マタイによる福音書説教021           主の2010125

 

 

 

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の計る秤で量り与えられる。

 

 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 

                   マタイによる福音書第7章1-6節

 

 

 

  説教題:「赦し合う暖かい関係」

 

 主イエスは言われました。「人を裁くな」と。主イエスのお言葉をそのまま伝えますと、「あなたがたは裁くな」とお命じになりました。

 

主イエスが「あなたがた」とお呼びになるのは、主の弟子たちです。キリストの教会であります。

 

主イエスは続いてこう言われました。「あなたがたも裁かれないようにするためである」。主イエスは、「あなたがたが裁かれないために」と言われました。

 

弟子たちを、そして、わたしたちを、誰が裁くのでしょうか。主ははっきりとおしゃっていません。「裁かれる」という言葉に、それが神であることが伏せられています。

 

だから、主イエスは、弟子たちに、そして、わたしたちに「あなたがたは裁くな。あなたがたが終わりの日に神に裁かれることがないように」と言われました。

 

このように主イエスが裁くことを禁じられたのは、主の弟子たち、キリスト教会に対してでした。だから、主イエスの「人を裁くな」という御命令の中に、国が行う裁判は入りません。市民的正義による悪と不正への批判も含まれません。良いことは良いことであり、悪いことは悪いことだという判断を、主イエスは禁じておられません。

 

さらに、主イエスは2節に、一つの原則をお示しになりました。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の計る秤で量り与えられる。」と。

 

わたしたちは、毎日曜日の礼拝ごとに、使徒信条を告白しています。これは、教会の信仰です。わたしたちは、再臨のキリストが「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白します。終わりの日に神の裁きの前に立たなければならないと信じています。

 

だから、主イエスは言われるのです。教会においてあなたがたの人を裁くという振る舞いは、終わりの日にあなたがたが神の裁きの前に立つとき、神があなたがたを裁く秤になると。

 

では、主イエスは、弟子たちやわたしたちに「あなたがたは裁くな」とお命じになったことは、具体的にどんな振る舞いでしょうか。当然、主の弟子たち、わたしたちの「裁く」という振る舞いが問われていますね。

 

「裁く」という言葉は、裁くという振る舞いです。具体的には、自分が裁判者として活動することです。そして、自分が教会における兄弟たちに対して、教会の周りにいる隣人たちに対して、「有罪宣告をし」「価値判断を下す」ことです。それを、主イエスはわたしたちに「あなたがたは裁くな」と禁じられました。

 

どうしてこの「人を裁く」というわたしたちの振る舞いが、終わりの日に裁かれる神の裁きを受けることになるのでしょうか。

 

第一に人を裁くことは、自分を審判者の地位に引き上げることです。自らを神の位置に引き上げて、兄弟を裁き、「おまえは呪われよ」、「永遠の滅びに落ちよ」と有罪判決を下すことです。神の終わりの裁きを先取りし、人を裁く者自身が自らを神の座に据えているのです。

 

2に人を裁くことは、自分が兄弟に対して、隣人に対して「おまえはそれだけの人間だ。不要な人間であると価値判断をくだす」ことであります。主イエスは、522節にこう言われています。「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と。

 

主イエスが弟子たちに祈るように教えられた神の御国は、必ず到来するのです。その時に神が教会とわたしたちを裁かれます。その神の立場に身を置いて教会の兄弟を呪いを宣告して裁くことが無いように、兄弟を見捨てるような価値判断を下さないように、と主イエスはわたしたちに命じられているのです。

 

この二つの振る舞いは、キリストの教会そのものに反していますし、教会の兄弟姉妹の交わりを破壊します。だから、主イエスはわたしたちに厳しく警告されています。

 

「人を裁くな」の反対語は、「人を赦せ」です。マタイによる福音書は、わたしたちにクリスマス物語からキリストの教会を語ります。神である御子キリストが人間イエスとしてこの世にお生まれになられたのは、「この子が自分の民を罪から救う」からでした(マタイ121)。教会は、わたしたちは、キリストの十字架によって罪を赦された者たちの集まりです。そして、罪に滅ぶべき者でありましたわたしたちは、神の御目に貴いものとされました。

 

今朝の礼拝において聖餐式の恵みにあずかります。わたしたちは、共に天国の前味を味わう喜びにあずかります。同時にわたしたちは神の審判の前に立っているのです。わたしたちが共に聖餐に与る、この恵みに招かれているすべての隣人にどのような価値判断を下しているか、それと同じ価値判断を、終わりの日に主イエスご自身がわたしたちに下されるのです。だから、主イエスは「あなたたちが裁く際に、神の裁きを考慮せよ。わたしたちは、一切の裁きを断念するほどに、皆神の御前に罪の負い目を持つ者であることをよく弁えて、教会の中では愛と赦しに生きるようにと、主イエスは勧められ、次のような憐れまない僕の話をされています。マタイ182335節です。

 

続いて、35節は、主イエスが弟子たちに「人を裁くな」という禁止命令を実践する方法をお示しになりました。それは、一言でいえば自らの傲慢さという罪を知ることです。己を神の位置に引き上げている罪を捨てることです。

 

主イエスは弟子たちに言われました。主イエスが言われたままをお読みします。「なぜ、また、あなたは見る。あなたの兄弟の目にあるちりを。しかし、あなたの目にある梁を、あなたは認めないのか。」(3)。「あるいは、どうして、あなたは言えようか、あなたの兄弟に。わたしに取りださせよ、あなたの目からちりを。すなわち、見よ、梁があなたの目の中に。」(4)。「偽善者よ、あなたが取り出せ、まずあなたの目から、梁を。すると、その時、あなたははっきり見える、取り出せるように、ちりを、あなたの兄弟の目から。」

 

主イエスは、弟子たちに自分自身の目にある梁を考えよと勧告されました。それは、71節の神に裁かれないために、です。主イエスが弟子たちを勧告された目的は、裁く者から裁かれる者になることでありました。

 

そのためにとてもおかしなお話をされています。おが屑と丸太のお話です。主イエスは、弟子たちの心をつかみ、わたしたちの心をつかむためにおが屑と丸太という言葉を巧みに使われました。

 

残念なことに、主イエスのお話を聞いて弟子たちや群衆がどのような様子であったかが語られていません。おそらく、弟子たちと群衆は、おが屑と丸太のたとえにぎょっとしたでしょう。兄弟を裁く者の醜さをあらわにするからです。

 

自分が裁く兄弟の過ちは、目にあるおが屑、ちりであり、それは見えないほどのものです。ところが、小さな兄弟の過ちを裁く自分の目にあるのは丸太です。憐れまなかった僕のように、神のきびしい裁きが、兄弟を裁く自分の罪に向けられています。主イエスは、その罪の大きさを見るべきであると言われているのです。まずは、自分の大きな罪を知り、へりくだらない限り、兄弟の罪を除くことはできないと、主イエスは言われました。

 

主イエスは、教会のお話をされています。兄弟との赦しの暖かい関係を話されています。そのために兄弟の罪を見過ごしなさいと勧められていません。兄弟に無関心になりなさいと言われてもいません。教会は、キリストの十字架のゆえに、罪赦される所です。だから、まずわたしたちの罪の大きさを認めるように、その罪を赦されたキリストを見上げて、小さな、弱い兄弟の罪を赦すように、お話をされています。偽善者にはならないようにと、主イエスは警告されました。

 

主イエスは、ご自身の教会を愛と赦しの暖かい関係にしたかったでしょう。それには、教会が神に罪を赦された者の集まりであることを知らしめようとされました。教会の小さな弱い兄弟は、キリストの十字架のゆえに神に愛され、罪赦された者です。もし、兄弟の罪を裁くならば、自分の大きな罪を顧みましょう。使徒パウロも、自分のことを罪人のかしらと言いました。わたしたちは、誰もが罪人のかしらであり、神の裁きの前に立ち、自分の大きな罪をキリストの十字架のゆえに赦されたことを心に留めましょう。

 

6節をお話する時間がありませんでした。次週に続きを学びましょう。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、人を裁くなという主イエスの勧めを学ぶことができて感謝します。願わくは、常に自らの罪とキリストの十字架の罪の赦しを心に留めさせてください。主の憐れみに与る者として、兄弟を憐れむ心を与えてください。教会が愛と赦しの暖かい関係を築けるようにお導きください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教022           主の20101212

 

 

 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 

                    マタイによる福音書第7章712

 

 

 

  説教題:「良い物を与える神」

 

 先週は、6節の御言葉をお話できませんでした。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 

ユダヤ人にとって犬と豚は、汚れた動物です。犬は、ユダヤ人以外の異邦人たちをさげすむ呼び名でもありました。

 

主イエスは、異邦人たちをさげすまれているのではありません。素直にそのまま読むべきです。主イエスは、弟子たちに餌を欲しがる犬に、食べられない神聖なものを与えても、意味がないと言われました。

 

また、主イエスは弟子たちに「豚に真珠を投げてはならない」と言われました。そこから「豚に真珠」ということわざが生まれました。どんな値打のあるものも、値打を知らない者には無意味であるという意味です。

 

「投げてはならない」という言葉から、どんなことを思われるでしょうか。豚に真珠を放り投げるように思われるかもしれません。しかし、「投げる」という言葉は、丁寧に真珠を豚のえさ箱に置くという意味です。

 

主イエスは、弟子たちに「どんなに豚に親切にしても、豚は真珠の価値を知らない。まして、餌を欲しがる豚に食べられない真珠を与えても無意味である」と言われました。

 

犬と豚が欲しいのは餌であり、餌をもらえると思っていたのに、食べられないものを与えられて、不満と欲求で狂ったようになり、神聖なものも真珠も足で踏みつけ、与えた者に怒りをぶつけて来ると、主イエスは言われました。

 

主イエスは、弟子たちにこのお話によって教会の中で同じ過ちをしないようにお勧めになられたのです。その理由は、教会の暖かい関係を壊さないためです。

 

教会の人間関係を壊すのは、一つにはわたしたちが兄弟と隣人を裁くことによってです。また、同じように相手の気持ちを考えない独りよがりの親切心も、教会の暖かい関係を壊すのです。その親切心とは、求道者に信仰を押し付けることです。求道者が十分に信仰を理解していないのに、こちらの伝道の熱心さと独りよがりの親切心で、求道者に信仰を押し付けるなと、主イエスは弟子たちにお命じになりました。

 

 

 

さて、今朝は、マタイによる福音書の77節から12節の御言葉を学びましょう。主イエスは、弟子たちに信仰の祈り(711)と黄金律(12)を教えられました。そして、12節の黄金律が信仰の祈りを理解する鍵であります。

 

主イエスは、弟子たちに517節から712節まで山上の説教において神の民の義を教えられました。主イエスは、弟子たちに517節に「わたしが来たのは律法と預言者を廃止するためではなく、完成するためだ」と言われました。そして、712節の黄金律の御言葉を、「これこそ律法と預言者である」と言われました。

 

主イエスが弟子たちに教えられたことが、「律法と預言者」という言葉に囲まれていますね。「律法と預言者」という括弧に閉じられていますね。それは、主イエスが弟子たちに教えられたのが「律法と預言者」、すなわち、旧約聖書の全体であるということを、このマタイによる福音書が示しているのです。主イエスが弟子たちに教えられた神の民の義の教えとは旧約聖書の全体であったと。

 

だから、主イエスは弟子たちに「律法と預言者を廃止するのでなければ、どのような意味で律法と預言者を実現するのか。それゆえにモーセと預言者たちを通して示された神の民の義を、弟子たちがどのようにして行うのかを、今朝の御言葉によって主イエスはまとめられています。

 

そして、今朝の御言葉を理解する一つの鍵は、主イエスの548節の御言葉です。主イエスは弟子たちにお命じになりました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。

 

天の父の完全さは、天の父なる神の愛と慈しみに示されています。そして、主の弟子たちの義、善き行いは、父なる神の完全な愛と慈しみによって準備されているものであることを、主イエスは弟子たちに教えておられます。

 

さて、主イエスは弟子たちに「求めなさい」、「探しなさい」、「門をたたきなさい」とお命じになりました。「求める」と「探す」は言葉が違いますが同じ意味です。「門をたたく」も求めることです。それは、「祈り求めなさい」という意味です。主イエスは、弟子たちに「祈り求める者は、天の父なる神に聞き届けられる」とお約束してくださいました。

 

そして、主イエスのお約束の確かさを、911節に主イエスは弟子たちに語られました。主イエスは、弟子たちに632節に「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあたなたがに必要なことをご存じである」と言われています。それを信じて、神に御心に求めて祈ることを、主イエスは弟子たちに願われています。

 

主イエスは弟子たちにかれらの信仰の強さや真剣さを願ってはおられません。むしろ、天にいます神は、愛の父であるから、その父の愛と慈しみの完全さによって、弟子たちの祈りが聞かれることを、主イエスは弟子たちに教えられています。

 

そのために主イエスは弟子たちに実物教育をなさいました。天にいます父なる神への祈りが必ず実現する理由を次のように述べておられます。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

 

主イエスは、弟子たちに人間の親子関係をお示しになり、父の子への愛情を例にして、天にいます父なる神はそれ以上であると言われました。弟子たちの祈りは、父なる神が良い物をお与え下さるという信頼に支えられています。

 

主イエスは、常に変わらない父親の子への愛を知っておられました。どんな父親も自分の子には良い物を与えることを見ておられました。そして、主イエスは弟子たちにこう言われました。どの父親も自分の子にパンの代わりに石を、魚の代わりに蛇を与える者はいないと。そして、主イエスは言われました。「まして父である神は子であるわたしたちに良い物を与えるはずである」と。

 

その時に主イエスは弟子たちに、人間の父親を「悪い者」と言い切っておられます。なぜなら、父なる神がお持ちの完全な愛と慈しみの基準からすれば、父親の自分の子への愛は不完全な愛であり、欠如した愛です。何よりも罪を持つ者の自己中心の愛であります。神のお求めになる隣人への愛ではありません。「罪ある人間であるが、自分の子には良い物を与えることを知っている」のです。それならば、天にいます父なる神は、それ以上ではありませんか。

 

天の父なる神が、わたしたちに与えてくださる「良い物」とは、それは物質的な財宝ではありません。キリスト者の恵みを形造るものです。すなわち、聖霊です。聖霊はキリスト者に祈りを賜り、わたしたちの祈りが実現するようにお導きくださいます。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と、わたしたちに祈りを賜り、その祈りがわたしたちの生活の中に実現するようにお導きくださいます。こうしてわたしたちキリスト者は、義を、善き業への実践へと導かれているのです。

 

711節の御言葉を一言でいえば、こうです。「求めよ、父は必ず最上の答をして下さる」という主イエスの弟子たちへの約束。この約束がわたしたち主の弟子、キリスト者たちの祈りの裏付けであります。

 

どうして主イエスは弟子たちに「天にいます父なる神の完全な愛と慈しみ」を教えられたのでしょうか。主イエスは、弟子たちに天の父の完全に見習うこと(548)をお求めだからです。

 

だから、主イエスは弟子たちに12節の黄金律「愛の教え」をお示しになり、「これこそ律法と預言者である」、聖書の全体であると述べられました。

 

そして、主イエスは弟子たちに言われました。「律法と預言者」、すなわち、旧約聖書のモーセと預言者たちを通して主なる神が民に教えられたことを、一言に要約すれば、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」、これだと。

 

主イエスは、旧約聖書を要約すれば、隣人愛について語っていると言われました。だから、12節は、黄金律「ザゴールデンルール」と呼ばれています。黄金律は、聖霊に満たされたキリストの体なる教会の基本的生き方です。隣人を愛する生き方こそ教会の基本です。 

 

後に主イエスは旧約聖書を要約し、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」(マタイ2239)とも言われました。主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちに隣人を愛することによって教会を立て上げることを望まれたのです。

 

神の民の義の実践は、「天の父の愛を見習う、隣人への愛」でしめくくられています。12節の「何でも」という言葉は、限界を知らない行為を意味します。主イエスは、弟子たちに517節より「天の父なる神の愛の広さ」「完全さ」「例外のない愛」を教えられてきました。父なる神の愛と慈しみは完全であり、神の愛が助け得ない例外はないと教えられました。そして、主イエスは弟子たちに「父なる神が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」とお勧めになり、今、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」とお命じになりました。

 

しかし、使徒パウロは、「文字は人を殺し、霊は、聖霊は人を生かす」(Ⅱコリント3:6)と言っています。「神が完全であるように、あなたがたも完全な者になれ」という御言葉は、そのままでは慰めの言葉となりません。わたしたちは罪人であり、不完全な者であるからです。しかし、主イエスは聖霊によってわたしたちに「天の父なる神の完全で無制限な愛と慈しみによって、あなたがたも完全な、すなわち、例外のない愛と慈しみの人となりなさい」とおしゃっています。

 

実際に罪あるわたしたち、欠けあるわたしたち、人の子の親であるわたしたちは、身内しか愛せない者であります。だから、例外なく人を愛せる、また「何でも」人を愛するようにしてくださる父なる神の愛と慈しみを信頼し、祈り、「神の御心を行うことができるように」と願う時、父なる神がわたしたち神の子のために、聖霊を備えてくださっていないはずがないと、主イエスは弟子たちに教えられたのです。

 

そして、使徒パウロが、聖霊が弱いわたしたちを助けてくださり、わたしたちの心を見抜かれて、神の御心に適う祈りを導き、わたしたちを執り成し、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)と言っています。

 

わたしたちがこの黄金律をこの教会において実現できるように、聖霊を通してわたしたちにその力を与えるために、自らの十字架の血によってわたしたちの罪を清めるだけでなく、甦られ、聖霊を通して例外がなくなる、欠けの無い愛と慈しみにわたしたちが生きることができるようにして下さいました。

 

近代宣教師運動の父ウィリアム・ケアリーは、ちょうどインドに向けて出発しようとしている時に、後に多くの人々にとっての進軍ラッパとなった、「神の大いなることを期待せよ、神のために大いなることを試みよ」という題の説教をしました。二つの命令は、711節の主イエスの心そのものを伝えています。つまり、山上の説教の驚くべき要求を真剣にとらえることは、わたしたちがその要求を実行できるように助ける準備が神にあることを、さらにもっと真剣にとらえよと。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、主イエスは弟子たちに、わたしたちに天の父なる神の完全な愛と慈しみにより、わたしたちが神に賜りました良きものである聖霊を通して、神はわたしたちにすべての物を備えて、導いてくださっていることを教えてくださいました。心より感謝します。ハイデルベルク信仰問答の問129の答を、今朝の御言葉に感謝し、唱えます。「アーメンというのは、これは真実であり、確かであるにちがいない、ということであります。なぜなら、わたしの祈りは、自分の心の中に、自分が、このようなことを、神に求めている、と感ずるよりも、はるかに確かに、神によって、聞かれているからであります。」ア-メンです。万事を益としてくださる父なる神の愛と慈しみに感謝し、この1週を,今日の御言葉によって信仰の喜びに生かしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。