マタイによる福音書説教098       主の201355

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしは命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、今朝の御言葉を理解し、信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」

 

 「その苦難の日々の後、たちまち

 

 太陽は暗くなり、

 

月は光を放たず、

 

星は空から落ち、

 

天体は揺り動かされる。

 

そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 

                  マタイによる福音書第242344

 

 

 

 説教題:「キリストの再臨」

 

 マタイによる福音書は、わたしたちに今一番教会が何に関心を寄せているかを伝えています。この世の終わりとキリストの再臨がいつか、これがキリスト教会の一番の関心事です。そこで主イエスは、12弟子たちにキリストの再臨について教えてくださいました。

 

 第1に、偽メシアと偽預言者たちに惑わされないことです。主イエスは、12弟子たちに彼らを信じるなと、強く警告されています。2328節です。偽メシアと偽預言者たちは、人々やキリスト者たちの注意を、イエス・キリストに向けないで、自分に向けようとし、奇跡によってキリスト者たちの目を惑わせようとします。主イエスは、弟子たちに彼らを信じるなと警告されました。

 

 キリストの再臨は、「ここにいる」、「あそこにいる」と言う必要はありません。主イエスの時代、ユダヤ人たちは、メシアがモーセのように荒れ野に現れるという言い伝えを信じていました。だから、偽預言者たちが、メシアが荒れ野に現れたとデマを言えば、容易に騙されたのです。

 

また「奥の部屋にいる」とは、建物の中にある金庫室にいるという意味です。ユダヤの金持ちたちは、建物の奥まった安全なところにお金や貴重品を保管する部屋を作りました。そこにメシアがいると、偽預言者が惑わしたのです。主イエスは、弟子たちに2度信じるなと警告されています。再臨の主イエスは、一部の者しか知られないような形では来られないからです。

 

 ですから、主イエスは、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」(27)と言われました。稲妻が起これば、一瞬に誰の目にもそれが稲妻であると分かるように、キリストが再臨されれば、万人がそれを認めるのです。

 

 主イエスは、「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」と言われていますね。主イエスの時代の諺です。その意味はこうです。キリストの再臨の時は、すべての人がこれを見落とすことはありません。空のはげ鷹が死んだ獲物を見落とさないで、そこに引き寄せられるように、万人が再臨のキリストに引き寄せられるのです。

 

 第2に苦難の日の後に、キリストの再臨のしるしが天に啓示されます。キリストの再臨は審判を伴い、天使たちは神の民を全世界から集めます。

 

 主イエスは、苦難の日を、天体の異変として語られます(29)。キリストの再臨は、審判を伴うので、地上のすべての民族に絶望の悲しみが起こります。預言者ダニエルが預言しましたように主イエスが、天の雲に乗られて再臨されるのを、万人が見ます。そして、再臨のキリストは万人を裁かれます。

 

次に大きなラッパを合図に、再臨のキリストは天使を遣わして、全世界から神の選びの民を集められます。

 

 主イエスは、キリストの再臨によって審判と神の選びの民を集めることを教えられました。

 

 第3に、キリストの再臨の時を教えられました。主イエスは、いちじくの木とノアの洪水のたとえを用いて、いつキリストの再臨が来るかを教えることよりも、キリストの再臨に備えて、弟子たちが終末に向けてどのように信仰に生きるかを教えられています。

 

 いちじくの木は、ユダヤ人にとって大切な果物です。いちじくの木が枝を柔らかくし、葉が伸びるとおいしいいちじくの実をつけます。夏ごろにいちじくの実を収穫します。それは、喜びの時です。

 

 その喜びを、主イエスは神の御支配の到来の喜びとして教えられています。キリストの再臨よって神の御支配がわたしたちのところに到来し、わたしたちは神の祝福の喜びの中に永遠に生かされます。

 

 主イエスは、弟子たちに夏にいちじくの実を食べる喜びを味わうように、常にキリストの再臨に向けて、神の御支配の喜びの中に自分たちが入ることを心に留めるように教えられました。

 

 そして、主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちの教会にはっきりと約束してくださいました。キリストが再臨され、わたしたちが神の御支配の到来によって、喜びの中に入れられるまで、この世は決して滅びないと。神の創造された天地は滅びても、主イエスの約束の御言葉は滅びることはありません。

 

 ですから、キリスト者と教会は、主イエスの約束のお言葉を信じて、主イエスの再臨を待ち望みつつ、日々を生きることを求められています。

 

 キリストの再臨は、わたしたちの一番の関心事ですが、父なる神のみの秘密であります。 キリストの再臨がいつであるか、教会もキリスト者たちも、知ることは不可能であり、知る必要もありません。

 

 教会とキリスト者たちに必要なことは、ノアの忠実さです。ノアは、洪水が来ることを知らされました。彼は、それがいつかを問題にしませんでした。その日に備えて、神の御言葉に従い、箱舟を造りました。

 

 しかし、人々は洪水を信じませんでした。彼らは、洪水よりも飲み食いを優先して生きました。子々孫々栄えることを信じて、洪水の時まで嫁を取り、婿を迎え、この世にのみ心を向けて生きました。

 

 そして、洪水の時は訪れました。その日までノアの時代の人々は、何も気づかなかったと、イエスさまは言われています。ノアは、神の御言葉に従い、ノアの箱舟を造り、十分備えていたので、洪水が来ても助かりました。

 

 主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちにノアを信仰の模範とするように教えておられます。洪水が救われるノアと滅びる人々を分けたように、この世の終わりにキリストが再臨される時に、救われる者と滅びる者に分かたれます。キリスト者もこの世の人々も、同じように生活しています。農業に従事し、田畑を耕している時に、主イエスが再臨されます。神に選ばれた者は救われ、そうでない者は滅びの中に置かれます。主婦をしているキリスト者とそうでない者がいます。主イエスが再臨されます。主婦をしているキリスト者は、救いへと引き上げられ、そうでない女性は滅びの中に置かれます。

 

 主イエスは弟子たちに言われます。誰でも、今夜泥棒が家に入って来ると知っていれば、夜目を覚まして、泥棒が壁に穴を開けて入って来ないように防ぎ、家財を守るだろう。それと同じだ。いつ主が再臨されても良いように、目覚めていなさいと。主イエスは突然再臨されるからだ。

 

 主イエスは、わたしたちにノアのように教会という箱舟を作るようにお命じです。そこに入る者だけが、主イエスが再臨されたときに救われます。

 

 また主が再臨される日までこの世の人々と共に平和に過ごすように、主イエスは弟子たちにお勧めです。宗教改革者ルターは、明日主が来られるとしても、わたしは今日リンゴの木を植えると言ったと伝えられています。

 

神さまは、わたしたちキリスト者に二つの命令をされました。それは、伝道と労働です。宣教命令と文化命令と呼ばれています。キリストを伝えることと地を耕すこと、「産めよ、増やせ」と命じられました。

 

 主イエスの再臨に備えるキリスト者の生活は、急ぎつつ、待ち望む生活です。わたしたちは、キリストの再臨がすぐに来ないと思っていないでしょうか。自分たちが死ぬまでは、キリストは再臨されないだろうと思っていないでしょうか。それに対する主イエスの警告です。常に今主が来られると、心を備えて生きるように、突然に主が再臨されても良いように、備えなさいと。お祈りします。

 

 

 

 御在天の父なる神よ、わたしたは、いつ主イエスが再び来られるか、その時を教えられておりません。しかし、常に備えているように、今朝の御言葉を通して勧められています。主イエスの御言葉に信頼し、主が来られる時、この世の終わりに備え、同時に主がお命じになった伝道と文化命令を果たしつつ、信仰生活を励むことができるようにお導きください。どうか御国が到来するまでこの地上におけるわたしたちの教会をお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教099       主の2013512

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしは命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、今朝の御言葉を理解し、信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

                  マタイによる福音書第244551

 

 

 

 説教題:「忠実なしもべと悪いしもべ」

 

 主イエスは、御自身の再臨とこの世の終わりのしるしについて尋ねた12弟子たちに終末への心備えをさせるために、7つのたとえをお話しになりました。

 

 第1のたとえは、いちじくの木のたとえです。主イエスは12弟子たちに神の国の支配が間近に迫っている喜びを教えられました。第2のたとえは、ノアの洪水のたとえです。ノアは、主なる神の御言葉を信じて、洪水の時に備えました。しかし、ノアの時代の人々は準備を怠りました。洪水の時が来るまで気づかずにいたのです。備えたノアは救われ、怠った人々は滅びました。第3のたとえは、夜侵入する盗人のたとえです。盗人がある夜突然に家に侵入するように、この世の終わりも突然に来るのです。ですから、主イエスは12弟子たちに目を覚まして、常にこの世の終わりに備えているように教えられました。

 

 さて、今朝お読みした御言葉は、主イエスが12弟子たちにこの世の終わりに心備えするように教えられた第4のたとえです。賢い忠実なしもべと悪いしもべのたとえです。

 

 しもべとは、主人に仕える奴隷です。主人は主なる神です。主人の家は、この世です。わたしたちの世界であり、社会です。主なる神は、この世界に、わたしたちの社会にある者を高い地位にお就けになりました。たとえば、この世の王たちや政治家たち、地位の高い官僚たちです。

 

 彼らの務めは、主人の家の奴隷たち、すなわち、民衆や国民たちに食事を与えることです。ですから、この世の王たちや政治家たち、官僚たちは、民衆や国民の上に立つ神のしもべたちです。彼らは、主人である主なる神から民衆や国民を治める権力を与えられています。しかし、主人である神が人の上に立つしもべに願われていることは、彼らが権力を振い、民衆や国民を虐げ、自分の思い通りにすることではありません。彼らが民衆や国民に「時間どおりに食事を与える」こと、すなわち、民衆や国民が日々の糧を得て、安心して生きることができるようにすることです。賢い忠実なしもべとは、人の上に立ち、同じ神のしもべたちに仕える者です。

 

 ある意味でわたしたちの世界は、主人が旅して留守であります。主人にこの世界の支配を委ねられたしもべたちが治めています。

 

留守をしている主人は、必ず帰って来ます。そして、主人が帰って来た時、主人が命じた通りに仕えている賢い忠実なしもべは幸せです。なぜなら、主人は、その賢い忠実なしもべたちに、彼の全財産を必ず管理させると約束しているからです。

 

 ところが、悪いしもべがいます。彼は主人が帰って来るのが遅いと思っています。そこで主人から委ねられた地位を悪用するのです。主なる神がそのしもべをこの世の王とし、政治家とし、官僚とされたのです。しかし、彼は主人を無視して、主人から与えられたその特権をかさに着て、同じ神のしもべである、すなわち、仲間である民衆と国民を虐げるのです。彼は、民衆や国民に日々の糧を与え、安心した生活を保証し、彼らに仕えようとはしません。むしろ、今日のわたしたちに当てはめて言えば、政治家や官僚たちが福祉を削り、大企業の減税を行い、リベートを得て、贅沢な生活をするのです。彼らは、ノアの時代の人々と同じです。キリストの再臨が来るまで飲み食いし、己が欲望を神とし、この世の終わりが来るのに気付きません。

 

 主イエスは、言われます。「もしそうなら、その僕の主人は予想もしない日、思いがけない日に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせると」。

 

 主イエスのお話は、この世の終わりに備えない者への警告です。わたしたちは皆、主なる神に創造され、神のしもべとして、この世においてそれぞれ委ねられた仕事を持っています。主イエスは、12弟子たちにこの世の終わりに備えて、自分たちに与えられた日々の務めを賢く忠実に果たすように、お命じになられました。

 

 そこから、この世の終わり、主イエスが再臨される時が、単にこの世が終わる時ではないと、わたしたちは知るのです。わたしたちは皆、神のしもべとして主人である神さまから自分たちの仕事を委ねられています。創造主なる神は、人を男と女に創造された時に、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」「地を耕かせ」とお命じになりました。

 

キリストの再臨の時、この世の終わりの時に、主なる神が人に委ねられた召しを賢く忠実に、主が命じられたとおりにわたしたちがしたかを見られるのです。そして、わたしたちがこの世において行ったすべてのことを、主人が彼の忠実で、賢いしもべをほめて、彼の全財産を管理させるように、主なる神は忠実で、賢いしもべをほめて、御国の管理者としてくださるのです。それをもってわたしたちのこの世における務めが完成されるのです。

 

 ウィリアム・バークレーという聖書学者は、「イエス・キリストが来られるとき、われわれが励んでいるべき務めとは、日ごとの務めである」と言っています。

 

主イエスのお話は、人の上に立つしもべのお話です。しかし、このお話を聞きますわたしたちに無関係な話ではありません。わたしたちの日々の務めが、どんなに些細なことであっても、やがてキリストが再臨された時に、それを賢く忠実にしているしもべを見て、主イエスは「良い忠実なしもべよ、おまえは小さなことにも忠実であったので、わたしと共に御国を相続しなさい」とお誉めくださり、神の御国のキリストの共同の相続人、管理者としてくださるのです。

 

 教会は、常にこの世の終わりを前にして存在しています。キリストの再臨に信仰の目を向けて。キリスト者であるわたしたちは、この世の終わりの時、キリストの再臨の時に向けてどのように生きるべきかを問われております。

 

わたしには、主イエスが、今朝の二人のしもべのたとえを通して、わたしたちに次のように教えてくださった御声に耳を傾けたいと思います。「わたしが来た時、あなたはわたしのしもべとして、わたしがあなたに託された召しを、忠実に賢く果たし、教会において互いに兄弟を愛し、励まし、貧しい人々を助けたか」と。

 

 最後に忠実なしもべの賢さとは、頭、知識のことではありません。時を判断し、備えることができる能力です。それは、聖霊のお助けなしに与えられません。わたしがどんなに主の御声を聞いたと思っても、聖霊がわたしをお助けくださり、主の御声に従えるようにしてくださらなければ、わたしは、今の時を判断し、この世の終わりに備えることはできません。ですから、信仰によって今の時を判断し、主がいつ来られても良いように、日ごろから自分に与えられた召しに、日々の務めに賢く忠実に励むことができる能力をお与えくださいと、祈り続けたいと思います。お祈りします。

 

             

 

 御在天の父なる神よ、主イエスが来られた時、賢く忠実なしもべは幸いであります。どうか聖霊なる神さま、わたしたちに今の時を判断し、主イエスが来られる時に、常に備え、日々与えられた自分の務めを忠実に果たさせてください。主が来られた時、わたしたちを見て、「賢い忠実なしもべよ」と言っていただけるように、お導きください。キリストの共同の相続人として、御国の管理者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教100       主の2013年6月9日

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしは命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、今朝の御言葉を理解し、信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは。それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後でほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください。』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない。』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 

                  マタイによる福音書第25113

 

 

 

 説教題:「天の国の到来に備える」

 

 今朝は、「天の国のたとえ」と言われていますが、主イエスが再臨される日のお話です。それが、ユダヤの結婚式にたとえられています。ある人の結婚式があり、10人のおとめたちが花婿を迎える役目を与えられました。

 

 ユダヤの結婚式は夜行われました。家族、親族、友人、近隣の人々に、大勢で祝っていただくためです。

 

 花婿を迎える10人のおとめたちは、花婿の父の家で迎える準備をしていたでしょう。花婿は、花嫁を迎えるために花嫁の家に行きました。恐らく盛大な行列つくって、花婿は花嫁を迎えに行ったでしょう。

 

ところが、予定の時刻を過ぎても、花婿は彼の父の家に到着しませんでした。それで花婿を迎える10人のおとめたちは、眠り込んでしまいました。

 

 さて、10人のおとめは、5人が愚かで、5人が賢かったと、主イエスは話されています。「愚か」とか、「賢い」と聞けば、わたしたちは、すぐに「頭がよい」、「頭が悪い」と思ってしまいます。

 

 そういうことではありません。すぐ後に主イエスは、次のように話されています。愚かなおとめたちは、ともし火を持っていたが、油を用意していませんでした。ところが賢いおとめたちは、ともし火を持ち、さらに壺に油を入れて、一緒に持ってきていました。愚かと賢いとの比較で、主イエスが注目されたのは、あたまではなく、備えです。

 

 ともし火は、たいまつのことです。10人のおとめたちは、たいまつを持ち、夜になると、花婿と花嫁を迎えるために、たいまつに火をつけて、待ちました。ところが予定の時刻を大幅に過ぎてしまいました。そして、10人のおとめたちは眠ってしまったのです。

 

 真夜中に突然に「花婿だ。出迎えなさい」という大きな声が聞こえて来ました。10人のおとめたちは皆、目覚めました。そしてともし火を持ちました。

 

 ところが、愚かな5人のおとめたちは、自分たちが手に持つともし火が消えかかることに気づきました。そこで賢い5人のおとめたちに、油を分けてくださいとお願いしました。

 

 しかし、賢い5人のおとめたちが持つともし火も、おそらく消えかけていたはずです。自分たちも用意した油を使わなくてはなりません。そこで彼女たちは、油を用意してこなかったおとめたちに「分けてあげるほどはありません。それより店へ行って、自分の分を買って来なさい」と助言しました。

 

 油の用意を忘れたおとめたちは、花婿の父の家を出て、町に行き、油を買い求めました。その間に花婿と花嫁は到着し、花婿の父の家に入りました。そして、結婚式が始まりました。油を用意していたおとめたちは、ともし火を持ち、花婿と花嫁を出迎え、結婚式の部屋へと導いたでしょう。

 

 町に油を買いに行ったおとめたちが、花婿の父の家に戻ってみると、家の門の戸は閉められていました。

 

 おとめたちは、大声で「ご主人様、ご主人様、開けてください」とお願いしました。その声に花婿は、きっぱりと答えました。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と。

 

 主イエスの御自身の再臨のお話は、神の審判のお話でもあります。10人のおとめは、教会の信者たちであります。教会は、礼拝において主の祈りや使徒信条の信仰告白を通して、教会の祈りを通して、説教を通して、聖餐を通して、キリストが再び来てくださるのを待ち続けています。

 

 今朝のお話でキリストは何を求めておられるのでしょう。キリストは、教会に、そして、わたしたちキリスト者に「わたしは来る」と約束してくださっています。その約束に、わたしたちは、どのように備えて信仰生活をしているのでしょうか。

 

 要するにわたしたちのスケジュールに「人の子が来られる」ということを計算に入れているでしょうか。カレンダーに、手帳に、パソコンのスケジュール表に、いつでもキリストが来られたら、という用意がありますか。

 

 イエスさまのお言葉です。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 

 「目を覚ましていなさい」とは、眠ってはいけませんという意味ではありません。賢いおとめたちも眠りました。わたしたちの肉体は弱いのです。

 

では、わたしたちがこの教会において、礼拝において、あるいは、個人礼拝や家庭礼拝において、日々の生活において「目を覚まして」できることは何でしょうか。それは、ただ一つです。十字架の主イエス・キリストに目を注ぐことです。

 

その時に、わたしたちが目を覚まして、常に十字架のキリストに目を注ぐために、必要なお方に気づかされます。

 

それは、聖霊です。キリスト者は洗礼において聖霊をいただきます。聖霊こそわたしたちを、常に目覚めさせて、わたしたちの目をキリストに向けてくださるお方です。聖霊は、教会とわたしたちを、そして礼拝を清めてくださいます。今わたしたちが礼拝をしている時、聖霊はわたしたちの心を照らして、キリストをわたしの救い主と受け入れさせ、神の御前に聖なる生活へと導いてくださいます。聖霊が、わたしたちの生活のスケジュールの中にいつでも主イエスが来られてよいように、わたしたちの信仰生活を整えてくださいます。何よりも聖霊は、わたしたちが何を祈ればよいのか分からない時に、祈る言葉をお与えくださり、祈りを通してわたしたちを再びキリストが来られる日に備えるように準備させてくださいます。

 

わたしたちは、今朝の主イエスのお言葉から礼拝において常に聖霊の導きによって再臨のキリストに備えることの大切さを教えられます。礼拝を通して、祈りを通して、聖霊の導きを受ける準備を怠ると、閉め出されたおとめたちと同じように、わたしたちは主イエスが来られた時に、わたしたちが「主よ、主よ」と叫んでも、主イエスは「わたしはあなたを知らない」と言われるのです。礼拝を通して、聖霊の導きに与ることの大切さを学び続けたいと思います。

 

 

 

 御在天の父なる神よ、主イエスが花婿を迎える10人のおとめのお話をされたのを学びました。いつ主が来られるか、わたしたちは知らされていません。常に目をさまして、キリストの十字架を見続けて、主の再臨に備えるために、どうかわたしたちが聖霊の導きを大切にすることができるようにしてください。わたしたちの日常生活は、スケジュールを立てて、営んでいます。スケジュールの中にキリストの来られる日を、常に意識させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。