マタイによる福音書説教034             主の201158

 

 

 

 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒瀆している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

 

                     マタイによる福音書第918

 

 

 

  説教題:「罪を赦す主イエス」

 

 マタイ福音書が常に関心があるのは、主イエス・キリストへの信仰です。マタイ福音書は、主イエスが主なる神であり、教会の救い主であり、神の子であるという信仰から、主イエスがガリラヤで諸々の奇跡を行われたことを物語っています。

 

 それが今朝の御言葉です。主イエスと弟子たちは、舟に乗り、異邦人の地ガダラからガリラヤのカファルナウムの町に戻りました。その町は、主イエスがガリラヤ伝道の基地にされた町であり、主のイエスの第2の故郷でした。

 

 主イエスは、その町で中風の人を癒す奇跡を行われました。今朝の御言葉を読み返してみてください。

 

マタイ福音書は、主イエスの奇跡によって癒された中風の人にまるで関心がないかのように記していますね。マタイ福音書の関心は、第一に中風の人を連れて来た者たちの「信仰」です。主イエス御自身が彼らの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪はゆるされている」と告げられました。第二にマタイ福音書は、主イエスの奇跡より、奇跡を行う主イエスに、主なる神と同じ罪を赦す権威があることを証ししています。

 

マタイ福音書は、奇跡を行われる主イエス・キリストに対して、「主イエスは主なる神である」と信じる教会の救いを、主なる神と同様に主イエスに人の罪を赦す権威があることを証ししています。そしてその喜びを、マタイ福音書はわたしたちに伝えたいのです。

 

さて、主イエスがカファルナウムの町に帰られました。そのニュースは、すぐに広まりました。主イエスならこの中風の者を癒してくださると信じた人々が、床に載せて中風の人を主イエスのところに連れて来ました。

 

マタイ福音書は、主イエスのところに大勢の群衆たちがいて、中風の人を家に運び入れられなかったこと、それで家の屋根をはがして中風の人を主イエスの前につりおろしたことを省いています。そして、主イエスが中風の人の罪を赦されたことを記しています。わたしたちに、主イエスが罪を赦す権威を持たれるお方だという、この一点に心を留めさせるためです。

 

主イエスの時代のユダヤ人たちは、健康は神の祝福であり、病気は神に犯した罪の刑罰と考えていました。ですから、病人は罪人であり、そのままでは神に近付くことはできませんでした。

 

主イエスは、中風の人を運んで来た人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と宣言されました。

 

「その人たちの信仰」とは、単純に主イエスなら彼を癒されるという信頼だったでしょう。それを、マタイ福音書は教会の信仰と理解したでしょう。「その人たち」とは、マタイ福音書にとっては「教会」です。教会は、「イエスをメシア」と信じていました。教会の救い主イエスは、仲間の中風の人を癒してくださると信じていました。

 

教会の信仰は、イエスは主なりという信仰であります。その信仰と同時に、主イエスの救いに誰もがあずかり、共に主イエスを礼拝し、教会の交わりに入って欲しいという祈りが、教会にありますね。

 

マタイ福音書は、復活の主イエスが教会の信仰を見て、聖霊を通して救いの働きを続けられていると信じています。だから、人々が主イエスのところに中風の人を運び込むという文章は、過去だけでなく、今も教会の中に病人が運び込まれ続けているという意味です。そして、復活の主イエスは、聖霊と御言葉を通してマタイ福音書の教会の中で、この中風の人と同様に「子よ、しっかりしなさい。主なる神であるわたしは、あなたの罪を赦している」と宣言されていたのです。

 

驚くべきは、主イエスの罪の赦しの宣言です。主イエスは、中風の人に「罪を赦される」と、御言葉によって宣言されました。

 

旧約聖書に罪の赦しの手続きが記されています。人は罪によって身を汚すと、罪を赦されて、再び神との交わりを回復するに、相当の日数を要しました。軽い物でも夕暮れまで赦されませんでした。日数だけでありません。神殿の祭司に体を診せなければなりません。そして、「あなたは清くなった」と宣言を受け、その後に神殿で神に犠牲をささげ、はじめてその者は罪の赦しを受けました。

 

主イエスは、中風の人を癒される前に、その人を「子よ」、「神の子よ」と呼びかけ、「元気を出しなさい」「しっかりしなさい」と励まし、「主なる神はあなたの罪を赦されています」と宣言されました。

 

そばに神の律法の専門家であります律法学者たちがいました。彼らは心の中で主イエスを非難しました。「人に罪の赦しを宣言しているこの男は、神を冒瀆する者である」と。

 

ヨハネによる福音書の1033節に、ユダヤ人が主イエスに石を投げつけて殺そうとした理由が述べられています。「あなたは、人間なのに自分を神としているからだ」と。人の罪を赦すことがおできになるのは、主なる神だけです。「今ナザレのイエスは、人間なのに人の罪を赦すと宣言し、自分を主なる神にしている。彼は、神を冒涜する者だ。」これが律法学者たちの心の中の思いでした。

 

マタイ福音書は、律法学者たちの心の中の非難を、主イエスが彼らの心を見抜かれたことによって、退けています。旧約聖書において主なる神御自身が、預言者サムエルにこう言われました。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上167)と。

 

マタイ福音書は、主イエスが主なる神であるので、人の心を御覧になり、律法学者たちの非難を知っておられたことを伝えています。

 

主イエスは、律法学者たちに問いかけられました。「罪が赦される」と宣言するのと、「起きなさい。そして歩き回れ」と命令すると、どちらが易しいかと。それは、「起きなさい。そして歩き回りなさい」です。

 

中風の人の罪こそが病の原因です。そして、その罪を人は、赦すことができません。主なる神のみが人の罪を赦すことがお出来になります。

 

そして、今罪を赦す権威ある主なる神がナザレのイエスとなられ、中風の人の罪をお赦しくださいました。マタイ福音書は、わたしたちに「教会には罪を赦す権威のある主イエスが今おられ、罪の赦しの恵みの現実がある」ことを伝えています。そして、主イエスの罪の赦しの宣言によって、中風の人の病の源の罪が取り去られ、彼は病の癒しの喜びを体験したのです。

 

それは、主イエス御自身が罪の赦しの権威を持っていることを、律法学者たちやそこに集まっている群衆たちにお示しになる出来事でした。律法学者たちや集まりました群衆たちに、主イエスはこの地上において人の罪を赦す権威があることを知らせるために、中風の人を癒されました。「立って、歩き、床を取り上げて自分の家に帰りなさい」とお命じになりました。中風の人は、主イエスの御言葉通りにしました。

 

律法学者たちは反論できませんでした。彼らは、神を冒瀆する主イエスに癒しの奇跡はできないと思っていました。主イエスは、中風の人を癒され、御自身が人の罪を赦す権威を持つことを証明されました。

 

8節の御言葉は、主イエスの罪の赦しの宣言と癒しの奇跡を目撃した群衆の信仰体験であり、マタイ福音書の教会の信仰体験を同時に反映しています。

 

父なる神と復活の主イエスは、聖霊を通してこの地上の教会、信仰共同体に、それは「人間」です。人間の集まりです。しかし、教会に罪の赦しの権威を委ねられました。復活の主イエスは、11人の弟子たちに聖霊を与え、彼らが赦す罪を、天の父なる神も赦してくださると約束してくださいました。

 

わたしたちも、この教会においてこの罪の赦しの恵みにあずかりました。わたしたちは、中風の人と同様に教会の伝道集会、キリスト者の友人、宣教師や牧師たちに誘われて教会に来、礼拝をしました。そして、何も知らないのに、復活の主イエスは教会の信仰を見て、わたしたちに罪の赦しを宣言してくださいました。礼拝の中で使徒信条が唱えられ、一緒にわたしも求道者の時に唱えていました。そして、今から思いますと、わたしは教会の信仰によって、兄弟姉妹たちが主イエスはわたしを救ってくださるという信頼と祈りに支えられ、聖霊と礼拝の説教の御言葉を通して主イエスへの信仰と罪の赦しを知りました。

 

主イエスが人の罪を赦す権威をお持ちの主なる神であるなら、キリストの体なる教会は主イエスの罪の赦しの現実であります。キリストの教会に復活の主イエスが臨在されます。主の日の礼拝は主イエスの罪の赦しと永遠の命の恵みの現実です。その喜びを、礼拝のクライマックスとして聖餐式があらわします。

 

復活の主イエス・キリストは、人の罪を赦し、人に永遠の命を与える権威のあるお方として、聖餐式の主人として恵みと喜びの食卓にわたしたちとわたしたちの子たち、そして、求道の方々をお招きくださっています。食事に与るのは、信仰を告白した者のみです。与る者はこの食事に共に参加している子供たちや求道者たち、そして、家族や町の人々に与って欲しいと祈っています。中風の者の罪を赦された主イエスの憐れみを信じています。そして、聖霊を通して復活の主イエスは、わたしたちの目にその救いを見せくださいます。それが、罪を赦され、キリスト者となったわたしたちです。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、罪の赦しの権威を持つ復活の主イエス・キリストが、今わたしたちと共にいてくださり、今朝の御言葉を通して、わたしたちの信仰を励まし、「わたしはあなたの罪を赦している」と宣言してくださり、感謝します。キリストの体なる教会が主イエスの罪の赦しの恵みの現実であることを、世の人々に知らせることができるようにお導きください。わたしたちのように、主イエスが「あなたの罪は赦されている」と宣言される者の恵みを多く見させてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教035          主の2011522

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心を開き、あなたの御言葉を読み、取り次ぐ者を清め、あなたの御心をはっきりと宣べ伝えることができるようにしてください。わたしたちにあなたの御言葉をください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられるときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

                     マタイによる福音書第9913

 

 

 

  説教題:「罪人を招く主イエス」

 

 主イエスの12弟子の一人、マタイが自ら主イエスに弟子に召された驚くべき出来事を証ししています。

 

 主イエスは、カファルナウムのある家で、中風の者を癒す奇跡を行われました。そして、その家を去り、ガリラヤ湖の湖岸通りを歩かれていました。

 

 マタイによる福音書の99節をお読みします。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」

 

 主イエスは、今ガリラヤ湖の湖岸の道を前に向かって進まれています。その通りに収税所がありました。そこに座っている一人の人を、主イエスは主なる神が天と地を創造される前に見ておられました。その人が、今収税所に座っています。マタイと言われています。そして、主イエスは、マタイに今言われます。「わたしに今従いなさい」と。

 

 主イエスにとってマタイを弟子に召されることは、今の出来事でした。マタイにとっては、主イエスの弟子に召されたのは、過去の出来事でした。マタイ福音書は、このように主イエスの行動を、今現在の主イエスの振る舞いとして描いています。そして、マタイの行動を、過去の出来事として描いています。

 

 不思議な文ですね。それには理由があります。主イエスは復活されました。マタイ福音書の教会は、主イエス今生きて働かれていることを信じています。だから、主イエスが弟子を召される行為は、常に今の行為です。弟子であるマタイが証しするのは過去の出来事です。

 

 わたしたちも同じです。主イエスは、わたしに、37年前大学生であったわたしに、聖霊と御言葉を通して今わたしに従えと召されました。わたしも、中風の者やマタイのように洗礼の時に主イエスより「あなたの罪は赦される」と告げられ、「わたしに今従え」と命じられました。わたしは、自分の罪の生活から立ち上がり、37年間主イエスに従い、キリスト者の生活に導かれています。教会の中で主イエスは、聖霊と御言葉を通して常に今わたしたちに働かれています。だから、マタイ福音書が主イエスのマタイを弟子として召されたように、わたしたちをキリスト者として召されるという出来事が起こっているのです。

 

 主イエスがわたしたちを弟子に、キリスト者に召すという出来事は、主イエスがわたしたちの罪を赦すということを通して起こります。だから、主イエスがマタイを弟子に召すという物語は、中風の者を、主イエスが罪を赦し、癒された奇跡の後にあるのです。

 

中風の者とマタイが同じ行動を取っていることに注目して下さい。中風の者とマタイは、共に罪に座している者でした。罪の生活の中にいる者でした。主イエスが彼らに「あなたの罪は赦される」と宣言し、二人を罪の生活の中から立ち上がらせて、主イエスに従う生活へと引き上げてくださったのです。それが、教会におけるわたしたちの礼拝生活です。

 

マタイが主イエスの弟子であり、わたしたちがキリストに属するキリスト者であり、今わたしたちがここで礼拝生活をしている、この事実こそ主イエスが主なる神として振る舞い、「わたしはあなたの罪を赦す。罪の生活から立ち上がり、わたしの弟子として、わたしに従う新しい生活をせよ」とお命じになったからです。

 

そして、その教会は、驚くべき所でした。10節から11節の御言葉をお読みします。「イエスがその家で食事をしておられるときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」

 

マタイ福音書は、「次のような出来事が起きた」と証ししています。それは、ある家に主イエスが弟子たちを食事にお招きになり、驚くべき出来事が起こりました。主イエスの時代のユダヤ人たちには信じられないことが起こりました。

 

マタイ福音書は、「イエスがその家で食事をしておられたときのことである」という文に続いて、「そして、見よ」という言葉をはさみ、「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスと弟子たちと同席した」と記しています。

 

主イエスが弟子たちを食事に招かれた席に、大勢の徴税人や罪人たちも同席し、主イエスと共に食事をするという驚くべき出来事が起こったのです。

 

ファリサイ派の人々とは、神の律法をとてもきっちりと守る者です。自らを神の御前に清く保つために、一切の汚れと縁を切った人々です。ですから律法を守らない、律法にだらしない罪人たちとは間違っても一緒に食事をしませんでした。

 

他方マタイたち徴税人は罪人です。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに代わり通行人たちから通行税を取り立てていました。徴税人たちは、人をだまして高い税金を取り、私腹を肥やしていました。また、異邦人のヘロデやローマに仕えるユダヤの国の裏切り者でした。だから、ファリサイ派の人々は徴税人たちを神に返済できない罪を犯しており、悔改めることはできない穢れた者と差別しました。

 

また「罪人」と呼ばれている人々もいました。律法を守ることのできない売春婦、盗人、ならず者たちです。ファリサイ派の人々から見れば、汚れただらしない罪人たちと、主イエスは弟子たちと共に食事をされ、彼らとお交わりになりました。

 

ユダヤ人にとって食事は、神礼拝でした。主なる神が与えてくださる食物を神への感謝と賛美のうちに聖別して食べました。ユダヤ人たちは、主イエスと弟子たちが宗教的に汚れた徴税人や罪人たちと共に食事をするのを見て、とても驚きました。

 

マタイ福音書は、11節のファリサイ派の人々が主イエスの弟子たちに非難したことを証ししています。そして、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に今食事をしているのか」と、ファリサイ派の人々の非難を現在形で表しています。そして、「と言った」と記していますね。今も彼らの非難がマタイ福音書の教会で続いていると証ししています。マタイ福音書は、わたしたちに次のように伝えています。ファリサイ派の人々は主イエスが罪人と共に食事をすることを非難しただけでなく、ユダヤ教は1世紀のキリスト教会が罪人(異邦人たち)と一緒に食事をし、交わっていることを非難し続けていると。

 

マタイ福音書は、わたしたちにキリスト教会を次のように証ししています。教会は、キリストが弟子たちを食事に招き招かれるところです。それが礼拝です。その席に大勢の徴税人や罪人、異邦人たちが同席し、一緒に食事をするように、復活の主イエスは招待されています。

 

最後にマタイ福音書は、この驚くべき出来事がどうして教会に起こったのか、主イエスのお言葉によって証ししています。1213節をお読みします。

 

「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」

 

主イエスのお言葉は、主イエスが主なる神であると宣言しておられるのです。主イエスは、罪を癒す主なる神です。ファリサイ派の人々は、徴税人や罪人を穢れていると差別しましたが、彼らが罪に滅びる悲惨さを診察し、癒すことができませんでした。

 

主イエスは、徴税人や罪人と共に食事をし、彼らの友となられました。そして、友のために命を捨てられました。彼らの罪という病気は、永遠の滅びに至るものです。だから、主イエスは、彼らの罪を癒すために、御自身を十字架にわたされました。

 

主イエスは、言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と。招くとは、天国の晩餐会に罪人たちを招待するという意味です。教会の礼拝は、主イエスが罪人たちを天国の祝宴の食事に招待される出来事だと、マタイ福音書はわたしたちに喜びを告げています。

 

その理由を、主イエス御自身が、次のように言われています。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」

 

主イエスは、旧約の預言者ホセアの言葉を引用されました。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではない。神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア書66)

 

マタイ福音書は、わたしたたちに主イエスこそホセアの預言を実現された方であり、律法の実現する者であると証ししています。ファリサイ派の人々が重んじた律法は、神への愛と隣人への愛を教えています。ホセアが語りますように、愛と神を知ること、これが律法の奥義でしょう。それは、人の子としてこの世に来られたキリストによって実現されたのです。

 

ファリサイ派の人々が、律法の本質を学べば、主イエスが徴税人のマタイの罪を赦し、弟子とし、徴税人たちや罪人たちを弟子たちと共に食事に招待したことが、メシアとしての、主なる神の愛、憐れみの行為であることを理解できたはずです。

 

キリスト教会の中で食事をすること、礼拝における聖餐式、愛餐会は、主イエスと弟子たちの食事です。マタイ福音書は、教会の食事はホセア書66節の預言者ホセアの預言の実現であると証ししています。神の御意志がそこにおいて行われる終末の神礼拝であると。そして、主イエスは、今わたしたちを礼拝における聖餐式に、そして、今日の愛餐会にわたしたちを招待してくださっています。主イエスは、マタイや徴税人たちと共にわたしたちも招待してくださいます。なぜなら、主イエスはわたしたちの魂の医者です。罪に滅ぶわたしたちのために十字架に死に、わたしたちに永遠の命を与え、天国の祝宴の食事にわたしたちを招待するために死人の中から復活し、今もわたしたちを招かれているのです。お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、主イエスをわたしたちの魂の医者とし、わたしたちを恵みによって天国の祝宴の食事に招く者としてくださり感謝します。どうか喜んで主の食卓の聖餐式に、愛餐会に主イエスの弟子たちや徴税人たちのようにわたしたちも与らせてください。十字架のキリストがわたしたちの罪のためであり、復活がわたしたちの永遠の命のためであることを確信させてください。この教会の礼拝に町の人々、家族をお招きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教036          主の201165

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心をお開きください。あなたの御言葉を読み、取り次ぐ者を清め、あなたの御心をはっきりと宣べ伝えることができるようにしてください。わたしたちにあなたの御言葉をください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食をしているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 

                     マタイによる福音書第91417

 

 

 

  説教題:「主イエスは花婿です」

 

 今朝は、マタイによる福音書第91417節の御言葉を学びましょう。

 

 14節の「そのころ」は、「そのとき、そこで」というマタイ福音書独特の言い回しです。主イエスとファリサイ派の人々との対立に続いて、洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスに近づき、断食について問答したことを記しています。主イエスが食事にお招きになった徴税人たちや罪人たちとの食事の席でなされました。

 

 洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスに質問しましたのは、次のことです。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

 

 洗礼者ヨハネは、西暦28年ごろユダヤの荒れ野において預言者活動を始めました。彼はユダヤの民衆にこの世の終わりを告げました。神の審判から救われる唯一の道として、悔改めの洗礼を受けるように勧めました。そして、ヨルダン川で多くの民衆に洗礼を施していました。そこから「洗礼者」というあだ名が生まれました。そして、彼は主イエスの願いにより洗礼を施しました(マタイ3)。彼は、主イエスをメシアと認めて、メシアの先駆けとして働きました。そして、ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに殺されました(マタイ11章)。

 

 さて、ユダヤ人たちの宗教生活の中において施しと断食は、信者にとって大切な務めでありました。主イエスの時代の人々の信仰の熱心さを示す物差しでした。

 

 ですから、洗礼者ヨハネの弟子たちは、主イエスに「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食する」と言っていますね。ファリサイ派の人々は、週に2日断食しました。洗礼者ヨハネと彼の弟子たちは、それ以上断食しました。洗礼者ヨハネの食事は、いなごと野蜜でした。弟子たちも、師匠に倣って断食を熱心に行っていました。

 

 ところが、主イエスと主の弟子たちは、ヨハネの弟子たちの目には、断食を軽んじているように見えました。主イエスは、よく徴税人や罪人を食事に招待し、主の弟子たちもいつも食べたり飲んだりしているように見えました。ヨハネの弟子たちの目に、主イエスの弟子たちは躾が甘い、宗教的厳しさが足りないと映りました。だから、彼らは、主イエスに近づき、直接主イエスに「あなたの弟子たちはどうして断食しないのか」と質問し、「あなたは宗教的指導者として駄目なのではないか」と、主イエスを非難したのです。

 

 主イエスは、洗礼者ヨハネの弟子たちに、驚くべき宣言を行われました。主イエス御自身の存在が断食を用無しにしたと。

 

断食は、悲しみの時に行うものです。断食は、不安と悲しみのしるしでした。ユダヤ人にとりまして断食は、罪に対する遺憾の念を表明する手段でした。そうすることによって神の審判を避ける手段として、信仰深いユダヤ人たちは断食を熱心に行いました。

 

旧約聖書のサムエル記下12章にその実例があります。ダビデ王がウリヤの妻と姦淫を行い、ウリヤの妻はダビデの子を身ごもりました。主なる神は、預言者ナタンを通してダビデ王の罪を非難されました。そして、生まれて来る幼子は死ぬと宣言されました。ダビデ王は、その子の命乞いを主なる神にし、断食をしました。その子の身代わりに自分が断食で苦しむことで、主なる神の裁きを軽くしようと努力しました。

 

しかし、主イエスは罪を悲しみ、主なる神に罪の軽減を願う断食は、わたしがこの世に花婿として来たので廃されたと宣言されました。

 

「花婿が一緒にいる間、婚礼の客が悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」

 

花婿はキリストです。婚礼は結婚式であり、わたしたちの人生で一番喜びの時です。「婚礼の客」は、主の弟子たちや食事に招かれた徴税人と罪人たちのことです。主イエスが「婚礼の客」と呼ばれたのは、結婚式に招待された一般の客という意味ではありません。花婿と一緒に酒を酌みかわす大事な友人を、主イエスは「婚礼の客」と呼ばれました。

 

「花婿が奪い取られる時」とは、キリストの十字架を暗に言われているのです。主イエスは、弟子たちや徴税人、罪人たち、そしてわたしたち、御自身の友の罪を担うために、十字架にかかられました。御自身の命をもってわたしたちの罪を贖われました。

 

ですから、主イエスは、ヨハネの弟子たちにも喜びをお語りになりました。わたしと共に弟子たちがいることは、花婿の婚礼の席にいるのと同じであると。今は、喜びの時ではないか。どうしてこの喜びの最中に断食できるだろうか。断食できるわけがないと。「今ここに罪を赦す者が来た。喜べ。」と、主イエスは高らかに宣言されました。

 

主イエスは、弟子たちと共に神の御国の福音をユダヤの人々に知らされていました。弟子たちと共に、中風の者を癒され、悪霊に疲れた者から悪霊を追い出し、目の見えない者、体の不自由なものを癒されました。徴税人や罪人たちの友となり、彼らに罪の赦しを宣言されました。この主イエスのガリラヤ伝道の中に神の恵みの支配がありました。主なる神は、主イエスと共に臨在し、花婿キリストの婚礼の席に弟子たちや徴税人、罪人たちを招かれます。だから、この主なる神の恵みに対して弟子たちは喜び祝うことが当然のことで、断食はできないのです。

 

ただし、弟子たちは断食する時がきます。主イエスが弟子たちから奪われる時です。具体的には、主イエスが官憲に逮捕され、裁判にかけられ、十字架の処刑にされ、墓に埋葬される時です。キリストは弟子たちの前から不在になられる時です。

 

しかし、キリストは復活されました。そして、復活の主イエス・キリストは、11弟子たちに約束されました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ2820)と。

 

復活の主イエス・キリストは、復活後40日の間11弟子たちと生活を共にされました。そして、弟子たちに聖霊を通して彼らに臨在することを約束されました。そして昇天されました。10日後、キリストの復活から50日後、聖霊が弟子たちに注がれました。復活の主イエス・キリストは約束通り、聖霊と御言葉を通してこの世の終わるまで、いつまでも代々の弟子たちに臨在し、花婿として婚礼の席に招かれています。

 

この素晴らしい新しい内容は、新しい形式を求めるというのが、16節と17節の主イエスのたとえであります。

 

罪を悲しみ、聖なる神の御前におののくという、ヨハネの弟子たちが求めた断食は、主イエス・キリストの復活によって吹き飛ばされました。キリストは復活された、あなたがたの罪はキリストの十字架の死によって赦され、キリストの復活がその保証です。これがキリスト教会のこの世の人々への喜びの知らせです。

 

マタイ福音書の教会は、この喜びに生きるのです。罪を赦された喜びに生きることは、新しい布切れであり、新しいぶどう酒です。罪を赦された喜びに生きる者が、どうして罪の悲しみにある昔の生き方ができるでしょうか。罪を赦された喜びを、罪を悲しむ断食になぎ合わせることはできません。そんなことをすれば、罪を赦されているのに、罪を赦されていないと悲しむ本当に惨めな信仰生活になります。

 

また、マタイ福音書がわたしたちに伝えるキリストの喜びの福音は、神の恵みの大きさを伝えるものであり、古い人間の決めごとや慣習に収まりきれません。

 

教会の中に断食の慣習は残りました。しかし、花婿キリストは、常に聖霊と御言葉を通してわたしたちの教会に臨在されています。御言葉を通して、一方的な恵みによりすべてのわたしたちの罪を赦すと宣言されています。そして、今朝花婿キリストはわたしたちを聖餐の食卓にお招きくださいました。わたしたちも、主イエスの弟子たちや徴税人、罪人たちと共に、花婿キリストの婚礼の客として、キリストの友として招かれています。共に喜び、聖餐の恵みに与ろうではありませんか。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、復活の主イエス・キリストが、花婿キリストとして、今わたしたちと共にいてくださり、今朝の御言葉を通して、わたしたちを婚礼の席である聖餐の食卓にお招きくださり、感謝します。「わたしは復活し、わたしの十字架の死によって、あなたの罪を赦している」と宣言してくださり、ありがとうございます。キリストの体なる教会が主イエスの罪の赦しの恵みの現実であることを、世の人々に知らせることができるようにお導きください。わたしたちのように、主イエスの聖餐の食卓に招かれる者を多く見させてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。