マタイによる福音書説教089           主の201323

 

 

 

 聖霊の照明を求めてお祈りします。「聖霊なる神よ、聖書の御言葉とその説き明かしである説教に、わたしたちの耳を傾けさせてください。キリストの福音を聞きますわたしたちに信仰を与え、心をへりくだり、キリストをわたしたちの救い主と信じ、受け入れることができる者とならせてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。」

 

 

 

 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえ、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、教えてください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

 

                マタイによる福音書第221522

 

 

 

説教題「神のものは神に返す」

 

マタイによる福音書は、21章より27章まで受難週の主イエス・キリストを物語っています。日曜日に主イエスはろばの子に乗ってイスラエルの王としてエルサレムの都に入城されました(マタイ21111)。そして、主イエスは、翌日の月曜日にエルサレム神殿の境内にお入りになり、そこで商売していた者たちを追い出し、宮清めをされました(211217)。そして、マタイによる福音書は、2118節より265節まで受難週の3日目、火曜日の出来事を長々と物語っています。

 

ユダヤの宗教的指導者たちが、主イエスに何の権威によってエルサレム神殿の境内において民衆に教え、いやしをしているのかと質問しました。主イエスは彼らの質問を切っ掛けにして、彼らに3つのたとえ話をし、彼らの不信仰を指摘されました。

 

それを聞きましたユダヤの指導者たちは、一旦主イエスのところを離れて、主イエスを捕らえて殺すために、主イエスの言葉じりをとらえて、罠にかける相談をしました。それが本日の御言葉です。そして、指導者たちは主イエスにこれから様々な論争します。

 

主イエスがユダヤの指導者たちと決定的に対立され、十字架の道を歩まれることを、マタイによる福音書は、3つのたとえ話に続いて、4つの論争と23章の主イエスのファリサイ派の人々への非難を通して、描いています。

 

今朝は、最初の論争を学びましょう。納税の問題です。ユダヤ人は、ローマ皇帝に税金を納めるべきか、納めるべきではないかという論争であります。

 

ユダヤ人にとりましてこの問題は、主なる神のみに仕えるか、否かの問題でした。ユダヤ人たちは、ヘロデ家の支配からローマ帝国に支配へと変わり、ローマ皇帝に税金を納めるという難しい宗教的問題を抱えました。そして、実際にユダヤ人たちが皇帝に税金を納めることを拒み、ローマ帝国からの独立を企てて、ユダヤ戦争が起こりました。

 

この戦争は、ローマ帝国の税金が苛酷であったという経済問題ではありませんでした。ユダヤ人たちにとって真の王は、主なる神であります。その主なる神に仕えるべきユダヤ人が、異邦人の王、しかも皇帝礼拝を迫り、自らを神と称する偶像礼拝者に税金を納めることは、主なる神を裏切ることであると、モーセの十戒の第1戒の主なる神のほか何ものも神としてはならないという神の掟を破ることだと、ユダヤ人たちは理解しました。

 

ファリサイ派の人々は、主イエスを殺すという共通の目的のために、日ごろ仲が悪かったヘロデ派の人々と手を組みました。

 

「ヘロデ派の人々」と呼ばれています団体は、福音書の中には、この箇所以外に2回出て来ます。マルコによる福音書の36節と1216節です。ヘロデ王家を支持するユダヤ人の団体であります。この団体は、ローマ人ではなく、ヘロデ王家の者がユダヤの国を治めることを望みました。主イエスはそれを望まれなかったでしょう。だから、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は仲が悪かったのですが、彼らにとって主イエスは共通の敵であり、主イエスを殺すという点で一致することが出来たのです。

 

そこでファリサイ派の指導者たちは、彼らの弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に主イエスのところに遣わして、主イエスにユダヤ人にとって皇帝への納税という難しい問題に答えさせて、主イエスの言葉じりを捕らえて、次のようにしようとしたのです。

 

まずファリサイ派とヘロデ派の人々は、主イエスに「先生」と呼びかけて、近づきました。彼らにとって主イエスは、メシアではありません。ひとりの教師に過ぎません。しかも彼らは、主イエスを立派な律法の教師であるとおだてています。彼らは、主イエスに言います。「わたしたちはあなたのことを知っています。あなたは真実の方です。神の道である救いを真実に教えて、誰の顔色も窺わないで、本当のことをおっしゃる」と。

 

彼らが主イエスに歯が浮くような言葉を言ったのは、ローマ皇帝への税金も問題を、神の律法に照らして、納めることが正しいのか、正しくないのかと質問するためでした。

 

それによって彼らは、主イエスがユダヤ人たちのようにモーセの十戒の第1戒に従って、ローマ皇帝に税金を支払うことを否定してくれれば、彼らは主イエスをローマ皇帝に反逆を企てている者という烙印を押して捕えることができます。

 

反対に主イエスがローマ皇帝に税金を支払うようにと、皇帝への納税に賛成されれば、主イエスは主なる神を裏切り、ユダヤの国を異邦人に売る悪人であると、ユダヤ民衆に訴えて、群衆たちが主イエスに失望するように仕向けることができます。彼らの主イエスへの質問は、とても巧妙な罠でありました。

 

そこで主イエスは、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々の偽善を見抜かれました。彼らは、主イエスに表向きは皇帝への税金の問題を、神の律法に適うか、否かを問いましたが、その裏で彼らが企てていたことは、主イエスを殺すことでありました。

 

主イエスは、彼らの悪意に気づいて「偽善者たちよ」と非難されました。ユダヤ人たちの言葉で、「偽善者」とは自分を隠す者という意味です。新約聖書のギリシャ語の「偽善者」という言葉は、舞台で様々の役を演じている俳優を指す言葉でした。ファリサイ派の人々は、外面(そとづら)では神の律法に照らして皇帝への税金に反対しながら、現実に妥協し、皇帝への税金を神から課せられた重荷と勝手に解釈して納めていました。ヘロデ派の人々は、ローマ帝国を支持し、ヘロデ家の再興を願っていたので、皇帝への税金には賛成していたのです。そのような偽善者たちが一致して、心の中で主イエスを殺そうと企み、その自分たちの悪しき心を隠して、表向きは敬虔そうな姿で、主イエスに近づき。質問したのです。

 

「わたしを試そうとする」とは、「なぜ、あなたがたは、わたしを捕らえようとするのか」という意味です。主イエスは、彼らが思っているようなひとりの教師ではありません。そうであれば、彼らの敬虔な姿に騙されて、彼らの求めるどちらかの答えを選択し、答えたでしょう。あるいは、「分かりません」と正直に言ったかもしれません。主イエスは、主なる神です。だから、人の心を見通すことがお出来になりました。聖書に次のように証しされています。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上167)

 

さらに主イエスは、彼らに「税金に納めるお金を見せなさい」とお命じになりました。そこで彼らは、デナリオン銀貨を持って来ました。そこで主イエスは、彼らに貨幣に刻まれた肖像と銘をお示しになり、「だれのものか」と質問されました。彼らは「皇帝のものです」と答えました。

 

デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻まれていました。銘は記号です。貨幣の表には月桂樹の冠をかぶった皇帝の肖像が彫られていました。そして、その肖像の周りに「崇高なる皇帝ティベリウス、神聖なるアウグストゥスの子」という銘が刻まれていました。そして裏には神の座に座るティベリウスの母の像が彫られ、「大祭司」の銘が刻まれていました。この貨幣は、ローマ皇帝の所有であることを公にしていたのです。

 

だから、主イエスは、彼らに税金の貨幣に彫られた肖像と刻まれた銘をお示しになり、「誰のものか」とお尋ねになりました。彼らは、「皇帝のものです」と答えました。この貨幣はローマ皇帝の所有物ですと答えました。そこで主イエスは、彼らに「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお命じになりました。

 

主イエスは、税金に支払う貨幣を御覧になり、貨幣の表も裏もローマ皇帝と彼の母の肖像を彫り、この貨幣に銘を刻んで、皇帝の所有であると主張しているのであるから、「皇帝のものは皇帝に」返しなさいと言われました。主イエスは、この地上におけるローマ皇帝の所有と支配を認めておられます。だから「皇帝のものは皇帝に」と言われました。

 

しかし、主イエスが彼らに本当に言われたかったことは、それに続けて、「神のものは神に返しなさい」と付加された御言葉です。

 

この世は、主なる神が創造されたものです。わたしたちは、「皇帝のもの」と「神のもの」と区別を付けるでしょう。国家と教会と区別するでしょう。この世と神の国を区別するでしょう。

 

しかし、主イエスは区別されません。主イエスにとって「皇帝のもの」と「神のもの」はすべて神のものであり、御自身の所有であります。国家も教会も主のものです。この世も神の国も、主のものです。メシアである主イエスは、天地万物の創造者、すべてのものの所有者です。主イエスは、皇帝にこの世における所有と支配を委ねておられるのです。本来は、すべてのものは「神のもの」であり、わたしたちはすべてのものを、自分自身も含めて、神にお返しすべきなのです。それが、わたしたちの神礼拝です。

 

主イエスがユダヤの指導者たち、ファリサイ派の人々、ヘロデ派の人々に何を求められたか、分かりますか。信仰と悔い改めです。彼らを、悔い改めに招こうとされました。そのためにユダヤの指導者たちに3つのたとえ話をし、彼らの不信仰を責められました。彼らがへりくだって、主イエスをメシア、救い主として受け入れるように招かれました。しかし、彼らは、主イエスの憐れみを軽んじました。むしろ、彼らは主イエスの言葉じりを捕らえて、罠に陥れ、主イエスをローマ皇帝の敵であると、ローマ人たちに示して殺そうと試みました。

 

それでも十字架の道を歩まれている主イエスは、彼らを憐れみ、彼らの偽善の罪を公にして、「神のものは神に返しなさい」と、悔い改めに招かれたのです。

 

聖書の創世記に神が人間を創造された記事があります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記127)とあります。

 

ギリシャ語の旧約聖書は、「神の肖像に基づいて」と訳しています。だから、ローマ皇帝の肖像が彫られた貨幣が「皇帝のもの」であれば、神の肖像が彫られた人間は、「神のもの」であります。

 

主イエスは、偽善者であるファリサイ派の人々、ヘロデ派の人々に次のことをお尋ねになりたかったのです。「あなたがたは、神のものであるという刻印を打たれた者ではないか、皇帝の税金のことよりも、あなたがたが、自分自身を本当に神のものとして、神にお返ししているかを、もっと真剣に考えるべきではないかのか」と。

 

わたしたちは、自分たちが神のものであり、神に正しく自分を返すことを、真剣に考えるべきです。それを、考えるところが教会なのです。

 

よく考えてみてください。わたしたちは唯一の神、主が御自分のものであるというしるしを刻んでお造りくださった者たちです。ところがアダムの罪によって、堕落し、罪の奴隷、死の奴隷、悪魔の奴隷になってしまいました。だから、真の神ではないものを、神にし、人が作った偶像を神として拝み、真実の神を捨てたのです。

 

ところがわたしたちの父なる神は、わたしたちを神の聖なるものとするために、御自身の御子キリストをこの世にお遣わしくださいました。そして、わたしたちを神のもの、聖なる神の所有とするために、わたしたちを十字架によって救ってくださいました。わたしたちを罪と死から救い出して、再び神を礼拝し、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ者としてくださいました。

 

今朝の主イエスの「神のものは神に返しなさい」というお言葉は、今ここで聞かれているあなたに、主イエスが「あなたは神のものである。だからわたしは、あなたを救うために十字架の道を歩んでいるのだ」とお語りになっているのです。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、主イエスはわたしたちに「あなたがたは神のものである。だからわたしは、あなたがたを救うために、あなたがたを神の聖なる所有に戻すために十字架の道を歩んでいる」と、わたしたちを信仰と悔い改めに招いてくださいました。  

 

聖霊なる神よ、わたしたちを聖餐の恵みへとお導き下さり、今朝のキリストの福音を、わたしたちに確信させてください。そして御言葉と聖餐の恵みに与れたわたしたちが、キリストの救いの喜びを、わたしの家族、知人、この町の人々に伝えることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教090           主の2013210

 

 

 

 聖霊の照明を求めてお祈りします。「聖霊なる神よ、聖書の御言葉とその説き明かしである説教に、わたしたちの耳を傾けさせてください。キリストの福音を聞きますわたしたちに信仰を与え、心をへりくだり、キリストをわたしたちの救い主と信じ、受け入れることができる者とならせてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。」

 

 

 

 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると、復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

 

                マタイによる福音書第222333

 

 

 

説教題「生きている者の神」

 

さて、ユダヤの宗教的指導者たちのグループに、ファリサイ派の人々とは別にサドカイ派の人々はいました。彼らは、エルサレム神殿に祭司として仕えている人々です。モーセの兄である大祭司アロンの子孫たちです。彼らは、ユダヤの国において裕福な上流階級の人々でした。

 

彼らは、ファリサイ派の人々と対立していました。彼らはファリサイ派の人々と主導権争いをし、ファリサイ派の人々が復活と天使を信じているのに対して、「復活はない」と否定し、来世も天使の存在も否定していました。

 

ところが、サドカイ派の人々は、主イエスを殺すという1点でファリサ派の人々と手を組みました。こうしてファリサイ派とヘロデ派、そしてサドカイ派の人々が手を組み、主イエスの十字架の道が日に日に迫っている情景を、マタイによる福音書は読者のわたしたちに伝えています。

 

サドカイ派の人々が、主イエスを「先生」と呼びかけていますね。先生は「ディダスカロス」です。「教える」という言葉に由来します。ユダヤ教の教師という意味です。サドカイ派の人々は、主イエスをひとりのユダヤ教の教師とみなしていました。

 

サドカイ派の人々は、主イエスにモーセの言葉を用いて質問しました。「モーセは言っています」とは、旧約聖書の申命記2556節の御言葉のことでしょう。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」。

 

サドカイ派の人々は、このモーセの言葉を用いて主イエスに難しい質問をしました。彼らは、主イエスに言いました。7人の兄弟がおり、長男が妻を残して死にました。跡継ぎがいませんでしたので、次男が兄弟の義務を果たしました。彼は長男の妻と婚姻関係に入りました。しかし、次男も跡継ぎを残さないで死にました。そして3男から7男まで同じように兄弟の義務を果たしました。その女と婚姻関係に入り、跡継ぎを残さないで死にました。最後に7人の兄弟たちの妻になった女も死にました。復活した時、この女は7人の兄弟の中で誰の妻になるのでしょうか。

 

7人の兄弟たちが皆、この女を妻にしました。復活した時、この女は、7人の兄弟たちの中で誰の妻になるのですかという質問です。

 

主イエスはお答えになりました。2932節です。

 

主イエスは、彼らに第1に彼らの聖書に対する無知と誤謬を指摘されました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と(29)

 

サドカイ派の人々は、主イエスにモーセの言葉を用いて質問し、彼らが日ごろ否定している復活信仰の不合理を訴えました。復活があるならば、こういう不都合が起きるのではないかというわけです。モーセの掟を守ってひとりの女と婚姻関係を結んだ7人の兄弟たちは、復活してもだれが、その女の夫になるのだろうか。だから、復活があれば、こうした不合理が起こるので、復活はありえないだろうと。

 

しかし、主イエスは、サドカイ派の人々に次のように答えられました。「あなたがたが復活を信じないのは、あなたがたが聖書と神の御力について何も知らないから、そのような間違った質問をするのではないか」と。

 

祭司としてエルサレム神殿に仕えているサドカイ派の人々が「聖書と神の御力について何も知らない」というのは、大きな驚きです。サドカイ派の人々が、復活も来世も天使の存在も信じないのであれば、彼らの頭の中はこの世しかありませんし、この世と神の御国を同じように考えるという誤りをしていたのでしょう。

 

そこで主イエスは、サドカイ派の人々に第2に「復活の時には、めとることもなく、天使のようになるのだ」と答えられました。

 

死人の中から復活した人は、天使と同じようになります。その人々が入り、永遠に生きる神の御国には、この世の結婚という制度はありません。神の御国は、この世の繰り返しではないからです。実は、ファリサイ派の人々は神の国に結婚があると信じていました。彼らは、復活した7人の兄弟たちは、神の国では最初の夫である長男がその女を妻にすると教えていました。しかし、主イエスは、復活した者は天使のようになり、婚姻関係はないと言われました。神の御国はこの世の繰り返しではないからです。

 

主イエスは、ユダヤ人たちにヨハネによる福音書の539節に次のように言われました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。

 

サドカイ派の人々は、聖書の教える復活という永遠の命の喜びを知りませんでした。神の祭司だったのに。彼らの心は、この世のことだけに関心がありました。だから、彼らは、主イエスに7人の兄弟がひとりの女と婚姻関係に入り、復活の時には7人の兄弟の中で誰のその女を妻にするのかと、聖書の教える永遠の命よりも、この世の夫婦関係を問題にしました。それは、主イエスに「あなたがたは聖書も神の御力も知らないからだ」と言われても仕方ないほど、本当に愚かなことであります。

 

でも、人ごとではありません。わたしたちキリスト者は万人祭司です。サドカイ派の人々のように、キリストに仕える者です。サドカイ派の人々のように、神さまにいちばん近くにいる者です。しかし、「聖書と神の御力を知らない」者になる危険性があります。聖書も読まなくなり、礼拝もしなくなります。そして、聖書と神の御力について目を閉ざされます。心が暗くなります。すると、そのキリスト者が考えることは、このサドカイ派の人々と同じです。復活も信じなくなり、神の国も天使の存在も信じません。信じるのは、この世だけです。自分の目に見えて、心に感じるものだけです。

 

サドカイ派の人々は、この世だけを信じて、霊的な世界については全く不感症になりました。

 

そこで主イエスは、霊的な事柄に不感症である彼らに第3に聖書の御言葉に耳を傾けよと呼びかけられます。

 

「死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

 

この世の夫婦の関係が神の国でもあるかどうかと、問うことよりももっと大切な問題があります。それは、聖書が語る神について知ることです。

 

その神が聖書の中で死者の復活について語られています。それは、どんな御言葉か、旧約聖書の出エジプト記36節の御言葉です。主なる神がモーセをイスラエルの指導者にお召しになりました。彼は、エジプトの国で王の娘の養子として何不自由のない生活をしていました。しかし、エジプト人が同胞の民ユダヤ人を奴隷としていじめることに我慢できませんでした。同胞の民を虐待したエジプト人を殺し、それが公になり、エジプトの王の手から逃れて、ミディアンの地で羊飼いをしていました。

 

ある日神の山ホレブで不思議な燃える柴の木を見つけました。そこから主なる神がモーセにお声をかけ、イスラエルの指導者となるようにお召しになりました。そして、主なる神は、モーセに御自身をお知らせになり、次のように言われました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」

 

この主なる神のお言葉は、二つ意味がありました。一つは、主なる神がモーセに次のように言われたのです。「アブラハムに対しては、わたしはアブラハムの神となった。イサクに対してはイサクの神となった。ヤコブにはヤコブの神となった。だから、モーセよ、恐れるな、わたしはあなたがアブラハムのようにわたしを信頼するのであれば、今からモーセの神となろう」と。そのように主なる神は、生きている者の神です。

 

しかし、主イエスは、もう一つの意味を言われています。主なる神は、「今も、わたしは現にアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神である」と言われていると。アブラハム、イサク、ヤコブの族長たちは、わたしたちよりおよそ4000年昔の人々です。既に死んでおります。骨も見つかりません。しかし、主なる神は、永遠にアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であることを止められないのです。そして、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ローマ417)です。アブラハムは、この神を信じて、わたしたちキリスト者の信仰の父となりました。

 

主イエスは、わたしたちに主なる神は、死人を作る神ではなく、死んだ者に命を与え、永遠にその者に命を与える生きた者の神であると言われました。

 

そのことの真実を証しするために、主イエスは、十字架の道を歩まれ、死人の中から復活されるのです。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、主イエスはわたしたちに「あなたがたの神は、死んだ者の神ではなく、生きた者の神である」と教えてくださり、感謝します。どうかイエス・キリストの十字架と復活を通して、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを死から永遠の命に生かされる生きた神を、アブラハムが信じ、モーセが信じ、ダビデが信じた神を、わたしたちも知り、信じさせてください。そして、永遠の命に生きる喜びと御国への希望に生かしてください、主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教091           主の2013217

 

 

 

 聖霊の照明を求めてお祈りします。「聖霊なる神よ、聖書の御言葉とその説き明かしである説教に、わたしたちの耳を傾けさせてください。キリストの福音を聞きますわたしたちに信仰を与え、心をへりくだり、キリストをわたしたちの救い主と信じ、受け入れることができる者とならせてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。」

 

 

 

 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集った。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

                マタイによる福音書第223440

 

 

 

説教題「神を愛し、人を愛する」

 

マタイによる福音書は、19章より23章まで主イエスがガリラヤを去り、エルサレムの都に上られたことを物語ります。特に21章より主イエスの御受難の1週間を物語っています。そして主イエスは、御受難の1日目の日曜日に弟子たちと多くの群衆の歓迎を受けて、ろばの子に乗りイスラエルの王として都にお入りになりました。2日目の月曜日に主イエスはエルサレム神殿にお入りになり、商売する人々を追い出して神殿をきよめられました。そして、3日目主イエスは次々と敵対するユダヤの指導者たちと論争し、23章において律法学者とファリサイ派の人々と最終的に決別されました。そして2425章において主イエスは弟子たちに世界の終末について説教をされます。

 

こうしてガリラヤを去り、エルサレムの都に上られた主イエスは、十字架から終末へと向かわれているメシアであることを、マタイによる福音書はわたしたちに伝えています。

 

 マタイによる福音書は、2123節から23章は、主イエスの御受難の3日目の出来事を記しています。ユダヤ教の指導者たちとの対決と論争、そして決定的な決別を物語っています。

 

対決の発端は、ユダヤ教の指導者である祭司長と長老たちが主イエスの権威を質問したことにあります。主イエスに彼らは、何の権威で神殿において民衆を教え、癒しをしているのかと質問しました。主イエスは答えることを拒まれ、彼らに「二人の息子」と「ぶどう園と農夫」、そして「王子の婚宴」のたとえ話をされました。

 

主イエスは、そのたとえ話を通してユダヤ教の指導者たちを非難されました。お前たちは自分は敬虔な人間であるとうぬぼれているが、実は主なる神の御意志を守らず、主なる神の遣わされた洗礼者ヨハネを殺し、メシアであるわたしを殺そうとしていると。

 

主イエスが話されたたとえ話の意図を知りましたユダヤ教の指導者たちは、一致協力して主イエスを捕らえて殺そうとしたのです。

 

そこでユダヤ教の指導者の一つのグループであるファリサ派の人々が主イエスのローマ皇帝に主なる神の民ユダヤ人は税金を納めるべきかと質問しました。

 

続いてユダヤ教の指導者の別のグループであるサドカイ派の人々が主イエスに復活について質問しました。

 

そして、今朝の御言葉であります。ファリサイ派のグループに属しています一人の律法の専門家が主イエスを試そうとして質問しました。

 

ファリサイ派は、律法の専門家たちを中心としたグループでした。この専門家たちは、祭司ではありません。わたしたちの目から見ると、信徒伝道者です。信徒の中で熱心に聖書を研究している人です。彼らは、律法への服従生活を何よりも大切にしました。

 

この律法の専門家は、サドカイ派の祭司長たちのように世襲ではありません。律法の専門家は、主イエスと同じ大工の子、あるいは使徒パウロと同じように天幕作りをしている職人であったかもしれません。彼は、信徒ですが、神の律法についての学識の高さと敬虔深さにより、律法の専門家として尊敬を得ていたのです。

 

そのような律法の専門家たちが、主イエスにサドカイ派の祭司長たちが論争に敗れたことを聞いて、共に集まり、何とか主イエスを捕らえる手がかりを求めたのでしょう。

 

そこで律法の専門家の最も得意とする所で、一人の律法の専門家を代表者に立て、主イエスを尋ねて、主イエスを試みました。

 

一人の律法の専門家が主イエスを試みた質問とは、律法の中で最も重要な掟は何かでした。

 

この質問を理解する鍵は、ファリサイ派の律法の専門家と主イエスの律法解釈の原理が異なるということを見出すことです。

 

ファリサイ派の律法学者たちは、第1に使徒パウロが非難する「律法主義者」でした。神の律法をとても丁寧にその意味を理解し、日常生活の中にそのまま行おうとしました。そして、彼らは、特に儀式律法を守り、自分たちの身をきよめる生活を重んじました。そして、律法を守らない者を「地の民」と呼んで軽蔑しました。そして、彼らと分け隔てて、自分たちを「ファリサイ派」と呼びました。第2に彼らは先祖の言い伝えを守りました。律法の専門家が律法の意味を理解する時に、彼は「昔の先祖たちの言い伝え」に従って理解しました。第3に彼らは、新しい時代に神の律法を、自分たちの生活の中に適用させるために、この世の考えを取り入れ、ユダヤ教を進歩させ、改革しようとしました。

 

さて、マタイによる福音書の今朝の御言葉に戻りましょう。マタイによる福音書は、「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」と記していますね。律法の専門家は、主イエスに間違った答えを言わそうとして、誘導質問したのです。だから、マタイによる福音書は、「試そうとして尋ねた」と記しているのです。

 

実は、律法の専門家たちにとっては、神の律法のあらゆる掟が等しく重要であるというのが常識でした。だから、律法の専門家は、わざと主イエスに「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と質問したのです。彼は、主イエスが律法の中に重要なものとそうでないものがあると答えられるように誘ったのです。主イエスは、律法のすべてを守らなくてもよいと教えていると非難しようとしたのでしょう。

 

しかし、主イエスは、律法の専門家の質問の意図を良くご存じでお答えになりました。旧約聖書の申命記の65節の御言葉です。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

 

主イエスは、律法の専門家に「これが最も重要な第一の掟である」と言われました。そして、主イエスは彼に「第二も、これと同じように重要である。」と言われて、旧約聖書のレビ記1918節の御言葉を言われました。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」

 

そして、主イエスは、律法の専門家に「律法の全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と宣言されました。

 

この宣言によって主イエスとファリサイ派の律法の専門家が、聖書をどのように理解したかを、その明確な相違を、マタイによる福音書はわたしたちに伝えています。

 

律法の専門家は、聖書を律法の掟と理解しました。だから律法である聖書は、掟として一つ一つ守られなければならないと理解しました。

 

ところが、主イエスは、聖書を神の掟が集まったものと理解されませんでした。神の御意志として理解されました。そして、旧約聖書の中に、主イエスは神への愛と隣人への愛という神の意志の本質を見出されました。そして、主イエスは律法の専門家のように先祖の言い伝えから聖書の掟を理解するのではなく、この神の二つの愛の掟から旧約聖書を理解されました。

 

面白いことを一つお話します。律法の専門家は、主イエスに「どの掟が最も重要でしょうか」と、重要な掟を、一つ上げるようにと質問していますね。ところが主イエスは、最も重要な掟は、神への愛と隣人への愛であると答えられました。律法の専門家は、主イエスの答を聞いて、驚いたと思います。当時のユダヤ教には、この二つの掟を並べて最も重要な掟であるという教えはありませんでした。ですから、3739節の御言葉は、主イエスがお語りになったことをそのまま記しているのです。

 

主イエスと律法の専門家との問答には、結論が記されていません。マタイによる福音書は何も記していません。なぜなら御受難の主イエス・キリスト御自身が答えであり、結論だからです。

 

使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙に次のように記しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」(フィリピ267)

 

さらにパウロは、次のように述べています。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださることにより、神はわたしたちに対する愛を示されたのです。」(ローマ58)

 

使徒パウロの御言葉に十字架のキリストを重ね合わせてみてください。キリストの十字架から「神への愛」と「隣人への愛」という二つの大きな神の掟が浮かび上がって来ます。キリストの十字架は、この二つの大きな掟が一つに結び合わされた出来事です。

 

これが、今朝のマタイによる福音書の主イエスと律法の専門家との問答の結論であります。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、レントの季節を迎えて、わたしたちが受難のキリストを学べることを心より感謝します。律法の専門家のように聖書を神の掟と理解し、守ろうと思いました時、守れない自分の惨めさを知らされました。しかし、主イエスのように聖書が神の御意志であり、神への愛と人への愛に基づいており、それを十字架のキリストに一つの出来事として結び付いていることを見せていただき、神さまはキリストを通して御自身の掟を忠実に実行され、わたしたちを愛して、罪と死から救い出してくださり、ありがとうございました。330日まで、聖書を読み、キリストの受難を瞑想し、キリストが神を愛し、わたしたち人を愛されて、十字架の道を歩まれたことを心に留めさせてください。そして、331日のイースター礼拝に、わたしたちの家族、友だち、この町の人々をお誘いできますようにお導きください。この祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。