マタイによる福音書説教092 主の2013年3月3日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」
ファエイサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい、
わたしがあなたの敵を
あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
マタイによる福音書第22章41-46節
説教題:「メシアは誰の子か」
わたしたちは、レントの季節を過ごしています。レントは、ラテン語で数字の「40の」という意味です。英語のレントは、日が長くなる季節を意味します。日本ではレントを、四旬節と呼んでいます。レントは、キリスト教会においてはイースターの祭に備える40日間の期間であります。主の日を除く日々、キリスト者は断食をし、主イエス・キリストの御受難を瞑想しながら過ごします。洗礼を志願する者たちがイースターに洗礼を受ける備えの日々でもありました。断食する日に、日曜日が除かれましたので、レントの第1の主の日から4日間遡る水曜日を「灰の水曜日」と呼び、レントが始まります。今年は、2月13日の水曜日から3月30日の土曜日までがレントの季節です。
わたしたちの改革派教会は、2009年の大会において礼拝指針の改正案を決議し、その際に第12条「教会暦と特別礼拝の日」という項目を追加しました。次のような条文です。「教会の礼拝において、わたしたちの主イエス・キリストの降誕・死・復活・昇天・再臨や聖霊の降臨を覚える機会が提供されることは適切である。2.また、教会の伝統を覚える日・使命を宣言する日・任務を促進する日・伝道を覚える日に、特別な礼拝を行うことはふさわしい」
昨年礼拝指針の改訂版を学びましたので、今年は礼拝の中で学んだことを生かしたいと思います。
今朝は、主イエス・キリストの御受難を心に留めつつ、主イエスと宗教的指導者であるファリサイ派の人々とのメシア論争を学びましょう。
これまで主イエスとユダヤの宗教的指導者たちは、皇帝への税金について、復活について、そして最も重要な掟について論争してきました。ユダヤの宗教的指導者たちとは、ファリサイ派とサドカイ派とヘロデ党の人々であります。彼らは日ごろ仲が悪く、敵対していました。ところが彼らは、主イエスを捕らえて、殺すということで、手を結びました。そして彼らは、何とか主イエスの言葉尻を捕らえようと主イエスに論争を挑みました。しかし、ことごとく失敗しました。
そして、今朝は、主イエスがファリサイ派の人々が集まっている所に行かれて、彼らに質問をし、主イエスはファリサイ派の人々とメシア論争をされました。
主イエスはファリサイ派の人々に42節に次のように質問されています。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」。ファリサイ派の人々は、主イエスに答えています。「ダビデの子です」と。
メシアとはキリストのことです。メシアは、ヘブライ語の「油注がれた者」という意味です。それをギリシア語で言えば、キリストです。
ユダヤ人たちにとって、メシア、すなわち、キリストとは救い主のことです。主なる神が預言者ナタンを通してダビデ王に彼の子孫からメシア、救い主が生まれることを約束されました。そして主なる神は、ダビデ王に彼の王国の支配が限りなく続くことを約束されました。
主イエスの時代にユダヤ人たちは、ダビデ王の子孫から生まれるメシア、キリストを待望していました。紀元前63年にユダヤの国は、ローマ帝国の植民地となり、ローマ帝国の支配下にありました。ユダヤ人たちは、ダビデ王のような政治的メシアを待望し、メシアがローマ帝国からユダヤの国を政治的に解放してくれることを願っていました。
しかし、主イエスは、ユダヤ人たちが期待した政治的メシアではありませんでした。旧約聖書の中でメシア、油注がれた者は、王だけではありません。預言者と祭司も油を注がれました。ですから、主イエスはメシアとして神の御言葉を民に伝え、教える預言者と民の罪をとりなす祭司のお働きもされました。
主イエスは、御自身を「人の子」、「神の子」と呼ばれて、政治的メシアとは一線を引かれました。マタイによる福音書の21章から27章の受難のキリストは、政治的メシアではありません。預言者イザヤが預言した「苦難のしもべ」であり、主イエスは12弟子たちに3度御自身の十字架の死と復活を示されました。人の罪を贖うメシア、キリストとして、ダビデ王が主なる神よと呼びかけるお方が、主イエス御自身であることを、マタイによる福音書は、読者のわたしたちにこのメシア論争を通して示しています。
こうした流れを踏まえて、御受難の主イエス・キリストを心に留めつつ、今朝の主イエスとファリサイ派の人々のメシア論争を見るのがよいでしょう。
主イエスは、「メシアはダビデの子です」と答えたファリサイ派の人々に43節から45節に次のように反論されます。旧約聖書の詩編110篇1節の御言葉です。主イエスは、詩編110篇は、ダビデが聖霊に導かれて賛美し、「メシアを主と呼んでいる」と、彼らに反論されました。
質問された主イエスの意図は、ダビデ王がメシアを、主、すなわち、主なる神よと呼びかけているのであれば、メシアはダビデの子、すなわち、ダビデ王の肉の子孫以上の者ではないかということです。主なる神が、ダビデが主と呼びかけているメシアにお告げになりました。「わたしの右の座につきなさい」。主なる神と共に支配せよという意味です。「主なる神が、ダビデがメシアと呼ぶお方の敵を、そのメシアの足下に屈服させる時まで」。ダビデがわたしのメシアと呼ぶお方は、主なる神と永遠に支配なさるお方です。この世の王ではありません。
ですから、主イエスはファリサイ派の人々に45節に次のように質問されました。「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」
主イエスの質問は、メシアがダビデの子であることを否定しようとされたのではありません。主イエスは、ダビデがメシアを「わたしの主」と呼びかけていることに注目されています。つまり、ダビデが「わたしの主」と呼びかけているメシアは、ダビデと同じ人間ではありません。それ以上の存在であり、その起源は主なる神にあるということです。
確かに主なる神は、預言者ナタンを通してダビデ王に、彼の子孫よりメシアが生まれると約束されました。その意味で主イエス・キリストはダビデの子です。だから、マタイによる福音書は、1章の主イエス・キリストの御降誕を記しましたとき、主イエス・キリストの系図を示して、ダビデ王の子孫として生まれられたことを証ししました。
しかし、ファリサイ派の人々やユダヤ人たちが期待しているダビデの子ではありません。キリストは政治的、民族的メシアではありません。
この論争の後にマタイによる福音書は、一切主イエスがダビデの子であるということを記しません。主イエス御自身も、「人の子」「神の子」というメシアの称号を用いておられます。
そして主イエスが論争に用いられました詩編110篇1節は、新約聖書の中にしばしば引用されています。キリストの神性を証言する御言葉として、キリストの高挙、すなわち、キリストが死人の中から復活し、天に昇られ、父なる神の右に座して、再臨し、すべての者を審判されることを証言する御言葉として、勝利者キリストを証しする御言葉として。
主イエスは、今現在天におられ、父なる神と共に世界を支配されています。その方が、救い主として、この世に来てくださったのです。神の御子であられたのに、わたしたちと同じ人となり、この世に生れて、預言者として神の御言葉を語り、神の御国の福音を教えてくださり、わたしたちの大祭司となり、御自身は罪がないのに、わたしたちに代わり、御自身を罪の犠牲として、十字架の上に死のうとされているのです。
主イエスに敵対するファリサイ派の人々は、主イエスの質問に答えられませんでした。しかし、マタイによる福音書の読者であるキリスト教会とキリスト者は、答えることが許されています。弟子のペトロが信仰告白しましたように、「主イエス・キリストは神の子、わたしたちの救い主です」と。
主イエスとユダヤの宗教的指導者たちの論争は、キリストの圧倒的勝利に終わりました。そして勝利者キリストは、この後に宗教的指導者たちが開いた裁判において御自身が再び天から来る世界の審判者・人の子であることを公に告げられます。
このように神であり、永遠の王であるキリストが人となり、十字架に死なれました。わたしたちのために。そして、キリストは十字架の死に至るまで父なる神に従順に歩まれて、父なる神の御前に義を得られました。その義をわたしたちに与えて、父なる神の御前にわたしたちが罪を赦されるために。そして、キリストは死人の中から復活されました。共にわたしたちを永遠の命に復活させて、御自身との永遠の命の交わりに入れるために。
これがわたしたちがこの教会において聞かされている福音です、そしてこれからわたしたちがあずかります聖餐がわたしたちに確かな約束として差し出しているものです。わたしたちは、この教会を通して永遠の御子キリストに結びつけられているのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは今朝、あなたに招かれて、ここに集まりました。レントの季節の中、主イエスとファリサイ派の人々のメシア論争を通して、十字架と復活のキリストを仰ぎ、主イエスが神の子、わたしたちの救い主であることを確信し、感謝します。主イエスは、今も父なる神の右に座され、天よりわたしたちを父なる神にとりなし、わたしたちが罪をゆるされ、永遠の命の喜びに生きるように、導いてくださっていることを覚えて感謝します。弱さを覚える時があります。どうか御受難のキリストを心に留めさせてください。日々主イエスと共に生かしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教093 主の2013年3月10日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、キリストの御言葉を語らしてください。わたしたちの信仰の耳と眼をお開きください。今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を聞くことにより、キリストの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」
それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとしない。そうすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
マタイによる福音書第23章1-12節
説教題:「言うだけで行わない人」
ユダヤの宗教的指導者たちは、日ごろの敵対関係を忘れ、主イエスを捕らえて殺すことで一致し、協力して主イエスと論争し、主イエスの言葉尻を捕らえようとしました。しかし、宗教的指導者たちは、完全に主イエスとの論争に敗北しました。主イエスとの論争に敗れた者たちは、主イエスをエルサレム神殿に残して立ち去りました。過越の祭のために神殿に参拝に来ていた群衆たちは、主イエスと宗教的指導者たちの論争を聞いていまして、主イエスの教えに驚き、称賛しました。そして、論争の最後に主イエスが彼らに「どうしてメシアはダビデの子であるのか」と質問されると、宗教的指導者のファリサ派の人々は答えられませんでした。その後、宗教的指導者たちは、主イエスにあえて質問し、論争をしようする者は現れませんでした。
主イエスは、宗教的指導者のファリサイ派の人々に「どうしてメシアがダビデの子か」と質問され、詩編の110篇1節の御言葉を引用し、ダビデ本人がメシアを「主」、すなわち「主なる神よ」と呼びかけて礼拝しているのだから、メシアの称号は、ダビデの子ではなく、神の子であるという意味のことを言われました。
そして、神の子であるキリストは、ダビデ王のように軍事的勝利をイスラエルの民にもたらす地上の王として来られたのではなく、十字架の上で神の愛を示す神の子として来られました。
この神の子キリストが人の子として御受難を受けられたことを思い巡らしながら、今朝のキリストの御言葉に耳を傾けて、レントの信仰生活の日々を過ごしたいと思います。
さて、マタイによる福音書の23章は、主イエスが民衆たちと彼の弟子たちになさった説教であります(1節)。ユダヤの宗教的指導者たちの一つのグループでありますファリサイ派の人々と律法学者たちを非難された説教であります。
2-7節は主イエスが群衆にファリサイ派の人々と律法学者たちの振る舞いを非難されています。8-11節は、主イエスの弟子たちに彼らの振る舞いを非難されています。
マタイによる福音書は、主イエスのこの説教の聴き手を、1節に「群衆と弟子たち」と記すことにより、この説教はキリスト教会のわたしたちにも語られていることを伝えています。わたしたちは、主イエスがユダヤの指導者たちの振る舞いを非難されていると受け取るだけでなく、彼らを反面教師としてキリストがわたしたちに何を求め、願っておられるのか、聞き取れるようにしましょう。
さて、主イエスは、祭のためにエルサレム神殿に参拝にきた群衆たちに律法学者とファリサイ派の人々の振る舞いを非難されました。
しかし、主イエスの説教は、相手を一方的に非難するものではありません。相手の立場を重んじつつ、彼らの行いを非難されました。
ですから、主イエスは群衆に最初に言われました。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」
「モーセの座に着いている」とは、モーセの後継者として律法を教える権威を持っているという意味です。
旧約聖書に出エジプト記があり、その中に主なる神がモーセを通してイスラエルの民を奴隷の地エジプトから解放し、シナイ山に導かれたことを記しています。そのシナイ山において主なる神は、モーセに2枚の石の板を授けられました。十戒です。シナイ山で主なる神に神の律法を授けられましたモーセは、後継者ヨシュアに、ヨシュアはイスラエルの民の長老たちに、そして長老たちは預言者たちに、そして預言者たちは大シナゴグ、すなわちユダヤの会堂に伝えました。ですから律法学者とファリサイ派の人々が会堂においてユダヤの人々に教える律法は、モーセが授けられた律法と同じ権威があるとみなされていました。
ですから、主イエスは、群衆たちに律法学者とファリサイ派の人々が律法を教える権威を認められたのです。群衆たちに、主イエスは「彼らがあなたがたに会堂において神の律法を教えている言葉はすべて実行し、従順に守りなさい」と命令されました。
しかし、主イエスは律法学者とファリサイ派の人々を、次のように非難されました。3節後半です。「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」主イエスは、律法学者とファリサイ派の人々たちは、教えても実行しないという点を非難されました。律法学者とファリサイ派の人々は、言うけれど、行わない人でした。さらに悪いことに、自らの信仰深さ、敬虔さを、自分の行いを通して人々に見せびらかす人々でした。それを、ひと言で言えば「偽善」であります。
主イエスは、彼らの偽善の実例を4つ挙げられています。それは、彼らの憐れみのない行いと人に見せる偽善として描かれています。
第1の実例は、彼らの憐れみのない行いの実例です。彼らは、人々にモーセの律法を守らせるために、すなわち、モーセの十戒を守らせるために、その60倍もの多くの掟を作りました。そして、人々に613の掟を守らせようとしたのです。
人々にとって神の律法は神の賜物ではなくなりました。重荷となりました。問題は、彼らが人々に負いきれないほど掟という重荷を肩に背負わせて、人々がその重荷に疲れ、苦しんでいても、彼らは同情し助け、憐れまなかったことです。主イエスは、彼らが背負わせた掟の重荷に苦しむ人々に、「重荷に疲れた者、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、憐れまれました。そして、真実にその律法の重荷から人々を解放するために、十字架の道を歩まれているのです。そして、主イエスは彼らを批判し、神の律法、すなわち、神の御心が求めているのは、人々への憐れみであると言われています。
実例の2-4は、主イエスが律法学者とファリサイ派の人々の偽善を非難されています。主イエスは、律法学者とファリサイ派の人々の行いを、5節に「そのすることは、すべて人に見せるためである」と言われていますね。彼らは、人々に自分たちの行いを見せ、信仰深さと敬虔さを演じていたのです。心の中は、主イエスを殺そうとするほどの白く塗った墓そのものでした。
実例の2は、5節の「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」ことです。信仰深いユダヤ人たちは、毎朝の祈りの時にこの小箱を身につけていました。モーセが民に命じていたからです。聖句とは、旧約聖書の出エジプト記13章1-15節の御言葉、申命記の6章4-5節の御言葉、申命記の11章13-21節の御言葉です。モーセは、これらの御言葉を「これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの戸口の柱にも門にも書き記しなさい」と命じています。
彼らは、それを人目につくように大きな小箱に入れて、身に着けていたのです。自分の信仰深さを人に見せるためです。
衣服の房は、主なる神がモーセを通して民に神の律法を常に思い起こすようにと命じられたものです。民数記15章38-39節です。「代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。」
彼らは、主なる神の御命令より自分たちの信仰深さを人々にアピールするために、衣服の4隅の房を長くし、その長さを議論していたのです。
実例の3は、6節の「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好ん」だことです。宴会での上座は、客をもてなす主人の左右の両隣りの席です。主人が招待した一番大切な客の座る席です。そして会堂の上席とは、礼拝堂の一番前の席です。ユダヤ人たちの会堂は、礼拝堂の一番後ろの席に子供たちや身分の低い者たちが座りました。一番の上席は長老たちの席です。その席は、会衆たちに面していました。そこに座ると、礼拝に来たすべての会衆たちに彼らの信心深い、敬虔な姿を見せることができました。神の御目にへりくだるべきところが、彼らにとっては自分の敬虔さを人に見せる高慢な場所となりました。
実例の4は、7節です。「また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」ファリサイ派の人々と律法学者たちは、「ラビ」、「先生」と呼ばれ、多くの人々が集まる広場において挨拶されることを喜んでいました。人々の前で自分が尊敬されていることに快感を覚えていたのです。彼らは、人々に両親よりも自分たちを尊敬すべきであると命じていました。その理由は、両親は命を与えるが、彼らは律法を教えることで、永遠の命を与えることができるからです。また、預言者エルヤやエリシャのように「父よ」「信仰の父よ」と呼びかけられることを喜んでいました。
彼らは、人々の目には信仰深い、敬虔な者であるように演技していましたが、心の内では主なる神よりも自分自身を誇る偽善者でした。
そこで主イエスは、彼の弟子たちに律法学者とファリサイ派の人々たちの偽善を暴かれ、彼らを反面教師とせよと、次のように教えられました。
第1は、主イエスの弟子たち、キリスト者たちにとって先生はキリストであり、父は父なる神さまお一人です。
第2に、律法学者とファリサイ派の人々たちの行いの目的は、人々に自分の信仰深さと敬虔なことを見せることでした。主の弟子たちとキリスト者たちの目的は、自分を捨て、神と人に仕えることで、天にいます父なる神の栄光をあらわすことです。
マタイによる福音書は、律法学者とファリサイ派の人々の憐れみの無さと偽善を反面教師として、わたしたちにキリスト教会の姿を教えています。主イエスの今朝の説教から、第1に教会は、聖書の御言葉を通して神の憐れみと人への憐れみを学ぶように教えられます。マタイによる福音書は、すでに7章の徴税人マタイを、主イエスが弟子に召されました時に、主イエスが言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(7:12-13)。
教会は、キリストを通して神の憐れみが示される所です。それは、罪人を招くことを通してなされます。教会で、わたしたちが学ぶのは良き人間になることではありません。キリストの十字架を通して神に愛され、罪赦される喜びを学ぶのです。
第2にわたしたちも偽善に気をつけなければなりません。言うだけで、行わないと、主イエスは律法学者とファリサイ派の人々を非難されました。そして主イエスは、弟子たちに彼らを反面教師として、警告されました。キリストよりも、神よりも己を上に置こうとする傲慢です。それは、人の目には信仰深い姿で、信仰の熱心さという姿で、いかにも敬虔な人だという姿で現れます。そして、その人の言葉が教会を支配することがあります。そうすると、教会の中が敬虔な者と不敬虔な者、信仰の熱心な者とそうでない者に分裂します。
主イエスは、弟子たちに言われます。「教会は、復活したわたしだけが教師です」と。「教会の中に教師と信徒という差別はありません。敬虔な者とそうでない者という何ら差別もありません。わたしたちは、主イエスにあって皆同じ兄弟姉妹です。教会は何々の父と、人の権威が尊ばれるところではなく、父として尊ばれるお方は父なる神おひとりです。
主イエスは、弟子たちに律法学者とファリサイ派の人々のように自分を誇る行い、人に自分をよく見せようとする偽善に気をつけなさいと言われています。
教会は、神の憐れみの場所です。だから、自分の身を低くし、罪を悔い、ただキリストに目を向けて、神の憐れみを願うなら、神はわたしたちをどんな低き状態より高く上げてくださいます。わたしたちの罪のために十字架に死なれ、死人の中から復活され、今天におられるキリストは、キリスト以外に望みを持たない弟子たちを、そしてわたしたちを罪と死から永遠の命へと、御国へと引き上げてくださいます。
この喜びを、キリストより聞くことができるのが、わたしたちの教会であります。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、3月になり、日も伸びて、レントの季節を過ごしております。十字架のキリストの御受難を心に思い起こし、今朝の御言葉に与ることが許され感謝します。律法学者とファリサイ派の人々への主イエスの非難の説教を通して、キリストより教会は、神の憐れみの場であり、復活のキリストは御言葉を通して、わたしたちに今も御自身が父なる神にわたしたちの罪を執り成してくださり、わたしたちが自分の行いによってではなく、キリストの義の行いと十字架の贖いにより罪をゆるされ、永遠の命の喜びに生きるようにされていることを覚えて感謝します。どうか御受難のキリストを心に留めてこの一週間を歩ませてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教094 主の2013年3月17日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、キリストの御言葉を語らしてください。わたしたちの信仰の耳と眼をお開きください。今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を聞くことにより、キリストの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分よりも倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは『神殿にかけて誓えば、この誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかえて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも濾して除くが、らくだは飲み込んでいる。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯と皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちに降りかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
マタイによる福音書第23章13-36節
説教題:「悲しい形ばかりの信仰」
今朝は、マタイによる福音書の23章13-36節の御言葉を学びましょう。
主イエスは、律法学者たちとファリサイ派の人々に向かって7度「不幸だ」と呪われました。その中で主イエスは16節のみ「あなたたちは不幸だ」と呪われていますが、他の6回は「あなたたち偽善者は不幸だ」と呪われています。
「不幸だ」という言葉は、「災いだ」という意味の言葉です。もう少し主イエスの情感を込めて日本語にすれば、「ああ悲しい」と、主イエスは7度言われました。
主イエスは、律法学者たちとファリサイ派の人々を、「ああ悲しい、あなたたち偽善者は」と言って呪われました。
彼らは、わたしたちのように異邦人ではありません。主なる神に選ばれた神の民です。主なる神の御用に仕える者として選ばれた者たちです。しかし、神の御子キリストの目には、まことに悲しむべき姿でありました。
偽善とは、人に自分の信仰深さを演じて見せることです。主イエスが彼らを悲しみ呪われたのは、彼らにはまことの信仰がなかったからです。本当に神を神として恐れる思いがありませんでした。
では、主イエスの呪いの言葉を一つ一つ見て行きましょう。
主イエスは、第1に天国の扉を閉ざす彼らの教えを呪われました。13節です。彼らは、自らがキリストという通路を通して天の御国に入ろうとしませんでしたし、入ろうとする神の民を妨げました。
第2に彼らは、彼ら以上に狂信的な地獄の子を作るために、ユダヤ教を熱心に異邦人たちに伝道しました。15節です。彼らは、異邦人たちがキリストへの信仰という通路を通って天の御国に入ることも妨げました。
第3に彼らはものの見えない案内人でした。彼らは本当に価値あるものが何かを見分けられないで、人々に神への誓いについて教えていました。16-22節です。彼らは、神殿よりも神殿を飾る黄金に価値があると教えていました。しかし、神殿はそれを飾る黄金以上です。主なる神は神殿に住まわれています。だから神殿にかけて誓う者は、神御自身にかけて誓うのです。また、彼らは祭壇よりも自分たちが献げる犠牲に価値があると教えていました。しかし、祭壇は、犠牲以上のものです。なぜならば、祭壇によって民が献げる犠牲は聖なるものとされたからです。主イエスは、神殿と祭壇が神の臨在をあらわしており、そこで誓う者は天にいます神に誓っていると教えられました。
第4に彼らの律法の遵守は、律法の枝葉末節にこだわり、律法の根本である公平・憐れみ・忠実という、最も重要なこと、重要にして決定的なことを疎かにしていました。23-24節です。彼らは、ぶどう酒を飲む時に、汚れたものを一緒に飲み込まないために、ぶどう酒を布で濾して蚊やハエが杯に入らないようにしました。そこで主イエスは、彼らを皮肉られて、ぶよ一匹さえ濾して除くが、濾すことのできない汚れたらくだを飲みこんでいると言われました。律法の些細な事柄を守るのに、肝心なことは疎かにしているという意味でしょう。
第5に彼らの見かけの敬虔を、主イエスは呪われました。25-26節です。人に見られるところは、杯でも皿でも汚れを落としてきれいにしているのに、人に見られない彼らの心の中は罪と強欲で満ちていると。そこで主イエスは、彼らに信仰によって心を清めなさいと言われました(使徒言行録15:9)。
第6に彼らは墓であると、主イエスは呪われました。27-28節です。主イエスの時代、エルサレムに祭の巡礼に来る人々が墓に触れて、宗教的汚れに落ち入らないように、墓を石灰で白く塗りました。旅人には、それは、美しく飾られているように見えました。主イエスは、「彼らも同じである。彼らは、人に信仰深く見せようとし、人の目には正しい者と見えるが、彼らの内側は汚れた墓と同じで、不法と偽善に満ちている」と言われました。
第7に彼らは、熱心に迫害によって殺された預言者たちのために墓の礼拝堂、償いの記念碑を建てました。そして彼らは、預言者たちの迫害と殺害を、自分たちには無関係の過去の出来事とみなしていました。しかし、主イエスは、言われています。彼らは、どんなに自分たちは父祖たちの預言者殺しの罪に関係がないと述べても、彼らが預言者たちを迫害し、殺した父祖たちの子孫であることを、彼らが預言者たちのために墓の礼拝堂を建て、償いの礼拝堂を建てることで証明していると。29-31節です。
そして、主イエスは、律法学者たちとファリサイ派の人々への7つの呪いをお告げになった後に、おそらくその場にいなかった彼らに対して、32節に「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ」と言われました。
律法学者たちとファリサイ派の人々が、父祖がした悪事、すなわち、主なる神が遣わされた預言者、すなわち、神のしもべを殺したように、神が遣わされたメシアである主イエスを、ゴルゴタの丘に立つ十字架に付けて、殺すことであります。主イエスは、主なる神が永遠の計画の中で定められた、彼らがメシア殺しという悪事をすると預言されました。
ですから、メシア殺しという悪事を行う律法学者たちとファリサイ派の人々を、33節で主イエスは「蛇よ、蝮の子らよ」と呼びかけて、「どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と言われています。
そして、34節に主イエスは、キリスト教会がキリスト同様に、彼らに迫害され、殺されることを預言されています。35節は、ヘブライ語の旧約聖書に創世記の兄カインが弟アベルを殺したことから歴代誌にバラキアの子ゼカルヤが殺されたことまで記されています。ヘブライ語の旧約聖書は、わたしたちの旧約聖書と順番が違うのです。歴代誌が旧約聖書の最後の書物になっています。
そして、主イエスは、35節と36節にユダヤの宗教的指導者たちが、主イエスを殺し、キリスト教会を迫害し、キリスト者たちを殺した罪は、彼らに災いとなって、彼らにふりかかると預言されました。
紀元70年にローマ軍によってエルサレムの町とエルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人たちは20世紀まで自分たちの国を持つことはできませんでした。
さて、ここでマタイによる福音書がわたしたちにキリストが律法学者たちとファリサイ派の人々を呪われ、裁かれたことを伝えていますのは、何のためでしょうか。今朝の御言葉を、わたしたちはどのように理解すべきでしょうか。
わたしたちも、律法学者たちとファリサイ派の人々のように、偽善者になっていると、今朝の御言葉を読み、反省することを求められているのでしょうか。
そのように自分を痛めつける読み方もできるかもしれません。自分も彼ら同様に、人に見せる信仰なのではなかいか。自分は熱心に信仰していることを人に見せているだけではないか。この律法学者たちとファリサイ派の人々と同じではないか。しかし、そのように自己批判しても、わたしたちの内から喜びも命も生まれません。
教会は、反省会をする所ではありません。神がおられないような世界の中で、この世しか関心のない人々の世界の中で、まさに無信仰の世界の中で、教会は天地の創造主なる神を信じると告白する所です。
そしてその神が私たちの父として、御子キリストを、わたしたちの救い主として遣わしてくださいました。その御子キリストの十字架によってわたしたちの罪と永遠の滅びの刑罰を、わたしたちは赦していただいたことを、教会はこの世の人々に告げ知らせる所です。
マタイによる福音書がわたしたちに伝える主イエスは、確かに律法学者たちとファリサイ派の人々に呪いを宣告されたお方です。しかし、このお方がその呪いのために十字架の道を歩まれています。
その方の前でわたしたちがすべきことは、信じることです。このお方は御自身が呪われた、地獄行きが避けられないと言われた彼らのために、そしてわたしの罪ために十字架の道を歩まれたということを。
わたしは律法学者たちとファリサ派の人々と同じだと反省することよりも、この教会でふさわしいことは、自分のことよりも神の憐れみを信じて、この罪のままの自分を、「イエスさま、憐れんでください」とお委ねすることです。
昔から教会の中でわたしたちに、主がお求めになったのは、「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」という、本当に神の御前にへりくだった信仰のみです。
わたしは、日々の個人礼拝に毎日改革派教会のある牧師の説教を読み続けています。その牧師が説教の中にドイツのアルトハウスという有名な神学者の言葉を引用されていました。その孫引きですが、次の言葉です。本当に恵みを信じてこれにのみより頼んでいるか否かは、その恵みに浴していない人たちへの態度に、歴然と現れる」と。
わたしたちが今朝主イエスの呪われた律法学者たちとファリサイ派の人々にどのような態度を取るか、それがあなたがたが信じていると証しする神の恵み、主イエスの恵みであります。
イエス・キリストの父なる神よ、レントの季節を過ごしております。いよいよ次週より受難週に入ります。十字架のキリストを心に思い起こし、今朝の御言葉をこの一週間心に留めさせてください。律法学者たちとファリサイ派の人々を呪い、裁かれた主イエス御自身がゴルゴタの丘に立つ十字架を目指して歩まれています。今朝の主イエスの呪いの説教を通して、教会がこの世の人々に力強く十字架のキリスト以外に救いのないことを証しさせてください。キリストの御前にへりくだり、ありのままのわたしたちが心から「神よ、罪人のわたしをおゆるしください」と祈らせてください。どうかこの教会でただ神が神であられ、十字架と復活のキリストゆえにわたしたちの神であると信じさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。