マタイによる福音書説教030           主の2011年4月6日

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心を開き、あなたの御言葉を読み、取り次ぐ者を清め、あなたの御心をはっきりと宣べ伝えることができるようにしてください。わたしたちにあなたの御言葉をください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。

 

 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの使者を葬らせなさい。」

 

                    マタイによる福音書第81822

 

 

 

  説教題:「主イエスに従う覚悟」

 

 

 

  今朝の御言葉のテーマは、はっきりしています。主イエスに従う者の覚悟です。それを、マタイによる福音書が、わたしたちにどのように伝えようとしているのか、学びましょう。その鍵となるのは、18節の「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」という御言葉です。

 

 18節の御言葉は、主イエスが彼を取り囲む群衆から離れようとされたのです。主イエスは、弟子たちと共に小舟に乗り、カファルナウムの町を離れようとされました。

 

 どうしてでしょうか。主イエスが行われる奇跡を見て、群衆たちは主イエスと弟子たちに群がりました。

 

群衆たちの目的は、主イエスの奇跡を見ることであり、主イエスに病気を癒し、悪霊を追い出してもらうことでした。この世の恵みを求めて、彼らは主イエスに従いました。主イエスは、その群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くようにお命じになりました。この世の恵みのみを求める群衆から離れられるためです。

 

それによって主イエスは、人々をこの世において幸せにする救い主ではないことを示そうとされたのです。

 

 主イエスと弟子たちの群衆に対するこの行動から、主イエスに従う、主イエスの弟子となることの一つの覚悟を教えられます。それは、主イエスの弟子は、この世の関係を離れることです。

 

 主イエスは、弟子たちに向こう岸に行くように命じられました。そして、28節に「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると」あります。そこは、ユダヤ人の土地ではなく、異邦人の土地でした。悪霊たちが人間の内側に住みつき、人間を破壊しようとしている地です。ガリラヤの人々にとり、向こう岸に行くことは恐ろしいことだったでしょう。群衆たちも、主イエスについて行こうと思わなかったでしょう。

 

 主イエスの弟子となる、主イエスに従うためには、わたしたちはこの感情を克服しなければなりません。住み慣れた所を離れるという決断です。

 

 主イエスの弟子たちは、主イエスが向こう岸に行きなさいとお命じになったので、その通りに従いました。住み慣れたこちら側のカファルナウムの町を、小舟に乗って離れ、彼らにとって未知の悪霊の支配する異邦人の地に行きました。

 

 弟子たちの行動から、主イエスの弟子になる、主イエスに従う者について教えられます。それは、主イエスの御言葉に徹底して服従する者であることです。そして、弟子たちを通して、たとえ住み慣れた地であろうと、居心地がよい家庭であろうと、主イエスがこちらからあちらに行けとお命じになれば、それに徹底して従う者が主イエスの弟子であるのです。

 

 今朝の御言葉から教えられる3つ目は、この物語も、物語のカテキズム、信仰問答だということです。主イエスは、わたしたちに「あなたもわたしに従い、わたしの弟子になる覚悟がありますか」と問われているのです。あなたにとってこちら側、今も生活は住みなれており、安心でしょう。しかし、わたしの弟子になるのであれば、向こう岸、あなたにとって不安に満ちたところに行くことになりますよ。その覚悟がありますか。異邦人から、未信者からキリスト者になる、その時誰でも、この主イエスの問いかけの前に立たされます。「あなたは、わたしたちに従う者としての覚悟があるか」と。

 

 そこでマタイによる福音書は、主イエスにその覚悟を問われた二人の実例を挙げています。一人は、ある律法学者です。

 

彼は、律法の専門家です。学校や会堂で子供たちや民衆に律法と先祖の言い伝えを教え、それに従って生きるように指導していました。ですからユダヤ教の信仰と生活の中心的な役割を果たす者でした。しかし、主イエスの時代の律法学者たちは、律法がキリストへの養育係であるという真理を見失っていました。

 

一人の律法学者が主イエスに近づいて、「先生、あなたがおいでになるところなら、どこへでも従って参ります」と言いました。主イエスは言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

 

 主イエスは、群衆を離れ、弟子たちと共に船出されようとしていました。一人の律法学者が主イエスに弟子にしてくださいと頼みました。彼は、主イエスを弟子たちのように「主」と呼ばず、「先生」と呼びかけました。主イエスを、教えを乞うべき師匠として、彼は主イエスにどこまでもついて行くと言ったのでしょう。その意味では、律法学者は主イエスの奇跡を見たい、奇跡で癒していただきたいと願った民衆と変わりません。主イエスから多くの知識を学び、将来出世したいという思いだったでしょう。

 

 主イエスは、律法学者の願いを遠まわしにお断りになりました。主イエスに従うことの困難さをお示しになりました。「狐には住み慣れた穴があり、空の鳥にも住み慣れた巣がある。しかし、この世の終わりに審判者、救い主として来るであろう今のわたしには、住み慣れた家もない、故郷を失った貧しい者と同じである。この世での出世の望みもなく、とても貧しい生活の中でさ迷いつつ生活しなければならない」。

 

 主イエスは、律法学者にこの世で出世を願うあなたには、その望みもなくこの世をさ迷っているわたしについては来られないと、暗に示されました。

 

 もう一人は、主イエスの弟子でした。彼は、律法学者とは異なり、「イエスを主」と信仰告白していました。

 

彼は、自分の父親が亡くなりました。そこで主イエスに、自分の父の葬儀を行うために、家に帰らせてくださいとお願いしました。モーセの十戒に「父と母を敬え」とあります。息子が父親の葬儀を行うことは、ユダヤ教でも異邦人の社会でも最も大切にしなければならない敬虔の義務でした。わたしたちでも親の葬儀を、子が喪主となり行うことが子の果たすべき義務ですね。だから、主イエスの弟子は、子としての当然の義務を果たさせてくださいとお願いしました。

 

 主イエスは、彼に答えられました。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

 

 主イエスは、弟子の願いを拒否さました。主イエスの厳しいお言葉の一つです。主イエスのお言葉の意味はこうです。「死人たちはお互いの間で自分たち自身を埋葬すればよい」。聞いても、よく理解できませんね。

 

 次のような事情を知ればどうでしょうか。主イエスの時代、ユダヤの社会では、親を葬ることは愛の行いないと理解され、親の葬儀を行う者は来るべき世での報いを受けることができると期待されていたのです。

 

 彼は、この世の報いから離れられませんでした。だから、主イエスは、「わたしに従え」とお命じになりました。親の葬儀をして、この世の報いを求めても、人は自分の行いによって自分を救うことはできません。救いは、審判者であり、救い主である主イエスのみから来るからです。

 

 このように説明しても、正直に主イエスの御言葉を、わたしたちはよく理解できないと言う以外にありません。わたしは、天国で主イエスに直接、今朝、主イエスが弟子の一人に言われた御言葉はどのような意味だったのでしょうかと問うてみたいと思うのです。

 

 理解できないことはそのままにし、理解できる時を待ち望みましょう。しかし、理解できることがあります。二人の実例から第一に主イエスに従い、主イエスの弟子となるためには、主イエス自身がわたしたちに「わたしに従え」と呼びかけてくださらなければなりません。第二に律法学者も主イエスの弟子も、主イエスのお言葉にどのように答えたのかを、マタイによる福音書は沈黙しています。主イエスのお言葉に答えるのは、わたしたちだからです。たとえ理不尽に聞こえる主イエスの御命令であろうと、わたしたちは聞き従う覚悟が問われています。第三に主イエスは、弟子たちに向こう側に行けとお命じになるだけでなく、弟子たちと共に行ってくださいます。主イエスは、常に弟子たちと共にいてくださいます。神である主イエスが、人の子として枕する所もなく、貧しくこの世を弟子たちと共にさ迷われたように、今も主イエスは聖霊をと通してわたしたちと共に歩まれています。

 

 わたしたちは、こちらの世界から、常に明日というあちらの世界へと未知と不安の中で主イエスに従う覚悟を日々問われて生きているのです。わたしたちの信仰は過去の遺産ではありません。常に今が恵みに時、主イエスが従えと呼びかけてくださる今日です。主イエスがどのようにわたしたちに従えとお召しになるか、わかりません。もし主イエスの従えというお言葉をお聞きになられたら、ひと言主にお答えください。あの少年サムエルのように「僕は聞きます。お話しください」と。お祈りします。

 

 

 

御在天の父なる神よ。今朝、マタイによる福音書より主イエスに従い、弟子となる覚悟を問われました。信仰者サムエルのように主のお召しに、「わたしは聞きます。主よ、お話しください」と、主に従わせてください。慣れた住みかを離れる不安に、この世の未練に主の召しを拒むことがないように、聖餐の恵みを通してわたしたちの信仰を強めてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教030           主の2011年4月6日

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心を開き、あなたの御言葉を読み、取り次ぐ者を清め、あなたの御心をはっきりと宣べ伝えることができるようにしてください。わたしたちにあなたの御言葉をください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

 

                    マタイによる福音書第82327

 

 

 

  説教題:「嵐を静める主イエス」

 

 

 

 今朝の御言葉は、嵐を静める主イエスと信仰の小さな弟子たちの物語であります。

 

先週は主イエスの弟子となることの厳しさを物語るところを学びました。その中で主イエスの弟子となる資格は、何かを考えさせられました。主イエスの弟子となるためには、一つの欠くことのできない条件があります。それは、主イエスの「わたしに従いなさい」という召しに与ることです。主イエスに選ばれ、「わたしに従え」と呼びかけられなければ、誰も主イエスの弟子になることはできません。

 

主イエスは、群衆たちの中から弟子たちに「わたしに従え」と呼びかけられました。そして、弟子たちは、主イエスの召しに応えて、主イエスに従いました。主イエスが先頭で舟に乗り込まれますと、弟子たちも主イエスの御後に従いました。

 

主イエスが小舟に乗りこまれた目的は、ガリラヤのカファルナウムの町からガリラヤ湖の向こう岸、異邦人たちの住むガダラ人の地方に行くことでした。そして、28節に着いたことを記し、91節にカファルナウムの町に戻られたことを記しています。

 

こうして、主イエスがカファルナウムの町に戻るまでに嵐を静め、異邦人の内から悪霊を追い出された奇跡を物語っています。

 

マタイによる福音書がわたしたちにこの二つの奇跡物語を物語る目的は、メシア、救い主としての主イエスの権威を示すことです。山上の説教では、主イエスのお言葉で、主イエスのメシアとしての権威を示しました。ここでは主イエスが病人を癒され、悪霊を追い出され、嵐を静められる奇跡を行われます。主イエスは、奇跡の御業を通して、実際に病気と悪霊に悩み苦しむ者を救われ、信仰の小さな弟子たちを励まし慰め、徴税人や罪人の友となり、御自身が罪人を救う救い主、メシアであることを証しされます。

 

嵐を静める主イエスは、弟子たちが驚きの中で主イエスのメシアとしての権威を確認した出来事でした。

 

「そのとき」、主イエスと弟子たちが小舟に乗り込んで、ガリラヤ湖の沖にこぎ出しますと、湖が大嵐になりました。

 

「そのとき」は、そのまま訳すと「すると見よ」です。主イエスに従って舟に乗りこんだ弟子たちは、ガリラヤ湖で魚を取る漁師でした。ガリラヤ湖は、長さ21キロ、幅12キロの湖です。弟子たちは湖の嵐は知っています。しかし、その嵐は、彼らが経験したことのない大きな揺れでありました。ヘルモン山からガリラヤ湖に吹き下ろす突風なら、弟子たちは漁師の経験を生かして何とか自分たちで乗り切れたでしょう。

 

しかし、今主イエスと弟子たちたちが乗り込んでいる小舟を襲った大きな嵐は、想定外の大きな揺れでありました。その結果、大波が小舟をのみ込もうとしていました。

 

マタイによる福音書は、マルコによる福音書を参考にして物語っています。マルコによる福音書の43540節です(新約P68)。マルコ福音書は、次のように書いています。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(マルコ437)

 

それを、マタイによる福音書は、簡潔に、しかも弟子たちの心の恐怖を描くように「すると見よ。海が大揺れとなり、舟が大波で覆われてしまうほどであった」と書いています。

 

旧約聖書のノアの洪水を思い起こさせる表現です。大波が主イエスと弟子たちの小舟をのみこむ、覆うとは、弟子たちを脅かす死、滅びを表しています。詩編881718節に次のように神の怒りによる死と滅びが歌われています。「あなたの憤りがわたしを圧倒し あなたを恐れてわたしは滅びます。それは大水のように 絶え間なくわたしの周りに渦巻き いっせいに襲いかかります。」

 

わたしは、今朝の御言葉を読んでいまして、大きな嵐、すなわち、大きな揺れと波という言葉から、東北関東大震災の地震の大きな揺れと大津波を連想しました。大地震の大きな揺れの後に、大きな津波が何度も東日本の太平洋沿岸の町々村々を襲い、のみつくしました。津波に襲われた方々は、弟子たちのように死と滅びの恐怖を体験されました。言葉に言い表せない大津波の恐ろしさを証言されている方々の死の恐怖と同じものを、この弟子たちは体験したのです。

 

ところが、主イエスは眠っておられました。マルコ福音書は、マタイ福音書より丁寧に「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」と記しています。小舟の後ろの方で手を枕にして眠っておられたのです。父なる神に御自身を委ねて、安心して眠っておられました。

 

弟子たちは眠っておられる主イエスを起して助けを求めました。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」主イエスは弟子たちに答えて言われました。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」(2526)

 

この弟子と主イエスの問答こそこの物語の中心であります。弟子たちは、自らが「主よ」と呼びかける主イエスが、目の前におられるのに、大きな揺れと大波が彼らの小舟をのみこむという死の恐れ、滅びてしまうという自然の脅威に動転してしまいました。

 

主イエスは、死を恐れている弟子たちに、何よりも彼らの不安に配慮されました。「なぜ怖がっているか」とお言葉をおかけになりました。そのままの主イエスのお言葉は、こうです。「なぜ臆病なのか。信仰小さい者らよ」。

 

主イエスは、弟子たちが不信仰であると責められませんでした。弟子たちが主イエスに「主よ」と呼びかけていますように、イエスがキリスト、救い主という信仰はありました。しかし、弟子たちにとって想定外の命の危険に陥りましたとき、主イエスを目の前にして不安になり、動転してしまいました。

 

弟子たちは、主イエスが病人を癒され、悪霊を追い出される奇跡を見ていました。しかし、今弟子たちは不安で、主イエスの御力と彼らと共いてくださることに安心できませんでした。

 

マタイ福音書は、わたしたちに弟子たちの小さな信仰を実例にして、「大きな信仰」について証ししているのです。それは、弟子たちが従う主イエスに、どんな時にも依り頼んで、主イエス御自身によって自分を支えていただくことです。

 

主イエスは、その権威をお持ちのことを、マタイ福音書は「起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかりなぎになった」と証ししています。

 

詩編の293節に「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。」と賛美し、934節に「大水のとどろく声よりも力強く 海に砕ける波。さらに力強く、高くいます主。」と賛美し、7717節に「大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし 深淵はおののいた」と賛美し、8910節に「あなたは誇り高い海を支配し 波が高く起これば、それを静められます」と賛美し、1047節に「あなたが叱咤されると散って行き とどろく御声を驚いて逃げ去った」と賛美しています。これらは、人間の命を脅かす力である大地震、嵐、暴風が主なる神によって静められることを賛美しています。主なる神が叱咤されるように、主イエスが暴風と湖をお叱りになると、風はやみ、湖は静まりました。

 

マルコ福音書は、弟子たちが嵐を静めた主イエスに驚いたが、主イエスをどのようなメシアであるかを理解できなかったと証ししています。しかし、マタイ福音書は、人々の驚きとして、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と記しています。この人々は、弟子たちと同様に主イエスに従うキリスト教会の兄弟姉妹たちです。

 

この嵐を静める主イエスの奇跡物語から二つのことを学びましょう。

 

キリスト教会は、初代教会の時代より小舟を教会と理解し、嵐をこの世における教会への迫害と理解し、眠られている主イエスは、今目には見えないが常に聖霊と御言葉を通して臨在される復活のキリストと理解しました。そして、復活のキリストは常に教会と共にいて、教会をこの世の迫害からお守りくださると信じて来ました。

 

さらに大きな地震と大波を、旧約聖書は神の怒りによる滅びとして表現しています。主イエスは、人の子として神の最後の審判において、滅びと死を恐れた小さな信仰の弟子たちを慰め、励まされたように、死と神の裁きに不安を覚えるわたしたちの小さな信仰を励まし、慰め、あなたの罪は赦されたと宣言して下さるのです。

 

天の国に入るには、わたしたちは死と死後の神の裁きを通らなければなりません。しかし、主イエスは嵐を静め、弟子たちの死の不安を取り除かれたように、死と神の裁きへの不安の中で助けを求める信仰の小さき者に、「大丈夫である。恐れるな。あなたの罪はわたしの十字架の死によって赦され、あなたの命はわたしの復活と共に新しい命に甦るのだ」と励ましてくださるのです。

 

わたしたちは、地上の迫害、神の最後の審判に死と滅びの不安のゆえに、復活の主キリストがわたしたちの教会に共におられ、わたしたちに聖霊を通して内在されていることを忘れるかもしれません。しかし、キリストは御自身召された弟子を忘れられません。常に共にいて慰め、励まし、わたしたちの死の時も永遠の御国に至るまで、わたしたちを支えてくださいます。その主イエスの支えに信頼する、それを大きな信仰とマタイ福音書は証ししています。お祈りします。

 

 

 

御在天の父なる神よ。嵐を静める主イエスが、復活の主として、今聖霊と御言葉を通してわたしたちと共に、そして、わたしたちひとりひとりのうちに共にいてくださっていますことを感謝します。わたしたちも弟子たちのように小さな信仰であり、大地震、津波に恐れおののき、原発事故の放射能に恐れ、あなたが常にわたしたちと共にいてくださることを忘れ、不安に悩まされる者です。しかし、主イエスよ、わたしたちを召されただけでなく、わたしたちを慰め、励まし、神の御国まで導いてください。主に支えられて一日一日を歩ませてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教032           主の201151

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心を開き、あなたの御言葉を読み、取り次ぐ者を清め、あなたの御心をはっきりと宣べ伝えることができるようにしてください。わたしたちにあなたの御言葉をください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」

 

 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。

 

                    マタイによる福音書第82834

 

 

 

  説教題:「悪霊を追い出す主イエス」

 

 主イエスは弟子たちと舟に乗り、ガリラヤ湖の向こう岸、ガダラ人の地方に行かれました。

 

 ガダラ人は、神の民ユダヤ人ではありません。異邦人です。主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖のカファルナウムの町から舟に乗り、その向かい側のガダラ人たちの住む地に行かれました。

 

マルコによる福音書に同じ記事があります。そこでは、「ゲラサ人の地方に着いた」と記しています(マルコ51)

 

聖書の後ろに聖書地図が付いています。地図に番号があり、その「6新約時代のパレスチナ」という表題の地図を見てください。カファルナウムの町の向こう岸に、岸よりおよそ10キロ入ったところにガダラの町がありますね。さらに下を見ますと、ゲラサの町がありますね。ガダラとゲラサは別の町であります。マタイ福音書は、マルコ福音書の「ゲラサ」を「ガダラ」に訂正しました。

 

さらに地図を見ますと、太い点線に囲まれた地域一帯を、太い字で「デカポリス」と記していますね。「デカポリス」とは、「十の町」という意味です。ユダヤ人ではない、ギリシア語を話す異邦人たちが十の町を建てました。そして、デカポリスはギリシア語を話す異邦人たちが移住し、ローマ風の建築を建て、異教の神殿を造り、ギリシア文化と商業が栄えました。ローマ帝国は、デカポリスの町々の住民たちにその地を治めさせ、ユダヤの国と同じように、シリアの総督がデカポリスを監督しました。そして、主イエスの時代、デカポリスの町々にユダヤ人たちも住んでおりました。

 

 マタイ福音書は、主イエスの福音宣教と癒しの御業がユダヤの国に留まらなかったことを短く証言しています。マタイによる福音書423節から25節です。主イエスは、大勢の病人たちや悪霊に取りつかれた者たちを癒す奇跡を行われました。大勢の群衆たちが、いろいろな病気で苦しみ悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者たちを連れて来ました。そして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダンの向こう側から大勢の群衆が主イエスに従いました。

 

 今朝の御言葉は、主イエスがデカポリスのガダラ人たちの地に行かれ、悪霊に取りつかれた二人の異邦人から悪霊を追い出して救われたことを記しています。

 

 聖書は悪霊の存在を昔から語り続けています。旧約聖書を読みますと、悪霊が主なる神の許しの下で人の心を惑わし狂わしている事実を記しています。旧約聖書の士師記923節です。こう記しています。「神はアビメレクとシケムの首長の間に、険悪な空気を送り込まれたので、シケムの首長たちはアビメレクを裏切ることになった」(旧約P397)。主なる神が送り込まれた「険悪な空気」とは「悪霊」のことです。主なる神は悪霊を遣わしてアビメレクとシケムの首長たちの心を狂わし、彼らを滅ぼされたのです。

 

もう一ヶ所はサムエル記上161415節です。こう記しています。「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。『あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。』」

 

 新約聖書を読みますと、悪霊は悪魔の支配下にあって働く霊的存在です。例えば、マタイ福音書12章に主イエスが悪霊を追い出されたとき、敵対者であるファリサイ派の人々が「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言いました(マタイ1224)。「悪霊の頭ベルゼブル」とは悪魔のことです。悪霊は、悪霊の頭ベルゼブル、すなわち、サタンの家来たちと考えられていました。

 

 さて、主イエスと弟子たちは、悪霊に取りつかれた二人の男たちに出会いました。彼らが住みかとしていた墓から出て来て、主イエスに助けを求めたのでしょう。

 

 墓は地面に穴を掘って、そこに遺体を葬る所です。主イエスの時代、岩をくり抜いて部屋のように造り、そこに遺体を置いて、入口を大きな石で塞ぎました。悪霊に取りつかれた二人の男たちは、その岩をくり抜いた墓に住んでいました。墓は穢れた所です。ユダヤ人たちは過越の祭の頃、墓を白く塗りました(マタイ2327)。宗教的汚れから身を守るためでした。

 

 墓から出て来た悪霊に取りつかれた二人の男は、生きた屍でした。神との交わりを失っていました。自分を自分でコントロールできませんでした。誰も彼らを抑えることができないほど、彼らは狂ったように暴れ、ガダラの住民たちは彼らが住んでいた墓の前の道を恐ろしくて歩けなかったのです。

 

 29節の「突然」という言葉は、そのまま口にしますと、「そして、見よ」です。弟子たちは信じられない光景を見たのです。主イエスに、二人の男に取りついた悪霊が、大きな叫び声を上げました。そして、主イエスに、悪霊たちは言いました。

 

 悪霊たちは、主イエスを「神の子」と告白しました。荒野で主イエスを試みた悪魔は、主イエスをエルサレム神殿の屋根の上に連れて行き、主イエスに「神の子なら飛び降りたらどうだ」と、主イエスの確信を崩そうとして、失敗しました(マタイ46)。当然サタンの家来である悪霊たちは、主イエスが神の子であると知っています。主イエスは父なる神と本質的に結び付いたお方であると知っています。悪霊は、主イエスを主なる神と恐れているのです。サタンの家来である悪霊たちと、主なる神である主イエスは関係がありません。むしろ、悪霊たちは、主なる神、主イエスが最後の審判の日に、彼らを滅ぼされることを恐れているのです。

 

悪霊たちは、主イエスに言いました。「神の子、かまわないでくれ」。そのまま悪霊の言葉をくちにすれば、「神の子、わたしたちに、また、あなたに、何か」です。悪霊たちは、主イエスに「おれたちとお前と何の関係があるのか」と叫んだのです。そして、彼らは、主イエスに言いました。「お前が世を裁く時はまだ来ていないではないか。おれたちを苦しめるために、わざわざここに来たのか」。

 

悪霊は、人の中に入り込むことができます。それによって人の精神と肉体に悪しき影響を与えています。しかし、主イエスに出会った悪霊は、今主なる神であるキリストが滅ぼされる日が来ていないのに、彼らを苦しめるためにガダラに来たことを恐れています。

 

マタイ福音書がわたしたちに伝えたいのは、主イエスが荒野のサタンの誘惑に勝利されたように、悪霊たちに勝利されたことです。

 

マルコ福音書は、主イエスに悪霊たちが抵抗したこと、悪霊を追い出してもらった男が主の弟子になることを懇願し、許されなかったこと、主イエスの命令に従い郷里伝道したことを記しています。マタイ福音書は、それをすべて削除し、主イエスは神の子であり、悪霊たちを滅ぼす力を持たれていることを強調しています。

 

悪霊たちは、主イエスに何ら抵抗しないで、主イエスに乞い願い、言いました。近くに豚の群れを飼う者たちがおりました。「我々を追い出すならば、あの豚の群れの中に遣わしてくれ。」

 

主イエスは悪霊たちにお命じになりました。それは、悪霊たちを支配されたという意味です。人間が自由にできない悪霊たちを、主イエスは思いのままに支配し、豚の群れに閉じ込められました。

 

悪霊たちは二人の男から出て、豚の中に入りました。32節です。「すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中に沈んだ」とあります。「すると、見よ」です。信じられない光景を、弟子たちと豚の群れを飼っていた者たちは見たのです。

 

主イエスが悪霊たちを追い出す奇跡を行われたのは、切り立った断崖が湖に突き出ている場所でした。豚の群れは湖に向かって切り立った崖の上から湖になだれ込みました。そして、湖に多数の豚の死骸が浮かび上がったでしょう。

 

豚の群れを飼っていた者たちは、信じられない光景を見て、驚き、その場を逃げて、ガダラの町に行き、町の人々に主イエスが悪霊に取りつかれた男たちを癒し、悪霊が豚の群れの中に入り、豚の群れが岸にある崖の上から湖になだれ込み死んだことを知らせました。

 

ガダラの町の人々皆は、思いがけないニュースに大変驚いて、主イエスに会いに来ました。ところが、町の人々は、主イエスを見て、町から出て行くようにお願いしました。主イエスに感謝するどころか、主イエスを町から追い出しました。

 

マタイによる福音書820節に主イエスが「人の子には枕する所もない」と言われていますように、主イエスは神の子として悪霊たちに勝利し、二人の男を救ったのに、この世に受け入れられませんでした。

 

ガダラの町の人々は、主イエスが悪霊に勝利されたことを驚き、主イエスに会おうと関心を示しましたのに、いざ会って見ると、二人の男が悪霊から救われたことより、多くの豚の群れを失ったことを惜しみました。

 

 マタイ福音書は、わたしたちにどうして主イエスが二人の男から悪霊たちを追い出す奇跡を記しているのでしょうか。その理由は、悪霊を追い出された主イエスは、今、復活の主としてわたしたちの教会に共にいてくださるからです。そして、マタイ福音書の時代にも悪霊は存在したからです。マタイ福音書と同じ時代に生きた使徒パウロが当時のキリスト教会に次のように注意しています。テモテへの手紙一の第41節です。「しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。」

 

悪霊が働き、信者の良心と信仰にも悪しき影響を与えていました。そして、信者たちを、主イエス・キリストから引き離そうとし、信者の心を惑わし、恐らく異端の教えに心を奪わせ、信仰から脱落させていたのです。使徒パウロは、「神の言葉と祈りによって聖なるものとされるのです」と、悪霊をわたしたちの心から追い出すために、神の御言葉と祈りが有効であると述べています。

 

神の御言葉、すなわち、教会の礼拝における説教を通して、わたしたちは復活の主イエスに出会うのです。そして、主イエスは聖霊を通してわたしたちの内に住まわれ、わたしたちの内より悪霊を追い出し、わたしたちを聖なる者としてくださるのです。

 

祈り、マタイ福音書の中心である1820節に主イエスのわたしたちへの約束があります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」礼拝、祈祷会、婦人会、男子会、聖書を学ぶ会、伊那集会。そこに復活の主イエスが共にいてくださいます。

 

礼拝が困難になれば、自宅に、病院に牧師を、長老たちを、教会員を招き、御言葉を読み、祈ってもらうことが大切です。使徒ヤコブも次のように勧めています。ヤコブの手紙51415節です。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいないさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」

 

わたしたちは、主イエスに「わたしに従え」と呼びかけられました。そして、復活の主がおられます教会の舟に乗り、この世の人生の荒波を航海し、主イエスの「わたしに従え」という声を、常に心に留めて、主イエスと共に歩むために、悪霊との戦いがこの世を去るまで続くのです。

 

使徒パウロは、わたしたちに悪霊を追い出された復活の主イエス・キリストに対する信仰という武具を身につけて、この世に働く悪霊と戦い続けるように勧めています。エフェソの信徒への手紙61012節です。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」

 

どうか、主イエス・キリストに自らを明け渡し、悪霊を追い出された主イエス・キリストの力を信じて、信仰を強くしてください。悪魔は、わたしたちを信仰から脱落させるためにあらゆる手段を用い、悪霊の働きを通して人の心を、わたしたちの良心と信仰に悪しき影響を与えようとしています。

 

わたしたちが悪霊に打ち勝つことができる道は、悪魔と悪霊に勝利された復活の主イエス・キリストへの信仰のみです。

 

わたしも今年のクリスマスで、洗礼を受けて、キリスト者になり、35年を迎えます。洗礼を受けてキリスト者となり、主に一つのことを願いました。わたしを教会から、礼拝から引き離さないでくださいと。主は、わたしを牧師に召してくださいました。弱い者を憐れみ、願いに応えて、御言葉から離れず、教会と礼拝から離れず、今朝もこうして御言葉と聖餐にあずかる恵みを与えられて感謝しています。そして、キリストの体なる教会につながる、礼拝をし、御言葉と聖餐にあずかることを通して、わたしは復活の主イエス・キリストに守られてきたと確信し、心より主を誉め称えます。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、悪魔の試みに勝利し、悪霊を追い出して勝利された復活の主イエス・キリストが、今わたしたちと共にいてくださり、御言葉を与えて、わたしたちの信仰を励まし、今より聖餐の恵みにわたしたちをあずからせて、わたしたちの信仰を強め、わたしたちを固く守り、御国へとお導き下さっていることを心より感謝します。わたしたちに「わたしに従え」と召された主イエスよ、どうかわたしたちの生涯をお守りくださり、この世のあらゆる誘惑と罪からわたしたちをきよめてくだい。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。