マタイによる福音書説教023 主の2011年1月16日
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それをみいだす者は少ない。」
マタイによる福音書第7章13-14節
説教題:「人生の岐路に立つ教会」
今朝、与えられた御言葉を読み、「人生の岐路に立つ教会」という説教題を与えられました。自分の50数年の人生を振り返りましても、教会がわたしの人生の転換点でした。この世に生きるすべての人に、二つの道があり、永遠の命と滅びです。この二つの道という感覚は、キリスト者だけが持つのではなく、すべての人の心にあるのです。
主イエスは、山上の説教を終えるにあたり、弟子たちに、群衆に、そしてここにいますわたしたちに4つのお勧めをされています。それが、山上の説教のあとがきと呼ばれています7章13-27節の御言葉です。
そのうちの3つのお勧めは、主イエスが主の弟子たることを脅かす危険については話されています。13節から23節の御言葉です。
今朝は、その第一の主イエスの勧めを学びましょう。有名な主イエスの「狭き門より入れ」というお勧めです。ノーベル賞作家、フランスのアンドレ・ジッドの小説『狭き門』をお読みになった方もあるでしょう。ドイツのある大学の神学部にはこの主イエスの御言葉を題材にした絵が掲げてあるそうです。
主イエスは、黄金律、すなわち、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と、山上の説教を語り終えられました。
主イエスは、聞いていた弟子たち、群衆、そしてわたしたちに黄金律の実践をお求めになりました。そこにこそ永遠の命の道があるからです。5章20節に主イエスは弟子たちに、こう言われました。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」
主イエスは、弟子たち、群衆、そしてわたしたちがこの世にあって主の弟子であることを脅かされる危険にあることをよく理解されていました。だからこそ主イエスは、この世の終わりの神の裁きを見据えながら、わたしたちが天の国に入るために、二つの道をお示しになり、警告をなさいました。
そこで主イエスは、わたしたちに永遠の命に至る狭い門と細い道、永遠の滅びに至る広い門と広々とした道をお話になりました。
どちらの道を選ぶかを、主イエスは弟子たち、群衆、そしてわたしたちに委ねておられます。ただし、主イエスがお勧めになる道は、お招きになるのは、「あなたがたは狭い門から入りなさい」です。
主イエスは、次のように教えられていません。弟子たちは永遠の命に至る狭い門、細い道を選び、弟子でない者は滅びに至る広い門、広い道を選ぶと。
主イエスは誰が狭い門から入り、細い道を通り、永遠の命に至るのか、誰が広い門から入り、広い道を通って、滅びに至るのかを、決めつけておられません。主イエスの弟子が狭い門ではなく、広い門から入る危険性を除けてはおられません。
ただ主イエスは、滅びに通じる門は広く、その道は広くて、そこから入り、通る者は多いと言われています。それに対して永遠の命に至る門は狭く、その道も細く、それを「みいだす」者は、驚くほどわずかであると言われています。
主イエスが、弟子たちに、群衆に、そしてわたしたちに「命に至る門はなんと狭く、その道は狭いことか」とおっしゃったのは、具体的に何のことだったのでしょうか。主イエスご自身が、ヨハネによる福音書の10章9節に「わたし門である」と言われ、同じく14章6節に、「わたしは道である」と言われました。
狭い門、細い道は主イエスの御後に従うことです。「狭い門に入り、細い道を通る者」に、すなわち、主イエスの真の弟子となり、主イエスと同じように自分を捨て、十字架の道を歩み、神を愛し、人を愛する者に、主イエスは永遠の命に至る道を備えられているのです。
しかし、今主イエスが御覧になるこの世の人々の多くは、主イエスの御後に従わないのです。主イエスのように自分を捨て、十字架の道に歩むことを選びません。神や隣人よりも己のこの世における栄華を求めて生きているのです。自らの名誉を得ようとしているのです。自分のためにだけ生きているのです。自分がしたいようにしているのです。それは、この世の世界、社会であれば、誰もが通っている広い門、広い道です。しかし、その広い門、広い道に、主イエスはおられません。そして、その道を行く人々の最後に神の裁きがあります。その者たちが滅びに至るのは、その神の審判を通して彼らは永遠に神と主イエスから切り離されてしまうのです。それを、聖書は滅びると言うのです。
主イエスご自身が「なんと」と嘆き、永遠の命をみいだす者たちの少なさに驚かれていますね。教会は、インマヌエル、神共にいますことをみいだした小さな群れです。この世に、この世界に、「狭い門」「細い道」として存在しているのです。
主イエスの時代の人々は、狭い門、細い道が天の都に通じていることを知っていました。その時代の人々は信仰書である旧約外典の一つ、第4エズラ書を読み、その書に「天の都に至る通路」のことが書かれていました。そこには、バビロンでエズラに神がお示しになった7つの啓示が書かれており、その中に「天の都に至る通路」のことが記されています。その道は狭く、断崖沿いにのびており、右側には火があり、左側には深い海があり、一人の人がやっと通れる小径のように細いと(7章7-8節)。
しかし、主イエスのお言葉には、その説明は一切ありません。主イエスは何が永遠の命であり、滅びであるかを、説明すら拒否されています。聞き手の弟子たちと群衆、そしてわたしたちは当然知っているのです。
ここで主イエスがお話になっている力点、ポイントは、狭い門、細い小径をごく少数の人々が「みいだす」というところにあります。
今、わたしたちが主イエスの「狭い門より入れ」という御言葉から、主イエスがわたしたちの意志に呼びかけておられると聞き取るならば、それがこの御言葉の理解の始まりです。
実際は、わたしたちは誰もが通る広い道への安心を求めているのです。自分の安心立命を求めています。家庭の安らぎを求めています。地位や名誉、経済的安定を求めています。だから、主イエスが「あなたがたは狭い門から入れ」とお命じになり、招かれましても、この世の人々と同じ道を選ぼうとします。
なぜなら、主イエスが「狭い門」「細い道」であらわされていますのは、十字架であり、迫害であり、試みであります。主イエスは、十字架の死に至るまで、己を捨て、父なる神に従順に従われました。この狭き門、細き道に、まことの主イエスの弟子の道が要約されています。それは、一言でいえば、自己否定の道であります。
毎週水曜日にカルヴァンのキリスト教綱要Ⅲを学んでいます。今4章を学び終えようとし、5章を学ぼうとしています。まことに忍耐を要する所です。そこを過ぎますと、キリスト教綱要のオアシスにたどり着きます。6章より聖書の教えるキリスト者の生活を学びます。そして、カルヴァンは7章でキリスト者の生活を要約してキリスト者の自己否定を語ります。そして8章で自己否定の一部である十字架を負うことをわたしたちに勧めています。キリスト教綱要のハイライトのひとつですね。
主イエスは、狭い門、細い道で、キリスト者の生活、カルヴァンが要約しました自己否定、主への服従を暗に教えられています。
主イエスは、多くの者たちの命を救うために自分を捨て、父なる神の御意志に服従して、十字架の上に死なれました。狭い門を入り、細い道を歩まれ、人々に永遠の命に至る道をお開きになりました。しかし、主イエスが驚かれるほどその十字架を理解し、主イエスに服従する者はわずかなのです。
人生の岐路に立つ教会。それは、狭い門、細い道であります。今も主イエスはこの教会の交わりを御覧になられています。教会に入り、教会の交わりにあずかることは、わたしにとりまして永遠の命に至る道でありました。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないと、主イエスはおっしゃいました。教会に入り、御言葉を聞き、主イエスを救い主と信じて、洗礼を受け、教会員として自分を捨て、主に従い、教会の交わりに与って来ました。それは、主と共に生きることが喜びであったからです。主の黄金律を完全に守ることは、わたしにはできません。しかし、教会には神を愛し、人を愛する交わりがあり、そこに常にインマヌエル、主イエスがおられ、わたしの罪を赦してくださいます。教会は、たとえ二人、三人であろうと、主の御名によって集まる者のところに主イエスがおられ、そこで主イエスは御言葉を語られ、聖餐式と愛餐、そして主にある交わりがあり、神を愛し、人を愛する交わりがあります。
主イエスがわたしたちに「狭い門から入れ、細い道を通れ」とお命じになることが、たとえ厳しく聞こえる言葉であろうと、教会に常に主イエスがおられ、インマヌエルであり、それがわたしたちの喜びであり、永遠の命に至る道であるとの招きであります。
だから、今朝の主イエスのお勧めは、わたしたちにとりまして喜びであり、福音であることを知らなくてはならないと思います。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、主イエスはわたしたちに「狭き門より入れ、細き道を通り、永遠の命に至れ」とお命じになりました。厳しい要求に聞こえますが、この教会に主は常にわたしたちと共に居てくださるという大きな喜びへの招きをいただきました。この世に試練、悲しみがありますが、どうかこの教会の交わりを通して耐えさせ、永遠の命へとお導きください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教024 主の2011年1月23日
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊に皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
マタイによる福音書第7章15-23節
説教題:「偽預言者に警戒せよ」
主イエスは、山上の説教を終えるにあたり、弟子たちに、群衆に、そしてここにいますわたしたちに4つのお勧めをされています。
今朝は主イエスの第2と第3の、二つのお勧めについて学びます。主イエスは、弟子たちに、群衆に、そしてわたしたちに「偽預言者たちに警戒しなさい」と戒められています。そして、「良い木と悪い木、良い実と悪い実」のお話をされ、悪い木は火に投げ入れられると警告し、次に真の神の子は見かけではなく、天の父の御心を行う者であり、たとえ主よと告白し、様々な奇跡を行おうと天の父なる神の御心を行わない者は主イエスと何の関係もなく交わりを断たれるとお話しになりました。
その二つの戒めのお話を通して、主イエスは弟子たちに、群衆に、そしてわたしたちに次のように22節の「かの日に」「生ける者と死ねる者を裁く」主として来ることを預言されました。
「あなたがたは偽預言者たちに用心しなさい。彼らは、見かけはわれわれと何ら変わらない。しかし、彼らの心は貪欲な狼であり、天の父なる神の御心を行わず、異端を語り、わたしの教えを曲げ、不法を働く者である。だから、彼らの信仰生活を見れば、見分けられるだろう。神に選ばれた良い木が悪い実を結ぶことはないから。偽預言者たちが口で「主よ」と告白し、人々の驚く奇跡を行おうと、父なる神の御心を行わない偽預言者たちとわたしは何の関係もない。終わりの日は来る。かの日、わたしは彼らを、不法を働く者として裁くだろう。そして、わたしの支配する神の国から追い出すだろう。」
主イエスは、弟子たちに、群衆に、そして、わたしたちに具体的に偽預言者たちとはだれであるのかを、はっきりとおしゃっていません。教会の中で偽預言者たちに、用心しなさいと、主イエスはお命じになっています。
もちろん、主イエスは、弟子たちに、群衆に、そしてわたしたちに教会の中で誰が偽預言者たちなのかと、犯人捜しをすることを望まれてはいません。偽預言者に用心しても、彼らを裁くのは、弟子でも、群衆でも、そしてわたしたちでもありません。「かの日」に、この世の終わりに審判者として来られる主イエスが偽預言者たちを裁かれます。
主イエスが偽預言者たちに用心しなさいとお命じになられたのは、先週に学びました主イエスの第1のお勧めに関係があります。
主イエスは、弟子たちに、群衆に、そしてわたしたちに「狭き門より入れ」とお命じになりました。主イエスのそのお言葉によって、弟子たち、群衆、そして、わたしたちが主の弟子として人生を生き続けることを脅かす危険についてお知らせくださいました。
主イエスは、永遠の命に至る狭い門と細い道、永遠の滅びに至る広い門と広々とした道、わたしたちの前に二つの道があることをお話になりました。そして、永遠の命に至る門は狭く、その道は細く、それを「みいだす」者は、驚くほどわずかであると、主イエスは言われました。
主イエスが弟子たち、群衆、そしてわたしたちにお伝えになりたかったことは、こうです。「わたしは門であり、道である。その門であり、道である主イエスを見出して、主イエスの御後に従う者は、狭い門を入り、細い道を通らなければならない。主イエスの真の弟子となり、主イエスと同じように自分を捨て、十字架の道を歩み、神を愛し、人を愛する道を歩まなければならない。その人生の岐路にキリスト教会は立っている。教会は、インマヌエル、神共にいますことをみいだした小さな群れである。この世に、この世界に、「狭い門」「細い道」として存在している。この狭い門から入れ、細い道を通れ。たとえわたしの進めの言葉が厳しく聞こえても、わたしは教会に常におり、教会はインマヌエルであり、喜びであり、永遠の命に至る道である」。
今朝、主イエスがその大切な教会を危険に導く偽預言者を用心するようにお話しになりました。
偽預言者たちは、具体的に誰か分かりません。しかし、偽預言者たちは、一つの特色を持っています。外面と内面が矛盾しているのです。見かけは紳士淑女であるかもしれません。しかし、その心は貪欲な狼です。
主イエスの預言は、後の初代教会の時代に現実となりました。偽教師たちが教会の中に入り込みました。彼らは、パウロや使徒たちと異なる福音を語りました。ガラテヤの諸教会は、偽教師たちによって教会が破壊される危険に陥りました。偽教師たちは、「信仰だけでは駄目である。割礼、ユダヤ人の安息日や儀式を守らないと救われない」と教えました。異邦人キリスト者たちに恵みによる救いを捨てさせ、ユダヤ人のように行いによる救いを勧めました。キリストの十字架を捨てさせようとしました。
主イエスは、弟子たちに、群衆に、そしてわたしたちに偽預言者を用心するために、彼らを見分ける法則を教えてくださいました。それは、「実」で見分ける方法です。この「実」のたとえは、旧約聖書の中によく出てきます。その人の行いそのものを「実」にたとえています。たとえばイスラエルの民たちは、「あざみや茨からぶどうやいちじくの実を刈り集めはしない」とよく語りました。
主イエスは、それを「良い木と悪い木」「良い実と悪い実」と言われて、わたしたちに人の行為を心に留めさせるようにお話しになりました。そして、主イエスは、弟子たちに、群衆に、そしてわたしたちに、「羊の皮を着た狼である偽預言者たちの行いを良く見て、彼らを見分けることができる」とお話しになりました。
そして、偽預言者のように悪い木、悪い実は、かの日に主イエスが審判者として来られた時に、火に投げ込まれる、主の裁きに遭うと預言されました。
その審判者の主イエスの裁きの預言から、偽預言たちのように不法を働く者は、かの日に審判者である主イエスが来られた時に、神の国から追い出されると、主イエスがy減されました。
主イエスの審判の基準は、19節の「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて、火に投げ込まれる」です。主イエスは、自称弟子たちのすべてが天の国に入るのではなく、天の父なる神の御心を行う者だけが天の国に入ると言われました。
「主よ」という告白は、正しい信仰告白です。しかし、主イエスが求められるのは、天の父なる神の御心を行う者です。信仰ではなく、行いを主イエスは求められているのか。
そうではありません。主イエスは、弟子たちに主の祈りを教えられました。「御国が来ますように 御心が行われますように 天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)。父なる神に祈り求める者こそ神の恵みに生き、父の御心に生きる者です。父なる神に罪の赦しを求める者こそキリストの十字架の赦しに与る者であります。
主の御名を呼び、教会の礼拝に加わり、御名によって預言し、奇跡を行い、悪霊を追い出しても、その自分の善き行いで救われ、天の御国に入ることはできないと、主イエスは言われています。
永遠の命に入ることができるのは、天の父なる神の御心だけです。わたしたちも教会も、永遠の命に人を与らせる力を持ち合わせていません。そのことを、主イエス・キリストがかの日に、未来に審判者として来られた時にはっきりすると、主イエスは預言されているのです。
だから、わたしたちは、主イエスがお勧めのように、父なる神に救いを求めるべきです。罪の赦しを求めるべきです。自分たちの中にではなく、父なる神に永遠の命を探すべきです。人に救いを求めるよりも、父なる神に門を叩くべきです。父なる神は、御子イエス・キリストを通してわたしたちに罪の赦し、永遠の命を与えてくださいます。わたしたちの天の父として、わたしたちが罪を赦され、永遠の命に入れるに必要なものをすべてお与えくださいます。
父なる神がわたしたちの求めに応じて、御子イエス・キリストをくださり、主イエスの十字架によってわたしたちの罪が赦され、主イエスの復活によってわたしたちに永遠の命が保証されています。またわたしたちは父なる神に聖霊を求め、聖霊を通して御言葉に従い、キリストの御後を歩み、父なる神の御心に生きることができるようにされています。
主イエスのお言葉は実現します。恐れることなく、父なる神に憐れみを祈り、父なる神に信頼して歩むならば、わたしたちは主イエスと共に永遠に生きることができるのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、主イエスはわたしたちに偽預言者に警戒するようにお勧めくださいました。主イエスの御言葉に従い、父なる神の御心を行わせてください。人にではなく、父なる神のみ信頼して生きることができようにお導きください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。