マタイによる福音書説教013           主の201095

 

 

 

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したらなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 

                      マタイによる福音書第52126

 

 

 

 説教題:「審判への途上」

 

 今朝は、マタイによる福音書第52126節の御言葉を学びましょう。

 

 主イエスがわたしたちにこの山上説教においてお教えになりたいことは、キリスト者の義であります。別の言い方をしますと、天の国の市民の生活についてであります。それは、神の御心に従う生活であり、神との正しい関係の生活ですから、義であります。

 

主イエスは、517節に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と言われました。そして、主イエスは712節に「これこそ律法と預言者である」と言われています。その中にキリスト者の義の教えがあります。

 

うまく説明できるか、自信はありませんが、わたしは、次のように思います。わたしたちは、「律法と預言者」という額に入った主イエスが教えられる「キリスト者の義」という絵を見せられていると。あるいは、「律法と預言者」という鉤()の中に主イエスの「キリスト者の義」の教えがあると、言うべきでしょうか。 

 

「律法と預言者」とは、旧約聖書のことですね。517節に主イエスは、この世に来られた目的を話されました。「律法と預言者」を廃止するためではありません。むしろ、旧約聖書において神が約束されたわたしたちの救いをすべて実現するためでした。旧約聖書の預言者たちは、旧約の時代の神の民イスラエルに律法、すなわち、神の御心を教え、そして、メシアであるキリストの来られることを預言しました。キリストは、それをすべて実現するために、この世に来られました。だから、キリストにとって律法と預言者、すなわち、旧約聖書は廃止するものではなく、成就するものでした。

 

さらに、主イエスは、弟子たちに「キリスト者の義」を教えるに先立ち、520節に「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と宣言されました。

 

「まさる」とは、律法学者やファリサイ派の人々が求めている義とは、質的に異なる義のことです。律法学者たちとファリサイ派の人々は律法を守り、行い、功徳を積むことによって神の御前に自らの義を得ようとしました。それとは全く質的に異なる義を、主イエスは弟子やわたしたちに求められました。それは、行う義ではなく、与えられる義です。すなわち、キリストの身代わりの死と身代わりの義とを、わたしたちが信じることによって、神から与えられる義です。この義だけが、わたしたちを天の御国に入れることができるのです。

 

このようにキリスト者の義は、キリストが神とキリスト者との間を仲立ちしてくださる義です。すなわち、神の律法を完全に守られたキリストが、常に神とわたしたちの間に立ってくださいます。わたしたちはその義なるキリストとの交わりに入れられ、キリストの義にあずかり、神の御国の市民として神の御前に、神に従って生きるのです。

 

以上のことを、踏まえて、主イエスの山上の説教の御教えに耳を傾けましょう。52148節は、主イエスが5つの神の律法に対する正しい理解とそれに基づくキリスト者の正しい生活、すなわち、キリストに仲立ちしていただいたわたしたちの神との正しい歩みを教えてくださいました。

 

「アンティテーゼ」、「反立命題」と呼ぶ人がいます。ロイドジョンズは、律法の間違った解釈と主イエスの正しい解釈が見比べられていると述べています。

 

わたしたちは、主イエスを仲立ちにして、神の律法の正しい理解を学び、その正しい神の律法の理解に従って生きるように導かれています。それが2148節の御言葉です。

 

聖書の見出しに「腹を立ててはならない」とありますね。聖書の見出しは、本来必要がありません。聖書を知らない者に理解の助けになるように付されているのでしょう。便利ですが、誤解を与えることもあります。ここでは、主イエスは、わたしたちに「腹を立ててはならない」と、誰にでも通用することを命じ、禁じられているのではありません。

 

21節に「あなたがたも聞いているとおり」とありますが、「あなたがたは聞いた」です。弟子たちは、どこで神の「殺すな」という律法を聞いたのでしょう。シナゴグ、会堂です。ユダヤの町々村々に会堂がありました。そこで主イエスは安息日ごとに礼拝において説教をされました。幼いころより会堂において主の弟子たち、そして主に従って来たユダヤの群衆は、律法を聞き、学びました。

 

「殺すな」は、十戒の第6の戒め、「殺すな」という神の禁止命令です。神は、モーセを通して「昔の人々」、すなわち、旧約時代のシナイ山のイスラエルの民たちに、「殺すな」と命じられました。それを、昔の人々は、「人を殺した者は裁きを受ける」と理解し、教えました。それを、ユダヤ人たちは、幼い時よりシナゴグ、すなわち、会堂で聞き続けました。その結果、「殺すな」と命じられた神の御心よりも、殺人をすると裁判官の処罰を受けなければならないという、法律の問題になってしまいました。

 

神がモーセを通して十戒を与えられたのは、法律の問題のためではありませんでした。神を愛し、隣人を愛する神の民を育てるためでした。

 

しかし、その神の御心が、「人を殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」という理解によってすっかり歪められたのです。ユダヤ人たちは、この理解によって神の「殺すな」という命令を、単なる文字にしてしまいました。法律文章にし、人殺しをせず、警察に逮捕されず、裁判を受けないなら、自分たちは神の命令を守っていると思っていたのです。わたしたち日本人の多くの者が、他人様に迷惑をかけなければ、良い人間であると思っているように、です。

 

それに対して主イエスは言われました。「わたしの神の『殺すな』という命令の解釈を聞きなさい」。

 

主イエスは、文字ではなく、心を問われました。そして、わたしたちの目を、この世の裁判官の裁きからこの世の終わりの神の裁きに向けさせられました。

 

この世の裁判官は、愛を規準に人を裁くことはしません。しかし、神は裁かれます。主イエスは、弟子たちに、そして、わたしたちにその真実に気づくように促されています。

 

主イエスは、神の「殺すな」という命令は、神の隣人を愛せよという御意志であり、「兄弟」、すなわち、主にある兄弟姉妹に対して怒る者は、神の御命令に背く者として、神の裁きを受けると宣言されました。

 

「兄弟」は、キリスト者同志のことです。また、キリスト者は内に聖霊を宿し、主イエスが内にいてくださる者です。だから、わたしたちが兄弟姉妹に怒ることは、神の隣人を愛せよという戒めに背き、キリストに怒りをあらわし、キリストを否定し、聖霊に罪を犯す、恐るべき罪を犯しているのです。

 

兄弟に「馬鹿」、「愚か者」と言うとは、兄弟を侮蔑することです。兄弟に対する軽蔑の態度です。この世では、人を軽蔑しても、人殺しのように裁判を受けることはありません。本当に小さなことです。わたしたちの中でも、自分を含めて、自分たちが兄弟を軽蔑しているなどと自覚している者はいないでしょう。それは、大きな罪と思っていないので、気付かないのです。

 

ロイドジョンズは、軽蔑と蔑みの気持ちは、究極的には殺人へと導く心に他ならないと指摘しています。しかし、わたしは、もっと深いと思うのです。旧約聖書の箴言に、貧しい者を蔑む者は、主を蔑む。主が貧しい者を創造されたのだからとあります。キリスト者は、父なる神と御子キリストが聖霊によってお造りになり、キリストがその者の内にいてくださいます。だから、兄弟を憎み、蔑む者は、キリストご自身を憎み蔑むのです。

 

旧約聖書に「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上167)とあります。神は、常にわたしたちの、兄弟に対する心を見られています。だが、わたしたちは、自分の心を検証することはできません。運よく、ある兄弟がわたしに「あなたの言動によって心を傷つけられました」と言ってくれるならば、わたしはその兄弟に心から自分のしたことを赦してくださいと和解できます。

 

しかし、現実は主イエスが、「思いだすなら」と言ってくださっても、わたしたちは思いだすこともありません。

 

今日は、礼拝の中で聖餐式を行います。教会は、聖餐にあずかる兄弟姉妹たちに主イエスのこの5章23節と24節の御言葉を告げて来ました。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したらなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」

 

隣人に向かうことが感謝の祈りと聖餐との基準であり、前提でありました。兄弟愛がなければ、教会の集まりは、そして聖餐も献金も無意味であると、教会は理解してきました。

 

さらに25節と26節に主イエスの裁きの言葉があります。兄弟と和解しない者の永遠の裁きを宣告されています。

 

榊原康夫牧師のマタイ福音書講解説教を読みますと、「和解するとは、心を変えることを意味する」とありました。わたしたちは、自分の心を、自分で変えられるでしょうか。自分では変えられないと思います。そのままにすれば、確実に神の裁きを受けて、永遠の滅びに至るでしょう。

 

主イエスは、「最後の一クァドランスを返すまで」と言われていますが、返せる見込みはありません。一旦神の裁きの場に立てば、何の恵みもないということを意味しているのです。

 

今朝の御言葉を、いろいろと思い巡しました。最初頭に浮かびましたのは、デンマークの哲学者キルケゴールの『死に至る病』という書物でした。

 

大学生時代に、春名純人先生の紹介で、キルケゴールの『現代批判』『野の百合、空の鳥』、そして『死に至る病』を読みました。

 

キルケゴールが『死に至る病』の本の終わりごろだと思いますが、人生を死刑囚にたとえているのに強く心を動かされました。人は、罪ある死刑囚であり、どんなに神を逃れようとしても、死という最後の駅に着けば、人生という列車から降り、死刑囚として神の裁きの場に連れて行かれると、彼は書いていたと思います。

 

さらに思いついたことは次のことです。犬と散歩しながら、諏訪湖の夕闇を見て、いつか自分にも人生の終わりが来るが、今主イエスがわたしにお求めになる兄弟を愛して生きる道は尋常ではないと、正直に思いました。

 

しかし、同時に思いました。主イエスは、神を愛し、兄弟を愛し、神の律法を完全に実現し、神の義を得られたのではないかと。その主イエスが神とわたしの仲立ちになり、最後の神の裁きの場に、わたしが払い切れない罪の刑罰を支払ってくださり、わたしにご自身の義を与えてくださるのだと。

 

夕闇の諏訪湖を本当に美しく眺めることができました。

 

そして、ある説教を読み、アウグスティヌスの面白いたとえ話を思い起こしました。アウグスティヌスは説教で言いました。犬が飼い主の後について行くように、わたしたちは主の後についていかなければならない。犬は律法という鎖に繋がれてはいない。飼い主への信頼のゆえについていく。わたしたちも主イエスを信じるゆえに、主イエスの後に従わなくてはならないと。

 

主イエスは、神とわたしたちの仲立ちとして、わたしたちにお求めになることはわたしたちが罪を犯さないことではありません。罪を繰り返し犯しても犬が死ぬまで飼い主について行くように、主イエスの後に従うことです。その先にしか、わたしたちの確かな希望はありません。そして、未来からキリストは、わたしたちを聖餐に招き、その確かな希望をわたしたちに確信させてくださるのです。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、あなたが御子キリストをわたしたちの仲立ちとして、わたしたちの罪の身代わりに死に、ご自身の義をお与えくださり、今御言葉と共に聖餐の恵みにあずからせてくださり、感謝します。主イエスの山上の説教の素晴らしい恵みを、この町の人々に伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教014           主の2010912

 

 

 

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 

 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 

                      マタイによる福音書第52732

 

 

 

 説教題:「主よ、助け、清くしてください」

 

今朝は、マタイによる福音書第52732節の御言葉を学びましょう。

 

 主イエスは、弟子たちに言われました。「あなたがたも聞いたことである」と。それは、昔イスラエルの民が、出エジプトの後にシナイ山に着き、そこで神が指導者モーセを通して民に十の戒めを与えられました。その中の一つが、「姦淫するな」という神の命令でした。  

 

実は、神がイスラエルの民にシナイ山において指導者モーセを通して十戒を与えられるところは、旧約聖書の出エジプト記19章と34章であります。神がイスラエルの民を奴隷の地エジプトから解放して、神の民イスラエルを造り上げられるために神の律法を与えられました。その出来事が、神が民イスラエルと共にいてくださる、インマヌエルという出来事の中で物語られています。

 

 マタイによる福音書も同様です。すでに学びましたマタイによる福音書の1章の主イエス・キリストの誕生の出来事においてインマヌエルという御言葉があり、マタイによる福音書の最後の主イエスの大宣教命令において主イエスは弟子たちにインマヌエルを約束されています。そして、この福音書の中心である1820節に、主イエスは主の御名によって2人、3人集まるところにインマヌエル、「わたしも共にいる」と約束してくださいました。

 

 だから、山上の説教における主イエスが弟子たちに、主に従った群衆にお教えになる天の国の義、神の国の市民の義、わたしたちにはキリスト者の義ですが、その義は、インマヌエルの義です。神が神の民と共にいて、神の民をお救いくださる義です。主イエスがわたしたちと共にいて、主イエスがわたしたちを父なる神に執り成してくださる義です。

 

 ですから、この山上の説教において主イエスがお教えになることは、聞きますわたしたちがその命令を守ることは無理であると思うことを目的とはしていません。むしろ、主イエスは常にどんな状況の中でも、わたしと一緒にいてくださって、わたしたちにこの要求が真の神の御心であるとお告げになります。そして、その要求を、父なる神に従順に従われることによって実現したお方として、真に神の義をお持ちになるお方として、どこまでもわたしたちに寄り添ってくださる、この喜びをマタイ福音書はわたしたちに伝えようとしています。

 

主イエスは、「姦淫するな」という神の御命令を、ユダヤ人たちが法律の文章にしていることを批判して、彼らの心を問われました。人の心を見て、その心を問うことができるのは、主イエス・キリストが神の御子であるからです。そして、神は人の心を御覧になるだけでなく、悪しき心、思い、情欲をお裁きになられます。だから、主イエスも、人の心を問われ、人の悪しき情欲を罪としてお裁きになるのです。

 

28節の「わたしは言っておく」は、とても強い表現です。神であるわたしは、宣言すると言われています。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

 

どんな思いで、弟子たちは、そして、従った群衆は、主イエスのお言葉を聞いたのでしょうか。主イエスの時代、ユダヤの社会は、男性優位の社会でした。「姦淫するな」、その姦淫の罪が成り立つのは、妻の夫に対して犯した罪でした。それを、主イエスは女性に対して犯す罪として、しかも男性が心の中で他人の妻を見て抱いた情欲を、神の御心に背くことであるとはっきりと言われました。

 

主イエスのお教えの目的は、何だったのでしょうか。他人の結婚を破る目的をもって、意識して他人の妻を見つめることを、罪とされました。

 

神の十戒の10番目に「他人の妻をむさぼるな」と、神が命じられています。「情欲を抱くこと」と「むさぼる」ことは、同じ行為であります。むさぼりの罪を犯すことは、姦淫の罪をも犯すことになるのです。

 

主イエスは、男性の罪しか指摘されていませんね。この「情欲を抱く」という罪は女性には関係ないのでしょうか。そうではありません。ユダヤ社会では、男が人間の代表でした。心の中に情欲を抱く罪に、男女の差はありません。

 

さて、「情欲を抱く」罪の代表者は、ダビデ王であります。彼は、部下ウリヤの妻の入浴を見て、心の中に情欲を抱き、実際に自らの手に他人の妻を抱きしめて、むさぼり、姦淫の罪を犯しました。

 

ダビデ王の姦淫の罪に対して主なる神は、預言者ナタンをお遣わしになり、ダビデ王に裁きをお告げになりました。同時に、主なる神は、ダビデ王を憐れまれました。ダビデ王との契約をお捨てになりませんでした。「わたしはあなたの神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」という約束です。主なる神は、常にインマヌエル、ダビデ王と共にいてくださいました。

 

主イエスも同様です。心の情欲によって他人の妻を犯して、姦淫の罪を犯した者に、他人の結婚を破ろうとした者に、大変厳しい裁きの言葉を告げられています。他人の妻を、情欲をもって見て犯した右目はくりぬけ、姦淫を犯した右手は切り捨てよ、体が一部不自由なっても、体全体が地獄に落ちるよりもましだと。

 

主イエスのこの厳しい裁きの言葉は、わたしたちに他人の結婚を破壊することがどんなに恐ろしい罪かを認識するように促されています。

 

主の裁きの言葉を実行することをお求めになってはおられません。もしお求めになられているのならば、主イエスはヨハネによる福音書の姦淫の女をお裁きになられたでしょう(ヨハネ753811)。律法学者とファリサイ派の人々が姦淫した女を連れて来ました。主イエスは何か地面に字を書かれていました。そして、彼らに「罪を犯したことのない者がこの女に石を投げよ」と命じられました。主イエスは、姦淫の罪を厳しく罰せられました。しかし、女に石を投げる者はひとりもいませんでした。むしろ、年輩の者たちから主イエスから離れ去りました。姦淫の女一人が残りました。あれほど厳しい言葉をおかけになった主イエスは、この女の罪のためにも十字架にかけられるべきお方として、女に「わたしもあなたを罪に定めない。二度と罪を犯さないように」と告げられました。主イエスは、姦淫の女に右目をくりぬくことも右手を切り捨てることも要求されませんでした。

 

わたしたちは、先に「殺すな」という神の命令に対して主イエスが、兄弟姉妹への心の憎しみを問題にされ、わたしたちがその罪を犯す危険の中でも、主に従い続けるように励まされました。

 

ここでは、心の中で姦淫の罪を犯し、主イエスは厳しい裁きの下にあるわたしたちに、姦淫の女のように罪にまみれたまま、主イエスのもとに留まり続けるように励まされています。

 

31節は、旧約聖書の申命記第241節の御言葉です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」

 

実は、モーセは、離縁を勧めてはいません。神の民イスラエルの心が頑ななので、一端離縁すると、その女性が他の男と結婚すれば、二度と縁りを戻せないと警告しているのです。

 

先ほどからお話ししていますように、ユダヤ社会は男性優位の社会でした。女性には離婚の権利はなく、男性は身勝手に女性に離婚状を手渡すことができました。料理が下手である、それだけで、夫は妻に離縁状を手渡しました。

 

モーセの警告を、ユダヤ人の男性たちは、離縁の手続きの問題にしてしまいました。こうして神の召しの事柄としての結婚は、ユダヤ人の中で破壊されていたのです。

 

そこで主イエスは、神の御心を明らかに告げられました。主イエスは言われました。「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 

「不法な結婚でもないのに」という言葉は、主イエスのお言葉そのままではありません。主イエスは「淫行の理由による以外で」と言われています。

 

今までの理解は、不貞以外の理由で妻と離別する者は、です。しかし、本当に主イエスが何と言われたのか、よく分からないというのが、正直なところです。

 

だから、新共同訳聖書も、「不法な結婚でもないのに」という、ひとつの解釈を提案しています。それは、不貞ではなく、「不正な関係」を意味すると理解しています。

 

それに従って主イエスのお言葉を理解すると、次のようになります。「非合法で不道徳な関係を解消するならいざ知らず、正しく結婚している夫婦の場合、人間の身勝手で離婚するのは、自分も相手も恐ろしい罪に落ちて裁かれることを考えなければなりません。」

 

主イエスが指摘されたことは、こうです。「人の罪が離婚を考える。もっともらしい理由をつけて、離婚を正当化している。しかし、実体は妻に姦淫を強いただけだ。」と。

 

なぜならば、主イエスの時代の女性は、離婚されれば、再婚する以外に生活の糧を得る道は残されていませんでした。

 

この離婚の問題を、マタイ福音書が取り上げているのは、教会のためです。教会は、キリストの土台の上に立てられています。預言者と使徒たちの権威に基づいて、すなわち、聖書の権威に基づいて教育され形成されています。教会は、神を礼拝し、神を愛し、兄弟を愛する交わりであります。その交わりを構成するのは、神の家族であります。「あなたが信じれば、あなたの家族も救われる」と、主が約束して下さいました。教会の構成員は、信者とその子供たちです。

 

教会を形成していく上に家族は重要であります。その家族は、一人の男と女が、主に召されて一体となることから始まります。だから、結婚の清さは、教会の聖なる交わりを豊かに祝福します。

 

ウェストミンスター信仰告白も、第24章に「結婚と離婚について」信仰告白しています。そこで結婚の目的を次のように告白しています。「結婚は、夫婦お互いの助け合いのため、嫡出の子供をもって人類を、またきよい子孫をもって教会を増加さすため、また汚れの防止のため、制定された」と。

 

今朝の御言葉は、心の中の姦淫の罪と離婚の手続きが問題にされています。それを結び付けるのは、インマヌエル、教会です。教会を健全に建て上げて行くために、神の召しである結婚の清さを、わたしたちが守ることが、マタイ福音書の祈りであり、願いだと思います。

 

主なる神は、族長アブラハムとの契約を結ばれ、「わたしはあなたとあなたとの子孫との神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と約束し、イエス・キリストによってそれを実現されました。それが、マタイ福音書が証しします教会です。主は、わたしたちに「あなたが信じれば、あなたの家族も救われる」と約束してくださいました。そして、使徒パウロを通して、たとえ未信者の夫、妻であっても、「清い」と宣言してくださいました。だから、未信者と結婚しても、主はその家族を祝福し、子供たちを、その子孫を神の祝福の中に歩ましてくださいます。それを確信するところが、この教会という神の祝福の場所です。この教会がこの諏訪の地に存在し続けることを願い、わたしたちは「主よ、助け、清めてください。あなたの民をお集めください」と祈り、歩みましょう。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、あなたの御子キリストを仲立ちとして、わたしたちに清さをお与えください。わたしたちの教会を清め、結婚を清め、家庭を清めてください。どうか復活の主イエスよ、わたしたちと共にいてください。聖霊と御言葉を通して。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教015           主の2010919

 

 

 

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

                      マタイによる福音書第53337

 

 

 

 説教題:「常に神の御前に畏れを持て」

 

今朝は、マタイによる福音書第53337節の御言葉を学びましょう。

 

 主イエスは、過去のお方ではありません。復活されました。天に昇られ、父なる神の右に座されています。そして、今、聖霊と御言葉を通して、インマヌエル、「わたしはあなたがたと共にいる」と弟子たちにお約束してくださった通りに、わたしたちの主として、ここに共にいてくださいます。そして、弟子たち同様に、今、主イエスはわたしたちにも語りかけてくださっています。ですから、主イエスの山上の説教は、マタイによる福音書の一部である以上に、直接に復活の主イエスが弟子たち同様に、上諏訪湖畔教会のわたしたちに語りかけておられるのです。 

 

主イエスが弟子たちに言われます。「聞いているとおり」と。これが主イエスの教えの語り出しの言葉です。現代は、見る時代ですね。テレビとインターネットによって、わたしたちの日常生活は聞くよりも見ることに重きが置かれていますね。聖書の時代の人々は、そして、主イエスの時代の弟子たちは、聞くことを重んじました。聞いて学びました。神の声を聞いて、信仰を養いました。

 

主イエスが「聞いている」と言われます時、そこにはユダヤ人たちの一つの信仰の姿勢が示されていました。聞き服従する信仰の姿です。

 

さて、主イエスが弟子たちに「昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。」と言われていますね。これは正しく言いますと、シナイ山で神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒の御言葉ではありません。 

 

主イエスは、旧約聖書の二つの御言葉を用いられました。一つは、旧約聖書のレビ記1912節の御言葉です(旧約聖書P192)。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。」この御言葉は、十戒の第3番目の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記207)という神の命令に基づくものです。

 

もうひとつの「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という戒めは、旧約聖書の御言葉をそのまま主イエスは引用されていません。主イエスのこの御言葉に一番近いのが、詩編5014節の御言葉です(旧約聖書P883)。ところが、わたしたちの手にしています新共同訳聖書は、それが理解できないほど違った日本語になっています。「告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ」。ヘブライ語の旧約聖書をそのまま訳すと、こうです。「生け贄を献げる者は、神に感謝を、また果たせ、いと高き神に、おまえの誓いを」。民数記303節に誓願の規定があります。「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。」(旧約聖書P2667)。他にも似た誓願の規定があります。これらは、神に対してする誓願という誓いです。

 

ユダヤ人たちにとって神に誓うことは、決して簡単なことでありませんでした。ユダヤ人たちは、神の聖さから誓いを考えました。神は、「神の御名をみだりに唱えてはならない」と禁じておられます。だから、人は誰も神の御名によって誓うことはできないと思ったのです。誓うことは、神の御名を汚し、冒涜することにならないだろうかと思ったのです。

 

たとえば、主イエスの時代にエッセネ派という敬虔なユダヤ人たちの信仰集団が存在していました。ユダヤの歴史家ヨセフスも、『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』という彼の著書に、エッセネ派の人々が誓約を否定し、ヘロデによって臣下の忠誠を誓うことから免除されたことを証言しています。しかし、エッセネ派の人々は、すべての誓いを否定したのではありませんでした。彼らの教団に入団する者に誓約をさせました。法廷の誓約も認めていました。彼らは、私的な誓約を禁じていました。誓約に神の御名を用いることを避けました。

 

こうしてユダヤ人たちにとって神に誓うことの問題が、神の御名をみだりに唱えることを避けるには、どうするかという方法論になりました。そして、3436節にありますように、神の御名を避けて、「天にかけて」「エルサレムにかけて」「あなたの頭にかけて」誓うなら、神の御名をみだりに唱えていないので、神の御名を汚し、神を冒涜することはないと考えたのです。

 

主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちにとても強く、そしてとても過激なことを言われました。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」と、誓いを立てることを一切禁じられました。

 

主イエスのお言葉に、弟子たちがどのように答えたのか、何も記されていません。弟子たちの心に驚きが起こったことは想像できますね。これまで誓いを問題にする者はいたでしょう。それを徹底的に「誓いを一切立ててはならない」と権威を持って命じた者は、主イエス以外にいなかったからですね。

 

その衝撃は、現代も教会の中に続いています。キリスト教会の歴史において主イエスの御命令を文字通り守るキリスト者たちが現れました。今も文字通りに守っているキリスト者たちが存在しますね。過去には宗教改革時代のアナバプテストです。今日ではメノナイト、クエーカー派のキリスト者たちです。彼らは文字通りに主イエスの御命令を守り、一切の誓約を拒否していますね。

 

本当に主イエスは、今ここにいるわたしたちにすべての誓いを拒否するようにお求めになっているのでしょうか。

 

よく主イエスのお言葉を聞いてください。何度も主イエスが「わたしは言っておく」と繰り返されていますね。これは、普通「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という、主イエスの誓いの言葉ですね。砕いて言えば、「神の子であるわたしこそが誓ってあなたがたに言う」と言われました。主イエスの御命令の言葉は、過激ですが、主イエスの言われた言葉全体からは、主イエスが文字通りにすべての誓いを立てることを禁じられているようには読み取れないのです。そうであれば、使徒パウロは、主イエスの御命令に違反していますね。コリントの信徒への手紙Ⅱの1章23節です。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが」と、パウロはコリント教会に手紙を書います。

 

主イエスの過激な御言葉は、誓いそのものよりもユダヤ人たちが誓いの神の真意を、手続きの問題、方法論に変えてしまったことに向けられています。誓いは手続きの問題ではありません。神の御名を避けたら、解決できる問題ではありません。誓いは、神にわたしたちの信実が問われているのです。神の御前にわたしたちが嘘、偽りを誓わない、語らないことを問われているのです。

 

旧約聖書の律法は、誓いによって嘘を退けようとしました。キリストは、わたしたちの嘘、偽りを、誓いの禁止によって退けられました。

 

誓いは、聖書においては神とわたしたちとの信実の関係が問われていますね。族長アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフたちは、神との契約に忠実に生きました。「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたがたがわたしの民となる」という神の約束です。彼らの罪を正直に認めて、偽ることなく主なる神のみを信頼しました。神の約束を信じて、神に服従しました。モーセもダビデ王も、イザヤやエレミヤたち預言者たちも同じ信仰の道を歩みました。神の語られる御言葉のみを「然り、然り」とし、神以外の者の命令を「否、否」として、ただただ神との信実の関係を守り、偽ることなく主なる神に服従して歩みました。

 

何よりも、キリストご自身が、真実に父なる神の御前に畏れをもって偽ることなく生きられました。父なる神の御心だけを「然り、然り」とし、従順に十字架の道を歩まれました。そして、荒れ野において悪魔の誘惑を「否、否」と退け、十字架においても祭司たちの誘惑の声を、「おまえが神の子なら、十字架から降りてこい」という声を「否、否」と退けられました。

 

さらに心に留めること、わたしたちの慰めは、主イエスの御言葉に嘘、偽りがないことです。主イエスほど言葉に偽り無きお方はおられません。決して嘘、偽りを語られませんし、偽りをされません。その生き方を、わたしたちキリスト者の模範として残されました。 

 

ペトロの手紙Ⅰ第2章21-23節です。使徒ペトロは、こう証言しています。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」(新約聖書P431)

 

使徒ペトロは、キリストはわたしたちがキリストに服従して歩めるように、模範を示されたと証言します。「その口に偽りがなかった」と。そして、具体的にはキリストは人に罵られても、罵り返されなかった。苦しめられても、人を脅されなかった。正しくお裁きになる神にすべてをお任せになられたと証言しています。

 

主イエスの山上の説教は、単なるわたしたちへの救いの約束ではありません。命令でもありません。わたしたちと共にいてくださる、そしてわたしたちを父なる神さまに執り成してくださるキリストが、共に歩むわたしたちを神の御前に立たせてくださるのです。そして、わたしたちを、旧約時代のアブラハム、モーセ、ダビデ王、そして多くの預言者たちがこの主の命令によってどのように素晴らしい神の恵みの中に生きたかを体験させてくださるのです。

 

常に主は、わたしたちの言葉に耳を傾け、会話を聞いておられることを、恐れをもって知ることも大切でしょう。それ以上にマタイ福音書は、わたしたちにアブラハム、イサク、ヤコブたち族長が、モーセやダビデ王が、預言者たちが神の義のために努力し、どのように神の恵みによって義とされたかを知り、キリストの御生涯と十字架と復活の御業によって、キリストご自身が神の御前に偽ることのない言葉と行いによって従順に歩まれ、得られた神の義を、共に歩むわたしたちに与えて、神と人とに偽りなき歩みを導き、御国へと歩ませてくださる恵みを見るように、この慰めを聞くように促しているのです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちが偽ることなく、神の御前に罪と弱さを認め、キリストの十字架にのみ希望を持ち、信仰の生涯を歩ませてください。どうか復活の主イエスよ、わたしたちと常に共にいてください。神の御前に畏れをもって歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。