マタイによる福音書説教016           主の2010103

 

 

 

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

 

あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 

                      マタイによる福音書第53337

 

 

 

 説教題:「赦しと憐れみの報い」

 

今朝は、マタイによる福音書第53841節の御言葉を学びましょう。

 

 主イエスの教えの出だしは、同じです。ここでも主イエスは、弟子たちに、そして、主イエスと弟子たちを取り囲む群衆たちに、そして、ここにいますわたしたちにも、38節の冒頭に「あなたがたも聞いているとおり」とお話になります。文字どおりには「あなたがたは聞いた」です。モーセの律法に、先祖たちの教えに、そして、旧約聖書の御言葉に、主イエスの弟子たち、群衆たち、そして、わたしたちも聞き従ってきました。そのことを、まず主イエスは、確かめるように言われています。 

 

主イエスは、続いてここでは「昔の人は」と言われずに、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」と言われていますね。これは、シナイ山で主なる神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた御命令だからですね。 

 

主イエスは、旧約聖書の出エジプト記とレビ記と申命記に主なる神がモーセに命令された御言葉を用いられました。出エジプト記212325節です(旧約聖書P129)。「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」レビ記2420節の御言葉です(旧約聖書P202)。「目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」申命記1921節の御言葉です(旧約聖書P311)。「命には命、手には手、足には足を報いねばならない。」。

 

主なる神は、モーセを通してイスラエルの民たちに行きすぎた復讐・報復を禁じられました。「同害報復法」と言います。「目には目を」とは、加害者も被害者も同じ痛みを受けることを定めたものでした。この主なる神は、この御命令によって、イスラエルの民が隣人に対して無制限に復讐し報復することを禁じられました。

 

しかし、今のわたしたちには、「目には目を」というこの御言葉で思い起こすのは、仕返しです。例えばイスラエルと中近東諸国の戦争です。イスラエルとパレスチナの紛争です。テロとその報復です。仕返しをする、この暴力がさらに大きな仕返しを生み出し、仕返しを仕返し、大きな悲しみを生んでいます。こうした仕返しの悲劇の源が「目には目を」という言葉であります。

 

しかし、主イエスは、主なる神が昔モーセを通してイスラエルの民に命じられたこの戒めが、誤って用いられている現実を、むしろ国家や隣人への復讐の道具に用いられている現実を批判し、報復と復讐を、仕返しを否定されました。

 

39節の冒頭に主イエスは、「しかし、わたしは言っておく」と、次のようにお命じになりました。主イエスは弟子たちに、民衆に、そしてわたしたちに権威を持って、命じられました。「悪人に手向かってはならない」と。被害を受けても、一切報復と復讐を、仕返しを捨てるようにお命じになりました。

 

さらに積極的に主イエスは、弟子たちや群衆に、そして、わたしたちに加害者に対して寛容を持って赦しと憐れみを施すようにお命じになりました。

 

悪人に手向かわないことは、悪人の言いなりになることではありません。主イエスは、悪人に対して無抵抗をお命じになっていません。悪人に復讐することを、報復することを、暴力を持って仕返しすることを否定されています。

 

また、主イエスは、「悪に手向かうな」とはお命じになってはいません。悪に無抵抗になることを、悪を許すことを、主イエスはお命じになってはいません。主イエスは、悪を行うことと暴力を認められていません。

 

むしろ、主イエスは、十字架の死に至るまで、悪と罪に対して戦われました。しかし、主イエスは悪人に対して自らが復讐されませんでした。すべてを父なる神に委ねられました。さらに十字架の上で、主イエスは悪人たちのために父なる神に罪の赦しを執り成されました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ2324、新約聖書P158)

 

この主イエスの寛容と憐れみにより、わたしたち罪人は罪の赦しの恵みにあずかりました。その恵みにあずかる弟子たちに、わたしたちキリスト者たちに、主イエスは「悪人に手向かうな」とお命じになりました。

 

この世は、罪の世界です。その世界に生きる限り、わたしたちは悪人の存在を避けられません。悪人たちの暴力と権力の乱用を避けられません。

 

そこで主エスは、弟子たち、群衆、そして、わたしたちに「悪人に手向かわない」4つの事例を示されます。

 

第一が39節後半です。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」。主イエスは、悪人に無抵抗になれとお命じになったのではありません。無暴力主義を訴えられたのでもありません。

 

「右の頬を手で打つ」ことは、左利きの人ではない限り、平手で打つことはできません。手の甲で打つのです。主イエスの時代に手の甲で相手の頬を打つことは、これ以上ないほど人を辱めることでした。辱められたユダヤ人たちは、心に憎しみを抱き、相手に報復する、復讐する、仕返しをしました。主イエスは、それを否定されて、「左の頬を向けなさい」と、すなわち、悪人に寛容を示すようにお命じになりました。

 

 お命じになるだけではありません。主イエスは、十字架の死に至るまで、悪人に手向かうことはありませんでした。悪人たちが主イエスを裁判にかけました。そして、彼らは主イエスの顔につばを吐きかけ、主イエスを手の甲で打ち、主イエスを辱めました(マタイ2667)。しかし、主イエスは彼らに仕返し、復讐することをお捨てになりました。

 

 第2の事例は、40節です。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」

 

「あなたを訴えて」と、主イエスが言われているように、法廷で訴えられた出来事です。相手が裁判に訴えて、下着を取ろうとしたなら、上着をも与えよと、主イエスはお命じになりました。下着は、ジャケットのことです。上着とは、長い外套のことです。貧しいユダヤ人は、この上着を毛布代わりにしました。主なる神は、モーセを通してイスラエルの民に上着を取り上げても、日没までに返すようにお命じになりました。

 

裁判に訴えて、下着を取ろうとした相手は、どんなことをしても賠償の一部を取ろうと争っているのです。

 

その者に律法が守ってくれている上着をも与えよ、と主はお命じになりました。それは、人と争う裁判に関わるなという意味でしょう。それよりも律法で守られている自分の権利を捨て、上着を与え、相手と和解しなさいと、主イエスはお命じになりました。

 

主イエスご自身は、裁判に訴えられ、命を求められました。そして、十字架にかけられ、その足元でローマの兵士たちがくじで主イエスの着物を取り合いました。しかし、主イエスは、裁判で一言も争われませんでした。すべてを父なる神の御守りに委ねられました。

 

そして、訴えた者たちを、父なる神に「彼らの罪を赦したまえ」と執り成されました。

 

3の事例は、41節です。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」

 

「ミリオン」は、「千」という数字です。1ミリオンは、1.5キロあります。ローマ軍が、ユダヤ人たちに無理矢理仕事をさせて、荷物を担がせて歩かせました。例えば、キレネ人シモンは、ゴルゴタの丘までローマの兵士たちに無理矢理主イエスの十字架を担わされ、歩かされました。

 

ただ強制的に荷物を担わされて歩かされただけではありません。ローマの兵士たちは、ユダヤ人たちを辱めて鞭打ち、こき使いました。その辱めを2倍受けてでも、復讐し仕返しをしてはならないと、主イエスはお命じになりました。

 

実際に主イエス自身が、十字架を担い、ローマの兵士たちに鞭打たれて、ゴルゴタの丘に行くように、強制されました。しかし、主イエスは、ローマの兵士たちを憎むことなく、復讐することなく、彼らを憐れみ、彼らの罪の赦しを十字架の上で執り成されました。

 

4の事例が42節です。「あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 

この事例は、先の3つの事例と違います。主イエスは、自分の権利を捨てることをお勧めになりました。相手が求めるものを自分のものだと主張して、拒んではならないということです。主イエスがお求めのものは、憐れみだと思います。物を借りようとする貧しい者への同情こそ悪人に手向かうことなく、悪に打ち勝つ道となり、キリストの十字架の愛につながるのではないでしょうか。

 

 使徒パウロがローマの信徒への手紙121920節に、次のように勧めています(新約聖書P292)。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」』と主は言われる。と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」

 

 主イエスは、昔弟子たちに語られただけでありません。主イエスは、今、この礼拝においてわたしたちと共にいて、今朝の御言葉をわたしたちにもお命じになりました。わたしたちの教会も、今「悪人に手向かうな」、悪人に復讐し仕返しをしてはならないと、復活の主イエスによって命じられています。

 

 その命令で、今わたしたちの教会に求められているのは、第一に隣人への寛容さです。教会とわたしたちに常に寛容さがあることです。教会の中でも外でも、人との関係においてわたしたちは蔑まれ、辱められることがあるでしょう。争いに巻き込まれることもあります。相手を憎むこともあるでしょう。その時に主イエスが、辱められても、復讐しないで、寛容をお示しになりましたように、わたしたちに寛容を示すように勧められています。

 

 教会は、赦しと憐れみの場であります。教会に、礼拝に、キリストがわたしたちと共にいてくださる、インマヌエル。「主、われらと共にいます。」そこには、罪の赦しと神の憐れみがあります。

 

 主イエスは、十字架の死に至るまで寛容を示され、そして、十字架の上でご自身を侮辱したすべての者のために父なる神に罪の赦しを執り成し、ご自身に敵対する者たちに神の憐れみをお示しになりました。

 

 わたしたちの教会が、この世の人々に伝えるのは、このキリストの救いです。キリストによる神の憐れみと十字架の罪の赦しの喜びです。今からこの喜びを、聖霊は説教の御言葉と共に、聖餐の恵みを通して、わたしたちに味わわせてくださいます。どうか、今ここで復活の主イエスが招かれる天国の前味を、喜びを味わってください。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちに寛容の心を与えてください。悪人に手向かうことなく、主イエスの十字架の罪の赦しと神の憐れみの中に生かしてください。御言葉と共に、聖餐の恵みを通して、聖霊によりこの教会がキリストの体であり、主の聖なる交わりであり、ここに罪の赦し、復活、永遠の命があることを確信させてください。その喜びに促されて一週間を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教017           主の20101017

 

 

 

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

 

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

                      マタイによる福音書第54348

 

 

 

 説教題:「『完全な者となる』ことの意味」

 

今朝は、マタイによる福音書第54348節の御言葉を学びましょう。

 

 主イエスは、弟子たちに「敵を愛しなさい」とお命じになりました。「迫害する者のために祈りなさい」とお命じになりました。そして、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とお命じになりました。

 

そして、今、ここに集まっていますわたしたちにも、復活の主イエスは、弟子たちと同じことをお命じになっているのです。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(4344)

 

ある牧師は、律法学者たちやファリサイ派の人々、すなわち、人々を宗教に導く者たちが「隣人を愛し、敵を憎め」と教えていたと言っています。ユダヤ人たちにとって隣人は、ユダヤ教を信じるユダヤ人に限られていました。ユダヤ人以外は、皆異邦人であり、神に見捨てられた人々であり、神の敵ですから、憎めと教えていたと、考えられてきました。

 

確かに旧約聖書に主なる神が、指導者モーセを通して「隣人を愛しなさい」とお命じになっています。レビ記1918節です(旧約聖書P192)。しかし、「敵を憎め」という主なる神の御命令は、旧約聖書の中にありません。また、ラビ、律法学者やユダヤ教の文献の中にも「隣人を愛し、敵を憎め」という文章が見つかりません。

 

「隣人を愛し、敵を憎め」とは、同じユダヤ人同士、主なる神を信じている者同士は隣人として愛し合う。しかし、異邦人、主なる神に見捨てられた者たち、迫害する者やユダヤを占領しているローマ人たちは敵として憎む。そのような主イエスの時代のユダヤの国の人々の思いを、主イエスは知っておられました。

 

主イエスは、弟子たちに「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と命じられました。この主イエスの御命令は、この世の人々の思いに、この世の常識に合いません。しかし、主イエスの御命令は、父なる神の御心には合うのです。

 

 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という主イエスの御命令は、この世と人々の思いに合いません。わたしたちの住むこの世は、敵を愛することは不可能です。迫害する者のために祈ることは不可能です。この世と人々はそれほど寛容ではありません。少なくても、親切にしてくれる者には親切にし、挨拶してくれる者には挨拶をする、助けてくれる者は助け、助けてくれない者を助ける必要はないと考えています。家族は愛するけれども、他人を見たら泥棒と思え、これが世と人々の普通の思いです。

 

しかし、主イエスは、今朝のお言葉によって、この世に、聖霊という石を放り込まれました。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。これは、この世と世の人々には、思い浮かびません。本当にこの世では受け入れられない命令です。

 

「家族や信頼できる者を愛し、敵を憎め」と命令する方が、今の世と人々の思いに合い、この世に生きるための賢い知恵ではないでしょうか。

 

しかし、主イエスは、世と人々には愚かに思える「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とお命じになりました。

 

そして、45節に主イエスがこう言われています。「あなたがたの天の父の子となるためである。」と。

 

主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちに、「今わたしの御言葉を聞き従うあなたがたは聖霊によって神の子となる」と宣言されました。

 

主イエスは、神の御心と合わないこの世と人々の中に、聖霊によって神の子を生みだされているのです。その神の子らによって主イエスは神の国を建て始められました。

 

ですから、聖霊によって天の父なる神の子とされた者たちは、主イエスと同じように天の父なる神の御心に合うようになるのです。

 

主イエスと同じように天の父なる神の御心を知るようになります。それが45節の後半です。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」

 

主イエスは、父なる神の愛を教えられました。神の愛は神の民とキリスト者に限られていないと言われました。むしろ神に敵対している者、神に背を向けている者を、父なる神は太陽と恵みの雨によって養い、愛されています。主イエスは父なる神の愛に制限がないことを教えておられます。

 

しかし、父なる神の無限の愛を知ることができるのは、キリストの十字架を通して示された神の愛を知る神の子たちだけでありますね。

 

だから、主イエスは、弟子たちやわたしたちに46節と47節にこう言われています。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」

 

これは、わたしたちの愛の行いを、主イエスが批判されているのではありません。主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちにこう言われているのです。「もしわたしが同国のユダヤ人だけを愛したら、異邦人であるあなたがたに何の報いがあるでしょうか。神に見捨てられた者も、家族は愛するでしょう。異邦人も家族知人には挨拶するでしょう。そのようにわたしがユダヤ人たちのためだけに十字架の愛を制限すれば、異邦人であり、神に見捨てられていたあなたがたは、父なる神の子となれず、神の祝福の報いを得られないでしょう。」

 

その通りです。主イエスが父なる神の一人子なる神として、全く父なる神の心に従順に従われ、父の愛と心を一つにし、すべての罪人を愛して、十字架の上に死なれました。その無限の愛によって、わたしたち異邦人は罪を赦され、神の子とされました。

 

主イエスは彼を十字架につけた敵たちのために、主を迫害する者、憎む者のために、十字架の上で罪の執り成しの祈りをされました。この主の祈りの上に、わたしたちの教会は立っているのです。教会、神の子たちは、父なる神が御子キリストの十字架の血の贖いによって御自分のものとされたのです。

 

主イエスは、その教会に、わたしたち神の子に次のように命じています。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と。

 

この「完全」という言葉は、欠けた部分が無くて全部そろっている、抜けていないという意味です。これは、人間には無理です。神にのみ可能なことです。主イエスは、わたしたちに不可能を命令されたのでしょうか。

 

よく考えてください。マタイによる福音書の主題は何でしょうか。それは、一言でいえば、教会とは何かです。教会は、インマヌエル、主わたしたちと共にいます。そのキリストの臨在なさるところに、わたしたちが呼び集められるところです。そして、聖霊を通して、罪人、不完全な者が完全なお方である父なる神にキリストの執り成しを通して近づくことが許されているのです。

 

旧約聖書は、この完全な者を次のように表現しました。毎月第1週と第3週に旧約聖書を2章ずつ学んでいます。今列王記上の書物を学んでいます。ソロモン王が主なる神に背向いて偶像礼拝の罪を犯し、その罪によってダビデ王国は二つに分裂したところを学びました。列王記上113節に、ソロモン王の罪がこう言われています。「こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主とは一つではなかった」(旧約聖書P548)

 

ソロモン王は心が「自分の神、主とは一つではなかった」ので、完全ではない者と、旧約聖書は言っているのです。

 

神と神の子の関係は、太陽と月の関係です。月はそれ自身で光ることはできません。太陽の光を反射しています。同様に、神の子であるわたしたちも、自分自身では欠けた者です。しかし、聖霊を通して、わたしたちはキリストを信じる信仰によって、キリストと合わされ、自分たちの神、主と心を一つにされているのです。だから、欠け多いわたしたちが、完全な欠けの無いキリストに服従して歩めるようにされています。

 

使徒言行録の使徒ステファノを思い起こしてください。彼は、ユダヤ人たちに逮捕され、迫害され、憎しみによって人々に石を投げられて殺されました。その時に彼は、天にいます復活の主イエスに心を向けて、主と一つに結ばれて、主が命じられた通りに敵を愛して、迫害する者のために祈り、十字架の主が迫害する者の罪を父なる神に執り成されたように、主イエスに執り成しました(新約聖書:使徒言行録75660P227)

 

敵を愛し、迫害する者のために祈ることは、わたしたちがステファノのように十字架のキリストに一つに結ばれた神の子であることを、この世の人々に証しすることであります。

 

この教会を通して、十字架のキリストとの交わりに生き、敵を愛し、迫害する者ために祈る、そのことを、今も復活の主イエスはわたしたちにお求めになられているのです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、主は今朝、わたしたちに敵を愛し、迫害する者のために祈れとお命じになり、わたしたちを天の父なる神の子たちにすると約束されました。どうか、聖霊を通して、わたしたちに信仰を与え、キリストと一つに結びあわされて、常にわたしたちの心が主の心と一つに結びあわされ、完全な者としてキリストに服従して歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。