マタイによる福音書説教028           主の201136

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書朗読とその解き明かしである説教を通してわたしたちの心を照らし、御言葉を理解し、福音において提供される主イエス・キリストをわたしたちの救い主として受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおリ、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 

                    マタイによる福音書第8513

 

 

 

  説教題:「百人隊長の信仰」

 

 

 

 ガリラヤ湖の近くにありますある山で主イエスは、弟子たちや群衆に山上の説教をし、終わると共に山を下りられました。5節に「イエスがカファルナウムに入られると」とありますので、山を下りられた主イエスは、カファルナウムの町に向かわれたのです。その途中において重い皮膚病を患う人に出会われて、主イエスは彼の罪を赦し、汚れを清め、重い皮膚病を癒すという奇跡を行われました。

 

 マタイによる福音書は、第418節から第1620節まで主イエスのガリラヤ伝道を物語っています。主イエスは、ペトロ、アンデレとヤコブヨハネ兄弟たちを弟子に召され、ガリラヤ地方の諸会堂で神の御国の福音を宣べ伝え、多くの人々の病気を癒され、悪霊を追い出されました。

 

 57章は、主イエスの御言葉による宣教を、マタイによる福音書は主イエスの山上の説教としてまとめています。

 

 89章は、主イエスの行いによる宣教として、主に主イエスが病める者を癒され、悪霊を追い出されたことを物語っています。主イエスの奇跡を物語ります。

 

 大切なことは、マタイによる福音書はわたしたちに主イエス・キリストを、主の御言葉とその御業を物語っているということです。マタイによる福音書に従うならば、主イエスが山を下り、その途中で重い皮膚病の者に出会って、主イエスは彼を御言葉で癒され、カファルナウムの町に入り、百人隊長の中風の僕を、主イエスは御言葉で癒し、弟子のペトロの家に入り、彼の姑を癒され、ペトロの家に連れて来られた大勢の悪霊につかれた人々を、主イエスは御言葉によって彼らから悪霊を追い出されました。マタイによる福音書は、817節に旧約聖書のイザヤ書534節を引用して、この主イエス・キリストこそ預言者イザヤが預言しているメシアであると証言しています。

 

 マタイによる福音書は、81節から17節までを、山上の説教に結び付けて物語り、主イエス・キリストこそ言葉においても行いにおいても旧約聖書が預言し約束していたメシア、救い主であると信仰告白しているのです。

 

 さて、今朝は、第一にカファルナウムの町に注目しましょう。カファルナウムの町は、ガリラヤ湖の湖畔にある町です。主イエスがガリラヤで人々に福音を伝え、病気を癒される足場とされたところです。この町は、ユダヤの国を支配していましたローマ帝国の軍隊の駐屯地でありました。それから通行する商人たちから税金を取る収税所がありました。主イエスの弟子の一人、このマタイによる福音書の著者、マタイはその収税所で働いていました。主イエスは、カファルナウムを「自分の町」(91)とし、人々に福音を伝え、病人を癒し、悪霊を追い出されました。しかし、この町の人々は悔改めなかったので、主イエスが町の滅びを預言されました(11234)

 

 第二に百人隊長の信仰に注目しましょう。この百人隊長は、カファルナウムに駐屯していたローマ帝国の兵士ではなく、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに仕えていた異邦人です。その名の通り、彼は100人の部下を指揮していました。

 

 百人隊長は、カファルナウムの町に入られた主イエスに近づき、お願をしました。彼の僕が中風の病気で、長い間寝込み、苦しんでいました。その僕を、主イエスのお言葉でお癒しくださいと。

 

 百人隊長は、異邦人です。異邦人が神の民と交わることができないことを知っています。だから、百人隊長は、主イエスにユダヤの律法に従ってあなたを自分の家にお迎えすることはふさわしくありませんと言いました。

 

 他方、百人隊長は100人の部下を指揮し、家の僕たちに命令する権威を持つ者でした。彼が命令すれば、部下も僕もその言葉の通りに実行します。百人隊長は、主イエスに自分は主イエスに従属しますと告白しました。主イエスがユダヤ人たちが待ち望んだメシアであり、民を救う力をお持ちのお方であると、百人隊長は信じました。百人隊長は、「イエスを主」と信仰告白し、その権威の下に自分を服させて、主イエスの御言葉の権威に自らの願いを託しました。そして、彼は主イエスにはっきりと「御言葉をください。僕は癒されます。」と言いました。彼は、主イエスを無条件でメシアと信じ、その主イエスの御言葉の権威に信頼しました。

 

 ユダヤ人ではない百人隊長の信仰に、主イエスは驚かれました。第三にその主イエスの御言葉に注目しましょう。主イエスは、従っていた人々に言われました。それは、弟子たちや群衆です。ここにいるわたしたちも含まれています。毎週の主日礼拝のマタイによる福音書の説教を聞き続けて、わたしたちも主イエスに従った人々の中にいるのです。

 

 主イエスは、言われました。第一に「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と。神に選ばれたイスラエルの中に信仰を見出すのは当然のことです。しかし、主イエスは神に選ばれていない異邦人の中に立派な信仰を見出されました。その信仰とは、主イエスの人を助ける力への無条件の信頼です。そして、百人隊長のその信頼を、主イエスご自身が「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と判定されました。この主イエスのお言葉の重要性は、わたしたちの信仰を、「あるか、ないか」、あるいは「立派か、弱いか」を判定するのは、主イエスのみである、最後の審判の時に裁き主として来られる主イエスのみであるとことです。

 

 わたしたちは、自らの信仰が霊的に成長することを願いますし、この教会が霊的に成長することを願います。しかし、わたしたちに信仰があるか、ないか、その信仰が立派か、弱いか、この教会に信仰があるか、ないか、その信仰が霊的に成長しているかどうかを判断するのは、終わりの時に再臨し、わたしたちを神の審判の日に裁かれる主イエスのみです。

 

 百人隊長から教えられることは、すべての者をお裁きになる主イエスは、わたしたちを罪より救うために、神であるのに人としてこの世に来られ、わたしたちの身代わりに十字架に死なれたのです。このお方がわたしたちを、罪と死から助ける力をお持ちであると、無条件で信頼することです。毎週の主日礼拝の説教を通して主イエスが「あなたの罪は赦された」とお語りくださる御言葉の権威を無条件に受け入れることです。

 

 第二に主イエスは、異邦人たちを救うと宣言されました。いつか、東や西から大勢の異邦人たちを集めて、天国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着かせると。主イエスは、昔アブラハム、イサク、ヤコブ族長たちに彼らを通して異邦人たちを救うと約束されたことを、今主イエスを通して神が実現されたと宣言されました。

 

 天国の祝宴から締め出される「御国の子ら」が誰を意味するのか、わかりません。マタイ福音書の時代の悔い改めなかったユダヤ人たちでしょうか。自分は天国に属し、異邦人たちは神に捨てられたと主張していた者たちのことでしょう。しかし、わたしたち異邦人は、ユダヤ人たちが旧約聖書を通して伝えてくれた主イエス・キリストを救い主と信じて救われたのです。そして、今朝も天国のアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着くことを約束するこの聖餐に招かれています。わたしたちは、主イエスが「この食卓に来よ」と命じられたので、来るのです。パンを食べ、ぶどう酒を飲めと命じられるので、飲み食べるのです。この主イエスの御言葉の権威のみがわたしたちを罪から救い、死から永遠の命に甦らせ、この世の絶望から天国の希望と喜びを保証してくれるのです。

 

 最後に主イエスは、百人隊長に「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」と祝福されました。その主イエスのお言葉の時に、百人隊長の僕は癒されました。主イエスは、今朝も同じことをわたしたちにお語りになり、祝福されています。「帰りなさい。あなたがわたしの御言葉を百人隊長のように信じた通りになるように」と。どうか、この1週間、主イエスのお言葉が、わたしたちの信じた通りになる恵みを見させていただきましょう。お祈りします。

 

御在天の父なる神よ。百人隊長の信仰を学ぶ恵みを感謝します。どうかわたしたちも百人隊長のように主イエスの御言葉の権威を無条件で信頼できるようにお導きください。今より聖餐の恵みにあずかり、家に帰ります。どうか主イエスよ、わたしたちにも「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」と祝福してください。わたしたちの家庭に、わたしたちの町に、私たちの国に、わたしたちのこの地球に主イエスの救いの恵みを見させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教029           主の2011320

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心を開き、あなたの御言葉を読み、取り次ぐ者を清め、あなたの御心をはっきりと宣べ伝えることができるようにしてください。わたしたちにあなたの御言葉をください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

イエスはペトロの家に行き、そのしゅとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 

                    マタイによる福音書第81417

 

 

 

  説教題:「病を担う主イエス」

 

 

 

 山を下りられた主イエスは、カファルナウムの町に向かわれました。その途中、重い皮膚病を患う人に出会われました。主イエスは彼の願いを受け入れられました。彼の汚れを清め、重い皮膚病を癒す奇跡を行われました。

 

カファルナウムの町に入られると、主イエスは異邦人の百人隊長に出会われました。百人隊長の願いを受け入れ、彼の中風の僕を、御言葉で癒す奇跡を行われました。

 

主イエスは、弟子のペトロの家に入られました。そして、熱を出して寝込んでいるペトロの姑を御覧になりました。そして、姑の体に手を触れ、彼女の熱病を癒す奇跡を行われました。その後主イエスは、ペトロの家に連れて来られた大勢の悪霊につかれた人々から御言葉によって悪霊を追い出す奇跡を行われました。

 

マタイによる福音書は、それらの奇跡物語の最後に、すなわち、817節に旧約聖書のイザヤ書534節を引用して、病を癒し、悪霊を追い出す奇跡を行われた主イエスこそ、預言者イザヤが預言したメシアであると信仰告白しています。

 

 今朝は、主イエスの奇跡物語から5つの大切なことを学びましょう。第一にマタイによる福音書の8117節の御言葉は、信仰問答になっているということです。

 

マタイによる福音書は、わたしたち読者に病人を癒し、悪霊を追い出す奇跡を行われた主イエスを誰かと問いかけています。それが8116節の御言葉です。そして、817節に旧約聖書のイザヤ書534節の御言葉を引用して、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担う」救い主であると信仰告白しています。

 

8117節はひとつのまとまった文章です。カテキズム、いわゆる信仰問答になっております。主イエスとは誰かを問いかけ、預言者イザヤが預言したメシアであると答えているのです。

 

わたしたちが知っていますハイデルベルクやウェストミンスター小教理問答のようにはっきりした問と答の形式ではありません。しかし、主イエスの奇跡を物語りながら、病気を癒し、悪霊を追い出す奇跡を行う主イエスが誰であるかと問い、預言者イザヤの預言した救い主と答えているのです。

 

まずはこの点をよく理解して下さい。そのためにマタイによる福音書は、主イエスの行動のみに、癒しの奇跡のみを集中して物語ります。ペテロの家族について、彼の妻について一切触れていません。

 

 第二に主イエスが主なる神と同じ権威をお持ちのお方であることに注目しましょう。マタイによる福音書は、わたしたち読者に山上の説教を物語ったと同じように主イエスの御言葉の権威を強調しています。すなわち、主イエスは、主なる神と同じ御言葉の権威を持っているということを強調しています。

 

具体的に言いますと、主イエスは山上の説教において御自身の語る御言葉を行うようにお命じになり、御言葉を行わない者を最後の審判において裁くと警告されました。神の民を裁くことがおできになるのは、主なる神だけです。それ故に、主イエスの山上の説教を聞いた大勢の群衆は驚きました。主イエスが群衆に神の律法を教える律法学者やファリサイ派の人々のようではなく、主なる神のごとく語られたからです。

 

奇跡を行われる主イエスも同じです。主なる神のごとくに、主イエスは御言葉によって重い皮膚病の者を清め、重い皮膚病を癒されました。異邦人の百人隊長の中風の僕も、御言葉によって癒されました。ペトロに家に連れて来られた大勢の悪霊につかれた病人たちも、主イエスが御言葉によって悪霊を追い出されました。

 

マタイによる福音書は、わたしたち読者に救い主、主イエスが言葉と行いにおいて主なる神と同じ権威をお持ちのお方であると証言しています。そして、マタイによる福音書は、81節から934節まで、主イエスが主なる神と同じ権威を持ち、奇跡の御業を行われたことを証言しています。それによって「イエスは主なり」と信仰告白しているのです。

 

第三に主イエスに癒された者たちに注目しましょう。重い皮膚病の者、異邦人の百人隊長の僕、そして弟子のペトロの姑です。これらの人々は、ユダヤ教とユダヤ社会において宗教的に差別された人々です。重い皮膚病の者は汚れた者として、神殿とユダヤ社会から排除されました。異邦人はユダヤ人たちの目に神に見捨てられた滅びの民でした。女性はユダヤ社会では軽んじられました。これら3人は、ユダヤ教の共同体の中で排除され、見捨てられ、軽ろんじられた人々でした。

 

しかし、主イエスは、彼ら3人を御覧になり、重い皮膚病の者に手を差し伸べて触れ、癒され、異邦人の百人隊長の信仰を偏見なく認めて、彼の僕を癒され、そしてペトロの姑の体に手で触れて癒されました。主イエスは、この世の社会的差別と偏見を取り除き、御自身の下にすべての人々を等しく憐れみ、救われました。

 

第四に主イエスに癒されたペトロの姑が主イエスをもてなしたことに注目しましょう。ペトロの姑は、発熱で床に伏せていました。主イエスが彼女を御覧になり、彼女の体に手で触れ、癒しの行為をされました。すると彼女の発熱は去り、彼女は寝床から起きて主イエスをもてなしました。彼女は、主イエスに病気を癒されたことを、主イエスをもてなす行為で証明しました。

 

マタイによる福音書がわたしたち読者にこの奇跡物語で伝えようとしたことは、次のことです。ペトロの姑のように主イエスに救われた者は、その恵みを自分のために用いないで、自由になった体で主イエスに仕えることが大切であるということです。

 

この奇跡物語は、老いた方々に慰めと祝福を伝えています。第一に主イエスはキリストの体なる教会を建て上げるためにペトロの姑を必要とされました。だから、主イエスは彼女や家族の願いではなく、主御自身が率先して彼女の病を癒されました。そして主イエスは彼女のもてなしの奉仕を喜んで受け入れられました。第二に主イエスは、彼女の自宅で彼女のもてなしの奉仕を受け入れられました。教会を通して、礼拝を通して主イエスに仕えることが、老いて行く信徒たちには難しくなります。実際に老いて自宅療養を余儀なくされている方、遠くに住まわれて、毎週の礼拝出席が困難な方、体が動かなくなり不自由されている方があります。

 

ペトロの姑を癒された主イエスは、今は復活し、天におられます。同時に聖霊を通してわたしたちの内にいてくださいます。わたしたちの体が主の宮、神殿です。だから、体が不自由になり、あるいは病気のために教会の礼拝に出席できなくても、主イエスはペトロの姑のように自宅に訪れてくださいます。体が不自由でも目が丈夫であるなら、自宅で聖書を読み、賛美し、祈ることによって主イエスに仕える喜びを与えてくださっています。目が不自由ならば、テープを聞き、どうか上諏訪湖畔教会のために祈ることを通して、キリストに仕えてください。

 

第三にキリストの体なる教会の中で主イエスにお仕えすることに引退はありません。年齢に応じて、主イエスは喜んで御自身のためにペトロの姑のもてなしを受け入れられたように、わたしたちの奉仕を受け入れてくださいます。体に無理や負担がなければ、動作がゆっくりでも、教会で奉仕をしてください。生涯わたしたちは主イエスに救われた者として、主に仕える喜びを与えられています。

 

第五に悪霊の働きに注目しましょう。まず旧約聖書が悪霊の働きを証言しています。主なる神が人に悪霊を遣わされるという形で表現されています。それは、悪霊が主なる神のお許しの下で、人々の心を惑わす働きをしていることを教えるためです。

 

例えば、士師記923節に次のように証言されています。「神はアビメレクとシケムの首長の間に、険悪な空気を送り込まれたので、シケムの首長たちはアビメレクを裏切ることになった」と。「険悪な空気」が「悪しき霊」です。有名なのは、サウル王に主なる神が悪霊を送られたので、サウル王が悪霊に心を乱され、苦しんだことを証言しています(サムエル記上161415)。悪霊とは、人の心を惑わし錯乱させる存在でした。

 

新約聖書は、悪霊を悪魔の支配下にあって働く存在として証言しています。主イエスを荒れ野で誘惑したサタンは、悪霊を手先にして人々の心を惑わしました。すなわち、悪霊は人の中に入り、精神的、肉体的に人を病める者としました。だから、主イエスは御言葉によって人々から悪霊を追い出されました。

 

後に使徒パウロが「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心奪われ、信仰から脱落する者がいます」(Ⅰテモテ41)と警告しています。

 

主イエスの悪霊を追い出す奇跡を信じることは、この世に悪霊の働きがあることを認めることです。主イエスは、罪と死、悪霊よりわたしたちを救われます。

 

パウロが警告するように悪霊は、わたしたちの良心と信仰に悪しき影響を与える存在です。パウロが警告するように今世の終わりが近づいています。天使のような姿をした、一見敬虔そうに見える偽牧師、偽教師が現れ、信徒たちに偽りの教えを広めるのです。そして、教会の中に背教者が出てきます。それをパウロは警告しています。

 

今日のように世情が、大地震、原発事故によって社会不安が広がれば、悪霊は人の心に働きかけて、偽りの預言をし、オウム真理教のような社会を恐怖に落とす者たちが現れます。また悪霊は、テレビ、インターネット等を用いて偽り者たちが悪しき教えを広めようとするのを助けるのです。現代人は「科学的」という言葉に弱いです。「科学的に安全が保障されています」と言われるとすぐに信用します。そして、今回の大地震や原発事故で分かったことは、「科学的な安心」は想定外の自然の力には弱いのです。悪霊は、科学的を過信してくれたわたしたちに喜んだでしょう。もしわたしたちが主なる神よりも現代の科学技術をより頼んでいるならば、使徒パウロはわたしたちを警告し、あなたがたは悪霊の教えで、良心と信仰に悪い影響を与えられていると言うでしょう。

 

それ故に毎週の礼拝において主の御言葉を聞くことは、御言葉を聞き、聖餐にあずかり、キリストの臨在に触れることは、わたしたちの心の中から悪霊を追い出すことになります。大震災と原発の事故を通して、本当にわたしたちに平安をお与え下さるお方は、主イエス以外にないことを、今朝の御言葉を通してわたしたちは確信したいと思います。お祈りします。

 

御在天の父なる神よ。大震災と原発の事故により日本の国は大きな試練を受けました。その中で今朝、マタイによる福音書より主イエスの奇跡物語を学び、主イエスこそがわたしたちの唯一の救い主であり、確かな平安を与えてくださるお方であることを確信させられ感謝します。またペトロの姑のように、わたしたちも老いて主に仕える喜びをお与えください。今大震災と原発の事故のために困難な中にある方が多くおられます。直接にお助けできなくても、祈りと献金、献品をもって仕えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。