マタイによる福音書説教049         主の2011116

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。

 

 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も共の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も共の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

 

               マタイによる福音書第1218

 

 

 

 説教題:「神が求めるのは憐れみ」

 

 今朝よりマタイによる福音書の12章に入ります。主イエスは、12弟子たちを伝道に遣わすにあたり、11章において彼らに説教し、迫害と苦難をあらかじめお告げになりました。

 

 12章に入り、主イエスとユダヤの宗教的指導者であるファリサイ派の人々との敵対が何度も繰り返し報告されています。

 

 今朝の御言葉は、その第1の報告です。主イエスの12弟子たちが空腹のために安息日に麦畑の麦の穂を摘み、手でもみ、殻を取って食べました。それを見たファリサイ派の人々は、主イエスに「あなたの弟子たちは、安息日に許されていない行いをしている」と非難しました。

 

 安息日とは、1週の第7日目の日です。今日の土曜日です。正確には金曜日の日没から土曜日の日没までの間を、ユダヤ人たちは安息日として守っていました。主なる神は、シナイ山でモーセに十戒を与えられました。その第4戒が安息日の掟です。主なる神は、御自身を民たちが敬うために、安息日を聖別された休息の日と定められました。

 

主なる神は、神の民イスラエルに次のように命じられました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト記20811)

 

そこでユダヤ人たちは、安息日を守るために主なる神が命じられたこと以上に、たくさんの規則を作りました。そして、事細かにどのような行いが安息日にしてはならないことかを定めました。神の掟である律法を、隅々まできっちりと守ることが、神さまに忠実であるあかしと考えていたのです。

 

安息日に主イエスと12弟子たちが麦畑を通り過ぎました。弟子たちはお腹がすいていました。そこで麦畑の麦の穂を摘み、恐らく手で麦の穂をもみ、殻を取って食べ始めました。

 

 ユダヤ人たちは、貧しい人が空腹の時、他人の畑の作物を取り、空腹を満たすことは許されていました。ルツ記の主人公のルツが落ち穂拾いをして生計を立てたように、ユダヤ人たちは貧しい人々のために、麦刈りの時にわざわざ穂を落としておきました。畑の作物を少し残して収穫しました。だからお腹が空いた弟子たちが畑の麦の穂を食べて、空腹を満たすことは問題ではありませんでした。

 

 ファリサイ派とは、分離した者という意味です。彼らは、神の律法を守らない者から自分たちを分かち、彼らとの交わりを断ちました。だから、ファリサイ派の人々は神の律法を人一倍熱心に守りました。またユダヤの民衆にも守るように教えました。特に安息日の戒めを守り、断食と施しを行うことに熱心でした。そして、宗教的な清めを人一倍追い求め、民衆にも教え、命じました。

 

 そのファリサイ派の人々が主イエスに「お前の弟子たちは安息日に許されない行いをしているではないか」と非難しました。それは、安息日に麦の穂を摘み、そして、穂を手でもんで殻を取った行いです。弟子たちのその一連の行いを、ファリサイ派の人々は、安息日に禁じられている労働と判断しました。

 

 すなわち、穂を摘むという弟子たちの行いは、麦の刈り入れ作業をしたと判断されました。弟子たちが麦の穂を手でもみ、殻を取ったことを、脱穀の作業をしたと判断されました。そして、弟子たちは安息日に禁じられている労働をし、神の律法を破っていると、ファリサイ派の人々に非難されました。

 

 ファリサイ派の人々は、弟子たちの空腹よりも彼らが定めた規則を優先しました。彼らには、憐れみの心がありませんでした。

 

 そこを主イエスは問題とされました。そこで主イエスは、空腹の弟子たちがしたことを弁護するために、ダビデと、彼と一緒に逃げていた供の者たちが空腹の時に、祭司以外が食べることの許されないパンを食べたという旧約聖書の事例を話されました。

 

 主イエスは、ファリサイ派の人々に旧約聖書を読んだことがないのかと問いかけられました。旧約聖書のサムエル記上2147節の御言葉です。そこを読めば、誰でも、ダビデがサウル王の迫害から逃れていた時、神の家を訪れ、祭司より飢えを満たすために聖別のパンをもらって、食べたことを知っています。

 

聖別のパンは神に供えられていたパンです。主なる神は、そのパンを祭司アロンとその家族だけが、神の家の中で食べることを命じられました(レビ記249)。主イエスは、ダビデと彼の家来たちは、そのパンを食べたと言われました。人の命にかかわるときには、神は律法の拘束を一時停止し、人の命を優先されるのです。それがダビデとその供の者たちが聖別のパンを食べた事件です。

 

もう一つの事例を、主イエスはお話しになりました。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないという、神の律法です。

 

旧約聖書の民数記第289節に「安息日の献げ物」の規定があります。ファリサイ派の人々はこの規定をよく知っています。安息日に祭司は、神殿において動物の犠牲を神にささげ、穀物をささげます。これは安息日に禁じられた労働です。しかし、主イエスは、安息日の献げ物の規定が次のことを教えていると述べておられます。それは、祭司の場合は神殿奉仕の義務があり、祭司の安息日に奉仕することは、律法に反することにはなりません。

 

祭司は、安息日に主なる神に仕え、民たちが神の祝福にあずかり、霊的命を得るために、神殿で献げ物を神にささげる奉仕をしています。主なる神の憐れみを民に伝えるために、神殿で仕えているのです。

 

 神殿は、来たるべきキリストの影であります。キリストの十字架の犠牲をあらかじめ知らしめるものです。本体であるキリストが来られたのです。だから主イエスは、言われました。「神殿よりも偉大なものがここにある」(6)と。弟子たちは、祭司のように主イエスに仕えています。だから、彼らは主イエスの祝福を民に伝えるために働いているので、祭司同様に彼らの安息日の働きは、罪にならないのです。

 

 神殿よりも偉大なものとは、キリストの福音です。キリストの十字架と復活の福音です。神殿はこのキリストの福音の影でありました。神殿の動物犠牲は、キリストの十字架の影でした。イエス・キリストがこの世に来られ、ガリラヤで天の国の福音を語り、十字架に死に、3日目に復活され、神の救いを実現されました。わたしたちは、キリストの十字架によって罪を赦され、神の子とされ、永遠の命にあずかりました。弟子たちは、祭司のようにその喜びに安息日に仕えていたのです。

 

 今日、主の日に、安息日に牧師が説教し、信徒たちが伝道と交わりの働きをしても、安息日律法の違反になりません。宗教改革者たちは、わたしたちが万人祭司であると主張しました。わたしたちが教会のために、伝道のために安息日に奉仕することは、安息律法に違反しないのです。なぜなら、キリストの福音を伝えることは、神の愛であり、神の憐れみの業であるからです。

 

 主なる神がモーセに十戒を渡されたのは、神の民を苦しめるためではありません。主なる神は、常に御自身に逆らって罪を犯す神の民を愛されたのです。彼らに御自身の御心を示して、神の与えられる永遠の命の道に歩ませようとされました。神の民を憐れみ、彼らの命を生かそうとされたのです。

 

 同様に主イエスの父なる神は、わたしたちを愛してくださいました。憐れんでくださいました。だから、父なる神の御子である主イエス・キリストは、十字架の道を歩まれているのです。

 

 安息日は、人が安息日律法を守るために設けられたのではありません。人が永遠の命に憩うために設けられました。主イエスは、その安息日の主として、人に永遠の命を与えて、憩わせるお方として、この世に来られ、わたしたちを憐れみ、十字架の道を歩まれたのです。

 

 この世界に日曜日という安息日があることを感謝しましょう。毎週キリストの十字架の福音を通して、神の憐れみに身をゆだね、罪を赦され、神の子とされ、永遠の命の祝福に与っていることに感謝しましょう。安息日の主が、十字架の主であることを喜びましょう。わたしたちは、神の憐れみに生かされているからです。だから、今朝の御言葉に生かされ、その喜びを聖餐の交わりを通して味わいましょう。そして、家族や世の人々にキリストの福音を伝えましょう。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは今朝、主に招かれて、ここに集まりました。神の憐れみの中、主イエスの十字架を仰ぎ、主イエスの弟子として、主イエスの御後を歩み、御国へと目指して行けることに感謝します。主は、憐れみにより安息日を設けてわたしたちに永遠の命の憩いをお与えくださいました。ここにいる喜びを心より感謝します。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教050         主の20111113

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そして、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

 

 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 

 「見よ、わたしの選んだ僕。

 

 わたしの心に適った愛する者。

 

 この僕にわたしの霊を授ける。

 

 彼は異邦人に正義を知らせる。

 

 彼は争わず、叫ばず、

 

 その声を聞く者は大通りにはいない。

 

 正義を勝利に導くまで、

 

 彼は傷ついた葦を折らず、

 

 くすぶる灯心を消さない。

 

 異邦人は彼の名に望みをかける。」

 

               マタイによる福音書第12921

 

 

 

 説教題:「神が選ばれたしもべ」

 

 マタイ福音書は、12章から主イエスとユダヤの宗教的指導者たち、ファリサイ派の人々との対立を物語ります。

 

 ファリサイという名は、「神の律法を守らぬ輩から自らを『分離』させる」という意味です。ファリサイ派がいつ生まれたか、それはとても古いのです。主イエスが生まれられる250年昔です。紀元前2世紀半ばです。ユダヤ教の律法を今の時代に合わせて、日常生活の中で厳しく守り抜こうとしました。そして、神の律法を守らない者たちから自分たちを分かち、守らない者たちを罪人と呼び、神に見捨てられた者と差別しました。

 

 安息日律法は、彼らがユダヤ民衆に守ることをとても厳しく求めたものでした。安息日律法を守るために、彼らは39もの規則を作りました。安息日にしてはならないことを定めました。

 

 主イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘み、穂を手でもみ、殻を取って食べました。ファリサイ派の人々は、主イエスに「お前の弟子たちは安息日に麦の刈り入れをし、脱穀をして、安息日律法を破り働いた」と非難しました。

 

 主イエスは、ファリサイ派の人々が神の律法を形ばかり守り、神が安息日律法を設けられた本当の意味を知らないと言われました。それは、神の憐みでした。ファリサイ派の人々は、神の安息日律法を守れるものと守れないものを裁く道具にし、守れないものに対して神に見捨てられた者とみなして、とても冷たかったのです。

 

 しかし、主イエスは、神が弟子たちのように飢えた者たちに憐み深いことを教えられました。そこでダビデと共の者たちが飢えた時に、祭司以外食べられない神に供えたパンを食べたことを話されました。

 

 主イエスがファリサイ派の人々に訴えられたのは、神は安息日を人のために設けられ、人を憐れむことこそが神殿よりも大切であることを教えるためでした。人の命を憐れむことを、ファリサイ派の人々が知っていたら、彼らは主の弟子たちを非難しなかったでしょう。

 

 同じ安息日に主イエスと弟子たちは、会堂に入りました。ユダヤ人たちが礼拝する建物です。会堂で民衆は礼拝し、神の律法をファリサイ派の人々から学びました。主イエスの時代、ユダヤ人たちの宗教生活の中心でした。わたしたちのこの会堂と同じです。

 

 そこで主イエスは、片手の萎えた人を、安息日にいやされました。主イエスが会堂に入られると、片手の萎えた人がいたからです。

 

 ファリサイ派の人々は、人の病気、けがをいやすことは、働くことであり、安息日に許されていないと教えていました。彼らは、主イエスが安息日にいやしをし、彼らの安息日に許されていない働きをすれば、「イエスは安息日律法を破った」と訴えようと思っていました。

 

 そこで許されていないと確信しているのに、彼らは主イエスに「安息日に病気をいやすことは許されていますか」と質問しました。おそらくファリサイ派の人々は、主イエスに質問することで、わたしたちはお前に安息日律法違反をするなと警告したぞ」と思ったでしょう。訴えるぞという一種の脅しだったでしょう。

 

 主イエスは、ファリサイ派の人々に逆に質問されました。「あなたがたのうちに羊一匹しか持っていないものが、安息日にその羊が穴に落ち込むと手で引き揚げて助け出すではないか。」と。

 

 主イエスは、安息日律法を破棄する、捨て去ろうとされているのではありません。主イエスが安息日の主であり、安息日を設けた者であり、安息日の真の解釈者であることを教えようとされているのです。

 

 主イエスは、安息日に御自分が片手の萎えた人をいやすことは、神の憐れみの御心に合っていると言われています。なぜなら、善いことしているからです。ファリサイ派の人々でも、安息日にいっぴきの羊が穴に落ちれば、手で上げて助け出します。まして人間は、羊よりもはるかに大切なものです。その大切な人間を助けることは、神の御目に善いことであり、主イエスが安息日に片手の萎えた人をいやすことは、合法であります。

 

 ウェストミンスター信仰告218節に安息日の規定があり、安息日に「やむを得ない義務と慈善の義務」を行うことを認めています。治安を守る警察、消防活動、医療活動、緊急災害活動など、主イエスは安息日に人命を救助するという善いことをすることは合法であると教えられました。

 

 だが、主イエスの教えは、ファリサイ派の人々に通じませんでした。片手の萎えた人をいやされた主イエスを、彼らは殺そうと相談しました。

 

 それを察知し、お知りになられた主イエスは、会堂を去られました。マタイ福音書の12章から16章は、主イエスが「そこを立ち去られた」というのが一つのテーマです。主イエスは、御自分を殺そうとするファリサイ派の人々と真正面から対立されませんでした。言葉は悪いですが、逃げられました。なるべく争わないで、御自分のメシアとしての務めを果たそうとされました。福音宣教といやしであります。

 

 だから、主イエスは御自身に従った大勢の群衆たちを皆いやされました。そして、いやされた者たちに主イエスがなさったいやしを触れまわらないように、お諌めになりました。お叱りになったと、マタイ福音書は証言しています。

 

 主イエスは、御自身のメシアとしての活動がファリサイ派の人々に妨げられることを願われなかったのです。父なる神の御心に従い、十字架の時まで主イエスは、神の失われた羊を尋ね、彼らを救うメシアの働きをしなければなりません。だから、ガリラヤ伝道を終えるまで、殺意を持ったファリサイ派の人々から、主イエスは逃げられました。

 

 マタイ福音書は、そのようにして働かれる主イエスに、昔の預言者イザヤが預言していたメシアである「神のしもべ」の働きが実現したのだと証言しています。

 

 預言者イザヤの御言葉は、メシアである主イエスとその活動を預言するものでした。主なる神が選び、遣わされたメシアは、支配者ではありませんでした。人に仕えるしもべでした。マタイ福音書は、イザヤ書4214節の御言葉を引用しています。苦しむしもべの歌の第一のものです。主イエスがファリサイ派の人々を避けられたのは、主イエスが父なる神の御心に適う慎重でへりくだるお方であるからです。人と公けで争うことを避け、民衆をいやしても彼らに触れまわることを戒められました。どこにも支配者のような傲慢さはありません。徹底して人に仕えられました。

 

 父なる神は、主イエスに御自身の「霊を授け」られました。霊とは、生ける神の生命です。死者に命を吹き込む全能者の力のすべてです。

 

 死んだ者とは神の民の中で罪人、徴税人、売春婦、汚れた者とさげすまれている者たちです。そして、その代表者がユダヤ人ではない異邦人たちです。

 

 主イエスは、父なる神から霊を授けられ、異邦人を救うメシアとして、神のしもべとして選ばれ、遣わされました。彼の使命は、「異邦人に正義を知らせること」です。正義とは神の判決です。汚れた異邦人、神に見捨てられた異邦人に、神の正義、判決を知らせるとは、彼らに神の義の判決と罪の赦しの福音を知らせることです。それがキリストの十字架の福音です。

 

 主イエスは、メシアの働きを目立たずになされます。退き、争いを避けて、イスラエルを離れ、弟子たちと共に歩まれます。十字架の勝利を目指して。正義を勝利に導くとは、神が異邦人を、罪人を義と判決される十字架と復活の勝利までです。

 

 それまで主イエスは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」で、メシアの活動を続けられます。「傷ついた葦」とは、葦の茎がつぶれていることです。要するに自分の力で立てない人のたとえです。「折らず」とは自分で立っている力もない人を、主イエスは見捨てないで最後まで、神の義の判決をその者に得させるようにメシアとして働かれるのです。

 

 「くすぶる灯心」とは、ランプの芯です。ランプに油を入れ、そこに一本のひも入れて、そのひもに油を染み込ませて火をともします。「灯心」はそのひもの先端です。燃えカスで次に使う時、その部分は切り捨てます。もし切り捨てないとくすぶってわたしたちの目を傷めるのです。要するに人に迷惑ばかりかけている能なしの人をたとえています。

 

 主イエスは、そのような者が神の御前に義とされるまで、見捨てないで十字架の道を歩まれるのです。だから、異邦人のわたしたちは、自分で自分を救え得ないわたしたちは、十字架のキリストに、復活のキリストの望みを置くのだと、マタイ福音書は教えているのです。

 

 この預言者イザヤの預言を通して、主イエスこそが、わたしたちを神の御前に正しいと判定させくださるお方であると、マタイ福音書は教えています。

 

 わたしたちは、傷ついた葦であり、くすぶる灯心であります。言葉は悪いですが、神の御前にどこまでも欠陥品です。主イエスは、自分ではどうにもならないわたしたちを、捨てられても文句の言えないわたしたちを、十字架の死に至るまで背負い、そして、御自身の復活によって新しい命を、神の御心に適う者にしてくださったのです。

 

 今、わたしたちの教会はいろんな困難があります。兄弟姉妹の高齢化と身体の弱さ、信仰の試練、礼拝に出られないという状況。自分でどうにかできる問題ではありません。長年信仰生活を続けて来たことが水の泡であるかのように思えます。

 

 だが、マタイ福音書はわたしたちにどんなことがあっても礼拝に励め、安息日を守れと命じてはいません。むしろ、十字架と復活の主イエスに望みを置きなさい。期待しなさいと励ましてくれています。主イエスを通して示された神の憐れみは、自ら立てないものを、神と人に迷惑をかけている者を見捨てるどころか、むしろ神の正しいという判定を得させ、永遠の御国へと導いて下さると。

 

 目に見えることに失望することなく、マタイ福音書が証しする主イエス・キリストに望みを置き、今日から明日へと歩みましょう。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちが神の憐れみの中に生かされていることを感謝します。今のわたしたちの教会とわたしたちの信仰生活は、わたしたちの目には厳しい有様です。現実を見ると、心が萎えてしまいます。しかし、マタイ福音書を通して、主イエスの十字架を仰ぎ、希望を持ち御国へ目指して歩めることを感謝します。わたしたちに主の憐れみの深さ、高さ、長さを教えて下さり、今も主イエスはわたしたちを神の御前に義とするために、メシアの働きをされ、わたしたちを死から永遠の命へと担ってくださり、心より感謝します。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教051         主の20111120

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたがたを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、〝霊〟に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でもあの世でも赦されることがない。」

 

               マタイによる福音書第122232

 

 

 

 説教題:「絶対に行ってはならぬこと」

 

 マタイ福音書の中には、似た事件があります。今朝の主イエスが悪霊に取りつかれた人をいやされた事件です。

 

93234節において主イエスが悪霊に取りつかれ、口の利けない人をいやさた事件を記しています。群衆たちは、主イエスのいやしを見て驚きました。そして、「こんなことはイスラエルの中で起こったためしはない」と言いました。それを聞きましたファリサイ派の人々が主イエスのいやしを「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いました。

 

今朝のこの事件は2度目であります。同じ事件ではありません。なぜなら、主イエスがいやされた人は、悪霊に取りつかれ、口が利けないだけではなく、目が見えませんでした。主イエスが彼から悪霊を追い出されると、彼は話すことができ、物を見ることができるようになりました。

 

 次に主イエスの癒しを見て驚いた群衆たちの関心が違います。9章では、群衆はただ主イエスのいやしに驚いています。「こんなことはイスラエルの中で起こったためしはない」と。ここでは群衆たちは皆、悪霊を追い出された主イエスに関心を持っています。「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。

 

 そして、今朝のところには、ファリサイ派の人々の非難の言葉を、主イエスが反論されています。

 

 さらに9章と今朝の主イエスが悪霊を追い出されて、人をいやされた事件を比べますと、今朝のマタイ福音書の書いた目的が分かります。主イエスがダビデの子であるか、という点において、主イエスとファリサイ派の人々の間にはっきりとした対立があったということです。

 

さて、1222節に「そのとき」とありますね。それは安息日のことです。主イエスは、安息日に悪霊に取りつかれ目が見えず口が利けない人をいやされました。群衆たちは皆、主イエスのいやしに驚き、「まさかこの人がダビデの子なのではなかろうか」と言いました。

 

ダビデの子とは、メシア、救い主という意味です。マタイ福音書は、救い主を「ダビデの子」とよく言いますね。Ⅰ章1節の主イエス・キリストの系図に「ダビデの子」が最初に出て来ます。927節に二人の盲人が主イエスを「ダビデの子よ」と呼びかけています。1522節にカナンの女が娘を悪霊から救ってほしいと、主イエスを「ダビデの子」と呼びかけています。203031節にエリコの町を出られたとき、二人の盲人たちが主イエスに救いを求めて「ダビデの子よ」と叫んでいます。219節に王としてエルサレムに入城された主イエスを群衆たちが「ダビデの子にホサナ」と賛美しています。

 

 ここでは群衆たちは、「まさか、この者がダビデの子なのではなかろうね」と言っていますね。はっきり否定の答を期待しているのです。群衆は、主イエスがメシアであるのかに関心がありました。

 

それを真っ向からファリサイ派の人々が否定したのです。ファリサイ派の人々は、主イエスが安息日にいやしを行ったを、ここで非難していません。主イエスのいやしが、メシアのお働きであることを否定しました。「イエスがメシアであるはずが無い、彼は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出したのだ」と非難したのです。

 

そこで主イエスは、ファリサイ派の人々に次のようにそうではないと言われ、二つの反論をされました。第1は、それでは内輪もめになるという反論です。国、町、家において内輪もめが起これば、国は荒れ果てます。町も家も壊れてしまいます。実際に世界中で国の中に争いがいつの時代も起こっています。同じ国の人たちが殺し合い、破壊し合い、今でも内で争い荒れ果ててしまっている国があります。両親が離婚し、夫が妻や子供たちに暴力をふるい、両親が子供に暴力振るって壊れてしまっている家庭があります。主イエスが言われる通りです。国も町も家も、内輪で争えば、荒れ果て、壊れるのです。

 

それゆえに主イエスは、ファリサイ派の人々に反論されました。「わたしが悪霊の頭ベルゼブルの力で、悪霊を追い出しているなら、それは内輪もめをしていることです。どうしてサタンの国は成り立つでしょうか。」

 

2は、ファリサイ派の人々の仲間たちも悪霊払いをしていました。実は、ユダヤ教でも、悪霊を追い出して、病気のいやしをしていたのです。使徒言行録1911節以下にユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子たちが、パウロが主イエスの御名によって悪霊を追い出し、いやしをしているのを見て、彼らも主イエスの御名によって悪霊を追い出そうとして、失敗したという記事があります。

 

主イエスは、ファリサイ派の人々に言われました。「あなたがたの仲間たちも、わたしと同じように悪霊を追い出しいやしをしている。だから、彼らもわたしと同じように悪霊の頭ベルゼブルの力でしていることになるではないか。彼らが、あなたがたの偽りの非難を裁くことになる」と。

 

主イエスは、ファリサイ派の人々の「彼らの考えを見抜いて」、「あなたがたの言っていることは偽りであり間違っている」と反論されるだけでなく、御自身の悪霊を追い出すいやしによって「神の国があなたがたのところに来ている」と宣言されました。

 

「彼らの考えを見抜いて」は、「彼らの思いを見抜いて」という言葉です。人の心を見抜くことができるのは、主なる神だけです。マタイ福音書は、主イエスは主なる神であると証し、その主イエスが悪霊を追い出し、目の見えず口が利けない人をいやして、目が見え、話せるようにされた、今ここに神の御支配が来たと宣言されたことを伝えています。

 

そして、主イエスがこの世に来られた目的を、「強い者」を縛り、その家の家財を奪う譬で語られました。主イエスは神の子として、サタンを縛り上げ、サタンに捕らわれた者たちを解放するためにこの世に来られたメシアです。

 

主イエスが悪霊を追い出し、悪霊に取りつかれた人をいやされたのは、「強い人」であるサタンを縛り上げて滅ぼすためでした。そして、サタンに捕らわれたわたしたち異邦人を解放してくださるためでした。そしてその実現がキリストの十字架です。

 

テサロニケの信徒への手紙一19節に「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」とあります。悪霊を追い出された主イエスは、悪霊に捕らわれ、偶像に仕えていたわたしたちを御自身の十字架と復活を通して、そして、わたしたちに聖霊を遣わし、主イエスを信じる信仰をお与えくださることによって、救ってくださいました。

 

だから、ファリサイ派の人々のように自らを主イエスの側にも、サタンの側にも置かないで、どちらにもつかないで、主イエスがなさる御業を非難することは許されないと、主イエスは言われます。主イエスをメシアと信じるか、信じないか、はっきりさせよと言われます。一緒にいるか、いないか、はっきりさせよと言われます。

 

主イエスに対してわたしたちがはっきりとした態度を取るべきです。それは、信仰か不信仰です。そして、主イエスに味方し、主イエスと常に一緒するためには信仰が必要です。主イエスは、わたしたちの罪をすべて赦してくださるという信仰が必要です。

 

わたしは自分のことを振り返りますと、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」という主イエスの御言葉が本当であると、だれにも言えます。本当にあの主イエスの十字架によってわたしの犯したすべての罪、偶像礼拝して神を冒涜してきたすべての罪を赦していただきました。

 

十字架と復活の主イエス・キリストの罪の赦しを、わたしは大学生のときに初めて宝塚教会の礼拝において説教を通して聞き、知りました。そこに聖霊が働いてくださいました。ウェストミンスター小教理問答問89に「御言葉は、どのようにして救いに有効とされますか。」とあり、答に「神の御霊が、御言葉を読むこと、特に説教を、罪人に罪を自覚させて回心させるために、また信仰によってきよめと慰めのうちに救いに至るまで建て上げるために、有効な手段とされます。」

 

聖霊は、わたしにその通りに働いてくださいました。教会の礼拝における説教ごとに十字架のキリストを救い主として受け入れるように、罪と偶像から離れて、まことの神に立ち帰るように、聖霊は心頑なわたしを励まし促してくださいました。主イエス・キリストのすべてを、キリスト教のすべてを理解できたわけではありません。しかし、一つだけわかりました。十字架と復活のキリストが、わたしのすべての罪を赦してくださることです。わたしを愛し受け入れてくださる唯一のお方であることです。聖霊がお与え下さった信仰によって、わたしの心はその主イエス・キリストの愛と恵みを知らされたのです。

 

教会というところは、聖霊を信じることで成り立っています。だから、わたしたちは、毎週の礼拝で、使徒信条を唱え、「われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白するのです。

 

主イエスが言われる「聖霊を冒涜し、言い逆らう者」の反対は、使徒信条の告白する「聖霊を信じる者」です。

 

聖霊を信じる者は教会と聖徒の交わりを信じ、その交わりにあずかります。そこに自分たちの罪の赦しと身体のよみがりと永遠の命の希望があることを確信しています。この世でもあの世でも神に愛され、罪を赦されて、神と共に生きる喜びを確信しています。だから、主イエスは、わたしたちに絶対に聖霊を拒むことは行ってはならないと警告されたのです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちの聖霊を信じる信仰を強めてください。教会と聖徒の交わりにおいてわたしたちの罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信じさせてください。絶対に聖霊を拒むことが無いように、お導きください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。