マタイによる福音書説教040         主の201187

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心をお開きください。御言葉を理解し、心に蓄え、それを行っていく決心をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

 

 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 

                     マタイによる福音書第1014

 

 

 

  説教題:「喜びを伝える」

 

 今朝は、マタイによる福音書第1014節の御言葉を学びましょう。

 

 今朝の御言葉は、主イエスのガリラヤ伝道の新しい広がりを述べています。10章は、57章の主イエスの山上の説教に続きます第2の主イエスの説教です。宣教派遣の説教と呼ばれています。主イエスは、多くの弟子たちの中から12弟子たちを召されました。福音の喜びを伝えるためです。

 

ガリラヤ伝道を、急ぐ必要がありました。人々が飼う者のいない羊のようになっていたからです。ガリラヤの地は、神から離れ、神の民たちが異邦人同様に生活していました。暗闇の地でした。罪と死が支配していました。主イエスは、多くの迷える羊たちに心を痛められました。

 

そこで主イエスは、12弟子を選ばれました。それによって、ガリラヤ伝道を、さらに広げようとされました。

 

12」という数字は、旧約聖書のイスラエルの12部族に関係します。それは、神の民のしるしでした。「12弟子」、「12使徒」は新しい神の民、新しいイスラエルを代表するものでした。

 

主イエスは、御自身が父なる神より授けられたメシアの権威を、12弟子、すなわち、12使徒に委託されました。それが「汚れた霊に対する権能」です。主イエスからその権能を授けられた12弟子、12使徒たちは、救い主、主イエスの御業を続けて行くのです。人々を教え、天国の福音を宣べ伝え、多くの病人をいやし、悪霊を追い出す奇跡を行いました。

 

主イエスが選ばれた12名の弟子、使徒たちの名簿があります。21組で、主イエスは伝道に遣わされます。

 

まず「ペトロ」と呼ばれるシモンと彼の兄弟アンデレです。ペトロは、初代教会の指導者の1人です。

 

次にゼベダイの子ヤコブと彼の兄弟ヨハネです。この4人は、主イエスが最初に弟子に召された者たちです。常に主イエスの身近で仕えました。

 

3組目はフィリポとバルトロマイです。この2人の弟子たちは友だち同士です。バルトロマイは、ヨハネ福音書にナタナエルという名で出て来ます。フィリポが彼を主イエスに導きました。

 

4組目はトマスと徴税人マタイです。トマスは、主イエスの復活を疑いました。彼はインドに伝道したと伝えられています。徴税人マタイは、この福音書の作者です。

 

5組目はアルファイの子ヤコブとタダイです。ゼベダイの子ヤコブが「大ヤコブ」と呼ばれたのに対して「小ヤコブ」と呼ばれました。彼の母はマリアと言い、最後まで主イエスに従った女性たちの1人です。タダイは、ルカ福音書と使徒言行録では「ヤコブの子ユダ」と呼ばれています。

 

6組目は、熱心党のシモンとイスカリオテのユダです。熱心党は、ユダヤ教の原理主義者で、現代のアルカイダのようなテロリストです。シモンは、ガリラヤ人で、その熱心党の一員でした。イスカリオテのユダだけが、12弟子の中でただ1人エルサレム出身です。主イエスを裏切ったという不名誉な烙印を押されています。

 

12弟子たち、この12使徒たちは、主イエスと同じ任務を与えられました。神の民を全世界から集めることです。その任務を果たすために、主イエスは御自身のメシアの権威を、彼らに託されました。

 

12弟子たちは、「使徒」と呼ばれています。「使徒」とは、使者、大使、遣わされた者という意味です。彼らは、主イエスに直接任命されました。彼らは、裏切り者のユダを除き、復活の証人として、福音宣教に携わりました。そして、主イエスは、彼らのキリストに対する信仰告白の上に教会を建てられました。そして、その教会が現在では12使徒に代わり、キリストの福音を全世界に宣教し、キリストの救いの働きを続けています。

 

マタイ福音書は、そうしたことを踏まえて、今朝の御言葉をわたしたちに伝えています。そして、マタイ福音書が、わたしたちに伝えたいことは、二つです。第1に主イエスに選び召された12弟子たちは、主イエスと同じことをするということです。それは、罪と死から人の命を救い出し、清めて神の御国の民として集めることです。

 

212弟子たちは多様な者が選び召されました。自信家であり、臆病なペトロ、疑い深いトマス、裏切り者のユダ、テロリストの熱心党のシモン、売国奴、非国民と呼ばれて軽蔑された徴税人マタイなどです。

 

マタイ福音書は、わたしたちにこの二つの事実から教会について次のことを教えています。教会は、キリストの救いの働きを継続しています。そして、主イエスは、教会を通して御自身の救いの働きを続けるために、12弟子たちのようにいろんな人種を、いろんな性格の持ち主を、様々な地位の者たちを、豊かな経歴の持ち主を、御自身の弟子として選び召し集められています。

 

主イエスは、今もわたしたちを御自身の弟子として呼び集めることを通して、御自身の救いの御業を行われています。わたしたちを、この教会に呼び集められ、「あなたの罪は赦されている」と、わたしたちに喜びを伝えてくださっています。そして、主イエスは、わたしたちにその喜びをさらに確かなものとするために、今朝、御言葉と共に聖餐にお招きくださいました。

 

だから、教会は、選び出された主イエスと一緒にいて、礼拝し、聖餐の恵みに与り、共に祈り、交わるだけで、本当は幸せな所ではないでしょうか。

 

望月明牧師のマタイ福音書の説教集を読みました。次のように語られていました。「十二人の選出の根拠は彼らの全ての弱さと罪とを負って十字架にかかるという主イエス・キリストの決意の中にあるのです」と。

 

わたしたちは、この喜びを聞くために、今朝この礼拝に主イエスによって集められました。そしてわたしたちは、自分の家族に、世の人々にこの喜びを伝えたいのです。

 

主イエスにこの教会に招かれ、毎週礼拝を共にし、一緒に聖餐式の恵みに与る中で、どうしてわたしは今ここにいるのだろう。そう思いませんか。そして、その答えこそは、主イエスのお言葉の中にあるのです。「わたしはあなたのために、十字架の道を歩み、あなたの罪の身代わりとなり、あなたに永遠の命を与え、あなたをわたしの御国の民とすると決意したのだ」。お祈りします。

 

       

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝の御言葉を通して、今わたしたちが兄弟姉妹と共にここにいることの喜びを教えられ感謝します。主イエスが、わたしたちをここに招き、御言葉と聖餐の恵みに与らせてくださり、あなたの永遠の御決意を教えていただき感謝します。既にあなたの永遠の決意の下で、わたしたちが共にこの礼拝に招かれ、罪を赦され、永遠の命の喜びに入れられたことを感謝します。この喜びを、人々に伝えるために、わたしたち一人一人をお用いください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教041         主の2011814

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「全能の神よ、あなたの真理の御言葉を正しく理解し、心から従うことができるよう、わたしたちにあなたの御霊をお与えください。あなたの掟を愛し、あなたからの約束を願い求めることができるよう、わたしたちの心を照らし、真理の御言葉に心を開かせてください。今、説教によって語られるあなたの知恵をよく理解できるように導いてください。わたしたちの主イエス・キリストをとおして祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

 

 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落しなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 

                     マタイによる福音書第10515

 

 

 

  説教題:「あなたに幸せを」

 

 今朝は、マタイによる福音書第10515節の御言葉を学びましょう。

 

 主イエスは、12弟子たちを伝道に遣わされました。彼らに御自分のお働きを続けさせるためです。

 

 主イエスのお働きとは、第1に「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えることでした。第2に主イエスは、告げられた神の国が来たことを証しされました。すなわち、病める者をいやされました。死んだ者を生き返らせられました。そして、悪霊につかれた者から悪霊を追い出されました。

 

 マタイ福音書がわたしたちに伝えていることは、こうです。主イエスのお働きを、12弟子、12使徒が続け、そして、今聖霊と御言葉を通して教会が続けていると。

 

 12弟子たちとわたしたちの教会とに違いがあります。同じ主イエスの救いの働きを続けていますが、伝道する相手が違います。

 

主イエスは、12弟子たちを遣わす時に、彼らに行き先をお命じになりました。「イスラエルの家の失われた羊たちのところへ行きなさい」と。

 

それだけでありません。主イエスは12弟子たちにはっきりと禁じられました。異邦人のところに行くな、サマリア人の町に入るなと。

 

どうしてでしょうか。当時の初代教会は、ユダヤ人のみに伝道しませんでした。ギリシア人たちに伝道しました。異邦人のところに行き、サマリア人の町に入り、伝道しました。だから、主イエスが異邦人とサマリア人を御自分の救いのお働きから外されているはずはありません。

 

これは、主イエスが救われる者たちを言われているのではありません。救われる順序を言われているのです。主イエスの救いのお働きは、まず「イスラエルの家の失われた羊」たちから始められるのです。

 

「イスラエルの家の失われた羊」とは、アブラハム、ダビデの子孫であるイスラエルの民です。主なる神は、アブラハムとダビデに「あなたの子孫から救い主が現れる」と約束されました。その後の多くの預言者たちが、メシアが来られ、イスラエルの民を救われ、その後に世界の民の救われることを預言しました。

 

主イエスは、その主なる神のお約束と預言者たちの預言に従って御自分の救いのお働きをなさっていました。そして、使徒言行録に証しされています初代教会と使徒パウロの伝道も同じでした。パウロは、町に入るとますユダヤ人たちに福音を伝えました。彼らが拒んだので、福音を異邦人たちに伝えました。

 

マタイ福音書は、わたしたちに教会について教え導くために書かれました。10章においては、教会の伝道について教えています。

 

教会の伝道は、まず主イエスが12弟子たちに主イエスのお働きを続けるように命じられたことに、始まりがあります。

 

12弟子たちは、主イエスに遣わされて何をするのでしょう。主イエスと同じことをするのです。「天の国は近づいた」と宣べ伝えます。そのしるしであるいやしの奇跡を行います。病人をいやし、死人を生き返らせ、悪霊につかれた者から悪霊を追い払います。主イエスは、12弟子たちに御言葉を語り、いやしを行う力を与えられました。

 

マタイ福音書はわたしたちに、わたしたちも伝道に遣わされていると教えています。ただし、わたしたちには、12弟子たちのように人をいやす力はありません。その代わり聖書が与えられています。聖書は神の権威ある御言葉です。わたしたちが人々に伝える聖書の御言葉には、「あなたを幸せにする」力があります。それは、罪を赦され、神との和解による永遠の命の喜びです。

 

わたしは、大学生のころに宝塚教会で毎週語られる説教によって救われました。キリストの十字架がわたしの罪の身代わりであり、キリストの復活がわたしの永遠の命の保証であると確信しました。

 

主イエスは、12弟子たちを伝道旅行に遣わされました。その時に「ただで受けたのだから、ただで与えよ」とお命じになりました。

 

福音は、神の恵みです。ただで受け取り、ただで与える。それが教会の伝道です。キリストの十字架と復活の出来事によって、わたしたちは神よりただで罪を赦されました。永遠の命を保証され、神の子とされました。

 

「ただで」という言葉は、言葉を変えると、キリストの十字架の大きな犠牲でという意味です。わたしを救うために、父なる神は御子キリストの命を犠牲にされました。そして、わたしが救われるまで、日本にキリスト教が伝えられ、わたしに伝えられるまで、主イエス同様に教会と多くのキリスト者たちが大きな犠牲をささげてきたのです。それが「ただで受けた」という意味です。だから、「ただで与える」とは、今度はわたしが大きな犠牲を払ってキリストの福音を伝えるという意味です。

 

次に主イエスは、12弟子たちに何も持って行くなとお命じになりました。

 

旅すれば、手荷物を入れる袋、旅行鞄が入ります。着替えの下着もいります。杖は、身を守るものです。旅は危険でした。使徒パウロは、その危険をこう告げています。「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上での難、偽兄弟たちからの難」(Ⅱコリント1126)と。その難から身を守るために、旅人は杖を持って行きました。

 

主イエスは、伝道のためにすべてを捨てなさい、貧しくなりなさいと命じられているのではありません。主イエスは、12弟子たちに伝道は神の御業ですから、神の摂理にすべてを委ねるように命じられたのです。

 

さらに主イエスは、12弟子に食べ物の心配をしないように命じられました。「働く者が食べ物を受けるのは当然である」と。使徒パウロが、次のように主イエスの言葉を伝えています。「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(Ⅰコリント914)。初代教会においては、信徒たちが伝道者を扶養する義務がありました。

 

主イエスは神に国の福音のためにのみ働き、自分の糧を得る暇がありませんでした。だから、主イエスが語られる福音の恵みに与る人々が暖かい気持ちで主イエスの日ごとの生活を支えるのは当然であり、伝道者としての喜びであると、主イエスは語られたのでしょう。

 

そして、主イエスは12弟子たちを「平和を運ぶ者」として遣わされました。

 

そこで、主イエスは12弟子たちが町に入り、村に入れば、彼らを喜んでくれる人を捜して、そこに留まるようにお勧めになりました。次に喜んで彼らを泊めてくれる家の者たちに「平和があるように」に挨拶するように命じられました。

 

12弟子たちが家の者に「平和があるように」と挨拶します。それは、主イエス御自身が挨拶されているのと同じです。つまり、弟子たちの平和の挨拶の言葉は、主イエス御自身の挨拶として、その家に平和が宣言され、事実その家はキリストによる平和が訪れます。それは、弟子たちがその家の者たちに願う罪の赦しと神との和解による永遠の命の喜びです。

 

そして、平和を告げる相手が、ふさわしくなければ、告げられた平和は弟子たちに返って来ると、主イエスは約束されました。

 

「ふさわしくない」とは、福音を拒むことです。福音を拒む者たちは、12弟子たちを喜んで迎え入れません。彼らは12弟子たちが語ります説教に聞き従いません。主イエスは、12弟子たちにその町と村を出る時に、「足の塵を払え」と命じられました。

 

キリストの福音を拒む所は、罪赦されない所です。神の御目に汚れた地です。12弟子たちの告げ知らせる福音を拒めば、足の塵を払われる汚れた者となるのです。そして、彼らに対する神の裁きは、ソドムやゴモラ以上に厳しいものとなると、主イエスは警告されています。

 

12弟子たちの伝道は、そして、教会の伝道は、福音を伝えることです。「あなたに幸いを」とキリストの十字架の復活の救いを伝えることです。その福音に聞き従う者には、罪の赦しと永遠の命の喜びがありますが、拒む者は神の裁きがあります。

 

使徒ペトロは、わたしたちに次のように告げています。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。」(Ⅰペトロ417)

 

マタイ福音書がわたしたちに伝えたいことは、神の裁きではありません。ただでわたしたちがキリストの福音に与っている喜びです。この礼拝にわたしたちが共にいる、この恵みのために、キリストはどんなに大きな犠牲を払われたでしょうか。神の十字架の愛を伝え、家族の平和のために、この町の人々の平和のために、わたしたちが祈ることが、今主イエスがわたしたちに求められていることです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝の御言葉を通して、教会の伝道について教えられ感謝します。主イエスは、12弟子たちと同じようにわたしたちをここに招き、御言葉の恵みに与らせてくださり、救いの喜びを家族や町の人々に伝えるように、わたしたちをお遣わしくださり感謝します。すべてを神の摂理に委ね、罪を赦され、永遠の命の喜びに入れられた恵みを、家族と人々に伝えさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教042         主の2011821

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「全能の神よ、あなたの真理の御言葉を正しく理解し、心から従うことができるよう、わたしたちにあなたの御霊をお与えください。あなたの掟を愛し、あなたからの約束を願い求めることができるよう、わたしたちの心を照らし、真理の御言葉に心を開かせてください。今、説教によって語られるあなたの知恵をよく理解できるように導いてください。わたしたちの主イエス・キリストをとおして祈ります。アーメン。」

 

 

 

 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町に逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

 

                      マタイによる福音書第101623

 

 

 

  説教題:「現実への正しい目と神への信頼」

 

 今朝は、マタイによる福音書第101623節の御言葉を学びましょう。

 

 主イエスは、12弟子たちを伝道に遣わされます。そこで主イエスは、彼らに最初に彼らの伝道の働きについて語られました。神の民イスラエルに神の国の福音を伝え、いやしを行うように命じられました。そして、主イエスは12弟子たちに実際にどのように伝道するかを教えられました。彼らを歓迎する町や村、そして家族には平和の挨拶をし、拒む町や村、そして家族に対しては、そこを出る時に足の埃を落とすように命じられました。

 

さて、今朝は、主イエスが弟子たちを派遣するためになさった第2の説教です。最初の説教の終わりに、主イエスは弟子たちに彼らを拒む町や村、そして家族がいることを語られました。12弟子たちの伝道に、苦しみがあり、拒む者がいることを明らかにされました。 

 

そこで主イエスは、弟子たちに迫害を予告されました。主イエスは、これからユダヤの指導者たちや民衆に拒まれ、異邦人に引き渡され、ローマ総督ポンテイオ・ピラトの裁判において死刑を宣告され、十字架への苦しみの道を歩まれます。主イエスは、弟子たちも同じ迫害に遭うことを預言されました。

 

弟子たちは主イエスと自分たちがユダヤ人や異邦人たちに迫害を受けると思ってもいませんでした。だから、主イエスは、弟子たちに16節の最初に「見よ」と言われました。わたしたちの聖書には訳されていません。ギリシャ語4文字の小さな言葉です。日本語にすれば「見よ」の2文字です。しかし、大切な言葉です。主イエスのお言葉を聞く者には驚くべきことだったからです。聞いても信じられないことでした。それは、今この主イエスの御言葉を聞いているわたしたちも同じです。

 

主イエスが弟子たちに言われたことは、こうです。「わたしはあなたがたを羊たちのように狼たちのただ中に遣わす」。羊たちは弟子たちです。狼たちはユダヤ人たちです。主イエスは、弟子たちにあなたがたをユダヤ人たちに向けて伝道に遣わすが、彼らは狼のようにあなたがたを迫害し、憎しみ、殺すだろうと語られました。

 

 そこで、主イエスは、弟子たちに迫害の具体的なことをお示しになり、「人々を警戒しなさい」と言われました。

 

1に弟子たちは、地方法院、すなわち、ユダヤ人の裁判所に引き渡されます。主イエスがユダヤ人の裁判に引き渡され、死刑判決を受けられたように、ユダヤ指導者たちに会堂で裁かれ、鞭打たれます。また、ローマ総督やユダヤ人の王、ローマ皇帝の前に引き出されます。異邦人たちの裁判所で国家を乱すものとして裁かれるのです。主イエスは、弟子たちにその裁判において「あなたがたはわたしを証しする」と預言されています。

 

主イエスの弟子たちへの迫害の予告は、使徒言行録に実現したことを証ししています。使徒ペトロとヨハネは、ユダヤの指導者たちに逮捕されました。裁判にかけられました。鞭打たれました。使徒パウロは、エルサレムにおいてユダヤの指導者に逮捕されました。ユダヤの最高法院において裁判にかけられました。さらにカイザリアに護送され、ローマ総督とアグリッパ王の前に引き出され、彼の信仰を弁明しました。そしてローマ皇帝の裁判を受けるためにローマに護送されました。

 

2に家族の迫害です。主イエスは言われます。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」(21)。聞いていて、驚きです。信じられません。兄弟と父子が密告し合ってまで、キリスト者を、教会をこの世から葬り去ろうとするのです。身内にキリスト者がいる、教会に行っている者がいると分かれば、その家と親族が滅ぼされます。だから兄弟と父と子はわが身を守るために、キリスト者の兄弟、父、子を密告するのです。このように教会とキリスト者は、人々に憎まれると、主イエスは予告されました。予告されるだけではありません。主イエス御自身も、「兄弟」と呼び合った親しい弟子、ユダに密告され、ユダヤ人の指導者たちに逮捕されました。

 

 マタイ福音書は、わたしたちに教会について教える書です。マタイ福音書は、使徒言行録の教会の時代に書かれました。だから、主イエスの予告のお言葉は、教会の現実となっていました。教会とキリスト者たちは、主イエスと同じようにユダヤ人たちと異邦人たちの迫害と憎しみの的になっていました。

 

だから、主イエスの迫害の予告だけでなく、それに対していかに備えるかを、主イエスのお言葉によってわたしたちに伝えています。

 

 教会とキリスト者は、羊たちです。主イエスが弟子たちを遣わされるのは、狼たちのただ中です。ユダヤ人たちの迫害と憎しみのただ中です。その中で弟子たちは、素手で伝道するのです。主イエスのように御言葉だけで伝道するのです。迫害を受け、人から暴力を加えられても、身を守る武器はありません。

 

そこでマタイ福音書は、わたしたちに次のように主イエスの御言葉に従うように勧めています。

 

「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。それは、主イエスの伝道方法でした。主イエスは、非暴力、無抵抗を貫き、現実を正しく見て、知恵と御言葉によって伝道されました。しかも純粋に父なる神に信頼し、十字架の死に至るまで御自身の命を粗末にしないように歩まれました。同じことを、主イエスは12弟子たちにお求めです。

 

旧約聖書の創世記第3章にアダムとエバを罪に誘惑した蛇が登場しますね。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」(創世記31)と記しています。主イエスの「蛇のように賢く」という言葉は、「賢いのは蛇であった」と同じ言葉です。蛇は、よく現実を見て、アダムとエバに暴力を用いないで、知恵と言葉だけで彼らに罪を唆しました。

 

主イエスは「鳩のように素直であれ」とお命じになりました。正確に言えば「鳩のように無垢であれ」です。主イエスは、ただ「素直」なお方ではありません。素直は、態度や性格がひねくれていないという意味です。人に逆らわないことです。飾らず、ありのままということです。主イエスは、弟子たちにそんな人間であれとおっしゃったのでしょうか。

 

主イエスは、弟子たちに「鳩のように無垢に生きなさい」と命じられました。聖書は鳩を家鳩と山鳩に分けています。ユダヤでは、産後の女性が汚れをきよめる全焼のいけにえとして小羊1頭と罪のためのいけにえとして鳩を、祭司のところに持って行きました。貧しい者は、鳩だけを持って行きました。

 

鳩は主なる神への犠牲としてささげられました。主イエスは、御自身を鳩のように犠牲として十字架の道を歩まれました。ただ父なる神のみを信頼されてです。主イエスは、弟子たちに神に対して無垢に生きなさいと命じられました。

 

マタイ福音書は、わたしたちに主イエスのお言葉によって、次のように教えています。現実に対して正しい目を持ちなさい。そして、蛇のように賢く生きなさい。素手で知恵を働かせ、言葉によって生きなさい。そして、鳩が神に犠牲としてささげられるように、あなたを神のみささげなさい。神を信頼して、信仰一筋に生きなさいと。キリスト者は、知恵を働かせ、賢く生きることが、主イエスを信じる信仰一筋に結び付くように、というのが、マタイ福音書の、わたしたちへの教えです。

 

マタイ福音書がわたしたちに教える第2のことは、証しです。わたしたちの今の状況とは違い、マタイ福音書の時代の教会とキリスト者は、迫害の中にありました。教会に行っている、キリスト者であるというだけで、大人も子供も捕らえられ、牢に入れられました。そして、ローマ帝国のネロ皇帝は、民衆を喜ばせるために、キリスト者たちに獣の皮を着せて、競技場のライオンの群れの中に放り込みました。

 

想像してみてください。自分たちが迫害を受けたらと。国家が教会を迫害し、わたしたちを捕らえたら、どうすべきでしょうか。日本にも為政者がキリシタンを迫害し、国家が迫害する時代がありました。戦前のキリスト者たちの中には、特高警察に捕まり、「キリストは天皇も罪人として裁くのか」と質問されました。迫害を受けるキリスト者は、キリストを証ししなければなりません。戦前の日本には、天皇に対する不敬罪という重い罪がありました。わたしたちの先輩たちは、そのような厳しい中でキリストを証しすることが求められました。

 

マタイ福音書は、迫害の中で証しを求められるわたしたちに、慰めを語ります。「何を言おうかと、心配するな」と。キリスト者は、迫害の中にあっても、神の摂理の中にあります。キリストの支配の中にあります。必ずわたしたちが証しが求められる時に、主イエスは弟子たちに、そして、わたしたちに聖霊を通して証しの言葉を教えてくださいます。

 

さらにマタイ福音書は、わたしたちに素晴らしい主イエスの約束の御言葉を語っています。「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と。わたしたちが12弟子たちのように、自分の信仰を証言するときに、それを通して聖霊が神の御意志を語られることになると。わたしたちの証しは、神の御口となる光栄を担っているのだと、マタイ福音書は主イエスの約束の御言葉を通して教えています。

 

マタイ福音書がわたしたちに教える第3は、どんなに迫害を受けても、最後まで耐え忍び、一つの町で迫害をうければ、他の町へと逃げなさいということです。主イエスは、12弟子たちに迫害に対する終わりの希望を語られました。主イエスは、御自身の再臨を語り、最後まで耐え忍んで、信仰を持ち続けるように励まされました。

 

マタイ福音書は、わたしたちに迫害の中でも最後まで耐え忍んで、信仰を守り、迫害を受ければ他の町に逃げて、伝道を継続するように教えています。

 

キリストの教会は、礼拝を続け、伝道を継続することで、この世に存在し続けています。キリスト者も同じです。礼拝を続け、人々にキリストを証しし続けることで、この世にキリスト者として存在し続けています。

 

実際に使徒言行録の初代教会とキリスト者たちの伝道を見ますと、キリスト教会はエルサレムにおいてユダヤ人たちから迫害を受けました。エルサレム教会のキリスト者たちは、エルサレムの町から逃げて、ユダヤ、サマリア、シリアへと逃げて行きました。そして異邦人たちに伝道しました。使徒パウロも、フィリピの町で迫害を受けると、テサロニケの町に行き、伝道しました。テサロニケの町のユダヤ人たちに迫害を受けると、ペレアの町に逃れて伝道しました。こうしてエルサレムからヨーロッパのギリシャにキリスト教会は広がりました。

 

マタイ福音書は、わたしたちを励まします。あなたがたは、12弟子たちと同じようにこの世では苦しみがあり、迫害は避けられません。主イエスと同じ苦しみを担っていることを常に覚えてください。しかし、主イエスは再臨されます。最後まで耐え忍び、キリストを証しし続けたあなたがたを、主イエスは天の御国に迎え入れてくださいます。その日まで礼拝(証し)と伝道を休むことなく続けようではありませんかと。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝の御言葉を通して、この教会において礼拝と伝道を続けることの励ましと喜びを教えられ感謝します。

 

主イエスが預言され、マタイの福音書の時代が受けていた迫害はありません。信仰の自由があることを感謝します。

 

しかし、異教の習慣と偶像と世俗化の中でわたしたちはキリストを証しすることを求められています。わたしたちが正しく現実を見て、知恵を働かせ、主イエスに服従し、信仰一筋に生きることができるようにお導きください。自分たちの苦しみを、キリストを証しする機会にさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。