マタイによる福音書説教111 2013年9月29日
夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司たちや民の長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
マタイによる福音書第27章1-10節
説教題「呪われた者の死」
今朝よりマタイによる福音書第27章に入ります。27章1節の冒頭に「夜が明けると」と記され、27章57節に「夕方になると」と記されています。マタイによる福音書の27章は、主イエスの最後の一日を物語っているのです。主イエスが、ユダヤの最高法院の裁判において死刑の手続きがなされ、ローマ総督ピラトに引き渡されました。主イエスは、ピラトの尋問を受けられて、死刑の宣告を受けられます。そしてゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられ、墓に葬られることを物語るのです。
さて、今朝のマタイによる福音書27章1-10節は、主イエスを裏切りましたユダが自殺した出来事を物語ります。この出来事を通して二つのことを、マタイによる福音書は、わたしたちに伝えています。それは、無実の神の子主イエスを殺した責任が誰にあるかということと主イエスの十字架の死が神の御計画であるということです。
主イエスの最後の金曜日の夜明けに、ユダヤの最高法院が再び招集されます。目的は、27章1節に次のように記されています。「祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。」これは、主イエスをローマ総督ピラトの裁判に引き渡して、ピラトが主イエスに有罪判決を下し、十字架刑にするための起訴状を作成するために協議したのです。
祭司長たちと民の長老たちは、起訴状を作成すると、主イエスを縛り、ローマ総督ピラトのところまで連れて行き、ピラトに主イエスを引き渡しました。
マタイによる福音書は、わたしたち読者に無実の神の子主イエスを殺した責任は、ユダヤの最高法院の祭司長たちや民の長老たちにあることを指摘しています。
そして、祭司長たちや民の長老たちも、その責任を自覚していたことを、次のユダの自殺の出来事の成り行きを通して物語るのです。
そこでマタイによる福音書は、ピラトが主イエスを尋問することを一時中断する形でユダが自殺した経緯(いきさつ)を物語ります。27章3-7節です。
「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司たちや民の長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、『これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない』と言い、相談のうえ、その金で『陶器職人の畑』を買い、外国人の墓地にすることにした。」
ユダは、最高法院の祭司長や民の長老たちが、無実のイエスを死刑にするために起訴状を作り、そしてイエスの死刑をローマ総督ピラトに要請するために引き渡したことを知りました。
その時にユダは、はじめて自分の裏切りの行為の恐ろしさを知りました。4節にユダ自身が己の罪の恐ろしさを次のように告白しています。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。」
ユダは、祭司長たちや民の長老たちから銀貨30枚で、イエスを裏切り、引き渡しました。そして、彼は、自らの貪欲によって無実のイエスを死刑にしてしまったことを深く後悔したのです。
そこで彼は、エルサレム神殿に行きました。そして、異邦人の庭を通り抜け、婦人の庭、そして、イスラエルの庭に進み行きました。その先は、祭司しか入れないように柵がしてありました。ユダは、その柵の前で柵の内にいる祭司長たちや民の長老たちに銀貨30枚を返そうとしました。
そこでユダは、自分の罪を告白して、銀貨30枚を受け取ってほしいと言いました。ところが、祭司長たちと民の長老たちは、4節でユダに次のように言い返しました。「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と。もう少し丁寧に言いなおしますと、祭司長たちと民の長老たちは、こう言いました。「それが我々と何の関係があるのか。お前が後始末しろ。」
そこでユダは、柵の手前から柵の内に祭司長たちや民の長老たちに向けて銀貨30枚を投げ込み、神殿から逃げ去るように出て行って、首をつって死にました。
祭司長たちと民の長老たちは、ユダが神殿に投げ込んだ銀貨30枚を拾い上げて、言いました。「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と。
この銀貨30枚は、ユダが告白したように「罪のない人の血を売り渡した代金」でした。不正不義なお金でした。聖なる神への献金にふさわしくありません。彼らにとって、それは不浄な金でありました。彼らは、そのお金で「陶器職人の畑」を買い、宗教的に汚れた異邦人たち、外国人たちを葬る墓を建てました。こうして異邦人たちの墓場は「血の畑」と呼ばれました。
祭司の務めは、民の罪を主なる神にとりなすことです。ところが祭司長たちは、罪を告白したユダを嘲笑いました。そして、彼らはユダに「自分たちには関係がない。自分で始末しろ」と言いました。そして、ユダがイエスを裏切って手に入れた銀貨30枚が汚れたものであることを知っていました。無実の人の血の代金であることを知っていました。彼らこそ無実の主イエスを殺した責任者たちでした。
マタイによる福音書は、わたしたち読者に無実の主イエスを殺した責任が誰にあるかを、ユダの自殺の出来事とピラトの裁判を通して知らしめています。
さらにマタイによる福音書は、わたしたちに血の畑の由来を語ると共に、祭司長たちや民の長老たちが銀貨30枚で陶器職人の畑を買った出来事を通して、主イエスの十字架の死が旧約聖書の預言の実現であり、神の御計画であることを伝えています。
8-10節です。「このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
マタイによる福音書は、わたしたちに「血の畑」の由来を語り、預言者エレミヤとゼカリヤの御言葉が主イエスの十字架の死において実現したのだと伝えてくれています。旧約聖書のエレミヤ書32章6-15節に預言者エレミヤがアナトトの畑を買い取ったことが記されています。同じく19章1節に主なる神はエレミヤに陶器師の壺を買うことを命じられています。そして、ゼカリヤ書11章に預言者ゼカリヤが悪い羊飼いについて預言しています。その中で預言者ゼカリヤは羊飼いとして働いて得た賃金の銀30シェケルを、その職を去るにあたって神殿に投げ入れました。その時に主なる神は、ゼカリヤに「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」と言われました。ゼカリヤは、銀30シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えました(ゼカリヤ書11:12-13)。
マタイによる福音書は、わたしたちにこれらの御言葉を組み合わせて、預言者エレミヤが預言した御言葉が主イエスの十字架の受難において実現したことを伝えて、無実の主イエスが十字架の死を遂げられることは、神の御計画であることを伝えているのです。十字架の主イエスがわたしたちのメシアであり、教会のメシアであることを、わたしたちに信じさせるために、です。
最後にマタイによる福音書は、わたしたちに26章75節にペトロの悔い改めを伝えてくれました。そして今朝の御言葉でユダの後悔を伝えてくれました。ペトロの罪の悔い改めとユダの後悔は、実は似て非なるものであると、マタイによる福音書は、わたしたちに伝えています。
ペトロは、主イエスを裏切りました罪を悔いました時に、主イエスのお言葉を思い起こして、激しく泣きました。しかし、何もできませんでした。だから、彼は、主イエスに彼自身をお委ねしたのです。ところが、ユダは、後悔しました。しかし、彼は最後まで主イエスを拒みました。主イエスの御言葉を思い起こすことはありませんでした。自分の力で自分の罪を償おうと、祭司長たちと民の長老たちに銀貨30枚を返そうとしました。そして、彼らに罪を告白したとき、彼らはユダに「自分たちは関係ない。自分で始末しろ」と言いましたので、ユダは自分を自分で始末し、自殺しました。
マタイによる福音書がペトロとユダの二人の姿を通して次のことを教えているのです。わたしたちは、自分の罪をどんなに後悔しても、埋め合わすことはできません。ペトロは、主イエスを裏切りました罪を、自分で埋め合わせようとしませんでした。ただ主イエスのお言葉を思い起こして、すべてを主イエスに委ねました。
反対にユダは、無実のイエスを殺すことに手を貸した自分の罪を深く後悔しました。そして、彼は、祭司たちや民の長老たちに言われた通り、自分で潔く始末をつけました。そして、彼は最後まで主イエスの愛と憐れみに、「友よ」と呼びかけられた主イエスのお言葉を思い起こしませんでした。
ある牧師が次のように言いました。「ユダがやったことは、一言で言うなら、『わたしは自分で潔く始末をつける。イエスよ、お前などに救ってもらうものか』という拒否の宣言です。」
初代教会の時代、マタイによる福音書の時代、教会は迫害の中にありました。多くのキリスト者たちが迫害の苦難を受けておりました。強いキリスト者もおれば、弱いキリスト者もいます。
わたしも洗礼を決意したときに、一つの心配は迫害の時に信仰を続けることができるだろうかということでした。大学を卒業し、田舎で学校の教師をすることが夢でした。もし家に帰ると、学生のように自由に教会に行くことができるだろうか。家の宗教を、先祖を守ることを迫られて、拒む勇気があるだろうか。悩みました。
こうした悩みを持つ者に、実際に主イエスを知らないと拒み裏切った者に、マタイによる福音書は牧会しているのです。もし信仰を捨て、主イエスを裏切ったという罪を告白する兄弟があれば、ペトロとユダを見よと。そして、ペトロのように自分の罪を悔い、主イエスのお言葉を思い起こしなさい。それは、聖霊に身を委ねることです。そして、教会に戻ることです。ユダは離れ、ペトロは主の群れの中に留まりました。そこで主イエスは、福音を語られ、彼の罪の赦しを宣言されました。
ユダは、自分で自分の罪を始末しようとし、首をくくって自殺しました。彼に福音の光は届かず、永遠の暗闇が彼をおおいました。
こうしてマタイによる福音書は、一人の呪われた者の死を通して、わたしたちに呼びかけるのです。「主イエスの十字架の血は、あなたのために流されたのです。ペトロのように自分の罪を悔い改めて、毎週の日曜日の礼拝でお語りくださる主イエスのお言葉を思い起こして、あなたは、主の愛と憐れみに頼ることができるように。」お祈りします。
御在天の父なる神よ、今朝はユダの自殺の出来事を通して、祭司長たちと民の長老たちが無実の主イエスの死に責任があることを、また、旧約聖書の御言葉を通して、キリストの十字架が神の御計画であり、主イエスがわたしたちの救い主であることを学びました。感謝します。そしてペトロとユダの裏切りを通してペトロの罪の悔い改めとユダの後悔の違いを学びました。わたしたちも信仰の弱い者です。自分の罪を知っています。どうかユダのように自分で始末しないで、毎週の礼拝を通して語られる主イエスのお言葉を思い起こして、聖霊と御言葉に導かれて主イエスをつねに信頼して歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教112 2013年10月6日
さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それはあなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
ところで、祭の度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか。」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアと言われているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と我々の子孫とにある。」そこでピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの来ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせ、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
マタイによる福音書第27章11-31節
説教題「主イエスか、この世の力か」
今朝は、マタイによる福音書第27章11-31節の御言葉を学びましょう。主イエスがローマ総督ピラトの裁判に立たれて、尋問されたこと、有罪判決を受けられたこと、そして、ローマの兵士たちに嘲られたことを、マタイによる福音書はわたしたちに物語っています。
先週、主イエスを裏切りましたユダの自殺について学びました。マタイによる福音書は、27章に入り、主イエスがローマ総督ポンティオ・ピラトの裁判を受けられたことを語り始めました。そして、ユダが自殺したことを挿入しました。
ですから、今朝の27章11節に「さて、イエスは総督の前に立たれた」と物語り始めています。話の主人公がユダから主イエスに戻ったことを、マタイによる福音書はわたしたち読者に伝えているのです。ユダの方はそういうことになったが、主イエスの方は、ローマ総督ピラトの裁判の前に立たれたと。
場面がピラトの官邸に移りました。そして、ピラトは、主イエスを尋問しました。11節の後半から13節です。
ピラトは、主イエスに二つのことを尋問しています。第一の尋問が11節です。ピラトは、主イエスに「お前がユダヤ人らの王なのか」と尋問しました。主イエスは、ピラトに「あなたが言っている」とお答になりました。
ユダヤの最高法院の議員たちは、すなわち、祭司長たちや民の長老たちは、ピラトに主イエスを訴える訴状を提出していました。彼らは、おそらく次の3つのことで主イエスをピラトに訴えたでしょう。第1は、主イエスは、反乱の扇動者である。第2はローマへの納税を拒否している。第3は、主イエスは、自分がユダヤの王であると自称している。
ピラトは、主イエスが「自分はユダヤ人らの王である」と証言するだけで、主イエスに有罪判決を下し、十字架刑に処することができました。
ところが、主イエスは、「あなたが言っている」と答えられました。聖書は、「それはあなたが言っている」とありますが、「それは」という言葉は、翻訳者の付け加えです。
主イエスは、ピラトに曖昧に答えられました。主イエスは、尋問しているピラトに「わたしではなく、あなたが言っている」と答えられました。
主イエスは、ピラトが尋問しました「あなたはユダヤ人らの王であるのか」という問いは、ユダヤの祭司長たちや長老たち、そして、ピラトが言っていることだと言われました。そして、主イエスは、ピラトの理解とは異なる意味で、「自分はユダヤ人の王である」と証言されているのです。
マタイによる福音書の2章に占星術の学者たちがユダヤに新しい王が生まれられたという啓示を受けて、ユダヤの国を訪れます。彼らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになられた方は、どこにおられますか。」と尋ねました。そこで旧約聖書の専門家である祭司長たちや律法学者たちが預言者ミカの預言からメシアがベツレヘムに生まれると証言しました。主イエスは、回りくどいですが、自分はこの世の王ではなく、王の王、メシア、神であると言われたのです。
主イエスを訴えた祭司長たちや長老たちは、他に主イエスがローマ帝国に納税を納めなくてもよいと言っていると訴え、ローマ帝国への反乱を扇動していると訴えたでしょう。主イエスは沈黙されていました。
そこでピラトは、主イエスに第2の尋問をしました。13節です。「お前は聞こえているのか。どんなにお前に対して、彼らが不利な証言をしているか」。しかし、主イエスは、御自分を訴えていることに、何も答えられませんでした。
それを、ピラトはじーっと見て、「非常に不思議に思った」と、マタイによる福音書はわたしたちに証言しています。
マタイによる福音書は、わたしたちにピラトの裁判の前に立ち、沈黙される主イエスの姿を通して、次のことを教えています。受難の主イエスは、「苦難を受ける義人である」と。詩編38篇14-15節に「わたしの耳は聞こえないかのように 口は話せないかのように、開こうとしません。わたしは聞くことのできない者 口に抗議する力もない者となりました」とあります。同じく詩編39篇10節に「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」とあります。主イエスは、この御言葉の通りになさっています。
マタイによる福音書がわたしたちに伝える沈黙の主イエスの真の意味は、こうであります。主イエスは、父なる神の御意志に従って十字架の道を歩まれているですから、自分自身の弁護をなさることはふさわしくないのだということです。
マタイによる福音書は、15節から26節にピラトが主イエスに有罪判決を下すことを物語ります。ところが、実際のところは、ピラトは、主イエスに有罪判決を下すことを何とか避けようと努力しています。
ピラトは、過越の祭のときに、ユダヤの民衆たちが希望する囚人を一人釈放するという習慣を用いて、主イエスを解放しようとします。
ピラトは、総督官邸に集まりましたユダヤの民衆たちの前に囚人である主イエスとバラバ・イエスのどちらを釈放すべきかを問います。バラバ・イエスは、暴動を起こし、人殺しをした悪人です。主イエスはメシアです。
ピラトは、二人のイエスを、ユダヤの民衆に選ばせています。バラバ・イエスは、この世の力を代表する人物です。暴力でもって、人の血を流すことによってユダヤの国を救おうとする者です。他方主イエスは、自分の民を罪から救い出すために、御自身の血を流すお方です。
マタイによる福音書は、わたしたちにも二人のイエスのどちらを選ぶのかと選択を迫っているのです。
ピラトは、祭司長たちや長老たちがピラトのところに主イエスを訴えたのは、ねたみのためだと知っています。主イエスがユダヤの民衆たちに人気があったからだということを知っているのです。
また、マタイによる福音書だけにピラトの妻が、夫のピラトに義人の主イエスに関係しないように忠告したことを記しています。19節です。ピラトの妻は、使いを総督官邸に遣わし、ピラトに忠告しました。彼女は、告げました。「あなたと正しい人との間に何の関係もないように。わたしは今日、夢で彼のために多く苦しんだから。」
ピラトの妻はキリスト者ではありません。しかし、ピラトが主イエスを裁判した日に夢を見ました。正しい人に夫を関わらせてはならないというお告げを受け、苦しみました。
ピラトは、妻の忠告で、主イエスの死の責任を引き受けることを拒むことにしたのです。ピラトがユダヤの民衆に二人のイエスのどちらを釈放してほしいのかと問いました。民衆たちは祭司長たちや長老たちに説得されて、「バラバを」と叫びました。
ピラトは、民衆たちに「おまえたちが『メシア』と呼んでいるイエスは、どうするのだ」と問いかけますと、民衆たちは「彼は十字架につけられろ」と叫びました。ピラトは民衆に正しい判断をするように「なぜだ、彼はどんな悪をしたというのか」と問いかけました。しかし、民衆たちに正しい判断はできませんでした。彼らは、ヒステリックになり、今にも暴動を起こすような勢いで、「彼は十字架につけられよ」と叫び続けました。
そこでピラトはユダヤ人たちのしきたりに従って、水を持ってこさせ、民衆たちの目の前で手を洗いました。旧約聖書の申命記の21章6-7節に死体が放置されているのを見つけた町のすべての長老たちは、首を折られた雌牛の前で手を洗い、「われわれの手はこの流血事件とかかわりがなく、目は何も見ていません」と証言したことを記しています。
ピラトは、それに倣いました。ユダヤの民衆たちの目の前で彼は手を洗い、「わたしはこの血については無罪である。あなたがた自分で始末せよ」と言いました。
ユダヤの民衆は、ピラトに答えて言いました。「彼の血はわたしたちの上に、わたしたちの子たちの上に」と。ユダヤの民衆全体が、主イエスの十字架の血の責任を、われわれとわれわれの子孫にあると引き受けたのです。
マタイによる福音書がわたしたちに伝えようとしているのは、十字架の主イエスの血の責任がピラトになく、ユダヤ民衆の全体にあるということだけではありません。ユダヤの民衆全体が、主イエスを十字架につけることで、主イエスに対して最終的決断を下したのです。自分の民を罪から救い出してくださるメシア、主イエスを拒絶したのです。その結果、ユダヤ人たちは、神に選ばれた民としての特別な地位から落ちてしまいました。そして、彼らに代わって異邦人たちを中心にしたキリスト教会が新しいイスラエル、神の民として、神に選ばれた民としての特別な地位を得たのです。
27節から31節は、主イエスが異邦人であるローマの兵士たちに侮辱された物語です。主イエスは、第3度目の受難予告において次のように予告されていました。マタイによる福音書20章19節です。「異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである」と。マタイによる福音書は、主イエスの受難予告の実現を証言しています。ローマの兵士たちは、主イエスに赤いマントを着せ、茨の冠を頭にかぶらせ、葦の棒を王の笏に見立て、主イエスの前にひざまずいて、「王様万歳」と叫びました。
マタイによる福音書は、わたしたちに何も知らない兵士たちが嘲る主イエスこそメシアであり、王の王であり、真実に彼の名に対してあらゆる者がひざまずくお方であることを伝えようとしています。
わたしたちは、自分たちがローマの兵士であったことを思い起こすべきです。ローマの兵士たちのようにまことの主イエスを知らないで、主イエスを侮辱していたのです。主イエスは、ローマの兵士たちの嘲りを進んで受け入れ、彼らのためにも十字架の道を歩まれました。主イエスは、イエスの御名の通りに神の民であるわたしたちを、罪から救い出すお方として、わたしたちに代わり罪の裁きを受け、罪の辱めを進んで受け入れられました。正しお方が、まことの義人がわたしたちの罪を負い、十字架に死んでくださったので、わたしたちの罪は赦され、わたしたちは永遠の命を得ました。この喜びを心に留めつつ、聖餐式の恵みに与りたく思います。お祈りします。
御在天の父なる神よ、今朝はわたしたちが使徒信条において「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白しました主イエス・キリストの御受難を学びました。ピラト裁判を受け、ローマの兵士たちに侮辱され、十字架に歩まれる主イエスが、わたしたちの救いのためになされたことを学びました。主イエスの十字架を常に思い起こして、これからも聖霊と御言葉に導かれて主イエスをわたしたちの救い主と信頼して歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教113 2013年10月13日
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルコタという所、すなわち、「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとはされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。いますぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
マタイによる福音書第27章32-44節
説教題「十字架につけられる」
今朝は、マタイによる福音書第27章32-44節の御言葉を学びましょう。主イエスが十字架につけられ、それに続いて主イエスが十字架の上で死なれることは、マタイによる福音書が21章より物語ります主イエス・キリストの御受難のクライマックスであります。
そのクライマックスを、マタイによる福音書は、第1に詩編のダビデの御言葉を引用して「苦難を受ける義人」として描いています。第2に神の子主イエスが神の御心に従って正しいことをすべて行うために十字架につけられ、死なれたことを物語ります。十字架の主イエスの死は、義人である神の子主イエスの死なのです。
マタイによる福音書は、32節に「兵士たちは出て行くと」と、記していますね。ローマの兵士たちは、主イエスの死刑を執り行うためにエルサレムの都の外に出て、33節にしるされています「ゴルゴタ」に向かいました。ゴルゴタとは、「されこうべの場所」と呼ばれていました。エルサレムの城壁の外にあり、近くに人通りの道があり、よく人目につく小高い丘でした。
ローマの兵士たちは、シモンという名前のキレネ人を見つけました。「キレネ」は、北アフリカのクレナイカ地方の首都として栄えた町であり、シモンはそこの出身でした。シモンは、たまたま過越の祭を祝うためにエルサレムの都に来ていたのでしょう。
ローマの兵士たちは、シモンに「イエスの十字架を無理に担がせ」ました。主イエスは十字架刑で処刑にされました。ゴルゴタの丘に3本の木が立てられていました。処刑にされる主イエスと、マタイによる福音書は38節に主イエスと共に二人の強盗が十字架につけられると記していますね。主イエスと二人の強盗たちは、十字架の横木を肩に背負って、ローマの兵士たちにゴルゴタに連れて行かれていました。
ところが、主イエスが横木を肩に背負ってゴルコタに行くことが不可能であったのでしょう。ローマの兵士たちは、キレネ人シモンを見つけると、彼に主イエスの十字架の横木を強制的に背負わせました。
後にシモンはユダヤ教からキリスト教に改宗し、キリスト教会の中で「主イエスの十字架を背負ったシモン」と呼ばれたそうです。
マタイによる福音書は、主イエスがゴルゴタの丘の処刑場に連れて来られると、「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった」(34節)と記しています。
苦いものとは、一種の麻酔の働きをするものです。旧約聖書の箴言の31章6節に「強い酒は没落した者に 酒は苦い思いを抱く者に与えよ」とあります。その御言葉に基づいて、主イエスの時代エルサレムの都の女性団体が、十字架刑の囚人にぶどう酒を与えていたそうです。苦痛を和らげるためです。それを、主イエスは拒まれました。主イエスは積極的に十字架刑の苦しみを身に受けようとされたのです。
マタイによる福音書は、わたしたちにダビデが預言していた詩編の69篇の「苦難を受ける義人」こそこの受難の主イエスであると物語っています。
ダビデは次のように預言しています。「わたしが受けている嘲りを 恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず 慰める人も見出せません。人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」(詩編69:20-22)。
さらにマタイによる福音書は、35節に「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い」と記しています。死刑執行人であるローマの兵士たちは、報酬として処刑にされた者の衣服を得ました。ところが、主イエスの服は一枚の布であり、兵士たちはくじ引きにしたのです。
マタイによる福音書は、わたしたちにダビデが預言した詩編22篇の「苦難を神に訴える義人」こそこの受難のイエスであることを物語ります。
ダビデは次のように預言します。「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く」(詩編22:19)。
ダビデは、悪しき者たちが義人を嘲笑し、義人が神の御前に絶望の苦しみを叫ぶ姿を歌っています。マタイによる福音書は、わたしたちに受難の主イエスによって、ダビデの預言が実現したと証言しているのです。
ローマの兵士たちは、座って十字架刑に処せられた主イエスを見張りました。その主イエスの頭の上に「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げてありました。
マタイによる福音書がわたしたちにこの事実を伝えているには意味があります。この十字架の主イエスこそ異邦人のわたしたちが求めたユダヤ人の王であり、メシアなのです。マタイによる福音書の2章のキリストの誕生の物語を振り返ってください。東方の3人の博士、異邦人の占星術の学者たちがユダヤ人の王の誕生を祝って、主イエスのところに来ました。そして彼らは、マリアに抱かれた幼子である主イエスを礼拝しました。
主イエスは、ユダヤ人たちによって今、「ユダヤ人の王イエス」として十字架刑で殺されます。イスラエルの民から主イエスは切り離されるのです。旧約聖書のレビ記24章14節に「冒涜した男を宿営の外に連れ出し、冒涜の言葉を聞いた者全員が手を男の頭においてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す」とあります。
主イエスは、ユダヤ人たちに「わたしは神の子である」と言って、神を冒涜した者とみなされ、エルサレムの都の外に連れ出され、冒涜の言葉を聞いたユダヤ人たちの全員の前で今、十字架刑を受けられているのです。
マタイによる福音書がわたしたちに伝えていることは、十字架の主イエスは、ユダヤ人の王イエスとしてユダヤ人たちからは切り離されたが、わたしたち異邦人の救い主となられたということです。
ダビデが苦難を受ける義人を預言したように、義人であり神の子である主イエスは、今十字架につけられ、そこを通るすべてのユダヤ人たちからののしられました。
マタイによる福音書は、39節と40節で次のように記しています。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』」
頭を振るという行為は、人を侮辱する行為です。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者」とは、ユダヤの最高法院が主イエスを裁判にかけました時に、ある証人が「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と証言しています(マタイ26:61)。ユダヤの民衆は、十字架の主イエスに向かって、「大ぼら吹きのイエスよ、お前が神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」とののしりました。
このユダヤ民衆の声は、まさにサタンの声です。マタイによる福音書は、第4章に主イエスが荒野で悪魔に誘惑されたことを記しています。そこで悪魔は、荒野で空腹になられた主イエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑しました。主イエスは、悪魔に「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えられました。十字架の主イエスをののしるユダヤ民衆の声は、まさに悪魔の誘惑の声でありました。
続いてユダヤの民の指導者たち、大祭司長、律法学者、長老たちが十字架の主イエスをののしりました。
マタイによる福音書は、42節と43節に次のように記しています。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐに十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
ダビデの詩編22篇のように、ユダヤの指導者たちは、義人である神の子主イエスをののしりました。ダビデは、次のように預言しています。「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し、頭を振る。主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」(詩編22:7-9)。
しかし、義人であり、神の子である主イエスは、悪魔の誘惑を退けられたように、ユダヤの指導者たちの誘惑を退けられました。十字架の主イエスは、彼らがののしるように父なる神に信頼し、神の御旨に従っておられるのです。
マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスは、神の子としてこの世に生まれ、神の御旨に従ってすべての正しいことを行うために十字架の道を歩まれていることを証ししています。すなわち、3章15節において主イエスは、洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けられた時に、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われました。洗礼者ヨハネは、神に従い暴君のヘロデ・アンティパスに姦淫の罪を告げて、投獄され、殉教しました。今、主イエスは、父なる神の御心に従い、26章のゲツセマネの園で祈られた苦しみの杯を飲むために十字架につけられています。神が選ばれたすべての者の罪を赦すために、彼らの身代わりとして十字架につけられています。
主イエスと共に右と左に十字架につけられた強盗も、ユダヤ人たちでした。彼らもまた、主イエスをののしりました。
こうして十字架の主イエスは、苦難を受ける義人として、神の御心に従って、神の御前にすべての正しいことを行われるのです。それによってユダヤ人たちがののしるように、神の子であり、義である主イエスは、御自分を救われるのではなく、他人であるわたしたち異邦人を救う救い主になってくださるのです。
主イエスは、言われました。「友のために命を捨てる。これ以上の愛はない」と。マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスは神の子であり、ユダヤ人だけでなく、異邦人であるわたしたちも救ってくださるが、それは主イエスが今十字架につけられている、この十字架を降りてではないのだということです。
ですから、マタイによる福音書がわたしたちに伝えているのは、教会はどんなに迫害され、わたしたちもキリスト者として、世の人々から迫害され、非難されても、十字架のキリストを下してはいけないのです。わたしたちを救いうるのは、この十字架のキリスト以外にないのです。十字架のイエスによる罪の赦しこそ、まことの神の御心なのです。お祈りします。
御在天の父なる神よ、今朝わたしたちは、マタイによる福音書を通して、使徒信条が「十字架につけられ」と告白していますキリストの御受難を学ぶことができて感謝します。
十字架の主イエスは、ダビデが詩編において預言しましたように苦難を受ける義人として十字架につけられ、父なる神の御心を実現し、わたしたちの救いのためにすべての正しいことをしてくださったことを学びました。十字架のキリストだけが、わたしたちの救いであることを、これからもこの教会の礼拝を通して、わたしたちの家庭礼拝と個人の礼拝を通して深く確信させてください。そして、この諏訪の地において神の民として根付かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。