました。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする」(アモス89)

 

 父なる神が罪人の身代わりになられた主イエスを裁かれました。この闇は、神の怒りの裁きを示しています。十字架の主イエスは、父なる神の怒りを身に受けて、さらに午後3時まで苦しまれました。

 

 そして、息を引き取られる寸前に、十字架の上から大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と。これは、ヘブライ語です。その意味は、こうです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 

 イスラエルの王でありましたダビデが旧約聖書の詩編222節で歌った有名な御言葉です。主なる神は、ダビデの預言を通してメシアの十字架の救いを約束されていました。今、十字架の主イエスが自らの苦しみを通して実現されたのです。

 

 思い起こしてください。マタイによる福音書の3章において主イエスは、洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けられました。ヨハネは、その時主イエスに「わたしこそあなたから水で洗礼を受けるべき罪人であるのに」と述べました。主イエスは、彼に「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われました。そして、洗礼を受けられた主イエスに聖霊が鳩のように降られ、そして父なる神が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されました。

 

 主イエスは、洗礼を受けて、神の子でありつつわたしたち罪人と同じ人間となられました。そして、父なる神の御前に正しいことをすべて行われました。その最後がわたしたち罪人に代わって、御自身を犠牲となさることでした。そのために主イエスは、父なる神の徹底的な罪の裁きを、御自身の身に受けて死なれたのです。

 

 「そこに居合せた人々」とは、主イエスの十字架刑に立ち会いました人々です。祭司長、律法学者、民の長老たちでしょう。彼らは、十字架の上から大声で叫ばれた主イエスの声を聞いて、主イエスが「エーリ、エーリ」と叫ばれたので、昔の大預言者エリヤに助けを求めていると誤解しました。

 

 48節の「そのうちの一人」とは、主イエスの十字架刑を見張っていたローマの兵士たちの一人でしょう。彼は、十字架の主イエスに走り寄りました。彼は、自分たち、ローマの兵士たちが飲む酸いぶどう酒を海綿に含ませ、葦の棒につけて、主イエスの口に持って行き、飲ませようとしました。十字架の上で苦しまれる主イエスの苦しみを少しでも和らげようとしたのでしょう。

 

 49節の「ほかの人々」とは、主イエスの十字架刑に立ち会っている人々です。祭司長、律法学者、民の長老たちでしょう。彼らは、十字架に苦しまれる主イエスを無視して、彼らの関心を優先させました。それは、「エリヤが彼を助けに来るかどうか、見る」ことでした。エリヤは、主なる神によって生きたまま天に上げられました。ですから彼らは、メシアに先駆けてエリヤが現れ、苦しむ人々を助けるという言い伝えを信じていたのでしょう。

 

 しかし、彼らの期待は裏切られました。エリヤは現れず、午後3時に主イエスは、息を引き取られました。

 

 ところが、主イエスの死の瞬間に、驚くべき出来事が起こりました。51節の「そのとき」は、「そして、見よ」という言葉です。第1にエルサレム神殿の聖所と至聖所を隔てている垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。第2に大きな地震が起こり、岩が裂けました。第3に墓が開かれ、死んだ敬虔な人々が、主イエスの復活の後に生き返らされ、エルサレムの都に入り、多くの人々の前に現れました。

 

 この3つの出来事は、神がなされた奇跡でした。主イエスの十字架の死によって、エルサレムの神殿とそこで行われていた儀式は必要がなくなりました。大祭司が年に一度贖罪日に至聖所に入り、民の罪のとりなしをしていました。主イエス・キリストが十字架の死によってわたしたちの罪をとりなしてくださいました。ですから、わたしたちは、エルサレム神殿、祭司、神殿での犠牲がなくても、キリストのとりなしによって父なる神に近づける道が与えられました。

 

 次に地震と岩が裂ける出来事は、神が現れてくださったことのしるしです。キリストの十字架は、神の御救いの御業としてなされました。十字架の上での主イエスの叫びに、父なる神は御声で答えられませんでした。しかし、主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、父なる神は地震と岩を裂くことで、御自身がおられたことをお示しになりました。

 

 そして、父なる神は墓を開かれ、キリストの復活の後に墓の中から主なる神を信じて死んだ敬虔な人々を生き返らせて、都エルサレムの町に入られました。この生き返らされた人々は、キリストの再臨の時に死人の中から復活させていただくわたしたちキリスト者の復活の先取りであります。

 

 主イエスの十字架刑を見張っていたローマの百人隊長と彼らの部下たちは、主イエスの死の瞬間に大きな地震が起こり、岩が裂け、墓が開かれて、死人が生き返ったという、神がなさった奇跡的な出来事を見聞きし、非常に恐れ、十字架の主イエスを「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白しました。

 

 十字架の主イエスこそユダヤ人だけでなく、すべての異邦人たちの罪を赦し、主イエスを神の子と信仰告白するすべてのものを、ユダヤ人と異邦人の区別なく聖なるものとして死人の中から復活させ、永遠の命をお与えくださる救い主であります。お祈りします。

 

 

 

御在天の父なる神よ、今朝わたしたちは、マタイによる福音書を通して、使徒信条が「十字架につけられ、死にて」と告白していますキリストの十字架の死について学ぶことができて感謝します。

 

十字架の主イエスの死によって、わたしたちは今ここに来て、説教を聞き、聖餐にあずかり、罪を赦されて、神に近づき、来るべきキリストの再臨の時に復活と永遠の命の恵みに入れられることを確信できることを感謝します。十字架のキリストだけが、わたしたちの救いであることを、礼拝を通して、説教と聖餐の恵みを通してわたしたちに深く確信させてください。この諏訪の地に、松本や伊那の地にも、福音を通して神の民を起こし、体なるキリストの教会を成長させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教115           主の20131110

 

 

 

 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。

 

 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い起こしました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」ピラトは言った。「あなたたちは、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵を置いた。

 

                    マタイによる福音書第275766

 

 

 

 説教題「墓に葬られる主イエス」

 

 使徒信条は、「死にて葬られ」と、主イエス・キリストの十字架の死と葬りを告白しています。マタイによる福音書は、そこにいくつかのドラマがあったことを証言しています。第1は、アリマタヤ出身の金持ちであるヨセフという人が、総督ピラトに主イエスの遺体の引き取りを願い出て、彼の所有する新しい墓に主イエスの遺体を葬りました。第2は、十字架の主イエスの死を目撃していましたガリラヤから主イエスに従って来た婦人たちが墓に主イエスを葬るのを目撃していました。第3は、祭司長たちとファリサイ派の人々が総督ピラトに願い出て、主イエスを葬った墓に番兵たちを置き、主イエスの弟子たちが遺体を盗めないようにしました。

 

 マタイによる福音書は、57節に「夕方になると」と記していますね。ゴルゴタの丘の十字架の上で主イエスは午後3時に息を引き取られました。そして、夕方になりました。主イエスの御遺体はその日の内に墓に埋葬しなければなりませんでした。

 

 第1にユダヤの新しい一日は、夕から始まります。主イエスは金曜日に十字架の上で死なれました。金曜日は安息日の準備の日でした。ユダヤ人たちは、安息日律法を守り、土曜日の安息日には一切の労働をしませんでした。

 

 第2に主なる神は、モーセ律法を通して木にかけられて、処刑された者は神に呪われており、その遺体はその日の内に埋葬するように命じられています(申命記212223)

 

 それゆえにアリマタヤ出身の金持ちのユダヤ人ヨセフが総督ピラトに主イエスの遺体の引き取りを願い出ました。

 

 彼は、主イエスの遺体の葬りを急ぎました。主イエスの遺体を、だれも使用したことのないきれいな亜麻布で包みました。そして、ゴルゴタの丘の近くに彼の所有する墓がありました。その墓は、だれも葬られていない新しい墓でした。彼は、その墓の中に主イエスの遺体を納めると、急いで墓の入り口に大きな石を転がし、その場を立ち去りました。日没になり、安息日に入ったからです。

 

 マタイによる福音書がアリマタヤ出身の金持ちのヨセフが彼の所有する新しい墓に主イエスの遺体を葬ったことを記しているのは、旧約聖書のイザヤ書539節の預言の成就と見ているからです。預言者イザヤは、次のようにメシアの死と葬りを預言しました。「彼は不法を働かず その口には偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。」

 

 預言者イザヤの預言を通して、主なる神はメシアが無実の罪で、悪人たちと共に処刑にされ、金持ちが所有する墓に埋葬されると告げられていました。マタイによる福音書は、わたしたち読者に金持ちのヨセフが、彼が所有する新しい墓に十字架の上で死なれた主イエスの遺体を葬ることで、メシア預言が成就したと伝えているのです。

 

 マタイによる福音書は、61節に「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」と記しています。55節と56節に「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」と記しています。

 

 マグダラのマリアは、マグラダ出身のマリアという意味です。主イエスは、彼女から7つの悪霊を追い出されて、彼女を救われました。それ以来彼女は主イエスの弟子となり献身的に主イエスに仕え、主イエスと弟子たちの世話をし、ガリラヤからエルサレムまで従って来ました。

 

 ヤコブとヨセフの母マリアは、ヨハネによる福音書には「クロパの妻マリア」と記されています。彼女と主イエスの母マリアとの関係は、義理の姉妹です。彼女はガリラヤの出身で、主イエスに悪霊を追い出してもらい、病を癒されました。家は裕福であり、主イエスを経済的に助けた婦人たちの一人です。彼女も、主イエスのエルサレム行きに、12弟子たちや他の弟子たち、婦人たちと共に従いました。そして彼女は、十字架の主イエスの死と埋葬を見届けました。

 

 マタイによる福音がわたしたち読者にアリマタヤ出身の金持ちのヨセフが主イエスの遺体を、彼の所有する新しい墓に葬ったという事実とその葬りを二人のマリアという女性たちが最後まで見届けていたという事実を伝えています。その目的は何でしょうか。第1は、主イエスの十字架の死と葬りが事実であることを証言するためです。モーセ律法に「一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」とあります(申命記1915)。キリストの十字架の死と葬りは、人によって立証できた出来事でした。

 

 第2は、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一15章において2節に「あなたがたはこの福音によって救われます」と述べて、3節に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」と述べていますね。パウロの発言通りにキリスト教会は、最初からわたしたちを救う福音として「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」を受け入れて、信仰告白していたのです。

 

 何が言いたいかといえば、使徒信条の「死にて葬られ」という福音は切り離せません。なぜなら、「ほうむられたこと」が「キリストはわたしたちの罪のために十字架に死なれた」ことを確証しているからです。主イエスの遺体の埋葬の事実は、わたしたちに「主イエスはわたしたちのために十字架の上で死なれたことが事実である」と証明しているのです。

 

 これは、教会内の証明です。しかし、マタイによる福音書は、わたしたち読者に教会の外の者たちの行為によっても、キリストは十字架の上で死なれ、そして墓に葬られ、3日目に復活したことを明らかにしています。

 

 それが、大祭司たちやファリサイ派の人々がローマ総督ピラトに願い出て、主イエスが葬られている墓に番兵たちを置いて見張らせたことであります。

 

 金曜日の安息日の準備の日の翌日、すなわち、土曜日の安息日に祭司長たちとファリサイ派の人々は、ローマ総督ピラトがエルサレムにいる間滞在していた官邸に集まりました。そして、ローマ総督ピラトに陳情しました。「生前にユダヤ人民を迷わしていたイエスという男が、『自分の死後三日後に復活する』と申していたことを、わたしたちは思い起こしました。ですから三日目まで墓を見張るように、ローマの兵士たちに命令してください。彼の弟子たちが遺体を盗み出して、『イエスは死者の中から復活した』と言いふらすでしょう。そうなれば、事態は前よりも悪くなりますから。」

 

 ピラトは、彼らに「おまえたちは、神殿警備兵を持っているではないか。彼らを、イエスの葬られた墓に行かせて、しっかり守らせるとよい」と言いました。そこで祭司長たちとファリサイ派の人々は、神殿警備兵を、墓の番兵として置き、主イエスが葬られた墓の入り口の大きな石を封印しました。

 

 マタイによる福音書は、わたしたち読者に教会の外の人々も、十字架の主イエスが死に、墓に葬られた事実を、番兵を置くことによって認めていると証言しています。同時にマタイによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの弟子たちが主イエスの御遺体を墓の中から盗み出して、主イエスの復活をでっち上げたという非難を封じています。ユダヤの指導者たちの厳重な監視のもとに置かれていて、弟子たちが墓から主イエスの遺体を盗むことはできなかったことを証言しています。

 

 それ以上に今わたしたちは、今ここに集まり、使徒信条を告白し、キリストが「十字架にかかり、死にて葬られ、三日目によみがえり」と信仰告白しています。ユダヤの指導者たちが番兵たちを置いて主イエスの御遺体を墓の中に閉じ込めておこうとしました。しかし、彼らの目的は失敗したのです。マタイによる福音書は、わたしたち読者に28章において神の子、主イエス・キリストの復活を物語ります。そして、わたしたちは、復活の主イエスをわたしたちの救い主、わたしたちの神として礼拝しているのです。わたしたちが今ここで礼拝する主イエス・キリストは、わたしたちの罪のために十字架に死なれ、墓に葬られ、復活されたお方です。そのお方が、罪に死に、墓に葬られるわたしたちの罪を赦し、永遠の命を与え、再びわたしたちを死人の中から復活させてくださいます。

 

わたしたちは、教会墓地のためにその用地を手に入れました。その教会墓地は、死んだわたしたちを葬ることだけが目的ではありません。復活されたキリストに、わたしたちが再び永遠の命によみがえらされることの保証です。ユダヤの指導者たちは、アリマタヤのヨセフの墓に葬られた主イエスを閉じ込めようとして墓の入り口の大きな石に封印をしました。わたしたちは、アリマタヤのヨセフが神の国を待ち望んでいたように、天国の御国を待ち望む者として、御言葉と礼典という封印をわたしたちの身に受けて、墓に葬られます。そしてキリストが再臨されたときに、封印は解かれ、わたしたちは罪のない新しい体によみがえらされて、そしてわたしたちの魂はその体にふさわしく清められ、天の御国に迎えられるのです。お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは使徒信条を通して「死にて葬られた」キリストを、わたしたちの救い主、わたしたちの神と信仰告白し、毎週主の日の礼拝をしています。わたしたちは、弱い、小さな存在であり、罪ある者です。まことに罪に死に葬られる者です。神の御子キリストはわたしたちと同じ人となり、わたしたちの身代わりに十字架に死なれ、葬られ、そして復活されました。今も復活の主イエスは、聖霊と御言葉を通してわたしたちに喜びの福音を告げ知らせてくださり、わたしたちも死に、墓に葬られますが、必ずキリストはわたしたちを御自身のように復活させてくださり、永遠の御国にわたしたちを入れてくださることを信じます。この喜びに、わたしたちだけでなく、わたしたちの家族やこの町の人々を、諏訪や伊那、松本の人々をお招きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教116

                                             主の2013121

 

 

 

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓に見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体が置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

                    マタイによる福音書第28110

 

 

 

 説教題「キリストは復活された」

 

 今日からアドベント(待降節)に入ります。クリスマスの準備を始めましょう。

 

 さて、マタイによる福音書は、主イエス・キリストの誕生から物語り、主イエス・キリストの復活でもって物語を終えています。

 

 今朝は、聖餐式がありますので、その恵みを覚えて、主イエス・キリストの復活の喜びを共にしましょう。

 

 初期のキリスト教会は、共同の礼拝のために定期的に集まることが重要であると確信していました。それを理解できるのが、今朝のマタイによる福音書の281節の御言葉です。

 

 キリストが復活された日、マグダラのマリアともう一人のマリアが、キリストの葬られた墓を訪れました。その時刻を記していますね。「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」。「終わって」という言葉は、ギリシア語の「夕方」であります。安息日の夕方に彼女たちは、主イエスが葬られた墓を訪れました。ユダヤの暦では、夕方が一日に始まりです。ですから、日曜日の夕方に彼女たちは、主イエスの葬られた墓を訪れたのです。

 

 そうすると「週の初めの日の明け方」という表現は矛盾しますね。「明け方」と聖書が訳したギリシア語は、文字通りには「光に向かう」という意味の言葉です。だから、聖書は、「明け方」と訳し、「安息日の夕方」を「安息日が終わって」という日本語にしました。でも、新共同訳聖書の日本語は、読むわたしたちに矛盾を感じなくても、ユダヤ人にはおかしいのです。

 

 安息日の土曜日から日曜日に日付が替わりましたが、ユダヤ人たちは夜を迎えるのです。その夜に二人の女性が主イエスの墓を訪れたのです。ですから、確かに「明け方」は「光に向かう」という言葉の意味から外れてはいません。しかし、ユダヤ人たちの日付感覚からはずれているのです。「週の初めの日の明け方」は、「週の初めの日」、すなわち、「日曜日が始まろうとしているとき」と日本語にするのがよいと思います。

 

 初期のキリスト教教会は、この「週の初めの日」、すなわち、キリストが復活された日曜日に共同の礼拝のための定期的集会を開き、共に集まることが重要でありました。

 

 2節の「すると」は、「そして見よ」というギリシア語です。二人の女性が真夜中に主イエスの葬られた墓に向かう途中、大きな地震が起こりました。これは、神が起こされた奇跡を表しています。神がキリストの復活に介入されたのです。

 

 なぜなら、神に遣わされた天使が天から降り、主イエスを葬った墓の入り口を塞ぐ大きな石を取り除きました。そしてその石の上に座っていました。

 

 3節は、天使の姿と様子を描いています。姿は稲妻のようで、彼の身につけている衣服は雪のように真っ白でした。

 

 主イエスの墓を見張っていた番兵たちは、天使を見て恐怖のあまりに、死人同然になりました。旧約聖書の中に神を見た者は死ぬと証言され、天使を見た者が「自分は神を見たのだから死ぬ」と恐怖したという証言があります。

 

 ですから5節に天使は、主イエスの墓に訪れた二人の女性たちに答えて言いました。なぜか、新共同訳聖書は、「答えて」というギリシア語を省いています。「答えて」というギリシア語は、次のことを説明します。二人の女性が天使を見て、番兵たちと同じようにならないように、天使は対応して、彼女たちに語りかけました。

 

 天使は、二人の女性に57節で次のように言いました。「あなたがたは、恐れてはならない。わたしは知っている。十字架につけられたイエスを、あなたがたが捜していることを。彼はここにはいない。彼が以前言われた通り、彼はよみがえられたから。さあ来て、彼が納められていた場所を見よ。そして急いで行って、彼の弟子たちに言え。『彼は死人らの中からよみがえられた。そして見よ、彼はあなたがたに先だってガリラヤに行かれる。そこで彼を、あなたがたは見る。』見よ、わたしはあなたがたに言った。」

 

 天使は、主イエスの墓を訪れる2人の女性に福音を知らせるために、大きな石の上に座っていました。天使は、女性たちから恐怖心を除いてやり、主イエスが神によって復活させられた喜びを伝えました。そして天使は彼女たちに空の墓を見せました。そして天使は、彼女たちに次のように命じました。彼女たちが11弟子たちに、彼らがガリラヤに行き、彼らに先だって行かれた復活の主とお会いするようにと。

 

 ここからわたしたちは、次のことを学びます。週の初めの日、日曜日にキリストは神によって復活させられました。それゆえ墓は空でした。天使のメッセージは、聞く彼女たちによみがえりのキリストを受け入れさせました。キリストが神によって復活させられたという福音によって、週の初めの日は、主イエスの弟子たちにとって復活の主にお会いできる喜びの日となりました。

 

 天使の伝えた福音は、聞いた彼女たちにとって他の人々に伝える福音となりました。そのために天使は、彼女たちに確かに伝えたのです。

 

復活されたキリストは、天使が彼女たちに伝えた福音によってリアルとなりました。信仰は聞くことから、福音を聞くことから始まるのです。礼拝においてキリストの言葉を聞くことから、わたしたちと復活の主イエス・キリストとのリアルな関係が生まれてくるのです。それは、約束という形で、始まり成就という形で実現します。

 

 さて、天使に出会い、天使からキリストの復活の福音を聞いた二人の女性たちは、8節において不思議な行動をしています。ひとつは「恐れながら大いに喜び」という彼女たちの体験です。日曜日を、わたしたちは「主の日」と呼びますね。旧約聖書には、「主の日」は神の裁きの日として記されています。ユダヤ人たちは、主の日を神が彼らを裁くために来られる日として、とても恐れていました。

 

彼女たちも、恐れました。主イエスが彼女たちや11弟子たちのところに来られるならば、主を見捨てたことを裁くためにと思ったことでしょう。しかし、天使は彼女たちに復活の主イエスの裁きを告げませんでした。むしろ天使は、彼女たちに復活の主イエスが11弟子たちとガリラヤでお会いになるという喜びを告げました。復活の主イエスは、すでに11弟子たちの裏切りと罪を赦し、和解し、再び御自身の弟子たちとするためにガリラヤで彼らを待っていてくださるのです。だから、彼女たちは大いに喜びました。

 

そして、彼女たちは、急いで墓を離れ、エルサレムの町に帰りました。9節に「すると」とありますが、「そして見よ」というギリシア語です。復活の主イエス・キリストの御臨在を、その驚くべき出来事を記しています。

 

復活の主イエスは、彼女たちと出会ってくださいました。そして主は彼女たちに言われました。「喜べ」と。それで彼女たちは、恐れることなく、主に近づき、主の御足を抱き締めました。そして、主イエスを、彼女たちは拝礼しました。

 

天使の語る福音が聞く彼女たちを、復活の主イエス・キリストのリアルな関係に導きました。そして彼女たちは確かに実在するキリストの御足をだきました。そして、信仰によって復活の主イエスを受け入れました。だから、「その前にひれ伏した」のです。復活の主イエスを礼拝したということです。

 

主イエスは、彼女たちに天使の言葉と同じように言われました。「あなたたちは恐れることはない。わたしの兄弟たちに告げよ。彼らにガリラヤに行くように、そしてわたしを、彼らは見る。」

 

復活の主イエスは、11弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼び、彼らの裏切りと罪を本当に赦されています。復活のキリストは、十字架の死を通して罪と死と悪魔に勝利されました。そして、復活の主イエスは、日曜日に聖霊と御言葉を通して救いの御業を継続し、わたしたちを終末へと、神の御国へと導いてくださるのです。

 

11弟子たちをガリラヤでお待ちになった復活の主イエスは、昇天され、わたしたちのために天に住まいを用意して、わたしたちと天の御国において会える日をお待ちになっています。この福音のメッセージが聞くわたしたちを、天使のメッセージを聞いた二人の女性たちのように復活の主イエス・キリストとのリアルな関係へと導くのです。この恵みこそが、教会の礼拝という恵みであります。お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは使徒信条を通して「三日目に死人の内よりよみがえり」と唱えた復活のキリストを、わたしたちの救い主、わたしたちの神と信仰告白し、毎週日曜日の主の日にここで礼拝をしています。わたしたちは、二人のマリアと同じようにここでキリストがよみがえらされたという福音を聞き、この喜びを世の人々に伝えるように、主に命じられています。どうか聖霊を通して、信仰によって、ここで福音を聞くわたしたちを、彼女たちのように復活の主イエスとのリアルな関係へとお導きください。わたしたちも死に、墓に葬られますが、必ずキリストがわたしたちに先だって天国でわたしたちの永遠の住まいを用意してくださっていることを信じさせてください。アドベントに入りました。クリスマス礼拝とクリスマスの集いの準備をしています。クリスマスの喜びに、わたしたちの家族やこの町の人々を、諏訪や伊那、松本の人々をお招きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。