詩編説教041                  主の2014223

 

 

 

     指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。  指揮者による 賛歌 ダビデの

 

いかに幸いなことでしょう。           幸いだ。

 

  弱いものに思いやりのある人は。       弱い者に対して賢くある者は。

 

災いのふりかかるとき              災いの日に

 

  主はその人を逃れさせてくださいます。    彼を救い出す、主は。

 

主よ、その人を守って命を得させ         主は彼を守る、そして彼を生かす。

 

この地で幸せにしてください。          彼は祝福される、地において。

 

貪欲な敵に引き渡さないでください。    彼を渡したまわない、彼の敵の心のままに。

 

主よ、その人が病の床にあるとき、支え   主は、病気の床の上で彼を支える。

 

力を失って伏すとき、立ち直らせてください。彼の病の中で彼の病気を全快させる。

 

 

 

わたしは申します。               わたしは言う。「主よ、わたしを

 

「主よ、憐れんでください。           憐れみ わたしの魂を癒してくだ

 

あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」  さい。わたしはあなたに罪を犯した。」

 

敵はわたしを苦しめようとして言います。   わたしの敵は、わたしに悪(災い)を言う。

 

「早く死んでその名も消え失せるがよい。」「彼はいつ死に、彼の名はいつ消え失せるのか」

 

見舞いに来れば、むなしいことを言います。 見舞いに来るとき、空しいことを語る。

 

心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。心に邪悪を集め、外に出て、語る。

 

わたしを憎む者は皆、集まってささやき すべてわたしを憎む者は、共にわたしについて

 

わたしに災いを謀っています。   ささやき、わたしに災いを考える。

 

「呪いに取りつかれて床に就いた。「彼はたたりにあい、それで病気になったのだから、

 

二度と起き上がれまい。」    もうふたたび立ち上がれない。」

 

わたしの信頼していた仲間  わたしが依り頼んだわたしの平安の人(一番親しい友)

 

わたしのパンを食べる者が  わたしのパンを食べる者が

 

  威張ってわたしを足げにします。 わたしに向かってかかとを大きくした。

 

 

 

主よ、どうかわたしを憐れみ  しかし、主よ、わたしを憐れみ

 

再びわたしを起き上がらせてください。 そしてわたしを起こしてください。

 

そうしてくだされば  すると

 

  彼らを見返すことができます。  わたしは彼らに報いよう。

 

そしてわたしは知るでしょう   これによってわたしは知る。

 

わたしはあなたの御旨にかなうのだと  あなたがわたしを愛することを

 

敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。敵がわたしに向かって勝ち誇らないことを

 

どうか、無垢なわたしを支え  わたしの完全さのゆえに あなたはわたしを支え

 

とこしえに、御前に立たせてください。 永遠にわたしを御前に立たせたまいます。

 

主をたたえよ、イスラエルの神を     ほむべきかな、イスラエルの神、主は。

 

世々とこしえに。        永遠から永遠まで

 

アーメン、アーメン。    アーメン、アーメン。

 

              詩編第41114

 

 

 

説教題:「弱い者に思いやりがある人」

 

今朝は、詩編第41篇114節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

わたしたちは、異教と世俗化の世界に生きています。ダビデは、聖書の世界に、すなわち、主なる神と神々の世界に生きています。

 

 

 

わたしたちは、病気になっても、その原因を、自分が神に罪を犯したからであるとは思わないでしょう。今インフルエンザが流行しています。今自分がかかれば、それはウィルスという病原菌が原因であると思うでしょう。

 

 

 

それでも、病状が重くなり、医者の手に負えないと知りますと、人を越えた存在に、すなわち、神や神々に無関心な人も、助けを祈るのです。

 

 

 

ダビデは、呪いやたたりの世界に生きております。主なる神を信じる神の民イスラエルは、魔術師、霊媒師、夢占い師たちが活躍する世界に生きています。

 

 

 

主なる神の御声を聞けなくなりましたサウル王は、霊媒の女、すなわち、口寄せの女を通してサムエルを死者の世界から呼び出すという大きな罪を犯しました(Ⅰサムエル記28)

 

 

 

詩編41篇は、魔術的な世界、呪いやたたりが人々の心を支配する世界を背景にしています。ダビデは、主なる神への信仰によって、魔術的な世界と戦っているのであります。

 

 

 

今ダビデは、病気で床に伏せっています。3節後半から5節、11節前半に、次のようにダビデは、歌っています。

 

 

 

「貪欲な敵に引き渡さないでください。主よ、その人が病の床にあるとき、支え 力を失って伏すとき、立ち直らせてください。わたしは申します。『主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。』」「『主よ、どうかわたしを憐れみ 再び起き上がらせてください。』」

 

 

 

ダビデは、自分の病気の原因を、自分が主なる神の御前に犯した罪であると告白しています。そしてダビデは、主なる神が彼を憐れみ、病を癒されるように祈り求めています。

 

 

 

ダビデは、病気の苦しみに加えて、ダビデの敵に苦しめられています。

 

 

 

それゆえダビデは、主なる神に3節後半に「貪欲な敵に引き渡さないでください」と祈っています。

 

 

 

「貪欲な敵」とは、ダビデが歌っているままに言い表しますと、「敵の心のままに引き渡さないでください。」であります。

 

 

 

「心」は、イスラエルの神の民にとって、人の魂の力の座であります。ダビデの敵が、その心のままに願うならば、ダビデは敵の力の下に立たされます。すなわち、敵にダビデは屈服しなければなりません。

 

 

 

それを防ぐことができる唯一のものは、主なる神の御力であります。ですから、ダビデは、主なる神にのみ依り頼み、祈るのであります。

 

 

 

5節と6節とをみてください。ダビデは、彼の言葉と敵の言葉を並べています。それによってダビデは、主なる神への信仰に立って、敵の魔術的な力と戦っていることを明らかにしているのです。

 

 

 

敵は、ダビデを魔術的な力によって呪い殺そうとしています。

 

 

 

6節に敵がダビデを苦しめる呪いを語っていますね。「早く死んでその名も消え失せるがよい。」

 

 

 

古代の人々は、呪いの言葉が力を持つと信じていました。

 

 

 

現代のわたしたちは、言葉の力を信じていません。

 

 

 

ダビデは、7節に敵はダビデを見舞い、「むなしいこと」を言いますと歌っていますね。続けて「心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします」と歌っています。

 

 

 

「むなしいこと」とは、呪文のことであります。6節の「早く死んでその名も消え失せるがよい」も、敵の呪文であります。

 

 

 

7節に「悪意」という言葉がありますね。それは「邪悪」であります。「満たし」とは「集める」ことであります。

 

 

 

7節は、ダビデが次のように歌っているのです。敵が見舞いに来れば、彼らは心の中で呪文を唱え、魔法を使い、そして病室を出て外に行けば、ダビデへの呪いの言葉を口にしていると。

 

 

 

さらに敵たちは、ダビデを憎み、共に集まってささやき、ダビデに災いを謀っています。そして、敵たちは、ダビデが彼らの呪いに取りつかれて、2度と回復しないだろうと、口にしているのであります(89)

 

 

 

敵たちは、呪文と魔術によって病めるダビデを彼らの支配下に置こうとしました。

 

 

 

だから、ダビデは主なる神に敵の呪いから救い出してくださいと祈りました。

 

 

 

実際に3節後半でダビデは、「貪欲な敵に引き渡さないでください」と祈りました。

 

 

 

4節でダビデは、「主よ、その人が病の床にあるとき、支え 力を失って伏すとき、立ち直らせてください」と祈りました。

 

 

 

ダビデは、自分のことを、神の民の祈りとして、ここで祈ります。彼は、病人である神の民が全快を神に祈るように、「病の床を全部ひっくり返してください」と祈りました。

 

 

 

4節の御言葉は、主イエスが、中風の者を癒された場面を思い起こさせないでしょうか。主イエスが中風の者の罪を赦され、彼に「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と命じられました。中風の者は癒されると、起き上がり、床を担いで家に帰りました(マタイ918)

 

 

 

10節のダビデの御言葉は、ダビデの深い心の嘆きであります。ダビデの親しい友の裏切りを歌っています。

 

 

 

王の相談役であり、ダビデが心から信頼していたアヒトフェルのことではないかと、考えられています(Ⅱサムエル記17)

 

 

 

「わたしの信頼していた仲間」を、ダビデは「わたしのシャーロームの人」と歌っています。

 

 

 

「シャーローム」は、平和、平安を意味します。この言葉が、旧約聖書の中で典型的に表しているのは、主なる神との契約関係によって共有するに至る生命であります。主なる神と共に生きる永遠の命であります。それが「シャーローム」であります。

 

 

 

「わたしのパンを食べる者」は、同じパンを食べる者のことであります。命を共にする者であります。

 

 

 

彼は、これまでイスラエルの民を、そして諸国の敵をダビデの力の下に服従させることに、ダビデに協力してきました。しかし、今はダビデの敵となりました。彼は、ダビデの命を消し去るために全力を尽くしているのです。

 

 

 

「威張ってわたしを足げにします」とは、具体的に何であるか、分かりません。敵となった者が、何か魔術的な力を用いて、全力でダビデを主なる神から引き離そうとしている姿を、ダビデが歌ったのでしょうか。

 

 

 

主イエスは、そのダビデの御言葉を、「わたしについての預言であり、今それが実現した」と言われました。その時主イエスは、12弟子たちと最後の晩餐をなさっていました。主イエスは12弟子たちの足を洗われました。その後主イエスと12弟子たちは食事をしました。そこで主イエスは、12弟子たちに言われました。「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」(ヨハネ138)と。主イエスは、12弟子の中から一人、裏切り者が出ると予告されました。主イエスのお言葉の通りに弟子のユダが主イエスに洗っていただいたかかとをあげて、主イエスを裏切りました。

 

 

 

ダビデは、主なる神に11節で憐れみを求めて、病気の回復を祈ります。それは、敵への報復となるからであります。

 

 

 

敵は、呪文という魔術によって、ダビデに災いを及ぼし、ダビデの病気を引き延ばし、死に至らしめようとしています。

 

 

 

それに対してダビデは、主なる神の御力に頼り、敵の魔術的な力に対抗しています。ダビデは、敵の呪いの言葉に対して主なる神への祈りの言葉で対抗しています。

 

 

 

ダビデは、主なる神の御力に信頼し、祈りを通して、彼は次のことを知り、確信したと歌っています。

 

 

 

12節です。「そしてわたしは知るでしょう。わたしはあなたの御旨にかなうのだと 敵がわたしに勝ち誇ることはないと。」

 

 

 

ある人は、次のように訳しています。「わが敵がわたしに災いを及ぼしえないことで あなたがわたしを受け入れ給うことを知ります。」(関根正雄)

 

 

 

ダビデは、彼の祈りを主なる神が聞き届けてくださる確信を歌っています。ダビデがそれによって知ったこと、確信したことは、ダビデに対する神の愛であります。

 

 

 

敵たちの災いがダビデに及ばないことで、ダビデは主なる神がどんなに彼を愛されたか、を知りました(ローマ83139)

 

 

 

ですから、13節でダビデは、主なる神に次のように祈ることができました。

 

 

 

「どうか、無垢なわたしを支え とこしえに、御前に立たせてください。」

 

 

 

 「無垢なわたしを」というダビデの言葉で、旧約聖書の族長ノアとヨブを思い起こします。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった」(創世記69)

 

 

 

「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」(ヨブ記11)

 

 

 

無垢な人は、主なる神との関係に分裂のない人のことを言い表しています。そして、ダビデもノアもヨブも、無垢な人であるのは、主なる神が彼らを支えられたからでありました。

 

 

 

ダビデもノアも、ヨブも、この世の苦難の中で主なる神から引き離されそうになりながら、必死に主なる神に身を寄せています。

 

 

 

それは、主なる神が摂理の御業を通してダビデとノアとヨブを支えられたからであります。

 

 

 

それをダビデは、知るゆえに、主なる神に祈るのであります。「主なる神よ、あなたとの関係を離れないわたしを支え、とこしえに御前に立たせてください。」と。

 

 

 

どんなことがあっても、神を礼拝することを離れない。常に主なる神の御前に立ち続け、主なる神を礼拝し続ける。これが、ダビデの信仰のリアリティーでありました。

 

 

 

このダビデの信仰から13節前半の御言葉を理解すれば、次のように理解できないでしょうか。

 

 

 

幸いとは、とこしえに主なる神の御前に立ち続ける人の幸いであります。

 

 

 

ダビデは、その幸いを、「弱いもの」に思いやりのある人に発見したのであります。

 

 

 

「弱いもの」とは、主イエスが幸いである人と言われた「心の貧しい者」であります。主なる神以外に信頼する者がない人であります。

 

 

 

この詩編のダビデのように主なる神にのみ信頼し、どこまでも主なる神にのみ助けを祈り求める人です。

 

 

 

族長ヤコブのような人です。故郷に家族を連れて帰ろうとしましたが、兄のエソウの復讐を恐れておりました。ペヌエルで主なる神の御使いが現れ、彼と相撲を取りました。夜明けになり、御使いが離れようとしましたが、ヤコブは御使いに「祝福してくださるまでは離しません」と言いました。

 

 

 

旧約聖書を読み、そしてダビデの詩編を学び、教えられることは、旧約聖書の神の民たちの信仰は、主なる神にどこまでも固着することであります。

 

 

 

主なる神にのみ頼る人は、弱いものであります。しかし、旧約聖書の神の民たちは、次のことを証ししてきました。主なる神のみを信頼する弱いものを、主なる神が守り支えてくださったことを、そしてこの世のあらゆる災いと誘惑からかれらを逃れさせてくださったことを、この世において、そして永遠に幸いな命を、彼らにお与えくださることを。

 

 

 

ですから、ダビデが証言するように「弱いものを思いやる人」は幸いであります。彼もまた、弱いものと共に、主なる神にのみ信頼し、主なる神の守りと支えの中で、この世を主なる神と共に、主なる神に愛され、助けられ、生きることを許されているからです。

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩編41篇を通して、「弱いものを思いやる人」の幸いを学ぶことができたことを感謝します。

 

 

 

ダビデとわたしたちの時代は異なります。聖書の世界とわたしたちの住んでいる世界も異なります。しかし、主なる神は、いつの時代も、どこの国でも、主なる神にのみ信頼する「弱いもの」を守り、助け、救われます。

 

 

 

どうかわたしたちもこの世において災いがあり、誘惑があり、試練がありますが、ダビデと同じようにわたしたちの主イエス・キリストのみに頼り、救いと助けを祈り求め、主なる神の御前に立ち続けさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 詩編説教042                  主の2014年2月23日

指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。 指揮者による マスキール コラの子ら
涸れた谷に鹿が水を求めるように   鹿のように慕いあえぐ、乾いた河床の水を
神よ、わたしの魂はあなたを求める。このようにわたしの魂も慕いあえぐ、あなたに神よ。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く     渇く、わたしの魂は、神に、生ける神に
いつ御前に出て               いつ、わたしは行って
  神の御顔を仰ぐことができるのか。   そして、わたしは見るだろう、神の御顔を
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。彼らが一日中わたしに向かって
人は絶えまなく言う    「どこか、お前の神は」と言い続ける間、
「お前の神はどこか」と   昼も夜もわたしの涙がパンであった。

わたしは魂を注ぎだし、思い起こす。これらを今思い起こし、わたしの内に魂を注ぎ出す
喜び歌い感謝をささげる声の中を  かつてわたしは喜びと賛美の声をあげ
  祭りに集う人々の群れと共に進み 祭りを祝う多くの人々と共に
神の家に入り、ひれ伏したことを。   神の家へと入った。

  なぜうなだれるのか、わたしの魂よ  なぜ うなだれる わたしの魂よ
  なぜ呻くのか。 また思い乱れる、わたしのことで
  神を待ち望め。  待ち望め、神を。
  わたしはなお、告白しよう  なぜなら なお わたしは彼に感謝(告白)する
  「御顔こそわたしの救い」と。   わたしの顔の救い
  わたしの神よ。        わたしの神よ
 
わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。わたしの内にわたしの魂はうなだれる。
ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から それゆえ、わたしはあなたを思い起こす。
                                          ヨルダンの地から、ミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえ あなたの激流の音によって、
深淵は深淵に呼ばわり        淵は淵に呼びかけ。
砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。すべてのあなたの大波とあなたの波は、わた
                                        しの上を越えた。
昼、主は命じて慈しみをわたしに送り  昼間に主は命じる、彼の慈しみを。
夜、主の歌がわたしと共にある  また夜には、彼の歌がわたしと共に
  わたしの命の神への祈りが   わたしの命の神への祈りが
 
わたしの岩、わたしの神に言おう。  わたしは言おう、わたしの岩なる神に
「なぜわたしをお忘れになったのか。なぜ あなたはわたしを忘れられたのか。
なぜ、わたしは敵に虐げられ  なぜ、顔を暗くして、わたしは歩く、敵の圧迫の中で
  嘆きつつ歩くのか。」
わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き わたしの骨を打ち砕くほどに、わたしの敵たち
絶え間なく嘲って言う。        がわたしを辱める。彼らがわたしに一日中言う。
「お前の神はどこにいる」と。    「どこか、お前の神は」
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。 なぜうなだれる、わたしの魂よ。
なぜ呻くのか。 またなぜ思い乱れる、わたしのことで。
神を待ち望め。 神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう なぜなら、なおわたしは彼に感謝(告白)する。
「御顔こそ、わたしの救い」と。 わたしの顔の救い
わたしの神よ。 わたしの神よ。
                                      詩編第42篇1-12節

説教題:「神をしたい、あえぐ」
今朝より詩編の第2巻を学びましょう。昔詩編の書物は巻物でした。詩編は5巻の巻物であり、第2の巻物に、42-72篇の詩編が収められていました。

言い伝えによると、詩編の第2巻には南ユダ王国のヒゼキヤ王が神殿で使用するために編集した特別の詩編が含まれています。

詩編の第2巻は、詩編42篇においてエルサレム神殿で仕えていたレビ人が敵の虐げにより、エルサレム神殿を追放され、その苦しみと悲しみの深みからの「叫び」から始まり、72篇のソロモン王の詩編で、すなわち、主なる神が贖われた民を、王が支配することを賛美して終わっています。

さて、今朝の詩編42篇と、次の43篇は、本来一つの詩編でありました。詩編42篇6節と12節に繰り返された賛美が、詩編43篇5節に繰り返されています。それから、詩編42篇に表題がありますが、詩編43編にはありません。賛美の内容も変わりません。ですから、本来一つの詩編であったものを、詩編が今日の形に編集されたときに、二つの詩編に分けられたのでしょう。

詩編42篇と43篇の詩人は、表題にあります「コラの子」であります。

「コラ」は、族長ヤコブの12人の息子の中の一人、レビの子孫であります。レビには3人の息子が与えられました。ゲルションとケハトとメラリです。そして、ケハトに4人の息子が与えられました。アムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルであります。そして、イツハルに3人の息子が与えられました。コラとネフェグとジクリであります。

この「コラ」の子孫たちがこの詩編42篇から49篇の作者であります。

旧約聖書を読みますと、レビの子孫たちは、出エジプトの時に主なる神に仕える者とされました。出エジプト以後、彼らは祭司、レビ人として神の幕屋において主に仕え、ソロモン王の時代以後は、エルサレム神殿において主なる神に仕えました。

昔荒野での40年間に、「コラの子」にとって大きな試練がありました。彼らの先祖のコラがモーセに反逆した事件であります。コラは、主なる神が選ばれたモーセがイスラエルの指導者であることに不満を抱きました。そして、彼はモーセを指導者に選ばれた主なる神に罪を犯して、滅ぼされました(民数記16章)。ところが、憐れみ深い主なる神は、コラの子供たちに父の罪を負わせて、滅ぼされませんでした(民数記26章11節)。

それゆえにダビデ・ソロモン王の時代にコラの一族は、エルサレムの幕屋とエルサレム神殿の門衛の務めを得ました(歴代誌上26:1)。また主なる神に供える平らな菓子の製造を任されました(歴代誌上9:31)。聖歌隊の指揮者の一人ヘマンはコラの一族であり、コラの子孫は礼拝において主を賛美しました(歴代誌下20:19)。

表題に「マスキール」とあります。詩編32篇の表題にもありました。詩編150篇中13篇の表題につけられています。昔礼拝に使用していました口語訳聖書には「教訓詩」と記してありました。しかし、今日意味が不明のために、原語で表示しています。知恵の詩、教訓詩という意味に理解する人が多いでしょう。

この詩編は、詩人の地理的状況を知ることができます。7節です。「わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から」

 パレスチナの北にありますヘルモン山のふもと、ヨルダン川の源流の地であります。主イエスの時代、フィリポ・カイザリア地方と呼ばれていました。

 「ミザルの山」は今日不明であります。「小さな山」という意味であります。

 詩人は、10節に「わたしは敵に虐げられ 嘆きつつ歩くのか」と賛美しますように、エルサレムの都から、エルサレム神殿から追放されたのであります。そして今は、ヘルモン山のふもと、ヨルダン川の源流の地に住みながら、彼は神を慕い、昔のエルサレム神殿において神の民たちと共に神を礼拝したことを思い起こし、神に助けを求めているのであります。

パレスチナの気候は、雨期と乾期であります。乾期には、ヨルダン川の源流も川床の水が涸れてしまいます。実際に詩人は、涸れた谷を、雌鹿が水を求めてあえぎ、鳴く声を耳にしたのでしょう。

神が臨在されるエルサレム神殿から追放された詩人の魂は、あたかもこの涸れた谷で水を慕いあえぐ雌鹿と同じでありました。

水は動物にとって命であります。同様に神の臨在は、詩人の魂にとって命でありました。涸れた谷で水に飢え渇く雌鹿のように、エルサレム神殿において命の神との交わりを失った詩人の魂は、神礼拝に飢え渇いていました。

主なる神は、ダビデ・ソロモン王との契約を通してエルサレムの都に神の幕屋と神殿を建てさせて、そこに臨在されました。

そこから詩人は、遠く離れています。神の臨在から離れています。だから、詩人は、「神に、命の神に、わたしの魂は渇く」と告白しているのです。

エルサレムから追放されたので、詩人は巡礼の神の民たちのようにエルサレム神殿に行くことができないのです。

だから詩人は、嘆くのです。「いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか」と。「神の御顔を仰ぐ」とは、エルサレム神殿に行くことです。神を礼拝することです。エルサレム神殿を遠く離れ、神の臨在の聖所から遠く離れ、詩人の魂は飢え、渇き、そして詩人の信仰も飢え渇いているのであります。

それゆえ今詩人は、不幸のどん底にあります。昔は、エルサレム神殿においてレビ人として、朝と夕に神を礼拝し、賛美していました。ところが、今は朝も夕も神を礼拝できません。

それどころか、彼の敵が一日中、詩人に向かって、「お前の神はどこにいる」と言い続けている間、昼も夜も詩人の涙が、彼のパンになりました。

人間、現実の悲しみの中で、心の中に思い起こすのは、過去における幸いであります。

5節は、詩人がレビ人としてエルサレム神殿で神の民たちと共に神を礼拝した日々を思い起こしています。詩人は、過越、ペンテコステ、仮庵の祝祭の時にレビ人として神殿に巡礼の神の民たちを導き、彼らと共に礼拝賛美をしました。

ただ詩人は、思い出の中に現実逃避をしているのではありません。「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす」と言っていますね。これは、詩人の祈りの姿であります。

しかし、今不幸の中にいる詩人には、希望がありました。神を待ち望むことができました。だから、詩人は、神に魂が空っぽになるほど祈ったのであります。

旧約聖書のサムエル記上1章にサムエルの母ハンナの祈りの話があります。子供を産むことができなかったハンナが、神の幕屋で主なる神に祈りました。彼女は長く祈りました。心のうちで祈りました。大祭司エリの目に、ハンナは酒に酔っているように見えました。これが魂を注ぎ出す祈りであります。この詩人も同じように祈りました。

詩人は、6節と12節に同じ繰り返しで、賛美していますね。今の苦境の中で詩人は、神を慕い、悲しみで心が折れそうであるのに、己の魂に呼びかけて、神が再び彼にエルサレム神殿においてレビ人として仕える幸いを与えられる日もあろうと、心を注ぎ出して祈っているのであります。

過酷な現実であります。神が臨在されるエルサレム神殿から遠く離れた異教の地に詩人は住んでいます。心が折れないはずがありません。絶望的な状況です。しかし、詩人は、神に望みを置き、魂を注ぎ出して、ヘルモン山から、ヨルダンの地からエルサレムに臨在される神に祈るのであります。

さて8節は、雨期のヘルモン山とヨルダン川の源流であります。ヘルモン山からヨルダン川に雨期に降った雨が、激流となり、下って行きます。

深淵とは、創世記1章2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」と記されていますように、原始の大水であり、混沌の大水であります。そこから来ます神の大波に詩人は、今にも滅ぼされそうであると歌っています。

同時に詩人は、彼の過酷で、不遇な状況下で一日中主の慈しみがあり、それゆえに彼の信仰の火は消されないで、神を賛美し、命の神への祈りを絶やすことなくしていると歌っています(9節)。

ところが10節は、神への詩人の信頼が揺らいでいるようであります。詩人の心に次々と疑問がわいています。神は激流からわたしを守る岩ではなかったのか。神は、わたしを忘れてしまわれたのか。なぜわたしは、敵に虐げられて、嘆きながら人生を生きなければならないのか。

さらに詩人は、11節で次のように嘆き続けています。詩人を迫害する者たちは、詩人の骨を砕き、すなわち、詩人を無力な有様にして、「お前の神は、どこにいる」と、詩人を嘲りました。

どん底に落ちて、敵が詩人の心が折れた、もう彼は終わりだ、と思った時、またもや詩人の魂に呼びかける声がありました。12節です。詩人は、苦しみ絶望する自分の魂にもう一度「なぜ、うなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか、神を待ち望め」と呼びかけたのであります。

詩編42篇を読みまして、わたしは、アウグスティヌスの『告白』の一節を思い起こしました。「汝は、我らを、汝に向けて造り給い。故に我らの魂は汝に憩うまで安らぎを得ず」。

わたしたちも詩人同様に神を慕い求める者であります。神を礼拝できないという状況は、詩人同様にわたしたちも耐え難いものです。詩人同様にわたしたちの魂もくず折れるのではないでしょうか。

しかし、この詩人からわたしたちは、次のことを学びます。使徒パウロの言葉です。パウロは、主に3度彼の刺を取り除いてほしいと祈りました。すると、主はお個体になりました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)。

詩人も同様でした。彼も、パウロ同様に自分の無力さの中で、人生のどん底で、神の慈しみを体験しました。すなわち、信仰が神の恵みの賜物であること、迫害と絶望の中でも神の存在を信じること、神に希望を持つこと、神に祈ること、詩人にとって神の慈しみの体験でした。

もうひとつ、この詩編からわたしたちは、この世において「お前の神は、どこにいる」と問い続けられる存在であります。この問いにわたしたちが唯一答えられるのは、わたしたちの教会の礼拝であります。なぜなら、聖書の神は、神の民に礼拝を通して御自身を主として現し、わたしたちと共にいることを望まれているからです。

お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ、詩編42篇を通して、礼拝の幸いを学ぶことができたことを感謝します。

わたしたちもこの世において礼拝ができないという試練の時があります。詩人のように神に心を向け、神の存在を信じ、神にのみ希望を持ち、歩ませてください。

すべてを神の摂理に委ねて、主なる神の御前に立ち続けさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

詩編説教043                  主の2014年4月27日

神よ、あなたの裁きを望みます。
わたしに代わって争ってください。
あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者
  よこしまな者から救ってください。

あなたはわたしの神、わたしの砦。
なぜ、わたしを見放されたのか。
なぜ、わたしは敵に虐げられ
  嘆きつつ行き来するのか。

あなたの光とまことを遣わしてください。
彼らはわたしを導き
聖なる山、あなたのいますところに
  わたしを伴ってくれるでしょう。
神の祭壇にわたしは近づき
わたしの神を喜び祝い
琴を奏でて感謝の歌をうたいます。
神よ、わたしの神よ。

  なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
  なぜ呻くのか。
  神を待ち望め。
  わたしはなお、告白しよう
  「御顔こそ、わたしの救い」と。
  わたしの神よ。
                                      詩編第43篇1-5節

説教題:「御顔こそ、わたしの救い」
今朝は、詩編第43篇1-5節の御言葉を学びましょう。

詩編43篇と42篇は、本来一つの詩編でありました。ですから、詩編43篇には表題がありません。

表題は詩編42篇にあり、詩編を作ったのは、「コラの子」と記されています。

「コラの子」とは、レビ人であります。レビ人は、エルサレム神殿において主なる神に仕えた者たちです。彼らの仕事は、祭司たちを補佐することでした。

「コラの子」は、エルサレム神殿の門衛でありました。主なる神に供える平らな菓子を作りました。そして、この詩編の詩人は聖歌隊の一員でありました。彼は、詩編42篇5節で、ユダヤの祭りの時にエルサレム神殿を詣でた巡礼者たちと一緒にエルサレム神殿において主を賛美したと、記しています。

今では詩人にとっては、昔の楽しい思い出であります。

なぜなら、詩編42篇7節で、詩人は嘆いています。同胞の敵に迫害され、エルサレム神殿からヨルダンの地、ヘルモンとミザルの山のふもとへ追放されたと。

 詩人は、パレスチナの北にありますヘルモン山のふもと、ヨルダン川の源流の地に追放されました。

 その地で、主なる神を慕い求める詩人の魂の悲しみが、詩編42篇と43篇を生み出しました。

ユダヤの国は、日本のように四季がありません。雨季と乾季だけです。乾季になりますと、谷川の水が涸れてしまいます。雌鹿が水を慕い求めて、泣き声をあげるのです。

詩人はその声を聞きながら、主なる神が臨在されるエルサレム神殿を追放され、生ける神との交わりを断たれた自分を、水を慕い求めてあえぐ雌鹿にたとえているのです。

なぜなら、追放の地は、詩人の心に平安を与えてくれません。詩人を辱め、嘲る敵がいるからです。詩編42篇4節と11節で、詩人は毎日、敵に「おまえの神はどこにいる」と嘲られています。

詩人は、追放の地で敵に虐げられているだけではありません。絶望した自分と向かい合わなければなりませんでした。42篇10節と43篇2節で、詩人は主なる神の御前で自分に絶望し、主なる神を疑って、次のように告白しています。「なぜわたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ歩くか。」「なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ行き来するのか。」

敵の「お前の神はどこにいるか」という嘲りと「なぜわたしの神はわたしを見捨てられ、敵の虐げからわたしを救ってくださらないのか」という詩人の絶望と神への疑いに、詩人の魂は壊れました。

詩人は迫害と絶望、四面楚歌の中で、主なる神に向き合うのです。詩人は、己の壊れゆく魂を生かし、回復する力の源は、主なる神しかないと悟るからです。

それが詩編43篇1節の詩人の祈りであります。「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者よこしまな者から救ってください。」

詩人は自分の無力を知りました。詩人には敵と争う力はありません。だから、詩人は主なる神にわたしに代わって、敵と争ってくださいと訴えました。

詩人にとって主なる神は、弁護人であり、裁判官です。詩人を虐げる敵に対して、詩人は主なる神が詩人を弁護してくださることを願っています。敵は、詩人に「お前の信仰に拠り所がない」と悪意のある偽りを語ります。詩人は、主なる神が、敵の偽りの告発を真実ではないと裁き、詩人を敵から救い出してくださいと祈りました。

神の裁きだけが、敵に詩人の信仰の正しさ、真実性を明らかにすることができるからです。そして、主なる神が詩人の信仰の拠り所に間違いないと判定してくださってこそ、詩人の魂は慰められ、平安を得、力を回復されるのです。

詩人は、絶望し、主なる神に疑いを抱いています。それゆえに彼の魂は壊れています。2節で、詩人は、主なる神を「わたしの神、わたしの砦」と信仰告白します。詩人は絶望し、彼の魂は壊れています。しかし、彼は主なる神以外に彼を絶望から救い出し、彼の壊れた魂を回復してくださる方はいません。追放された地で詩人を守るお方は、主なる神以外にいません。だから、詩人は主なる神を「わたしの神、わたしの砦」と呼びかけているのです。

そして、詩人は、主なる神に「あなたが見捨てられたわたしをお救いください」と祈りました。

具体的には、詩人がエルサレム神殿に戻され、主なる神を礼拝し、賛美することです。それによって詩人の壊れた魂が、新しい命に回復されるのです。

詩人は、主なる神に自分をエルサレム神殿に戻すために、「あなたの光とまことを遣わしてください」と祈ります。

「あなたの光とまこと」とは、主なる神の御使いです。詩人は、主なる神に「天の御使いをわたしに遣わし、わたしを神の不変の正しさと約束に対する神の真実に導いてください」と願いました。

詩人は、神の祝福と神の契約に対する真実さに導かれることを願いました。その具体的なことが、シオンの聖なる山でした。主なる神は、神の民と契約を結ばれ、「わたしはあなたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と宣言し、エルサレムの都に神殿をもうけて、そこにお住いになりました。詩人は、主なる神に「そこに自分をお導きください」と祈りました。

主なる神がいますエルサレム神殿に行き、詩人は神を礼拝し、賛美したいと願いました。祭壇に近づき、犠牲の動物をささげて、罪を赦され、神の民と共に感謝の食事をし、神を喜び祝い、賛美することが詩人の願いでありました。

詩編42篇と43篇は、「マスキール」であります。教訓的な詩であります。この世に生きるすべての信仰者たちは、詩編42篇と43篇の詩人の信仰から信仰に生きる知恵を得なければなりません。

わたしたちは、異教と世俗化の社会の中で、この詩人のように少数者として、信仰に生きています。どこでも「あなたの神はどこにいる」と嘲りを受ける中で、無神論と無宗教と、神に対する無関心の中で、主イエスを信じて生きています。復活の主イエスは、昇天される前に11弟子たちに「わたしは、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました(マタイ28:20)。

この約束を真実であると、わたしたちがこの世の人々に証しできる道は、一つです。主の日に教会に集まり、礼拝をし、主を喜び賛美することです。礼拝において語られる神の御言葉を聞き、洗礼と聖餐の礼典にあずかり、わたしの神、主イエス・キリストを喜び、祝い、賛美することです。

わたしたち信仰者の魂は、外からの迫害と内なる疑いと絶望により、壊れてしまいますが、そのとき聖霊がわたしたちに主なる神を飢え渇くように導いてくださいます。そして、わたしたちの魂を満たすために、神を礼拝し、神の祝福にあずかる時をお与えくださるのです。

人は神と共に、神を礼拝し、神を喜び賛美してはじめて、その魂に新しい息吹が与えられ、よりよき生を生きることができるのです。

お祈ります。

イエス・キリストの父なる神よ、詩編42篇と43篇を通して、礼拝することの恵みと喜びを学ぶことができたことを感謝します。

わたしたちも、詩人同様に異教と世俗化した社会の中で、神にも宗教にも無関心の人々の中で、毎週日曜日に教会に集まり、礼拝をしています。

捕囚の神の民同様に、わたしたちの生活の中で「お前の神はどこにいる」と試される時がしばしばあります。

実際に礼拝できない兄弟姉妹が増えています。主イエスは、わたしたちをお見捨てになったのか、この教会は見捨てられるのかと、わたしたちの心の中に疑いと絶望が生まれます。

どうか、詩人の信仰に学ばせてください。詩人のように不信仰と無力な自分を認めて、主イエス・キリストに信頼できるようにお導きください。聖霊に導かれて、教会の礼拝にあずかり、神の御言葉を聞き、洗礼と聖餐の礼典の恵みにあずかり、神を礼拝し、神を喜び、神を賛美させてください。

壊れやすいわたしたちの魂を、礼拝ごとに回復してください。今は異教と世俗化の社会に囚われていますが、わたしたちの国籍は天にあり、そこからわたしたちを救われる再臨のキリストを待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。