聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心を開き、あなたの御言葉を読み、取り次ぐ者を清め、あなたの御心をはっきりと宣べ伝えることができるようにしてください。わたしたちにあなたの御言葉をください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 詩編説教 011                 主の2010327

 

 

 

        指揮者によって。ダビデの詩。

 

主を、わたしは避けどころとしている。   「主の中にわたしは逃げ込む」

 

どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか。

 

「鳥のように山に逃れよ。     「逃れよ、おまえたちの山に、鳥よ。」

 

見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ 「なぜなら、見よ、悪しき者たちは」

 

闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。

 

世の秩序が覆っているのに 「柱が崩される時に、義人は何を行う。」

 

主に従う人に何ができようか」と。

 

 

 

主は聖なる宮にいます。   「主は彼の聖なる神殿の中に」

 

主は天に御座を置かれる。  「主は、彼の玉座は天に」

 

御目は人の子らを見渡し   「彼の目は注視する」

 

そのまぶたは人の子らを調べる。「彼のまぶたは調べる、人の子らを」

 

主は、主に従う人と逆らう者を調べ 「主は義人を調べる」「調べる→ためす」710

 

不法を愛する者を憎み  「悪しき者と暴虐を愛する者を憎む、彼の魂は」

 

逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り「彼が降らすように、悪しき者たちの上に

 

燃える硫黄をその杯に注がれる。 炭を」「火と硫黄と熱風は、彼らの杯の分け前」

 

主は正しくいまし、恵みの業を愛し 「なぜなら、主は義しい、義しい行為を愛する」

 

御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。 「まっすぐな者は注視する、彼の顔を」

 

                        詩編第1117

 

 

 

 説教題:「主なる神への信頼」

 

今朝は、詩編第1117節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、ダビデ王の賛美であり、エルサレム神殿の礼拝の中でイスラエルの会衆によって賛美されました。その時に礼拝賛美をリードする指揮者が、歌のテンポを定めました。それが1節の御言葉の説明です。

 

この詩編は信頼の詩編です。ダビデ王の主なる神への信頼がテーマです。それを最もはっきりと言い表しているのが、1節のダビデ王の信仰告白です。ダビデ王はこう歌っています。「主を、わたしは避けどころとしている。」

 

ヘブライ語旧約聖書を見ますと、ダビデ王は「主の中にわたしは逃げ込む」と賛美しています。

 

「主を、わたしは避けどころとしている」は、ヘブライ語聖書にいちいちこだわらないで、わたしたち読者が、主なる神をダビデ王の守護者であり、助け手であると理解できるように訳したのです。

 

ダビデの気持ちを込めて、日本語にすれば、「主なる神のみ、わたしは信頼する」でしょう。ダビデ王が、主なる神のみを信頼した詩編です。まずこの一点を、心に留めてください。

 

次にダビデ王は、彼のどのような状況の中で、主なる神のみを信頼したのでしょうか。1節の2行目から3節を御覧ください。

 

ダビデ王は、ある人々に小鳥がハンターたちの罠に陥るように、ダビデ王の命はある人々の悪い企みによって危険な状態にあります。

 

ある人々は、ダビデ王の身近にいました。ダビデ王に友だちとして接していました。しかし、ダビデ王は彼らを、2節に「見よ、主に逆らう者が」と歌っています。彼らは、悪しき者たちなのです。

 

悪しき者たちが、ダビデ王に友だちのように優しい言葉をかけて、ダビデ王を罠に陥れ、命を奪おうとしているのです。「小鳥のように山へ逃れよ」と。

 

ダビデ王がどんな危険な状態にあったのか、この詩編は説明しません。この詩編はただ一点に、ダビデ王が主なる神のみ信頼していることを告白しています。

 

ただわたしたちは想像できます。「山に逃れる」のは、旧約聖書の中では戦争に敗れたときです。イスラエルの民たちは、敵のペリシテの国と戦争し、負けますと、山のほら穴に逃げました。

 

ダビデの友だちを装う悪しき者は、ダビデ王にハンターに命を狙われている小鳥のように山に逃れて、命を守りなさいと優しい言葉をかけました。

 

なぜダビデ王は山に逃げなければならないのでしょうか。第一に主に逆らう者が心のまっすぐな人、義人であるダビデ王を滅ぼそうと、彼の命を狙っているからです。第二に世の秩序が覆っているからです。

 

ダビデ王の命も、ダビデ王国の基盤そのものも危うくなっているので、小鳥のように山に逃れて隠れるしかないと、悪しき者たちはダビデ王に忠告しました。

 

しかし、この忠告こそ、彼らの罠でありました。小鳥を網で捕らえるように、彼らはダビデ王の命を、罠にかけて奪おうと謀ったのです。

 

なぜなら、ダビデ王が、彼らの進言によって山に逃れれば、ダビデ王は何の罪もない、心のまっすぐな者、義人であっても、法的な保護を得ることはできません。まさに彼らが忠告したように主に逆らう、悪人が、弓矢によって、暗闇の中でダビデ王の命を奪うことになります。

 

3節の2行目の「主に従う人に何ができようか」と、悪しき者たちがダビデ王に言っていますね。悪しき者たちは、ダビデ王に言ったのです。「悪しき者によって義人ダビデ王の命は狙われ、国の社会秩序は覆された今、あなたは小鳥のように山に逃れる以外にない」と。

 

ダビデ王の友だちたちの忠告は、主なる神への信頼がありません。彼らは、主なる神よりもこの世の法則を重んじております。彼らは、ダビデ王に主に従う義人も、この世の法則には従うべきであると忠告するのです。この世の法則とは、一言で言えば弱肉強食です。弱い者が強い者の餌食になり、弱い者の犠牲の上に強い者が栄えるのがこの世の習わしだと言うのです。

 

しかし、主なる神のみを信頼していますダビデ王は、友だちの忠告に反論するのです。それが47節のダビデ王の賛美です。

 

ダビデ王に忠告する友だちは、主に逆らう者たちです。この世界を人間が支配し、弱肉強食の法則で、強い者が弱い者を支配し、栄えると考えています。

 

それに対してダビデ王は、主なる神の臨在を訴えます。ダビデ王は言うのです。たとえこの世に悪しき者たちが満ちあふれ、その力が強力で、主に従う義人たちの命と生活の基盤が危うくなったとしても、主に従う義人には一つの望みがあるではないかと。それは、主なる神がおられる。正しい審判を下される主なる神に望みを置き続けることができると。

 

ダビデ王が46節に賛美するのは次のことです。第一に主なる神が天におられ、すべてのものを支配されています。第二に主なる神は、義なる神です。第三に義なる神である主なる神は、人間を調べられ、悪しき者を憎まれ、主に従う義人を愛されます。主に逆らう者は必ず主に滅ぼされます。

 

ダビデ王は、最初に「主を、わたしは避けどころとする」と告白しました。徹底的に主なる神に頼り、主なる神の中にひたすら隠れると告白しました。

 

だから、ダビデ王は友だちの忠告に対してまず主なる神がいますと反論しました。ダビデ王から教えられることは、主に従う者、義人は主にのみ信頼して生きる者だということです。自分から、人間から、この世から、自分の心を天にいます主なる神に向けて生きる者です。

 

主なる神は天におられます。天地万物を造られたお方であり、審判者なるお方として、主に従う義人と主に逆らう者を調べて裁かれます。主なる神は、「人の子らを調べられます」。「調べる」とは、試すという意味です。わたしたちが先ほど主の祈りをしました。「試みに遭わせず」と祈りました。主なる神は、人の子、すなわち、人間を、主に従う者と主に逆らう者を試みられています。

 

このダビデ王の賛美はとても大切です。この世に生きる限り、ダビデ王、彼のように主なる神のみに信頼する義人といえども、悪人と同様に主なる神の厳しい試練に会うことが避けられませんでした。

 

このたび東北関東大震災と福島原発の事故という未曽有の悲劇を、わたしたちは経験しました。これは、わたしたちにとって本当に厳しい試練です。わたしたちは、ダビデ王と同じように主なる神を信じています。天にいまし、この世界を支配し、人間を裁かれる主なる神を信じています。その主なる神の厳しい試練の中に、今わたしたちはダビデ王と同じように立たされているのです。

 

だから、ダビデ王の信仰に、わたしたちは学ぶべきです。第一にダビデ王のように主なる神のみを信頼すべきです。生涯ダビデ王のように主なる神に従うべきです。どんな時にも主なる神から目を離さないこと、天にいます主なる神に目を注いで生きて行きましょう。第二にダビデ王のように主なる神の摂理の中に生きていることを信じましょう。主なる神は、人間を調べられています。主に従う者といえども、この世に生きる限り、主なる神の厳しい試練に会うのです。第三に主なる神は義なる審判者です。正しく人を裁かれます。だから主なる神は主に従う者を愛され、主に逆らう者を憎まれます。この世は弱肉強食の世界で、強い者が弱い者を犠牲にして栄えているように見えますが、主に逆らう者は必ず主なる神の裁きに会って滅びるのです。それがダビデ王の確信です。第四は、最後の7節の御言葉です。主に従う者たちが、この世の中ですべてにおいて打つ手がなくても、ダビデ王は次のように希望を賛美します。「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」と。

 

主なる神は、どんな時にも御自身の正しさを証しされます。すべての者の正しい裁き主であることを。だから、自分に頼らず、人にも頼らず、この世のものにも頼らず、ひたすら主なる神の恵みの力、御業を仰ぐ者は、主なる神の御救いにあずかることができるのです。

 

わたしたちは、今レントの季節を過ごしています。417日からキリストの受難週が始まります。キリストの御苦しみ、十字架の死を思い巡らしながら、423日まで過ごします。ダビデ王は、主なる神を、人間を裁かれる主なる神を信頼しました。主なる神は、正しく裁かれ、しかも恵みの御業を愛されました。ダビデ王は、口にはしていませんが、十字架のキリストを見ているのではありませんか。主なる神は、人の罪を憎まれます。それを、正しく裁いて、しかもわたしたちを愛し、救う恵みの御業を、キリストの十字架の死を通してなされたのです。

 

ダビデ王が裁き主なる主なる神を信頼する最も深い根拠は、キリストの十字架の死による神の義と聖と罪の贖いにあります。キリストの十字架の死こそ人の罪を滅ぼし、罪よりわたしたちを救い出す、主なる神の恵みの御業でありました。

 

わたしたちの聖書は、7節の終わりを「御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」と訳されていますが、ダビデ王は「まっすぐな者は御顔を注視する」と賛美しています。わたしたちは、キリストの十字架によって罪を赦され、聖霊によってまっすぐな者に変えられ、この礼拝を通して主なる神の御顔を仰ぎ見ることが許されているのです。お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、ダビデ王のように主なる神のみを、わたしたちが信頼して生きるようにしてください。ダビデ王のようにわたしたちも苦しむ時があります。今東北関東大震災と福島原発の事故により大きな試練の中にあります。不安を覚えています。しかし、今朝のダビデの詩編を通して、義なる審判者である主なる神にのみ希望を持たせてください。試練の中にある教会と兄弟姉妹たちに十字架のキリストを仰がせてください。罪の赦しの希望に生かしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

 

 

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心を開き、あなたの御言葉を読み、取り次ぐ者を清め、あなたの御心をはっきりと宣べ伝えることができるようにしてください。わたしたちにあなたの御言葉をください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 詩編説教 012                 主の2010529

 

 

 

        指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。

 

主よ、お救いください。            「救い給え、主よ。」

 

主の慈しみに生きる人は絶え  「なぜなら、絶えた。敬虔な人は。」

 

人の子らの中から       「なぜなら、消えた、信仰の人たちは、人の子らから。」

 

  信仰のある人は消え去りました。

 

人は友に向かって偽りを言い   「虚偽を、彼らはかって語り今も語り続ける、友と」

 

滑らかな唇、二心をもって話します。「滑らかな唇で、心と心で、彼らは語り続けている。」

 

主よ、すべて滅ぼしてください 「断ち切るように、主が、」

 

  滑らかな唇と威張って語る舌を。「すべての唇を、滑らかな舌を、大きなことを語る」

 

彼らは言います。

 

「舌によって力を振るおう。 「すなわち、我らの舌で我らは勝つ」

 

自分の唇は自分のためだ。  「我らの唇は我らと共に」

 

わたしたちに主人などはない。」 「誰が我らの主人か」

 

 

 

主は言われます。

 

「虐げに苦しむ者と   「貧しい人たちが強奪されるゆえに」

 

呻いている貧しい者のために 「極貧の人たちの呻きのゆえに」

 

今、わたしは立ち上がり   「今こそわたしは立つ」(この後「主は言う」)

 

彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」「わたしは救いの中に置こう。n

 

吹き付ける彼を」

 

主の仰せは清い。     「主の言葉は純粋な言葉」

 

主の炉で七たび練り清めた銀。「銀、地のるつぼの中で精錬された、七たび精錬された」

 

主よ、あなたはその仰せを守り  「あなたは、主よ、それらを守りたまえ」

 

この代からとこしえに至るまで   「我らを保護し続けたまえ。この代から永遠に」

 

わたしたちを見守ってくださいます。

 

 

 

主に逆らう者は勝手にふるまいます 「周囲に悪しき者たちが歩き回り続ける」

 

人の子らの中に 「高められるとき、卑しいことが、人の子らの」

 

  卑しむべきことがもてはやされるこのとき

 

                        詩編第1219

 

 

 

 説教題:「人の言葉と神のみ言葉」

 

 

 

今朝は、詩編第1219節の御言葉を学びましょう。

 

今朝の詩編は、ダビデ王の賛美したものです。そして、神の民イスラエルがエルサレム神殿の礼拝において聖歌隊の指揮者によって、八弦の琴の調べに合わせて讃美しました。

 

説教題を、「人の言葉と神のみ言葉」と付けました。この詩編のテーマです。

 

ダビデは、1節のはじめに「主よ、お救いください」と祈っています。ダビデ王の深い苦しみを表しています。人の子らに対する深い失望から、ダビデ王は主なる神に助けを祈り求めています。

 

そして、この短い祈りの後に、その理由を示す「なぜならば」という言葉があり、わたしたちの日本語の聖書は訳していません。

 

ダビデ王は、主なる神に「お救いください、主よ」と祈りました。なぜならば、「主の慈しみに生きる人が絶え 人の子らの中から 信仰ある人が消え去りました。」

 

ダビデ王の身の周りから信仰のある人々が消え去った悲しい現実を、ダビデ王は嘆きました。そして、主なる神に救いを求めました。

 

「主の慈しみ生きる人」と「信仰のある人」は、主なる神が愛を注がれる信仰者です。主の慈しみに生きる人は、主なる神とアブラハムとの恵みの契約を覚えて生きる人です。「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」という主なる神のアブラハムとの約束を信じて、アブラハムのように主なる神に忠実に従う信仰者です。

 

しかし、ダビデ王の目の前から「主の慈しみに生きる人は絶え」ました。「絶える」とは、主なる神が敵対者に対してなさる処罰の結果を表す言葉です。

 

旧約時代の預言者、ミカがイスラエルの民の罪と腐敗に対して主なる神の嘆きを預言しています。主なる神は嘆き、イスラエルの民を腐って食べられないぶどうの実、いちじくの実にたとえられています。そして、主なる神は言われます。「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい 互いに網で捕らえようとする。」(ミカ書72)

 

ダビデ王のこの詩編と預言者ミカの主なる神の預言は同じです。ダビデ王は、人の子ら、すなわち、イスラエルの民の不信仰者を嘆いているのです。

 

ダビデ王の嘆きを決定づけたのは、3節の人の子らの裏切りです。ダビデ王は、友の偽りの言葉による裏切りと歌っています。「なめらかな唇」と「二心」です。

 

この詩編の背景は、サウル王がダビデを迫害していた時代でしょうか。若き日のダビデは、サウル王に命を狙われ、ユダの荒れ野をさ迷っていました。しかし、ダビデは自分が迫害を受けながら、敵国のペリシテ人の手から自分の同胞、ケイラやジフの住民を助けました。しかし、住民たちはダビデに口では感謝し、他方ではダビデをサウル王の手に引き渡そうとしました。

 

3節のダビデの賛美は、同胞の者たちに裏切られた彼の体験でしょう。なめらかな唇は調子の良い言葉です。二心は心にもないことを話すことです。

 

主なる神への信仰のない者は、友を平気で偽りの言葉で裏切ります。その人の子らの偽りの言葉を、「滑らかな唇と威張って語る舌」を、ダビデ王は主なる神に滅ぼしてくださいと祈っています。

 

なぜなら、主なる神に逆らう者が国を支配し、神を恐れないで高慢な言葉を語り、自分の力を誇り、神に取って替わろうと、振る舞っているからです。

 

ダビデ王が主なる神に誰を滅ぼせと祈ったのか、分かりません。自分を迫害していたサウル王でしょうか。しかし、サウル王は主なる神に従わない王でしたが、自らが神に取って替わろうとしたと、旧約聖書のサムエル記は証言していません。

 

外国の王でしょうか。旧約聖書にエジプトの王パロやバビロン帝国のネブカドネザル王は、主なる神を恐れず、自らを神と称し、傲慢な言葉によって民を支配し、神の民イスラエルを迫害したと証言しています。

 

そして、5節の御言葉は、現代の世によく合っています。現代は、人間の言葉における人間の罪が著しい世界です。その代表がマスコミです。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット等において人の言葉が大きな力を振るっています。ツイッター、ブログ、メールは、自分の言葉は自分のためだと言わんばかりに巷に溢れています。

 

そして、わたしたちの耳にするこの世の言葉は、「わたしたちに主人などはない」という神を恐れないメッセージです。「わたしたちに主人などはない」という文は、元々疑問文です。「誰が我らの主人か」。これは、「神はない」という宣言です。この世の人の子らの傲慢な言葉は、いつの時代でも「誰が我らの主人か。」「神はない」と語りかけているのです。

 

6節以下は、その傲慢な人間の言葉に対する主なる神の応答の御言葉です。「主は言われます。」ダビデは、「主は言われますように」と願い求めています。主なる神は、預言者ナタンを通して、祭司を通し、ダビデ王に語られました。

 

「虐げに苦しむ者と 呻いている貧しい者のために 今、わたしは立ち上がり 彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」

 

旧約聖書の出エジプト記第224節以下に、次のようにあります。「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。

 

「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者」とは、奴隷の地エジプトで苦しむ神の民イスラエルです。主なる神は、この世で苦しむ神の民の嘆き声を聞いて、アブラハム、イサク、ヤコブたち、族長との契約を思い起こしてくださいました。そして、民の救いに立ち上がってくださいました。

 

主なる神は立ち上がられ、モーセを遣わされました。そして、エジプトの王パウロの言葉の支配下で迫害を受け、苦しんでいたイスラエルの民に、「彼らがあえぎ望む救いを与えられました」。

 

出エジプトにより神の民イスラエルを、エジプトの王パロの言葉の支配から救い出し、シナイの荒れ野に導かれました。そして、彼らを、荒れ野で40年間神の御言葉によって養われました。シナイ山でモーセを通して契約を結ばれ、十戒を与え、主なる神は民たちに「わたしはあなたの神となり、あなたたちは神の民、祭司の国となる」と約束して下さいました。

 

そして、ダビデ王はわたしたちに伝えています。「主の仰せは清い」と。神の御言葉は、人の言葉に比べると純粋であるという意味です。ダビデはわたしたちに言います。神の言葉は、土の炉で7たび練られた銀であると。その銀は不純物がありません。同じように神の御言葉も、人の言葉のように偽りと裏切り、傲慢という混ざりものはありません。限りなく純粋です。間違いがありません。人の言葉は長い歴史の中で埋もれてしまいます。しかし、神の御言葉は歴史に耐えることができます。そして、神の御言葉は永遠です。

 

そして、神の御言葉は、人の言葉のように変化し、人を裏切ることはありません。確かで、信頼できる言葉です。主なる神がアブラハムに約束された御言葉は、モーセを通してイスラエルの民に受け継がれました。そして、主なる神は、ダビデ王と契約を結ばれて、彼の末よりメシアを約束されました。

 

ダビデ王が、「主よ、あなたはその仰せを守り この代からとこしえに至るまで わたしたちを見守ってくださいますように」と祈りましたことを、主イエス・キリストによって実現して下さいました。

 

主イエス・キリストの十字架と復活は、旧約聖書の主なる神の純粋なみ言葉の実現でした。そして、神の御言葉である復活主イエスは、11弟子たちに世の終わりまでわたしたちと共にいると約束して下さいました。

 

教会は、この神の御言葉を語り伝え、神の御言葉に守られて、この世から永遠の御国へと地上の旅を続けているのです。そして、この地上は、常に人の言葉が支配し、主なる神に逆らう者たちが勝手な振る舞いをしています。この世界は、主なる神が忌み嫌われることを、人々は崇めるでしょう。卑しむべきことは、うそや中傷、人の言葉で人間関係を破壊することです。

 

そのような時でも、神の言葉がわたしたちを守ります。この世から永遠の御国に至るまでアブラハムの契約に従い、わたしたちを保護して下さるのです。お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、ダビデ王のように主なる神の御言葉に信頼して生きることができるようにしてください。わたしたちは、この世の少数者です。神の御言葉を聞くことより、人の言葉を多く聞かされて、傷つくことがあります。ダビデ王のようにわたしたちも「主よ、お救いください」と祈り、この世の苦しむと試練に耐えさせてください。十字架と復活のキリストを仰がせてください。罪を赦され、永遠の命の希望に生かしてください。無力な者ですので、御国に至るまでわたしたちをお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

 

 

 

 

 

 聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心を開き、あなたの御言葉を読み、取り次ぐ者を清め、あなたの御心をはっきりと宣べ伝えることができるようにしてください。わたしたちにあなたの御言葉をください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 詩編説教 013                 主の2010529

 

 

 

        指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。

 

いつまで、主よ

 

  わたしを忘れておられるのか。 「いつまで・・・・・永久に」という定形句。

 

いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 「関係を絶ち、恵みを与えない」

 

いつまで、わたしの魂は思い煩い 「思い煩い」→「計画」、「苦しみ」と同義語。

 

日々の嘆きが心を去らないのか。

 

いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。 「誇る」→「高ぶる」

 

                   ダビデは人の苦悩を神の忘却のしるしと嘆く。

 

わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え 「わたしに答え」→神に訴える時の常套句。

 

わたしの目に光を与えてください   「目に光を与え」→生き返らせるの意。

 

死の眠りに就くことのないように  「死の眠りに就く」→「死を眠る」

 

敵が勝ったと思うことのないように  →敵()がダビデの滅びを喜ぶこと。

 

わたしを苦しめる者が

 

  動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。

 

 

 

あなたの慈しみに依り頼みます。

 

わたしの心は御救いに喜び躍り

 

主に向かって歌います

 

「主はわたしに報いてくださった」と。

 

                        詩編第1316

 

 

 

 説教題:「いつまでですか、主よ」

 

 

 

今朝は、詩編第1316節の御言葉を学びましょう。

 

詩編13篇は、祈りの詩編と呼ばれています。詩編の1節の表題に「ダビデの詩」とありますように、ダビデ王の祈りの詩編であります。

 

聖書は、祈りと苦しみが常に一緒であると、証言しています。よく知られているのは、主イエス・キリストのゲツセマネの祈りです。十字架の苦しみを担い、主イエスはオリーブ山のゲツセマネの園において父なる神に祈られました。そのとき主イエスは、心も魂も、体も、すべてが神に見捨てられた絶望的な状況でした。その中で主イエスは父なる神に「御心のままにならせたまえ」と祈られました。

 

ダビデ王も、全く同じです。彼は長く続きます苦しみに中で、主なる神に祈りました。彼は重い病気だったかもしれません。あるいは、サウル王に命を狙われて、ユダヤの国を逃げ回っていたかもしれません。身も心も、そして魂すら、全く望みがありませんでした。まるで主なる神に見捨てられていると思える有様でした。その中で、ダビデ王は主なる神に祈りました。「いつまで、主よ」と。

 

2節と3節にダビデ王は、4度「いつまで」と繰り返し祈ります。ダビデ王は長引く苦しみに耐えています。

 

ダビデ王は祈ります。「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか、永久に。」「わたしを忘れる」とは、ダビデ王が詩編222節に「なぜわたしをお見捨てになるのか」と言っているのと同じです。

 

 ダビデ王は、今の彼の長引く苦しみが、永遠に主なる神に見捨てられたからであると思っているのです。人の苦しみを、ダビデ王は主なる神が人を忘れられたしるしと思っています。

 

 続いてダビデ王は祈ります。「いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」。「御顔を隠す」は、聖書によく使われている言い回しです。「忘れる」「捨てる」と同じです。主なる神がダビデ王から御顔を隠されました。主なる神は、ダビデ王との交わりを断たれ、彼に恵みを与えられません。だから、ダビデ王は、主なる神に忘れられた、見捨てられたと思っているのです。

 

 だから2節は、ダビデ王が主なる神に苦しみを訴えています。主なる神がダビデ王に御心を向けてくださるように祈り求めているのです。ダビデ王は、全く望みのない今の自分に関心を向けていません。むしろ、主なる神に目を向けているのです。彼の苦しみを救うことができるのは、主なる神だけだからです。

 

 だから、主なる神にダビデ王は、優しく御顔を向けてくださいと祈ります。向けてくださらなければ、3節のダビデ王の苦しみは続くからです。「いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか」。

 

 ダビデ王に日々魂の患いと心の悲しみがありました。その原因は、主なる神がダビデ王を忘れ、御顔を向けてくださらないからです。主なる神がダビデ王に御顔を向けてくだされば、ダビデ王は魂の患いと心の悲しみをいやされるのです。

 

 さらにダビデ王には敵が存在しました。サウル王は若きダビデ王を迫害しました。ダビデ王の息子アブサロムは、反乱を起こして、父の命と国を狙いました。また、ダビデ王に周辺の国々が敵対しました。

 

「いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか」。これは、ダビデ王が死の危険の中に置かれていたことを歌っています。だから、主なる神がダビデ王に御顔を向けてくだされば、ダビデ王は敵を恐れる必要はありません。

 

そこでダビデ王が祈り求めるのは、主なる神の御顔です。「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え わたしの目に光を与えてください。死の眠りに就くことがないように」(4)

 

全く望みのないダビデ王は、主なる神に望みを失っていません。ダビデ王の日々の生活は、苦しみと悲しみに満ちていました。ダビデ王は主なる神に自分が忘れられ、見捨てられていると感じていました。それでもダビデ王は、主なる神を「わたしの神、主よ」と呼びかけました。「わたしを見てください。わたしに答えてください」と祈りました。

 

ダビデ王は、主なる神の御目を恐れていません。むしろ、主なる神の御顔の前で生きることを願っています。ダビデ王は、主なる神がお語りになる御言葉こそが彼を生かすことを知っているのです。神の御言葉である主イエス・キリストが、目の見えない者、足の不自由な者、悪霊につかれた者に答えられました。その御言葉によって目の見えない者、足の不自由な者、悪霊につかれた者はいやされました。

 

ダビデ王は、主なる神に「あなたの御言葉によってわたしの目を輝かせてください」と祈ります。「目に光を与える」は「目を輝かせる」です。生き返らせるという意味です。

 

サウル王の息子ヨナタンが、ペリシテと戦いました。ヨナタンは空腹で、森の中の地面の中にあるミツバチの巣から手に持つ杖で蜂蜜をすくい、一口食べました。すると、「彼の目が輝いた」と聖書にあります(サムエル記上1427)。心と肉体の回復を描いているのでしょう。ダビデ王は、主なる神に御言葉によって命と健康と喜びを回復してくださいと祈りました。

 

 「死の眠りに就くことがない」ためです。命と喜びは、主なる神の御言葉から来ます。主なる神が「光あれ」と言われると、この世界に光が存在しました。すなわち、命と喜びが存在しました。

 

死の眠りに勝利するのは、神の御言葉です。再臨のキリストが墓に眠る者たちに「起きよ」と呼びかけられ、わたしたちは死から命に甦らされます。ダビデ王は、わたしたちと同じように復活の命の希望を祈っていると思います。

 

 そして、ダビデ王は自分が信仰に揺らぎ、不敬虔な者たちを喜ばせることを恐れています。主なる神にとって不名誉となるからです。だから、ダビデ王は祈ります。「敵が勝ったと思うことがないように わたしを苦しめる者が 動揺するわたしを見て喜ぶことがないように。」(5)

 

 ダビデ王の苦しみを救うのは、主なる神の慈しみだけです。ダビデ王は、わたしたちに苦しみの中では神の慈しみだけが、頼みの綱であり、心の喜びであると告白しています。

 

「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り 主に向かって歌います。『主はわたしに報いてくださった』と」(6)

 

神の慈しみによって主なる神は、アブラハムを選ばれ、彼の子孫であるイスラエルの民を選ばれました。そして、ダビデ王を、主なる神は羊飼いからイスラエルの王に選ばれました。主なる神は慈しみによってダビデ王を魂と心の苦しみから救い、全く望みのない所から救い出し、彼の敵たちから救い出されました。

 

ダビデ王の心に喜びを与えくださったのは、主なる神の慈しみと恵みです。ダビデ王は、主なる神を賛美すると告白しています。主なる神がダビデ王に報いてくださったからです。

 

ダビデ王は、わたしたちに信仰を揺さぶられる試練の中で、主なる神の慈しみに頼ることだけが救いだと教えています。

 

 今朝のダビデの祈りの詩編から、わたしたちは次のことを学びます。第1に祈りと苦しみは切り離せません。第2に聖書の祈りは、ダビデ王のように常に「わたしの神、主」に向けられています。第3にダビデのように、わたしたちも失望の時があります。それでも、ダビデ王のように信仰によって天地万物を創造し、この世界を支配する主なる神の存在を認めています。第4にダビデ王のように、わたしたちも神の慈しみに信頼し、神の慈しみを体験しています。それ故に失望しても、祈ります。神の慈しみは、主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しと永遠の命です。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、ダビデ王の祈りを、わたしたちの祈りとしてください。全く望みのない中でも、神の御言葉を聞くことより、神の慈しみに信頼して歩ませてください。この世において苦しみと試練に出合ったとき、十字架と復活のキリストを仰がせてください。神の慈しみによって罪を赦され、永遠の命の希望に生かされていることを、心から喜ばせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

 

 

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 詩編説教015                  主の2011925

 

 

 

         賛歌。ダビデの詩。        「賛歌、ダビデの」

 

主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 「主よ、誰が、宿る、あなたの天幕に」

 

聖なる山に住むことができるのでしょうか。「誰が、住む、山に、あなたの聖なる」

 

 

 

それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。「歩く者、完全な、そして行う者、義を」

 

心には真実の言葉があり  「そして語る者、真実を、彼の心の中で」

 

舌には中傷をもたない人。「彼は中傷しない、彼の舌の上で」

 

友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。「悪事をしない。そして隣人を辱めない」

 

主の目にかなわないものは退け 「彼の目に軽蔑されるものは退けられる」

 

主を畏れる人を喜び 「しかし主を畏れる者たちを、彼は敬う」

 

悪事をしないとの誓いを守る人。「そして彼は誓う、悪事をしないと。そして変えない。」

 

金を貸しても利息を取らず 「彼の銀を、利子で与えない。」

 

賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。「そして賄賂を、清い人に対して受け取らない。」

 

 

 

これらのことを守る人は 「これらのことをする人は」

 

とこしえに揺らぐことがないでしょう。「揺るがない、永遠に。」

 

                    詩編第1417

 

 

 

説教題:「神に喜ばれる人」

 

 詩編第15篇は、ダビデが歌った賛美です。神に喜ばれる人は誰ですか、とダビデは歌っています。

 

ダビデ王は、主なる神を心から信じて、その生涯において主なる神に従いました。彼は、エルサレムの町をエブス人から奪い、自分の町としました。そして、エルサレムの町のモリヤの山に主なる神の幕屋を造りました。そして、シロの町にあった神の契約の箱をエルサレムの町に運び入れました。ダビデ王は、神の箱をエルサレムの町に運び入れました時、喜びのあまり、裸になって大勢の神の民たちの前で踊りました。

 

その信仰熱き王ダビデが、自分がエルサレムの町に、モリヤの山に設けた神の幕屋に宿り、聖なる山に住むことのできる者は誰かと、神の御前に立つことを許され、神に喜ばれる者は誰かと、尋ねています。

 

「幕屋」と「聖なる山」は、主なる神が今、ここにおられる場所を指します。そこに「宿り」「住む」とは、主なる神のお守りとご支配の下にあることです。今、ここに主なる神がいますという神の聖さに値する者は、誰ですか。それがダビデ王の問いです。主なる神を礼拝しようとするイスラエルの神の民の問いでもありました。

 

ダビデ王の死後、息子のソロモン王がエルサレムの町にあるモリヤの山に、ダビデ王が主の幕屋を設けたところに神殿を建てました。イスラエルの民たちは皆、エルサレム神殿の前庭で主なる神を礼拝しました。

 

民たちは、礼拝するために、エルサレム神殿の門を通る時に、「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。」と賛美しました。すると、門に立つ祭司たちが、その賛美に応えて35節を民たちに向けて賛美しました。

 

ダビデ王とイスラエルの民たちは、主なる神を礼拝する時に、問わずにはおれませんでした。神に喜ばれる人とは誰かと。今、ここに民と共にいます神に喜ばれる義人とは、誰かと。

 

2節が答です。「それは完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり」。ダビデは、誰を思い描いたでしょうか。

 

ダビデが、2節に答えているのは、ひと言でいえば、「義人」です。そして旧約聖書が「義人」と呼びますのは、族長ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフたちであり、民の指導者モーセ、ヨシュアたちです。ダビデ王も義人です。

 

義人とは、第1に「生涯神に従う者」です。第2に「正しいことを行う人」です。正しいことは、主なる神の御心を行うことです。第3に「真実を語る者」です。高潔な人、誠実な人です。これが、神と共にあることを許された義人であり、神に喜ばれる人であると、ダビデは証ししています。  

 

そして、35節に神に喜ばれる義人の具体的な生き方を説明しています。それは、3つの関係から証しされています。隣人と信仰共同体、そして、社会生活です。

 

神に喜ばれる人、義人は、3節に隣人に対して次のように行動すると、ダビデは証しします。「舌に任せて人を傷つけず、友に悪を行わず、隣人に対して中傷を言わない」。ダビデは、こう述べています。神に喜ばれる義人は、人との会話の際、他者に対して思いやりを持っていると。人の噂話をして、人を傷つけることはしないと。

 

 信仰共同体との関係においては、神に喜ばれる義人は、4節に次のように行動すると、ダビデは証しします。主なる神がお棄てになった者を軽蔑し、主なる神を畏れる者を敬うと。

 

例えば義人アブラハムの場合です。アブラハムは、エラムの王ケドルラオメルの捕虜になった甥のロトたちを救い出しました。その時アブラハムを二人の王が祝福しました。サレムの王であり祭司であるメルキゼデクとソゾムの王です。アブラハムは、主なる神を畏れるメルキゼデク王の祝福を受けましたが、主なる神に見棄てられたソゾムの王の祝福は拒みました(創世記14)

 

使徒パウロも、わたしたちに自らを神に喜ばれる聖なる犠牲として献げ、神を礼拝するように勧めましたとき、この世と同調しないで、聖霊なる神に心を新たにされて、何が善であり、神に喜ばれることか、完全なことであるかを弁えるように命じています(ローマ1212)

 

社会生活の関係においては、4節後半から5節に神に喜ばれる義人は、3つのことを守ると、ダビデは証しします。第1に約束したことは自分が損をしても心変わりしません。第2に金銭を自分の欲のために用いません。お金を貸して不当な利益を得ません。第3に賄賂を取って罪なき人を罪に陥れるようなことはしません。

 

神に喜ばれる義人は、アブラハム、モーセ、ダビデ王にある程度見ることができます。しかし、完全に見ることはできません。アブラハム、モーセ、ダビデ王は、生涯主なる神に従った者たちであり、義人です。しかし、完全な義人ではありません。弱さや罪がありました。

 

 「これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことはないでしょう」と、ダビデ王は、5節の後半に賛美しています。

 

アブラハムもダビデ王も、自分の命を守るために、真実を語れず、人を欺いたことがあります。だから、ダビデ王は、神に喜ばれる人、真の義人がこの世に来ることを待ち望んでいるのです。その人こそ主が今ここにいますことを明らかにしてくれると、ダビデは期待しているのです。

 

そして、新約の時代に生きるわたしたちは、ダビデの「これらのことを守る人」、神に喜ばれる人、真の完全な義人を知っています。

 

神であり、神の言葉であり、肉体を取ってこの世に宿られ、住まわれたお方、イエス・キリストを知っています。

 

父なる神は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときに、宣言されました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と(マタイ317)。主イエスは、父なる神の愛する御子として、十字架の死に至るまで父なる神の御心を行われました。主イエスは、人として神の律法を完全に守られました。そして、主イエスは御自身のその義を、神に背いて歩むわたしたちに与え、わたしたちの罪の身代わりに神の刑罰である十字架の呪いを受けて死んでくださいました。

 

ダビデは、完全な義人であるキリストに結び付くことで、「とこしえに揺らぐことはないでしょう」と証ししています。「とこしえに揺らぐことはない」とは、神にあってです。主なる神が御前で「あなたは義人である」と認めてくださる者です。

 

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の131節に次のように証しします。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」

 

わたしたちが、今ここに神のいますこの教会において神を礼拝できるのは、神の永遠の選びとキリストの御救いの故です。

 

わたしたちは、真の義人であるキリストのゆえに、義人とされ、神に喜ばれる人とされました。なぜなら、キリストのゆえにわたしたちは、「これらのことを守る人」と、父なる神に認めていただきました。そして、父なる神と主イエス・キリストにより聖霊を与えられ、心を新たにしていただき、何が善であり、神に喜ばれることであるかを、聖書を通して示され、神の御言葉に生きることができるように導かれています。それ故に「とこしえに揺るぐことのない」救いの確信を与えられています。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、主イエス・キリストの神への従順と十字架の罪の赦しのゆえに、信仰によってキリストに一つに結ばれているわたしたちが、神の御前に義人、神に喜ばれる者とされていることを感謝します。毎週礼拝ごとに主イエス・キリストのゆえに御国に入れる喜びを覚えます。どうかキリストのように隣人を愛し、神の御心に従い歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。