マタイによる福音書説教064            主の2012422

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。(主イエスがお招きくださる聖餐の食卓に与らせてください。)主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

 

 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

 

                 マタイによる福音書第16章1-12

 

 

 

 説教題:「真実の教えに目を向けよ」

 

 マタイによる福音書第16112節の御言葉を学びましょう。マタイによる福音書の16章は、ペトロのキリスト告白の出来事を記しています。マタイによる福音書は、わたしたちをキリスト教会へと導こうとしています。そして主イエスは、12弟子たちをキリスト告白に導こうとされています。その上に御自身の教会を建て上げるためにです。そのために主イエスは、12弟子たちが信仰を妨げられる教えに惑わされず、キリスト告白へと導く必要を覚えられました。それが今朝の御言葉であります。

 

 マタイによる福音書は、わたしたちにキリスト教会について、キリストと弟子たちの共同体について教えて来ました。13章においては、主イエスが弟子たちにたとえを語り、説明されることを通して、キリスト教会が学びの共同体であることを教えています。キリスト教会は、聖書の御言葉を、信仰を学び続けるところです。1415章において、マタイによる福音書は、わたしたちにキリストの奇跡を物語りました。キリスト教会はキリストの力強い臨在を経験するところであることを教えています。

 

 キリストのパンの奇跡に、マタイによる福音書は教会の聖餐式の経験を思い起こさせようとしています。パンの奇跡によって五千人、四千人を養われた復活の主イエスは、わたしたちを永遠の命に養うために、聖餐の食卓に招いてくださいます。

 

 そして、マタイによる福音書は、わたしたちにペトロのキリスト告白を語ろうとしています。

 

 さて、主イエスは弟子たちを、キリスト告白に導くために、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に気をつけよと命じられました。マタイによる福音書がわたしたちに「弟子たちはパン種とは、彼らの教えであることを悟った」と説明しています(12)

 

 この人々はユダヤの民衆たちの指導者でした。彼らこそ、神の律法を知る者として、主イエスをメシアと認めて、自らの救いと神の民の救いのために、主イエスを救い主として信じるように勧めるべき者たちでありました。

 

 ところが、彼らが主イエスにつまずきました。主イエスに対して不信仰になりました。彼らのメシア理解に主イエスは当てはまりませんでした。だから、主イエスの御前に進み出ました彼らは、主イエスを試みました。昔の不信仰なイスラエルの民たちのように、天からのしるしを要求しました。

 

 主イエスは、答えられました(24)。主イエスが言われたことをまとめると、こうなります。「あなたがたは天気予報を知っているが、肝心な今メシアがこの世界に来ていることを知らない。それは、あなたがたも群衆たちも、この世の人々は皆、不信仰であるからだ。不信仰な者たちは、神の奇跡を求める。預言者ヨナが大きな魚に飲み込まれて三日三晩魚の腹の中にいた神の奇跡以外に、神の奇跡はあなたがたに与えられない。それはわたしが十字架に死に、墓に葬られて三日目に復活することである」と。

 

 主イエスは、ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々をその場に残して立ち去られました。

 

 向こう岸がどこであるのか、分かりません。主イエスと12弟子たちはガリラヤ地方を離れました。そして、主イエスと弟子たちの舟は異邦人たちの土地に着いたことでしょう。弟子たちは、食料を持って来るのを忘れたことに気づきました。

 

 その時です。主イエスは、12弟子たちに「ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々のパン種に気をつけなさい」と警告されました。主イエスのお言葉をそのまま日本語にしますと、こうです。「それでイエスは彼らに言った。『見よ、そして、気をつけよ、ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々のパン種に。』」

 

 主イエスの言葉を聞いて、弟子たちは、勘違いをしました。自分たちがパンを忘れたからだと。

 

 弟子たちは、主イエスのお言葉を聞いて、「自分たちはパンを持って来なかったのに、どうして先生はわたしたちに『ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々のパン種に気をつけよ』と言われるのだろうか」と論じ合いました。

 

 それは、主イエスのお言葉からも分かりますね。主イエスは、弟子たちが主イエスのお言葉を誤解して論じ合っていることに気づかれました。

 

 そこで主イエスは弟子たちの誤解を解き、言われました。「信仰の小さな者たちよ、あなたたちの間でなぜ自分たちがパンを持って来なかったことを議論しているのか」。

 

 そこで主イエスは12弟子たちにパンの奇跡を思い起こすように促されました。「思い出しなさい。5つのパンで五千人を養った時、民衆たちが食べ残したパンの屑を幾籠に集められたか、7つのパンで四千人の養った時に、民衆たちが食べ残したパンの屑を幾籠に集められたか。あなたがたにパンについて言ったのではないということが、どうして分からないのか。」。

 

 主イエスは、弟子たちにパンの奇跡を経験した後で、パンがないことを問題にする理由はないではないかと言われたのです。教会は、パンを心配する所ではありません。主イエス御自身は、荒れ野において40日間断食されました。その後で悪魔が主イエスに「この石をパンに変えよ」と誘惑しました。主イエスは悪魔の誘惑を退けられて言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ44)

 

 弟子たちにとって大切なことは、今彼らの目の前におられる主イエス・キリストです。そのお方を、弟子たちは誰と告白するか、告白してどのようにキリストに信頼するか、それが弟子たちにとって一番大切なことでした。

 

 ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々は、自ら主イエスをキリストと告白しないで、天からのしるしを要求し、人々がキリスト告白する道を塞いだのです。

 

 弟子たちは、キリストへの信仰を妨げようとするファリサイ派とサドカイ派の人々の誤った教えに惑わされず、注意することを理解しました。

 

 マタイによる福音書の今朝の御言葉から教えられることは、目をキリストから離れさせるものに常に気をつけることです。

 

教会は、礼拝においても、水曜日の祈祷会においても、木曜日の聖書の学びにおいても、有志の学びにおいても、全員懇談会等においても、聖書とキリストを学ぶところです。キリストを告白するために学ぶところです。目に見えませんが、共にわたしたちとおられるキリストを経験する所です。

 

 教会にとって、真実の教えは、キリストです。主イエス御自身も、「聖書はわたしについて証しするものである」と言われました。

 

ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々は、主イエスの時代、今日の大学の先生のように立派な学者だったでしょう。しかし、学者の中に主イエスを、学問において議論しても、主イエスをキリストと信仰告白しないし、そのように学生たちを学びに導かない者がいます。マタイによる福音書は、わたしたちにわたしたちをキリスト告白に導かない者の教えに気をつけるように促しています。

 

 主イエスは、今の時代にわたしたちに与えられているのは、ヨナのしるしだけだと言われました。わたしたちの教会の中に「ヨナのしるし」が見られるとは、どういうことでしょうか。教会の中で主イエス・キリストの十字架の死と復活が語り続けられ、教え続けられていることです。キリストは、わたしたちの罪のために十字架に死なれ、わたしたたちの永遠の命の保証として復活されました。

 

 十字架と復活の主イエス・キリストを、わたしたちの教会が見失えば、わたしたたちも、キリストの十字架と復活を通してわたしたちを愛されている神さまを見失ってしまうのです。わたしたちを、新しい永遠の命に復活させてくださるという神への希望を失ってしまうのです。わたしたちは、罪を赦され、神の子にされたという確信を失ってしまうのです。もうそうなれば、ここに教会はありません。教会が真実の教えであるキリストを見失ってしまえば、教会は教会ではなくなるのです。

 

今朝のマタイによる福音書から学びますのは、教会の中で議論されることを、すべてキリストが聞いておられるということです。だから、今もキリストはわたしたちに注意されるのです。教会の中では真実の教えに、このわたしに常に目を向けなさいと。お祈りします。

 

 主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは、主イエスに真実の教えに目を向けるようにと教えられました。心より感謝します。どうかこの教会の中に臨在されるキリストに、常に心を向け、兄弟姉妹たちとの信仰の交わりにおいて心からキリストを告白し、キリストの弟子として歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教065            主の201256

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせてください。主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者と言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 

                   マタイによる福音書第161320

 

 

 

 説教題:「あなたにとってキリストとは」

 

 マタイによる福音書第161320節の御言葉を学びましょう。マタイによる福音書は、ペトロのキリスト告白を記しています。マタイによる福音書の一番の見せ場です。

 

これまでマタイによる福音書は、412節より主イエス・キリストがガリラヤ伝道を始められ、12弟子たちを召し出し、弟子たちや大勢の群衆に教え、癒しの御業を行われて来たことを語って来ました。主イエスの12弟子たちは、主イエスがガリラヤ伝道されたこと、彼らや大勢いの民衆を教え、主イエスが大勢の病人を癒し、パンで養い、湖を歩かれる奇跡等を見て来たのです。

 

今、主イエスは、12弟子たちに二つの質問をされました。主イエスは、12弟子たちにこの二つの大切な質問をするために、ガリラヤを離れられました。ガリラヤ湖から北に40キロ行くと、ヨルダン川の源流にいたります。そこにガリラヤの領主ヘロデの腹違いの弟フィリポが支配するフィリポ・カイサリアの町がありました。

 

誰が説教しても必ずこの町について二つのことを述べます。第1に風光明媚な地であることです。軽井沢やこの諏訪地方のように観光地であり、保養地でありました。第2に偶像礼拝の町でありました。ローマ皇帝を神として祭る神殿があり、ギリシアの神々が祭られ、バールの神々も祭られていました。

 

主イエスは、12弟子たちを偶像礼拝が盛んに行われているところに連れて行かれて、この二つの質問をされました。

 

主イエスの12弟子たちへの第1の質問は、これです。「世間の人々は、わたしについて何と言っていますか」。

 

弟子たちは、答えました。「ある人は『洗礼者ヨハネだ』と言っています」。「『エリヤだ』と言う人もいます」。「『エレミヤだ』と言う人も、『他の預言者の一人だ』と言う人もいます」。

 

弟子たちは、世間の人々が主イエスについて言っていることを告げました。例えば、ガリラヤの領主ヘロデは、主イエスが大勢の病人をいやす奇跡をしていると聞いて、「あれは、洗礼者ヨハネが甦ったのだ」と言って恐れました。主イエスを、洗礼者ヨハネが生き返ったと信じました。

 

別の人は、昔イスラエルの国が北と南に分かれていた時に、北イスラエル王国において活躍したエリヤという大預言者が世の終わりに現れると信じていました。彼らは、主イエスの奇跡を見て、エリヤが現れたと信じました。

 

他の人は、昔の預言者たちが世の終わりに現れると信じていました。だから、主イエスを見て、預言者エレミヤが現れた、他の預言者の一人が現れたのだと信じました。

 

要するに世間の人々は、ガリラヤにおいて神の国について教え、癒しの奇跡を行い、救いの御業をされていた主イエスを見て、主なる神が遣わされた預言者と信じても、メシア、生ける神の子とは信じていませんでした。

 

主イエスは、12弟子たちに第2の質問をされました。「ではあなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」

 

その時シモン・ペトロが12弟子たちを代表するように、主イエスの質問に、間を置くことなく答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。

 

ペトロの告白が「あなたはメシアです」という告白であれば、ユダヤ人たちの告白と同じだったでしょう。

 

例えば、マルコによる福音書の627節から30節にペトロのキリスト告白の記事があります。主イエスは、12弟子に同じ質問され、ペトロが12弟子たちを代表して「あなたは、メシアです」と告白しています。

 

マタイによる福音書は、わたしたちにペトロのキリスト告白を通して、二つの真理を伝えたかったのです。そのために「生ける神の子」を付け加えています。それは、第1に主イエスはユダヤ教が待ち望んでいたメシアとは異なるということです。この地上の王ではありません。主なる神です。第2にキリスト教の「メシア」は、主イエスは生ける神の子であるという信仰であることです。

 

そして、このペトロの「主イエスはメシア、生ける神の子です」という信仰告白の上に、主イエスは御自身の教会を建てると宣言されました。

 

だから、続く1719節の御言葉は、マルコとルカによる福音書にはありません。マタイによる福音書だけがどのようにしてキリスト教会が建て上げられたかに関心を持っていたからです。

 

さて、ペトロが「あなたは、メシア、生ける神の子です」と告白したのは、どういう意味でしょうか。「神の子」という呼び名は、旧約聖書の詩編第27節に主なる神がダビデ王にお語りになった御言葉です。「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ」と。主なる神御自身がお立てになる聖なる王こそが、「神の子」であります。

 

大切なことは、ペトロがただ「あなたはメシア、神の子です」と告白していないことです。「神」という名に「生ける」という言葉を、ペトロは付け加えました。ペトロと他の11の弟子たちは、ガリラヤで伝道される主イエスが彼らや民衆たちを山上において教え、大勢の病人たちをいやされ、5つと7つのパンで5千人、4千人を養われ、湖の嵐を静め、湖の上を歩く奇跡をなさるのを見て、主イエスにおいて現に力強く働かれている主なる神を見たのです。主イエスの中に主なる神御自身の力が働いていることを、ペトロと11弟子たちは告白したのです。

 

マタイによる福音書がわたしたちにペトロの告白を通して伝えたいことは、こうです。キリストは生きておられます。主イエスは、父なる神と聖霊の御力によって死に打ち勝ち、今もわたしたちと共に居てくださっているのです。

 

この事実を踏まえないと、マタイによる福音書が次の主イエスのお言葉を記していることは、意味がなくなります(1719)

 

ペトロのキリスト告白から学ぶことは、第1にキリスト教会はキリスト告白の土台の上に建てられるということです。

 

2に主イエスは、キリスト告白したペトロを祝福されています。彼の告白は父なる神の選びの内になされたからです。教会は、父なる神が選ばれた神の民を主イエス・キリストが聖霊を通して集められます。主イエスの父である神に永遠の命に選ばれた者は、主イエスがいますところ、教会に聖霊を通して導かれ、教会の礼拝説教を通して主イエスの教えと救いの御業を聞き、聖霊に導かれて「イエスはわたしの救い主です」と信仰告白し、洗礼を受け、キリスト者となり、教会に現在される主イエスの聖餐にあずかります。

 

主イエスがペトロに「あなたは幸いだ」と宣言されました。ペトロは、父なる神に選ばれ、主イエスが「メシア、生ける神の子」であることを、彼の目で見て、彼の耳で聞いて、彼の心で信じ、告白することができました(マタイ131617)

 

主イエスはペトロに「ケファ」(「岩」)という名をお付けになりました(ヨハネ142)。主イエスは、ペトロたち12弟子のキリスト告白を堅い岩として、その上に御自身の教会を建てると宣言されました。

 

そして、その教会の頭は、復活の主イエス・キリストです。だから、キリストの体なる教会に属する者たちは、死に打ち勝つことを、復活の主イエスに保証されています。主イエスは、言われました。「陰府の力もこれに対抗できない」と。

 

さらに主イエスは、12弟子たちに全権を委ねられます。天国の鍵を授けられました。「つなぎ」「解く」という言い方は、主イエスの時代のユダヤ教のラビたちに言い方でした。ラビたは、主なる神への献げ物に汚れた物が混じると、「つなぐ」、汚れた物と判断を下しました。そして、他のラビはこれを「解く」と宣言しました。献げ物として許すと宣言しました。

 

このように主イエスの時代、ファリサイ派の人々が天の国に至る鍵を独占していました。ところが主イエスは、ファリサイ派の人々を、マタイによる福音書2314節で批判されて、こう言われています。「あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」と。

 

だから、主イエスは12弟子たちの信仰の土台の上に御自身の教会を建てられ、彼らに代わって教会に、追放処分にする、あるいは追放処分を解くという天国の鍵を与えられました。

 

主イエスは生きておられます。今朝もわたしたちと共にこの教会にいてくださいます。礼拝説教を通してわたしたちに罪を悔いて、主イエスを生ける神の子と信じるように招き、聖餐の恵みへと招き、わたしたちを含めた世界中の死に打ち勝った教会を造られ、世界中に配置されています。

 

これが、マタイ福音書がわたしたちに伝えたいキリストの教会であります。お祈りします。

 

 

 

 主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは、主イエスが12弟子のキリスト告白の上に御自身の教会を建て、今も主イエスがわたしたちの教会に臨在し、ご自身の教会建設を継続されていることを学びました。心より感謝します。どうかこの教会の中に臨在される復活のキリストに、礼拝を通して出合わせてください。語られる御言葉と招かれる聖餐の恵みを通して、わたしたちが天の御国に招かれ、死に打ち勝つ永遠の命の喜びに与っていることを確信させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教066            主の2012513

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。主イエスを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。(主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせてください。)主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

                   マタイによる福音書第162128

 

 

 

 説教題:「主イエス、死と復活を予告する」

 

 先週は、マタイによる福音書の一番の見せ場でした、主イエスがペトロのキリスト告白の上に御自身の教会を建てると宣言されたことを学びました。

 

主イエスが12弟子たちに「では、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と質問されたとき、ペトロが「あなたは生ける神の子メシアです」と告白しました。主イエスは彼の告白を大変誉められて、「あなたは幸いだ。天の父がこれをあなたに示された」と言われました。そして、主イエスは、弟子たちのキリスト告白の上に御自身の教会を建てると宣言されました。

 

 マタイによる福音書は、1721節より「このときから」と記しています。ペトロがキリスト告白した時から、主イエスは12弟子たちにいよいよ御自身について最も重要なことを教え始められました。12弟子たちに御自身の受難と復活をお告げに時が来たと、主イエスは判断されました。主イエス・キリストの受難の道が始まったことを、マタイ福音書はわたしたちに「このときから」と告げ知らせているのです。

 

 そこで主イエスは、第1に12弟子たちだけに御自身の御受難と復活についてお告げになりました。「自分は、エルサレムへと行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目に甦ることになっている」と示し始められました。「示し始められた」とは、主イエスが12弟子たちにだけ、メシアの御受難と復活という秘密を教え始められたという意味です。

 

主イエスは、12弟子たちにマタイによる福音書の1620節で御自分がメシアであることを人々に話さないようにお命じになりました。だから、主イエスは、父なる神がこれから主イエスを通してなさろうとしておられることを、12弟子たちだけに「打ち明け始められた」のです。

 

21節の御言葉を読みますと、「必ず・・・ことになっている」という文章を見つけることができます。これは、神の必然を表わす「デイ」という言葉を日本語にしているのです。

 

父なる神がお定めになったことは、二つでした。主イエスは、メシアとして父なる神のお定めになった御意志を成し遂げるために、エルサレムに行こうとされていました。

 

父なる神がお定めになったことは、第1に、「ユダヤの指導者たちに捕らえられて、多くの苦しみを受け、十字架刑に処せられて殺される」ことになっていることでした。

 

2に父なる神が主イエスを三日目に死人の中から甦らせてくださることになっていることでした。

 

主イエスが、メシアとして、これからエルサレムに行き、ユダヤの指導者たちの反対を受けて、多くの苦しみを受けられ、十字架に死に、そして、三日目に復活することは、父なる神の御意志によって定められていることである、これが主イエスが12弟子にお告げになった神の秘密です。

 

さらに主イエスは、12弟子たちに御自分の受難と復活を教えて、これから父なる神の御意志に徹底的に服従し、十字架の道を歩もうと決意されました。

 

ところが、主イエスの十字架の道を、サタンが妨げようとしたと、マタイによる福音書はわたしたちに証言しています。

 

本当に驚くべき証言です。キリスト告白をしたペトロが、サタンに利用されたのです。サタンは、ペトロを利用して主イエスをつまずかせようとしました。

 

ペトロには、主イエスが12弟子たちにお告げになった受難と復活の予告は、決して受け入れられませんでした。メシアが死ねば、自分たちは何のために主イエスを「生ける神の子メシア」と信じて、従って来たのか。これまで主イエスに弟子として従ったすべての労苦は無駄になります。

 

そこでペトロは、主イエスを、12弟子たちの中から外に連れ出して、いさめ始めました。ペトロは、主イエスにこう言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

 

ペトロが語った言葉通りに言いますと、「主よ、あなたに恵みがありますように。決してあなたにこの事があってはならない」。

 

ペトロは、主イエスに「まさかそんなことがありませんように」と祈るような思いで忠告したのです。

 

生ける神の子、メシアである主イエスが、ユダヤの指導者たち全員の反対を受けて、人々に辱められ、殺されて、死ぬなどということを、ペトロはまさか主イエスの口から聞こうなどと思いもしませんでした。

 

ペトロら12弟子たちには、死ぬメシアなど想像できなかったでしょう。弟子たちが恐れたのは、民の指導者たちに辱かしめられ、十字架刑に処せられて死ぬメシアに、希望を抱いてついて行くユダヤ群衆はいないということです。だれが殺されるメシアに、希望を抱いて従うだろうか。むしろ、主イエスは生きて、ユダヤの国を王となり、ユダヤのたみたちをローマ帝国から解放してくれるのでなければ、何のためのメシアなのか。十字架に死ぬメシアなどに、われわれは用がないのだ。これが、ペトロの思いでした。そこをサタンが利用したのです。

 

マタイによる福音書は、その時に主イエスが振り向いてペトロに言われたと記しています。主イエスが振り向かれた、そのまなざしは過去に向けられていたのではないでしょうか。主イエスがガリラヤ伝道を始められる前に、荒れ野において40日間断食されたときに、サタンが主イエスのところにやって来て誘惑した時に、です。

 

サタンは、主イエスがメシアとして、父なる神の御意志に従われる道に、なんとかつまずきを置こうとしました。荒れ野の時には空腹な主イエスを誘惑して、サタンは父なる神に信頼しないで、自分の力で生き、この石をパンに変えよと誘惑しました。主イエスは、サタンの3度の誘惑を神の御言葉によって退けられました。

 

しかし、サタンは諦めていませんでした。主イエスが父なる神の御意志に従う道に、つまずく機会を狙っていたのです。今がその時でした。キリスト告白し、主イエスに大変誉められたペトロを利用して、サタンは父なる神がお定めになった主イエスの十字架への道につまずきを置こうとしたのです。

 

確かに主イエスは、ペトロに向かって言われました。「わたしの後ろに引っ込んでいろ、サタンよ。お前は、わたしにとってつまずきとなる。神に関わることを考えず、人に関わることを考えている」。

 

主イエスはペトロがサタンであると思われているのではありません。ペトロを使って、サタンが主イエスの十字架への道につまずきを置こうとしているのを御覧になっているのです。

 

サタンに利用されているペトロには、父なる神が主イエスの十字架を通して人の罪を贖おうとしておられるのを知りませんでした。だが、サタンは知っています。サタンは、主イエスをつまずかせようとしました。「神の小羊になるな。罪の贖いの血を流す必要はない。それよりもこの世の王となり、世界を支配すればよい。それを、このお前の愛する弟子とユダヤの群衆たちは望んでいるのだから」

 

しかし、主イエスは、再びサタンの誘惑を退けられました。徹底して父なる神が定められた十字架の道を選ばれました。

 

そして、主イエスは、12弟子たちを呼び集めて、主イエスに従うように命じ、従う者に祝福を約束されました。

 

主イエスは、12弟子たちに命じられたことは、24節の御言葉です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 

受難と復活を予告された主イエスについて来たい者とは、キリスト告白した者です。12弟子たちです。主イエスは、エルサレムに殺されに行くメシアについて来たいと思う者は、次のように覚悟を決めよと命じておられます。

 

1に主イエスは、命じられます。「自分を捨てよ」と。「神のことを思わないで、人のことばかりを思っている自分を捨てなさい」と。とても厳しい主イエスのお声です。「自分を否定せよ、拒否せよ」と命じられています。

 

罪ある人の本性は、自分中心です。自分が世界の中心です。我思うゆえに、世界はあるのです。わたしのために神もこの世界のあるのです。わたしが誰よりも尊ばれ、価値がなければ、この世に生きている意味はありません。

 

主イエスは、御自分に従おうとする者は、自己中心の自分に対して「ノー」を突き付けよとお命じになりました。

 

2に主イエスは、12弟子たちに「自分の十字架を背負う」ようにお命じになりました。それは、「自分の死を覚悟して、わたしについてきなさい」という御命令です。主イエスを信じるという理由で、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、処刑されようとも、主イエスについて行くことに価値があると思う者だけが、わたしについて来なさいと、主イエスは12弟子たちにお命じになりました。

 

主イエスが御自身について行く者たちに次のように祝福を約束されました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

 

「自分の命を、救いたい者」とは、生まれながらの罪ある自分を、そのままに保ちたい者のことです。つまり自分中心に生きたい者のことです。この世において神から離れて、自分の思いのまま生きて行きたい者です。しかし、いつかは、人は死ぬのです。彼は、神から離れて生きて来たので、死と共に永遠の命を失うのです。永遠の命とは、神と共に生きる命だからです。

 

主イエスを「神の子、キリスト」と信じる者は、主イエスを通して神と共にこの世を生きる者です。彼もまた、人として、いつかは、この世を去り、死にます。しかし、三日目に死人の中から主イエスを復活させられた神は、彼を死人の中から主イエスのように引き上げて、復活させ、永遠の命を与えてくださいます。

 

この永遠の命は、わたしたちが失えば、2度と手に入れることはできません。サタンは、いつでもわたしたちに神もキリストも関係ない、お金があれば、健康があれば、この世において楽しく、面白く過ごせると誘惑します。自分の持てる才能を生かして、人生を思いのまま生きることができると、誘惑します。

 

しかし、どんな人も必ず死にます。火葬に付されて、骨となり、埋骨されます。どんなにお金を出しても、誰も失った命を買い戻すことのできる者はいません。まして永遠の命を金や健康で、自分の才覚で手に入れた者はおりません。

 

主イエスがおっしゃる通りです。主イエスを、死人の中から復活させられた神のみが、わたしたちに永遠の命を約束し、実際に与えてくださるのです。

 

それが主イエス・キリストと父なる神です。主イエスは、12弟子たちに御自身の再臨を約束されています。キリストは、再びこの世に来られます。すべての人を裁くために来られます。すべての人は、再臨のキリストにこの世の行いを裁かれます。

 

主イエスは、28節に「その国と共に来る」と言われていますね。神の国の王として、すべての人を裁く支配権を持って来られるのです。

 

12弟子たちの中に、キリストの再臨まで死を見ない者たちがいると、主イエスは約束されていますね。

 

命とは、神と共にあります。キリスト告白した弟子たちは、信仰においてキリストに結び付けられています。彼らは死にました。肉体は墓に休み、彼らの魂はキリストと結び付き、キリストの再臨の時を待っています。キリストと共に、神の永遠の命につながれて、キリストが再び来られる日を待ち望んでいるのです。その意味でキリスト者は、決して死を見ない者たちであります。お祈りします。

 

 

 

 主イエス・キリストの父なる神よ、復活のキリストは、今私たちと共にいて、この礼拝を通して、マタイによる福音書から、主イエスに従う教会に、わたしたちキリスト者に永遠の命の祝福があることを確信させてくださり、感謝します。サタンの誘惑からわたしたちを守り、主イエスを信じる信仰によって永遠の命の喜びに与っていることを確信させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。