マタイによる福音書説教06           主の201066

 

 

 

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは、洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 

                      マタイによる福音書第31317

 

 

 

 

 

 説教題:「わたしの愛する子」

 

 今朝は、マタイによる福音書第31317節の御言葉を学びましょう。

 

 福音書記者マタイは、主イエスが洗礼者ヨハネより洗礼を受けられた出来事を物語っています。

 

13節の御言葉を、ギリシア語新約聖書の文章をそのままに読みます。「そのとき、来られる、イエスは、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに」です。主イエスは、洗礼者ヨハネのところに「来られます」。

 

 マタイは、13節後半にその目的を述べています。「洗礼されるために、彼から」と。主イエスは、ただ一度洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために、ヨハネのところに来られるのです。

 

 聖書には小見出しが付いておりますね。その下に()があり、小見出しと共通の記事があれば、その個所を記しています。「イエス、洗礼を受ける」という小見出しの下に、マルコによる福音書1911節と、ルカによる福音書32122節と、同じ記事があることを示してくれています。

 

 マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、「共観福音書」と呼ばれています。3つの福音書を共に見て、学ぶと益があるからです。主イエスの物語を、いろいろと理解する手掛かりが得られます。

 

週報に次週の説教予告をお知らせしています。マタイによる福音書の箇所をお読みになられたとき、小見出しの下に他の福音書に共通の記事があれば、一緒にお読みいただければ、より深く説教を理解し、聞くことができると思います。

 

 さて、マルコ、マタイ、ルカによる福音書は、主イエスが洗礼を受けるために、洗礼者ヨハネのところに来られることを物語っています。

 

しかし、14節と15節の主イエスと洗礼者ヨハネの対話は、マタイによる福音書以外にありません。

 

マタイが関わりましたシリアの教会は、神の子、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことが問題になったのでしょう。罪無き神の御子がどうして洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられたのかという問題です。

 

マタイは、洗礼者ヨハネが主イエスの洗礼の申し出を強く辞退したことを記していますね。

 

「思いとどまらせようとした」とあります。「妨げようとした」とも訳せます。ヨハネは、主イエスの洗礼の申し出を繰り返し強く思いとどまらせようとし続けたという意味の文章です。それは、ヨハネこそが主イエスから洗礼を受ける立場にあると考えていたからです。

 

では、主イエスは何のためにヨハネから洗礼を受けられたのでしょう。マタイは、15節に主イエスご自身のお言葉を記しています。主イエスはヨハネにお答えになりました。「すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしい」と。

 

「正しいことをすべて行う」の「行う」という動詞は、普通、「満たす、成就する、実現する」と訳されています。同じ言葉を、マタイは、この動詞を、この福音書517節にも使っており、「完成するためである」と訳されています。どちらも「成就する」という意味の言葉です。

 

315節と517節の主イエスのお言葉は、同じことを主イエスが述べておられます。主イエスがこの世に来られた目的です。主イエスは、神の御意志に完全に服従し、それを成就、実現するために来られました。

 

主イエスと洗礼者ヨハネの対話から何を理解できるでしょうか。ある人は、次のように理解します。主イエスがヨハネから洗礼を受けることにより、人の罪を担う苦難のしもべとしての道を歩むことを表明されたと。だから、その人は、主イエスが罪の赦しを得させる身代わりとしての死を遂げなければならない御自分の使命を理解し、その予表として罪人との連帯のために洗礼を受けられたと解釈しました。

 

しかし、マタイがわたしたちに主イエスと洗礼者ヨハネとの対話からそこまで伝えているでしょうか。マタイがわたしたちに伝えていることは、主イエスとヨハネが神の御意志に従い、正しことをすべて実現していたことです。それが、人々に洗礼を受けさせることです。

 

しかし、主イエスがヨハネの前に来られることによって、ヨハネが人々に罪の悔い改めの洗礼をする時代は終わりました。メシアである主イエスが聖霊と火で人々に洗礼をすべき時代が来たのです。そのようにヨハネは考えました。だから、彼は主イエスに洗礼を施すことを繰り返し、遠慮しました。むしろ、ヨハネは自分の方が主イエスから洗礼を受ける立場にあると主張しました。

 

主イエスは、ヨハネの洗礼を神の御旨をかなう正しいことなので、神に従う者は誰もが受けるべきものであるとお考えになりました。だから、主イエスは「ヨハネから洗礼を受けることを、正しいことを実現することであり、神の御旨にかなうふさわしいことである」と言われました。

 

こうして主イエスの洗礼によって、わたしたち神に服従して生きようとするキリスト者は皆、主イエスを救い主と信じて、水で洗礼を受けることが正しいことであり、神の御旨に適うことであると確信するのです。

 

この主イエスの洗礼物語の中心は、16節と17節です。16節に「洗礼されて、そして、イエスはすぐに上がった、水から」とあります。ヨハネの洗礼は、浸礼でした。体をヨルダン川の水の中に沈めて洗礼をしました。

 

主イエスがヨルダン川から上がられると、不思議な出来事が起こりました。16節後半は、「すると、見よ、開かれた、もろもろの天が、そして彼は見た、神の霊が降って、鳩のように、来るのを、彼の上に」とあります。

 

1に「もろもろの天が開き、そこから聖霊が鳩の形で、主イエスの上に降りてこられました。」これは、洗礼者ヨハネが目撃したことを、マタイが証ししています。マルコ福音書のⅠ章10節には、「天が裂けて」とあります。

 

マタイが「もろもろの天が開き」と表現したのは、旧約聖書のエゼキエル書1章1-4節に預言者エゼキエルが「そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した」と述べ、「主の御言葉が祭司の子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ」と預言しています。その御言葉を、マタイは主イエスの洗礼に引用しているのでしょう。

 

マタイは、わたしたちにこの不思議な出来事を通して、主イエスが天から啓示された神の子であることを証ししているのです。天が開け、聖霊が鳩の形で主イエスの上に降られることで、主イエスは、天から啓示された神の子であることを示しています。

 

そして、17節の天からの神の声が、主イエスが父なる神の愛する御子であることを証ししています。「また、見よ、声が、もろもろの天から、言うには、この者は、わたしの子である、愛される者で、彼を、わたしは喜んだ。」

 

父なる神が主イエスを、わが子であり、愛するもので、わたしは喜んだと宣言された御言葉を、最初に洗礼者ヨハネが聞きました。そして、父なる神はわたしたちキリスト教会に向けて語られました。

 

主イエスは、神の御旨に従順に従われて、ヨハネの洗礼を受けられました。それに答えるように父なる神は、洗礼者ヨハネに、そして、わたしたちに、主イエスを、「わたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ」と宣言されました。

 

このようにマタイは、わたしたちにイエスの洗礼の物語を通して、3つのことを教えています。第1に主イエスは神の子であります。主イエスは、ヨハネより洗礼を受けられて、聖霊が主イエスの上に降り、父なる神の御言葉の宣言により、メシアであることが天から啓示されました。そして、天から啓示されたメシアは、神の御心にかなう従順な者であることを、マタイは証しするのです。

 

主イエスは、ヨハネから洗礼を受けられ、すべての正しいことを実現し、神の従順に従う神の子として、わたしたちを罪から救うためにこの世に来られた救い主なのです。だから、マタイは、わたしたちに今朝の御言葉を通して、この主イエスを救い主と信じて、あなたも洗礼を受け、この後の聖餐の恵みにあずかり、神の御心に適う正しことを行い、キリストの御後に従うようにと、信仰を促しているのです。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、主イエスの洗礼を学ぶ恵みが与えられ、感謝します。わたしたちは、主イエス・キリストの従順によって罪より救われたことを感謝します。また、主イエスがより洗礼を受けられ、父なる神に従順に生きられたように、わたしたちも主イエスを信じて、洗礼を受け、聖餐にあずかり、神の御旨に適う人生を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教07           主の201074

 

 

 

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。

 

 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら。飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 

 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 

                      マタイによる福音書第4111

 

 

 

 説教題:「神の子イエスと悪魔」

 

 今朝は、マタイによる福音書第4111節の御言葉を学びましょう。

 

本日をもってマタイによる福音書は、第一部が終わります。主イエスの誕生の出来事、そして洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた主イエスに、天から父なる神が「わたしの愛する子」と呼びかけられた出来事を、マタイはわたしたちに物語り、主イエスが神の子であることを証言しました。そして、今朝の御言葉もまた、主イエスが悪魔に試みられることによって神の子であることを証ししています。このようにマタイによる福音書の第一部は、イエスは誰であるかという問いに対して、主イエス・キリストは、人としてお生まれになられた神の子であり、神の子であることを、神の御言葉に聞き従うことによって証明されたと、マタイによる福音書は答えているのです。信仰問答になっているのです。

 

そして、聖霊は父なる神が「わたしの愛する子」と宣言された主イエスをユダの荒れ野に導きました。わたしたちの聖書は、1節にこう記しています。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」ギリシア語聖書には「さて」という言葉はありません。「その後」とあります。そして、「イエスは連れて行かれた、荒れ野に、聖霊によって、試みられるために、悪魔によって」という語順になっています。

 

主イエスがユダの荒れ野で悪魔に誘惑されたのは、聖霊の導きでした。そして、主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときに、天から父なる神に「わたしの愛する子」と宣言されました。そのことを、神の御言葉への従順によって悪魔の誘惑に打ち勝たれ、実証されました。

 

主イエスは、ユダの荒れ野で40日間断食されました。ギリシア語聖書は「40日の昼と40日の夜」と表現されています。2節に「空腹を覚えられた」とありますね。ギリシア語聖書は「彼は飢えた」と表現しています。新改訳聖書も新共同聖書と同じ訳です。しかし、岩波書店版の日本語訳聖書は、ギリシア語聖書の言葉通り「その後飢えた」と訳しています。

 

「空腹」と「飢えた」では、全く人間の状況が違います。わたしたちは、腹が減ったという空腹体験がありますね。しかし、何週間も食べられなくて飢えたという体験がある方は少ないでしょう。

 

わたしは、大学生の時にシベリアの抑留体験をした山中良知先生が、「足立君、人間にとって一番恐ろしいことは何かわかるかね」と尋ねられ、「飢えだよ、だから、イエスさまは悪魔に最初に試みられたのは飢えの時だったんだ」と言われました。その言葉を今も忘れることができません。シベリアの抑留生活において先生は、人間が飢えという極限状況の中で多くの同胞が死に、また生きるためにどんなに醜い姿になるかを、その恐ろしい現実を体験されたのでしょう。                           

 

だから、悪魔は、主イエスを誘惑し、言いました。「お前は神の子ではないか。今、飢えていて大変だろう。これらの石がパンになる奇跡を行い、おれに神の子であることを示し、飢えを満たしてはどうだ」と。

 

悪魔の誘惑を、主イエスは神の御言葉によって拒まれました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。旧約聖書の申命記第83節の御言葉です。主イエスが神の子であることを実証するのは、石をパンに変える奇跡を行うことによってではありません。神の御言葉を引き合いに出されて、神の御言葉に徹底的に聞き従うことによって、主イエスは神の子であることを証しすると言われました。

 

次に悪魔は、主イエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせました。「屋根の端」のギリシア語は、「翼の形をしたものの、先端」という意味の言葉です。神殿の何を表わすのか不明なので、「屋根の端」と訳しています。

 

悪魔は、主イエスを誘惑し、言いました。「お前は神の子ではないか。それをおれに見せてくれ。旧約聖書の詩編の911112節に神の子であるお前がこの屋根から飛び降りたら、天使たちがお前の足が地面に打ち付けられないように助けてくれるとあるではないか。」

 

主イエスが神の御言葉で悪魔の誘惑を拒まれたので、悪魔は神の御言葉を利用して誘惑しました。主イエスがエルサレム神殿の屋根の上から飛び降りさえすれば、天使が奇跡によって主イエスを助けてくれ、神の子であることが証明できると、悪魔は誘惑しました。主イエスは、悪魔に旧約聖書の申命記616節の御言葉を引き合いに出され、「あなたの神である主を試してはならない」と神は言われていると言って拒まれました。

 

最後に悪魔は、主イエスを非常に高い山に連れて行きました。悪魔は、ここで彼の本性を現しました。彼は、主イエスにこの世の国々のすべての繁栄を見せて言いました。「おれを神として仕えるのであれば、この世の栄華をすべてお前にくれてやろう」と。悪魔は、偽り者です。人を欺き、偽ることこそ彼の本性であります。この世のものは、悪魔の創造したものではありません。彼自身が神の被造物です。彼は神ではありません。しかし、悪魔は、自分を神の上にあるように偽り、主イエスに「おれがお前をこの世界の支配者、権力者としてやるから、おれを神として拝み、仕えよ」と誘惑したのです。

 

主イエスは、悪魔に「サタンよ、退け」と命じられて、旧約聖書の申命記613節の御言葉を引き合いに出し、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と、聖書に書いてある」と言われました。

 

このように主イエスは、悪魔の誘惑を退けられ、ご自身が神の子であることを、ご自身が徹底的に主なる神の御言葉に聞き従うことによって証明することを宣言されました。そして、キリストはエルサレムに、そして、ゴルゴタの十字架にへと苦難の道を歩まれることを通してご自身が神の子であることを明らかにされたことを、これからマタイによる福音書は物語ります。

 

この悪魔と神の子イエスの物語から、わたしたちは何を学ぶことができますか。第一に、わたしたちも主イエス同様に神の子であり、日々聖霊に導かれて生きています。悪魔の誘惑は避けられません。

 

悪魔の誘惑を受けたのは、主イエスが最初ではありません。旧約聖書の創世記第3章に人類が堕落した物語があります。最初の人間、人類の代表者アダムがサタンの誘惑に負けて、神に従わなかったので、彼と人類は死と滅びに陥りました。

 

アダムは楽園でサタンに誘惑されましたが、主イエスは第2のアダムとして荒れ野でサタンに誘惑されました。そして、主イエスはサタンの誘惑を退け、徹底して神の御言葉に聞き従い、十字架の死に至るまで神に従順を示されました。それによってわたしたちは、死と滅びから救われたのです。サタンから解放されて、神の子とされました。

 

しかし、悪魔は、この世に生きる神の子たちを、今も誘惑します。悪魔は、主イエス同様にわたしたちに近づき、誘惑します。「お前は神の子ではないか。神はおまえのすべてを許されるのだから、おまえは好きなように生きてよいのではないか。」「お前には才能と力があるのだから、神よりもお前の人生を優先したら、どうだ。」サタンは、常にわたしたちに神を礼拝することより、この世で出世し、金を儲けて、人生を楽しむことが一番だと、誘惑します。

 

そして、わたしたちに、神以外のものを、主イエス以外のものを礼拝させ、仕えさせようとします。初代教会のキリスト者たちは、ローマ皇帝を神として礼拝し、仕えるように強制されました。日本は、戦前現人神天皇を、教会とキリスト者たちは礼拝するように強制されました。

 

しかし、わたしたちは、主イエスを救い主として信じて、洗礼を受けました時に、神の子とされました。そして、神の子であることを証しできるのは、神の御言葉に聞き従い、神のみを礼拝し、神のみに従順に仕えることによってであることを、今朝の主イエスのから学ぶことができます。お祈りします。 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、神の子イエスが悪魔に誘惑されたことを学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。わたしたちも、主イエスのように神の御言葉に聞き従い、神のみを神として礼拝し、神にのみ仕えることを通して、神の子であることを、日常生活の中で証しできるようにお導きください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教08           主の2010711

 

 

 

 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 

 「ゼブルンの地とナフタリの地、

 

  湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、

 

   異邦人のガリラヤ、

 

  暗闇に住む民は大きな光を見、

 

  死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 

 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 

                      マタイによる福音書第41217

 

 

 

 説教題:「救いの夜明け」

 

 今朝は、マタイによる福音書第41217節の御言葉を学びましょう。

 

マタイによる福音書は、第2部に入り、異邦人の救いの夜明けを物語り始めます。主イエス・キリストの救いの御業が、「ガリラヤ」から始まったことを物語り始めます。

 

それは、一つの事件から始まりました。マタイ福音書は、12節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と物語っていますね。

 

ギリシア語の新約聖書は、「彼は聞き知って、また、ヨハネが渡されたことを、彼は立ち去った」という文です。

 

主イエスに、洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデの手に渡されたという知らせが入りました。洗礼者ヨハネは、ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスに逮捕され牢に入れられました。

 

主イエスは、その知らせを聞くや、直ちにガリラヤに逃れられました。「退かれた」という言葉は、「立ち去られた」、「逃れられた」、「引きこもられた」とも言ってよい言葉です。お育ちになられたガリラヤのナザレの村に退かれたのでしょう。

 

しかし、ただ退かれたのではありません。マタイによる福音書は物語りませんが、ルカによる福音書は、主イエスが郷里伝道されたことを物語っています。ナザレの会堂において主イエスは、預言者イザヤの書をお読みになり、ナザレの人々に今、わたしによって預言者の御言葉が実現したと言われました。しかし、ナザレの人々は主イエスがメシアであることを信じませんでした。

 

だから、マタイによる福音書は、13節に「そして、ナザレを離れ」と物語りました。主イエスが故郷のナザレの人々に拒まれ、迫害され、故郷を捨てざるを得なかったことを、マタイによる福音書を知りつつ物語っています。

 

だから、主イエスが「ナザレを離れとは、主イエスが故郷であるナザレを捨てられたという意味です。そして、主イエスは、イスラエルの12部族の中のユダ族の出身ですが、同じイスラエルのナフタリ族とゼブルン族が主なる神から賜った地であります、ガリラヤ湖の湖岸通りにありますカファルナウムの町にやって来られて、そこに住居を定められました。主イエスは、カファルナウムの町を神の国の福音を伝えるガリラヤ伝道の基地に定められました。

 

マタイによる福音書は、主イエスがカファルナウムに住まわれて、ガリラヤ伝道をされたことに、次のような理由があると、14節に述べて、15節と16節に預言者イザヤの預言を引用しています。

 

ギリシア語の新約聖書は、14節をこう記しています。「成就するために、言われたことが、預言者イザヤによって、言うには」と。これで何度目でしょうか。マタイによる福音が、「旧約聖書の預言者を通して言われていたことが成就するためである」と言っていますのは。この福音書は、「成就する」という言葉が16回出てきます。

 

マタイによる福音書は、わたしたちに首尾一貫してイエス・キリストは神の子であり、主イエスはご自身が神の子であることを、父なる神への従順によって証しされたことを物語ります。さらに、この成就というテーマが首尾一貫しています。

 

主イエス・キリストご自身のこと、そして、主イエス・キリストの救いの御業、そして、主イエス・キリストの教えは、すべて旧約聖書の預言の成就、すなわち、実現であることを物語っています。

 

マタイによる福音書は、12か所に旧約聖書の預言が主イエスとその御業において成就したことを物語っています(1222:15,172:234:148:1712:1713:3521:4526:54.5627:9)

 

今朝の御言葉は、主イエス・キリストの公生涯の開始が旧約聖書のイザヤ書823節と91節の成就として物語っています。マタイは、わたしたちの世界と歴史の中に現れた主イエス・キリストというお方とその救いの御業が旧約聖書の預言者たちが預言した言葉の通りであったことを、誰よりもわたしたちに物語りたかったのです。それは、主イエス・キリストとその救いの御業が、神によって定められたものであり、神は約束に真実であられたからです。

 

使徒マタイの時代、初代教会にとって異邦人伝道は大きな問題でありました。ユダヤ人たちは、主なる神が異邦人たちをお見捨てになり、呪われていると考えていました。だからユダヤ人たちは異邦人と交際しませんでした。身を汚すと考えたからです。

 

いつの時代も、世の常識を変えることは、困難だし、勇気が必要です。中世の時代、人々は地球の周りを太陽が回っていると思っていました。ところが、ガリレオが太陽の周りを地球が回っていることを明らかにしました。ところが、カトリック教会の権威者たちは、ガリレオが聖書に反することを教えていると裁判にかけました。ガリレオは、有名な「それでも、地球は回る」と言いました。

 

マタイによる福音書も、その時代のユダヤ人たちの常識を、御言葉によってひっくり返しました。預言者イザヤは、ガリラヤを「異邦人のガリラヤ」と呼んでいます。紀元前732年にアッシリア帝国のティグラト・ピレセル王が、北イスラエルの国のナフタリとゼブルンの地を占領しました。そして王は占領政策によってそこに住んでいたイスラエル人たちを他国に捕囚し、他国の異邦人をその地に移住させました。預言者イザヤが「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが」と言っているのは、その地に異邦人たちが移住させられて住み、その地が汚れた地になったことを語っているのです。

 

そして、預言者イザヤは、91節に異邦人に汚されたガリラヤの地に住む神の民たちに救いが到来することを預言しました。預言者イザヤが「闇の中に住む民」「死の陰の谷に住む者」と言っているのは、ユダの民です。「大いなる光を見た」「光が射し込んだ」は、主なる神の救いの行為を表しています。

 

マタイによる福音書は、預言者イザヤの預言を、神がメシアによって異邦人を救われることを約束されたと理解しました。ですから、今、主イエスがガリラヤにおいて公生涯を始められ、神の国の福音を語り始められたことは、神の御計画に一致することであり、まさに主なる神が預言者イザヤを通して約束されたことが実現したのであると確信しました。だから、主イエスのガリラヤ伝道の開始を、「光はのぼった」と表現しています。わたしたちの聖書は、「光が射し込んだ」と訳されています。

 

このようにマタイによる福音書にとっては、異邦人の救いが聖書的であり、預言者を通して神が約束してくださったことであるということが大切なことでありました。

 

さらにマタイによる福音書は、「異邦人のガリラヤ」、すなわち、「闇の中に座っているユダの民」に、死の地、陰の谷に座っている異邦人たちに、父なる神は聖霊を通してキリストを遣わされていることを物語るのです。なぜなら、マタイ福音書がわたしたちに証しします主イエス・キリストは、復活されたお方です。確かに天に昇られ、神の右に座されて、そのお体は今ここに見えません。しかし、聖霊と御言葉を通してキリストは、わたしたちのところにおられます。

 

そして、17節にありますように、今もキリストはわたしたちに「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、説教者を通して呼びかけてくださっています。

 

わたしは、今朝の御言葉を読み、瞑想し、心に諏訪の地も、預言者イザヤが語ります「異邦人のガリラヤ」だと思いました。いや「異邦人の諏訪の地」と言い直してもよいでしょう。

 

そこに百年以上昔にキリストの救いの光が差し込みました。横浜に日本最初プロテスタント教会を設立したバラ宣教師が歩いて、諏訪の地にやって来て、キリストの福音を伝えてくれました。暗闇の地、死の陰の谷の地、諏訪に住む人々は、大いなる光を見ました。宣教師が語ります福音を通して主イエスは、わたしたちに心を神の方に向き変えるように、死から永遠の命に人生を方向転換するようにと、主イエスに招かれたのです。

 

救いの夜明けが始まって、諏訪の地は百数十年しか経ていませんが、主イエスはこの地に宣教師たちを遣わし、伝道者を遣わし、教会を立て、確実に救いの御手を伸ばしてくださっています。

 

「天の国」は、「神の国」の言い換えです。キリストの支配のことです。キリストの支配が、わたしたちがこの教会において礼拝し、この地に伝道し、教会形成を継続することを通して完成されていくのです。

 

1612節まで、マタイによる福音書は、メシア、主イエスが民に神の国の福音を宣教される姿を物語り続けていきます。その喜びを、学び続けましょう。お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、異邦人のガリラヤに、旧約の預言者の御言葉の通りに神の救いがキリストによって始められましたように、この異邦人の諏訪の地にも復活のキリストは聖霊と御言葉を通して、わたしたちの救いをお始めくださり感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教09           主の2010718

 

 

 

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 

 「心の貧しい人々は、幸いである、

 

    天の国はその人たちのものである。

 

  悲しむ人々は、幸いである、

 

    その人たちは慰められる。

 

  柔和な人々は、幸いである、

 

    その人たちは地を受け継ぐ。

 

  義に飢え渇く人々は、幸いである、

 

    その人たちは満たされる。

 

  憐れみ深い人々は、幸いである、

 

    その人たちは憐れみを受ける。

 

  心の清い人々は幸いである、

 

    その人たちは神を見る。

 

  平和を実現する人々は、幸いである、

 

    その人たちは神の子と呼ばれる。

 

  義のために迫害される人々は、幸いである、

 

    天の国はその人たちのものである。

 

  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

                      マタイによる福音書第5112

 

 

 

 説教題:「幸福への招き」

 

 今朝より、少し聖書箇所を進めまして、マタイによる福音書第5章-第7章の主イエスの山上の説教の御言葉を学びましょう。

 

 マタイによる福音書の第423節に、福音書記者マタイが主イエスのガリラヤ伝道を次のように短く述べています。「イエスは、ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

 

 第一に、主イエスは民衆に天の国の福音を教えられました。それが、今朝から学びます主イエスの山上の説教です。第二に、主イエスは民衆たちの病気を癒されました。それが、89章の主イエスの癒しの奇跡物語です。

 

57章の主イエスの教えは、天の国の福音であります。それを、キリスト教会は昔から「山上の説教」と言い、とても大切にしてきました。

 

「山上の説教」と名づけられたのは、主イエスがガリラヤのある山に登られて、弟子たちに説教されたからです。

 

51節と2節をお読みしましょう。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」

 

主イエスは、山に登られました。ガリラヤのどこの山かは分かりません。ユダヤ人にとって、「山」と聞けば、第一に「シナイ山」を思い浮かべるでしょう。

 

昔、ユダヤ人たちの先祖がエジプトで奴隷生活をしていた時です。主なる神はモーセという偉大な指導者を遣わして、イスラエルの民を奴隷生活から解放してくださいました。モーセは、エジプトから民を解放し、シナイ山に導きました。そこでモーセはシナイ山に登り、主なる神から十戒を授かりました。そして、モーセは、民たちに神の律法を教えました。モーセに率いられたユダヤ人たちは、モーセの教える神の律法に忠実に行うならば、神の祝福を得ることができると約束されました。

 

マタイによる福音書は、モーセのように主イエスが山に登り、ご自身が弟子たちに山上の説教を語り、その教えを、弟子たちに忠実に実行するようにお命じになりました。主イエスは、弟子たちが山上の説教に生き、神の祝福にあずかり、幸いな人生を生きるように、お招きになりました。

 

だから、主イエスの教えの第一声は、弟子たちに「幸いだ」と呼びかけておられます。「おめでとう」というお言葉です。山上の説教は、主イエスが弟子たちに、そして、わたしたちキリスト者たちに「おめでとう」と言われて、教えてくださったのです。そして、5312節に、主イエスが弟子たちに「幸いだ」「おめでとう」と8回呼びかけて、8つの幸いを教えられました。

 

主イエスの幸福の教えは、この世の教えではありません。天の国の教えです。だから、当然この世の人々の幸福な生き方を教えておられるのではありません。弟子たちが天の国、すなわち、神の支配に生きる教えであり、弟子たちが神の祝福に生きることを教えておられます。

 

一体今日までどれだけの説教者たちが、主イエスの山上の説教を説教したのでしょうか。どれだけの神学者たちが山上の説教の解説書を書いているのでしょうか。古くはラテン教父のアウグスティヌスが『山上の主のお言葉』という本を出しています。宗教改革者たちも山上の説教を説教しています。わたしは、幾つかの山上の説教の説教集や解説書を読みました。その中でわたしが目を開かれたのは、イギリスのロイドジョンズの『山上の説教』であります。今でもいのちのことば社が出版しています。上下2巻の本ですが、山上の説教の説教集としてはとても優れた書物です。

 

ロイドジョンズは、53節から12節の御言葉を、ここにはキリスト者の性格が教えられていると説明しています。主イエスの山上の説教は、人類の倫理の理想が教えられているのではありません。キリスト者の倫理ではなく、キリスト者の性格を、主イエスは弟子たちに教えられました。

 

わたしは、ロイドジョンズの説教を読み、目から鱗が落ちました。福音の喜びを、その説教集を通して耳で見ました。

 

わたしが主イエスの山上の説教に初めて出会ったのは、トルストイの福音書を通してでした。ロシアの小説家であり、優れた民話を書きましたトルストイが主イエスの山上の説教を中心にして、彼の福音書を作りました。それは、トルストイの倫理の理想を描いていたと思います。そして、主イエスの尊い御言葉を、行うようにやさしく書いていました。しかし、読むわたしには、立派な教えであるが、平凡な自分に守れるものではないと思っていました。それが、わたしの主イエスの山上の説教についての考えとなりました。そして、いつしか守れないから、わたしの心に罪があり、その罪をキリストが身代わりに引き受けてくださったと思っていました。だから、山上の説教は、わたしにとって福音、喜びのおとずれではありませんでした。ダメな自分を見出す鏡でした。

 

しかし、ロイドジョンズは、この8つの幸いは、倫理の教えではなく、主の弟子、すなわち、わたしたちキリスト者の性格だと教えています。生まれながらの人間ではなく、聖霊によって生まれ変わらされたキリスト者の性格であると。そして、山上の説教は、主イエスが弟子たちに神に祝福されたキリスト者が歩む聖化の道、清き道を教えていると。

 

わたしの心の中に山上の説教への考えが180度変わりました。太陽が地球の周りをまわっているのではなく、地球が太陽の周りをまわっているという、それほど大きな喜びを経験しました。

 

それまでは、わたしは、主イエスの山上の説教の教えを行い、守らなければと思い、とてもわたしのような凡人には無理だと思っていたのです。しかし、わたしの性格であれば、守る必要はありません。ただ神の恵みによって、わたしは変えられているのです。

 

どのように変えられたのでしょうか。主イエスは、弟子たちに「あなたがたが神に祝福された存在として、第一に、『心の貧しい人々』という性格に変えられたと宣言されました。 

 

ギリシア語の新約聖書は、次のように53節を記しています。「幸いだ、貧しい人々は、霊に、なぜなら、かれらのものである、天の国は」。

 

主イエスは、弟子たちに、そして、今ここにいますわたしたちに、「幸いだ」と言われます。「おめでとう、霊に貧しい人々は」と祝福してくださいます。なぜなら、天の国、神の国は、わたしたちのものだからです。

 

ロイドジョンズは、「神の国には、心の貧しくない人は、ただの一人もいない」と言っています。彼の理解によれば、「心の貧しい」とは「からにするということである」と説明します。それは貧乏という意味ではありません。自分を空にするのです。神の御前に乞食となるのです。

 

「心の貧しい人々」を、岩波書店の新約聖書の欄外を見ますと、「直訳すれば、『霊において乞食である者たち』、自分に誇り頼むものが一切ない者の意」とありました。それは、神の憐れみに完全に依り頼む人々ということでしょう。

 

わたしは、ルカによる福音書に主イエスと共に十字架に付けられ、自らの罪を悔改めて、主イエスを信じた強盗を思い起こしました。彼は、主イエスに言いました。「あなたが全世界を裁かれる日、わたしのことを思い起こしてください」。主イエスはお答えになりました。「あなたは、今日、わたしと共に天国にいる」。

 

この強盗は、心の貧しい人々の一人です。わたしの好きな宗教改革者ルターも、臨終の床で、「わたしは乞食である」と告白したと伝えられています。ダビデ王も詩編5119節に、次のように告白しています。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」

 

神の助けと恵みを祈り求めずにはおれない心の乞食、それがキリスト者であるわたしたちの第一の性格であります。

 

次に主イエスは、弟子たちにこう言われました。「おめでとう、あなたがたは悲しむ人々の性格を持っています」。

 

54節を読みます。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」「幸いだ、悲しむ人々は。なぜなら、彼らは慰められる。」。

 

「悲しみ」というギリシア語は、人間の死や神からの罰が引き起こす悲しみを表現する言葉です。ここでは、この世にあって苦しみ、神にだけしか希望を託すことのできない人々の嘆きを指しています。

 

 心の貧しい人々の性格を持つ主の弟子たちは、自分の姿をどのように見ているのでしょうか。ロイドジョンズは言います。「私は自分の姿を見る。自分が徹底的に無力であり、絶望的であることを見る。自分の霊性がどんなものであるかを発見する。そしてこのことは、即座に私を悲しみに追いやるのである」。

 

わたしは、息子、娘が悪霊に苦しめられている父親と母親が泣き、嘆きながら、主イエスに助けを求めました姿を思い起しました。弟子たちは息子をいやせなかったと言った父親は、主イエスに不信仰を言いあてられ、「不信仰なわたしをおゆるしください」と叫びました。母親は、主イエスに自分は人間以下の小犬であると告白しました。父親と母親は、悲しみの中で、主イエスに息子、娘を救われ、そして、思いもしなかった自分たちまで救われて、慰めを得ました。

 

 家内が「マナ」というディボーションガイドを毎月購読しています。たまにわたしも見ることがあります。今月号に斉藤眞紀子さんの証しがありました。妻に勧められて読みました。斉藤さんが新潟市で小さな集まりをされていました。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母様、横田早紀江さんがその集会に来られました。その時彼女は失意のどん底でした。しかし、聖書に出会い、キリストに出会い、そこから立ち上がることができたそうです。今も娘さんは解放されていません。それでも横田早紀江さんは、預言者エレミヤの哀歌322節「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主の憐れみは尽きないからだ」という御言葉に、「本当にそうです。神様感謝します」と告白されています。

 

主イエスが弟子たちに言われた通りです。「幸いだ、悲しむ人々は。なぜなら、彼らは慰められる。」

 

 さらに主イエスは弟子たちに言われました。「おめでとう、あなたがたは柔和な人々の性格を持っています」。55節を読みます。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」「幸いだ、柔和な人々は。なぜなら、彼らは受け継ぐ、地を。」

 

ギリシア語の「柔和」という言葉は、「貧しい」と同じ意味の言葉です。柔和とは謙遜のことです。

 

旧約聖書の民数記123節に、イスラエルの民の指導者モーセの謙遜を次のように述べています。「モーセという人は、この地上でだれにもまさって謙遜であった」。

 

ここで「謙遜」と言われている言葉は、柔和です。それは、暴力の放棄と主への信頼が特徴です。モーセも主イエスも、共通することは暴力を放棄し、ただ主にのみ信頼して歩みました。

 

ロイドジョンズは、言います。「人は、心が貧しくならなければ、柔和になることは決してできない。みじめな罪人である自分自身を見て悲しんでいるのでなければ、柔和になることは決してできない。」

 

しかし、わたしは、ロイドジョンズのこの言葉を、喜びつつ受け入れたいと思うのです。わたしたちキリスト者は、神の恵みにより聖霊によって「心が貧しい性格を与えられ、柔和な性格を得ています。悲しむ性格を与えられ、柔和な性格を得ています。」だから、わたしたちは、聖霊に導かれ、キリストのように神に自分を明け渡し生きることが許されているのです。ガンジーのように非暴力に生きることと主に依り頼むこと。柔和という性格を与えられたキリスト者の神に祝福された清き歩みであります。

 

主イエスは、弟子たちに言われました。「おめでとう、あなたがたは義に飢え渇いている人々の性格を持っています」。56節を読みます。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」「幸いだ、飢える人々と渇く人々は、義に。なぜなら、彼らは満腹させられる。」

 

ロイドジョンズは、言います。「義でありたいと求めている人だけが、真に幸福なのである」。義は、神に義と認められることだけではありません。神との正しい関係の中に生きる聖化、清き生活も含まれています。

 

「義に飢え渇く人々」とは、神と共に生き、神に善しとされる生活を追い求める、主の弟子の性格です。それは、わたしたちがキリストのごとく生きたいと願っていることです。そして、聖霊は、キリストのごとく生きる性格にわたしたちを生まれ変わらせてくださっています。

 

ルカによる福音書に一人の徴税人とファリサイ派の人が神殿で祈ります。徴税人は、顔を挙げず、神に「罪人のわたしをおゆるしください。」と祈りました。ファリサイ派の人は、自分が神の御前にしていることを誇りました。主イエスは、神の祝福で満腹したのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではなかったと言われました。

 

主の弟子には、己の行いを誇るという性格は、聖霊によって与えられていません。むしろ、自らを空にして、自らの罪に悲しみ、ただ神に身を委ねて、罪の赦しを求め、神に善しとしていただけることを追い求める性格を与えられています。キリストの十字架を追い求め、罪の赦しを神に願い求める、それが義に飢え渇くわたしたちの姿です。

 

 だから、ロイドジョンズは、述べています。主の弟子たちの性格を、わたしたちキリスト者の性格を、人間の生まれつきの性格を描いているのではなく、恵みによって作り出された気質であり、聖霊によって作り出された気質であると。

 

 初代教会のキリスト者たちは、主イエスのこれらの教えを、キリスト者が守れるものと信じ、この御言葉を自分たちの生活の中で行っていました。主が、聖霊によって恵みとして与えてくださったわたしたちの性格ですから、今朝与えられた御言葉がわたしたちの日々の信仰生活の中にも生きていることを心より感謝しましょう。わたしたちは、主イエスに神の祝福へと招かれています。お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝より主イエスの山上の説教を学びます。この学びを通して、神の祝福の中を生きているわたしたちの喜びを、心より主に感謝させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。