マタイによる福音書説教 075       主の201292

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせ、主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしたちの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 

                      マタイによる福音書第181014

 

 

 

 説教題:「迷える羊を捜す主イエス」

 

 今朝は、御言葉と共に聖餐式の恵みにあずかります。主イエスは、今お読みしました御言葉において不思議なことをお語りになりました。

 

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしたちの天の父の御顔を仰いでいるのである。」

 

 わたしたちの教会の中に主イエスが言われる「これらの小さい者」がいます。お読みしませんでしたが、マタイによる福音書の1819節に主イエスは、「子供」「わたしを信じるこれらの小さい者」につまずく者」と呼ばれています。

 

 教会の中で軽んじられている者たちのことです。「子供」は、その姿そのものが「小さい者」です。そして子供は実際にこの世に生きている社会的弱者や価値無き者と同じように扱われています。教会の中には、主日礼拝を大人の礼拝と呼び、子供たちを礼拝の中から外に出し、また母子室を設けて子供たちを自由に遊ばせています。しかし、主イエスは、その子供こそ天国に入る者であり、わたしたちに「あなたも、この子供のように自分を低くし、主なる神の御前に自らを無価値な者とするならば、神の御国において祝福される者となり、この地上の教会にいてはわたしをわが主と受け入れる者となるだろう」と言われました。

 

 教会の中には、つまずく信仰者がいます。つまずく理由はいろいろです。主な原因は信仰の未熟さです。信仰が不確かで、ぐらつくので、自分の信仰を疑ってしまいます。食べ物のことでつまずき、そして兄弟姉妹たちの言動につまずいてしまいます。その結果、教会から離れます。

 

 先にわたしたちは、主イエスがそのような兄弟姉妹たちをつまずかせる者が災いであると警告されたことを学びました。今朝は、信仰につまずき、教会を離れた者について、主イエスがわたしたちに告げられることを学びましょう。

 

 主イエスは、わたしたちに「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」とお勧めになります。主イエスがわたしたちに言われていることは、こうです。「教会の中にいる子供たち、つまずいて教会を離れた者たちに無関心になってはいけません」軽んじるとは、わたしたちが無視する、無関心になることです。

 

 どうしてでしょうか。主イエスはわたしたちに言われます。「彼らの天使たちは天でいつもわたしたちの天の父の御顔を仰いでいるのである。」と。

 

 「彼らの天使たち」とは、保護天使です。聞きなれない言葉ですが、「守護天使」と言えば、この世のいろんな宗教が用いているので、誤解を生むでしょう。主イエスの時代のユダヤ人たちは、一人一人に保護してくれる天使がいると信じていました。その根拠は、主イエスが荒野においてサタンに誘惑された時に、サタンが用いた旧約聖書の詩編9111節の御言葉です。「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」使徒ペトロが使徒言行録1211節に保護天使に救われたことを次のように証言します。「ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。』」

 

 主イエスは言われます。「わたしたちを守る保護天使たちが天に居て、いつも、わたしの父の御顔を仰いでいる」。天使たちは、教会を離れた者をいつも保護し、その者を父なる神の御前にあるようにしているのです。天使たちは、教会を離れた者を保護し、父なる神が喜ばれるように、彼らが心を変えて、教会に戻ることを喜ぶのです。

 

 それ故に教会の頭である主イエス・キリストは、迷える一匹の羊を捜す羊飼いのように、教会を離れた者を捜し出し、教会に連れ戻そうと昼夜働き続けているのだと、一つのたとえを話されました。

 

 この主イエスのお話は、わたしたちに話されています。他の誰かではありません。わたしたちです。だから、主イエスはわたしたちに「あなたがたはどう思うか」と問いかけられます。信仰とは、わたしが何を信じ、今何を考え、どう行動するかではありません。何よりも主イエスのお言葉を聞くことから始まります。そして、主イエスがわたしたちに問いかけることに具体的に答えることです。

 

 主イエスがわたしたちに「わたしを誰と言うか」と問いかけられれば、わたしたちは「あなたはわたしたちの神、救い主です」と答えて、主イエスにわたしたちが従って行くことが信仰です。

 

 今主イエスは、わたしたちに百匹の羊を持つ羊飼いのお話をされます。その群れの一匹の羊が迷子になりました。迷子になった一匹の羊と手元にいる九十九匹の羊を比較すれば、当然九十九匹の羊の群れに価値があります。羊飼いは、迷子の一匹の羊を無視しても良かったのです。九十九匹の羊の群れが大切です。

 

 ところが羊飼いは、九十九匹の羊の群れを山に残して、迷子になった一匹の羊を捜しに行きました。主イエスは、わたしたちに「あなたがたも、教会の一人の兄弟、姉妹が迷子になり、信者の子供たちが迷子になれば、この羊飼いと同じことをしないだろうか」と問われています。

 

 そして、主イエスはわたしたちに「アーメン。わたしはあなたがたに言う」と言われました。主イエスがわたしたちにこのお話をされた結論を言われました。主イエスは、わたしたちの羊飼いとして、信仰につまずかないでこの教会に留まる九十九匹の羊よりも、迷子になって自分が見つけ出した一匹の羊を喜ぶと。

 

 そして、その理由を、主イエスはわたしたちに言われます。「そのように、これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と。

 

 主イエスは、教会の頭、わたしたちの羊飼いとして、ご自身をわたしたちの救い主としてこの世にお遣わしになった父なる神の喜ばれること、願われることを、わたしたちの教会を通して、そして、わたしたちを通して行われるのです。それが、この世にある教会の現実です。

 

 主イエスは、今御言葉を通してわたしたちに問かけられています。「わたしは教会の頭、あなたがたの羊飼いとして、昨日も今日もいつでもあなたがたの教会の迷える羊を捜していないだろうか」。わたしたちは、この主イエス・キリストがわたしたちに問われることに無関心であってはなりません。主イエスは、父なる神がキリストにおいて永遠の命に選ばれた羊たちが一匹も失われることがないように、わたしたちの教会を通して、探し回られているのです。

 

 羊飼い主イエスに見出され、教会に連れ戻され、そして、今主の晩餐の食卓にわたしたちは与れることを感謝したいと思います。お祈りします。

 

 わたしたちの教会の頭であり、羊飼いである主イエスよ、あなたは今もわたしたちをこの教会に残して、迷子になった羊を捜し求めておられます。そして、洗礼と信仰告白を通して、また兄弟の罪の悔い改めを通して、わたしたちの教会に一人の小さな者を導いてくださり、感謝します。今から聖餐の恵みにあずかります。主イエスの「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」という温いお言葉を心に留めて、あずからせてください。二十匹の羊もいない小さなわたしたちの群れですが、またしたちの教会の外に迷える羊がたくさんいます。主イエスよ、聖霊と福音宣教を通して迷える羊たちをお導きください。主イエス・キリストの御名よってこの祈りを聞き届けてきださい。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教 076       主の201299

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読します聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしたちのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

 

                      マタイによる福音書第191315

 

 

 

 説教題:「子供たちを祝福する主イエス」

 

 「そのとき」とは、主イエスがファリサイ派の人々に試されておられ、彼らや弟子たちに離縁について教えられていた時です。

 

大切な教えがなされている時に、人々がわが子を連れて、主イエスの前に現れました。その人々は、主イエスに「わたしの子の頭に両手を置いて祝福を祈ってほしい」とお願いしました。

 

弟子たちは、子供たちを連れて来た人々を叱りました。マタイによる福音書には、どうして弟子たちが叱ったのか、その理由を記してはいません。

 

わたしがこの場面で想像するのは、こうです。弟子たちは自分たちの大切な教えの機会を、主イエスの時代に価値無き者と思われていた子供のことで邪魔されたからではないかと。

 

主イエスの時代、ユダヤ教を教えるラビがおりました。ラビとは、「わたしの先生」という意味です。民衆にユダヤ教を教える教師であり、民衆に尊敬されていました。そして、民衆たちはラビにわが子を祝福していただくために連れて行きました。弟子たちに叱られた人々も、主イエスをラビとして尊敬し、自分たちの幼児を主イエスに祝福していただくために連れて来たのです。

 

 主イエスの12弟子たちの目には、主イエスが幼児たちに祝福を祈ることは、今自分たちが主イエスから大切な教えを受けていることに比べて、重要と思えませんでした。連れて来られた子供たちは、うるさかったでしょう。あちこちへ歩きまわり、ある幼子は泣きわめき、親たちが静かにしなさいと言っても、耳を貸さなかったでしょう。

 

弟子たちにとっては、子供たちは煩わしい、人の言葉を聞き分けることのできない劣った存在でしかありませんでした。そんな無価値の存在を、弟子たちにとって大切な時に、人々が連れて来て、彼らが主イエスから学ぶ機会を邪魔され、彼らを叱ったのでしょう。

 

しかし、主イエスは、人々が子供たちを主イエスのところに連れて行き、わが子に祝福を願うことを拒まれませんでした。

 

そして、主イエスは、12弟子たちにお命じになりました。「子供たちを来させなさい」と。主イエスが、12弟子に命令された、ご自身の権威によって命じられた、マタイによる福音書は、この厳粛な事実の前にわたしたちを立たしめているのです。教会は、キリストの弟子として、キリストの御命令に聞き従わなければなりません。

 

弟子たちは、彼らなりに子供を連れて来た人々を叱る理由がありました。しかし、彼らはキリストの弟子として、キリストの御命令に何よりも従わなければなりません。

 

主イエスは、12弟子たちに命じられました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

 

主イエスが12弟子たちに、子供たちが主イエスのところに来るのを妨げるなとお命じになり、主イエスが弟子たちに教えられたことは、「天の国はこのような者たちのものである」ということでした。

 

「天の国」とは、神の御支配のことです。主イエスの父なる神が、御子である主イエス・キリストを人としてこの世に遣わされ、主イエスを通して神の祝福をお与えになる者とは、この幼子のような者たちであります。

 

主イエスが12弟子たちにお教えになったことは、こうです。弟子たちにとって幼子は、煩わしい存在でした。邪魔な存在でした。無価値で無益な存在でした。主イエスは、その幼子をご自身のところに招き、祝福されました。主イエスは、ただ子供たちを祝福してくださったのです。子供たちが主イエスの祝福にふさわしい者たちであったからでありません。主イエスは、無力で、価値無き子供たちを、何の理由もなく、条件も付けないで、祝福されたのです。そして、主イエスは弟子たちに宣言されたのです。「わたしを通して天の御国の住民となる者たちも、この子供たちのように彼自身は無価値で、無力であろう。しかし、わたしはわたしのところに来る彼らを、この幼子のように祝福するだろう。」

 

今朝も、主イエスはわたしたちに同じことを宣言してくださいます。主イエスは、わたしたちに「子供たちがわたしのところに来るのを妨げてはならない」と命じ、「天の国はこのような者たちのものである」とお語りくださいます。主イエスは、今も弟子たちにお語りなった約束を、変更しないでいてくださいます。

 

それゆえにわたしたちは、今ここにいるだけで、充分に主イエスの祝福に与っているのです。わたしたちは、こう思うかもしれません。「わたしは、毎週ここで御言葉を聞き、月に一度聖餐に与っているだけです。主のために何の奉仕もしていません。今では奉仕する力もありません。教会のために何の役にも立てなくなりました。老いて、体は動かなくなるばかりです。」

 

主イエスは、やさしく慰めの言葉を語られます。「天の国はこのような者たちのものである」と。わたしたちの体は、老いて生れた子供のようになるでしょう。寝たきりになるかもしれません。しかし、主イエスはわたしたちを祝福し、御国へと導いてくださいます。主イエスが主イエスを信じたわたしたちの頭に洗礼を授け、祝福してくださったことは、永遠に変わりません。

 

子供たちを祝福された主イエスは、その場を去られました。十字架の道を歩まれていたからです。お祈りします。

 

 主イエス・キリストの父なる神よ、主イエスの御言葉が永遠に変わるものでないことを感謝します。わたしたちは変わる者です。老いて行く者です。今日できることが明日はできなくなります。不安になります。主イエスは乳児や幼児を祝福してくださいました。最も無価値な者を祝福してくださいました。老いて何もできなくなるわたしたちを、主イエスは見捨てることなく、御国の民として永遠に祝福すると、今お約束してくださり感謝します。どうか残された日々を、幼子のようにただ主イエスに頼り、歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教 077       主の2012916

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読します聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

                    マタイによる福音書第191622

 

 

 

 説教題:「永遠の命を求めた青年」

 

 今朝は、主イエスと一人の富める青年の対話を通して永遠の命、神の御国に入る問題について共に考えてみましょう。

 

 マタイによる福音書は、わたしたちに20節でその一人の男を「青年」と伝え、22節でその青年が「たくさんの財産を持っていた」と伝えています。そして、青年の主イエスとの対話を通して、彼のユダヤ人としての敬虔さを伝えています。

 

「金持ちの青年」という見出しの下に他の福音書の共通の記事が紹介されていますね。ルカによる福音書1818節には、この金持ちの青年がサンヘドリン、すなわち、ユダヤの最高法院の議員であったと伝えています。

 

主イエスの前に現れた金持ちの青年は、若さもお金も名誉も、すべて持ち合わせています。そして、彼は、宗教的に敬虔な好男子です。彼はとても向上心のあるまじめな青年でもありました。

 

彼は、ラビ、ユダヤ教の先生にいつも質問をしているように、主イエスに質問をしました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいでしょうか。」

 

青年は、主イエスに「わたしの先生、永遠の命を得るためには何をなすべきですか」と尋ねました。

 

この青年を通して、わたしたちは主イエスの時代の敬虔なユダヤ人たちが何を熱心に願い求めていたかを学ぶことができます。それは、永遠の命を得ることです。

 

次にわたしたちは、敬虔なユダヤ人たちが求める永遠の命とは、神の御国に入ることであると教えられます。

 

敬虔なユダヤ人たちにとって、永遠の命とはメシア(救い主)の支配であり、それは祝福に満ちた来たるべき世に住むところでありました。

 

たとえば、主イエスは、弟子たちに永遠の命、天の御国を、こう教えられています。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネ141)と。永遠の命は、神とキリストを信じる者に天において備えられているイエス・キリストの父の家です。そこには、敬虔なユダヤ人たちが信仰の父として敬うアブラハムがいるのです(ルカ1622)。預言者ダニエルは、ダニエル書122節に復活を預言し、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り」と預言しています。敬虔なユダヤ人たちは、復活によって永遠の命に入ることを、この預言によって信じていました。そしてキリストの復活がこの預言を保証しています。

 

金持ちの青年は、主イエスに敬虔なユダヤ人の一人として、その永遠の命に入るために、どのような善き行いをすればよいのかと質問しました。

 

金持ちの青年にとって、永遠の命を得ることは神の御国に入ることであり、そのためには自分の善き行いを神に評価していただかなくてはなりませんでした。だから、青年は幼いころから二つの事を守ってきました。それは、律法の遵守と安息日礼拝の厳守です。ユダヤ教にとってこれらを守ることが、永遠の命を得ることでありました。

 

だから、青年は、主イエスに「あなたは大丈夫だ。善き行いに励んでいるのだから」と言ってもらいたかったでしょう。

 

ところが、主イエスは、青年のようにお考えになっておられませんでした。それゆえに主イエスは、青年の質問におかしな返答を返されました。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか」と。

 

主イエスは、金持ちの青年に「善いことについて、わざわざわたしのところに来て、尋ねる必要はないではないか」と答えておられるのです。それによって、主イエスはこの敬虔な青年の抱えている問題を明らかにされました。

 

続いて主イエスは、青年に「善い行いについて、質問したいならば、『善い方はおひとりである』」と言われました。これは、主なる神のことを、主イエスが遠まわしに言われています。主イエスは彼に「善い行いをして、永遠の命を得たいのであれば、わたしに聞くより主なる神に聞けばよい」と答えられました。

 

そして、続いて主イエスは、青年に「主なる神は、モーセを通して、旧約聖書を通して永遠の命を得たいのであれば、わたしの掟を守れと命じられているではないか」と答えられました。

 

このように主イエスは、金持ちの青年の質問に答えてはおられません。金持ちの青年は、主イエスに「永遠の命を得るためには、わたしはどんな善い行いをすべきでしょうか」と質問しました。主イエスは、青年に「主なる神に聞くとよい。主なる神は、永遠の命を得たいなら、わたしの戒めを守れと命じておられる」と答えられました。

 

わたしたちは、主イエスと青年のちぐはぐな対話から、次のことを教えられます。永遠の命は、わたしたちの質問に、わたしたちの善き行いにあるのではないという真実です。永遠の命は、いわゆるわたしたちの熱心な宗教的な求めの中に、あるいは道徳的な行いの中にはありません。神の御言葉の中にあるのです。

 

この青年は、決して特別ではありません。彼はわたしたちと同じ人間です。人はだれでも、永遠を求めて生きています。旧約聖書のコヘレトの言葉311節に「神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられた」とあります。

 

神は人に永遠を思う心を与えておられます。だから、人はだれでもその永遠の命を得たいと求めるのです。青年は、そのために自分はどんな善い行いをすべきかと尋ねました。主イエスは、その問いに今朝の御言葉によって答えられるのです。「善い行いについては、ただひとり、主なる神に聞きなさい。主なる神はあなたが永遠の命を得たいのであれば、わたしの掟を守れと命じておられる」と。

 

これは、神御自身がモーセを通して教えられた真理です。神の掟を守る者は、それによって生きることができます。

 

青年は、主イエスに、さらに尋ねました。「それは、どの掟ですか」。主なる神の掟はたくさんあるのです。

 

そこで主イエスは、青年に十戒の後半の5つの戒めを挙げられました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」と。そして、レビ記の1918節の主なる神の掟を付け加えて、「また、隣人を自分のように愛しなさい。」と言われました。

 

青年は、主イエスの答を聞いて、即座に答えました。「そういうことは、幼い時から皆守ってきました」と。そして、青年は主イエスに「まだ何か欠けているでしょうか」と尋ねました。

 

そこで主イエスは、金持ちの青年にとっては想定外のことをお命じになりました。そこで主イエスは、青年に「あなたは完全になりたいのですね」と問いかけられました。

 

実は、これこそ神に造られた人間が、アダム以来願ったことです。アダムは、主なる神のようになりたいと思い、主なる神が食べるなと命じられた善悪の木の実を食べてしまいました。自分も神のようになれると思ったからです。

 

それ以来、いつの時代にも人は、神のように完全になりたいと願い続けてきました。また主なる神も、指導者モーセを通してイスラエルの民に「あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない」と命じられています(申命記1813)。「全き者」とは完全な者です。

 

ユダヤ教は、基本的には行いの宗教です。たとえば根本的な神の戒め、すなわち、神の十戒や安息日律法等を遵守することが天国に入ることの条件と考えられていました。

 

しかし、青年はそれに満足できませんでした。その上を目指したのです。彼は、さらに神の御前に完全な者となりたかったのです。

 

主イエスは彼に「神の御前に完全な者となることを願うのか」と尋ねられました。そして、主イエスは彼に言われました。「そうであれば、あなたは自分の善き行いに頼るのではなく、わたしに従い、わたしに身に委ねる以外にありません」と。

 

なぜでしょうか。主なる神は、アダムが善き行いによって永遠の命に入ることに失敗して以来、わたしたちが善き行いによって永遠の命を得る道を閉ざしてしまわれたからです。それに代わってわたしたちが永遠の命を得て、完全な者となる道を、主イエス・キリストの御救いによって開いてくださいました。善き行いによってではなく、主イエスを、救い主と信じて、その信仰によって永遠の命を得る道を開いてくださったのです。わたしたちが永遠の命を得て、神の御前に完全な者となるには、主イエスの後に従う以外にありません。

 

だから、主イエスは、金持ちの青年に「すべての財産を売り払い、それを貧しい人々に施し、天に宝を積み、わたしに従いなさい」とお命じになりました。

 

主イエスは、青年に善き行いをお求めになられたのではありません。本当に神の御前に完全な者となり、永遠の命を得たいのであれば、すべてのものを捨てて、わたしのみを信じ、従えと言われているのです。それが、彼が願った永遠の命を得、神の御前に完全な者となる道であったからです。

 

ところが金持ちの青年は、主イエスのお言葉を、彼に主イエスが善き行いを御命じになられたと理解しました。彼には、すべてのものを捨てる決心はありませんでした。だから、彼は悲しみつつ、主イエスのもとを去る以外にありませんでした。

 

わたしは、この青年が悲しみつつ、主イエスのもとを去ったことに、一つの希望を見たいと思います。わたしは、この青年は後に信仰によって救われたのではないかと思うからです。彼は、救われた時に、教会の中で、彼の失敗を証ししたでしょう。彼は、自分の善き行いによって永遠の命を求めたが、主イエスに出会い、それは不可能であることを悟らされ、悲しい思いで主イエスを離れたことを、証ししたでしょう。しかし、彼は、後に弟子たちやエルサレム教会が主イエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝えるのを聞いたでしょう。そして、主イエスが彼に「わたしに従いなさい」と招いてくださった憐れみを思い起こし、主イエスを信じ、従ったのではないでしょうか。

 

わたしは、わたしを含めて誰もがこの青年の道を通して主イエスに出会うと思います。人はすべて、主なる神に造られ、永遠に憧れる心を与えられています。だから、人は熱心に宗教を求め、道徳的な善き行いに励むのです。

 

わたしたちは、誰でも主イエスに出会う前にこの青年のように自分の善き行いによって永遠の命を得ようと求めています。しかし、主イエスとの出会いによって、この青年のように自分の善き行いによって永遠の命を得る道は不可能であることを悟らされます。

 

主イエスは、今朝の御言葉を通して、わたしたちにもすべてを捨てて、わたしに従ってきなさいと招いてくださっています。それは、主の愛と憐れみなしにできることではありません。ただ、十字架と復活の主イエス・キリストを仰ごうではありませんか。主がただ恵みにより信仰によってわたしたちが主イエスの御後に従って行けるように。そこには、神の賜物として信仰と永遠の命の喜びがあります。お祈りします。

 

 神さま、金持ちの青年の失敗を通して、主イエスがわたしたちを永遠の命へとお招きくださる恵みに出会えて、感謝します。人は神さまのお造りになった者であり、永遠を思う心を与えられています。だから、人はだれでも熱心に宗教を求め、善き行いにより永遠の命を得たいと望んでいます。しかし、神さま、あなたはわたしたちの父として、御子主イエスを通して、わたしたちに十字架と復活の主イエスを信じる信仰以外に、わたしたちに永遠の命に入る道がないことをお教えくださり感謝します。ただあなたの恵みと憐れみにより主イエスを信じ、主イエスに頼り、御国への信仰の歩みをお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。