詩編説教030                  主の2013324

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、あなただけが、御言葉を聞くわたしたちに今朝の詩編の御言葉を理解できるように導いてくださいます。どうかわたしたちが御言葉の真理を知り、受け入れ、心に蓄え、生活の中で信仰の実を結ぶことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。 賛歌 歌 奉献の 家の ダビデの

 

主よ、あなたをあがめます。 わたしはあなたを崇める(高める)、主よ。

 

あなたは敵を喜ばせることなく   なぜなら あなたはわたしを引き上げた。そして

 

わたしを引き上げてくださいました。 喜ばせなかった、わが敵を、わたしのことで

 

わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを 主よ、わが神 わたしは叫んだ、あなたに

 

あなたは癒してくださいました。 すると、あなたはわたしを癒した。

 

主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 

 

墓穴に下ることを免れさせ  わたしを生き返らせた わたしが落ちることから 穴に

 

わたしに命を得させてくださいました。

 

 

 

主の慈しみに生きる人々よ ほめ歌え 主に 彼を敬う者たちよ。

 

主に賛美の歌をうたい

 

聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。 また感謝せよ、記念(名前)に その聖なる

 

ひととき、お怒りになっても まことに一瞬は 彼の怒りの中に

 

命を得させることを御旨としてくださる。生涯は 彼の意志(恩顧)の中に

 

泣きながら夜を過ごす人にも 夕に宿る 泣き悲しみが

 

喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。しかし朝には 歓喜が 朝は恵みと喜びの時

 

 

 

平穏なときには、申しました。わたしは言った、安泰な時に

 

「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。「わたしは揺るがない、永遠に」

 

主よ、あなたが御旨によって 主よ、あなたの意志で

 

砦の山に立たせてくださったからです。立たせ わが山に 力の

 

しかし、御顔を隠されると あなたは隠した あなたの顔を 

 

わたしはたちまち恐怖に陥りました。 わたしはおびえていた

 

 

 

主よ、わたしはあなたを呼びます。 あなたに向かって 主よ、わたしは呼ぶ

 

主に憐れみを乞います。 そして わが主に わたしは憐れみを乞う

 

わたしが死んで墓に下ることに 何の益が わが血に わたしが下ることに 墓穴へ

 

何の益があるでしょう。

 

塵があなたに感謝をささげ あなたに感謝するだろか 塵が

 

あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。 告げるだろうか あなたの真実を

 

主よ、耳を傾け、憐れんでください。聞きたまえ 主よ そしてわたしを憐れみたまえ。

 

主よ、わたしの助けとなってください。主よ、わたしの助ける方となりたまえ。

 

 

 

あなたはわたしの嘆きを踊りに変え あなたは変えたわが嘆きを踊りにわたしのために

 

粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。あなたは解いた。わが粗布を そしてわたしに帯した。喜びを

 

わたしの魂があなたをほめ歌い         あなたをほめ歌う わが栄光が 

 

沈黙することのないようにしてくださいました。 そして黙らない

 

わたしの神、主よ               主よ わが神よ

 

  とこしえにあなたに感謝をささげます。   永遠に わたしはあなたに感謝する

 

                          詩編第30113

 

 

 

説教題「希望の朝を迎えさせる主」

 

詩編30113節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、ダビデが死に至る重い病を患い、死の淵にいたダビデが、主なる神の憐れみと慈しみにより死の手から救い上げられたことを感謝して、ダビデが主なる神をあがめた歌であります。

 

そして、ダビデが経験した主なる神の救いの恵みは、彼だけが体験したのではありませんでした。ダビデと共に主なる神を礼拝する、すべての者たちの信仰の経験でありました。だから、ダビデは、5節で、その者たちを、「主の慈しみに生きる人々」と呼びかけて、彼とその人々が共に主なる神によって死から救い出された恵みを証しする務めを負っているのだから、一緒に主なる神を賛美し、聖なる主の御名に感謝をささげて礼拝しようと歌っています。

 

2節は、詩編30篇の主題であり、テーマです。ダビデが主なる神を崇め、感謝する理由を歌っています。「あなたは敵を喜ばせることなく わたしを引き上げてくださいました。」

 

「敵」とは、死のことです。ダビデは、人間の死を、敵という人に見立てています。あるいは、古代の人は、病気が悪霊によって引き起こされると信じていましたので、この「敵」を悪霊と理解する人もいます。主なる神は、ダビデの敵である死や悪霊の手からダビデを引き上げてくださいました。「引き上げる」とは、おけで水をすくいあげることです。深い井戸の水を桶で救い上げるように、主なる神は、死と悪霊に支配されたダビデを、死の深淵から引き上げられました。

 

それでダビデは、3節で主なる神によって重病から癒されたと賛美しています。おそらくダビデは、病床の中で繰り返し主なる神に、「わたしの神、主よ、憐れんでください」と、助けを祈り求めたのでしょう。

 

さらにダビデは、主なる神が彼の祈りに応えて、彼を癒されたことに感激し、4節に次のように賛美しています。「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました」。

 

「陰府」は、死んだ者たちが赴く地下の領域です。そこからダビデの魂を、主なる神が救い出されたのです。「墓の穴に下る」とは、死んで墓に葬られることです。主なる神は、ダビデを死から解放し、再び元気にしてくださいました。

 

礼拝の中でダビデは、主なる神に救われた経験を、共に礼拝する人々と共に思い起こしています。6節です。「ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」

 

とても美しい日本文です。しかし、ダビデは、実際はこう賛美しています。「まことに一瞬は彼の怒りの中に 生涯は彼の意志の中に 夕に宿る 泣き悲しみが しかし朝には 歓喜が」と。

 

ダビデに学ぶことは、第一にわたしたちの礼拝的人生観です。今の一時に目を向けるのではなく、生涯にわたる主なる神の御意志、恩顧に、恵みに目を向けることです。わたしたちの礼拝人生は、主なる神の御意志の中にあり、悲しみから永遠の喜びに変えられるのです。

 

2にダビデは、主なる神によって重い病気から救われたことを通して、主なる神の恵みに慣れてしまった自分を反省しています。

 

ダビデは、重い病気にかからなかった時、すなわち、平穏に過ごしていたとき、「とこしえにわたしは揺るがされない」と思っていました。ダビデは、主なる神の御意志の中で、砦の山に、彼の人生は立っていると思っていたのです。ところが突然この重い病気をわずらいました。そして、ダビデは主なる神に祈り、また、大祭司たちと預言者たちにどうして自分が重い病気になったのかと、主の御心を尋ね求めさせたでしょう。主なる神は、ダビデから御顔を隠されました。ダビデに、主なる神は答えられませんでした。そこでダビデは「わたしはたちまちに恐怖に陥りました」と告白しています。

 

常に心すべきことは、主なる神の恵みに慣れてしまう危険が、信仰生活の中にあるということです。

 

3にダビデは、ダビデと主の慈しみに生きる人々の使命を教えています。911節です。その使命は、主の憐れみなくして行うことができません。主なる神の御意志の中にいないとできないのです。この世に主によって生かされ、主をあがめ、感謝し、そして、この世の人々に主なる神の御名を告げ知らせることです。

 

ダビデは、死人は主を賛美できないと言っています。それは、礼拝人生を生きるダビデには、無益なことです。ダビデは主なる神を賛美し、日々暮らしたいのです。ダビデは、主なる神を賛美し、礼拝し、この主を人々に告げ知らせて、主の慈しみに生きる人々と共に、永遠に主なる神を賛美したのです。

 

ダビデにとって神賛美が唯一のことであるような命、生こそが、人として最高の人生なのです。創造主なる神に造られた人間にとって、その主なる神を礼拝する人生こそが人間としての最高の生き方なのです。死んでしまっては、無益ではありませんか。ダビデは、主なる神に問いかけているのです。

 

4にダビデは、1213節に主なる神を永遠にあがめ、賛美し、礼拝したいと歌っています。そのために主なる神がダビデの死の悲しみを、踊る喜びへと変え、罪を嘆き悲しむ時に着る粗布を脱がせて、祝祭の時に身につける喜びの帯としてくださいと歌っています。

 

ダビデが訴えていることは、永遠に主なる神をあがめ、礼拝し、賛美したいということです。

 

このダビデの願いに、主なる神は、答えられて、千年後に主イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。

 

主イエス・キリストは、復活によって死に勝利されました。そして、十字架の死によってわたしたち人類の罪を解決してくださいました。ダビデが恐れました死を、キリストが復活によって打ち破られ、わたしたちに永遠に神をあがめ、礼拝し、賛美する命を与えてくださいました。

 

今週より受難週に入ります。十字架のキリストの御苦しみの1週間の日々をたどり、次週のイースターを心から祝いたいと思います。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今週より受難週が始まります。主イエス・キリストの御苦しみの1週間を覚えつつ、日々を歩ませてください。次週の331日のイ-スターに伝道集会をします。近隣に案内チラシを配布し、新聞に広告を載せました。礼拝にお招きください。ダビデが祈り願った永遠に主なる神をほめたたえることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

詩編説教031                  主の2013428

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、あなただけが、御言葉を聞くわたしたちに今朝の詩編の御言葉を理解できるように導いてくださいます。どうかわたしたちが御言葉の真理を知り、受け入れ、心に蓄え、生活の中で信仰の実を結ぶことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

指揮者によって。賛歌。  指揮者による 賛歌 ダビデの

 

ダビデの詩。

 

主よ、御もとに身を寄せます。    あなたの中に 主よ、わたしは逃げ込む

 

とこしえに恥に落とすことなく    わたしが恥をかかないように 永遠に

 

恵みの御業によってわたしを助けてください。 あなたの義によってわたしを救え

 

あなたの耳をわたしに傾け   傾けたまえ わたしに あなたの耳を

 

急いでわたしを救い出してください。 急いで わたしを救い出したまえ

 

砦の岩、城塞となってお救いください。 わたしのために大岩、わたしの救いのために

 

あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 砦の家となりたまえ。まことに・・・はあなた。

 

御名にふさわしく、わたしを守り導き だからあなたの御名のためにわたしを守り導き

 

隠された網に落ちたわたしを引き出してください。わたしを出したまえ、わたしのため

 

あなたはわたしの砦。 に彼らが隠したこの網から。 なぜならあなたはわたしの砦

 

まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。あなたの手にわたしは委ねます、

 

わたしを贖ってください。わたしの霊を。あなたは贖い給え、わたしを、主よ、真の神。

 

わたしは空しい偶像に頼る者を憎み わたしは憎む、虚しく空なものを守る者たちを。

 

主に、信頼します。そしてわたしは、主に依り頼む。

 

 

 

慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。わたしは喜び躍ろう、また喜ぼう。あな

 

あなたはわたしの苦しみを御覧になり たの恵みを。あなたの見た所のわたしの苦しみ。

 

わたしの魂の悩みを知ってくださいました。あなたは知っている、わたしの魂の苦しみ

 

わたしを敵の手に渡すことなく を。そしてあなたはわたしを渡さなかった、

 

わたしの足を    敵の手の中に。 あなたは立たせた、広い所に わたしの両足を

 

  広い所に立たせてくださいました。 広い所は救いの意

 

 

 

主よ、憐れんでください。わたしを憐れみ給え、主よ。

 

わたしは苦しんでいます。なぜなら苦難がわたしに、衰える、怒りによって、

 

目も、魂も、はらわたも   わたしの目は、わたしの魂とわたしの腹は

 

  苦悩のゆえに衰えていきます。

 

命は嘆きのうちに なぜなら絶える、深い悲しみの中で、わたしの命は

 

年月は呻きのうちに尽きていきます。またわたしの歳はため息の中で弱る

 

罪のゆえに力はうせ   弱る、わたしの不義の中で わたしの力は、

 

骨は衰えていきます。  またわたしの骨は衰える

 

わたしの敵は皆、わたしを嘲り すべてわたしを苦しめる者たちのゆえに、わたしは

 

隣人も、激しく嘲ります。     恥である。 わたしの隣人たちにひどく、

 

親しい人々はわたしを見て恐れを抱き   また恐れがわたしを知る隣人たちに

 

外で会えば避けて通ります。  わたしを見る者たちは外で、わたしから遠ざかる。

 

人の心はわたしを死者のように葬り去り わたしは忘れ去られた、死人のように

 

壊れた器と見なします。 (人の)心から。 わたしは失われた器のようである。

 

ひそかな声が周囲に聞こえ なぜならわたしは聞く、多くの者たちの中傷を、

 

脅かすものが取り囲んでいます。「恐ろしいものが周囲に」と

 

人々がわたしに対して陰謀をめぐらし 彼らがわたしに対して一緒に結束する時

 

命を奪おうとたくらんでいます。 わたしの魂を取ろうと企らんだのです。

 

 

 

主よ、わたしはなお、あなたに信頼し しかしわたしはあなたに依り頼む、主よ。

 

「あなたこそわたしの神」と申します。わたしは言う、「わたしの神、あなたこそ」

 

わたしにふさわしいときに、御手をもって あなたの手の中に、わたしの時は

 

追い迫る者、敵の手から助け出してください。わたしを救い出したまえ、わたしの敵ど

 

あなたの僕に御顔の光を注ぎ  もの手から、またわたしを追い払う者たちから。輝か

 

慈しみ深く、わたしをお救いください。せたまえ、あなたの顔を、あなたの僕の上に

 

                わたしを救い出したまえ、あなたの慈しみによって

 

主よ、あなたを呼びます。      主よ、わたしが恥をかかないように、

 

わたしを恥に落とすことなく     わたしはあなたを呼ぶ時に

 

神に逆らう者をこそ恥に落とし  恥をかくように、不法の者たちが 

 

陰府に落とし、黙らせてください。  黙るように 陰府に

 

偽って語る唇を封じてください。 口がきけなくなるように 偽りの唇が

 

正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を。義人に対して、尊大に驕りと侮りをもって語

 

っている   

 

御恵みはいかに豊かなことでしょう。 何と大きいあなたの善は

 

あなたを畏れる人のためにそれを蓄え あなたがあなたを畏れる者たちのために隠した

 

人の子らの目の前で   人の子らの正面で あなたの中に逃げ込む者たちに

 

  あなたに身を寄せる人に、お与えになります。 あなたがなした

 

御もとに彼らをかくまって あなたは彼らを隠す。

 

人間の謀から守ってくださいます。 人の謀からあなたの御顔の隠れたところに。

 

仮庵の中に隠し あなたは彼らを仮庵の中に隠す。

 

争いを挑む舌を免れさせてくださいます。舌の争いから

 

 

 

主をたたえよ。 主はたたえられよ。

 

主は驚くべき慈しみの御業を   まことに驚かせた、彼の慈しみは、わたしを。

 

  都が包囲されたとき、示してくださいました。包囲の町の中で

 

恐怖に襲われて、わたしは言いました。そしてわたしは言った、わたしが慌てたときに

 

  「御目の前から断たれた」と。「わたしは切られた。あなたの目の前から」

 

それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを まことにあなたは聞いた、わたしの

 

嘆き祈るわたしの声を、 嘆願の声を。わたしが叫んだ時、あなたに向かって。

 

あなたは聞いてくださいました。

 

 

 

主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。愛せよ、主を。すべての彼を敬う者たち

 

主は信仰ある人を守り   よ。信仰の者たちを、主は守る。

 

傲慢な者には厳しく報いられる。 また彼は過度に報いる、驕る者たちを。

 

雄々しくあれ、心を強くせよ。 強くあれ、また勇ましくあれ、あなたがたの心よ。

 

  主を待ち望む人はすべて。すべての待ち望む者たちよ、主を。

 

                          詩編第31篇125

 

 

 

説教題「まことの神を信頼する」

 

詩編31125節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、ダビデが敵に迫害と辱めを受け、彼の身と魂が、すなわち、彼の体と心が弱り果てた中で、「主なる神こそわたしのまことの神」と信頼し、主なる神に助けを求め、祈りに応えてダビデを救われた主なる神を、ダビデが賛美したものです。

 

ダビデに、現在のわたしたちキリスト者のこの世の問題を当てはめてみてください。よく似ていると思います。

 

ダビデの敵が誰であるか、分かりません。ダビデは重い病気を患いました。敵と昔の友人から悪口を言われ、敵はダビデに隠れた罠を設けて、ダビデの命を奪うことを企んでいました。ダビデが頼るのは、主なる神のみでありました。

 

ダビデは、26節の1行目で、主なる神を避けどころとしますと歌っています。赤ちゃんが母親の懐の中で安心するように、ダビデは、主なる神の保護の中に自分の身を置きました。そして彼は、主なる神に「どうかわたしを、とこしえに恥に落とさないでください」と祈りました。永遠に見捨てないでくださいと祈りました。

 

「恵みの御業によってわたしを助けてください」は、「あなたの義をもって、わたしを助けたまえ」です。ダビデは、敵の罠と悪口から、主なる神がダビデを正しいと判定してくださってお救いくださいと祈っています。

 

ダビデは、今命の危険にあります。だから、ダビデは主なる神に「今すぐにわたしの祈りを聞き届けてください。わたしを、敵から救い出してください」と祈ります。

 

どうしてダビデは、それほどに主なる神に信頼を寄せているのでしょうか。それは、主なる神がダビデの「砦の岩」「城塞」であるからです。「大岩」であり、「砦」であるからです。主なる神は、ダビデにとって「わたしの保護者」であります。

 

だからダビデは、主なる神に「御名にふさわしく、わたしを守り導い」てくださいと祈ることができるのです。主なる神は、ダビデの保護者ですから、ダビデが敵の隠された網、すなわち、敵がダビデの命を奪おうと仕掛けた罠から、ダビデを救い出してくださいと祈ることができるのです。

 

ダビデは、まるで赤ちゃんが母親に安心して身を委ねているように、「わたしの砦」である主なる神に「まことの神、主よ、御手にわたしの霊を委ねます」と祈っています。

 

「御手にわたしの霊を委ねます」。これは、十字架の主イエスの御言葉です。ルカによる福音書の2346節に十字架のキリストが「父よ、御手にわたしの霊を委ねます」と祈られました。

 

主イエスは、ダビデ同様に父なる神を心から信頼し、御自身を委ねられました。だから、この御言葉は、ダビデの主なる神への深い信頼を表しています。それがなくては、祈りは生まれません。そして、祈り続けることは不可能です。

 

6節の2行目から9節は、ダビデが主なる神への感謝と主なる神のダビデへの恵みを喜び歌っています。主なる神は、ダビデの祈りに耳を傾けて、速やかに応えてくださいました。6節の1行目の「わたしを贖ってください」という御言葉は、このように訳せますが、他の聖書を見ますと「あなたは私を買い戻してくださった、主よ、まことの神よ」と訳しています。

 

ダビデは、主なる神の救いを感謝しています。9節にダビデが「わたしの足を、広い所に立たせてくださいました」と賛美していますのも、「わたしをお助けくださった」というダビデの感謝を表しています。

 

主なる神は、空しい偶像を信頼する者たちを憎み、主なる神にのみ信頼するダビデの祈りに、耳を傾けて敵から救い出してくださいました。

 

主なる神の救いに、ダビデは感謝しただけでありません。彼は、主なる神がダビデを救われることを通して、主の慈しみを体験したのです。ダビデは、8節に「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります」と賛美しています。

 

ダビデは、神の救いを通して、神の恵みを体験しました。それは、次の御言葉です。「あなたはわたしの苦しみを御覧になり わたしの魂の悩みを知ってくださいました」。

 

詩編の16節に「神に従う人の道を主は知っていてくださる」とありましたね。そこでもお話ししたかもしれません。「主が知っていてくださる」とは、主なる神が御自分のこととして深くかかわってくださるということです。主なる神は、ダビデの苦しみを御覧になり、ダビデの魂の悩みを、御自分のこととして受け止めてくださったのです。だから、ダビデの祈りに、耳を傾けて、速やかに彼を救い出してくださいました。

 

10節から14節は、8節でダビデが自分の魂の悩みを、主なる神にお祈りしたお祈りを、記しています。ダビデの嘆きの祈りです。ダビデの魂の悩みは、彼の内と外にありました。10節から11節は、彼が内に抱えている困難です。1214節は、敵や隣人によってもたらされる困難です。内に抱えている困難は、ダビデの重い病気です。それは罪によってもたらされました。使徒パウロがローマの信徒への手紙56節に「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」と述べています。ダビデの「わたしの魂の苦しみ」は、彼の罪の問題でした。その罪によって彼の魂と体が衰えました。ダビデは、罪による弱さを、「骨は衰えていきます」という苦しい体験をしたのです。罪は人に死をもたらすのです。その恐怖を、味わいました。

 

そして、主なる神は、ダビデの魂の悩みを、罪の問題を御自分のこととしてかかわってくださいました。だから、使徒パウロが言いますように、わたしたちが罪人であり、弱かったころ、定められた時に、人として、キリストはこの世に来られ、罪を解決するために、罪人たちのために身代わりになってくださったのです。

 

ダビデのもう一つの悩みは、敵と隣人の陰口によってもたらされました。敵も隣人も、病人であるダビデを辱めました。ダビデは、伝染病の病人のように隣人に恐れられました。ですから、昔のダビデの友人も、ダビデを避けるようになりました。そして、隣人の心からダビデの存在は、忘れ去られました。ダビデは隣人たちには、壊れた食器のように、もう役に立たないと思われたのです。

 

さらに主なる神に逆らう悪人が、ひそかにダビデの命を奪おうと陰謀をめぐらしているという噂も、ダビデの耳に聞こえて来ました。ダビデには、主なる神以外に休まるところはありませんでした。

 

だから、ダビデは、15節から19節にその困難の中でなお「主なる神こそわたしの神」と信じて、迫害する敵からの救いを祈り求めました。

 

16節の「わたしにふさわしいときに、御手をもって」とは、そのまま日本語にしますと、「わが諸々の時はあなたの手のうちに」です。

 

祈りは、わたしたちの内外の困難の中で、わたしたちの心が神の方に向かい、心から神に信頼を寄せる時に、生まれます。ダビデは、「あなたこそわたしの神」と信じ、「わが時はあなたの御手の中にある」と確信した時、彼は主なる神に迫害する敵から救い出してくださいと祈りました。

 

17節の「あなたの僕に御顔の光を注ぎ」とは、ダビデが主なる神に「あなたの僕をお救いください」と祈っているのです。1819節は、その救いを具体的に述べています。神に逆らう敵たちの前でダビデのように主なる神を信じる正しい人が馬鹿にされないように、主なる神が介入してくださいと祈っています。そして、ダビデは正しい人、すなわち、信仰者を侮る者、傲慢な者たちを陰府に落とし、沈黙させてくださいと祈っています。

 

20節から23節は、61行目から9節の御言葉と同様に主なる神の恵みに対するダビデの讃美と救いに対する感謝を歌っています。

 

ダビデは、主なる神がダビデを敵から救われたことを通して、主なる神の豊かな恵みを体験しました。まるでわたしたちキリスト者がキリストの救いを通して神の豊かな愛と恵みを体験したように、です。

 

その神の豊かな恵みを、ダビデは次のように歌っています。20節です。「御恵みはいかに豊かでしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え、人の子らの目の前で あなたに身を寄せる人に、お与えになります。」

 

「それを蓄え」は、「それを隠し」です。「お与えになります」は「施されます」。「人の子らの前で」とは、ダビデの敵の前で、です。

 

神の豊かな恵みは、ダビデが知る前から主なる神の所に隠されているのです。それを新共同訳聖書は、蓄えられていると訳しました。隠され、蓄えられている神の豊かな恵みとは、救いの確かさです。それを、主なる神は「人の子の前で」すなわち、ダビデの敵たちの面前で、神を畏れる者、すなわち、ダビデのように神に選ばれた人に施されました。

 

そして、神の恵みを豊かに受けた者たちは、主なる神の身元に、仮庵の中に主なる神がかくまって守ってくださいます。

 

22節と23節にダビデは、神の恵みの豊かさを体験した驚きと恐れを歌っています。「主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を 都が包囲されたとき、示してくださいました。恐怖に襲われて、わたしは言いました。『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを 嘆き祈るわたしの声を あなたは聞いてくださいました。」

 

何と説明すると良いのでしょうか。ダビデは、神の驚くべき慈しみ、恵みを体験しました。しかし、その体験は、ダビデに喜びではなく、恐れを起こしました。神の前からダビデが滅ぼされるという体験です。ところがその恐れの中で、神にダビデが叫び続けると、不思議なことにダビデは、神の救いの自分のものとすることができました。主なる神がダビデの祈りを聞いてくださったのです。

 

ダビデは、最後に主なる神を愛するように、わたしたちに呼び掛けています。主なる神は、信仰を持つ人をお守りくださり、神に反逆する傲慢な者を裁かれると、ダビデは歌っています。そして主が来られるのを待ち望んでいる者は、心を強くし、勇気を持てと、ダビデは励ましています。

 

ダビデから学びますことは、第1にまことの神を信じ、信頼する所から、わたしたちの祈りは生まれるということです。第2にダビデのこの詩編の祈りは、十字架のキリストへと向かっています。十字架のキリスト御自身が、この詩編の御言葉を引用して、「父よ、御手にわたしの霊を委ねます」と祈られました。キリストは、十字架の苦しみのただ中で「父よ、わたしに起こることはすべてあなたにかかっているのです。ですからわたしはそれをそのまま享受することを望みます」と祈られました。

 

神に敵対する敵たちの前で、御父に従順に従われ、キリストは十字架につき、死なれました。そのキリストの十字架を通して、神に選ばれた人々は神が隠された神の愛、豊かな恵みをいただく経験をしたのです。この経験に照らして、もう一度この詩編を読みなおすならば、先ほどわたしが説明できないと言いましたダビデの御言葉に、光を当てることができるのではないでしょうか。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、ダビデの詩編を通して、信仰と祈りの関係を学ぶ機会が与えられ感謝します。また、十字架のキリストがこの詩編の御言葉を祈られたことを学ぶことができて感謝します。知恵が足りず、十分にこの詩編の恵みを味わえない者ですが、キリストの救われた経験を通して、ダビデのように、十字架のキリストを通して、神の豊かな恵みを味わわせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 詩編説教032               主の2013526

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、あなただけが、御言葉を聞くわたしたちに今朝の詩編の御言葉を理解できるように導いてくださいます。どうかわたしたちが御言葉の真理を知り、受け入れ、心に蓄え、生活の中で信仰の実を結ぶことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

     ダビデの詩。マスキール。

 

いかに幸いなことでしょう   幸いだ

 

背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。とがを赦された者は、罪を覆われた者は。

 

いかに幸いなことでしょう   幸いだ

 

主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。主が彼に不義を考えない人は。また彼の霊に

 

                     欺瞞がない

 

わたしは黙し続けて わたしが沈黙したとき、

 

絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。古び衰えた、わが骨は。わが呻きで 一日中

 

御手は昼も夜もわたしの上に重く なぜなら、昼もまた夜も、重くのしかかる、わたしの

 

わたしの力は                       上にも、あなたの手が

 

   夏の日照りにあって衰え果てました。変わった、わが潤いは、夏の日照りで。

 

わたしは罪をあなたに示し     わが罪を、わたしはあなたに知らせる。

 

咎を隠しませんでした。  わが不義を、わたしは覆わない。

 

わたしは言いました

 

「主にわたしの背きを告白しよう」と。 「告白しよう、わが咎について、主に」

 

そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを するとあなたは取り上げた。わが罪の不義を

 

   赦してくださいました。

 

 

 

あなたの慈しみに生きる人は皆   この故に祈る、すべての敬虔な人は。あなたに向か

 

あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。  って   見つける時に

 

大水が溢れ流れるときにも    洪水の時でも

 

その人に及ぶことは決してありません。 多くの水は、彼に及ばない。

 

あなたはわたしの隠れが。 あなたは、わたしの隠れ場。

 

苦難から守ってくださる方。 苦難からわたしを守る

 

救いの喜びをもって   救いの歓声で、あなたはわたしを囲む。

 

   わたしを囲んでくださる方。

 

 

 

わたしはあなたを目覚めさせ  わたしはあなたを賢くする。

 

行くべき道を教えよう。 また、あなたに教える。あなたが歩むこの道を。

 

あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。 わたしは助言しよう。あなたに、わが目で。

 

分別のない馬やらばのようにふるまうな。 あなたがたは~であるな。悟ることのない

 

それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。くつわと手綱で、彼の口を抑えつける

 

そのようなものをあなたに近づけるな。 ために 近づかないように、あなたに。

 

神に逆らう者は悩みが多く  多い、痛みが、悪しき者に。

 

主に信頼する者は慈しみに囲まれる。 しかし、依り頼む者は主に、慈しみが彼を囲む。

 

神に従う人よ、主によって喜び躍れ。 喜べ、主に在って。また喜び躍れ、義人たちよ。

 

すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。かつ歓呼せよ、すべての心の真直ぐ者たちよ。

 

                       詩編第32111

 

 

 

説教題:「神に罪を赦された者の幸い」

 

 今朝は、詩編32111節の御言葉を学びましょう。見出しに「ダビデの詩。マスキール」とあります。普通には「ダビデの、教訓詩」と呼ばれています。

 

 実は、「マスキール」が何を意味するのか、不明であります。8節に「あなたを目覚めさせる」という言葉と同じです。またアモス書513節に、「マスキール」を「知恵ある者」と訳しています。ヘブライ語の旧約聖書をギリシャ語に翻訳した70人訳聖書が、「マスキール」を「理解力の」と訳して、「マスキール」を付された詩編の見出しに「教訓的な詩」という訳を付けて以来、どの翻訳聖書にも、「マスキール」、あるいは「教訓詩」という翻訳が付されてきました。詩編150篇の中の13の詩編に、見出しに「マスキール」、あるいは「教訓詩」が付されています。

 

 それ以上に詩編32篇は、キリスト教会においては伝統的に「悔い改めの7つの詩編」の一つとして、特にその2番目のものとして有名であります。

 

 ダビデが主なる神に自分の罪を告白して、その罪を赦された恵みを振り返りまして、心から主なる神に感謝して、その恵みの体験からわたしたち信仰者に主なる神に罪を告白して、その罪を赦される恵みを受けるように教えている詩編であります。

 

 1節と2節に「いかに幸いなことでしょう」と、ダビデが繰り返しています。丁寧な日本語です。ダビデは、ただ「幸いだ」と繰り返しているのです。しかし、日本語に翻訳された方は、この詩編を読む人にすぐにこの詩編の主題は、主なる神に罪を赦された者の幸いであることを理解させようとしています。

 

 主なる神の御前に生きる信仰者の最高の幸せは、主なる神に自分の罪を告白し、赦されることであると、ダビデは自分が主なる神に罪を告白して赦された体験を振り返りながら、賛美しています。

 

 詩編51篇も「悔い改めの7つの詩編」の一つであり、ダビデはバト・シェバとの姦淫の罪を心から主なる神に赦しを求めています。詩編32篇は、ダビデが主なる神にその罪を告白し、赦された後、どれぐらい年月を経たのか、わかりませんが、思い起こして神に罪を赦されることの幸いを喜び、心から主なる神に感謝をささげています。

 

 32篇は、二つに内容を分けることができます。17節と811節です。17節は、ダビデの感謝の歌です。主なる神に自分の罪を告白して、赦されたことを心から感謝しています。主なる神の罪の赦しは、とても豊かであります。第1は、ダビデは主なる神に「背きを赦され」ました。第2に「罪を覆っていただき」ました。第3に「主に咎を数えられません」でした。

 

 背きと罪と咎は、旧約聖書において罪を表す代表的な言葉です。背きは、主なる神への反逆です。罪は、的はずれです。咎は道徳的腐敗です。赦すとは、重荷を取り除くという意味です。「覆われる」とは、裁き主である主なる神の御目に見えなくされることです。「数え上げない」とは、主なる神が罪をお認めにならないということです。

 

 12節は、ダビデが主なる神に罪を告白し、完全に罪を赦された者の幸いを感謝しているのです。2節の「心に欺きのない人」とは、「その霊に謀(たばか)りのない人」です。ダビデは、信仰者が道徳的に正しい人であると述べているのではありません。罪人であるわたしたちは、主なる神に完全に罪を赦されてこそ確かな霊が与えられるという意味のことを述べているのです。

 

 主なる神に完全に罪を赦された人に、主なる神は確かな霊、聖霊を与えられ、その聖霊にその人は導かれて、神の御心に沿って生きることができるようになります。その喜びを、ダビデは体験したのです。

 

 3節と4節は、ダビデが主なる神に罪を告白しなかった時の苦しみを歌っています。ダビデは、バト・シェバと姦淫し、彼女の夫に自分の罪が明らかになることを恐れて、夫を戦場で殺させました。ダビデは、その罪を主なる神に隠しました。3節の「わたしは黙し続け」とは、ダビデが主なる神に罪を告白しないで、神に心を閉じていたと述べています。主なる神が預言者ナタンをダビデに遣わして、彼の罪を暴かれるまで、神に罪を告白することを拒み続けました。そこで主なる神は、ダビデを毎日、毎夜、彼の心と体を打たれました。彼は、罪の呵責に呻き、彼の骨まで朽ち果てました。神がダビデを昼も夜も責められ、夏の日照りで畑の野菜が枯れてしまうように、ダビデも罪に心が萎えてしまい、生きる気力を奪われました。

 

 ダビデは、預言者ナタンによって、主なる神がダビデのすべての罪を御存じであり、罪によってダビデを滅ぼさないために、預言者ナタンを遣わされたことを知りました。

 

 ダビデは、主なる神の憐れみに頼り、自分の罪を告白しました。罪が多様であるように、罪の告白も色々であります。ダビデは、第1に主なる神に「罪を示し」ました。第2に「咎を隠しませんでした」。第3に「主にわたしの背きを告白しよう」と決心しました。

 

罪を告白するとは、第1に主なる神に自分の罪を示す、知らせることです。第2に主なる神に自分の咎を隠さないことです。第3に背きを自分の口で公に告白することです。これが罪を悔い改めることのすべての道筋であります。

 

その結果、主なる神はダビデの罪と過ちを赦してくだしました。主なる神が、罪を告白したダビデの罪を裁くのではなく、その罪の重荷を担ってくださって、彼の罪を赦してくださいました。

 

 6節と7節は、ダビデが神に罪を告白して、罪を赦された者の幸いを具体的に歌っています。6節は、主なる神に罪を赦された者の幸いを、誰にでも当てはめられるように歌っています。要するに神の赦しの恵みこそ、信仰者の拠り所であると言おうとしているのです。

 

 7節は、ダビデが主なる神を自分の保護者として賛美します。彼のどんなに大きな罪も、主なる神は赦してくださると告白しています。主なる神は、罪の赦しによってダビデを取り囲んでくださると賛美しています。

 

 主なる神に罪を赦される幸いにあずかったダビデは、この詩編の読者であるわたしたちを主なる神の罪の赦しへの幸いに招きます。8節です。「わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう」と。

 

 8節は、ダビデが語っているのか、主なる神がお語りになっているのか、二通りの理解があります。

 

 わたしは、ダビデの口を通して主なる神がわたしたちに勧めをなされていると思っています。第1の勧めは9節です。ダビデは、主なる神に背くことの愚かさを警告しています。「分別のない馬やらば」とは、家畜のことです。馬やらばは、自分の意志で訓練を受けているのではありません。強制されて、訓練を受けています。ダビデは、信仰者は家畜であってはならないと述べています。自分の意志で、心から進んで主の訓練に服すべきであると勧めます。自分から主なる神に罪を告白するようにしようと勧めています。

 

 第2の勧めは、10節です。「神に逆らう者は悩みが多く」とは、ダビデ自らの体験です。3節と4節のことを、一般的な真理として述べています。罪を主なる神に告白しない者は、良心の痛みだけでなく、その痛みが彼の体と生活にも及びます。

 

 他方主なる神に信頼する者とは、6節の「あなたの慈しみに生きる人」です。その者は、ダビデのように、主なる神に自分の罪を告白し、神に罪を赦され、「救いと喜びをもって、わたしを取り囲む」神の恵みに生かされるのです。

 

 第3の勧めは、11節です。素直に神に罪を告白しなさいという勧告です。その者にこそ神の祝福があり、幸いがあると。「神に従う人」と「心の正しい人」は、自分の心を常に主なる神に向けている信仰者です。だから、自分と主なる神との関係が良い状態にあります。だから、主なる神に自分の罪を告白し、罪を赦されて、ダビデの喜びの感謝の中に入ることができます。

 

 わたしたちも、ルカによる福音書の放蕩息子のように、主なる神に自分の罪を告白するならば、十字架のキリストの罪の赦しを受けることができるのです。御子の血によりわたしたちのすべての罪が清められたからです。

 

 使徒ヨハネは、ヨハネの手紙一の18節と9節に、次のようにわたしたちに勧めています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、あなたの御前に罪を告白し、赦されたダビデが、わたしたちに神に罪を告白し、十字架のキリストを通して、罪の赦しの恵みにあずかるように勧めています。どうか、わたしたちが自らの罪を告白し、十字架のキリストのゆえに神に罪を赦され、聖霊をいただき、ダビデの勧めました神の祝福と幸いの中に生きるように、導かれていることを感謝します。

 

 キリストの福音を人々の知らせ、一人でも多くの人々が自分の罪を神に告白し、キリストの十字架の罪の赦しにあずかることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 詩編説教033               主の2013630

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、これから読まれる御言葉によって、主の御心をわたしたちに示し、主に従う道を教えてください。主はわたしたちを救う神、わたしたちは朝も昼も夜も、主に望みをおいています。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

主に従う人よ、主によって喜び歌え。     喜び歌え、義人たちよ、主にあって

 

主を賛美することは正しい人にふさわしい。  正しい人たちに、賛美はふさわしい。

 

琴を奏でて主に感謝をささげ         感謝せよ、主に琴で

 

十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。      十弦の竪琴で彼にほめ歌え。

 

新しい歌を主に向かってうたい        歌え、彼に新しい歌を

 

美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。    上手に吹奏を奏でて、凱歌を叫べ

 

 

 

主の御言葉は正しく             まことに主の御言葉は真直ぐで

 

御業はすべて真実。             そしてすべての彼の業は真実の中で

 

主は恵みの業と裁きを愛し          主は、義と裁きを愛する

 

地は主の慈しみに満ちている。        主の慈しみで満ちている、地は。

 

御言葉によって天は造られ          主の御言葉によって天は造られた。

 

主の口の息吹によって天の万象は造られた。  また彼の口の息によってすべての軍勢は。

 

主は大海の水をせき止め           集める、堰のように海の水を

 

深淵の水を倉に納められた。         与える、倉の中に深淵の水を。

 

 

 

全地は主を畏れ               恐れるように主を、全地は。

 

世界に住むものは皆、主におののく    彼を恐れるように、世界に住むすべての者は

 

主が仰せになると、そのように成り      なぜなら、彼が言う、すると成る。

 

主が命じられると、そのように立つ。     彼が命じる。すると立つ。

 

主は国々の計らいを砕き           主は異邦人たちの計画を無効にする。

 

諸国の民の企てを挫かれる。         諸民族の考えを妨げる。

 

主の企てはとこしえに立ち          主の計画は永遠に立つ。

 

御心の計らいは代々に続く。         彼の心の考えは代々に。

 

 

 

いかに幸いなことか             幸いだ。

 

主を神とする国               神が主であるところの国民は。

 

主が嗣業として選ばれた民は。        彼が自分の嗣業として選んだ民は。

 

主は天から見渡し              天から見つめる、主は。

 

人の子らをひとりひとり御覧になり      見る、すべての人の子らを。

 

御座を置かれた所から            彼の座す場所から

 

地に住むすべての人に目を留められる。彼は観察する、地に住む全ての人たちに向かって

 

人の心をすべて造られた主は、        彼らの心と一緒に造る方は、

 

彼らの業をことごとく見分けられる。     彼らのすべての行為を見分ける方。

 

 

 

王の勝利は兵の数によらず          王は、兵力の多さによって救われない。

 

勇士を救うのも力の強さではない。      勇士は、力の大きさによって救われない。

 

馬は勝利をもたらすものとはならず      馬は救いにとって偽り

 

兵の数によって救われるのでもない。     またその力の大きさによって救わない。

 

見よ、主は御目を注がれる          見よ、主の目は

 

主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。  彼を畏れる者たちに向かって、彼の慈しみを待ち望む者たちに向かって

 

彼らの魂を死から救い            彼らの魂を死から救い出すために

 

飢えから救い、命を得させてくださる。    そして飢饉の中で彼らを生かすために。

 

 

 

我らの魂は主を待つ。            我らの魂は主を待つ。

 

主は我らの助け、我らの盾。         彼こそ我らの助け、我らの盾。

 

我らの心は喜び               まことに彼にあって我らの心は喜ぶ。

 

聖なる御名に依り頼む。           なぜなら、聖なる御名に我らは依り頼む。

 

主よ、あなたの慈しみが           あるように、あなたの慈しみが、主よ、

 

  我らの上にあるように          我らの上に

 

  主を待ち望む我らの上に。        あなたに我らが期待するように。

 

                       詩編第33122

 

 

 

説教題:「主を神とする国民の幸い」

 

 今朝は、詩編33122節の御言葉を学びましょう。

 

13節は礼拝に集りました会衆に主なる神への賛美を呼び掛けています。 

 

 「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。琴を奏でて主に感謝をささげ 十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。新しい歌を主に向かってうたい 美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。」

 

 「主に従う人よ」は、詩編3211節の「神に従う人よ」と同じ言葉です。「義人たちよ」という言葉です。

 

詩編33篇は、礼拝において神賛美する会衆たちを、「義人たちよ」と呼び掛けています。「義人」とは、主なる神に聖所に入ることを許されている者たちのことです。すなわち、礼拝に招かれた「会衆」です。

 

「正しい人」は、詩編3211節の「心の正しい人よ」と同じ言葉です。「義人」という言葉とは違います。「心の真直ぐな者」であります。「義人」と同じように、主なる神に聖所に入ることを許されている者です。すなわち、会衆、礼拝する者たちのことです。

 

詩編33篇は、「主に従う人よ」「正しい人よ」と呼び掛け、「あなたがたが神の聖所に入り、主なる神を礼拝し、神賛美することはふさわしい」と呼びかけたのです。

 

詩編33篇は、続いて2節と3節において次のように勧めています。歌と楽器によって、主なる神を賛美し、主なる神を信仰告白することを。

 

2節の「琴」は、立琴です。ダビデが悪霊に悩まされていたサウル王を慰めるために奏でた楽器です。「十弦の琴」は、ハープのような大きな楽器です。

 

3節の「新しい歌を主に向かってうたい」とは、主なる神の新たな救いの歌を賛美するようにという勧めであります。

 

賛美が信仰者の信仰告白であれば、時代と共に新しい信仰告白が生まれ、賛美が生まれます。詩編33篇は、わたしたちに次のことを教えてくれます。第1に礼拝において楽器を用いて賛美することの有益性です。第2に讃美は、信仰告白ですから、その時代その時代に新たな信仰告白が生まれるように、新しい讃美歌も生まれます。それを、わたしたちの礼拝の中で歌うことです。

 

45節が詩編33篇の主題であります。「主の御言葉は正しく 御業はすべて真実。主は恵みの御業と裁きを愛し 地は主の慈しみに満ちている。」

 

実は、4節の冒頭に理由を示す「げに」「まことに」「じつに」という言葉があります。礼拝においてなぜ神賛美をするのかという理由です。それは、「主の御言葉は正しく、その御業は確かであり、正義と公正を愛する主なる神の慈しみが地に満ちている」からです。

 

ニューイングリシュバイブルは、4節と5節を次のように英訳しています。「主の御言葉は有効である。そしてすべての主の御業が永続している。主は義と裁きを愛する。主の確かな愛が地に満ちている」。

 

詩編33篇は、69節において、「主の御言葉」が有効であることを次のように述べています。「御言葉によって天は造られ 主の口の息吹によって天の万象は造られた。主は大海の水をせき止め 深淵の水を倉に納められた。全地は主を畏れ 世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り 主が命じられると、そのように立つ。」

 

6節は、主の御言葉によって天地が創造されたことを賛美しています。その有効性が5節と8節において次のように示されています。人の活動の場所が造られ、人がそこで創造主なる神を畏れ、かしこむためであると。

 

7節は、創世記12節に基づいています。神が天地を創造された時に、地は混沌でした。それに主が御言葉によって秩序を与えられたことを歌っているのです。こうして御言葉によって秩序づけられた自然(世界)の中でわたしたちの人間の生活が営まれるようになりました。

 

ですから、詩編33篇は、主なる神は御言葉によって天地を創造し、混沌から秩序を造られて、造られた世界に人の活動の場を与えられた、その神の御言葉の有効性を、わたしたちにほめ称えるように勧めています。

 

1012節において次に主なる神の「御業が永続である」ことを次のように述べています。神の御業は、地上の歴史において永続し、展開されています。「主は国々の計らいを砕き 諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち 御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか 主を神とする国 主が嗣業として選ばれた民は。」

 

「国の計らい」「諸国の民の企て」とは、エジプト、アッシリア、バビロンのことでしょう。わたしたちは、歴史を動かすのは大国とか、偉大な王のように思っています。しかし、詩編33篇は、主なる神が歴史に介入され、それらの地上の大国と諸国の民の企てを砕き、挫かれたことを証ししています。

 

エジプトはその昔イスラエルの民を奴隷にし続けようとしました。しかし、主なる神が歴史に介入され、その企てを砕かれました。アッシリア帝国は南ユダ王国の都エルサレムを包囲して、滅ぼそうとしました。その時主なる神が歴史の中に介入され、一夜にしてその企てを砕かれました。バビロン帝国も南ユダ王国を滅ぼし、ユダの民を捕囚しました。主なる神が歴史に介入され、バビロン帝国はペルシャ帝国に滅ぼされ、バビロンの企ては砕かれました。

 

詩編33篇は、世界の歴史を究極的に導いているのは、主なる神の御心であり、御計画であり、その主なる神の御業は創造された世界が続く限り、続くと歌っています。

 

こうして詩編33篇は、わたしたちに一つの幸いな答を差し出しています。それが、12節です。「いかに幸いなことか。主を神とする国 主が嗣業として選ばれた民は。」と。

 

天地万物を創造し、世界の歴史を支配される主なる神を、国と民の神とする者の幸いを賛美しています。

 

そして、1319節は、最後のテーマ、主なる神の慈しみを述べています。主なる神は、天から地上のすべての人々を御覧になっています。1315節には、主なる神が天から地に住む全ての人を見ておられ、人の心を創造された主なる神は、人の心と人の業を見分けられていることを述べています。

 

1617節には、主なる神の御前における人の無力さを描いています。王も兵士も、馬も、敵に対する勝利の保証となりません。実際にアッシリアとバビロンからイスラエルの民を、北イスラエル王国と南ユダ王国の王も兵士たちも馬も救うことができませんでした。

 

1819節には主なる神のみが慈しみによってエジプトと捕囚の地バビロンからイスラエルの民を救い、再び彼らが主なる神を礼拝できる喜びに導かれたことを述べています。

 

詩編33篇は、わたしたちに救いを次のように教えています。「見よ、主は御目を注がれる 主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に」と。主なる神は、天からエジプトと捕囚の地バビロンにおいて主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に目を注がれました。この主の慈しみ、愛が救いです。それによって異邦人の地において生きる喜びを失っている選びの民イスラエルは、奴隷と捕囚の地から救い出され、飢えから解放され、再び礼拝を通して主との命の交わりを得ました。

 

最後に2022節の御言葉を学びまよう。これは、「我ら」の信仰告白と祈りです。イスラエルの信仰共同体の信仰告白であり、祈りです。そして、わたしたちの教会の信仰告白であり、祈りです。「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心の喜び 聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが 我らの上にあるように 主を待ち望む我らの上に」

 

昔も今も主なる神に招かれて、主を礼拝し、賛美するすべての会衆たちの魂は、主を待っています。エルサレム神殿で礼拝していた者たちは、心から来たるべき主を待ち望んでいました。彼らの魂を救ってくださるキリストを待ち望みながら、礼拝をしていたのです。

 

そして、主は、この祈りに応えて来てくださいました。主は人となり、処女マリアより生まれ、「聖なる御名」、すなわち、罪無き、聖なるお方として来てくださいました。そして、御自身の十字架を通してわたしたちに神の慈しみを注いでくださいました。わたしたちは、今、十字架のキリストの死によって神に罪を赦され、この礼拝に招かれています。そして、わたしたちも、再びキリストが、来られるのを待ち望んでいます。お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編33篇を通して、主に招かれて、主を礼拝し、賛美できる幸いを感謝します。主なる神は御言葉によって天地万物を創造し、わたしたちのこの世における命と生活を生み出され、摂理によってささえ、そして、来たるべきキリストの再臨において永遠の命へと導いてくださっています。

 

 どうか、主イエスよ、詩編332022節の信仰告白と祈りを、わたしたちの教会の祈りとして聞き届けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 詩編説教034                  主の2013728

 

 

 

  ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前 「ダビデの 彼が狂わせた時、彼の正気を

 

で狂気の人を装い、追放されたときに。 アビメレクの前で そして彼は彼を追い出

 

した。それで彼は去った。」

 

 

 

どのようなときも、わたしは主をたたえ  わたしは主を賛美しよう、すべての時に

 

わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。 常に彼への賛美は、わたしの口に

 

わたしの魂は主を賛美する。  主にあって、誇る(自分自身を賛美する)、わたしの魂は

 

貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。 聞くように、謙る者たちは、そして喜ぶように、

 

わたしと共に主をたたえよ。 あがめよ、主を、わたしと共に。

 

ひとつになって御名をあがめよう。 そしてわれらは高めよう、彼の名を一緒に。

 

わたしは主に求め  わたしは尋ね求める、主を。

 

主は答えてくださった。 すると彼はわたしに答える。

 

脅かすものから常に救い出してくださった。 そしてすべてのわたしの恐怖から彼はわた

 

しを救い出す

 

主を仰ぎ見る人は光と輝き      彼らが彼を見つめる。すると彼らは輝く。

 

辱めに顔を伏せることはない。    そして彼らの顔が赤面しないように。

 

この貧しい人が呼び求める声を主は聞き  この貧しい者が呼ぶ。すると主は聞く。

 

苦難から常に救ってくださった。  そしてすべての彼の苦難から彼を救う。

 

主の使いはその周りに陣を敷き   陣を敷く、主の天使たちは

 

主を畏れる人を守り助けてくださった、 彼を畏れる者たちの周りに。そして彼らを助け

 

出す

 

味わい、見よ、主の恵み深さを。味わえ、かつ見よ。主が善いことを。

 

いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。 幸いだ、彼の中に逃げ込む男は。

 

主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。  主を畏れよ、彼の聖徒たちよ、

 

主を畏れる人には何も欠けることがない。 なぜなら、欠乏がない、主を畏れる者たちに。

 

若獅子は獲物がなくて飢えても   若い獅子たちは欠乏する、かつ飢える。

 

主を求める人には良いものの欠けることがない。しかし、主を尋ね求める者たちは欠乏し

 

ない、すべての善に。

 

子らよ、わたしに聞き従え。 行け、子らよ、わたしに聞け。

 

主を畏れることを教えよう。 主への畏れを、わたしはあなたたちに教える。

 

喜びをもって生き   だれか、その人は、命を慕い求める。

 

長生きして幸いを見ようと望む者は   愛する日々を、善を見ようと

 

舌を悪から  守れ、あなたの舌を、悪から

 

唇を偽りの言葉から遠ざけ またあなたの舌を、偽りを語ることから

 

悪を避け、善を行い  離れよ、悪から、かつ善を行え。

 

平和を尋ね求め、追い求めよ。 尋ね求めよ、平安を。かつそれを追い求めよ。

 

 

 

主は、従う人に目を注ぎ  主の目は義人たちに向かって

 

助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。 そして彼の耳は、彼らの叫びに向かって

 

主は悪を行う者に御顔を向け  主の顔は、悪を行う者たちに

 

その名の記念を地上から絶たれる。 地から断つために、彼らの記憶を

 

主は助けを求める人の叫びを聞き  彼らが叫ぶ。すると主は聞く。

 

苦難から常に彼らを助け出される。 またすべての彼らの苦難から彼は彼らを救い出す。

 

主は打ち砕かれた心に近くいまし  近い、主は。心の砕かれた者たちに

 

悔いる霊を救ってくださる。 そして霊の砕けた者たちを、彼は救う。

 

主に従う人には災いが重なるが  義人の災いは、多い。

 

主はそのすべてから救い出し   しかしそれらすべてから主は彼を救い出す。

 

骨の一本も損なわれることのないように 守っている、すべての彼の骨を。

 

彼を守ってくださる。 その中の一つも折られない。

 

主に逆らう者は災いに遭えば命を失い 悪は悪しき者を殺す。

 

主に従う人を憎む者は罪に定められる。 また義人を憎む者たちは、罪に定められる。

 

主はその僕の魂を贖ってくださる。主は贖う方、彼の僕たちの魂を。

 

主を避けどころとする人は   それで罪に定められない。

 

  罪に定められることがない。  すべて彼の中に逃げ込む者たちは。

 

                    詩編第34123

 

 

 

説教題:「味わい、見よ、主の恵み深さを」

 

 今朝は、ダビデの詩編34篇の御言葉を学びましょう。

 

 詩編34篇の中心は、9節、「味わい、見よ、主の恵み深さを」です。ダビデは、礼拝を通して主なる神の恵み深さを、一緒に味わい、主を賛美しようと呼びかけているのです。

 

 最初に括弧にくくられて、「アルファベットによる詩」とありますね。この詩編がヘブライ語のアルファベットの22文字の順に作られているという説明文です。この技巧を用いた代表的な詩編は119篇です。そしてこの技巧を用いた詩編は「教訓詩」と呼ばれるものが多くあります。この詩編34篇もその一つです。

 

ダビデは、12節に「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう」と歌っていますね。ダビデは自分の子供たちや若者たちに向かって自らの救いの体験を証しし、主なる神を畏れ、幸いに生きるようにと教えています。

 

 1節は、詩編34編の表題です。「ダビデの詩」とありますね。主なる神に羊飼いから召しだされて、イスラエル王国の王となったダビデが作り、賛美した歌です。

 

 続いてダビデが賛美した背景を次のように説明しています。「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」。

 

これは、旧約聖書のサムエル記上の211416節の出来事に言及しています。しかし、記述が少しく違っています。ダビデが狂気を装って、難を逃れましたのは、「アビメレクの前」ではありません。アビメレクという人は、その出来事の前に出てきましたイスラエルの祭司です。彼は、サウル王に命を狙われていたダビデに主なる神に供えたパンとゴリアトの剣を与えました。それゆえにサウル王に殺されました。ダビデが狂人を装ったのは、ペリシテの国のガトの領主アキシュです。ダビデは、アキシュに殺されることを恐れて、狂人を装い、ペリシテの国から追放され、難を逃れました。

 

 ダビデがガトの領主アキシュの前で狂人を装って、追放された出来事と詩編34編の詩の内容がどのようにつながるのか、実はよくわかってはいません。

 

 24節は、ダビデが貧しい人に主なる神を賛美し、共に礼拝しようと呼びかけています。「どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。」

 

 詩編の10219節に「後の世代のために このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」とあります。ダビデは、自らを模範として、貧しい人に心を一つにし、共に主なる神を礼拝し、賛美しようと呼びかけています。

 

 3節の「貧しい人よ」は、正確には「謙る者たちよ」という、ダビデの呼びかけです。ダビデは、19節に主なる神が「打ち砕かれた心」「悔いる霊」の近くにおられると歌っていますね。「打ち砕かれた心」「悔いる霊」を持つ者たちが、「謙る者たち(貧しい人)」です。

 

 ダビデの願いは、心砕かれた貧しい人々と共に主なる神を賛美し、その御名をあがめて礼拝することです。

 

 続いて58節は、ダビデがどうして主なる神を共に礼拝するのか、その理由を歌っています。

 

 「わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。」

 

ダビデと主なる神には人格的な交わりがありました。それが「わたしは主を求め、主は答えてくださった」というダビデの賛美です。主なる神はダビデとの人格的な交わりを通して、ダビデを脅かしているあらゆる恐怖と苦難から彼を救い出してくださいました。

 

ダビデは、68節に昔主なる神が奴隷の地エジプトからイスラエルの民を救い出された時、主なる神を仰ぎ見たモーセの顔が光輝き、モーセは主なる神に守られて、恥を見ることはなかったと歌っています。また主なる神は、奴隷の地にいた貧しい人、イスラエルの民たちの声を聞かれ、常に彼らを苦難から救われました。ダビデは、主の御使いたちによって民は守られ、主を畏れる人を助けくださったと歌っています。

 

そして、ダビデは、911節に「主なる神の恵み深さを味わい、見よ」と呼びかけています。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。若獅子は獲物がなくて飢えても 主に求める人には良いものの欠けることがない。」

 

主なる神を求める者は、欠乏の中に放置されることはありません。ダビデは、主の恵み深さを、自らの信仰の体験によって確認しなさいと歌っています。

 

いかに幸いなことでしょう。主なる神に身を寄せる者は、誰もがあらゆる困難から主なる神に救われ、欠乏の中に放置されることはないからです。

 

1215節は、ダビデが自分の子供たちやイスラエルの民の若者たちに主なる神に祝福された人生の秘訣を教えています。「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。喜びをもって生き 長生きして幸いを見ようと望む者は 舌を悪から 唇を偽りの言葉から遠ざけ 悪を避け、善を行い 平和を尋ね求め、追い求めよ」

 

ダビデは、若者たちすべてに主を畏れることを教えようと歌っています。「長生きをして幸いを見ようと望む者」とは、人生を楽しむ人のことです。ダビデは、自分の子たちをはじめ、すべての若者たちに人生を楽しんで生きてほしいと願っています。それゆえに、ダビデは、若者たちに主を畏れて、「悪から遠ざかり、善を行い、平和を追い求めるよ」と諭しています。

 

悪は、諸々ありますが、ダビデは舌の悪、偽りの言葉を取り上げています。舌から出る悪、偽りの言葉が、どんなに多くの若者たちの身を滅ぼしたかを、ダビデは見てきたのです。ダビデが愛したわが子アブサロムもその一人でした。彼は、なめらかな舌で、父ダビデを貶め、自ら高ぶり、そして父に背きました。そして最後は身を滅ぼす結果になりました。

 

新約聖書のヤコブ書356節に次のように記されています。「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きな森を燃やしてしまう。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」

 

他方「善を行い、平和を追い求める」ことは、神の掟を守り、隣人と平和に生きることです。家庭の中で家族が憎しみ合っていれば、隣近所に諍いがあれば、わたしたちは人生を楽しむことはできません。人生は、一人では楽しめません。主なる神と交わりを通して、家族や隣人との交わりを通して、わたしたちは人生を楽しむことができます。

 

1622節は、ダビデが主に従う人と悪を行う者(主に逆らう者)に対する主なる神の姿勢を対照的に歌っています。「主に従う人」とは、義人のことです。「悪を行う者」「主に逆らう者」とは、悪人です。

 

義人と悪人に対する主なる神の姿勢は、まことに対照的です。1617節をご覧ください。「主は従う人に目を注ぎ 助けを求める叫びに耳を傾けられる。主は悪を行う者に御顔を向け その名の記念を地上から断たれる。」

 

主なる神は、義人に対しては族長アブラハム、イサク、ヤコブのように助けを求める声に耳を傾けて、彼らを助け、彼らの子孫を繁栄させてくださいました。しかし、主なる神は悪人に対して、「その名の記念を地上から絶たれます。」彼らの子孫を絶たれるのです。

 

18節は、7節と似ています。「主は助けを求める人の叫びを聞き 苦難から常に彼らを助け出される。」主なる神がエジプトの奴隷の地において苦難にあえぐイスラエルの民の助けを求める声を聞かれ、彼らをあらゆる苦難から救われました。

 

ダビデは、19節に「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる」と歌っています。「近くいまし」とは、「寄り添ってくださる」という意味です。「主は打ち砕かれた心の者たちに寄り添い」「悔いた霊」、すなわち「霊の打ち砕かれた者たち」を救ってくださると、ダビデは歌っています。ダビデは、ダビデと共に礼拝する謙る者たちと主なる神は寄り添ってくださり、霊の打ち砕かれた謙る者たちを救ってくださると歌っているのです。主イエスが「心の貧しい者は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」と言われたことに近いと思います。

 

2022節は、ダビデが自らの信仰体験を踏まえて、主なる神は義人を救われ、悪人は自らの悪によって滅びると歌っています。「主に従う人には災いが重なるが 主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。主に逆らう者は災いに遭えば命を失い 主に従う人を憎む者は罪に定められる。」

 

ダビデは、12節に「主を畏れることを教えよう」と言いました。そして1322節のダビデの教えに、若者たちが従って生きるのであれば、若者たちは「主を畏れて生きる」ことになり、人生を楽しむことができるのです。

 

23節は、ダビデが彼と共に主なる神を礼拝し、賛美する神の民の祝福を歌っています。「主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は 罪に定められることがない。」

 

ダビデは、この詩編を通して、若者たちに語りかけています。若者たちに、主なる神に祝福されて、あなたの人生を楽しむように勧めています。そして、ダビデは、その人生を決定的に左右するのは、「主を畏れる」ことであると述べ、「主を畏れることを教えよう」と歌っています。彼が教える「主を畏れる」とは、具体的には神の律法を守ることです。若者たちが神を愛し、隣人を愛して、舌の悪から遠ざかり、善を行い、平和を求めるならば、幸いな人生を生きることができると、ダビデは歌っているのです。

 

しかし、ダビデは、知っています。若者は、誤り多い人生を生きることを。この世を生きる若者たちに、罪と苦難は避けられません。その時にダビデは、若者たちに勧めるのです。謙る、心の貧しい者となれと。なぜなら、ダビデは、「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる」からだと歌っています。心が自らの罪に打ち砕かれた者に、主なる神は寄り添ってくださるからです。その者を、主が救ってくださるからです。

 

ダビデは、その主なる神の恵み深さを、若者たちと共に、心の貧しい者と共に主を礼拝し、賛美することを通して味わい見ようと呼びかけています。それは、主が主の僕たち、神の民の魂を贖ってくださるというすばらしい恵みです。

 

ダビデは、わたしたちのようにキリストの十字架の贖いがはっきりと見えてはいません。しかし、神の幕屋における動物犠牲によって、キリストの十字架の贖いを見ていたのです。羊やハトを主なる神に、自分たちの罪の贖いの犠牲としてささげることを通して、ダビデと共に礼拝をする貧しい人々は、主なる神の罪の赦しの恵みにあずかりました。

 

味わい、見よ、主の恵み深さを。それは、ダビデと共に神礼拝にあずかるすべての者が、キリストの十字架の贖いによって、罪を赦されるという恵みです。もうわたしたちは、神にキリストのゆえに罪に定められることがない。この恵みこそ人生を神の祝福の中に楽しむことです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩編34篇を通して、礼拝の恵みを学ぶことができて感謝します。ダビデは、共に主なる神を礼拝し、賛美しようと主の恵みに招いてくれました。主を礼拝し、賛美し、御言葉の説教を聞き、洗礼と聖餐の恵みにあずかり、献金をささげ、そのことを通してわたしたちもダビデが「味わい、見よ、主の恵み深さを」と歌っている主の恵みを体験させてくださり、心より感謝します。どうか、契約の子たちが、信者の子供たちが、わたしたちの国の若者たちが、主を畏れることを学び、人生を神の祝福の内に楽しむことができるようにお導きください。そのためにわたしたちの教会が若者たちや子供たちにキリストの福音を伝える機会をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。御言葉を聴きますわたしたちの耳と心を開き、詩人の御苦しみを理解し、その信仰に共感させてください。そして詩編の御言葉を通して語られる主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 詩編説教035                  主の2013825

 

 

 

  ダビデの詩。                 ダビデの

 

主よ、わたしと争う者と争い       争いたまえ、主よ、わたしと争う者たちと

 

わたしと戦う者と戦ってください。    戦いたまえ、わたしと戦い者たちと

 

大盾と盾を取り             とりたまえ、盾と大盾を

 

立ち上がってわたしを助けてください。  立ち上がりたまえ、わたしを助けるために

 

わたしに追い迫る者の前に        抜きたまえ、槍を。閉じ込めたまえ、わたし

 

槍を構えて立ちふさがってください。   を追う者たちに向かって。

 

どうか、わたしの魂に言ってください。  言いたまえ、わたしの魂に

 

「おまえを救おう」と。          「わたしこそおまえの救い」

 

 

 

わたしの命を奪おうとする者は      恥をかくように、また辱められるように

 

  恥に落とされ、嘲りを受けますように。 わたしの魂を求める者たちが

 

わたしに災いを謀る者は          彼らが退くように、後ろに。また辱められ

 

辱めを受けて退きますように。   るように。わたしの災いを考えている者たちが

 

風に飛ぶもみ殻となった彼らが     彼らが風の前のもみ殻であるように

 

主の使いに追い払われますように。 そして主の天使が押しやる。

 

道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに 彼らの道が闇、また滑り易い所であるように。

 

  主の使いが追い迫りますように。   また主の天使が彼らを追う者

 

彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り なぜなら理由なく彼らは隠した、わたしのた

 

わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。めに落とし穴の中に彼らの網を。理由な

 

                     く彼らは深く掘った。わたしの魂に対して。

 

どうか、思わぬ時に破滅が臨み    彼に来るように、彼の知らない滅びが。

 

彼らが自ら張った網に掛かり     そして彼の網が彼の隠した所の彼を捕えるように。

 

破滅に落ちますように。       滅びの中に彼が落ちるように、その中に。

 

わたしの魂は主によって喜び躍り   そしてわたしの魂は主にあって喜び躍る。

 

御救いを喜び楽しみます。      喜び楽しむ、彼の救いによって。

 

わたしの骨はことごとく叫びます。  すべてのわたしの骨は言う。

 

「主よ、あなたに並ぶものはありません。  「主よ、だれが、あなたのように。

 

貧しい人を強い者から          貧しい人を彼よりも強い者から救い出す方

 

貧しく乏しい人を搾取する者から     貧しい人と極貧の人を、彼を強奪する者から

 

  助け出してくださいます。」

 

 

 

不法の証人が数多く立ち、わたしを追求しますが  立ち上がる、暴虐の証人たちは

 

わたしの知らないことばかりです。 私が知らないところの事を、彼らはわたしに尋ねる

 

彼らはわたしの善意に悪意をもってこたえます。 彼らはわたしに報いる、善い事の代わ

 

                       りに悪事を。

 

わたしの魂を滅ぼそうとして、子供を奪いました。 子を失った者 わたしの魂にとって

 

彼らが病にかかっていたとき  しかしわたしは彼らが病んだ時、わたしの衣、粗布が

 

わたしは粗布をまとって断食をし、魂を苦しめ わたしは苦しめた、断食でわたしの魂を。

 

胸の内に祈りを繰り返し  そしてわたしの祈りはわたしの懐の上に帰って来る。

 

彼らの友、彼らの兄弟のとなり わたしの親友と兄弟のように、わたしは歩き回った。

 

母の死を悼む子のように嘆きの衣をまとい 母も喪に服する者のように、曇らす。

 

うなだれて行き来したのに   わたしはうなだれた。

 

わたしが倒れれば彼らは喜び、押し寄せます。わたしが足を引きずる時、彼らは喜ぶ。

 

わたしに向かって押し寄せ  彼らは集まる。わたしに対して集まった。打つ者たちは。

 

わたしの知らないことについてわたしを打ち しかしわたしが知らない

 

とめどもなく引き裂きます。 彼らは裂いた。そして黙さなかった。

 

神を無視する者がわたしを囲んで嘲笑い 不敬な言葉で嘲笑する者たちは、菓子を

 

わたしに向かって歯をむき出します。 歯軋りする、わたしに対して、彼らの歯を

 

 

 

主よ、いつまで見ておられるのですか。 わが主よ、どのぐらいあなたは見る。

 

彼らの謀る破滅から    返したまえ、わたしの魂を、彼らの破滅から。

 

わたしの魂を取り返してください。

 

多くの若い獅子からわたしの身を救ってください。  若い獅子たちからわたしの唯一のものを

 

優れた会衆の中であなたに感謝をささげ わたしはあなたに感謝する、大きな会衆の中で

 

偉大な民の中であなたを賛美できますように。強大な民の中でわたしはあなたを賛美する。

 

敵が不当に喜ぶことがありませんように。 わたしについて喜ばないように、偽りのわたしの敵が

 

無実なわたしを憎む者が  理由なくわたしを憎む敵たちが

 

侮りの目で見ることがありませんように。 片目をつむる。

 

彼らは平和を語ることなく  なぜなら、平安を彼らは語らない。

 

この地の穏やかな人々を欺こうとしています。地の穏やかな人たちに対して欺瞞の言葉を、彼らは考える。

 

わたしに向かえば、大口を開けて嘲笑い  彼らは広げる、わたしに対して彼らの口を

 

「この目で見た」と言います。 彼らは言う。「はあー、はあーわれらの目を見た。」

 

 

 

主よ、あなたは御覧になっています。 あなたは見る、主よ。

 

沈黙なさらないでください。 沈黙しないでください。

 

わたしの主よ、遠く離れないでください。 わが主よ、遠ざかり給うな、わたしから。

 

わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし 目覚め、奮起したまえ、わが裁きのために

 

起き上がり、わたしのために裁きに臨み わが神、またわが主よ、わたしの争いのために。

 

わたしに代わって争ってください。

 

主よ、わたしの神よ

 

あなたの正しさによって裁いてください。 わたしを裁きたまえ、あなたの義に従って

 

敵が喜んで  また彼らが喜ばないように、わたしについて。

 

「うまく行った」と心の中で言いませんように。彼らが言わないように、彼らの心の中で

 

                      「あはーわれらの魂は」

 

「ひと吞みにした」と言いませんように。彼らが言わないように、「我らは彼を呑み込んだ」

 

苦難の中にいるわたしを嘲笑う者が  共に恥をかくように、辱められるように。わたし

 

  共に恥と嘲りを受け     の災難を喜ぶ者たちが。彼らが恥と辱めを着るように。

 

わたしに対して尊大にふるまう者が  わたしに向かって大きなことを言う者たちが

 

  恥と辱めを衣としますように。

 

わたしが正しいとされることを望む人々が  歓喜するように、また喜ぶように。わたし

 

  喜び歌い、喜び祝い          の義を愛する者たちが

 

絶えることなく唱えますように そして彼らが常に言うように

 

「主をあがめよ   「主が大きくなるように。

 

  御自身の僕の平和を望む方を」と。 彼の僕の平安を愛する方

 

わたしの舌があなたの正しさを歌い そしてわたしの舌があなたの義を口ずさむように。

 

絶えることなくあなたをさんびしますように。 一日中あなたの賛美を

 

               詩編第35128

 

 

 

説教題:「不当に訴えられた者の祈り」

 

 今朝は、ダビデの詩編35篇の御言葉を学びましょう。

 

 この詩編35篇のダビデの詩は、ダビデが「無実な(理由なく)わたしを憎む者」の攻撃に苦しめられた時に祈った詩編であります。

 

 少し長い詩ですが、まず110節がひとつのまとまった祈りです。ダビデの敵たちがだれであるかは定かではありません。ただダビデの身近にいる者と思われます。14節にダビデは「彼らの友、彼らの兄弟となり」、彼らのために「母の死を悼む子のように」悲しみ嘆いたと告白しています。敵は、ダビデの同胞の民です。19節に敵のことをダビデが、「無実なわたしを憎む者」と言っていますが、「無実な」というヘブライ語は、「理由なく」「ゆえなく」という言葉です。ダビデは敵に憎まれる理由がありません。敵は、不当にダビデを訴え、攻撃し、彼の命を狙い、苦しめているのです。

 

 そこでダビデは、13節に敵が不当にダビデを訴え、攻撃することに対して主なる神がダビデに代わり敵と争ってくださるようにと懇願しています。

 

 「主よ、わたしと争う者と争い わたしと戦う者と戦ってください。大盾と盾を取り             

 

立ち上がってわたしを助けてください。わたしに追い迫る者の前に 槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください。『おまえを救おう』と。」

 

 ダビデは、まるで主なる神に「わたしの救いのための戦いに出陣してください」と祈り求めているようですね。

 

 続いてダビデは48節に主なる神が敵を滅ぼされることを願って、次のように祈ります。「わたしの命を奪おうとする者は 恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は 辱めを受けて退きますように。風に飛ぶもみ殻となった彼らが 主の使いに追い払われますように。道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに 主の使いが追い迫りますように。彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。どうか、思わぬ時に破滅が臨み 彼らが自ら張った網に掛かり 破滅に落ちますように。」

 

 ダビデは、彼を不当に訴えて、彼を攻撃し、迫害する敵が主なる神と主の御使いによって滅ぼされるようにと祈りました。

 

 そしてダビデは、続いて910節にダビデは救われた喜びを先取りし、貧しい人を助ける主なる神を称え賛美しています。

 

 「わたしの魂は主によって喜び躍り 御救いを喜び楽しみます。わたしの骨はことごとく叫びます。『主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から 貧しくともしい人を搾取する者から 助け出してくださいます。』

 

 ダビデは、「主よ、あなたに並ぶものはありません」と、主なる神の卓越性を告白し、その主なる神の卓越性を、主なる神が貧しい人々を救われることに結びつけています。強い者たちは、貧し者、弱い者から搾取します。昔エジプトの王パロがイスラエルの民を奴隷として搾取したとき、主なる神がその卓越性によってイスラエルの民をエジプトの地から救い出し、助け出してくださいました。

 

 11節から18節が、ダビデの第2の一つのまとまった祈りです。11節にダビデが主なる神に「不法の証人が数多く立ち、わたしを追求しますが わたしの知らないことばかりです」と告白しています。「不法の証人たち」とは、「暴虐な証人たち」のことです。モーセを通して主なる神は、イスラエルの民に次のようにお命じになりました。出エジプト記231節です。「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない」と。敵は、偽証をする証人たちでした。彼らは、ダビデの善意を、悪意をもって応えました。その敵たちのダビデに対する攻撃と嘲りに、ダビデは自分のつまずきと同胞の敵たちの迫害を、主なる神に嘆き、その破滅からの救いを祈り求めています。

 

 ダビデは、1116節に自分のつまずきと同胞の者たちの迫害を次のように主なる神に嘆いています。「不法の証人が数多く立ち、わたしを追求しますが わたしの知らないことばかりです。彼らはわたしの善意に悪意をもってこたえます。わたしの魂を滅ぼそうとして、子供を奪いました。彼らが病にかかっていたとき わたしは粗布をまとって断食をし、魂を苦しめ 胸の内に祈りを繰り返し 彼らの友、彼らの兄弟のとなり 母の死を悼む子のように嘆きの衣をまとい うなだれて行き来したのに わたしが倒れれば彼らは喜び、わたしに向かって押し寄せ わたしの知らないことについてわたしを打ち とめどもなく引き裂きます。神を無視する者がわたしを囲んで嘲笑い わたしに向かって歯をむき出します。」

 

 ダビデは、同胞の敵たちに対して善意を差し伸べたのに、彼らは理由もなく悪意を返して来ました。同胞の敵たちが病を負えば、ダビデはその病苦に友として、兄弟として同情しました。母の死を悼む子のように、断食して苦しみを共にしました。ところが、ダビデが病気になり、苦難に遭い、つまずきますと、彼らは理由もなく悪意を返してきました。ダビデに同情を示すどころか、獲物を狙う獣のように、ダビデを嘲り、彼を迫害しました。

 

ダビデは、17節に主なる神の御救いを祈り求めています。「主よ、いつまで見ておられるのですか。彼らの謀る破滅から わたしの魂を取り返してください。多くの若い獅子からわたしの身を救ってください。」

 

つまずき、人生の困難の中にあるダビデを、よく知っている敵たちが、日ごろの親切に対して仇で返すのです。人生につまずいたダビデを、彼らは嘲るのです。その絶望の中からダビデは、主なる神に救いを求めました。

 

そして、ダビデは、主なる神に18節に主なる神の御救いを先取りし、次のように賛美しました。「優れた会衆の中であなたに感謝をささげ、偉大な民の中であなたを賛美できますように。」

 

主なる神の御救いを願っているダビデが心から希望していることは、公の場で神の民イスラエルと共に主なる神を礼拝し、賛美することです。主イエスが12弟子たちとわたしたちにお教えくださった主の祈りの第一の祈願、「御名をあがめさせたまえ」ということを、ダビデは祈っています。

 

最後に1928節がダビデの第3のまとまった祈りです。ダビデは、主なる神に敵たちがダビデを不当に訴え、ダビデを嘲っていることに対して主なる神が正義に基づいて、ダビデに代わって敵を裁かれるように祈っています。

 

ダビデは、主なる神に1921節に次のように嘆き、訴えます。「敵が不当に喜ぶことがありませんように。無実なわたしを憎む者が 侮りの目で見ることがありませんように。彼らは平和を語ることなく、この地の穏やかな人々を欺こうとしています。わたしに向かえば、大口を開けて嘲笑い 『この目で見た』と言います。」

 

偽りの証人である敵が、暴虐な証人として、ダビデを不当に訴えています。ダビデには訴えられる理由を見出すことはできません。彼らは、ダビデを無実の罪で訴えているのです。彼らの横暴さを、ダビデは主なる神に嘆いているのです。

 

ダビデは、主なる神に2226節に次のように祈り求めています。「主よ、あなたは御覧になっています。沈黙なさらないでください。わたしの主よ、遠く離れないでください。わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし 起き上がり、わたしのために裁きに臨み わたしに代わって争ってください。主よ、わたしの神よ あなたの正しさによって裁いてください。敵が喜んで 『うまく行った』と心の中で言いませんように。『ひと吞みにした』と言いませんように。苦難の中にいるわたしを嘲笑う者が 共に恥と嘲りを受け わたしに対して尊大にふるまう者が 恥と辱めを衣としますように。」

 

ここでダビデは、主なる神に主御自身がダビデの目撃者として、ダビデに代わって彼らと争うことを願っています。そして、ダビデは主なる神が、御自身の義にふさわしく裁きをなし、敵たちが偽りの証言によって勝ち誇ることないようにしてくださいと祈ります。そして、ダビデは主なる神に彼らがダビデを不当に訴えていることを挫折させてくださいと祈っています。

 

ダビデの祈りを、主なる神は聞き届けてくださったのでしょうか。ただダビデは、この詩編の最後を、主なる神への賛美で閉じているのです。2728節です。「わたしが正しいとされることを望む人々が 喜び歌い、喜び祝い 絶えることなく唱えますように 『主をあがめよ 御自分の僕の平和を望む方を』と。わたしの舌があなたの正しさを歌い 絶えることなくあなたを賛美しますように。」

 

ダビデは、主なる神の義を、それを望む神の民たちが絶えず賛美すると歌っています。主なる神の義が真の神と人との間に平和をもたらすのです。主なる神は、しもべである神の民に御自身の義による平和を望まれるお方です。

 

主イエスが詩編3519節の御言葉を、御自身に当てはめて次のように12弟子たちに告げられています。ヨハネによる福音書の1525節です。その主イエスの御言葉は、主イエスが12弟子たちにお別れの説教をなさり、この世が主イエスの弟子たちを憎み迫害するという予告をなさったときに語られました。その時に主イエスは12弟子たちに言われました。「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」

 

主イエスは、父なる神が神と人との平和のために遣わされたメシアでした。神の一人子の主イエスが、肉体を取り、この世に遣わされました。そして、主イエスは、同胞のユダヤ人たちに、そしてローマ人の異邦人たちに理由もなく憎まれました。サンヘドリンとローマ総督ピラトの裁判において不当な訴えによって十字架の処刑を受けられました。主イエスは、同胞のユダヤ人たちと異邦人たちに善意をお示しになり、病める者をいやされました。しかし、ユダヤ人も異邦人も主イエスが捕えられ、裁判にかけられると、悪意をもって報いました。十字架の死に至るまで、彼らは主イエスに偽りの証言をし、主イエスを嘲りました。

 

しかし、キリストの十字架によって父なる神は、人類の罪を裁かれました。そして、主イエスが復活し、主イエスはここでダビデが預言している神の民の集会に、主の御名をほめたたえる礼拝にわたしたちを招いてくださっています。

 

そしてダビデのように、礼拝に招かれ、主の御名を誉め称える神の民は、23節にダビデが「わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし 起き上がり、わたしのために裁きに臨み わたしに代わって争ってください」と祈りましたダビデの祈りを、わたしたち神の民の祈りを、キリストが十字架の上で実現されたのだと知らされるのです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩編35篇を通して、十字架のキリストを仰ぎ見る恵みを与えられ、感謝します。ダビデの苦しみを、キリストの苦しみと諭され、ダビデと共に今主なる神を礼拝し、賛美できる幸いを感謝します。

 

9月に新しいプログラムによってわたしたちの教会は、主を礼拝し、賛美しようとしています。詩編は、この35篇を学びましたように、わたしたちにキリストの御心とその御救いを豊かに教えてくれる神の民の賛美です。どうか礼拝が豊かになるように、わたしたちが御言葉の説教を聞き、洗礼と聖餐の恵みにあずかり、献金をささげ、主に奉仕すると共に、詩編歌や詩編の讃美歌を歌い、主イエス・キリストの恵みにあずからせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。