詩篇説教75                主の20161127

 

         指揮者によって。「滅ぼさないでくだ   指揮者による 滅ぼすな

 

         さい」に合わせて。賛歌。アサフの詩。歌。  讃歌 アサフの歌。

 

あなたに感謝をささげます。      わたしたちは感謝する、あなたに、神よ。

 

神よ、あなたに感謝をささげます。   わたしたちは感謝する。

 

御名はわたしたちの近くにいまし    そして近い、あなたの御名は

 

人々は驚くべき御業を物語ります。   彼らは語る、あなたの不思議な御業を。

 

 

 

「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う。 まことにわたしは手に取る、定めの時を 

 

地はそこに住むすべてのものと共に    わたしは公平に、わたしは裁く。

 

  溶け去ろうとしている。      溶け去る、地とすべてのそこに住む民たちは

 

しかし、わたしは自ら地の柱を固める。 わたしは、わたしは堅く立てる、その柱を

 

わたしは驕る者たちに、驕るなと言おう。わたしは言う、驕る者たちに、驕るなと。

 

逆らう者に言おう、角をそびやかすなと。そして悪人たちに、高く上げるな、角を。

 

お前たちの角を高くそびやかすな。   高く上げるな、高い所にお前たちの角を。

 

胸を張って断言するな。」        語るな、傲慢な首で。

 

 

 

そうです、人を高く上げるものは     なぜなら、東からも西からもでない。

 

  東からも西からも、荒れ野からも来ません。また山々の荒れ野からもでない。

 

神が必ず裁きを行い             なぜなら、神が裁く。

 

ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう。 これを低くする。そしてこれを高く上げる。

 

すでに杯は主の御手にあり         まことに杯が主の御手の中に

 

調合された酒が泡立っています。   そしてぶどう酒が泡立つ。満ちている、混ぜた酒で     

 

主はこれを注がれます。      そして、主は注ぐ、これから

 

この地の逆らう者は皆、それを飲み  まことにそのおりを彼ら飲み干す。

 

おりまで飲み干すでしょう。    飲む、地のすべての悪人たちは

 

わたしはとこしえにこのことを語り継ぎ しかし、わたしは伝える、永遠に

 

ヤコブの神にほめ歌をささげます。   ほめ歌おう、ヤコブの神に。

 

 

 

「わたしは逆らう者の角をことごとく折り すべての悪人たちの角を、わたしは叩き切る

 

従う者の角を高く上げる。」        義人の角は高く引き上げられる。

 

             詩篇第75111

 

 

 

 説教題:「全世界の審判者なる神」

 

 今朝は、詩編第75111節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 詩編75編は、おごり高ぶり、神に逆らう者たちを裁かれる神を賛美する歌であります。

 

 

 

 アサフは、聖歌隊の指揮者で、この詩編の作者です。この詩編は、詩編5759編と同様に「滅ぼすな」という題名の歌の旋律に合わせて、賛美するように、指示されています。

 

 

 

 アサフは、ダビデが聖歌隊の指揮者に任命した者の一人ですが、代々彼の子孫が彼の名と聖歌隊の指揮者を継ぎましたので、どの「アサフ」なのかは不明です。

 

 

 

 この詩編75編には、時代背景がありません。

 

 

 

 保守的な学者や牧師たちは、南ユダ王国のヒゼキヤ王の時代、アッシリア帝国のセンナケリブ王が紀元前701年にエルサレムの都を包囲し、陥落寸前と思われていた時であると推測しています。

 

 

 

 主なる神が介入され、アッシリアの大軍は一夜にして倒され、アッシリア王は自国に引き揚げ、息子たちに殺されました。榎本保朗牧師は、著書『旧約聖書一日一章』で、「そこに神に寄り頼んだゆえにエルサレムを救ってくださった神を見いだして喜びの賛美をささげているのが、この詩編だと言われている」と記されています。

 

 

 

 榎本牧師は、この詩編を「国家的救済」に対する詩人の感謝の歌であると考えられています。

 

 

 

 しかし、この詩編を、わたしたちが読みまして、榎本牧師を支持する根拠を見いだすことは難しいと思います。

 

 

 

 どこにも時代背景のないこの詩編を、わたしたちが理解する手掛かりは、二つあると思います。

 

 

 

 一つは、この詩編の構造を見ることです。

 

 

 

 もう一つは、この詩編の言葉、例えば9節の「杯」という言葉の用い方と意味を調べることです。

 

 

 

 誰でも、この詩編の2節を読めば、この詩編が「感謝の歌」であると分かります。神の驚くべき御業のために、神が御名を現され、そのことをエルサレム神殿で礼拝していたイスラエルの会衆が神に感謝して賛美しました。

 

 

 

 34節は会衆が賛美した神の神託、すなわち、お告げであります。

 

 

 

 「わたしは必ず時を選び」は、原文通りに読めば、「わたしは定めた時を手に取る」です。「公正な裁きを行う」ためです。

 

 

 

 わたしたちは、「時」、すなわち、時間を、過去、現在、未来と流れるように感じています。しかし、この詩人は、違います。聖書の時間理解も違うと思います。

 

 

 

 例えば、主イエスは、ガリラヤで福音宣教をお始めになった時、「時は満ちた」と言われ、「悔改めて、福音を信じよ」と言われました。

 

 

 

 「時が満ちる」とは、神が時をつくられ、その時に内容を与えられるということです。

 

 

 

詩編75編では、神に逆らいおごり高ぶる者たちに神の裁きの時が、神によって来るということです。

 

 

 

時は、人間が自由にできません。神が支配し、神が時に内容を与えられます。だから、コヘレトの言葉は、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と述べているのです(コヘレト3:1)

 

 

 

今詩人は、神が神の御前におごり高ぶる者たちを裁く時をつくり、その時を満たそうとお告げになることを伝えているのです。

 

 

 

神は、「地はそこに住むすべてのものと共に溶け去ろうとしている」と告げられています。神の審判はまだなされていないのです。

 

 

 

さらに、神の審判は、この地に住むすべての者たちに向けられています。神の民イスラエルも例外ではありません。悪人だけが神に裁かれるのではなく、義人も裁かれるのです。

 

 

 

ところが、神は、続けてこう告げられました。「しかし、わたしは自ら地の柱を固める」と。

 

 

 

神の審判は、神の創造された世界を破壊することが目的ではありませんでした。

 

 

 

「わたしは自ら地の柱を固める」と、神は告げられています。創世記のノアの洪水を思い起こしてください。

 

 

 

地に人の悪が満ち、神は人を創造されたことを悔いられました。そして、120年の猶予を与えて、洪水をもって人類を滅ぼされました。

 

 

 

しかし、この神の審判によって神が創造された地は固く保たれ、神はアブラハムをこの地から選ばれ、彼と契約を結ばれ、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と宣言されました。神はノアの洪水という裁きを通して地から神の選びの民を起こされ、罪の世から人を救うという柱を堅くされたのです。

 

 

 

56節は、神が詩人アサフに託された神の御言葉です。

 

 

 

アサフは、聖歌隊の指揮者であり、預言者でもありました。だから、神は、アサフを通して礼拝に集いました神の民イスラエルに神の御前でおごり高ぶるなと警告されました。

 

 

 

 聖書が教える罪とは、「おごり高ぶる」です。最初の人、人類の代表者アダムは、まさにおごり高ぶり、原罪を犯しました。

 

 

 

 聖書が教える罪人は、おごり高ぶる者、神に向かっておごり高ぶる者です。

 

 

 

 「角を高くそびやかす」とは、力を誇示することです。神に代わって己を高くしようとする者が神に逆らう罪人であり、悪人です。

 

 

 

 「胸を張って断言するな」と、預言者アサフは神の警告の言葉を伝えています。自己主張です。神に向かって自己主張をすることです。

 

 

 

 人類の罪人の歴史は、神に向かって自己主張する者たちの歴史です。レメクという罪人は、自らの恥を注ぐために、一人の若者を殺しました。彼は弟を殺したカインに復讐する者を、神は7倍の復讐を受けると言われたが、わたしに復讐する者は77倍だと言い張り、自らの罪を正当化したのです。

 

 

 

7節の「そうです、人を高く上げるもの」は、原文にはありません。文脈から付け加えて、わたしたち読者が読みやすくなるように配慮した訳です。

 

 

 

 「人を高く上げるもの」とは、人を救う者のことです。神の審判の時に、神の裁きから救う者がこの世界のどこからも現れないと、詩人は預言しています。

 

 

 

 そして、8節で詩人は、「神は必ず裁きを行い ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう」と預言しています。

 

 

 

 8節こそ聖書の救いの理解の本質を描いています。神は裁きを通して、すなわち、高ぶる者を裁くことで、同時に救いの御業をなさるのです。すなわち、低き者を高く上げて、救われるのです。

 

 

 

 ある有名な旧約学者は、8節の御言葉に新約のキリストの十字架と復活の福音を読み取ろうとしています。

 

 

 

 彼は次のように述べています。「恐るべき審判を通し、人は神によって高くされるのである。それは審判によって一度低くされるからである。一度徹底的に神の審判によって低くされなければ、人は神によって高くされることはできない。十字架の死に合わせられることによって、復活の主とともに新たに生きるのである。『高くされる』『低くされる』は新約的にはキリストの死と復活の問題であり、われわれは信仰にあってキリストの死と復活の命をいつもこの身に持ちまわっているのである。勿論この詩においてはこのようなキリストにある『義人』の場合のように、一人の人間において両方が同時に成り立つことはまだ言われていない。八節にあるように、『この者を低くし、かの者を高くされる』のである。しかし、高くされることが神による限り、新約の福音の真理はここでもすでに暗示されていると言うことが出来よう」

 

 

 

 わたしは、素晴らしい洞察であると思います。

 

 

 

 このようにこの詩編の構造を学びますと、神の審判の時はまだ来ておらないことに、わたしたちは気づかされるでしょう。

 

 

 

 また、詩人は、単純に神に逆らう者、おごり高ぶる者を異邦人たちに限定してはおりません。むしろ、人間一般に当てはめていると思います。神の裁きの対象者は全世界であり、神は全世界の審判者です。

 

 

 

 9節は、「杯は主の御手にあり」と詩人が歌っています。これは、神の怒りの杯のことです。「調合された酒」とは、蜂蜜の入ったぶどう酒のことです。その酒が泡立っているとは、神の審判の時が満ちたという表現です。

 

 

 

 主がぶどう酒を注がれるというのは、神が審判を下されるということです。そして、この地に住むすべての神に逆らう者たちは「おりまで飲み干す」、すなわち、神の裁きを徹底的に受けるでしょう、ということです。

 

 

 

 神の怒りを「杯」にたとえたのは、預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ハバククたちです。

 

 

 

 イザヤ書5117節で、預言者イザヤは「目覚めよ、目覚めよ 立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み よろめかす大杯を飲み干した都よ。」と言っています。

 

 

 

 この預言者イザヤは、第二イザヤと呼ばれ、バビロン捕囚期に活躍したと考えられています。すでに南ユダ王国もエルサレムの都とエルサレム神殿は、神の審判によってバビロンに滅ぼされていました。だから、神の審判でバビロンに捕囚された民に、第二イザヤが呼びかけたのです。その時に彼は、神の審判を「憤りの酒」と表現しました。

 

 

 

 預言者エレミヤは、エレミヤ書2515節で次のように預言しています。「それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。『わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々でそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。』」

 

 

 

 詩人が神の審判のたとえに使う「杯」は、南ユダ王国の末期からバビロン捕囚期にかけて活躍した預言者たちが使っていたたとえでした。だから、詩人も同じ時代の人であったと思います。

 

 

 

 詩人は、神の怒りの杯が、「この地の逆らう者皆」に注がれると預言しました。バビロン、ペルシアという国だけでなく、世界全体に神に逆らうすべての者に、神の怒りの酒が注がれると預言しています。

 

 

 

 わたしたちは、ヨハネ黙示録が描く神の最後の審判を考えてよいと思います。神は全世界の審判者として全世界の人々を裁かれます。

 

 

 

 詩人は、その日は恐れの日ではなく、喜びの日であると預言します。

 

 

 

 なぜなら、神は神に反逆する者が神の御前で高ぶることを徹底的に打ち砕かれ、彼らを滅ぼされますが、神に従う者たちを地から天に引き上げられ、彼らを御国の栄光に入れてくださるのです。

 

 

 

 キリストを信じて洗礼にあずかる者は、キリストと一つとなり、罪を赦され、永遠の命の喜びにあずかるのです。キリストのように地から復活し、永遠の命に甦らされ、天の御国へと引き上げられます。

 

 

 

 計画してアドベントの第1週にこの詩編75編を選んだわけではありませんが、今朝聖霊に導かれて、この詩編を学び、アドベントの期間に全世界の審判者である神の裁きの恵みを学ぶことができたのは感謝であります。

 

 

 

 どうか、目先のクリスマスを準備すると共に、一緒にキリストの再臨と神の最後の審判を待ち望もうではありませんか。

 

 

 

 わたしたちは、キリストの十字架によって自分たちが神に背を向けていた高ぶりとおごりの罪を打ち砕かれました。

 

 

 

このように神に低くされましたので、キリストが死者の中から復活し、天に上げられたように、わたしたちも死人の中から甦らされ、永遠の命を与えられ、神の御国へと高められるのです。

 

 

 

昔、大学時代にドストエフスキーの『罪と罰』を読みました。求道中でありました。主人公のラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺して罪を犯します。彼は19世紀後半のロシアの青年の一典型です。ある意味で人間を超えた超人になろうとしますが、挫折します。彼は売春婦のソーニヤに出会い、彼女にラザロの復活の記事を読んでもらい、回心します。

 

 

 

そして、彼は自首をするために、広場に出て、大地に口づけをするのです。

 

 

 

その場面を読みました時、わたしは大きな感動に包まれました。何か、とてつもない真理を知ったように思いました。

 

 

 

ところが、しばらくすると、一体わたしは、ラスコーリニコフの何に感動したのか、すっかり忘れてしまいました。感動したことは覚えているのに、何に感動したのか、思い出せませんでした。

 

 

 

あの日から42年、先ほど紹介した旧約学者の次の言葉で、わたしは自分の感動したことを思い起こしたのです。

 

 

 

「神の義を最も低き形でその十字架の刑死によって示されたキリストにすがる時、われわれは口を塵につけて神の低さによって救われ、復活のキリストの高さに与るのである」

 

 

 

ラスコーリニコフは、大地に口づけし、神の御子が人となられ、しかも十字架の死まで低くなられたので、おごり高ぶり、神にまでなろうとして、一人の老婆の命を殺めた彼の大きな罪が赦されたのだと言うことを言い表しているのではないかと。

 

 

 

わたしは、本当に十字架のキリストに神の愛の深さを、ラスコーリニコフを通して実感させられたのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩篇75編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 アドベントの第1週に、全世界の審判者なる神について聖書の詩編より学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

クリスマスに備えつつ、キリストの再臨を待ち望んでいます。

 

 

 

今朝は、その喜びの一端を味わうことができて感謝します。

 

 

 

詩人アサフが神の審判に、裁きの恐ろしさだけではなく、救いの喜びを見いだしたように、わたしたちもこの詩編の御言葉を通して、キリストの十字架と復活を通して、神の御救いの恵みを信仰によって、見させてください。

 

 

 

毎日、リジョイスの今月の祈りを、声を出して祈っています。

 

 

 

「主キリストを離れて今の私たちの信仰の歩みはないのですが

 

 それでも改めて

 

 主が滅びの中に沈んでいた私たちの所に来てくださったことの

 

 幸いを覚える者です。

 

 主が来てくださらなかったら

 

 私たちの救いと命の希望はなかったのですから。」

 

 

 

アーメンです。

 

 

 

どうか、わたしたちを、このアドベントの期間に、キリストの再臨を待ち望むと共に、神の最後の審判が、わたしたちにとって大きな喜びの時であることを、今朝の詩編の御言葉によって深く瞑想させてください。

 

 

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教078            主の2017326

 

 

 

             マスキール。アサフの詩。

 

わたしの民よ、わたしの教えを聞き  「教え」→「律法」

 

わたしの口の言葉に耳を傾けよ。  

 

わたしの口を開いて箴言を      「箴言」→「譬え」「諺」

 

いにしえからの言い伝えを告げよう  「言い伝え」→「謎」「神秘」

 

わたしたちが聞いて悟ったこと    

 

先祖がわたしたちに語り伝えたことを 

 

子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう 

 

主への賛美、主の御力を

 

主が成し遂げられた驚くべき御業を。

 

                    

 

主はヤコブの中に定めを与え   「定めを与え」→「定め(証し)を立て」

 

イスラエルの中に教えを置き

 

それを子孫に示すように

 

わたしたちの先祖に命じられた。

 

子らが生まれ、後の世代が興るとき  「興る」→「立ち上がる」

 

彼らもそれを知り

 

その子らに語り継がなければならない。

 

子らが神に信頼をおき。

 

神の御業を決して忘れず

 

その戒めを守るために

 

先祖のように

 

  頑なな反抗の世代とならないように

 

心が確かに定まらない世代

 

神に不忠実な霊の世代とならないように。

 

 

 

エフライムの子らは武装し

 

  弓を射る者であったが

 

闘いの日に、裏切った。

 

彼らは神との契約を守らず

 

その教えに従って歩むことを拒み

 

その御業をことごとく忘れた。

 

彼らに示された驚くべき御業を。

 

 

 

エジプトの地、ツォアンの野で

 

神は先祖に対して不思議な御業を行い                        

 

海を開いて彼らを渡らせる間      紅海を渡る奇跡

 

水をせきとめておかれた。

 

昼は雲をもって

 

夜は燃え続ける火の光をもって彼らを導かれた。  荒れ野の旅

 

荒れ野では岩を開き

 

深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。

 

岩から流れを引き出されたので

 

水は大河のように流れ下った。

 

  

 

彼らは重ねて罪を犯し

 

砂漠でいと高き方に反抗した。

 

心のうちに神を試み

 

欲望のままに食べ物を得ようとし

 

神に対してつぶやいて言った。

 

「荒れ野で食卓を整えることが

 

  神にできるだろうか。

 

神が岩を打てば水がほとばしり出て

 

川となり、溢れ流れるが

 

民にパンを与えることができるだろうか

 

肉を用意することができるだろうか。」

 

主はこれを聞いて憤られた。

 

火はヤコブの中に燃え上がり

 

怒りはイスラエルの中に燃えさかった。

 

彼らは神を信じようとせず

 

御救いに依り頼まなかった。

 

 

 

それでもなお、神は上から雲に命じ

 

天の扉を開き

 

彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。

 

神は天からの穀物をお与えになり

 

人は力ある方のパンを食べた。

 

神は食べ飽きるほどの糧を送られた。

 

神は東風を天から送り

 

御力をもって南風を起こし

 

彼らの上に肉を塵のように降らせ

 

翼ある鳥を海辺に砂のように降らせ

 

彼らの陣営の中に

 

宿る所の周りに落としてくださった。

 

彼らは食べて飽き足りた。

 

神は彼らの欲望を満たしてくださった。

 

 

 

彼らが欲望から離れず

 

食べ物が口の中にあるうちに

 

神の怒りが彼らの中に燃えさかり

 

その肥え太った者を殺し

 

イスラエルの若者たちを倒した。

 

それにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し

 

驚くべき御業を信じなかったので

 

神は彼らの生涯をひと息のうちに

 

彼らの年月を恐怖のうちに断とうとされた。

 

神が彼らを殺そうとされると

 

彼らは神を求め、立ち帰って、神を捜し求めた。

 

「神は岩、いと高き神は安河内主」と唱えながらも

 

その口をもって神を侮り

 

舌をもって欺いた。

 

彼らの心は神に対して確かに定まらず

 

その契約に忠実ではなかった。

 

しかし、神は憐れみ深く、罪を贖われる。

 

彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め

 

憤りを尽くされることはなかった。

 

神は御心を留められた

 

人間は肉にすぎず

 

過ぎて再び帰らない風であることを。

 

 

 

どれほど彼らは荒れ野で神に反抗し

 

砂漠で御心を痛めたことか。

 

繰り返し神を試み

 

イスラエルの聖なる方を傷つけ

 

御手の力を思わず

 

敵の手から贖われた日を思い起こさなかった。

 

 

 

神はエジプトで多くのしるしを与え

 

ツォアンの野で奇跡を示された。

 

川の水を血に変えられたので

 

その流れは飲めなくなった。

 

あぶを送って彼らに食いつかせ

 

蛙を送って荒廃させられた。

 

作物をいなごの群れに与え

 

労して得たものをいなごに与えられた。

 

神はぶどうの木を雹で打ち

 

いちじく桑を霜で枯らし

 

家畜を雹に渡し

 

その群れを稲妻に渡された。

 

神は燃える怒りと憤りを

 

激しい怒りと苦しみを

 

災いの使いとして彼らの中に送られた。

 

神は御怒りを現す道を備え

 

彼らの魂を死に渡して惜しまず

 

彼らの命を疫病に渡し

 

エジプトのすべての初子を

 

ハムの天幕において

 

  力の最初の実りを打たれた。

 

 

 

神は御自分の民を羊のように導き出し

 

荒れ野で家畜の群れのように導かれた。

 

彼らは信頼して導かれ、恐れることはなかった。

 

海が彼らの敵を覆った。

 

神は彼らを御自分の聖地の境まで導かれた。

 

右の御手をもって得られたその山に。

 

彼らの前から諸国の民を追い払い

 

彼らの嗣業を測り縄で定め

 

イスラエルの諸部族を

 

  それぞれの天幕に住まわせられた。

 

 

 

彼らはいと高き神を試み

 

反抗し、その定めを守らず

 

先祖と同じように背き、裏切り

 

欺く弓で射た矢のようにそれて行き

 

異教の祭壇に仕えて神を怒らせ

 

偶像を拝んで神の激情を引き起こした。

 

神は聞いて憤り

 

イスラエルを全く拒み

 

シロの聖所、人によって張られた幕屋を捨て

 

御力の箱がとりこになるにまかせ

 

栄光の輝きを敵の手に渡された

 

神は御自分の民を剣に渡し

 

御自分の嗣業に怒りを注がれた。

 

火は若者をなめ尽くし

 

おとめは喜びを奪われ

 

祭司は剣に倒れ

 

やもめは嘆くことすらしなかった。

 

主は、眠りから覚めた人のように

 

酔いから覚めた勇士のように奮い立ち

 

敵を撃って退かせ

 

とこしえに嘲られるものとされた。

 

主はヨセフの天幕を拒み

 

エフライム族を選ばず

 

ユダ族と、愛するシオンの山を選び

 

御自分の聖所を高い天のように建て

 

とこしえの基を据えた地のように建てられた。

 

僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り

 

乳を飲ませている羊の後ろから取って

 

御自分の民ヤコブを

 

御自分の嗣業イスラエルを養う者とされた。

 

彼は無垢な心をもって彼らを養い

 

英知に満ちた手をもって導いた。

 

   詩編第78172

 

 

 

説教題:「僕ダビデを選ばれた神」

 

今、聖書朗読をお聞きいただきましたように、大変長い詩編です。詩編150編の中で詩編119編に続き、2番目に長い詩編です。

 

 

 

1節の表題は、とてもシンプルで、「アサフの教訓詩」とあります。

 

 

 

教訓詩を、新共同訳聖書は「マスキール」とヘブライ語表記で訳しています。詩編150編の中で表題に「マスキール」という言葉が出てくる詩編が12あります。詳しい意味は不明です。しかし、2節に「わたしが聞いて悟ったこと」を、4節で「子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう」と記されていますね。「マスキール」は「悟りを与え」という言葉と同じで、それゆえ古くから「教訓詩」として理解されてきたのです。

 

 

 

18節までがこの長い詩編の序論であります。そして、964節がこの詩編の本文で、出エジプトからカナン定住までの歴史を歌っています。旧約聖書で言いますと、出エジプト記からサムエル記まで、ダビデが登場し、ダビデ王国を建設するまでの神の民イスラエルの歴史を歌っています。

 

 

 

そして、65節以下、終わりの72節までが「ユダ族、シオン(エルサレム)、そして神の僕ダビデがイスラエルの王に選ばれたこと」を、すなわち、南ユダ王国こそが神の選ばれた正統な王国であることを歌っています。

 

 

 

ダビデ・ソロモンの後に、ダビデ王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。北イスラエル王国はヨセフ族、すなわち、エフライム族が中心で、南ユダ王国はユダ族が中心でした。北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国はバビロン帝国に滅ぼされました。アサフは南ユダ王国の存亡の危機の中でこの詩編を作ったのではないかと思います。

 

 

 

わたしは、詩人アサフが申命記32章の「モーセの歌」を模範にして、この詩を作ったと思います。申命記32章の「モーセの歌」とこの詩編が似ています。

 

 

 

モーセは、申命記32章で出エジプトから荒れ野の旅、そして、カナン定住までを歌いました。アサフは、モーセが歌った神の民の歴史をもう一度辿り、さらにカナン定住からシロの敗戦に至り、神がユダとシオン、そして神の僕ダビデを選ばれ、ダビデ王国が建てられるまでの歴史を歌っているのです。

 

 

 

モーセは、神の民が出エジプトという神の偉大な救いの御業を経験したのに、荒れ野の旅でどんなに神の偉大な御業に対して忘恩であり、主なる神に不忠実であったかを非難しています。

 

 

 

詩人アサフは、この詩編の読者に「モーセの歌」に倣って、彼らの先祖たちのように不信仰な者とならないように、と警告しているのです。

 

 

 

だから、アサフは、この詩編の読者に序論で神の民たちが歴史の教訓を学び、信仰に堅く立つように8節で勧めているのです。

 

 

 

アサフは、964節の神の民の歴史を、「モーセの歌」に倣って、神の奇跡の御業とその神に対する神の民の忘恩と不忠実の歴史として歌っています。

 

 

 

今朝は、一節ずつ説明する時間はありません。

 

 

 

わたしは一つのことを、この詩編から学びたいと思います。

 

 

 

「モーセの歌」とこの詩編は、神の民の歴史が神の民の罪と不信の歴史であることを教えています。神の民がいかに神の御業に対して忘恩であり、主なる神に対して不忠実であったか、わたしたちは耳にタコができるほどに聞かされます。

 

 

 

だが、わたしたちは、この詩人から一つの「いにしえからの言い伝え」を聞かされるのです。この「言い伝え」とは「謎」ということです。

 

 

 

聖書の神の歴史には、いにしえより一つの謎があると、詩人は言っています。それは、神の民イスラエルの頑な罪と不信、そして主なる神に対する忘恩にもかかわらず、どうして神はこの神の民イスラエルを見捨てられなかったかという「謎」であります。

 

 

 

神の民イスラエルの歴史を、旧約聖書は出エジプト記から列王記まで記しています。出エジプトから荒れ野の旅を経て、神の民イスラエルはカナンに定住します。そして、神の民イスラエルは神に王を要求し、ダビデ王国が成立し、その後南北に分裂します。北イスラエル王国はアッシリア帝国に、南ユダ王国はバビロン帝国に滅ぼされます。その歴史の過程は、必然であります。神の民は神の御前に罪と不信の限りを尽くし、主なる神の奇跡の御業、神の憐みと救いに対して忘恩の限りを尽くしたからです。

 

 

 

ところが、主なる神は彼らの先祖ヤコブを選ばれ、彼と彼の子孫である神の民イスラエルと契約を結ばれました。「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と。

 

 

 

詩人には、罪と不信の神の民イスラエルを、どうして神が御自分の民に選ばれたのか不思議でした。

 

 

 

 わたしたちは、聖書の神の民の歴史を学びますと、神の民へのあわれみが、神の民イスラエルの信仰の忠実さ、正しさを証明しないことを教えられます。

 

 

 

 むしろ、神の民は神の出エジプトの救いを忘れ、カナンの神々を偶像礼拝し、神の怒りを買い、神の裁きによってペリシテに、アッシリア帝国に、バビロン帝国に支配されます。まさに神の民は主なる神に見捨てられ、見放されたと思えます。しかし、神の民の歴史が証明することは、それは主なる神が神の民イスラエルを救うことを拒むものではないということです。

 

 

 

詩人は、わたしたち読者に神の民の歴史を通して、一つのことを述べているのです。主なる神は、御自身が自由でもって、価なしに神の民イスラエルを、彼らの先祖ヤコブを通して選ばれ、ダビデを王に選ぶことで神の民を御心に留められたと。

 

 

 

 先祖ヤコブと神の僕ダビデと契約を結ばれた神は、まことに恵みの神です。神御自身の自由意志によって、ヤコブと彼の子孫である神の民イスラエルの神となられ、彼らを奴隷の地エジプトから救われ、約束の地カナンを彼らに相続させ、彼らにダビデを王として与え、ダビデ王国を築かれたのです。

 

 

 

 その神の御業に対して神の民イスラエルが行なった応答は、詩人が17節で「彼らは重ねて罪を犯し、・・・いと高い神に反抗した」と歌っています。また、18節で「心のうちに神を試み欲望のままに食べ物を得ようとし」た、と歌っています。

 

 

 

出エジプトという大きな神の奇跡的救いを得ても、神の民イスラエルは荒れ野に入ると、神に忘恩となり、一層深く罪を繰り返し、神の御救いに依り頼まず、自分たちの欲望を満たすために神を利用することしか考えませんでした。

 

 

 

41節で詩人は、「繰り返し神を試みイスラエルの聖なる神を傷つけ」と歌っています。詩人は、そんな不信仰の神の民に主なる神が日々の糧をお与えくださったと、神のいつくしみを、「謎」として、わたしたち読者に伝えているのです。

 

 

 

今、わたしたちは、レントの季節を過ごしています。今朝の詩編78編が役立つように、わたしは願っています。

 

 

 

わたしは、先日静岡聖文舎が教会に訪問販売に来られましたので、何冊かの本を買いました。その一冊に季刊「説教黙想アレテイア」の特別増刊号があります。「見よ、この方を!今、復活と十字架をいかに語るか」という表題があり、毎日一つの説教瞑想を読み、レントの季節を過ごしています。

 

 

 

「キリストの十字架」と「受難」を思いながら、この詩編78編を読みました。

 

 

 

十字架のキリストを苦しめ、傷つけているのは、誰だ。このわたしだ。わたしの罪のためにキリストは身代わりに死なれたのだ。

 

 

 

生まれて、今日まで、そして、今も、わたしは口で、心で、手足で神の御前に罪を犯し続けている。

 

 

 

わたしは、主の祈りで「試みに遭わせず、悪より救いたまえ」と祈ります。なぜなら、繰り返しわたしは神を試み、十字架のキリストを傷つけているからです。

 

 

 

宗教改革者ルターが言うように、わたしは罪を赦された罪人です。彼は、「九十五箇条の提題」の第1条で「キリスト者の生涯は悔い改めの生涯である」と言っています。

 

 

 

わたしたちキリスト者も神の民イスラエルのように「繰り返し罪を犯し、主を試み、十字架と復活という主の愛の御業に対して忘恩となり、罪を贖われた日を思い起こさなくなる」のではないか。そして、深い暗闇へと、永遠に光のない世界へと陥るのではないか。

 

 

 

だが、この詩編はわたしの不安に、希望で答えてくれています。「しかし、神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった。」と。

 

 

 

わたしの信仰は弱く、さだめなきものです。神の御目には「人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風である」(39)

 

 

 

もし救いの条件が、わたしの側の問題であれば、まことに絶望であると言う他にありません。

 

 

 

しかし、神に裁かれて当然のわたしを、神は御自身の自由意志で、わたしに代わって御子キリストを十字架につけるほどに愛してくださり、神の子としてくださったのです。今もこうして神に近づき、キリストをわが神と礼拝することを許してくださっています。

 

 

 

わたしにとって、詩人が言うように、キリストの十字架を通しての神の愛は「謎」です。どうして神は、こんなわたしを愛されたのでしょう。

 

 

 

だが、わたしは、聖書を読むことで、聖霊に導かれて、ガリラヤから主イエスに従った婦人たちが遠くからキリストの十字架を仰いでいたように、今教会の礼拝で毎週説教の御言葉を聞きながら、キリストの十字架の下に立っていると思います。

 

 

 

讃美歌140番の4節、「わが身にかわりて 死にたるイエスよ、十字架をあおげば なぐさめつきず、なやみもおそれも すべて消えゆく、主のめぐみは ありがたきかな.」

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編78編の御言葉を学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。

 

 

 

 詩人は、神の歴史の中に一つの「謎」を見出し、信仰の確信としました。

 

 

 

 どうして神の民は、歴史の中で罪を繰り返し、神を試み続けるのに、神は決して神の民を見捨て、見放されないのだろうか。

 

 

 

詩人を通して、わたしたちは、神の自由な愛の業を、神の価なしの恵みを見させていただき、今レントの季節にキリストの十字架と受難を覚えて過ごすために、役立つ御言葉をいただき、心より感謝します。

 

 

 

わたしたちも、詩人のように十字架のキリストを仰ぐ時、この世で罪のない生活は望めませんが、キリストの十字架を通しての神の愛のゆえにこの世に打ち勝つ信仰をいただいていることに心留めさせてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。