マタイによる福音書説教101 主の2013年6月23日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしは命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、今朝の御言葉を理解し、信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントンもう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
さて、かなりの日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて,十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
マタイによる福音書第25章14-30節
説教題:「管理者としての忠実さ」
今朝は、マタイによる福音書の第25章14-30節の御言葉を学びましょう。見出しに「タラントンのたとえ」とあります。「タラントン」とは、重さのことです。ギリシアで用いた計算用の単位です。タラントンの価値は、銅貨、銀貨、金貨によって異なりました。よく使われたのは銀貨です。銀貨1タラントンは、主イエスの時代の日雇い労働者にとって20年分の賃金に相当したでしょう。
さて、主イエスは、弟子たちに次のように話されました。ある主人が長い旅に出ることになりました。主人は、3人の彼の僕たちを呼び寄せました。そして、彼は、3人の僕たちにそれぞれ彼のタラントンを預けて、旅に出ました。長い旅から戻ると主人は、3人の僕たちが預かったタラントンでいくら儲けたかを清算しました。これは、大変有名なお話であります。
14節に主イエスが「天の国はまた次のようにたとえられる」と言われていますね。実は、これは、新共同訳聖書が主イエスのお言葉を解釈した文章です。主イエスは、14節の冒頭で「同様である」と言われているだけです。新共同訳聖書は「同様である」を、前の話と同じであると理解したのでしょう。花婿を迎えるおとめたちの話と、です。そのお話の冒頭で主イエスは、「そこで、天の国は次のようにたとえられる」と言われて、話をされました。「同様である」も、同じ話のことであると理解したのです。
わたしの好きなニューイングリシュバイブルは、「イット、イズ、ライク、ア、マン、ゴーイング、アブロード」と英訳しています。「外国に行こうとしている人のようなものである」。「彼は彼の僕たちを呼び寄せ、彼の財産を彼らの手に渡した。一人に金を5袋、もう一人に金を2袋、他のもう一人に金を1袋、各々の僕の能力に応じて」
主イエスは、弟子たちに、そして、わたしたちの教会に、御自身の再臨についてお話しになり、警告をされているのです。
主イエスが再び来られる再臨の日、その時は、主イエスがわたしたちを裁かれる日であります。わたしたちは、礼拝において使徒信条を唱えていますね。その中に「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白しています。主イエスは、わたしたちに今朝の御言葉によって、「あなたがたは、わたしが再臨して、あなたがたを裁くときに、どのように備えているのですか」と問われているのです。
主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちに今その時に備えるようにお話しになりました。そして、主イエスは、弟子たちに、そして、わたしたち信者に、キリストが再び来られるまでにどのように生きるべきかを教えてくださっているのです。
ですから、主イエスは、御自身が天に昇り、再びわたしたちの世界に来られるのを、ある人の旅に出て、長い旅から戻って来ることにたとえられています。当然この3人の僕たちは、主イエスの弟子たちであり、わたしたちキリスト者たちであります。
もう一度お話を初めに戻します。ある主人が長い旅に、恐らく外国に出かけることになりました。そこで主人は、彼の3人の僕たちを呼び寄せました。そして、主人は彼らの能力に応じて主人の財産を預けました。15節の「それぞれの力に応じて」とは、3人の僕たちの持っているキャパシティー、すなわち、能力のことです。
主人は、一番有能な僕に5タラントン、次に有能な僕に2タラントン、最後の僕に1タラントン預けました。この違いは、神が各々の人にお与えになる能力の違いを表しています。人の能力は異なるのです。しかし、このお話で大切なポイントは、3人の僕たちの能力の違いではありません。主人が財産を僕たちに預けた思いを汲んで、預かった財産をどのように増やすかが僕たちの義務でありました。
5タラントン預かりました僕は出て行って、それで元手にして商売を始めました。そして、5タラントンもうけました。2タラントン預かった僕も、同じように商売をして、2タラントンもうけました。ところが1タラントン預かった僕は、主人の財産を一番安全な土の中に穴を掘って、その中に入れて隠しました。
長い年月が過ぎました。主人が長い旅を終えて、帰って来ました。そして、主人は3人の僕たちを呼び寄せて、預けておいた財産の清算を始めました。
まず5タラントン預かった僕が、主人の前に出て、商売で儲けた5タラントンを差し出しました。そして彼は主人に言いました。「ご主人様、あなたはわたしに5タラントンお預けになりましたが、御覧ください。わたしはほかに5タラントン儲けました。」それを聞いて主人は、5タラントン預けた僕を誉めました。
主人は、僕たちに預けた財産を増やしてほしいと願っていました。だから、5タラントン預かった僕が、それを元手にさらに5タラントン儲けたことを、心から喜びました。彼は主人の心に忠実で良い僕でした。主人は、彼が少しのものにも忠実だったので、もっと多くのものを彼に委ねて管理させようと約束しました。そして、主人は、その僕を「主人と一緒に喜んでくれ」と祝福しました。
「主人と一緒に喜んでくれ」は、主イエスが言われたままに言いますと、「あなたの主人の喜びに入れ」です。ニューイングリシュバイブルは、「あなたの主人の喜びに来て、与れ」と訳しています。主人の喜びとは、主人が招く祝宴です。主イエスは、神の国における御自身の祝宴をイメージされています。
2タラントン預かりました僕も、主人にそれを元手にしてさらに2タラントンを儲けたことを報告しました。そして主人は、5タラントン預けた僕同様に彼を誉め、彼に多くのものを管理させることを約束し、主人が招く祝宴に与らせました。
ところが、1タラントン預かった僕は、主人から預かった財産に戸惑いました。彼は、主人の貪欲と厳しさを知っていました。1タラントンを元手にして、商売をし、失敗したら、と思うと商売もできませんでした。銀行に預けることも考えたでしょう。しかし、銀行が倒産し、元手を失ってしまうことを考えると心配です。そこで一番安全な方法を思いつきました。それは、地に穴を掘って主人から預かった1タラントンを隠しておくことでした。
1タラントン預かった僕の失敗は、第一に主人を恐れたことです。他の二人の僕たちは、主人が彼らに財産を委ねてくれたことを喜びました。主人がどんな人であるかよりも、彼らは主人が何を願っているかに、心を向けました。
ところが1タラントン預かった僕は、主人が貪欲で厳しい人だということに心を向けて、主人が何を願っているかを考えませんでした。それゆえ彼は、失敗を恐れて、主人のために何もしなかったのです。
新共同訳聖書は、主人が彼に「怠け者の悪い僕だ」と宣告したと記していますね。ある方の個人訳を見ますと、「悪しき下僕よ、臆病者め」と訳されています。1タラントン預かった僕は、怠惰な者というよりも、彼は臆病者だったのです。彼は主人が貪欲で厳しい人であると思い、1タラントンの大金をなくせば、主人にどんな仕打ちをされるかと、びくびくし、あるいはおどおどし、何もできなかったのです。
今朝の主イエスのお話を理解する一つの鍵は、キリスト者とは、キリストの所有であるということです。使徒パウロも、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:8)と言っています。
わたしたちは、主イエス・キリストの僕です。そして、僕としての忠実さを求められています。キリストが再びわたしたちのところに来られるまで、わたしたち一人一人の能力に応じて、わたしたちに命と賜物とこの世の富を与えてくださっています。
神の僕としてキリスト者は、2重の管理を委ねられています。それは、神が創造された世界と教会であります。
キリストが再臨された時に、わたしたちはタラントンを預かった僕たちのように、主イエスの御前で、自分たちが主から委託された自分の命と賜物とこの世の富を用いて、どのように主イエスの御心を行ったかを問われるのです。
その時にわたしたちが心すべきことがあります。それは、主の御心を行うとき、自分のリスクを考えないことです。5タラントン預かって、さらに5タラントンを儲けた僕も、2タラントン預かって、さらに2タラントン儲けた僕も、自分のリスクを考えていません。商売に失敗したら、と心配していません。無心に彼らは、商売をして主人の財産を増やすことに励んでいます。それだけです。
彼らの行いは、主の目から見れば、「少しのもの」、まことに小さなことでした。無から天地を創造された、わたしたちの主から見れば、わたしたちが何か主のためにすることは「少しのもの」、小さなことです。
でも、主人は、二人の僕たちを忠実で良い僕と高く評価しました。主の目に小さなことでも、彼らが忠実に励んだことを、主人は高く評価して、さらに彼らに多くのことを管理させました。何よりも主人は、二人を、自分の喜びの中に招き入れました。
主イエスは、このお話を終わりに、主人が1タラントン預けた僕を裁き、彼が預かった1タラントンを、5タラントン預かった者に与えよと命じて、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言われました。
主イエスは、「だれでも」と、主イエスの裁きの変わらない真理を次のように教えておられます。
「持っている人」とは、神から与えられた命と賜物とこの世の富を、神の御用のために豊かに用いる人です。その人は、ますます神に祝福されて、さらに豊かになります。そして、主イエスが招かれる天の国の祝宴にあずかるのです。ところが、持っていない人は、神から与えられた命と賜物とこの世の富を、自分のために使っても、神のために用いないので、やがて終わりの主の裁きの時に自分の命と共に、すべてを失うのです。その時に後悔しても、後の祭であると、主イエスはわたしたちに警告されています。
最後にわたしたちは、この主イエスのお話を、自分たちにとって祝福とするために、聖霊に依り頼む必要があります。この主人を通して、主イエスは、わたしたちが主のためにする「少しのこと」を見ておられます。その少しのことも、わたしたちは主イエスがお遣わしくださった聖霊のお助けなしにできないのです。
本当に家族に伝道することも、知人に伝道することも、職場の仲間にキリストをお話しすることも、本当に難しいことです。主イエスは、わたしたちが主イエスを信じて、洗礼を受けた時に、わたしたちに聖霊をお与えくださいました。わたしたちは、常に祈り、聖霊がわたしたちに主の御心を行わせてくださるように願っています。そして、聖霊がわたしたちに働いてくださる時に、「忠実な良い僕だ、良くやった」という、主の喜びの中にわたしたちとこの教会が置かれるのです。お祈りします。
御在天の父なる神よ、主イエスがタラントンのお話をされたのを学びました。いつ主が来られるか、わたしたちは知らされていません。聖霊によって常に目をさまして、キリストの十字架を見続け、主の再臨に備えさせてください。どうかわたしたちが聖霊の導きによって主の御心を知り、行うことができるようにお導きください。わたしたちは、主から命も賜物も、この世の富も預かっています。喜んで主の御用のために用いることができるように、わたしたちの心から臆病の霊と貪欲を追い出してください。この世界と教会の管理者として常に主に忠実に自らの務めを行わせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教102 主の2013年7月7日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしは命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、今朝の御言葉を理解し、信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅していたときに宿を貸し。裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょう。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
マタイによる福音書第25章31-46節
説教題:「兄弟愛が問われている」
今朝は、マタイによる福音書の第25章31-46節の御言葉を学びましょう。主イエスが弟子たちに24章からお話しになり、お教えになりました終末についての説教と教えが、本日で終わります。
マタイによる福音書は、主イエスのお言葉を通して、終末の審判への到来として示されてきた人の子の到来とその裁きを生き生きと記しています。
わたしたちは、礼拝において使徒信条を告白しますね。その中でキリストの再臨と裁きについて、次のように告白しています。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を審きたまわん」と。
主イエスは、弟子たちにそのことについて二つのことをお話しになり、お教えになりました。第1に主イエスは、終末における人の子の到来としての審判について、31-33節に次のようにお話しになりました。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」
マタイによる福音書は、主イエスの口を通して、終末、すなわち、この世の終わりの神の審判を、人の子主イエスの審判として記しています。
人の子主イエス・キリストの再臨は、栄光の時であります。主イエスの再臨は天使たちを従えて、全人類の前で王として君臨し、裁かれます。主イエスは、次のように言われています。「栄光の座に王として着座し、すべての諸民族を集め、羊飼いが羊と山羊とを選別するように、永遠の命を与える者とそうでない者を選別する。」と。
主イエスのお言葉は、旧約聖書のエゼキエル書34章の預言の成就です。主なる神は、預言者エゼキエルの口を通して、次のように預言されました。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」(エゼキエル書34:23)、「主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄羊との間を裁く」(同34:17)。
主イエスは、「羊飼いが羊と山羊を分けるように」と言われていますね。羊は、新鮮な空気を好み、夜でも屋外で飼われました。山羊は、寒さが苦手で、夜は洞穴の中に入れられました。ですから、日中は一緒に飼っていても、夜は別々に分けられたのです。主イエスは、それを御自身の最後の審判についての説明に用いられました。
主イエスが弟子たちに告げられていることは、わたしたちの将来に必ず起きることであります。わたしたちは、そして、教会は、それに備えなくてはなりません。
教会の備えは、礼拝と伝道です。礼拝を通して、わたしたちは主の御言葉を聞いて備えるのです。さらに世界宣教を通して備えるのです。復活の主イエスは、弟子たちに大宣教命令をされました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と。福音がすべての諸民族に伝えられて、宣教命令が完了した時に、キリストは再臨されます。それゆえ、教会の伝道がキリストの再臨への備えとなるのです。
さらにマタイによる福音書は、主イエスの口を通して、第2に王として、教会の牧者として羊たちと山羊たちを裁かれることを語り、教えています。それが34節から46節の御言葉です。
34-40節は、王である主イエスが、御自身の右側に置かれた人たちを裁きます。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅していたときに宿を貸し。裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょう。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
主イエスの「わたしの父に祝福された人たち」への裁きです。マタイによる福音書は、終末の裁きにおいて救われる人たちを、「わたしの父に祝福された人たち」、「正しい人たち」と呼んでいます。
王である主イエスは、彼らに34節に御国を相続させ、続いて御国を相続できる基準をお示しになりました。それは、彼らの目には見えていなかった主イエスに対して親切な振る舞いをしたということでした。
主イエスが彼らに言われます。「わたしが飢えていると、あなたがたは食物を与えてくれた。のどが渇いていると、親切にも一杯の水をくれた。旅をしていると、親切にもあなたがたは家に留めてくれた。わたしが裸であるのを見て、あなたがたの着物をわたしに着せてくれた。病気の時は見舞い、牢に入れられたと聞くと、あなたがたはわたしを訪ねてくれた」。
それに対して正しい人たちは、驚きました。「いつ、わたしたちはあなたにお会いして、親切にしたでしょうか」と。人の子であり、王である主イエス・キリストの裁きの前に立ちました正しき人々は、自分たちがこの世において主イエスにお会いしていたことに驚いています。
そこで王である主イエスは、彼らに言われました。40節です。「『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」
主イエスは、「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の人に」親切にしたことを、御自分にしてくれたことと評価されました。
マタイによる福音書が「小さな者」と言っていますのは、主イエスが伝道に遣わされた弟子たちのことです。マタイによる福音書の10章42節に主イエスは、御自分が伝道に遣わされた弟子たちの一人に「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われています。
主イエスに伝道に遣わされる弟子たち、伝道者たちは、お金も着物も持たず出かけました。彼らは旅人で、定住する家を持ちませんでした。病気と迫害は常に彼らの生活に伴うリスク、危険でありました。教会の兄弟たちの愛だけが、彼らの命を支えていたのです。そして、彼らが教会で、派遣されたところで語ります説教と共に、キリストがそこにいてくださいました。
しかし、主イエスのお言葉は、広がりました。主イエスが「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人に」と言われましたお言葉は、教会内における兄弟愛に広がりました。教会内における愛による相互の奉仕へと広められました。
もし主イエスが「わたしの兄弟」と言われなかったら、世の中で、わたしたちの社会の中で飢えた人、生活の困窮者、よその国からわたしたちの国に来て住んでいる人、病人や高齢者、不正に抑圧された人、そういう小さな者と主イエスはいつも共におられるので、そのような人々を教会は助けましょう。そういうメッセージになったでしょう。
しかし、主イエスは、わたしたちに教会の外のひとではなく、兄弟愛を求められました。教会内の「わたしの兄弟である最も小さな者」に対する愛の行為の重要性を語られています。
主イエスは、御自身の左側に集められた者たち、神に呪われた者たちに41-46節に次のように言われました。「『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」
裁かれた人々も、祝福された人々と同じ反応を示しています。呪われた人々は、主イエスがマタイによる福音書の7章21-23節と同じです。そこでは主イエスは、言われました。「『主よ、主よ』という者が皆、天国に入るのではない。また、わたしの名によって伝道し、悪霊を追い出し、いろんな奇跡をしたと言うであろうが、あなたがたはわたしと何の関係もない。わたしから去れ。」
主イエスが、わたしたちに伝えようとされているのは、最後の最後に問われるのは、わたしたちが主の御心を行ったかということです。そして主イエスは、弟子たちに一つの新しい掟を与えておられました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。
わたしは、今朝の御言葉を読むごとに、トルストイの「靴屋のマルチン」の童話を思い起こします。愛する妻を亡くして、孤独な生活をしているマルチンのところに、主イエスが夢で現れて、「明日あなたのところに行く」と言われました。マルチンは、翌朝起きて、いつものように仕事をしながら待ちました。最初に彼を訪れたのは、雪かきをしていたおじいさんでした。マルチンは、お茶に誘いました。次に貧しい子連れの女性が家の前を通りました。マルチンは家に誘い、親子に暖かいミルクを飲ませ、女性に奥さんのショールを与えました。次にリンゴを売るおばあさんとリンゴを盗もうとした子供が喧嘩していたので、マルチンは二人を家に招き、二人を和解させました。そして、一日が過ぎました。その夜、マルチンは、主イエスが訪れてくださることを楽しみしていたので、がっかりしました。しかし、夜に主イエスは、マルチンに夢に現れて、今日の出来事は皆、わたしがお前のところに訪れた出来事であったと言ってくださいました。
主イエスが言ってくださることが大切なのです。自分が何をしたか、主イエスの裁きの場では問題になりません。自慢したいことが一杯ある方もいるでしょう。わたしも、あれをした、これをしたと思うことがあります。でも主イエスは、今朝の御言葉とマタイによる福音書を通して、「お前は愚かなものである」と言われました。キリスト者としてわたしが何をしたのか、評価するのはわたしではなく、主イエス御自身だからです。
真実は、わたしたちに教会の中で兄弟愛が問われているということです。それは、わたしが主のために、教会のために何をしたかという自分の、自分に対する評価と何の関係もありません。ただ主イエスが、憐れみによって「あなたはわたしのために、これこれのことをしてくれた」と言ってくださるのです。
十字架の愛によって、わたしのために罪の身代わりになられた主イエスは、わたしたちが万事が益となるように、わたしたちの教会の中で、聖霊と御言葉を通してそのように関わってくださるのです。その主の憐れみだけに、依り頼みたいと思うのです。お祈りします。
御在天の父なる神よ、主イエスがわたしたちをこの世の終わりに裁かれるお話を学びました。願わくは、わたしたちの教会が礼拝と伝道を通して、主イエスの再臨に備えることができるようにお導きください。わたしたちは主に兄弟愛を問われています。しかし、わたしたちの行いを、最後に判断されるのは主のみです。わたしたちから驕りと傲慢の思いを取り去り、ただ主よ、すべきことをしたにすぎませんとへりくだらせてください。
今から聖餐の恵みにあずかります。聖霊と御言葉によってわたしたちが常に目をさまし、キリストの十字架の愛を見続け、主の再臨に備えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教103 主の2013年7月14日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしは命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、今朝の御言葉を理解し、御国へと歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
マタイによる福音書第26章1-13節
説教題:「主イエスの葬りの準備」
主イエスは、弟子たちに終末と裁きについての説教(24-25章)を語り終えられました。そのことを、マタイによる福音書は、26章1節に「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」と記しています。
マタイによる福音書のギリシャ語の文章を見ると、26章1節の冒頭に「カイ エゲネト」という言葉があります。「そして、次のことが起こった」という言葉です。主イエスの言葉による活動はすべて終わり、いよいよ主イエスが御自身の命をかけて、受難に向けて歩まれます。26-27章は、主イエス・キリストの受難の物語です。
マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスのお言葉によって受難物語を語り始めます。2節です。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
主イエスは、弟子たちに言われました。「あなたがたがよく知っているように、二日後に過越の祭がある。そのときわたしは、十字架につけられるために異邦人に引き渡される」。
過越の祭は、ユダヤ人たちが春に出エジプトの出来事を記念して守る祭です。春分の日から最初に満月になる日に祭が行われました。ユダヤ人の暦でニサンの月の14日の午後に、エルサレム神殿において羊の犠牲をささげることで始められました。そして、その夜にユダヤ人たちはそれぞれの家庭において犠牲にささげた羊の肉を食べました。
主イエスが弟子たちに告げられたことは、次の3つであります。第1に御自身の受難が間近に迫っているということです。第2に主イエスは過越祭と御自身の十字架の死を結びつけて話されています。第3に主イエスは、御自身の死を、十字架の死であると告げられています。
十字架刑は、ローマ人が行う処刑であります。ですから、主イエスは弟子たちにユダヤの官憲に逮捕され、異邦人であるローマ人たちに引き渡されて、十字架につけられると言われました。
3-5節を御覧ください。主イエスが弟子たちに御自身の死を告げられていたとき、ユダヤの官憲が主イエスを殺そうと相談していたことを記しています。
「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた。」
「祭司長たちや民の長老たち」とは、ユダヤの最高法院の構成メンバーです。ユダヤ社会の宗教と司法を支配する最高指導者たちです。彼らがユダヤの官憲です。
「祭司長たちと民の長老たち」は、大祭司カイアファの屋敷に集り、主イエスを殺すことを相談しました。カイアファが大祭司の職に就いていたのは、紀元18-36年でした。主イエスが十字架刑によって死なれたのが、紀元30年です。
ユダヤの官憲が主イエスを殺すことについて決めたことは、過越の祭の間は主イエスを逮捕し、裁判にかけて死刑にすることはやめておこうということでした。
マタイによる福音書は、キリストの受難を物語りながら、主イエス・キリストを取り巻く人々の光と影を描いています。主イエスの殺害の陰謀が大祭司カイアファの屋敷でなされたことは、影の描写です。
さて、過越の祭の二日目前、ベタニアの村に重い皮膚病を、主イエスに癒されたシモンと呼ばれる人の家がありました。そこに一人の女性が主イエスに高価な香油を注いで、主イエスを葬る用意をするという出来事が起こりました。これは、キリストの受難物語の光の部分であります。
6-13節です。「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。』イエスはこれを知って言われた。『なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。』」
ベタニアという村は、エルサレムの町から3キロ離れたところにある村です。「悩みの家」「貧困の家」という名の村でした。シモンも重い皮膚病に悩まされていました。主イエスが、彼をその苦しみから解放してくださいました。シモンは、主イエスへの感謝の思いで、食事に主イエスと弟子たちを招待しました。
主イエスと弟子たちが食事の席に着いていたときに、一人の婦人がシモンの家にやって来ました。そして、彼女は、手にとても高価な香油の入った石膏の壺を持ち、主イエスに近づきました。そして、彼女は主イエスの頭の上にそのとても高価な香油を注ぎました。
どうして婦人が主イエスにとても高価な香油を注いだのか、マタイによる福音書はその動機を記してはいません。次のように推測する人がいます。単純に主イエスに対する敬意を表すためにした。主イエスへの愛を表すためにした。飢えている者に食べさせ、困っている人に着物を着せ、死人を葬るという愛の業と同じであった。
だが、主イエスの弟子たちには、婦人は香油を無駄遣いしたように見えました。だから彼らは、婦人を非難したのです。
香油は、ユダヤ社会では高価な品でした。女性たちは、小さな石膏の壺に香油を入れて、首からかけて持ち歩いていました。旧約聖書の箴言21章20節に「知恵ある人の住まいには望ましい宝と香油がある」とあります。香油を無駄にすることは、貧困の道であり、香油を常に用意し、貧困から人を救うことが知恵ある者と、主イエスの弟子たちは考えていたのです。
確かに、婦人が主イエスの頭に注いだ香油で、ベタニアの村の多くの貧しい人々を救うことができたでしょう。
わたしも、主イエスの弟子たちと共に、その場にいたら、弟子たちの憤慨に共感して、弟子たちと同じことを言ったと思います。すべての無駄が、貧困への道なのです。婦人が無駄にした香油があれば、ユニセフを通してどんなに多くの子供たちを救うことができるだろうか。
しかし、10節に「イエスはこれを知って言われた」とあります。主イエスは、弟子たちが非難するように、そして、わたしが言いましたように、香油を売って、多くの貧しい人々に施す方が広く愛の業を行えることを知っておられました。弟子たちの非難に、正しさがあることも知っておられました。
それでも主イエスは、弟子たちに婦人が御自身に香油を注いでくれたことの意味を、次のように伝えられました。第1に彼女は、主イエスによいことをした。第2に貧しい人々は常に弟子たちと共にいるが、主イエスはいつでも一緒におられない。第3に彼女は主イエスの葬りの準備をした。第4に世界中の教会において彼女の行為は、記念として伝えられる。
主イエスの頭に香油を注ぐことが、どうして主イエスによいことをしたのでしょうか。そのよいことは、貧しい人々に施しをする愛の行為とどう違うのでしょうか。
頭に香油を注ぐという行為は、主なる神に選ばれた者になされました。主なる神が選ばれた大祭司、預言者、王が就任式を行う時に、彼らに香油が注がれました。そして、油注がれた者を、「メシア」と呼びました。
主イエスの弟子たちは、主イエスを「メシア、生ける神の子」と信仰告白をしました。しかし、彼らは主イエスの頭に油を注ぐことはありませんでした。主イエスがメシア、御国の王、大祭司、預言者として名実ともに油を注がれたのは、この婦人によってでした。この婦人の油注ぎによって主イエスは、メシアとして就任なさったのです。ですから主イエスは、弟子たちに「彼女はわたしによいことをした」と言われているのです。
次に香油は、葬儀に用いられました。死体やその衣服に香油が塗られました。ですから主イエスは、彼女の行為を、「わたしの葬りの準備をしてくれた」と言われました。油注がれたメシア、主イエス・キリストは、この世の王と同じではありません。死を通して、御自身が弟子たちに予告された十字架の死を通してメシアとして働かれるのです。
わたしたちは、今朝の主イエスの頭に香油を注いだ婦人から、一つのことを学びます。それは、彼女の「無駄である」と思える愛の行為によって、わたしたちのメシア、救い主イエス・キリストは、十字架の死を通してわたしたちを救われるお方であることを知らされたことです。
そして、まさにキリストの十字架の死という愛の行為は、わたしたちの目に一見命を無駄にしていると見えます。しかし、その一度限りのキリストの死によって、わたしたちの罪は赦され、わたしたちは神の呪いから解放されました。
「風」の中に一人の兄弟が次のように証しされています。「この世の中は何と苦しみ、みじめ、悲惨があふれているのだろうか。そんな思いが、小さい頃からずっと私を支配していました。人はみな病気にかかり、不慮の事故に遭い、最後には死が待ち構えている。そして死んだあとは無に帰す。そんな苦しみばかりの人生、何のために生きているのだろうか、と」。
主イエスは、今朝の御言葉を通して、その問いに答えてくださるのです。人の苦しみと死と、人生の空しさの元である、人の罪から、人を救う救い主として、今わたしはこの婦人の油注ぎを通して、就任したのだ。そして、わたしはすべての人の罪を、そして罪のゆえに人が味わっている神の呪いを、十字架を通してわが身に引き受けるのだ、と。お祈りします。
御在天の父なる神よ、わたしたちは主イエスの受難について学び始めました。今朝は一人の婦人が主イエスの頭の上に香油を注ぐ行為によって、主イエスが真実わたしたちの救い主に就任され、わたしたちの罪の身代わりに十字架の上で死んでくださったことを学びました。心より感謝します。
また、この婦人のように教会の中でわたしたちの常識を越える兄弟姉妹の愛の行為に出会うことがあります。そのとき、わたしたちの常識で「無駄である」と判断するのではなく、主御自身の判断を、聖書の御言葉からわたしたちに教えてください。そして、今もわたしたちの教会を通して、主イエス御自身がわたしたちの救い主としてお働きくださり、この婦人が主イエスにした行為が、わたしたちの救いになっている恵みを見させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。