詩編説教085             主の20171022

 

 

 

指揮者によって。コラの子の詩。

 

         賛歌。     指揮者による。コラの息子たちの讃歌

 

 

 

主よ、あなたは御自分の地をお望みになり 主よ、あなたはあなたの地を喜び

 

ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。あなたは帰す、ヤコブの捕わ

 

御自分の民の罪を赦し れを。あなたは、あなたの民の罪を赦した。

 

彼らの咎をすべて覆ってくださいました。彼らのすべての罪を覆った。

 

怒りをことごとく取り去り あなたはあなたの憤りをすべて集めて取り去り

 

激しい憤りを静められました。あなたの怒りの憤りから返した。

 

 

 

わたしたちの救いの神よ わたしたちに帰り給え、わたしたちの救いの神よ。

 

わたしたちのもとにお帰りください。

 

わたしたちの苦悩を静めてください。そして、破棄したまえ、わたしたちに対

 

あなたはとこしえにわたしたちを怒り するあなたの怒りを。永遠にあなたは

 

その怒りを代々に及ぼされるのですか。わたしたちを怒るのか。あなたの怒り

 

再びわたしたちに命を得させ を代々に延ばすのか。あなたは再びわたしたち

 

あなたの民があなたによって を生かして、あなたの民があなたを喜ぶように、

 

  喜び祝うようにしてくださらないのですか。なさらないのですか。

 

主よ、慈しみをわたしたちに示し 主よ、あなたの慈しみをわたしたちに見せ

 

わたしたちをお救いください。 たまえ。あなたの救いをわたしたちに与えたまえ。

 

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。わたしは聞こう、主、神が何を語るか。

 

主は平和を宣言されます。まことに主は平安を語る。彼の民に、彼の聖徒たち

 

御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に に。

 

彼らが愚かなふるまいに戻らないように。そして彼らが愚かな振る舞いに戻ら

 

主を畏れる人に救いは近く ないように。まことに彼を畏れる者たちに、彼の

 

栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。救いは近い。栄光がわたしたちの

 

慈しみとまことは出会い 地に留まるために、慈しみとまことが出会う。

 

正義と平和は口づけし 義と平和は口づけする。

 

まことは地から萌えいで まことは地から生える。

 

正義は天から注がれます。そして義は天から臨む。

 

主は必ず良いものをお与えになり 主もまた、良き物を賜り

 

わたしたちの地は実りをもたらします。わたしたちの地は作物を出す。

 

正義は御前を行き 義は彼の面前を歩いて行き

 

 

 

主の進まれる道を備えます。そして、彼の足跡を道にする

 

                  詩編第85114

 

 

 

説教題:「主は神の民に平和を語られます」

 

今朝は、詩編第85114節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩篇は、主なる神に選ばれ、その恵みにあずかりました神の民たちが主なる神に応答して生まれました。

 

 

  詩篇を、わたしたちが読みます時、次の4つのことを心に留めることは大切です。

 

 

 

 第一は、神の民イスラエルが主の救いの御業をどのように受け取ったかであります。

 

 

 第二は、主の恵みにあずかった自分をどのように理解したかであります。

 

 

 

 第三は、主なる神から遠ざかった時に、それをどのように悲しんだかであります。

 

 

 

 第四は、逆に彼らが主なる神と共にあることをどのように喜んだかであります。

 

 

 

 この詩編は、全体としては、神の民イスラエルの、「民の嘆きの歌」であります。

 

 

 

「コラの子ら」、すなわち、コラの息子たちが作り、歌った詩編です。

 

 

 

礼拝のために作られた詩編であります。詩編81編と同じく、礼拝で賛美するために整えられた詩編であります。

 

 

 

この詩編は、3つに分けることができます。24節、58節、914節です。

 

 

 

24節は、主なる神の恵みの御業に対する詩人の感謝の応答です。バビロン捕囚からの解放を、詩人は喜び感謝しているのです。

 

 

 

なぜなら、ヤコブの捕われ人である神の民たちは、祖国への帰還をゆるされたからです。

 

 

 

神の民イスラエルは、偶像礼拝の罪によって、主なる神の激しい怒りで、バビロンに国を滅ぼされ、エルサレムの都と神殿を破壊され、彼らは70年間異邦人の地で捕囚生活をしました。

 

 

 

しかし、今、神の民イスラエルは、バビロン捕囚から解放されました。この主なる神の恵みの御業は、同時に主なる神がイスラエルの不義を赦され、彼らに対する怒りと憤りをお捨てになったことを示し、詩人は主なる神の恵みに対して感謝の応答をしているのです。

 

 

 

詩人が、最初に指摘しました4つのことを、どのように受け取っていたのかを、24節の御言葉から学びたいと思います。

 

 

 

詩人は、2節で「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました」と歌っています。

 

 

 

詩人は、バビロン捕囚の解放という、神の民イスラエルにとって恵みの出来事は、主なる神が善しと見たもうたので、この歴史の中で出来事として起こったと歌っているのです。

 

 

 

詩人にとって、この世界の歴史を動かすのは主なる神です。また、「ヤコブの捕われ人を、祖国エルサレムに連れ帰ってくださった」のは、主なる神です。

 

 

 

関根正雄先生は、「ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました」という御言葉を、大胆に「ヤコブの運命は変えられた」と翻訳されています。神の民の運命を左右するのは主なる神です。

 

 

 

詩人は、バビロン捕囚を、神の民イスラエルの苦難を、主なる神の怒りと憤りであると理解しています。

 

 

 

だから、バビロン捕囚から解放されて、祖国に帰れることは、主なる神が神の民の罪を赦されたからであると理解したのです。

 

 

 

主なる神が何よりも先に、善しと見られて、一方的にバビロン捕囚の神の民たちの咎と罪を赦され、御自身の怒りと憤りを取り去られたので、神の民イスラエルは、バビロン捕囚の70年間の苦難から解放されました。

 

 

 

この詩人からわたしたちは次のことを教えられます。神の民イスラエルは、歴史を、人類の栄枯盛衰と見ているのではなく、神の恵みと怒りの下で、歴史の出来事を主なる神の罪の赦しと裁きとして見ているのです。

 

 

 

58節で詩人は、捕囚後、エルサレムに帰還した神の民イスラエルの苦難を歌っています。エルサレムに帰って来た神の民たちの現実は、大きな困難が横たわっていました。

 

 

 

エルサレム神殿とエルサレムの都の城壁の再建は、周辺の異邦人たちに妨害され、苦しめられていました。帰還した神の民たちが異邦人と結婚し、宗教的に汚れていることが問題になっていました(エズラ記、ネヘミヤ記)。

 

 

 

エルサレムに帰還した神の民たちの内と外に大きな困難があり、詩人はそこに主なる神の怒りを見ていたのです。

 

 

 

だから、詩人は、捕囚の民をエルサレムに帰してくださった救いの神に、民のところに帰ってくださり、神の民に対する神の怒りを止めてくださいと祈りました。

 

 

 

詩人は次のように信じているからです。主なる神が帰還した神の民たちに怒ることを止められ、彼らに御自身を向けて下さり、彼らを善しと見て下さらない限り、帰還した神の民たちの苦難は取り去られないと。

 

 

 

詩人は、人が変われば、神も変わられるという考えは持ち合わせていません。むしろ、主なる神が怒りから恵みへと向きを変えられない限り、神の民に救いはないと考えているのです。

 

 

 

回心という出来事は、わたしたちにとって大切な救いの体験です。しかし、これはわたしが自分で変わることで起こる出来事ではありません。

 

 

 

わたしたちの回心の前に、神がわたしたちへと向きを変えて下さらなければなりません。そして、わたしたちの心を主なる神の恵みの御業へと、すなわち、キリストの十字架へと向けてくださらなければなりません。

 

 

 

だから、詩人は、8節で「主よ、慈しみをわたしたちに示し わたしたちをお救いください」と祈っているのです。

 

 

 

この「慈しみ」は、わたしたちキリスト者にとってはキリストです。十字架のキリストです。そこでわたしたちは、父なる神の愛を見せられ、心を神に向けて生きる者に変えられました。

 

 

 

救われたのです。

 

 

 

詩人は、914節で主なる神の神託を告げています。

 

 

 

まず、詩人は「わたしは聞こう」と歌います。「何を神が語られるかを」。

 

 

 

まことに主なる神は、聖徒たちに「平安」を、平和を宣言されました。

 

 

 

詩人を通して、神の民は主なる神が彼らに語られる平和を聞くように導かれています。

 

 

 

主なる神との関係に生きることが、神の民の平和であります。

 

 

 

だから、主なる神は預言者である詩人を通して、神の民に「愚かな振る舞いに戻らないように」と警告されています。

 

 

 

神の民が偶像礼拝をし、主なる神を怒らせ、再び異邦人に捕囚されることがないようにという主なる神の警告です。

 

 

 

1014節は、主なる神が神の民に詩人を通して、積極的に主の恵みを告げられています。

 

 

 

主の恵みは、主を畏れる者の近くにあります。具体的には、主なる神を礼拝する者です。

 

 

 

「主を畏れる人に救いは近い」というこのみ言葉を聞きますと、わたしは使徒パウロがモーセの言葉を引用した御言葉を思い起こします。

 

 

 

「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口に、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(ローマ10:8)

 

 

 

御言葉は、礼拝する者にとって救いです。礼拝で語られるキリストを、わたしたちは口で主と告白し、心でキリストを主と信じるならば、救われます。

 

 

 

詩人が預言した通り、今「栄光はわたしたちの地にとどまりました」。キリストは、今わたしたちの教会の礼拝に聖霊と御言葉を通してとどまってくださっています。

 

 

 

だから、わたしたちは、この教会の礼拝で「慈しみとまことの出会い」を、信仰を通して見ているのです。

 

 

 

主なる神は神の民に、慈しみを向けられました。それが、わたしたちがヨハネによる福音書で学びました。キリストの十字架を通しての神の愛です。

 

 

 

それによってわたしたちにキリストを信じる信仰が生まれました。

 

 

 

わたしは、大学生のころに宝塚教会に行かなければ、そこで礼拝説教を通して「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と、神の御言葉を聞かなければ、わたしは主イエス・キリストを信じる信仰を持つことはありませんでした。

 

 

 

そして、礼拝で十字架のキリストを通して、神の愛という慈しみに出会い、わたしは主イエス・キリストを信じ、まことに「義と平和の口づけ」を体験しました。

 

 

 

神は、十字架のキリストを通して、わたしの罪を罰してくださり、キリストが身代わりになられて、わたしは神の怒りから解放され、罪を赦されました。キリストのゆえに父なる神との間に和解と平和を得ることができました。

 

 

 

まことは信仰のことです。信仰はこの地で生まれ、この地で実を結びます。しかし、神の救いである義は天から来るのです。キリストは天から人となられてこの世に来られ、わたしたちを救われたのです。

 

 

 

詩人は、神の民とキリスト者の生涯を次のように預言し、約束しています。彼らは主なる神によって良き物で満たされると。

 

 

 

主イエスも、わたしたちに約束してくださいました。天の父はわたしたちキリスト者たちに良き物をお与えくださると。

 

 

 

だから、神を畏れ、神を礼拝する者は、地のどこに住もうと、アブラハムのように、ダビデのように、パウロのように主なる神の豊かな恵みを実らせる生涯を営むことができると。

 

 

 

14節は、この地上における神の民の信仰の道を、詩人が預言しているのです。

 

 

 

「正義は御前を行き、主の進まれる道を備えます。」

 

 

 

神の義である救いと神が人に与えられる命が、キリストが歩みたもう道の至る所に伴うのです。

 

 

 

わたしは、キリスト者が礼拝している教会の至る所に、神の救いと命があると信じています。

 

 

 

キリスト者はその生涯を教会の礼拝を通して、キリストの御後に従い、この世から御国へと旅しているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編85編の御言葉を学ぶ恵みが与えられ、感謝します。

 

 

 

 今年は、宗教改革500周年であります。今徳善義和氏の「マルチン・ルター-生涯と信仰」という本を読んでいます。

 

 

 

ルターは、詩篇150編すべてが「キリストの歌」であると言いました。例外なしにキリストの祈りだと言いました。

 

 

 

どうか、わたしたちも今朝の詩人の祈りをキリストの祈りとして理解させてください。

 

 

 

どうか、詩人の御言葉を通して、わたしたちを、キリストの十字架へと導き、わが身と心で、自分たちの全存在をもって、主を信じ、主を礼拝し、主の栄光をあらすことができるようにしてください。

 

 

 

どうか、今朝詩人が預言しました御言葉が、キリスト者であるわたしたちの身に起こり、わたしたちが教会の礼拝を通してキリストの慈しみを示され、信仰から信仰へと歩ませてください。

 

 

 

詩人が預言するように、わたしたちも主に救われた喜びの後に、この世で多くの苦難に遭うことがあると思います。

 

 

 

わたしたちが自らの弱さと罪を認めて、生涯キリストの十字架に心を寄せて生きることを得させてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教086           主の20171126

 

 

 

         祈り。ダビデの詩。  ダビデの祈り

 

 

 

主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。傾け給え、主よ、あなたの耳を。

 

わたしは貧しく、身を屈めています。わたしにお答えください。まことにわた

 

わたしの魂をお守りください しは乏しく貧しいのです。守り給え、わたしの

 

わたしはあなたの慈しみに生きる者。 魂を。まことにわたしは忠実な者です。

 

あなたの僕をお救いください 救い給え、あなたの僕を。

 

あなたはわたしの神 あなたは、わたしの神です。

 

  わたしはあなたに依り頼む者。信頼している者、あなたに。

 

主よ、憐れんでください わたしを憐れみ給え、わたしの主よ。

 

絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。まことにあなたに向かって、わたし

 

あなたの僕の魂に喜びをお与えください。は呼ぶ、一日中。喜ばせ給え、あな

 

わたしの魂が慕うのは たの僕の魂を。まことにあなたに向かって、わたしの

 

主よ、あなたなのです。主よ、わたしの魂を挙げますから。

 

 

 

主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。まことにあなたは、わたしの善い

 

あなた呼ぶ者に 主、そして赦す者。あなたを呼ぶ者たちすべてに、

 

  豊かな慈しみをお与えになります。 慈しみ多い。

 

主よ、わたしたちの祈りをお聞きください。耳を傾け給え、わたしの祈りに。

 

嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。そしてよく聞き給え、わたしの嘆

 

苦難が襲うときわたしが呼び求めれば 願の声に。わたしの悩みの日にわたし

 

あなたは必ず答えてくださるでしょう。はあなたを呼ぶ。まことにあなたはわ

 

主よ、あなたのような神は神々のうちになく たしに答える。わたしの主よ、

 

あなたの御業に並ぶものはありません。神々の中にあなたのような方はなく、

 

主よ、あなたがお造りになった国々はすべて あなたの業のようなものはあり

 

御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。ません。あなたを造ったところの

 

あなたは偉大な神 すべての民が来てあなたの前にひれ伏しますように。わた

 

驚くべき御業を成し遂げられる方 しの主よそして尊ぶ、あなたの御名を。

 

ただあなたひとり、神。 まことに大きい、あなたは。そして行う者、不思議

 

            な業をあなたは、あなたのみ神。

 

主よ、あなたの道をお教えください。わたしにお示しください、主よ、あなた

 

わたしはあなたのまことの中を歩みます。道を。わたしは歩く、あなたの真の

 

御名を畏れ敬うことができるように 中を。一つにし給え、わたしの心を。

 

一筋の心をわたしにお与えください。 あなたの御名の畏れのために。

 

主よ、わたしの神よ わたしはあなたに感謝する、わたしの主よ、わたしの神

 

  心を尽くしてあなたに感謝をささげ よ。わたしの心を尽くして。

 

とこしえに御名を尊びます。あなたの御名を永遠に敬いましょう。

 

あなたの慈しみはわたしを超えて大きく まことにあなたの慈しみは大きい、

 

深い陰府から わたしの上に。そしてあなたは救い出した、わたしの魂を、深

 

  わたしの魂を救い出してくださいます。い陰府から。

 

神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち 神よ、傲慢なものたちが立ち上がる、

 

暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。わたしに敵対して。凶暴な者ど

 

彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。もの群れがわたしの命を求め

 

主よ、あなたは情け深い神 ています。そして、あなたを置かない、彼らの前

 

憐れみに富み、忍耐強く に。しかしあなたは、わたしの主よ、慈しみ深く、

 

慈しみとまことに満ちておられる。憐れみ深い神、怒るに遅く、恵みとまこと

 

わたしに御顔を向け、憐れんでください。は豊か。向いてください、わたしの

 

御力をあなたの僕に分け与え 方に、わたしを憐れんでください。お与えくだ

 

あなたのはしための子をお救いください。さい、あなたの御力をあなたの僕に。

 

良いしるしをわたしに現してください。お救いください、あなたのはしための

 

それを見て  子を。わたしに行ってください、幸運(善意)のしるしを。わたし

 

  わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう。憎む者たちが見て恥じるよう

 

主よ、あなたは必ずわたしを助け に。まことにあなたは、主よ、あなたはわ

 

力づけてくださいます。 たしを助け慰めてくださった。

 

                  詩編第86117

 

 

 

説教題:「一筋の心をわたしに与えたまえ」

 

今朝は、詩編第86114節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

今朝の詩編86編は、「祈り。ダビデの詩」という表題があります。

 

 

 

さて、表題の「祈り」は、どんな祈りなのでしょうか。

 

 

 

実は、この「祈り」、ヘブライ語で「テフィラー」と呼ばれ、「嘆きの祈り」に使われる言葉でした。

 

 

 

だから、86編の表題「ダビデの詩。祈り」とは、「ダビデの個人的な嘆きの祈り」という意味であります。

 

 

 

ダビデは、苦しんでいる時、命の危険がある時に、それが動機となり、この詩編を歌ったのでしょう。

 

 

 

 この詩編を理解しやすいように、4つに内容を分けて学びましょう。

 

 

 

 17節、810節、1113節、1417節です。

 

 

 

 17節で、ダビデは個人の嘆きを歌っております。810節で「小さな賛美」と呼ばれる、ダビデの神賛美が続いています。そして、1112節でダビデは主なる神に感謝を歌っております。1417節でダビデは再び個人の嘆きの歌を歌って、主なる神に助けと慰めを祈り求めて、この詩編を閉じているのです。

 

 

 

 ダビデは、1節で「耳を傾けてください、主よ」と呼びかけています。

 

 

 

 子供が聞いてもらいたくて、親に「聞いて、聞いて」と呼びかけるように、ダビデは主なる神に信頼を込めて、「耳を傾けてください、主よ」と呼びかけています。

 

 

 

 ダビデの神への呼びかけは、短く単純であり、それゆえに信頼に満ちたものです。

 

 

 

 ダビデのこの祈りから、わたしたちは、祈りの大切な前提を学ぶのです。それは、信頼です。

 

 

 

 祈りは神への信頼が大切です。

 

 

 

 主なる神が祈る者に耳を傾けて下さり、その祈りに答えてくださるという信頼です。

 

 

 

 ダビデは、主なる神の御前で「わたしは貧しく、身を屈めています」と告白しています。

 

 

 

 ヘブライ語旧約聖書は「アニー ヴェエヴヨン アーニ」です。

 

 

 

 「アニー」は「乏しく」、「ヴェエヴヨン」は「貧しく」、「アーニ」は「わたしは」です。

 

 

 

ダビデは、「わたしは、乏しく、そして貧しい」と信仰告白したのです。

 

 

 

 この「乏しく、貧しい」ことこそ、主なる神に救っていただくことができるのです。

 

 

 

 旧約聖書の出エジプト記に、エジプトで奴隷の苦役の中で、神の民イスラエルは、主なる神に嘆きの声を挙げました。その時に主なる神は「乏しく、貧しい」民の嘆きの祈りを聞かれて、彼らを救い出してくださったのです。

 

 

 

 それがダビデのこの詩編での神理解になっているのです。

 

 

 

 ダビデも「乏しく、貧しい」者ですから、24節でただ彼は主なる神に助けを求めて祈ります。その「乏しく貧しい」者の祈りに主なる神が答えてくださるのです。そして、乏しく貧しい彼を御救いくださると、ダビデは主なる神に深く信頼しています。

 

 

 

 そして、5節以下で、ダビデは「主よ、あなたは恵み深くお赦しになる方」だから、豊かな慈しみを彼に与えて、7節で彼の祈りに答えてくださると歌っています。

 

 

 

 810節はダビデの小さな賛歌と呼ばれていますが、その内容はグローバルなものです。

 

 

 

主なる神に並ぶ神は、世界中のどこにも存在しません。なぜなら、この世界を創造され、諸国と諸国民を創造されたのは、主なる神だからです。だから、全世界の諸国と諸国民は、主の御前に出て、この偉大な神を、驚くべき御業をなさる主を崇め、賛美するのです。

 

 

 

この小さなダビデの賛歌は、神は救うことがおできになるという、祈りの確信において歌われているのです。

 

 

 

1113節で、ダビデは、主なる神に感謝をささげています。

 

 

 

ダビデの感謝から祈りの別の面を教えられます。それは、ダビデの祈りは、彼が命の危険に陥り、そこからの救いを願って、主になされています。

 

 

 

しかし、1113節のダビデの祈りは、災いからの救いを祈るものではありません。

 

 

 

むしろ、キリスト者の聖化の道を歩ませてくださいと、ダビデは祈っているのではありませんか。

 

 

 

ダビデは、「主よ、あなたが道を教えてくだされば、わたしは歩くだろう」と言っています。

 

 

 

ダビデは、自分を主の僕と呼び、自分を主に従わせるように自己訓練をし、そのために主の助けを求めているのです。

 

 

 

神の民は、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられていました(申命記6:5)

 

 

 

このダビデの祈りは、主なる神の御命令に答えるものです。ダビデは、二心を持って、主の御名を汚さないことを祈り求めたのです。

 

 

 

だから、ダビデは、12節で主なる神に心から感謝をするのです。

 

 

 

そして、彼の感謝は、復活に向かっています。「深い陰府からわたしの魂を救い出してくださいます」と。

 

 

 

キリストは死んで、その「深い陰府」に行かれた。そして、死者の中からの復活によって、死と罪に勝利されました。

 

 

 

ダビデに、キリストの復活の勝利が理解できたか、分かりません。しかし、彼は、自分の死が「深い陰府」に行くことであり、そこは主なる神から引き離された世界であると考えたでしょう。

 

 

 

 そこから彼は主なる神に救ってくださいと祈っているのです。その祈りに、キリストの復活の希望の光を見ることは少し無理があるとしても、死後も主なる神と共にいさせてくださいと願うダビデの熱い思いを感じることはできます。

 

 

 

 1417節で、再びダビデは、主なる神に嘆き祈ります。

 

 

 

 傲慢な者とは誰でしょう。暴虐な一党とは誰でしょう。

 

 

 

誰がダビデの敵であり、傲慢で、暴虐な者だったのでしょう。サウルと彼の家来たちでしょうか。息子のアブサロムと親友アヒトフェルでしょうか。

 

 

 

 この詩編のダビデの敵の正体は不明です。

 

 

 

 ダビデの言葉から次の二つのことが、わたしたちに理解できます。第1は、敵はダビデの命を狙っています。第2は、彼らはダビデのように主なる神に信頼してはいません。

 

 

 

 ダビデが敵から逃れる道は、一つです。主なる神に依り頼むことです。だから、彼は、憐れみと忍耐強く、慈しみとまことに満ちた神に、神のご好意のしるしを求めて、助けを祈り求めています。

 

 

 

 「良いしるしをわたしに現わしてください。」

 

 

 

 岩波書店の旧約聖書の詩編は、「私に行なって下さい。善意の徴を」と訳しています。

 

 

 

 ヘブライ語旧約聖書の詩編は、「アセー イミー オット レトヴァー」です。

 

直訳すると、こうなると思います。「行なって下さい、わたしと共に 幸運の印を」

 

 

 

この「良いしるし」は、ダビデの救いが具体的に実現するようにとの求めであります。

 

 

 

わたしは、この詩編86編を読み、次のように瞑想しました。

 

 

 

ダビデは「乏しく、貧しい」者から、主なる神の慈しみに生きる者として歩み、神の僕として主なる神が教えられる主の道を歩き、その途上で「良いしるし」で彼の救いが具体的に実現して行くことを求めているのだと。

 

 

 

ダビデの求める一筋の道は、信仰の道であり、キリスト者の聖化の道であると、わたしは思います。

 

 

 

この地上におけるキリスト者の信仰の道は、「乏しく、貧しい」者の道です。宗教改革者ルターは、死の床で次のように告白したそうです。「わたしは乞食です」と。神の慈しみに生きる者だと言いたかったのでしょう。

 

 

 

ダビデが求めた「良いしるし」は、クリスマスの夜にひとりのみどりごの誕生によって、父なる神はわたしたちの世界に現わしてくださいました。

 

 

 

ダビデの「主よ、あなたは必ずわたしを助け 力づけてくださいます」という祈りを、主なる神は聞き届けて下さり、主イエス・キリストの十字架と復活の驚くべき御業によって答えてくださったのです。

 

 

 

神は、十字架のキリストによって、「あなたは恵み深く、お赦しになる方」であることを明らかになさいました。

 

 

 

キリストは、わたしたちの罪の身代わりとなり、罪の刑罰を負って死なれました。そして、死者の中から最初に復活されました。

 

 

 

だから、主イエスを救い主として信頼する者は、罪を赦され、永遠の命の豊かさをいただいているのです。

 

 

 

そして、わたしたちは、今御国への途上にあります。

 

 

 

そこで復活の主イエスは、わたしたちを聖餐の食事へとお招きくださるのです。

 

 

 

これが、「良いしるし」です。この食事にあずかる者を、主イエスは具体的に御国の一員としてくださるのです。

 

 

 

わたしたちは、ダビデ同様にこの世にあって主イエスに命と魂を守られ、主の僕とされ、互いに愛するようにと、主の道を教えられ、毎週の礼拝を通してその道を歩み、そして、主イエス以外に救いのないことを確信し、一筋の心を与えてくださいと、主に祈りつつ、キリスト者の聖化の道を、ダビデと共に歩んで行くのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編86編の御言葉を学ぶ恵みが与えられ、感謝します。

 

 

 

 どうか、わたしたちもダビデの祈りを、わたしたちキリスト者の祈りとして理解させてください。

 

 

 

どうか、ダビデ同様に、自らが「乏しい、貧しい」者であることを、今朝の詩編の御言葉と御霊によって理解させてください。

 

 

 

わたしたちの祈りに、主が耳を傾け、答えてくださると、心から信じさせてください。

 

 

 

ダビデのように主の慈しみに生きる者としてください。ダビデのように、創造主なる神を、十字架のキリストを、復活のキリストを、恵み深くお赦しになる方を信じさせてください。

 

 

 

わたしたちもダビデのように、主の僕、はしための子としてください。主が「互いに愛し合いなさい」と教えて下さった主の道を歩ませてください。

 

 

 

わたしたちはダビデ同様に、罪を犯す弱い者です。どうか、良いしるしで、洗礼と聖餐式で、どうかわたしたちをキリストと一つとし、御国の実現を望ませてください。

 

 

 

来週からアドベントに入り、クリスマス月間が始まります。クリスマスメッセージを聴くごとに、ダビデと共に「主よ、あなたは情け深い神、憐みに富み、忍耐強く 慈しみとまことに満ちておられる」ことを喜び、賛美させてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教087          主の20171231

 

 

 

         コラの子の詩。賛歌。歌。 コラの息子たちの讃歌、歌。

 

 

 

聖なる山に基を置き 彼の基は聖なる山々に

 

主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される ヤコブのすべての住まいよ

 

シオンの城門よ。  りも、主はシオンの門々を愛される。

 

神の都よ   神の町よ、あなたについて栄光あることが語られる。 セラ。

 

あなたの栄光について人々は語る。

 

「わたしはラハブとバビロンの名を わたしは記帳する、「ラハブとバベルを。

 

  わたしを知る者の名と共に挙げよう。 わたしを知る者たちとして」。

 

見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも 見よ、ペリシテとティルスとクシュ

 

この都で生まれた、と書こう。 と共に。「これはあそこで生まれた」と。

 

シオンについて、人々は言うであろう しかし、シオンについて言われる。

 

この人もかの人もこの都で生まれた、と。」 「人と人がその中で生まれた」と。

 

 

 

いと高き神御自身がこれを固く定められる。いと高き者自身がこれを固く据え

 

主は諸国の民を数え、書き記される る。主は諸国民を登録され、記される。

 

この都で生まれた者、と。 「これは、あそこで生まれた」と。   セラ。

 

 

 

歌う者も踊る者も共に言う そして、歌い手たちも踊り手たちのように

 

「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。「わが泉のすべてはあなたの中に」

 

 

 

 

 

                  詩編第8717

 

 

 

説教題:「万民の母シオン」

 

今朝は、今年最後の主日礼拝です。

 

 

 

詩編第8717節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

表題は、「コラの子の詩。賛歌。歌。」とあります。正確には「コラの子」は複数形ですので、「コラの息子たちの讃歌。歌」です。

 

 

 

コラの息子たちは、エルサレム神殿で門衛と聖歌隊として、主に仕えました。彼らは、詩編歌を作り、賛美しています。詩編42編、4449編、49編、8485編、8788編は彼らが作ったものです。

 

 

 

一読すれば、この詩編が「シオン」をたたえる歌であると分かります。

 

 

 

「シオン」はヘブライ語で「要塞」という意味です。

 

 

 

「シオン」は昔エブス人の要塞の町でした。ダビデがその要塞の町を攻略し、ダビデの町、エルサレムを築きました。

 

 

 

ダビデの息子ソロモンがエルサレムの都の北にある丘に神殿を建てました。その丘を「シオンの丘」と呼びました。

 

 

 

そして、「シオン」はエルサレムの一部、あるいは全体の呼び名となり、エルサレム全体を「シオン」と呼ぶとき、エルサレムの都に住む住民たちは「シオンの娘」と呼ばれました。

 

 

 

「シオン」は、この詩編の中では1節で「聖なる山」、3節で「神の都」と呼ばれて、主なる神が住まわれる所であり、神の民イスラエルの敬愛の対象であります。

 

 

 

ダビデがエルサレムの都に神の箱を運び入れて以来、エルサレム、すなわち、シオンは主なる神が住まわれる都となりました。

 

 

 

この詩編の2節で「主がヤコブのすべての住まいにまさって愛されるシオンの城門よ」と歌われていますように、主なる神の愛する町シオンを祝福した歌です。

 

 

 

この詩編からわたしたちの耳に聞こえてくる御言葉の福音は、わたしたちを御国への喜びに招いてくれています。

 

 

 

詩人は、シオンを主なる神が据えた町としてたたえ、世界の諸国民がシオンの住民として登録されて、神の民となるという喜びを伝えようとしています。

 

 

 

この詩編は、3つにその内容を分けることができます。

 

 

 

13節、46節、そして、7節です。

 

 

 

13節で詩人は、「聖なる山」「神の都」であるシオンをたたえています。

 

 

 

1節の「聖なる山に基を置き」という御言葉は、ヘブライ語をそのまま日本語にすると、「彼の基は聖なる山々に」であります。

 

 

 

シオンは、主なる神が基を据えられた町です。

 

 

 

ですから、詩人は2節で「主がヤコブのすべての住まいにまさって愛されるシオンの城門よ」と、シオンをたたえています。

 

 

 

「ヤコブ」はイスラエルの先祖の名です。ここでは北イスラエル王国の呼び名です。「シオンの城門」はエルサレムを指します。

 

 

 

詩人は主なる神が北イスラエル王国のすべての町にまさってシオン、エルサレムを愛されると歌っているのです。

 

 

 

3節で「神の都よ あなたの栄光について人々は語る」とありますが、別の訳もあります。

 

 

 

主なる神を3節の主語にして、次のように日本語にしています。「神の町よ、ヤーウェはあなたについてすばらしいことを語られる」。

 

 

 

この方が4節以下の文脈にうまくつながると思います。

 

 

 

神の都が神の都であるのは、その中で主なる神がシオンについて諸々の栄光を語られるからです。この神の御言葉こそ神の都であるシオンの基であるのです。

 

 

 

では、主なる神は、シオンについてどんなに素晴らしいことをお語りになったのでしょうか。

 

 

 

詩人は、46節で主なる神がシオンについて諸々の栄光あることを語られた内容を伝えています。

 

 

 

「わたしはラハブとバビロンの名を わたしを知る者の名と共に挙げよう。見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも この都で生まれた、と書こう。」

 

 

 

「ラハブ」は海の怪物のことですが、ここではエジプトのことです。「バビロン」は、ヘブライ語ではバベルで、バビロンを指しています。

 

 

 

「わたしを知る者」は、詩編911節で「主の御名を知る者」とあり、主をわが神として礼拝する者のことです。神に選ばれしイスラエルの民のことです。

 

 

 

4節と5節と6節に「この都に生まれた」「この都で生まれた者」という神の御言葉が繰り返し記されています。

 

 

 

これは、住民登録の決まり文句なのです。

 

 

 

ルカによる福音書に主イエスがベツレヘムで生まれられた記事があり、ヨセフと身重のマリアはローマ皇帝がユダヤに人口調査を命じたので、生まれ故郷のベツレヘムに住民登録をしに行きます。

 

 

 

詩人が46節で伝えている神の御言葉の内容は、主なる神が神の民イスラエルの敵であった諸国民を、エジプト、バビロン、ペリシテ、ティルス、クシュを、神の民イスラエルと同じように、シオンで生まれたシオンの子として、住民登録をするということです。

 

 

 

主なる神は、神の民イスラエルだけではなく、全地の諸国民から御自分を神として礼拝する者を選び出し、数えて住民登録すると言われたのです。

 

 

 

こうしてシオンは神の民イスラエルだけの母なる町ではなく、万民の母なる町になるのです。

 

 

 

そして、シオンは、地上のエルサレムを超えて、天のエルサレム、御国を指すようになるのです。

 

 

 

それが7節の詩人の賛美です。「歌う者も踊る者も共に言う。『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」

 

 

 

7節は、ヘブライ語の文章をそのまま日本語にすると、少し表現が変わります。「歌い手たちも踊り手たちのように、『わが泉はすべてあなたの中に』」

 

 

 

「わが泉」は神の命のシンボルです。「あなたの中に」は「シオンの中に」です。巡礼で、エルサレムに来た諸国民が神礼拝し、神の民イスラエルと共に神の命にあずかるのです。

 

 

 

さて、今年最後の礼拝で、詩編87編の御言葉から、わたしたちは「万民の母シオン」を喜びとして聴き、これから聖餐の恵みにあずかり、新しい年に備えるのです。

 

 

 

わたしたちにとっては、シオンはこの地上にあるエルサレムの町ではありません。キリスト者であるわたしたちのシオンは、この上諏訪湖畔教会であり、天の御国です。

 

 

 

主なる神はわたしたちの父として、この世に御子イエス・キリストを遣わし、キリストの十字架と復活の御業によって万国民を罪より救い、滅びの子を神の子としてくださったのです。

 

 

 

主イエスをキリストと信じる者は、洗礼によってキリストに結び付けられ、聖霊によって神の子として生まれたのです。そして、天の御国の命の書にキリスト者はその名を記されているのです。

 

 

 

だから、今朝の詩編から学ぶことは、次のことです。

 

 

 

わたしたちキリスト者は、毎週教会で主を礼拝します。教会は、万民の母シオンです。主イエスを信じる者を、洗礼によって主イエスに結び付け、そしてわたしたちは聖霊によって神の子として生まれ、御国の命の書にその名が記されているのです。

 

 

 

今年もキリスト者として、この地上で過ぎし年、来る年を迎えますが、わたしたちの本国は御国です。

 

 

 

天のエルサレムがこの地上に、キリストの再臨と共に降って来るのを、ヨハネの黙示録が終わりの日に実現することを約束しています。わたしたちは、心を御国へと向けつつ、新しい年に備えたいと思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は今年最後の礼拝で詩編87編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 万民の母シオンがわたしたちの教会であり、御国であることを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

実際に、教会にいろんな国々から招かれて、主を礼拝する者がいます。わたしたちの教会でもアメリカ人、中国人、韓国人が礼拝を共にされました。

 

 

 

今日、日本にたくさんの外国人が滞在され、観光に来られています。地方の教会でも外国人が共に礼拝されることは珍しい事ではありません。

 

 

 

本当に教会は、万民の母であり、いろんな国々の人々と共に主を礼拝し、共に御言葉を聴き、賛美し、聖餐の恵みにあずかり、我らの国籍が天にあることを信じさせてください。

 

 

 

 

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教088           主の2018114

 

 

 

         歌。賛歌。コラの子の詩。コラの息子たちの歌、讃歌。

 

指揮者によって。  指揮者に

 

マハラトに合わせて。レアノト(意味不明)

 

マスキール。エズラ人ヘマンの詩。エズラ人ヘマンの教訓詩。

 

 

 

主よ、わたしを救ってくださる神よ。主、わたしの救いの神よ。

 

昼は、助けを求めて叫び 昼、わたしは叫び(泣き叫び)

 

夜も、御前におります。 夜、わたしはあなたの御前にいる。

 

わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの祈りがあなたの御前に届き

 

わたしの声に耳を傾けてください。ますように。わたしの嘆きにあなたの耳を

 

わたしの魂は苦難を味わい尽し 傾けてください。まことにわたしの魂は諸々

 

命は陰府にのぞんでいます。 の災いに満たされ わたしの命は陰府に近づき

 

穴に下る者のうちに数えられ ました。わたしは穴に下る者のうちに数えられ、

 

力を失った者とされ わたしは力のない男のようになりました。

 

汚された者と見なされ 

 

死人のうちに放たれ 死者たちの中に放置され

 

墓に横たわる者となりました。 墓に横たわっている殺された者たちのよう。

 

あなたはこのような者に心を留められません。あなたはもう彼らを覚えておら

 

彼らは御手から切り離されています。 ず、彼らはあなたの御手で断たれた。

 

あなたは地の底の穴にわたしを置かれます。あなたはわたしを置かれた、どん

 

影に閉ざされた所、暗闇の地に。底の穴の中に。暗い所、深い淵に。

 

あなたの憤りがわたしを押さえつけ あなたの憤りがわたしの上にのしかかり、

 

あなたの起こす波がわたしを苦しめます。 [セラ あなたはすべての大波でわ

 

                     たしを苦しめた。

 

あなたはわたしから  あなたは遠ざけた、わたしの知人たちを、わたしから。

 

  親しい者を遠ざけられました。

 

彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。彼らにとってわたしは忌むべ

 

わたしは閉じ込められて、出られません。き者となりました。わたしは閉じ込

 

苦悩に目は衰え められて、外に出られません。わたしの目は苦悩によって

 

来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び 衰えている。わたしはあなたを呼ぶ、

 

あなたに向かって手を広げています。主よ、来る日も。あなたに向かってわた

 

あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり しの両手を広げました。

 

死霊が起き上がって あなたは死者のために奇跡をなさるだろうか。

 

あなたに  死霊は起き上がって、あなたを誉め称えるでしょうか。

 

  感謝したりすることがあるでしょうか。 [セラ

 

墓の中であなたの慈しみが 語られるか、墓の中であなたの慈しみが。

 

滅びの国であなたのまことが あなたのまことが滅びの中で語られるか。

 

  語られたりするでしょうか。

 

闇の中で驚くべき御業が あなたの奇跡は闇の中で知られ、

 

忘却の地で恵みの御業が あなたの義が忘却の地で知られようか。

 

  告げ知らされたりするでしょうか。

 

 

 

主よ、わたしはあなたに叫びます。しかし、主よ、わたしはあなたに助けを

 

朝ごとに祈りは御前に向かいます。呼ばわります。そして、朝にわたしの祈り

 

主よ、なぜわたしの魂を突き放し はあなたを出迎えます。なぜ主よ、あなた

 

なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。はわたしの魂を突き放し、あな

 

わたしは若い時から苦しんできました。たは、わたしからあなたの御顔を隠さ

 

今は、死を待ちます。れるのか。わたしは若い時から苦しみ、息絶える。

 

あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。あなたの恐れを身に負い、

 

あなたの憤りがわたしを圧倒し わたしは絶望だ。わたしの上をあなたの憤り

 

あなたを恐れてわたしは滅びます。が過ぎる。あなたの恐ろしさがわたしを絶

 

それは大水のように ち滅ぼす。それは終日大水のようにわたしを囲み、わた

 

  絶え間なくわたしの周りに渦巻き しの上に一緒に囲む。

 

いっせいに襲いかかります。

 

愛する者も友も あなたはわたしから遠ざけた。

 

  あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。愛する者と友を。

 

今、わたしに親しいのは暗闇だけです。わたしに親しい友は暗闇だけ。

 

                  詩編第88119

 

 

 

説教題:「苦しみを知り尽くした者の祈り」

 

詩編第88119節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

表題に「歌。賛歌。コラの子の詩。」とあります。ヘブライ語旧約聖書の詩編88編の表題には「コラの息子たちの歌。賛歌」とあり、87編と同じ表題です。

 

 

 

「コラの息子たち」は、エルサレム神殿の門衛と聖歌隊として、主に仕えました。

 

 

 

この詩編はエルサレム神殿の礼拝で賛美されたのでしょう。「指揮者によって、マハラトに合わせて、レアノテ」とあります。「マハラト」と「レアノテ」は不明です。楽器なのか、歌のしらべなのか、何も分かりません。

 

 

 

「マスキール。エズラ人ヘマンの詩」とあります。次の89編にも「エズラ人エタン」とあります。

 

 

 

旧約聖書の列王記上511節に、ソロモン王の知恵を称える中でこの二人の名が次のように記されています。「彼(ソロモン)はエズラ人エタン、マホルの子らであるヘマン、カルコル、ダルダをしのぐ、最も知恵のある者であり、その名は周りのすべての国々に知れ渡った。」

 

 

 

ソロモンの時代に、この詩編の作者は当代の賢者の一人に数えられていたのです。

 

 

 

歴代誌上の618節、1517節にも彼がエタンと共にダビデに詠唱者に任命されたことを記しています。

 

 

 

詩編88編の詩人は、ダビデ・ソロモン時代のエズラ人ヘマンと同一人物であると、この詩編で確証を得ることはできません。

 

 

 

一読すれば、この詩編が「個人の嘆きの歌」であると分かります。

 

 

 

この歌は、詩人が今艱難、苦難に遭い、命の危険にあっていることを動機として、主なる神にその嘆きを歌っています。

 

 

 

個人の嘆きの歌には決まった形式があります。最初に詩人が神に呼びかけます。続いて自分の嘆きを歌います。そして、彼は神に救いへの願望を歌うのです。

 

 

 

ところが、この詩編88編は個人の嘆きの歌のその定形から外れています。

 

 

 

今聖書朗読をお聞きになられたように、詩人はこの詩編で救いへの願望を歌っていないのです。

 

 

 

むしろ詩人は、最初から終わりまで暗闇の中にいるのです。彼は、地の底の穴、暗闇の地に閉ざされ(7)、闇の中におり(13)、彼の親しい友は暗闇だけなのです(19)

 

 

 

神の救い、すなわち、光を求めているのに、彼は初めから終わりまで暗闇の中に置かれているのです。

 

 

 

だから、ある人は詩編150編中、最も悲しい詩編と呼んでいます。

 

 

 

さて、詩編88編の詩人、エズラ人ヘマンは敬虔な信仰者です。彼はレビ人で、神殿で詠唱者に任命され、礼拝で主を賛美しました。

 

 

 

彼は、2節で「主よ、わたしの救の神よ」と信仰告白しています。

 

 

 

この詩編88編は、敬虔な信仰者が自分を救ってくださる神に嘆きを訴えたものです。

 

 

 

彼は悩み、苦しみのどん底から、2節で昼も夜も「主よ、わたしの救いの神よ」と呼びかけ、10節で来る日も来る日も彼らは心身共に苦しみの中で衰えながら主を呼びかけ、14節で朝ごとに主を呼びかけて、3度繰り返し、主に呼びかけて嘆いているのです。

 

 

 

この詩人は、ヨブ記のヨブの苦しみに通ずるものがあります。

 

 

 

詩人は、自らの罪に苦しんでいるのではありません。神に自分の罪の赦しを求めているのでもありません。

 

 

 

4節で詩人は、ヨブのように「わたしの魂は苦難を味わい尽し 命は陰府にのぞんでいます」と告白しています。

 

 

 

詩人の苦しみは、詩人が原因であると思えません。彼が知らない所で、主なる神が彼に憤りを向けられ、彼から遠ざかられ、詩人はどんなに昼に夜に主に助けを祈っても、主は彼に心を留めて下さらないのです。

 

 

 

詩人は神との親しい関係を失い、まるで死者と変わらないと歌っています。「穴に下る者」も「力を失った者」も「汚れた者」も「墓に横たわる者」も死者のことです。詩人は、主に「死人のうちに放たれ」、「地の底の穴」に置かれ、そこは「暗い所で、深い淵で」あります。

 

 

 

そこで彼は、主の憤りを向けられ、ヨブのように数々の苦しみを与えられて、苦しんでいるのです。

 

 

 

58節で詩人は、主との交わりを断たれて、死人に数えられて、神にも人にも嫌われた状態に置かれた苦しみを嘆いているのです。

 

 

 

詩人は、魂の苦しみを味わい尽くして、死の問題と向き合っています。彼は、死に際に置かれています。自分の死を自覚しつつ、来る日も来る日も主なる神に助けを求めて叫び、嘆いているのです。

 

 

 

わたしは、この詩人に悲惨という一言しか、声をかけることができません。

 

 

 

詩人は、主が彼から遠ざかられているだけではなく、彼の親しい友人たちも彼から遠ざけられました。

 

 

 

9節で、詩人は「彼らにとってわたしは忌むべき者となりました」と告白しています。

 

 

 

詩人が「わたしは閉じ込められて、出られません」と言っていますね。外を自由に歩けないということです。重い病気で床に寝込んでいるのではないでしょうか。

 

 

 

ヨブが体中にできものができて、体中を陶器の欠片で掻きむしったように、10節で詩人は重い病のために苦悩で目が衰えつつ、床で両手を広げて、主に向けて憐れみを受けようとするのです。

 

 

 

1113節は、詩人の救いへの願いと言えるかもしれません。しかし、それ以上に詩人の嘆きではないでしょうか。

 

 

 

詩人の理解では、死者は神とのかかわりをもたないのです。こうして今わたしたちは生きているからここで主を礼拝し、聖書朗読とその解き明かしである説教を通して主の御声を聞き、主に賛美をささげるのです。

 

 

 

だから、主が死者に対して奇跡をなされても、詩人には死霊が起き上がり、主に感謝するとは思えないのです。死者に主の慈しみが語られ、死者がいる国で神のまことが語られるとは、詩人には信じられないのです。あるいは闇の中で神の奇跡が語られ、忘却の地である死者の世界で神の正義が知らされると、詩人には信じられません。

 

 

 

 だから、詩人は主にわたしが生きているうちに、わたしを助けてくださいと祈っているのではないでしょうか。

 

 

 

 どんなに人生が不条理であろうと、詩人には自分を救われるのは主以外にありません。

 

 

 

 だから、詩人は新しい朝を迎えるごとに、彼の祈りが主の御前でなされます。神学生の頃に韓国から神戸改革派神学校に留学された韓国の牧師先生と朝のお祈り会をしました。本当に天井が崩れ落ちるかと思うほどに熱列に祈られました。

 

 

 

 わたしは、この詩編の説教を準備しながら、この詩人も天が裂けるほどの大きな声で主に助けを祈ったのではないかと思いました。命尽きる自分の力のすべてを出して、彼は主の御前で祈ったでしょう。

 

 

 

 しかし、与えられた結果は、主が彼との交わりを断たれているという現実でした。

 

 

 

 主は、祈り、主に注ぐ詩人の心を受け入れられませんでした。御顔を詩人から隠され、彼との交わりを断たれました。

 

 

 

 だから、詩人は16節で自らを絶望の中に置くのです。「わたしは、若い時から苦しみ、息絶える。あなたの恐れを身に負い、わたしは絶望だ」と。

 

 

 

 今詩人の上を主の憤りが大水のように通り過ぎ、その恐怖で詩人は滅びると嘆いています。

 

 

 

 詩人は、主に孤独の中に置かれます。主が彼の親しい友を遠ざけられ、彼にとって暗闇だけが親しい友となりました。

 

 

 

 詩人にとって、今、暗闇の死の世界だけが、残された唯一の親しきものであると、告白して、詩人はこの詩編を閉じているのです。

 

 

 

 この詩編のテーマは、すべての苦難を味わい尽くした詩人の苦難です。その苦難は主が詩人に向けられた憤りであり、詩人はそれゆえ今死に際に立たされているのです。

 

 

 

 まさに詩人は、まるでヨブのように、苦難の中に立ち続けるのです。若い時から重い病に苦しみ、彼は常に死と隣り合わせに生きているのです。死は自分の友達と思えるほど、彼には身近なものです。

 

 

 

 わたしが不思議に思うことは、詩人は決して罪の赦しを求めて、主なる神に近づくことをしません。

 

 

 

 それは、この詩人が傲慢だからではありません。傲慢であれば、むしろ、彼に主が憤りを向けられることに抗議し、主を呪い、詩人は決して「主よ、わたしを救われる神よ」と呼びかけることはなかったでしょう。

 

 

 

 来月に入りますと、レントの季節を迎えます。キリストの御受難と復活を覚える春の季節に備えます。

 

 

 

 初代教会のキリスト者たちは、この不思議な詩編に、十字架の道を歩まれた受難のキリストの心を見たのです。

 

 

 

 主イエスが十字架につけられる前の夜、エルサレムの郊外のゲツセマネの園で一晩中祈り続けられました。

 

 

 

 主イエスは、何の罪もない神の御子です。しかし、彼は生涯悲しみの人でした。詩人のようにゲツセマネの園で神の怒りの杯を取り除けてくださいと祈られました。

 

 

 

 彼は、父なる神の御怒りを身に帯びて、十字架の上で死ぬために、この世に生まれられたのです。

 

 

 

 主イエスがゲツセマネの園で祈られた時、主イエスが弟子たちに伝えられた御言葉を、マルコによる福音が次のように伝えています。「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」(マルコ14:3334)

 

 

 

 さらにマルコによる福音書は、十字架の上で父なる神の怒りと呪いを受けられた主イエスの御声を伝えています。「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15:34)

 

 

 

 詩人は、祈りました。しかし、彼は闇の中でした。主イエスは、父なる神に祈られました。そして、詩人が恐れた死、地の底の穴に下る者となられました。

 

 

 

主イエスは、御自分の罪の赦しを父なる神に願われたのではありません。私たち罪人の罪を負うために死なれたのです。

 

 

 

初代教会のキリスト者たちは、この詩編を通して、十字架のキリストに、「主、わたしたちの救いの神」を見たのです。

 

 

 

キリストの十字架を通してこそ、この詩編88編はわたしたちに絶望から希望を与えるものとなるのです。すべての苦難を味わい尽くされた十字架の主イエスこそ、「主、わたしたちの救いの神」です。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編88編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 すべての苦難を味わい尽くした詩人の祈りを通して、わたしたちが十字架のキリストへと導かれ、感謝します。

 

 

 

罪なき神の子キリストが、罪のこの世に来てくださり、詩人のように悲しみの人としてわたしたちに代わり、神の怒りと呪いを引き受けて、十字架に死んでくださり、わたしたちはキリストの贖いにより罪を赦され、父なる神と和解し、今こうして主を礼拝賛美しています。

 

 

 

どうか、今朝の詩編をこの一週間、読み味わい、十字架のキリストへとわたしたちをお導きください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教089             主の2018225

 

 

 

        マスキール。エズラ人エタンの詩。教訓詩。エズラ人エラン。

 

主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。主の慈しみをとこしえにわたしは

 

わたしの口は代々に 歌おう。代々にわたしは知らせる。

 

あなたの」まことを告げ知らせます。 あなたのまことを、わたしの口で。

 

わたしは申します。まことにわたしは言った。

 

「天にはとこしえに慈しみが備えられ 「永遠に慈しみは建てられる、天に。

 

あなたのまことがそこに立てられますように。」 あなたは据える、あなたの

 

                      まことを、その中に。」

 

「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び 「わたしは結んだ、わたしが選ん

 

わたしの僕ダビデに誓った だ者と契約を。誓った、わたしの僕ダビデに。

 

あなたの子孫をとこしえに立て 永遠までわたしは据える、あなたの子孫を

 

あなたの王座を代々に備える、と。」  セラ)  そして建てた、とこしえにあなたの王座を」

 

主よ、天があなたの驚くべき力を告白し 天があなたの奇跡を称える、主よ。

 

聖なるものがその集会で 聖なる者たちの集会の中で

 

あなたのまことを告白しますように。あなたのまことを

 

雲の上で、誰が主に並びえましょう まことに、誰が雲の中で主に並び、

 

神々の子らの中で誰が主に比べられましょう。神々の子らの中で主のような者

 

聖なるものの集いにおいて があろうか。聖なる者らの会合で、

 

あなたは恐れられる神。 神は大いに恐るべき()

 

御もとにあるものすべてに超えて そして畏れられる、彼の回りの者たちすべ

 

  大いに畏れ敬われる方です。たてよりも。

 

万軍の神、主よ 主よ、万軍の神よ。

 

  誰があなたのような威力を持つでしょう。誰か、あなたのような力強い主

 

主よ、あなたの真実は よ。そしてあなたのまことは

 

あなたを取り囲んでいます。 あなたの周囲に。

 

あなたは誇り高い海を支配し あなたは海の高まりを治め

 

波が高く起これば、それを静められます。その波が高くなる時、あなたはそれ

 

あなたはラハブを砕き、刺し殺し らを静められます。あなたは砕いた、刺し

 

御腕の力を振るって敵を散らされました。殺した者のように、ラハブを。あな

 

天はあなたのもの、地もあなたのもの。たの力の腕によって、あなたの敵たち

 

御自ら世界とそこに満ちるものの基を置き を散らされた。天はあなたのもの、

 

北と南を創造されました。また地もあなたのもの。世界とそれにみちるものは、

 

タボル山、ヘルモン山は あなたがそれらを据えられた。北と南を、あなたは

 

御名を喜び歌います。それらを創造された。タボル山とヘルモン山はあなた

 

あなたは力強い業を成し遂げる腕を具え の御名を喜び歌う。あなたには腕が

 

が御手の力を振るい 力強い業と共にあり、あなたの手は力を振るい、

 

右の御手を高く上げられます。あなたの右の手は高く上がる。

 

正しい裁きは御座の基 義と裁き(公正)はあなたの座の基(支え)

 

慈しみとまことは御前に進みます。慈しみとまことはあなたの顔を出迎える。

 

 

 

いかに幸いなことでしょう。幸いだ。

 

勝利の叫びを知る民は。歓声(勝利の叫び)を知っている民は。

 

主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。主よ、あなたの顔の光の中を彼らは歩

 

絶えず、御名によって喜び踊り み続けます。あなたの名によって、彼らは喜

 

恵みの御業にあずかって奮い立ちます。 び踊ります、一日中。そしてあなた

 

あなたは彼らの力の輝きです。 義によって高く上がる。まことに彼らの力の

 

御旨によって、我らの角を高く上げてください。 威光である、あなたは。そ

 

主は我らの盾 してあなたの恩顧によって、わたしたちの角は高く上げられる。

 

イスラエルの聖なる方は我らの王。まことに主こそわたしたちの盾。そしてイ

 

                スラエルの聖なる方こそわたしたちの王。

 

あなたの慈しみに生きる人々に かつてあなたは語った、幻の中で、

 

かつて、あなたは幻によってお告げになりました。 あなたに忠実な者たちに。

 

「わたしはひとりの勇士に助けを約束する。「わたしは助けをひとりの勇士に置

 

わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。 民の中から選ばれた者を、高く

 

わたしはわたしの僕ダビデを見いだし 上げた。わたしは、わたしの僕ダビデ

 

彼に聖なる油を注いだ。 を見いだし、わたしの聖なる油を、彼に注いだ。

 

わたしの手は彼を固く支え わたしの手は堅く彼に伴い、

 

わたしの腕は彼に勇気を与えるであろう。わたしの腕もまた彼を強くする。

 

敵は彼を欺きえず 敵は彼を襲わず、

 

不正な者が彼を低くすることはない。そして不正の子らも彼を苦しみえない。

 

わたしは彼の前で彼を苦しめる者を滅ぼし そしてわたしは彼の面前で彼の敵

 

彼を憎む者を倒す。たちを打ち砕き、そして、彼を憎む者たちを打ち倒す。

 

わたしの真実と慈しみは彼と共にあり そしてわたしのまこととわたしの慈し

 

わたしの名によって彼の角は高く上がる。みは彼と共にあり、そしてわたしの

 

わたしは彼の手を海にまで届かせ 名によって彼の角は高く上がる。そしてわ

 

彼の右の手を大河にまで届かせる。たしは置こう、彼の手を産みの中に。そし

 

彼はわたしに呼びかけるであろう。て彼の右手を大河の中に。彼はわたしを呼

 

あなたはわたしの父 ぶ。あなたこそはわたしの父、

 

わたしの神、救いの岩、と。わたしの神、そしてわたしの救いの大岩と。

 

わたしは彼を長子とし わたしもまた彼をわたしの長子とし

 

地の諸王の中で最も高い位に就ける。地の諸王たちの至高の者(とする)

 

とこしえの慈しみを彼に約束し わたしは永遠にわたしの慈しみを施し、

 

わたしの契約を彼に対して確かに守る。わたしの契約は彼に対して忠実である。

 

わたしは彼の子孫を永遠に支え そしてわたしは彼の子孫を永遠に支え、

 

彼の王座を天の続く限り支える。彼の王座を、天の日々のように(する)

 

 

 

しかし、彼の子らがわたしの教えを捨て もし彼の子らがわたしの律法を捨て

 

わたしの裁きによって歩まず そしてわたしの裁きに歩まず、

 

わたしの掟を破り わたしの掟を汚し、

 

わたしの戒めを守らないならば わたしの命令を守らないならば、

 

彼らの背きに対しては杖を するとわたしは罰せよう、彼らの罪を杖で、

 

悪に対しては疫病を罰として下す。そして、疫病で彼らの咎を。

 

 

 

それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず しかし、わたしはわたし

 

わたしの真実をむなしくすることはない。の慈しみを彼から取り去らず、また

 

契約を破ることをせず わたしのまことを偽らない。わたしは契約を破らない。

 

わたしの唇から出た言葉を変えることはない。またわたしの唇からでるものを、

 

聖なるわたし自身にかけて わたしは変えない。わたしの聖によって

 

  わたしはひとつのことを誓った 一つのことを、わたしは誓った。

 

ダビデを裏切ることは決してない、と。決してわたしはダビデに嘘をつかない。

 

彼の子孫はとこしえに続き 彼の子孫は永遠に続き、

 

彼の王座はわたしの前に太陽のように そして彼の座はわたしの前に太陽のよ

 

雲の彼方の確かな証しである月のように うに。月のように彼は永遠に堅く立

 

  とこしえに立つであろう。」 セラ) つ。証人は雲の中に忠実である。

 

 

 

しかしあなたは、御自ら油を注がれた人に対して しかし、あなたは突き放し

 

激しく怒り、彼を退けて、見捨て た。そして見捨てた。激怒した。あなたの

 

あなたの僕への契約を破棄し 油を注がれた者に。あなたは嫌悪する、あなた

 

彼の王冠を地になげうって汚し の僕の契約を。彼の王冠を地に汚した。

 

彼の防壁をことごとく破り あなたはすべての彼の垣を破った。

 

砦をすべて廃墟とされた。その砦を廃墟とされた。

 

通りかかる者は皆、そこで略奪し 道を通るすべての者は、彼のものを略奪し

 

周囲の民は彼を辱める。た。彼は彼の隣人たちのそしりになる。

 

彼を苦しめる者の右の手をあなたは高く上げ あなたは彼の敵たちの右手を高

 

彼の敵が喜び祝うことを許された。く上げた。彼の敵たちのすべてを喜ばせた。

 

しかも、彼の剣を再び岩のかけらとし しかもあなたは彼の剣の刃を鈍らせ、

 

戦いの時にも、彼の力を興してくださらない。戦いで彼を立ち上がらせなかっ

 

あなたは彼の清さを取り去り た。あなたは彼の清さ(栄光)を取り去り、

 

彼の王座を地になげうたれた。そして、彼の座を地に投げつけた。

 

あなたは彼の若さの日を短くし あなたは彼の若さの日々を短くし

 

恥で彼を覆われた。  セラ) 彼の上に恥をかぶせた。

 

 

 

いつまで、主よ、隠れておられるのですか。いつまで主よ、あなたは永遠に

 

御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。隠れ、火のように燃え続けるのか、

 

心に留めてください あなたの憤りは。覚えたまえ。

 

わたしがどれだけ続くものであるかを わたしの寿命とは何なのか、

 

あなたが人の子らをすべて あなたは人の子らをすべて

 

  いかにむなしいものとして創造されたかを。何と空しく造ったのか、を。

 

 

 

命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。いかなる男が生き続けて、

 

陰府の手から魂を救い出せるものが 死を見ず、自分の魂を陰府の手から救い

 

  ひとりでもあるでしょうか。   セラ) 出せるでしょう。

 

 

 

主よ、真実をもってダビデに誓われた どこに初めのあなたの慈しみはある

 

  あなたの始めからの慈しみは のか。わたしの主よ、あなたがダビデに

 

どこに行ってしまったのでしょうか。誓った、あなたがまことでもって。

 

主よ、御心に留めてください 覚えたまえ、わたしの主よ。

 

あなたの僕が辱めを受けていることを あなたの僕たちの辱めを。

 

これら強大な民をわたしが胸に耐えていることを。わたしはわたしの胸に

 

彼らは、主よ、あなたの敵であり 担いました、多くの民らのすべてを。あな

 

  彼らは辱めるのです。たの敵なる彼らは辱めました。主よ。

 

彼らはあなたの油注がれた者を追って 彼らはあなたの油注がれた者の足跡を

 

  辱めるのです。 追って辱めるのです。

 

 

 

主をたたえよ、とこしえに たたえられよ、主、とこしえに。

 

アーメン、アーメン。  アーメン。アーメン。

 

                  詩編第89153

 

 

 

説教題:「ダビデ王国の選びと破棄」

 

詩編第89153節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編は、5巻の巻物から成っていました。詩編の編集者たちは、この第3巻の最後に、頌栄を付しました。

 

 

 

それが8953節です。「主をたたえよ、とこしえに、アーメン。アーメン」。

 

 

 

この頌栄は、本来詩編89編に属してはいません。詩編73編から89編の詩編の第3巻目の締めくくりであります。

 

 

 

ですから、詩編89編は、152節までです。

 

 

 

1節の見出しにこの詩編の作者が紹介されています。「エズラ人エタン」です。前の詩編88編の作者ヘマンと同じ聖歌隊の指揮者であり、詠唱者でした。

 

 

 

旧約聖書の歴代誌上15章に、ダビデが神の契約の箱をエルサレムの都に運び入れた記事があり、17節と19節に89編の作者の名が記されています。それによれば、彼はレビ人で、「メラリの一族の一人クシャヤの子エタン」です。聖歌隊の指揮をした「詠唱者ヘマン、アサフ」の同僚で、彼も聖歌隊の指揮者であり、詠唱者でした。

 

 

 

さらに列王記上5章にソロモン王の知恵を誉め称えて、ソロモンの時代のユダヤの知恵者たちが紹介されています。その一人に「エズラ人エタン」の名が出てきます(11)。エタンとヘマンは、ソロモンの時代、当代一流の知恵者として有名でした。

 

 

 

エタンはダビデ、ソロモンの時代にエルサレムの幕屋と神殿で聖歌隊の指揮者として活躍しました。

 

 

 

しかし、今朝の詩編89編の3952節を読みますと、この詩人はダビデ・ソロモン時代の人でないことは明瞭です。同名別人です。

 

 

 

同名別人と言いましても、ダビデ・ソロモン時代のエタンの子孫と考えてよいと思います。

 

 

 

南ユダ王国がバビロンのネブカドネツアルによって滅ぼされ、神の民イスラエルは異国のバビロンへと捕囚されました。89編の詩人は紀元前6世紀の時代の人だと思います。

 

 

 

彼は、ダビデ王国が主なる神に破棄され、滅亡した悲しみから、そして異邦人の地で神の民が捕囚の屈辱を味わっている中で、この詩編を歌ったのでしょう。

 

 

 

長い詩編ですが、219節と2052節に二分することができます。

 

 

 

219節は、賛美の歌です。2節で詩人が「主の慈しみをとこしえにわたしは歌います」と言っていますように、詩人は「わたしの口は代々に、あなたのまことを告げ知らせます」と、主なる神の慈しみとまことを賛美しています。

 

 

 

主なる神は、神の民イスラエルにダビデ契約を通して、神の慈しみとまことをお示しになりました。

 

 

 

4節で主なる神は、慈しみでダビデをイスラエルの王に選ばれ、僕ダビデに誓われました。「あなたとあなたの子孫をとこしえに堅く据える」(5)と。

 

 

 

45節は2038節の要約になっています。

 

 

 

ですから、2038節で詩人は、主なる神がダビデを選ばれ、彼と彼の子孫とに契約を結ばれたダビデ契約を告げ知らせているのです。

 

 

 

旧約聖書のサムエル記下7章で主なる神は、預言者ナタンを通してダビデに彼と彼の子孫をとこしえに堅く据えると、ダビデ王国を祝福されました。

 

 

 

2038節は、その時の神の託宣の御言葉です。

 

 

 

主なる神は、神の民イスラエルの一人の勇士であるダビデに常に助けを与えられました。そして神の民の中から主は彼を選んで高く引き上げ、羊飼いから王とされました。そして、主なる神は彼と彼の子孫に油を注ぎ、イスラエルの王とし、いつも慈しみとまことをもって彼と彼の子孫と共にいて、祝福してくださいました。

 

 

 

主は彼と彼の子孫を敵対する者から守り、彼と彼の子孫をこの地の諸王たちの中で高い位に据えられました。

 

 

 

また、ダビデの子孫たちが主に背く時には杖と疫病で罰するが、ダビデ契約で主がダビデに誓われたことを、すなわち、ダビデと彼の子孫を見捨てないという約束を、主は必ず守ると約束されました。

 

 

 

だから、主はダビデとその子孫を主の慈しみから取り去り、主のまことを空しくしないと告げられているのです。

 

 

 

そして、この主がダビデに誓われた御言葉こそ、今バビロンの捕囚の地にいるこの詩人にとって光であり、希望なのです。

 

 

 

確かに詩人は、3952節でダビデ王国が主なる神に破棄されたことを悲しみ、嘆いています。

 

 

 

実際ダビデ王国は、主がバビロンのネブカドネツアルを用いて、紀元前587年にエルサレムの都と神殿を破壊し、神の民たちをバビロンに捕囚することで、はっきりとこの地上から姿を消しました。

 

 

 

詩人は捕囚という体験を通して、主がダビデ王国を破棄されたことを知りました。

 

 

 

捕囚の神の民は、主によって無力な民とされました。バビロンや周辺の民たちから辱めを受ける者とされました。

 

 

 

そして、いつまでも、主は隠れておられるのです。

 

 

 

だから、神の民は捕囚の地、異国で空しく生きているのです。そして、若者も時を経て、老人となり、死が迫っているのです。

 

 

 

詩人は、主に嘆き、訴えています。このまま惨めに捕囚の地で人生を終えるだけですかと。

 

 

 

詩人は、隠れておられる主に、「わたしを、神の民を、御心に留めてください」と祈ります。

 

 

 

詩人は、捕囚の地で主に祈り呼びかけました。

 

 

 

ダビデに誓われたあなたの始めからの慈しみは、今どこに行ってしまったのでしょうかと。

 

 

 

主なる神は、詩人に沈黙されています。

 

 

 

詩人は、捕囚の地で主の敵である異邦人たちから、バビロンで偶像礼拝する者たちから、「お前たちの神はどこにいる」と嘲られ、「シオンの歌を歌え」とはやし立てられ、辱められています。

 

 

 

しかし、この詩編から一つのことを見続けることが大切です。

 

 

 

それは、この詩人が主の慈しみとまことから始まったダビデ契約を、そこで主がダビデに誓われたことを信じ続けていることです。

 

 

 

神さまの誓いは常に変わりません。

 

 

 

この詩編からこの一つの真理を見いだすだけで、よいのです。

 

 

 

ヘブライ人への手紙の111節に信仰の定義がありますね。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

 

 

 

詩人は、ダビデ王国がこの地上に無いのに、ダビデ契約を信じています。そこで主が神の民に示された主の慈しみとまことに信頼を寄せているのです。

 

詩人が生きている捕囚生活の現実は、無常で、無慈悲で、苛酷、主なる神は隠れておられます。まさに遠藤周作の沈黙の世界です。

 

 

 

だが、ヘブライ人への手紙の記者は、次のように迫害の中にある者を励ましています。

 

 

 

「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方です。」(ヘブライ13:78)

 

 

 

主なる神の慈しみとまことは、永遠に変わりません。

 

 

 

詩人は、わたしたちにこの一つの真理を、ダビデ契約を通して、彼らの歴史的苦難を通して、伝えているのです。

 

 

 

キリスト教会も、ダビデ王国と同じです。父なる神は主イエス・キリストを通してわたしたちと契約を結ばれました。

 

 

 

だから、わたしたちは、御子キリストの十字架と復活の贖いを通して、罪を赦されただけでなく、父なる神と和解し、長子キリストにつながる神の子とされました。そして、キリストの愛からわたしたちを引き離すものは何もないと約束されています。

 

 

 

しかし、現実の生活は、この詩人とかわりません。わたしたちも異邦と世俗化の日本という国に捕囚されたキリスト者たちです。

 

 

 

ダビデ王国は、主の御前で偶像礼拝の罪を犯し、主の掟を捨て、命令に背き、主の怒りによって滅び、この地上から消えました。

 

 

 

わたしたちも同じ状況です。偶像礼拝という厳しい状況だけでなく、世俗化によってわたしたちの信仰にほころびが生まれています。

 

 

 

先日一泊宣研があり、東部中会の65周年の伝道計画と75周年の伝道計画()について学びました。そこで問題にされたのは、牧師の不祥事でありました。

 

 

 

自分を含めて、本当に牧師たちは厳しい現実に置かれています。今こそ信徒の方々の祈りが必要です。

 

 

 

そうした危機の教会の中で、今朝の詩編の御言葉から、聞きとるべき神の御言葉は、次の一言です。

 

 

 

 主なる神の慈しみとまことは永遠に変わらないということです。

 

 

 

どんなに日々わたしたちが罪と失敗の中で、この詩人のように苦しむことがあろうとも、ダビデ契約で始められた主なる神の慈しみとまことは永遠に変わりません。

 

 

 

神の民イスラエルの罪にもかかわらず、主なる神はダビデとの契約を守られて、彼の末から救い主イエス・キリストをこの世に遣わして、主なる神の慈しみとまことをわたしたちにお示しくださいました。

 

 

 

御子キリストがわたしたちの罪をすべて追われて、十字架の道を歩んでくださいました。

 

 

 

そして、キリストは今天で、わたしたちに聖霊を遣わされ、福音宣教を通して世界中から神の民を集めて、御国建設を進められています。

 

 

 

わたしたちも詩人同様に、この世にあっては死ぬものです。この死からわたしたちを救えるお方は、主イエス・キリストのみです。

 

 

 

わたしたちも、この世にいる限り、詩人同様に辱めを受けざるを得ません。罪も死も避けることはできません。

 

 

 

だからこそ、主の慈しみとまことが再臨のキリストを通して実現されることを待ち望もうではありませんか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編89編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 詩人の祈りを通して、わたしたちも十字架と復活のキリストを通して、わたしたちに示された神の慈しみとまことが永遠に変わらないことを信じさせてください。

 

 

 

わたしたちは、この世でバビロン捕囚のように、この国の世俗化と異教という捕囚の地に囚われています。

 

 

 

そして、詩人同様に、神は隠れておられ、沈黙されています。

 

 

 

詩人がダビデ契約を通して、主なる神の慈しみとまことを信じましたように、わたしたちも神の子キリストが人となり、わたしたちの罪の身代わりに十字架で死なれ、わたしたちの永遠の命の保証として復活されたことを通して、神の慈しみとまことを信じさせてください。

 

 

 

今レントの季節を過ごし、日々キリストの受難を瞑想しています。どうか、今朝の詩編をこの一週間、読み味わい、受難のキリストへとわたしたちの思いをお導きください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教090               主の2018325

 

 

 

         祈り。神の人モーセの詩。 神の人、モーセの祈り。

 

主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。主よ、あなたは代々わたした

 

山々が生まれる前から ちの住まいである。まだ山々が生まれ、

 

大地が、人の世が生み出される前から あなたが地と世界を生み出す前に

 

世々とこしえに、あなたは神。永遠から永遠まであなたは神。

 

 

 

あなたは人を塵に返し あなたは人を塵に返し

 

「人の子よ、帰れ」と仰せになります。言われる、「人の子よ、帰れ」と。

 

千年といえども御目には まことにあなたの目には千年。

 

昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。過ぎ去った昨日の一日、一夜の一

 

あなたは眠りの中に人を漂わせ  時のよう。あなたは彼らの眠りを押し流す。

 

朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝に、青草のように移ろう。

 

朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 朝に花を咲かせても、移ろう。

 

夕べにはしおれ、枯れていきます。夕べに萎れて、枯れる。

 

 

 

あなたの怒りにわたしたちは絶え入り まことにわたしたちはあなたの御怒り

 

あなたの憤りに恐れます。 によって消えうせ、あなたの憤りによって恐れお

 

あなたはわたしたちの罪を御前に ののく。あなたはわたしたちの罪を御前に

 

隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。置き、わたしたちの隠されたことをあ

 

わたしたちの生涯は御怒りに消え去り なたの御顔の光に(置かれた)。まことに

 

人生はため息のように消えうせます。よ。わたしたちの生涯はあなたの御怒り

 

人生の年月は七十年程のものです。の中に消え、わたしたちの年はため息のよ

 

健やかな人が八十年を数えても うに消える。わたしたちの齢は、その中で七

 

得るところは労苦と災いにすぎません。十年、健やかでも八十年。しかも彼ら

 

瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。誇りとするものは労苦と災い。

 

御怒りの力を誰が知りえましょうか。まことに速やかに過ぎ去り、わたしたち

 

あなたを畏れ敬うにつれ は飛び去る。誰が知ろうか、あなたの御怒りの力を。

 

あなたの憤りをもしることでしょう。あなたへの畏れで、あなたの憤りを。

 

生涯の日を正しく数えるように教えてください。わたしたちの日々を正しく数

 

知恵ある心を得ることができますように。えることを知らせてください。わた

 

                   したちが知恵の心を持つように。

 

 

 

主よ、帰って来てください。 主よ、帰り給え。

 

いつまで捨てておかれるのですか。いつまで(以下原文に無い)

 

あなたの僕らを力つけてください。あなたの僕たちの上に憐れみをかけ給え。

 

朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ わたしたちを満ち足らせ給え、朝に、あ

 

生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。なたの慈しみで。わたしたちが生涯

 

あなたがわたしたちを苦しめられた日々と 歓呼し、喜ばせ給え。わたしたち

 

苦難に遭わされた年月を思って を喜ばせ給え、あなたがわたしたちを苦しめ

 

わたしたちに喜びを返してください。た日々、わたしたちが見た災いの年に応じて。

 

あなたの僕らが御業を仰ぎ あなたの僕たちに、あなたの御業が見られるよう

 

子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。に。あなたの威光を、彼ら

 

わたしたちの神、主の喜びが 子らに。わたしたちの神、わたしたちの主の喜

 

わたしたちの上にありますように。 びがわたしたちの上にあるように。

 

わたしたちの手の働きを わたしたちの手の業を、

 

わたしたちのために確かなものとし わたしたちの上に確かにし給え。

 

わたしたちの手の働きを。わたしたちの手の業を

 

どうか確かなものにしてください。 それを確かにし給え。

 

                  詩編第90117

 

 

 

説教題:「生涯の日を正しく教え、主の喜び、祝わせてください」

 

詩編第90117節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

今朝より詩編の第4巻を学びましょう。第4巻は、詩編第90編から106編までです。

 

 

 

詩編90編の表題には、「祈り。神の人モーセの詩」とあります。「の詩」という言葉は、ヘブライ語聖書の原文にはありません。「神の人、モーセの祈り」です。

 

 

 

「神の人」(イシュ ハエロヒーム)とは、神の特別な霊感を受け、神の権威を授けられた人のことです。

 

 

 

モーセは出エジプト記に登場する人物です。エジプトの王パロが神の民イスラエルを迫害し、モーセの両親は生まれた男の子を籠に入れてナイル川に流しました。エジプトのパロの娘が籠の中の子を拾い上げて、自分の子として育てました。モーセは大人になり、ある時同国民を虐待していたエジプト人を殺して、ミディアンに逃亡しました。そして、そこで主なる神に出会い、神の民イスラエルを奴隷の地エジプトから救い出し、約束の地カナンに導くように召されました。

 

 

 

モーセは、神の民イスラエルの指導者であり、主なる神と神の民イスラエルとの仲保者でありました。彼は、神の民に主なる神の御言葉を語る預言者でもありました。

 

 

 

表題は、この詩編90編が「神の人モーセの祈り」と説明しています。

 

 

 

詩編90編のテーマは、「神の永遠性と人の人生のはかなさ」です。

 

 

 

この詩編は、16節と712節と1317節に区分できます。

 

 

 

詩人は、16節で神の永遠性と人生のはかなさを対比させています。

 

 

 

さらに712節で人が神の御怒りと憤りを招く罪の結果としての苦しみと死を描いています。

 

 

 

そして、1317節で詩人は、主なる神に今から後は主の御下で喜びと祝福を味わわせてくださいと嘆願しているのです。

 

 

 

詩人は、12節で神の永遠性を賛美します。神は、神が天地を創造された以前より永遠から永遠にいますお方です。

 

 

 

ところが、詩人は36節で人の人生のはかなさを、神の永遠性に対比させて歌っています。

 

 

 

詩人は言います。「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」。

 

 

 

「塵」はヘブライ語で「ダカー」と言い、「打ち砕かれたもの」という意味です。

 

 

 

神は人を土の塵で形づくり、彼の鼻に御自身の息を吹き入れて、生きた者とされました(創世記27)

 

 

 

ところが人は、神の戒めを破り、打ち砕かれたのです。だから、神は人に「人の子よ、塵に帰れ」と言われました。

 

 

 

人は罪により死ぬべき者となりました。

 

 

 

詩人は、永遠の神の怒りより命を絶たれるという人の死の厳しい現実を嘆いているのです。

 

 

 

旧約聖書の中には「千年」より長い年月は出て来ません。

 

 

 

そして、一番短い時間は、一夜の一時です。エルサレムの城壁を守る夜回りが、勤務した時間、約4時間が最も短い時間の単位でした。

 

 

 

ですから、詩人は神の永遠性と人のはかなさを対比して、こう言うのです。人にとって千年は本当に長い年月でも、永遠の神の御目には夜回りの一時、すなわち、エルサレムの城壁を夜回りする警護者が勤務する4時間に過ぎないと。

 

 

 

そして詩人は、また言うのです。神が人の命を絶たれるという厳しい現実の中で、人は砂漠の草のように移ろいやすい存在なのだ。朝に花を咲かせても、夕にはしおれて、枯れてしまうと。

 

 

 

このように詩人は、人の短命を嘆いているのです。

 

 

 

7-9節で詩人は、ただ人のはかなさを嘆くだけではありません。彼は、現実の人の厳しい状況が人の罪に対する神の怒りにあると見ているのです。

 

 

 

詩人は言います。神の御怒りを招く人の罪、人の隠れた罪が神の御怒りと憤りを招き、人に死と苦しみがあると。

 

 

 

詩人は、神の御怒りを実感し、真に神を恐れています。彼は、神の御怒りに自分の実存が脅かされています。神の御怒りの前にまさに彼の存在が消え失せそうなのです。

 

 

 

いや詩人の人生が神の御怒りの前に消え、まるで彼の人生は人のため息のようにはかなく消えうせようとしているのです。

 

 

 

そこで詩人は、10節で神の御怒りの下にある人の人生をこう言います。「わたしたちの齢は、その中で七十年、健やかでも八十年。しかも彼らが誇りとするものは労苦と災い」と。

 

 

 

人の人生は70年、80年です。それを誇っても、それははかないもので、人生で得るところは労苦と災いに過ぎないと。

 

 

 

この詩人の実感は、若者の実感ではないと思います。詩人は老人でしょう。今の老人の嘆きに通じるものがあると思います。

 

 

 

だが、詩人が言いたいことは、人の人生は一瞬に過ぎ去るということです。いつまでも生きることができると思うことは、幻想にすぎないのです。

 

 

 

詩人は、人の真の現実に目を留める者は、神の御怒りを本当に知ろうとすべきだと教えます。11節で詩人はこう言います。「御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれてあなたの憤りを知ることでしょう。」

 

 

 

神の怒りは、神への畏れと同じで、人は自分で知ること、理解することは、不可能です。

 

 

 

神御自身が教えてくださるのです。聖霊が人の心に感じさせてくださるのです。

 

 

 

だから、詩人は、12節で神に祈り願うのです。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵のある心を得ることができますように」と。

 

 

 

この御言葉から中世カトリック修道院で「メメント、モリ」という日常の挨拶が生まれました。

 

 

 

その挨拶の言葉は、「わたしたちは死ぬべき者です」という意味です。修道院の朝の挨拶でした。修道僧たちは、人間は明日死ぬかもしれない存在であることを、この挨拶によって確かめ、今日一日を精一杯充実して生きようとしました。

 

 

 

死は、人にとって避けられない現実です。それ以上に死に至るまでの人の人生には、人の隠れた罪が神の御顔の光であらわにされ、人生が70年、80年であろうと、一瞬のうちに去り、神の御怒りの前に置かれるのです。

 

 

 

詩人は彼の人生が神の御怒りの下にあることを知っています。彼の人生が苦しみと災いであることも知っています。彼はなおその中で神を畏れて生きたいと願っているのです。彼は神に自分に心の知恵を与えてくださいと祈り願っているのです。

 

 

 

詩人は、直接に神に罪の赦しを求めてはいません。しかし、詩人は人の罪、隠れた罪で神の怒りが人に注がれ、神が人との関係を断たれていることを実感するのです。

 

 

 

だから、詩人は13節で神に呼びかけるのです。「主よ、帰り給え」と。

 

 

 

神は御怒りで、人にそっぽを向かれています。だから、詩人は、神に「主よ、こちらに向きを変えてください」と祈るのです。

 

 

 

詩人の祈りの理由は、こうです。神が人への御怒りから、14節の「あなたの慈しみ」へと向きを変えてくださるので、それによって人も神に向きを変えることができ、そこに神と人との和解が生まれるのです。

 

 

 

詩人は、人は自分の力で、自分の側から神の御怒りを知ることはできないと思っています。

 

 

 

その通りです。むしろ、神が御自身の慈しみの御業を詩人や神の民にあらわされて、初めて詩人も神の民イスラエルも、そして人も神の怒りを知り、自らの隠された罪の深さと重さを知らされるのです。

 

 

 

だから、詩人はこう信じています。神が怒りから慈しみへと、人との敵対関係から和解へと、神御自身が自ら人の方に向きを変えて下さらない限り、人の人生に喜びと祝福がないと。

 

 

 

いよいよ今週より受難週に入ります。キリストの最後の一週間を瞑想して、この一週間を過ごしましょう。

 

 

 

今年はマルコによる福音書に基づいてキリストの一週間の御受難の後をたどります。

 

 

 

詩編90編を学ぶことができたことは、わたしたちが受難週を過ごす上で有益だと思います。

 

 

 

どうか、次のことに心を留めてください。90編の詩人が人の罪の上に神が下された神の怒りのゆえに、どんなに人の人生がはかなく、労苦と災いの多いものであると思っていたかを。 

 

 

そして、神の御怒りの下にいる詩人が、主なる神に「帰って来てください」と祈りました。神に御怒りから慈しみ、愛に向きを変えてください。隠れた罪あるわたしたちと和解してくださいと祈り求めました。

 

 

 

この詩人の祈りを、主なる神は聞き届けてくださいました。詩人は、自分たちの子孫たちに神の御業、神の御威光を見させてくださいと祈りました。主は彼の祈りを聞き届けてくださいました。

 

 

 

神は、人に御怒りから慈しみに変え、敵対関係から和解に変えるために、神の御子、主イエス・キリストを受肉によってこの世に遣わしてくださいました。

 

 

 

主イエス・キリストは、十字架の死によって神の愛の御業を示され、神の栄光をあらわされました。

 

 

 

受難のキリストが人として神の怒りを身に負われ、わたしたち罪人の身代わりになってくださいました。

 

 

 

そして、神はキリストの十字架によってわたしたち罪人と和解されました。

 

 

 

キリストの御受難と十字架の死によって、神の祝福が今わたしたちの上にあります。

 

 

 

どうか、この一週間、キリストの御受難を瞑想しつつ、詩人が最後に神に祈りました「わたしたちの手の働きを、どうか確かなものとしてください」という御言葉が今わたしたちの上に実現していることを心から喜び、次週のイースターの喜びにあずかりたいと思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編90編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 詩人の祈りを通して、わたしたちも自らの人生に神の怒りがあり、神はわたしたちの罪、隠れた罪を見て、わたしたちの人生に労苦と災いを与えられたことを学びました。

 

 

 

何よりも神の永遠性とわたしたちの人生のはかなさを知らされました。

 

 

 

わたしたちは、自分たちの罪ゆえに死ぬものであることを再確認させられました。

 

 

 

しかし、90編の詩人の祈りを、神は聞き届けて下さり、怒りから慈しみへ、敵対関係から和解へと自ら向きを変えてくださいました。

 

 

 

神の子キリストが受肉し、わたしたちに代わって神の御怒りの十字架で死なれ、わたしたちに神の慈しみをお示しくださり、感謝します。

 

 

 

わたしたちは、今週受難週を過ごします。キリストの最後の一週間をたどらせてください。

 

 

 

そして、90編の詩人の祈りを、神が聞き届けてくださったことを、喜び実感させてください。

 

 

 

どうか、次の日曜日、イースターの朝、主イエス・キリストが復活されたことを、共に喜び祝わせてください。

 

 

 

伝道集会を祝してください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。